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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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 『ありがとうございます』
毎年、この時節になりますと薄紫の紫陽花や淡いピンクのやぐるまそうが近くのお庭に沢山咲いていますので、とても楽しみにしています。五月の花は藤やはなしょうぶのような色合いの花が多いように思いながら、行き帰りに楽しませていただいています。観葉の物ばかりの仕事場に何か色合いのよい花はと、お店に行きますが、心移りして、また観葉の鉢を買ってしまっています。
 
写真はお二人の匿名さんと、川畑朱美さんが「四葉のクローバー」をお送りくださいました。本当に感です。
       
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
  三神豊彦様  匿名様  
           
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
泥谷逸郎様 泥谷ちひろ様 匿名様
 
 
      
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   86cfa171.jpg今月のことば
  
人間的栄光
 「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」。
                   (ヨハネ15・5)
 
 人はイエスから離れてでも、様々なことが出来る。私たちは、結婚することも出来、家庭を築くことも出来る。仕事に取り掛かることも出来れば、事業を行うことも出来る。病人を治療することも出来るし、子供をもうけることも出来る。人々を様々な手段で悪や誘惑に誘いこむことも出来る。或いは、生きることも、死ぬことも出来ると思う。
しかし、それをイエスは「無」と呼ばれる。
 
イエスなしでも私たちは、建物を建て、橋を架け、空を飛ぶことも出来る。同時に、その建物や橋に火薬を仕掛け破壊することも出来る。空を飛び他国を攻撃することも出来る。私たちは何事もする・した・してきたと思っている。
 しかし、それをイエス「無」と呼ばれる。
 
 人には出来ないことがある。
人間的栄光を審くことである。古い道から新しい道へと歩ませることである。今に喜びと、未来に希望をもたらすことである。人々を愛し祈る心(信仰)をもつことである。
 人には出来ないが、主イエス・キリストには出来る。
 
 「神はあなたがたをかえりみて下さるのであるから、自分の思い煩いを、いっさい神にゆだねるがよい。身を慎み、目をさましていなさい。あなたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。・・・あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン」。
(Ⅰペテロ5:7~10)
   小閑記
       
   「神よりの平和」
 
 神を敵にする、ということは最も恐ろしいことに違いありません。全知全能の神の敵になることくらい恐ろしいことはないはずです。しかも、それは簡単にできてしまうのであります。そうすれば、すぐに敵になってしまうのです。
 
 そうでない人が一人でもいるでしょうか。人はみな、罪を犯します。罪を犯すのは、相手の人に対してだけ罪を犯すのではなくて、実は、神に対して罪を犯すのです。罪を犯すことについて悩んだダビデは「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、」(詩篇51・4)と告白しました。罪は神に対して犯すものです。
 
 それなら、罪を赦すことも、本当は神しかできないはずであります。神に対して罪を犯したのなら、神に赦していただくほかはありません。そのことが、実は、キリスト教の中心なのであります。キリスト教が十字架をかかげるのは、キリストが十字架にかけられて、人の罪が赦された、ということのしるしなのであります。
 
 このようにして、神に対して敵であった者が、それを赦され、神に対して平和を得ることになるのであります。そのように平和を得た時に、人は、はじめて平安を得ることができるのであります。その時には、神の平安に中に守られるのですから、これくらい安心なことはないでしょう。何時、何が起きても大丈夫であるということが確立されているのであります。
 
 114d89ac.jpgこのような平安は、神から与えられるものであります。そうですから、恵と平安は二つのことではなく一つのものであります。恵みのないところには、決して平安はあり得ないのです。しかも、それはご好意による平安ですから、これくらい確かなものはありません。恵みと平安が、神から来ることは明らかになりました。
 
 神とはどういう意味で、われわらの父でいらっしゃるのでしょうか。そのこと一つを考えても大変なのとではないでしょうか。神は、本当は、人間にとって恐ろしいものであるはずではないでしょうか。近寄りがたい威厳を持ち、不正を憎まれるはずですから、われわれのような、不義に満ちた、変りやすい者にとってはまことに恐ろしいお方であるはずであります。
 
