2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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小閑記
われわれは、一体どういう時に感謝するのでしょうか。ずいぶん我が侭な人間ですから、何か自分が得をしなければ、なかなか感謝しないのであります。得するというが、どうして得か損かが分るのでしょうか。それは自分の物差しで計って決めるのでしょう。
人から見たら違うかもしれません。或いは、その反対に、あの人はどうしてあんなことが喜べるのだろうかと驚くような、辛い境遇でも喜んでいる人もあるのです。それはただ、その人の気分だけの問題なのでしょうか。たとえば、非常な悲しみを受けながらも、なお喜んでいる人が、その悲しみは少しも悲しくないということはありえないでしょう。
辛い立場に置かれたら、辛いに違いないのです。それなのに、なぜ喜んでいるのでしょう。感謝することができるのでしょう。それは、神がわたしの神であるということを信じていくことができるからでありましょう。つまり、ほんとうに神を信じた時にはじめて感謝が出てくるのであって、自分の気持ちや損得だけを考えていたら、われわれのような利己的な人間は、真の感謝などできるわけがありません。得したと思って感謝するだけで、多くの時は、感謝できないことの方が多いのではないでしょうか。
しかし、自分が利害から考えるのではなくて、真に神を知っている、と言うのであれば、その神が与えて下さったものについては、何でも感謝しますと言うことが出来るのではないでしょうか。人間の狭い付き合いでも、案外、それが分るのかもしれません。親と子の間のこと、夫と妻の間のこと、あるいは、親しい友人の間ならば、この人が与えてくれるものだから、どのようなことでも感謝することができるということがあり得るのではないかと思います。
それは、これを与えられたからとか言うことではないのです。わたしの神と信じることであります。つまり、わたしの神と言う信仰を持つということ、このことと感謝するということが結びつくのであります。そのように神を信じることがなければ、感謝することはできないのであることを、よく知っておく必要があるのです。
竹森満佐一著「ピリピ書講解説教」(日本基督教団出版局)
上河原立雄撰
この文章の転載は許可を得ております。
(写真:忘れな草)
(写真:忘れな草)
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眸
一人で生活していた母が倒れて入院して4ケ月になる頃、私は、勤めいた会社を辞めて母と一緒の生活をしています。幸いにも身の回りのことはできる母ですから、今までどうりのことは任せて、過ごしています。離れていた私の方が、地域の人々や行事のことなどに戸惑いながらでしたが、2年目の今は故郷でありながらやっと慣れてきました。振り返れば、私が親元を離れて好きな仕事をしてこれたのは、母という後ろ盾があったからだとこの頃思うことがあります。
今は、その母と向き会いながらお茶を飲み、笑い、思い出話を聞きながら母の歩んできた日々を一緒にたどっています。仕事で疲れ、コンビニで買い込んで来た缶ビールを飲みながら一人テレビを見ていた時の自分の姿は、何と味気ないことでしょう。言葉では、ぬくもりとか、絆とかに触れていましたが、本当は何もありませんでした。
しかし今は他愛のない会話が喜びになっています。そんな時、白髪混じりの母の姿に、感謝の思いで涙することがあります。涙もろい自分に、私も年かなぁ!と思いながらまだまだ!とはっぱを掛けています。同僚の友人から、よく決心したね!と言われるのですが、その時は母のためにと決断しましたが、今は、そうではなく、自分にご苦労さんだったと思っているよ返事ができています。
安心している皺だらけの母の寝顔が、私の誇りです。これからも一緒だね、よろしくねと一人つぶやいています。
高齢者の孤独死などがニュースに流れる時代ですが、高齢者だけが孤独ではないと思っています。家庭があっても孤独、家族に囲まれていても孤独、大勢の人の中で仕事をしていても孤独なのです。学生時代に開いて以来の聖書に、新しい自分を探しているいることに気付きました。このようなメールを送ることができる自分が不思議です。きっと今が一番幸せな時かもしれませんね。
岡山県 S・Kさん
(写真:ウリカエデの花)
(37)
4月16日
