2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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まだまだ寒い3月半ばの名古屋ですが、雨の舗道の片隅にタンポポの花が一つ咲いていました。なぜか健気でいとおしく思いながら傘と夕食の買い物袋を下げて帰りました。仕事をしながらの毎日は疲れます。つい出来あいを買い求めてしまいます。もう何年も家族揃っての食事・・・はありません。ローンを支払いおえた頃には、子供たちは独立しているでしょう。団欒を犠牲にしてしまった思いが最近して、これで良かったのだろうかと思ってしまいます。「つのぶえジャーナル」は自分で印刷して読んでいます。なぜかほっとするひと時です。
愛知県 S・Yさん
「ジャーナルさん」こんにちは。4月から高校2年生になりました。家でも、学校でも将来を考えなさいと言われますが、頭に浮かんで来ません。今は友だちとわいわいいいながらすごしたいです。母に連れられてですが、教会に行っても、大人の人ばかりで、携帯に気持ちが行ってしまいます。母には、礼拝中は止めなさいといわれていますが、お話は分からないし、長いし、ねむたいし困ってしまいます。「ジャーナルさん」どうしたらいいですか・・・・。そうそう、大人の人も寝ている人がいて、変な話、その人が大好きです。
愛媛県 A・Tさん
大学受験から解放され、気分は、私も含めてハイテンション!住んでいた町から、地下鉄、バスの世界で疲れてしまいました。友だちつくりの苦手な私の今はひとりぽっち状態です。田舎の母からのメールが楽しみですが、返事は、元気!元気!楽しいよとウソばっか。不安ばっかりの日々です。
東京都 ホームシックさん
先輩と得意先回り中です。会社に戻って報告書を書いています。10枚ほどの名刺を前にしても、何を言ったかよく覚えていません。緊張のしっぱなしです。PCに向かって2時間・・・。言葉が浮かんできません。メモを見てもダメ! あぁ・・・・。アパートに帰ってまとめよう・・・。
東京都 ため息さん
「ジャーナル」用に、やっとレンゲのシャメを送ります。桜もだいぶ咲き満開も近いのに雨ばかりで体がついていきません。広告を見ていると今日開店のチラシがあり行って来ようかなと思っています。気分転換になるといいのですが・・・。今月だけかも知れませんが、お試しセールのパソコン教室に通ってみようかとも思っています。基礎を知らないと、息子に馬鹿にされっぱなしですし・・・。5日は、花見会?薬師寺の招待券をいただいたので あやめ池の教会の方と行きます。西大寺の大茶盛もまだ行ったことがありませんので、機会あれば行って見ようとは思っています。
畑は、晴れた日には用事でできず、雨ばかりで草ぼうぼうです。
大阪府 T・Mさん
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『ありがとうございます』
5月号を更新し、宅配メール便でお届けすることが出来ました。多くの方がそれぞれの思いで、楽しみに待っていてくださったり、PCに向かったり、印刷・コピーしてご利用いただいていることを知らされ、作る側としては、感謝と共に責任も感じています。出来上がれば、「つのぶえジャーナル」は一人歩きです。親の手を離れた子供のようにと、よく思うことがあります。そうして少しでも役立ってほしいと祈りつつ、送り出しています。頑張ります。 (長村記)
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
名越五郎様 匿名様
***************
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
犬山教会兄弟会様 匿名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
‘10年4月15日現在 編集・発行人 長村秀勝
トマス
「(イエスは)トマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)