 世には、人間は、神の子であるというようなことを、事も無げに言う人があります。何の根拠があるというのでしょう。人間は、実は、神を畏れて、供え物をしたりして、それを宥めようとしているのではないでしょうか。
 それが父なる神であると信じるようになるということは、大変なことであります。それを人は余り思わないのでしょうか。わたしたちは父であり、神であるお方を信じて生きたいものであります。
 
 
   竹森満佐一著「ピリピ書講解説教」(日本基督教団出版局)
 
                上河原立雄撰 
この文章の転載は許可を得ております。
(ひとみ)
二年程前に「眸」にのせていただいた者です。あの頃を振り返ってみて、やはり両親と話しはあまり出来ないのは変っていませんが、それでも少し大人になった気がしています。両親の苦労や周りの人にも目をむけることが出来るようになりました。
その当時の友だちも少し変わりました。それは、自分を考えるようになったことからです。反抗ばかりだった自分から、自分は何がしたいかを少し考えるようになったり、夢を話し合ったり、漠然とですが考えるようになりました。ed875adc.jpg
大好きだったおばあちゃんが亡くなったことも、ショックでしたが、よく、自分のことは、自分で考えなさい!といつも言ってくれていたことを思い出したことから、変ったのだと思います。
おばあちゃんをお世話してくれた優しい看護師さんのお仕事を見て、自分もそうなりたいと思えるようになってから、塾だけでなく、家でも勉強するようになりました。不思議ですね。最近、小言や注意が嬉しく聞けるようになりました。ひとりぽっちと思っていたのは、自分に目標が持てず、人の目を避けていたからだと思いました。Yちゃん最近明るくなったネと先生に言ってもらえて嬉しい気持ちになりました。
「つのぶえジャーナル」さん、ありがとう。わたしと同じ世代の人も、頑張りましょう。今は今しかないんだもの・・・・。 
                        東京都  S・Yさん
 自閉症者のひとりごと
 
(36
 
3月19日
最近疲れています。朝早く目が覚めてしまうので、昼間寝るようにしてます。今日は精神科に来ています。長い待ち時間なので、大きなコーヒーを二本買ってきましたが、1本飲んでしまいました。これも依存ですね。
 
3月27日
今日は麻酔科グループ治療のメンバーと、昼食兼お花見で、病院近くにある庭園公園まで来ています。家から現地集合にしたのですが、早く着き過ぎてしまいました。本当に今日なのかな・・・・ちょっと不安。ところで、自閉症は単体だけでは障害認定されません。わたしみたいに2次障害としてうつ病がある場合に、うつ病にのみ障害認定されます。だから精神障害者の施設が利用可能だし、自立支援証や障害年金が受けられるのです。
だから、自閉症の人は行き場がないし、話を聞いてくれる人もいないのです。アドバイスなしで話しを聞いてくれる人がいるかいないかで大きな違いが出てきます。dcbec623.jpg
 
4月5日
昨日は花見に行ってきました。いろいろな植物が花を咲かせていました。美しいとは感じませんでしたが、季節の移ろいを肌で感じました。今日は復活祭ですが、主人に洗濯物を頼まれて、そのままズルズルと礼拝を休んでしまいました。洗濯や家事仕事は苦手です。マタイの復活のところを読みました。宣教命令を読みながら、こうやってわたしのところにも福音がきたのだと感心しました。無償で与えられたのだから、無償で伝えねばなりませんね。福音を知らない両親より、教会に行きたがらない福音を知っている主人の方が気がかりです。
 
4月13日
自分の信仰・教会生活は、どうなっているのでしょう。たとえば教会内でも通り一遍のことが多いですから、それを感じます。人と正面を向いて語り合うというのは、どうも苦手です。自分をさらさなければ出来ませんので、緊張します。相手の方は真剣だと思いますから、なおのこと。わたしは自閉症ですから、自分を表現することが出来ません。飾り立てることが出来ず、いざとなったら自分をさらけだすより仕方がありませんが、それができません。人間嫌いではないのですが、そうなってしまう傾向がわたしの病気の特徴です。辛いですね。
        