私はもともと仲良し姉妹ではないので、実家で暮らしていた時も、ほとんど話などしません。だから何かの用事でもない限り、行き来することが出来ずにいます。何かよい口実があればよいのにと思っていますが、なかなかそれが見つかりません。信仰者としてそれが出来ないのがとても苦痛で重荷です。愛する、受け入れるなんてことは、言葉の上でのこととつい思ってしまいます。
4月26日
また変な時刻に眼が覚めてしまいました。体調不良だというのにどうしてなのだろう。礼拝は欠席。身体の弱さより気力のなさの方が心配です。GWは主人の出勤日が決まるのが遅く、旅行は行けなくなってしまいました。まあのんびり家で過ごす形になるでしょう。
それも困りもので、ずっと二人で顔をつき合わせているのも息が詰まります。憂鬱です。
それも困りもので、ずっと二人で顔をつき合わせているのも息が詰まります。憂鬱です。
昨日は発熱で1日寝ていました。主人に薬を買ってきてもらって飲んだので、効いてくれるといいなあ。健康の有り難みがわかりました。閉じこもったり心を病んでいる方は、自分も鬱病だけど、病気がもっと重くなるだろうな、この季節は・・・。とにかく動けないのですから。
4月28日
優先順位を付けられないのは、アスペの特徴でもあります。また、ただ付けた優先順位ごとに何とかこなしていけるかは、個人の問題です。わたしの場合、ここをと思ったらそのことで頭がいっぱいに陥ってしまいます。今は体を治すことに専念するために、休んでいる時間が多いので余計でしょうね。変ですが、我が家には3本体温計がありますが、どれもまちまちの数値を表示すので熱があるのかどうかもわかりません。ただ辛いだけなので内科の医師にはかかりづらいのです。
5月2日
せっかくの連休だというのに、家に籠りっぱなしの一日でした。
結婚する前はあんなに会うのが楽しかったのに、今は一緒にいてもちっとも楽しくないし、どこかへ出かけようという誘いもないどころか、行こうと誘うと生返事。腹が立ってきて、一人で近所のスーパーへガス抜きに行きました。
体はゆっくりできたかもしれないけど、気持ちの上では落ち着かない一日。早く日が沈んで、夜の帳が降りて、寝てしまいたいなあ。
結婚する前はあんなに会うのが楽しかったのに、今は一緒にいてもちっとも楽しくないし、どこかへ出かけようという誘いもないどころか、行こうと誘うと生返事。腹が立ってきて、一人で近所のスーパーへガス抜きに行きました。
体はゆっくりできたかもしれないけど、気持ちの上では落ち着かない一日。早く日が沈んで、夜の帳が降りて、寝てしまいたいなあ。
5月3日
一日主人と一緒にいると、細かいことをぐちゃぐちゃ言われ、思わずむかついてしまいました。怒りや恨みは洗い流さねば、と今は思いますが、その時はものすごく不愉快。いかん、いかん、穏やかに受け止めねば。それと同時に、怒ったりするのではなく、自分の感情を表す言葉って難しいなぁと思います。
5月10日
皮膚科から帰ったところです。さっきから同じ音楽が頭の中を駆け巡っています。意図して変えないとダメ。しかし変えるのだけれど、また戻ってしまいます。あぁ辛い(-_-;)
音楽は日替りでやってきます。今のところ、昨日ほどひどくありませんが。思ってみると疲れたときにひどくなりますね。
またBGMや何気ない音にも反応してしまうため、外音を遮断するためにiPod を使うことにしたのです。バッハからロックまで様々な曲を主人にインポートしてもらいました。
店の照明なども疲れる要因にもなります。生きづらいなあ。
音楽は日替りでやってきます。今のところ、昨日ほどひどくありませんが。思ってみると疲れたときにひどくなりますね。
またBGMや何気ない音にも反応してしまうため、外音を遮断するためにiPod を使うことにしたのです。バッハからロックまで様々な曲を主人にインポートしてもらいました。
店の照明なども疲れる要因にもなります。生きづらいなあ。
5月13日
わたしには美しいものがない。
この間は桜が満開の薄紅色の道を通った。近くの庭園では牡丹が見事に咲いていた。今日は公園では欅の若葉がキラキラ揺らめいていた。町のお店で好みの帽子屋を見つけた。ある歌手はいい感性していると思った。白檀の香は上品だ。詩編は筋の通った讃歌だ。
けれどどれも美しいとまでは思えないのだ。その状態は把握するけれど、それがどうこうとは思わないのだ。言葉では、綺麗だねとは言ってみるけれど・・・。そうしないと、わたしにアクションしても何の効果もないと思われたら、それで次に続かないから困るし・・・。
このような自分に素直になると生活できない。面倒なものです。