このみ言葉は、人への叱責ではなく、トマスをとおして私たちに語られたイエスの大きな憐れみと慈しみをお示しに下さいました。トマスは特別な人間ではないように思います。常識的で、曖昧さを嫌い、きちんとした心の持ち主のように思います。イエスの甦りを信じていても、現実にそのことを私たちが問われた時、事実としてよりも、信仰として捉えようと思うところがあります。死者が甦る、イエスの死を目の当たりにした者が、三日目に甦る事実を、信じて疑わないことの方が不思議です。ペテロは、「それが愚かな話のように思われた」(ルカ24:11)ので墓の中を調べましたが、その時は半信半疑であったでしょう。それは、ペテロは、甦られた方との最初の出会いの後ではじめて信じることが出来ました。
一般に、「疑い深いトマス」と思われていますが、信じるためには先ず明白な証拠が示されなければ納得できないのが普通の人間と思います。このようなトマスに主イエスは叱責されません。疑いながら信じるトマスをお求めになりませんでした。その疑いを払い除け、信仰者として生きるトマスをお望みでした。
この冒頭のみ言葉は、神の深い愛と素晴らしいお導きを示してくださいます。私たちはトマスです。否、トマスにはるかに及ばない者です。信じることが難しい状態の中に日々を過ごしています。私たちは、イエスの御傷に触れることは出来ません。だからこそ、トマスに示されたイエスのお言葉が支えになり、慰めになり、喜びになるのです。
「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起こしてもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べつたえたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである」(Ⅰコリント15:1~2)。
小閑記
「知る力と見抜く力」
「私はこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義に満たされて、神の栄光とほまれをあらわすに至るように」(1:9~10)。
深い知識と鋭い感覚と同時に、それが愛と結びつくというのは、どこに一番よく現れているでしょうか。言うまでもなく、主イエス・キリストの十字架であります。十字架においてわれわれは、他では見ることのできないような、強力な、鋭い、人間を見る見方が分かってくるのです。
人間が罪人であり、神に造られた者であり、救われなければならないことを、十字架ほどに明らかに示してくれるものはないのであります。それと同時に、そこでは、そういう人間が、どんなに神から愛され、したがって、神を愛して生きて行かなければならないかと言うことを一番よく示しているのです。ここには、十字架の愛と、十字架の知識ということを言ってはいませんが、全ての話の背後に主イエス・キリストの十字架が立っていることを、われわれは見逃すことはできないのであります。
竹森満佐一著「ピリピ書講解説教」(日本基督教団出版局)
上河原立雄撰
この文章の転載は許可を得ております。
御神に創られた者よ
御神に創られた者よ
あなたの知恵と知識を誇るな
あなたのすべてのすべては
御神から与えられたものだから
あなたの富と力を誇るな
あなたのすべてのすべては
御神から与えられたものだから
御神に創られた者よ
あなたの愛と善意を誇るな
あなたのすべてのすべては
御神から与えられたものだから 水野源三第四詩集「み国をめざして」
眸
私たち夫婦は、音楽を職業にしています。10数年前のことでした。妻と演奏会に行った帰り道、路上ライブと言うのでしょうか、二人の若者がギターを演奏しながら一心に歌っていました。華やかなステージ、スポットライト、拍手の演奏会とは違ったものです。数名の若者が聴いています。私たちは少し離れたところで様子を見ていました。
何ヶ月か経ったある日、またコンサートに行った帰りに妻と立ち寄りました。あの時の二人ではありませんが、やはり路上ライブをしていました。帰り道、私たち二人の中に何かの変化が生まれていました。コーヒーを飲みながら演奏会の話をしていた時、思い付きのように、家でホームコンサート出来ないかなと言ってしまったのです。実は、妻もそのことを考えていたと言うのです。妻は声楽家として、私はヴァイオリン奏者としてそれぞれ活動してきました。活動については、お互いに余り干渉しないことがルールで結婚しましたので、お互いに、このようなことを話したことがありませんでした。