               加納さおり
世田谷通信3761b0c3.jpg 
 (77)
猫 草
 
 携帯電話を買い替えた。電車の中で携帯を出すと、周囲がぎょっとするほどの古い型で、電話とメールとカメラ機能しかついてない、本当にシンプルなものを数年間使い続けていた。しかし後ろの電池パックは外れ、本体にひびが入り、もう限界・・。周囲に言わせると「そんなになるまで使ってる人みたことない!」「いまどきキッズケータイだってもっと進化してる」だったのだが。替えない理由は2つあった。とにかく新しいものは価格が高い。(ちなみに現在のは本体価格ゼロ円時代の最後の機種である)もうひとつは、あまりにもどんどん新しいものが追加され高機能になりすぎて何がいいのかさっぱりわからないからである。
 というわけで、恐る恐る携帯電話のサイトをのぞき、とにかく一番安くてシンプルなもの・・・を探してみた。それでも電話とメールの他に、テレビとパソコンとオーディオとお財布とカメラの機能の複合体だ。怖くて気軽に持ち歩けないぐらいの豪華さである。あーあ、余計な機能はいらないんだけどなあと憂鬱に思いつつ、できるだけ安くてシンプルなのを一つ購入する。それでも、これはどうしますかこちらは使いますかとあれこれ言われる。もういいからあなた適当にやってください!と途中で逃げ出したくなるのをこらえデータの移動も終了して、ようやく新しいケータイを手にして帰宅。そもそも携帯電話、などというのは時代錯誤、カタカナで「ケータイ」なんだそうな。
 電源を入れるといきなりアニメーションが画面上をぴょこぴょこ動き回っている。マチキャラというらしい。えーい、うるさい!と初期設定をどんどんOFFにして、着信音も全部音が出ないようにして、辞書のようなマニュアルをあちこちめくって、やっとただの道具として安心して持ち歩けるようになった。搭載機能の1/10も使っていないと思うのだが・・携帯電話としてはそれで十分だと思う。モノひとつ買い替えるにも気苦労がいるようになった・・挑戦する気持ちがなくなっている・・古い型のものをずっと作り続けていくのも企業の使命のように思うが、「携帯電話」と同じように古いのだろう・・。
  その愛のゆえに
  =時々の記=
    (50
 
3月18日
今朝、ツバメがいつもの年より3週間も早く、我が家の軒下に帰ってきてくれました。
また、にぎやかな囀りが、これから、夏まで聞くことができそうです。
今年は、2月が寒かったのですが、なぜでしょう。自然界は、春を早く捉えているようです。家族が増えたようで、とても嬉しいです。犬たちがそのツバメをしっかり、外敵から守っています。ですから、ツバメは、安心して犬たちの寝ている屋根や、軒のしたに巣を作っているのです。動物たちの互いに助け合って生きる姿から、学ぶものがあります。
 
3月19日
また冬に逆戻りのように寒いです。なんだか、お天気が長続きしません。せっかく、大海原を越えて、やってきたツバメたちも、この寒さに身震いしています。早く、安定した温かさになって欲しいものです。きのうは、彼岸の入りで、村のひとたちは、彼岸参りと言って、先祖のお墓に供え物を捧げていました。我が家は、草が生えていると、近くの墓の方に迷惑なので、草引きとゴミ拾いにいきました。先祖を敬う、精神が伝わってきました。
 
s-IMG_0027.jpg4月5日
3日は、素晴らしい「まちやコンサート」に主人と二人で行ってきました。念願のプロの方の歌声を目の当たりにして感激と興奮のなか、帰ることが出来ました。また、Tさん御夫妻とも、初めてお会いすることが出来て神様のお導きにただただ感謝いたしました。家に帰ると4月号のジャーナルが届いていました。早速、主人と二人で読ませて頂きました。昨日は、イースター。でも、2人とも村の行事のため欠席です。桜がちょうど満開になり、春爛漫と言いたいところですが、結構、外の空気は冷たいです。
 