この間は桜が満開の薄紅色の道を通った。近くの庭園では牡丹が見事に咲いていた。今日は公園では欅の若葉がキラキラ揺らめいていた。町のお店で好みの帽子屋を見つけた。ある歌手はいい感性していると思った。白檀の香は上品だ。詩編は筋の通った讃歌だ。
けれどどれも美しいとまでは思えないのだ。その状態は把握するけれど、それがどうこうとは思わないのだ。言葉では、綺麗だねとは言ってみるけれど・・・。そうしないと、わたしにアクションしても何の効果もないと思われたら、それで次に続かないから困るし・・・。
このような自分に素直になると生活できない。面倒なものです。
加納さおり
世田谷通信
(78)
6月には長男の小学校の卒業アルバムが届く。卒業式の集合写真を眺めな
がら、自分の子どもや自分自身を探すのに手間取った。特に学校から指定
が あったわけではないのに、判で押したようにみんな同じ格好だからだ。忍
者の「木の葉がくれの術」みたいだね、と笑った。
がら、自分の子どもや自分自身を探すのに手間取った。特に学校から指定
が あったわけではないのに、判で押したようにみんな同じ格好だからだ。忍
者の「木の葉がくれの術」みたいだね、と笑った。
ドレスコードというが、要するにみんなと同じような恰好だと安心するだけのこと。違和感がなく浮きも目立ちもしない。長男に言わせると学校でもどこでも「悪目立ち」するのはもっとも避けるべき事態らしい。集団の中で違和感がある、存在が浮いている、そういうのは即イジメの対象に直結するのだそうな。異物はすぐに排除にかかる。免疫などと一緒の反応である。それが教室での日常なら、怖い話である。
そんないまどきの卒業式ファッションは「なんちゃって制服」に尽きる。「制服っぽいスーツ」とでもいいましょうか。具体的には女子は紺のブレザーにチェックのミニスカート、白ハイソックス。白ブレザーなら紺か赤のギンガムチェックスカート。男子は全員が紺か黒のブレザースーツにワイシャツ&ネクタイだった。昨年は袴姿の男子もいたそうだが、今年はゼロ。ブレザーは進学する中学の制服?というとそうでもない。長男の学校は詰襟の学生服で、それを卒業式に着てくる子はいない。
何を着るか?それは自分を表現する手段でもあり、自分の存在を消す手段でもある。私はこういう場で、みんなと同じような服装が出来ます。あなたがたと同じような価値観を共有し、社会に適応するものですよ、という恭順の意を表明しているわけだ。どこの学校の制服でもないのに、どこよりも制服らしいスーツを着て並んでいる子どもたち、そしてマニュアル通りのフォーマルスーツの親たちの卒業写真を見ながら、流れにまかされているの気が楽だけど、もうちょっと「自然な個性」が表現できたらいいのにな・・と苦笑した。
(写真:カスミザクラ)
(写真:カスミザクラ)
その愛のゆえに
=時々の記=
(51)
4月18日
今日は春らしくなって、お日様も暖かく、一面を照らしてくれています。外にいると、気持ちがよいねと、小鳥たちが囀っています。犬たちは、少し暑いようと、冬の毛のままで、寝そべっています。明日から、また、下り坂ということなので、庭中に、お布団をほしました。きょうは、日曜日ですが、教会はお休みしているので、静かに、二人で礼拝を捧げ、祈りました。心疲れている時は、多くの元気のある方に接しないことがまた、とても安堵感があります。
樫の葉の千切れ舞ふなり春嵐
口笛と紛ふもありてさえずれる
連翹(れんぎょう)や老いの使える車庫の辺に
春寒しおうな見舞えば書を読めり 馬場路哉
もう4月も、あと十日と少々。あっと言う間に一日が過ぎて行きます。でも、今年は、どうも、春爛漫と言える日が少ないように思われます。異常気象から脱出したいものです。
4月26日
生意気な私たちを、お許しくださるのは、神様だけです。「よろこぶ者と喜び、悲しむ者と悲しむ」というみ言葉は、信仰者の指針ですね。人の悲しみを苦しみを、自分の中で受け止める、そんな信仰が与えられるようにと祈っていますと、悲しみが喜びに、喜びが讃美に変わります。しかし、弱い私はその気持ちから、何もする気になれなくなってしまいます。そんな私を愛し、支えてくださる神様に、ありがとうございますと言っています。私を、強めてくださって感謝です。今日一日、とても穏やかにすごせそうです。心から、感謝いたします。
4月27日
今朝は、比較的、暖かかったのですが、日中は、あまり、気温があがらないとか。
慣れてきし予防注射や犬の春
薄衣の舞える様なり柳の芽
菜種梅雨上がりて川の漲れる(みなぎれる)
克己して過ごせる一日受難週 馬場路哉