意見が一致し準備の話になりましたが、なかなか意見や考えがまとまりません。言い争いになりそうで、気まずくなる時も有りましたが、二人の音楽を志している子供たちが企画してくれて、開くことにしました。家の門のところに、ホームコンサートの小さな案内をいたしました。何度も演奏会に出演した経験はありましたが、そのたびの緊張感は全く異質のものでした。誰も来られませんでした。20ほどの椅子には子供たち夫婦とその子供、子供たちの友人数名の前でプログラムに従って進行して行きました。親が子供たちの演奏を聴くことはあったも、子供たちの前で演奏するのはなんとも表現の仕様がありませんでした。その日のことは、数日口にしませんでしたが、郵便受けに一枚の封筒が入っていました。文面の中に、当日お邪魔したいと思っていたが急用で行けませんでした。主人を亡くし一人家にいる日々でしたので、ちょっとお邪魔したくなっただけですが・・・。次回がありましたら教えてくださいと住所と電話番号が書いてありました。
妻とそろそろ次の方にバトンタッチを・・・と話しているところです。あの時の路上ライブは、私たちの生き方を大きく変えた出来事になりました。
・・・ところで、「クリスチャン音楽家を支える会」って何だろう、と妻と話したことがあります。クリスチャンが音楽家(文化・芸術活動)を支援することなのだろう考えて妙に納得したものです。ネーミングでいろいろ楽しく想像することを、その時考えました。
京都府 Y・Tさん
(長いお便りのため、一部カットして掲載しています)
自閉症者のひとりごと
(36)
2月19日
精神科に来ています。待ち時間が長いので、早めに来ました。時間的には同じなのですけど。家にいるとイライラするので。週末から週の頭にかけて、祖父の通夜やら告別式などで、今頃疲れが出てきました。往復や知らない人に囲まれて、疲れたのだと思います。
薬を1種類減らしているからでしょうか、落ち着かないです。久しぶりに夜のAAのミーティングに行くつもりでいます。今、食事をしています。毎日家の中をうろうろしています。散歩でもすれば運動にもなるのに。
3月4日
疲れてくると、変にいろいろ考えたり、同じ音楽の同じ旋律がぐるぐる頭を回ったりする。
最近、障害者の障害ではなく、障がいとか障碍という文字が当てられるようになった。また、片仮名ではディサビリティドやハンディキャッパーではなく、チャレンジドが使われるようになってきた。しかし、差別用語と一緒で要は意識の問題だ。わたしは障害は取り去られるものでもないし、乗り越えるものでもないと思っているので、どういう表現でもよいと思っている。ただチャレンジドはいただけない。なんで頑張らなあかんねん?生きていくためだったら、健常者だって頑張ってるやん。障がい者だけ人一倍がんばらないかんみたいな印象を、わたしは持ってしまう。
最近、障害者の障害ではなく、障がいとか障碍という文字が当てられるようになった。また、片仮名ではディサビリティドやハンディキャッパーではなく、チャレンジドが使われるようになってきた。しかし、差別用語と一緒で要は意識の問題だ。わたしは障害は取り去られるものでもないし、乗り越えるものでもないと思っているので、どういう表現でもよいと思っている。ただチャレンジドはいただけない。なんで頑張らなあかんねん?生きていくためだったら、健常者だって頑張ってるやん。障がい者だけ人一倍がんばらないかんみたいな印象を、わたしは持ってしまう。
3月9日
12~14日AA(アルコール依存症者の自助グループ)35周年大会in名古屋があります。全国、また世界から900人近くが集まります。わたしも部分参加しようと思っていますが、前日ミーティングで、家事もしなきゃならないし、礼拝はあるは、15日は朝早く病院まで行かなければならないし、大丈夫なわけないよなあ。は~あ。
3月12日
興奮したのか、また変な時刻に目が覚めてしまいました。
昨日はAA日本35周年記念集会オープニングセレモニーの途中まで参加しました。各地域のスピーカーが自分のことを話してくれました。回復している先き行くメンバーは元気ですね。たくさんの人の話を聞く中に、わたしは座っているだけで精一杯だったけど、いろいろなものをもらったと思います。具体的に分かるようになるのは、もっと時間が経ってからだと思います。