4月8日
Tさんの、素晴らしいソプラノをまのあたりにして、こちらも、心臓が揺れ動くように、共鳴していました。私にとって、このように身近で、生の演奏を聞くのは、今まで経験したことがないものですから、もう、とても感動したのが今も心に残っています。
故障したパソコンは、接触が悪かっただけで、直ぐに直してもらえました。だから、今朝もこうして、送信出来るようになりました。孤立してしまいそうな私ですが、多くのジャーナル愛読者の方と、繋がっているというだけで、とても心強く、たくさんのお友達が、日本各地にいてくださっていると思うと、憂鬱さから、少し抜け出ることができそうなのです。
各地では入学式・入社式シーズン。皆、緊張して、新しい学校、職場へと船出ですね。
つかの間に庭に揃ひぬ春の草
山の木々明るく騒ぐ春嵐
春愁を柑橘類を食べ消さん
声高き球技練習山笑ふ     馬場路哉 
今朝の散歩は、また真っ白な霜がおりていました。冬の衣装に着替えてでかけましたが、今、日差しは春らしさをまして来ました。主人は、さっそうと、山歩きにでかけましたが、わたしは、山のようにたまった家事をしなければならず、今から、大忙しの一日になりそうです。
 
 馬場暁美
                  (上野緑ヶ丘教会員)
          キリスト者の生活綱要  (9)
   
ジャン・カルヴァン著s-2010042410510001.jpg
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第2章 自己否定
 
  2 神の栄光を願うことは、自己否定のことである
                      1  こういうわけであるから、自分自身ではなく、主を喜ばせることと、主の栄光の促進に役立つことを求めよう。自分自身のことをほとんど忘れ、すべての利己的なものをはっきり無視することのなかに、大きな利益がある。というのは、実にそうするときだけ、神とその戒めに、忠実に心を傾けるよう努力することができるからである。 聖書が、すべて個人的で利己的な考えを捨てるように命じるとき、それは単に富への望み、権力欲、人間の愛顧を、われわれの思いから取り去るだけでなく、誤った野心、人間的栄誉への渇望を、その他のもっと秘められた悪とともに、消し去ることである。まことに、キリスト者はその生活の中で常に神を思わなければならない。

 2  キリスト者は、そのすべての行為を神の律法によって量り、その内にある思いを、神の意志に従うようにさせる。なにを企てるにしても、神を仰ぎ見ることを身につけているなら、その人はすべての空しい欲望から解放される。キリストが、初めから弟子たちに、熱心に命じた自己否定は、ついには、われわれの心のすべての願いを支配するようになるであろう。自己否定は、自尊心、傲慢、虚栄、あるいは貪欲、贅沢を好む心、浮気、その他の身勝手から生ずるどんな罪にも、入り込む余地を与えない。自己否定という原理がないと、人は少しの羞恥(しゅうちも示さずに、大きな悪に耽溺(たんでき))するようになるか、なにか善行をしても、名誉を得ようという誤った思いに汚されるかのい
ずれかである。自己否定という主の律法を信じないでいて、それでも人の徳をすすんで行う
という人が一人でもいるなら、そういう人を見せてもらいたい。
                       3  自己否定という原理に感化されていない人はみな、褒められたいために徳を行う。徳                                                          は、  それ自体が好ましいために、望ましいものであると主張する哲学者たちでさえ、非常な尊大さをもって自慢しているところをみると、自慢する機会を得たいために、徳を願っていることは明らかである。
       神は、人々の賞賛を求める者や、自尊心と自惚れに満ちた心を、決して喜ばれることはない。神ははっきりと、「この世で彼らは報酬を得た」と言われる。また、(悔い改めた)娼婦や取税人のほうが、そのような人々よりも天国は近いと言われる。
         4  正しいことを追求しながら、同時に、自己否定から後ずさりするような人には、際限のない障害が伴う。人の魂には、悪徳の世界が隠されている。昔からこのことは正しい見方であるが、キリスト者の自己否定は、そのすべての悪徳に対する対抗策である。
          利己主義を捨て、主を喜ばせ、主の目に正しいことを唯一の目標とする人にだけ、豊かな救いがある。
s-100401_0659~0001.jpg『旧・新約婦人物語』(9)
 
 ヤコブの妻レアとラケル
      (創世記29章)
 