主人は、しばらく発症していなかった、痛風が右足首、左足首と出て、歩くこともままならず、苦しんでいましたが、一週間たち、歩けるようになったと、喜んでいます。二人とも、弱いところだらけ。弱いものが、一緒になって、強くなるのでなく、お互いの弱さを、認めあうだけです。でも、それで、良いと思っています。
5月3日
風薫る五月。ゴールデンウィークも、三日めを迎えました。五月号のジャーナルは若い方の投稿がたくさんあり、こちらも、遠い昔を思い出し、若さをもらうことができました。
すがすがしい気持ちにしてくれました。今の私にとって、ジャーナルが唯一の友ですから。
山添村では、きょうは、つつじ祭りを神野山という、標高の高い山で、行われています。
主人は、俳句の展示にでかけました。そのほか、書道、絵画、古布リメイクの作品などが展示されます。
また、農家のかたは、地元の野菜の直売に必死です。およそ、500人ぐらいの方がやってくるようです。
田舎の、きれいな空気、自然に心癒されることでしょう。
5月6日
ゴールデンウィークも終わり、また、静かな山里にもどりました。今日の気温は、29度と、真夏のような暑さで、服装がまだ、冬服だったのに、ころも代えにあわただしくなってきました。今日、母に関する資料確かに届きました。有難うございました。
本当に、強い信念で、しかも、報酬を求めず、地域の方の医療に携わった母には、良く頑張ったねといつも、見舞いに行く度に伝えます。
すると、ユーモアを言って笑わせてくれるのです。馬場の家は、藪に囲まれていたやろ。そやから、わたしも、ヤブ医者やってんで。
皆を、和ませる、そんなところも、とても、親しみ易いところでした。
5月8日
昨日、久しぶりに恵みの雨がふり、きょうは新芽が洗われて、すがすがしい一日です。賛美歌の、緑も深き・・・、を歌って、洗濯物をほしました。そこら辺の草がイッキに伸び始めました。もう、気の早い人は、ぶんぶん言わせて、草刈機を働かせています。
散り敷きて芝を染めたる落花かな
清流に大島桜枝伸ばす 馬場路哉
このごろ、二人とも、耳が悪くなり、お互いの言っていることを、直ぐに、聞き取れないことがよくあります。アー、年をとったんだなーと実感するときです。俳句も、いつも出遅れて、忘れっぽくなっています。こうして、仲良くぼけていくのでしょう。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
(写真:コハンガマズミ)
(写真:コハンガマズミ)
キリスト者の生活綱要 (10)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第2章 自己否定
3 自己否定の根本は、節制、義、敬虔である
1 使徒パウロは、よく整えられた生活というものを、次のように要約して、テトスに示している。
「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」。
パウロは、われわれを鼓舞するために、神の恩恵が必要であり、まことの礼拝のためには、次の二つの障害が取り去られなければならないと言う。すなわち、その第一は、われわれが生まれつき強力にそうなりやすい不敬虔であり、その第二は、われわれを圧倒しようするこの世の欲望である。
不敬虔とは、さまざまな迷信のことだけでなく、なんであれ、すべて神に対するまことの畏れを妨げるものである。また、この世の欲望とは、肉の思いのことである。パウロは、律法の二つの板に矛盾する以前のわれわれの欲を捨て、われわれ自身の理性と意志が強制するものを、すべて放棄するように勧める。
2 パウロは、新生が生み出すすべての行為を、節度、義、敬虔の三つに分類する。
節度が、貞潔と節制、この世の祝福をきよく慎ましく用いること。そして貧困に耐えることを意味していることは明らかである。
義は、各人が各自のふさわしい報いを受けるためにしなければならない正義にかかわる一切の義務を含む。
敬虔とは、われわれをこの世の汚れから離れさせ、真の聖潔によって神に結び合わせる。
節度と義と敬虔の徳が、しっかり結び合わされれば、絶対的に完全な潔さを生み出すことになろう。
3 すべて肉の思いを捨てて、われわれの誤った欲望を抑制し、また放棄し、自己を神と兄弟とにささげ、汚れた世にあって天使の生活をするほど、難しいことはない。あらゆる誘惑から解放するために、パウロは、われわれの注意を、祝福された不死の望みに向かわせ、われわれの希望が決して空しいものでないと言って励ましている。キリストは、かつて贖い主として来られたように、再臨の時には、獲得した救いの益をわれわれに示して下さる。