今日は女性ミーティングに行かせてもらうつもりです。
昨日はAA日本35周年記念集会オープニングセレモニーの途中まで参加しました。各地域のスピーカーが自分のことを話してくれました。回復している先き行くメンバーは元気ですね。たくさんの人の話を聞く中に、わたしは座っているだけで精一杯だったけど、いろいろなものをもらったと思います。具体的に分かるようになるのは、もっと時間が経ってからだと思います。
今日は女性ミーティングに行かせてもらうつもりです。
加納さおり
(76)
猫 草
春の花をたくさん買ってきて寄せ植えをした。直径40㎝ぐらいの大きな鉢に、ミニ金魚草、ストック、アリッサム、マーガレット、ミニバラなど7~8株を買ってきて寄せ植えする。円形の鉢なので中央を高く、縁に少し葉っぱがかかるぐらいにアレンジするときれいにみえる。とはいっても植物は生長することを前提に考えないといけない。寄せ植えをした段階ではちょっと物足らないぐらい・・でちょうどいい。しかしその物足らなさをうまく植物がカバーしてくれるとは限らない。隙間はずーっと中途半端に空いたまま、狭いところに葉が茂り、あらぬ方向に枝が伸びる・・こともある。いや正直にいうとそういう場合がほとんどだ。植物はままならない。もちろん人間も、だけれど。
ガーデニング3年目になると、ようやく花やその株の「性質」が少しわかってくる。花が終わると急速に全体がやつれるもの、逆に花が終わると勢いよく葉が伸びるもの、小さいスペースだと縮んでいたのに植えかえたら急にいきいきするもの、いろいろである。わかってくるのは「いろいろある」ことだけで、小さな株を見たときに「これはこうなる」と予測できるわけではない・・外部依存的あるいは環境依存的、つまり土、水、日光、風通しなどなど、周囲の状況によって絶えず植物の状態は変化するからである。
園芸店で花を買うときには、処分品で50円とか100円になっている鉢をまず選ぶ。なんというか・・見事に咲きそろった旬の花を買って植えても、自分の手柄ではないという気がするからだ。買った時をピークにしてどんどん姿が悪くなるよりは、最初にだめだめな株を再生させる方が面白い。そんなわけでうちの寄せ植えはちょっと訳あり、個性派、もうひと花頑張って咲かせましょう!な花たちが集まっている。まあ、ここに寄せ植えされたのも何かの縁と思って、仲良くやりなさいね、と置き肥をあげて、あとは意外な展開になるのを楽しみにしている。あとは暖かな日差しと春の雨がなんとかしてくれるでしょう!
その愛のゆえに
=時々の記=
(49)
2月21日
今朝は、少し日差しがあり気温も一度ほど昨日に比べ上がっています。ほんの僅かなことですが、温かいのは嬉しいです。明日、三年ぶりに沖縄の息子が帰ってきます。
主人は、いそいそと部屋の掃除に専念しています。これから、二人で上野まで食料を買い求めにいきます。奈良からは、娘も帰ってきます。久しぶりに家族がそろいます。
春の訪れとともに、我が家にも、家族愛が満ち溢れ、困ったこと、苦しいことを言い合える家庭へと成長していきますように。
早梅の枝の高きを見上げたり
針のごと突き上げてをり春の草 馬場路哉
長い間、お世話になった、小学校の時の用務員さんが、昨日なくなられました。昔の用務員さんは、学校でひとり寝泊りしなければならず、とても大変だったと感じます。私は、よく用務員室に行って、パンをもらったり、話を聞いてもらったり、懐かしい思い出がいっぱいこみ上げてきました。
2月24日
先日来、また主人の叔母が亡くなり、葬儀の準備に追われていました。その叔母は、子供がなく、晩年は、養護老人施設に入所していました。主人と私は、3ヶ月の一度しか、お見舞いに行けませんでしたが、お見舞いに行くと、やはり、とても喜んでくれました。
よく来てくれたね、有難うのこの二つの言葉をいつも、返してくれました。そして、驚くことに、自分が亡くなった時のために、年金を貯蓄していました。ですから、葬儀は、叔母が残してくれただけのささやかな、家族葬となりましたが、(皆で13名)とても、しめやかに、叔母を偲ぶことができました。今、葬儀のことが世間では話題になっていますが、私たちも、叔母のように、清楚に、見送って欲しいものと、しみじみ考えさせられたひと時きでした。
久しぶりに息子が帰ってきてくれました。私には、デジカメを買ってきてくれました。