 旧約聖書に登場してまいります婦人もついに、ヤコブの二人の妻、レアとラケルにまでやってまいりました。私たちはここでも、人間の弱さと、それに伴う家庭生活の深刻な苦悩とが身に迫るように感じられます。リベカのところでも記しましたが、「美点も欠点」も持ったリベカを、もう一度思い浮かべてください。リベカと彼女の子ヤコブとは相談しあった結果、老いたイサクを騙して、兄エソウの相続権と祝福を奪いました。そのために、ヤコブは兄の激しい怒りを避けて、パダンアラムにいる叔父のもとに逃げなければならない破目に陥りました。
 叔父のラバンには、二人の娘がありました。姉をレアといい、妹をラケルと申しました。姉は醜く、妹は美しい女性であったようです(29:17)。えてして女性は、自分の美醜に非常な関心を持ちます。自分の美しくないことが、苦しみの一つとなるものです。まして自分の家族にたまたま自分より優れて美しい女性がいるときは、妬み心を起こし、憂鬱となり、彼女の家庭にも波風を立てがちになります。レアとラケルとはそのような関係にあったようです。そのような家庭に飛び込んだのがヤコブです。
 彼は美しい妹のラケルに心引かれて、7年間の労働を条件としてラケルを妻とする約束を叔父ラバンと結びました。彼は叔父のために働きました。約束の期間が満ちて、いざ結婚というとき、ラバンはヤコブを騙して姉のレアを与えます。もちろんヤコブは非常に失望しましたが、美しい妹も妻にしようとして、更に7年間、労働を続けることになりました。先には父や兄を欺いたヤコブは、今は自分が頼って行った叔父に欺かれることになったのです。
 ガラテヤ人への手紙6章7節に「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」とある通りです。人は自分がまいた種子を、良かれ悪しかれ、30倍、60倍にして刈らねばなりません。ヤコブの生涯は、このことをよく示してしております。この二人の女性を比べて見ますと、ラケルは美しく主人に愛され、レアは美しくなかったので、主人に嫌われました。そのために二人の間は親しくなく、この家族の空気は面白くありませんでした。
 しかもレアの方には次々と男の子が生まれました。けれどもラケルの方には、一人の子供も与えられないのです。妹ラケルは姉を妬み、彼女らの間は、一層面白くありませんでした。この焦燥の幾年かの後、ラケルにもヨセフという子供が与えられたのです。すると妹ラケルは増長して、姉や彼女の子供らに辛く当たるようになりました。
 ラケルの欠点は、主人の愛を笠に着て、我がままであり、人の幸いを妬むことです。 注意してみますとラケルの美は外見だけであったのです。彼女が、パダンアラムの父の家からヤコブに連れられて出るとき、父の大切な像を盗んで、自分の馬の鞍の下に隠し、知らぬ顔をしていたことなど、彼女の心のずるさがうかがわれます。彼女は二番目の子ベニヤミンを生む時、非常に苦しみ、その子をベノニ(苦しみの子)と呼びました。父はこれをベニヤミン(右手の子)と名付けたほどで、ラケルは産後が悪くやがて死にました。
 レアも完全な女とは申せませんが、彼女の場合、一つの非常に良いところが見受けられます。それは、29章35節で、彼女は四人目の子ユダが与えられ「わたしは今、主をほめたたえる」と言って名をユダと名付けたと記されています。レアは、長男、次男、三男と子供を与えられた時は、妹にまさって男の子を与えられたのを誇り、高慢となりました。しかし、四人目のユダのときには、彼女は我がままを捨て、謙遜に神をほめたたえています。高慢や自己中心の得意絶頂の時には、神の祝福はありません。
 神は、自分を捨てて、神をたたえたレアから生まれたユダを選び、イスラエルの正統とし、その子孫より救い主を与えられたのです。レアの光栄や思うべしですね。それに引き換えラケルの子ヨセフは、エジプトで奴隷として苦杯をなめ、ベニヤミンも苦しみの子でした。この話より私たちは多くの教訓を学びます。
1 婦人の本当の美しさは、外見よりもその人の心にあることです。
2 二人の妻を持つことは、どんなに大きな罪であるかということです。一人の夫と一人の妻と言う制度は、神様が初めにアダムとエバをお造りになった時からの定めであり、これを破ることは、人生が失敗と苦しみに終わることです。
 
 ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
277708c8.jpg…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(34)
 
 キリシタンの貧しい人々への救済(7)
 キリシタンの慈善の動機(3)
 
 豊後の育児院と府内病院(2)
 