われわれを盲目にし、天の栄光を正しい熱心さをもって憧れることをできなくさせている魔力を、キリストは追い払っていてくださる。
キリストはまた、われわれが天の嗣業を失うことがないように、この世にあって、旅人、巡礼者のように生活しなければならない、と教えている。 テトス2章11~14節。
(写真:コバンミツババツツジ) 冬のような寒さの関西地方でしたが、今日(4月19日)は、いいお天気になる ようです。病気がちの主人は、昨日も今日もしんどそうでした。教会は休んでいました。私は、ご近所の方の菜園からまびき人参やふき、きくなを持って教会に行きました。ですから、これらの野菜は全て他人様のものです。奥様の介護で畑仕事が出来ないので、間引いておいてねと頼まれたからです。わが家では、もう飽きてきたのです。ご近所さんに配っていますが、そう毎回毎回では、飽きるでしょうから・・・。だから、教会の皆さんに持って帰っていただきました。蕗は、はじめて採りました。
スーパーは野菜が高いというのに、わが家の冷蔵庫はいっぱいです。料理しきれないのです。
わが家の畑も元気が出たら豆の移植をしないといけないのですが、まだ 耕していません。昨日とその前とで草刈を少ししましたが、まだまだ残っています。見苦しいところは、かろうじて刈れましたのでOKです。見苦しいものって、何だと思います? すずめのエンドウなんです。草丈が、あるので遠くから見ると草山に見えるのです。のびるも沢山生えていますが刈りました。私は、のびるの球根を食べたこともないし、食べる気にもなりません。美味しいのでしょうかねぇ。らっきょが可愛想にスギナに攻められています。
生駒の山も緑に変りつつあります。この地域は大阪の通勤圏ですからどんどう家やマンションが建ちましたが、土地のご老人は野菜畑を耕して現金収入を得ています。
元気のある主婦は、マンションやビルの掃除の仕事などで大阪のおばちゃんらしく頑張っています。スーパーの公募で当たったペアーチケットで息子となんば花月劇場に行きます。
笑うことは、精神的にも 肉体的にも良いと言いますが、お金を出してまでは行きませんから良い機会かなと思っています。
大阪南の下町は、気取らない、人情味豊なおもろい関西があります。そこが落ち込む人の気晴らしにもなるのだろうと思っています。
大阪府 T・Mさん (農作業風景)
『旧・新約婦人物語』(10)
ヤコブとヨハネの母
サロメ
(マタイ20章20~28節)
(マルコ15章40~41節)
皆さんは、サロメと聞くとすぐに映画などで見た、例のヘロデ王の前で踊りを舞ったサロメと娘サロメに舞をまわせて王の歓心を買い、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて持ってくることを願わせた、残酷なヘロデヤのことを思い起こされると思います。しかし、ここで学びますのはその女性ではなく、イエスの愛弟子ヤコブとヨハネの母であるサロメのことです。
このサロメは、漁夫ゼベダイの奥さんで、彼らの家族はガリラヤ湖畔に住んでおりました。サロメがどういう人格の婦人であったか、また彼らの家庭はどうであったかをよく見ますと、まず第一に気付くことは、彼らが真に信仰深く、良い家庭婦人であったようであります。そのことは、彼女の二人の息子の様子を見ればよくわかります。昔から、子供はその家庭の鏡と言われます。サロメ自身どんなにか信仰篤く、また家庭での子供の教育を熱心に行い、同時に子供たちを信仰に導くことに彼女が心をそそぎきっていたと思われます。そのことは、イエス様が彼女の二人の息子、ヤコブとヨハネとをご自分の両腕のようにこよなく愛された事実によって、そのことがうなずけましょう。
ヨハネは、バプテスマのヨハネの説教を聞き、それによって、イエス様に導かれ、紹介されたのです。その後のことです。ガリラヤ湖伴でヤコブとヨハネとが、父ゼベダイと共に網を繕っておりました。そこへイエス様が通りかかられ、ヤコブとヨハネとをお招きになりました。その時、この二人はただちに、お父さんと船とをその場に残して、イエス様に従ったのであります(マタイ4:21~22)。
もし両親がイエス様の伝道と、イエス様のメッセージに理解がありませんでしたら、きっと一度に働き盛りの息子を二人とも差し出し、伝道のために送り出すようなことなは出来なかったことでしょう。また、この二人の兄弟も小さい時から、家庭で清書の教えを教わり、信仰について母のサロメから、立派な薫陶を受けていなかったなら、きっとイエス様の愛弟子となる資格は持ち合わせなかったことでしょう。このことからしましても、サロメは実に家庭の主婦として偉かったと思います。