何も言わずに、これ、と言って渡してくれたのです。パソコンにも、つなげられるよ、と教えてくれましたが、その時は、わかったようでも、パソコンには、うまくつなぐことができません。こんな、素晴らしいデジカメという新兵器を手にして、今の私は、おもいきり、はじけています。
これからの美しい季節を、デジカメを使って残していきたいなとカバンに入れて持ち歩くように心がけています。
咲きて散り散りては咲ける椿かな
春めきて山紫水明とはなりぬ 馬場路哉
昨日から、こちらは、随分温かくなりました。今まで、着膨れていたのですが、少し枚数を減らして、軽やかに動けるようになりました。このまま、まっしぐらに、春になって欲しいものです。
2月28日
2月もあと一日を残すだけとなりました。昨日から春の温かい雨が乾ききった野山に、潤いを与えてくれました。バンクーバーオリンピック、女子フィギヤーのテレビ放映に、一日釘付けになっていました。華やかな舞台の裏では、並々ならぬ努力が積み重ねられ、また、その家族も、懸命に後押ししての一瞬です。ともに涙を流して、感動を与えてもらった一日でした。
3月3日
昨日、娘から電話が入りました。つのぶえジャーナル、3月号を読んでいるよ。とても、励まされて、元気をもらったよとのこと。また、主人の俳句にも、関心があるのか、批評を下していました。皆さんも、きっとジャーナルから、本当に、生きる力を与えられ、希望をもつことができることでしょう。私も、家族も、皆そうです。
日曜日の礼拝には、行くことが出来ませんが、それは、不信仰という言葉で片付けられてしまうのが残念でなりません。娘は、一人で静かにジャーナルに目を通し、聖書のみ言葉に立ち返る唯一、神様と向き合うひと時だと言って、ジャーナルが更新されるのを、毎月、楽しみにしているようです。
3月4日
昨日、宅配メールでジャーナル三月号が届きました。とても、良い春風に乗って、運んできてくれました。有難うございます。主人と二人で、じっくり読み合わせをしました。今朝、例年より、二、三週間早く、鶯が裏山で初音を響かせていました。わー。春がやっと来たんだなーと、そのまだ自信のなさそうな声から、こちらも、そんなにあわてなくてもよいんだよと言ってやりたいほど、か細い声でした。きょうは、主人は、免許の切り替えで、橿原まで出掛けました。一人で、ゆっくりジャーナルをよみかえします。
3月9日
この寒さ、身体にこたえます。私、体調を崩して寝込んでいました。元気が出ないとき、人前に出たくなくなります。教会の礼拝にも、気持ちは礼拝を捧げなければと思うのですが、身体が拒絶反応を示します。
7日の日曜日のこと。朝は、元気に犬たちと散歩も出来たのに、教会の礼拝に行こうとすると、寒気がしてきました。これは、きっと風邪かなと思って風邪薬を飲んで休んでいましたら、持病の、めまい、頭痛がおきてきました。とても起き上がることはできません。主人だけの出席となりました。皆さんが心配してくださったというのですが、私だけどうして、このように弱いのでしょう。
教会の皆さんは、とてもタフな方ばかりで、私はついていくことができません。でも、この弱さがあるから、疲れた方や、しんどい方の気持ちや、思いはわかるのです。明日も、まだ寒さが続くということで、弱った私には、ダメージがきついです。
満開になりきった梅の花が、遠慮がちに花びらをちじこめているように思われます。
花椿ひよのたけれる朝(あした)かな
山の端の春曙の枝の形(なり)
強霜に伊賀のそちこち白きこと
耕され潤い満てる田んぼかな 馬場路哉
明日は、月ヶ瀬で俳句会があるとのこと。でも、あまりにも寒いので、中止の連絡が入ってきました。やはり、年を重ねた者にとって、この冴え返りはきついのですね。
3月13日
昨日は、春のような暖かさでした。山添村をドライヴしているとびっくりしました。土手に、山桜がちらほら咲き始めているではありませんか。まだ梅の季節だと思っていたのですが、自然は、すばやく、ぬくもりをキャッチして感心しました。三月は、喜びに沸く人、悲しみをこらえる人、なれたところからの転勤に、不安になる人と、
さまざまです。そんな一人一人に大丈夫、みんなに必ず春がやってくるから、とエールを送ります。
耐え忍んだ分、悲しみが大きかった分、温かい春が届くはずです。そう信じて祈っています。
3月16日