 豊後府内病院が建設されたのは1557年で、アルメイダが育児院の児童に医療を施し、それを聞いて大人の病人も集まって来たことによってなされたものと思われます。教会のあった跡地に大木で建物を建て、二区に区分し、一つは負傷及び簡単な治療のできる病人のために、もう一つは、当地に多数いたハンセン病患者のためであったという。
 この病院は、近代西洋医術を施したわが国最初のハンセン病施設でもありました。1557年2月頃(弘治3年正月)より診療が始められ、評判を聞いて多数の患者が集まり、たちまち増築に迫られています。1559年(永禄2)、相当大きな内科病棟が増設され、聖母御訪問の祝日の前日(7月1日)竣工、開院しました。旧来のハンセン病棟はそのままで、内外科共用の病舎は外科病棟とした模様で、この病舎に接して職員の住宅があり、その家屋の周囲にはベランダがあり、病人はそこで治療を受けたと言う。キリシタンは人肉を食うとか、生血を吸うという悪宣伝に対して、外科手術を公開して行うことで対処していたことがうかがえます 
 アルメイダはイルマンとしての修業中の身であり、多数の患者を一人で診ることは難しく、内科病棟は、漢方医であるキリシタンの日本人医師が診療・投薬に当っていた。南蛮外科、特に外科手術はわが国では殆んど知られておらず、その高い水準に当時の人々は驚き、この評判は、京都、関東までにも響いたという(ジリング著「日本に於ける阿蘇会の学校制度」東洋堂)。
 
 これに対して、アルメイダが内科は漢方医に任せているのも興味深いことで、漢方の有効性を高く評価したからではないだろうか、と言われています。一般の書物からですが、明治以降の西洋医学導入に当たり、漢方を見捨てたわが国の現代医学の状況と考え合わせるとアルメイダの先見性は高く評価できる、とありました。
 更に、アルメイダは、自ら治療に当っただけでなく、医師の養成もしていて、その内容は不明ですが、1558年には、臨床教授を始めている、ともありました。ベランダでの手術は臨床教授にも役に立っていたのでしょうか。1661年、アルメイダは病院より手を引きます。イエズス会士の医療事業禁止令がその前に日本に達していたからであると思われます。
 府内病院は、アルメイダの医師養成の結果、南蛮医術をそれ以後も施すことができたのです。この病院事業の事務や病人の収容、救護、看護等の雑務を助けるために、「ミゼリコルヂャの組」が有志の男子信徒により組織されます。山口の信徒組織にならったものでしょうが、組織的になったのは、府内のこのミゼリコルヂャの組です。この組には、12名の専任者がおり、二人ずつ毎年病院の世話に当っていました。そうして、二人ずつ交代で病院の経営に専念していたようです。
 病院の経営は、原則として無料でありましたから全て寄進をあおがねばならなかったのです。従って、他の10人は、寄付を集める仕事と貧しい人々への救済など、多方面の仕事をしています。府内病院は、日本人医師や看護人、そしてミゼリコツヂャの組や一般信徒にさせられて経営は維持されたようです。しかしながら、キリシタン活動の中心が長崎に移り、豊後地方の戦乱などのため、次第に衰微していきます。巡回宣教師ヴァリニアーノの第1回日本訪問の頃(1579~82)は、ハンセン病院のみではなかったかと推察されます。
 
  あなたに聖書を
 
 わたくしたちは「おめでとう」という言葉をよく使います。自分が人にいう場合もありますが、人から言われる場合もあります。基本的な一つは学校へ入学した時でしょうね。その時からあと数年間、学校での教育を受けるということは、それだけ様々な点において成長するわけですから、入学ということはそういう成長コースに入れたということで、めでたくないはずは
ありません。
 旧約聖書の中に「コヘレトの言葉」というのがありまして、その第7章8節には、「事の終わりは始めにまさる」といわれています。終わりの方が始めよりまさっている、というのは、さっき言った入学の時より卒業の時の方が目出度いということから言って、まことにそうだと思いますね。
 考えてみますと、わたくしたちは、生まれた時「おめでとう」と声をかけられたと思います。それは、人生という学校に入学したようなもので、その時から、あらゆることを吸収して成長するに至る人生コースのテープが切られたことですからね。
 とすれば、そのコースの終わりは「死」ですから、「死ぬこと」が一人一人の人生学校の卒業式に当るわけです。「おめでとう」という性質のことではないでしょうか。もちろん履修単位が決まっているわけではありませんから、卒業認定もありませんが、事柄としては、「コヘレトの言葉」のように、「事の終わりは始めに比べたらはるかにまさっている」と言えるのではないでしょうか。そして、その意味では、昨日より今日が、いつもまさっている、と言えるのではないでしょうか。
 但し、そういうことが言えるのは、この人生学校の校長先生が、本当に責任を持って指導し、育ててくれる方でなくてはならなりません。それが神様であり、イエス・キリストである、ということを、聖書は伝えているのであります。 
 