しかし、このサロメにも、また二人の子供にも、一つの大きな欠点がありました。マタイによる福音書20章20節以下をお読み下さい。その欠点が直ぐに分かります。それはある日のこと、彼女がヤコブとヨハネの二人を連れて、イエス様のみもとに来た時のことでした。三人はイエス様の足もとにひざまずきました。イエス様が、「何をしてほしいのか」と問われますと、サロメは、「わたしのこのふたりの息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、ひとりは左にすわるように、お言葉をください」と、お願いいたしました。
その時、イエス様は、「あなたがたは、自分が何を求めているか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」と答えながら問うておられます。彼らは高慢にも、「できます」と言い切ったのでした。イエス様は、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせるのは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人びとだけに許されることである」(23)と、おおせになりました。サロメと彼女の二人の息子の、この勝手気ままな願いに、他の10人の弟子たちは憤慨したと聖書に書かれています。さもありなんです。
ところで、イエス様は彼らの勝手な願いにもとづき、大変有益な教訓をわたしたちクリスチャンにお与えくださっております。それは、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う人は、仕える人になり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならなければならない」(26~27)と、お教えになったみ言葉です。
サロメはここで、一般の母たちが持っているような一大欠点を曝け出しています。自分の子供に対する神様のみむねがどこにあるかも考えず、ただ自分の子供の栄達のみを念願していることです。子供を分不相応に良い学校へ入れたがる親、子供の心や魂の問題を考えようともでず、ただひたすら出来るだけ収入の多い方向へ進ませようとする親、金目当や、立身出世のみに心を奪われて、大切な子供の心のこと、魂の問題を無視し、忘れることは大きな間違いであり、罪であると言われてもしかたがありません。
もし、サロメがその時、イエス様のみ国がこの世のものでなく、霊の国、神の国であることを知り、認めていましたら、きっとあのような願いはしなかったでしょう。また自分の息子のヤコブが、弟子たちの中で、一番先に殉教の死を遂げると知っていましたら、彼女はきっと、イエス様が「わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われた時、従順に、「その杯を取り除いて下さいませんか」とお願いしたことでしょう。
サロメのことについては、更にマタイによる福音書と、マルコによる福音書の終わりの方に出てきます。マタイによる福音書27章56節、マルコによる福音書15章40節と16章1節によりますと、彼女は多くの女と、ガリラヤからイエス様に従ってエルサレムに上り、イエス様に仕え、イエス様が十字架におかかりになられた様子や、死なれるみ姿を、遠くから見ていたのです。また、イエス様が死に勝ち、死よりよみがえりになりました朝、彼女は二人のマリヤと共に、日の出前のまだ薄暗い頃、イエス様のみ体に香料を塗って、最後の奉仕をしようとお墓に行っています。
サロメはそこで天使から、「イエスはよみがえって、ここにはおられない」(マルコ16:6)と、喜ばしい知らせを聞かされた、最初の三人の女性の一人である光栄を得たのです。
考えてみますと、サロメは大きな失敗もありましたが、深い信仰による幸いな婦人でありました。彼女はキリストの伝道の生涯の初めから最後までの目撃者であり、キリストのよみがえりになった後の、空の墓の目撃者でもあります。サロメがキリストの復活の喜びを最初に知ることが出来たのも、また自分の愛する二人の息子をキリストの弟子として捧げることができたのも、全て彼女の熱心な信仰に対する、主からのお恵みであると申せましょう。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