丹羽道子さんが、伊賀市でコンサートを開いてくださいます。4月3日、アフタヌーンコンサートとディナーコンサートを町屋で、イタリア料理店で開いてくださると先週の日曜日にお会いして、教えていただきました。私たちは、アフタヌーンコンサートに出席しようと、計画をたてました。心揺さぶる美しいソプラノの声にきっと、春の訪れとともに、丹羽さんのコンサートに参加したものが、魅了されてこれからの、スタートを、希望を持って、準備されることでしょう。
こちらは、きょうは、春の嵐に見舞われています。こうして、少しづつ、本番の春がやってくるのでしょう。裏庭の鶯も、随分上手に鳴いてくれるようになりました。
傘作り残れる上野春の雨
かつて聞く同じ響きや春の雨
春雨や林を行ける犬散歩
馬場路哉
山添のコーラスの指揮者の方に、先ほど丹羽さんのコンサートのパンフレットを届けてきました。出来るだけ、多くの方が来てくださると、よいのですが・・・。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第2章 自己否定
1 われわれは自分のものでなく、主のものである
1 神の律法には、われわれの生活を整えるために、たいへん適切で順序だった計画があるが、神の御旨は、一つのまことに優れた基本原理によって、人々を導くことであった。 「あなたがたのからだを、神の喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげる」ことは信者の義務であり、これこそ唯一のまことの礼拝である。聖潔の原理は、「この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるかをわきまえよ」という勧めに通じる。 われわれが、神にたいして聖別され、献げられているということは、きわまて重要な考え方である。それは、神の栄光という点だけから考え、語り、瞑想し、そして行為するということである。
聖なるものを汚れた用途に用いるなら、神にたいして大きな不正を行うことは、極めて重要な考え方である。それは、神の栄光という点だけから考え、語り、瞑想し、そして行為するということである。
2 われわれが、自分のものでなく主のものであるなら、どんな誤りを避け、どんな目的のために行動すべきか、明白なことである。われわれが自分自身のものでないからには、われわれの理性も意志も、われわれの思想や行為を導くべきではない。われわれが自分自身のものでないからには、肉に好ましいものを求めるべきでなない。
聖なるものを汚れた用途に用いるなら、神にたいして大きな不正を行うことは、極めて重要な考え方である。それは、神の栄光という点だけから考え、語り、瞑想し、そして行為するということである。
2 われわれが、自分のものでなく主のものであるなら、どんな誤りを避け、どんな目的のために行動すべきか、明白なことである。われわれが自分自身のものでないからには、われわれの理性も意志も、われわれの思想や行為を導くべきではない。われわれが自分自身のものでないからには、肉に好ましいものを求めるべきでなない。
われわれが自分自身のものでないのであるから、神にたいして、生きまた死ぬようにしよう。われわれは神のものであるからには、神の知恵と意志が、われわれのすべての行為を支配するようにしよう。われわれが神のものであるからには、われわれの存在のあらゆる部分を、唯一の正しい目的である神に向けよう。
3 おのれが自分自身のものでなく、自己の理性によっても支配されず、自己の思想を神に従わせることを学んだ人は、なんと大きな進歩をした人であろう。
人を破滅に導く最も大きな害毒は、知恵と意志の力について、自己を誇ることである。そこから逃れて安全に至る唯一の道は、ただ主の導きに従うことである。
4 主への奉仕という場合、単なる服従というこのことだけでなく、喜んでわれわれの罪深い欲望を退け、聖霊の導きに完全に服従するということが含まれる。パウロが、心を新たにすると呼んでいる。聖霊によるわれわれの生活の変化は、生命のまことの始まりであり、異教の哲学者たちの知らないところである。
異教の哲学者たちは、生活と知恵と行為の唯一の規範として、理性をたてるが、キリスト教哲学は、理性を聖霊に従わせることを要求する。これは、われわれがもはや自分自身のために生きず、キリストが、われわれの内にあって、生き支配することを意味する。