篠田 潔
 
(参照聖句・コヘレトの言葉7章8節)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「ローマ人への手紙」研究 (66)
 第43課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さdb6d7cd8.jpg
       10章1~10節
 
 「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである」(10:4)。福音の真髄は私たちの救い主イエス・キリストの人格と業です。救いは私たちが律法を守ることによってではなく、私たちのためのキリストのみ業によって来るのです。私たちが義とされるために律法が要求する全てを、キリストはご自身のうちに持っておられるのです。
 この言葉の全体的な意味は完全に明白ですが、「律法の終わり」という表現の厳密な意味については、少しく難解な点があります。ここに3つの意味が可能になります。
 1「キリストは律法の終わりとなられた」は「キリストは律法がその全ての部分において指し示している方であり、罪人をそこへ導いて行く方である」という意味です(ガラテヤ3:24)。
 2「キリストは律法のすべての要求・型を成就し完成する方である」という意味。
 3「キリストは律法を終わらせられた方である。すなわち、信じる者を業の契約より恵みの契約に移転させられる方である」という意味。
 C.ホッジは1の意味はカルヴァンやその他の多くの注解者によって採用されており、2つの意味は教理的には聖書的であるが、「終わり」という語の原語「テロス」の意味と合わない。テロスは正確には完成・成就を意味せず、そのような意味では「プレローマ」がしっくりする。3の意味が正しいといえる」と述べています。
 「キリストにおらず律法の下にある者は、律法の要求と刑罰の下に服せしめられているという教理は、聖書の中に明白に述べられています。キリストの来臨とそのお働きは律法の権威を終わらしめ、私たちはもはや律法の下にはなく、恵みの下にあるのです(ローマ6:14)。私たちはもはや「これを為せ。そうすれば生きる」という体制の下にはないのです。しかし、この律法の廃止ということは、それを排除してしまうということによってではなく、それを成就することによって来るのです。キリストが律法の終わりとなられたのは、彼が律法を完成されたからである。パウロがここで主張しているのは、この後の方の真理である」(C.ホッジ)。
 したがって、ここの意味は、「キリストは律法の要求とその刑罰を満たすことによって、神の前に義とされるための要求としての律法の機能を終わらせられたのである」ということになります。神の前に義とされるということに関する限り、信者は律法については、もはや完全なのです。彼は業の契約より恵みの契約の下に移されてしまっているのです。
彼は破られた業の契約の罪科の下にはなく、神の律法への服従によって義を獲得しょうと望みのない無駄な試みを続ける必要はないのです。
 例えば、大きな負債を抱えて苦しんでいる人がいるとしましょう。彼は自分一人では支払いきれないことを知っています。彼は負債から解放されたいと、懸命に努力するが、結果的には負債に対する利息を支払うことができるだけで、負債そのものは全く返済することができません。利息を支払うことだけが彼のできる全てです。しかし、時にはそれさえも困難で、負債から解放されるどころか、ますます負債が多くなってゆく始末です。
 その時、裕福な友人が登場してきて、彼の代わりに全ての負債を全額支払ってくれました。その瞬間に彼は分割払いによって彼の負債を償却しようとすることから解放されたのです。元金が彼の代わりに他の人によって支払われてしまっているので、彼は返済義務から解放されたのです。ちょうどそれと同じく、キリスト信者も神の前に義とされることに関する限り、律法への義務は終わったのです。キリストが彼に代わって負債を完全に支払って下さったからです。
 
 J.G.ヴォス著
                         玉木  鎮訳
                      (日本キリスト改革派引退教師)
 
 
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緑を大切に!
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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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