…キリスト教…
社会福祉活動のあゆみ(35)
キリシタンの貧しい人々への救済(8)
ミゼリコルジャの組
長崎は、1880年大村氏よりイエズス会に寄進されました。それでキリシタンの諸活動の中心となって行きました。イエズス会の日本準管区の首座もここに置かれておりました。領主大村純忠がキリシタン大名の最初で、彼はバルトロメヨと称していました。「ドン・ベルトラメウ領地に於いては、病院の世話やキリシタンの教化についても、また、奴隷を付近海上にある多数の海賊の手より救出することについても、大いに熱心を持って進んでいいる。またミゼリコルジャの家を建て、その所に寡婦、孤児及び貧民のために寄付金を集め、またライ患者のために病院を建てた」(村上真次郎訳「耶蘇会の日本年報」拓文堂)。
長崎のミゼリコルジャの組は、1570年頃の創立のようですが、組織的な事業に発展するのは80年代です。1585年には100人の会員がおり、4年後120人に増えています。ミゼリコルジャの会員は、人々の寄付を集めるだけでなく、自らも多額の寄進を行い、私生活も模範的でした。特に街頭に見捨てられ、人々から嫌われたハンセン病人に奉仕していました。病院には、遠方からも集まって来て、キリシタンは慈悲深いという評判を得ていました。
1587年、秀吉の禁教令によって天主堂が破壊された時も、ミゼリコルジャの天主堂は、善い働きを成しているからというので、唯一破壊を免れています。
都におけるフランシスコ会の天主堂は、1594年(文録3年6月)竣工。その翌年には聖アンタ病院が建設され、貧困な患者50名を収容していました。聖アンナ病院はすぐに満員となったので、ハンセン病院として聖ホセ病院を建設、収容人員は70名と推定されています。病院建設後間もなく迫害に合い、患者は外出も許されず、米も欠乏するというあり様になりました。
26聖殉教者の中に、病院の医師や看護人、雑務に当っていた者が5名含まれていることからも、病院の受けた痛手は想像されるところです。それでも残った者の努力で病院は維持され、秀吉の死後、フランシスコ会は各地に教会と共に病院、それも主としてハンセン病院を設立しています。
フランシスコ会の創立者アッシジの聖フランシスコ自らハンセン病患者の看護をした伝統に従い、救ハンセン事業は特に力を入れていたようです。フランシスコ会の修道院のあるところ、殆んど全てにハンセン病院が付設されています。
わたくしは、人生の終わりに近づいていると思っておられるような方から、「自分に人生には悔いはない」とおっしゃるのをお聞きすることがあります。その都度、わたくしは「それは結構ですね」と言いますが、心の中では、「どうしてそういうことが言えるのかなあ」と思うことがあります。というわけは、「悔いのない人生」とは、何を基準にしてそういうことができるか、ということと、むしろ、人生には様々な悔いがあるのではないかと思うからです。
昔から「性善説」と「性悪説」とが説かれてきました。が、それは、人間の性質は、そのどちらかでもある、ということではないかと思います。新聞などで、よく犯罪者の近くにいた人の感想として、「あんなに真面目な人があんなことをするとは信じられない」と述べられることがあります。まことにそうでありまして、人間は「時に天使に近いようになることがあるが、同時に悪魔のようになる者でもある」からであります。
ある人は、「自分の人生に悔いはない」と言い、またある人は、「自分の人生に悔いのみ残る」と言われます。いずれも、その人にとってはそうでありましょうが、いずれもその人の主観によるものでありまして、本当にそれを定める基準があってのことではありません。
聖書という書物は、ある意味において「あなたは何者であるか」という質問と、その答えを出している書物であります。コリントの信徒への手紙1の4章の中で、パウロは「わたしは自分で自分を裁くことすらしません。何もやましいところはないが、それで自分がよろしいとされるわけではありません。わたしを裁くのは主です」と言っています。
宗教の根本問題は、この自分を裁くことが出来るものは誰か、ということにあります。
どうか、あなたも、聖書によって、自分にとってのまことの裁き主が誰であるかを知り、それによって、揺るぎない自分として生きる秘訣を知り、そういう自分として生きていただきたい、と願っています。
篠田 潔 (写真:ヤマツツジ)
(参照聖句・Ⅰコリント4・3~5)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
第43課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
10章1~10節
10章4節の解釈を考えるに当って、2つの誤りを注意深く避けなければなりません。第一の誤りは、モーセからキリストまでのイスラエル人たちは、律法の行いによって義とされるという体制の下にあったと考えることです。そのような考えはパウロがここで言おうとしていることではなく、C.ホッジがここの注解で述べている意味でもありません。
現代の或る聖約期分割論者(ディスベンセーショナリスト)は、モーセからキリストまでの人々は行いによって義とされるという体制の下にあり、アブラハムからモーセまでは、救いは「約束」により、モーセからキリストまでは「律法」により、キリスト以後は「恵み」によると説いています。
この教えは旧約について重大な誤解をしているのです。ユダヤ教のパリサイ主義もまた行いによる救いを教えていたのであり、今日のユダヤ教もそうです。しかし、この考えは旧約のどこにも教えられてはいません。ユダヤ教と旧約の宗教とは異なるのです。前者は律法主義的であり、後者は恩恵的なのです。
永遠の生命を得るための実際の方法としての業の契約というのは、エデンの園に始まり、そこで終わりを告げているのです。アダムが罪を犯した時、業の契約の下に来ていない罪人はすべて、破られた業の契約の呪いと刑罰の下に今もなお置かれているのです。そのような人たちは彼らの業によって、永遠の生命を得ようと努めるのです。しかし、それは空しい無駄な試みであることは確かですが、今もなおなされつつある試みなのです。
パウロはガラテヤ書5章3節で、そのようにして永遠の生命を得ようと企てる者は、すべて律法は完全な服従と絶対的な道徳的完全性を要求するのです。だから、律法を守ることによって永遠の生命を得ようとする者は、それを成し遂げねばならない立場にいるのであり、それは明らかに不可能なのです。
実際に、旧約の宗教は徹底して恩恵主義なのです。それは業の契約ではなく、恩恵の契約の古い形式の執行なのです。犠牲を通して、約束の贖い主を信じる信仰による恩恵の救いへの準備がされたのです。パウロが「キリストはすべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである」と述べる時、彼はキリストの時代以前は、ユダヤ人は律法によって義を得たとか、得ることができたとか言っているのではありません。彼が言っていることは、人々が律法によって義を得ようと試みたことと、信じるすべての人々に対して、キリストは空しい試みを止めさせられたことに過ぎないのです。罪人が決してできなかったことを、キリストが私たちのために、成し遂げて下さったのです。律法は常に「これを為せ」と言うのに対して、キリストの福音は「すでに為されてしまっている」と言うのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)(写真:アセビの新芽)
・・・。長野もりんごの花が咲きました。この季節が一番好きです。栽培されている方はこれから忙しくなるのでしょう。わたしは通勤の車でながめているだけです。職場の同僚から苦労話を聞いておりますので、実りの秋のりんごの味は格別です。・・・。「つのぶえジャーナル」をお読みのみなさん、頑張りましょう。
長野県 T・Tさん
「つのぶえジャーナル」の「今月のことば」と、このコーナーを毎回楽しみに見ています。東京のホームシックさんやため息さんは、7年前の自分の姿を思い出しました。最初の一年は何時辞めようかとばかり考えていました。何をやっても上司からは叱られるし、電話恐怖症にもなりました。今は、何とかやれる自信が出てきています。先輩のひとことがあったからです。頑張って!なんでも相談しなさいね! 先輩は一児のお母さんです。何とかなりますよ!
新潟県 少し先輩さん
同窓会の案内と一緒に、ふるさとのお菓子が送られてきました。一度も参加していませんが、クラスメートの近況報告が添えてあります。友情に励まされています。お断りの返事は出しにくいですが、ながながと私の心境を書いて送っています。幹事をしてくれている友に、感謝しています。40代からはじめた盆栽作りとPCで親しくしている人との交信が健康の秘訣です。
東京都 A・Aさん
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円