ローマ12:1、エペソ4:23、ガラテヤ2:20。
…二人静…
鈴鹿の病院に入院して2年ほど経ったでしょうか。毎月長男と暁美さんが、お見舞いに来てくれるのを待っておりました。暁美さんが、いつもより、嬉しそうに、ある方からのお手紙を持ってきて、読んで聞かせてくれました。その方を診察したのは、10年以上も前のことでしたが、よく覚えておりました。
その方が、私の診察室に入ってきた時、私は、触診をする前にお顔を診ることにしていましたが、大変、顔色が悪く、失礼な言い方ではありますが、どす黒く見えました。これは、かなり重篤な病にかかっておられると、直感しました。触診すると、すぐに誰が触ってもわかるほどの大きなものを胃に持っておられました。
私は、すぐに、ふるさと(鳥取)に帰って、鳥取大学で、詳しく検査を受けるよう促しました。大事な仕事を持っておられた方でしたから、とても悔しがっておられましたが、病気が治ったらまた仕事に復帰できるのだからと説得いたしまして、故郷へ帰ることに応じてくれました。
その方が、鳥取大学で、無事手術を受け、すでに10年経った今もお元気で、大正琴や、他の趣味に生き甲斐を感じながら、過ごしているとのお手紙でした。そして、あの時、私に説得してもらわなかったら、今の元気な体は無いというような内容でした。
医療に携わる事をやめて、ずいぶん経ちますのにこのようなお手紙を頂くことができて、私は、とても嬉しくなりました。今、医学は、日進月歩で進んでおります。それは、それで、素晴らしく、尊いことではありますが、私は、人間の体は、やはり神様がお創りになられたものだと、信じていますので、恐れ多くも、その体を人間が、医師が創りかえるかえるようなことは、人間の傲慢さの表れだと思います。
生体間移植のニュースを聞くたびに、背筋が寒くなるのです。昔の医者ですから、偉そうなことは言えませんが、私は、漢方に興味を持ったのですが、自然治癒力を大切にしている者でしたので、よく、新薬でアレルギー反応が出た時など、使わせてもらいました。
それで、効を奏した方もいましたが、あまり効き目の無い方もおりました。医学の難しさを痛感いたしたのです。
今回をもちまして、終わらせていただきます。長い間、つたない者の独白をお読みくださいまして感謝いたします。代筆してくれた嫁の馬場暁美さんに感謝しています。
森三菜子
『旧・新約婦人物語』(8)
シモン・ペテロのしゅうとめ
(マタイ8:14~15、マルコ1:29~31、ルカ4:38~39)
シモン・ペテロの姑の話は、聖書に僅か三回しか出ていません。しかも、その三ヶ所が、一つの出来事を伝えているだけです。しかし、私たちは、この短い数節を粗末に扱ってはなりません。よく研究しますと教えられることが沢山あります。
先ず気付く事は、漁夫であったペテロと彼の兄アンデレとが、ガリヤラ湖の北岸の町カぺナウムに家を持っていたということです。彼らの生まれたのは、そのすぐ南のベッサイダでありましたが、何時の間にか、カペナウムに移り住んでいたようです。この家の中心でありますペテロと、働き手であるアンデレとが、突然、イエスに従って家を去ったことは、この家庭にとっては大きな痛手で後に残されたのは、ペテロの妻と彼女の母だけと思われます。
この二人が、その後どれほど苦労したことでしょうか。しかし彼女らは、ペテロとアンデレの高く大きな使命の遂行に妨げとならなかったばかりか、かえって、これを励ました事実は、まことに美しいことでありました。よく考えて見ますと、これは一般の主婦にも課せられている道ではないでしょうか。
毎日、家の中で同じような仕事を繰り返しているのは、如何にも平凡で目立たず、時には嫌になるかも知れません。けれども、家庭における主婦の働きによって、外で働く人々が家庭にたいする不安や憂いをなくして、全力で尊い使命に打ち込むことができるのであります。このように考えます時、家庭にある妻や姑が、自からに与えられた家庭内の小さい仕事の一つ一つに熱心なことは、彼女らの一番恵まれる道だと思います。
ルカによる福音者4章16節以下によりますと、イエス様はユダヤからみ霊の力に満たされガリラヤにお帰りになり、お育ちになったナザレに戻られました。そしてイエス様は故郷の人々に力ある説教をなさいました。けれども、ナザレの人たちは、いろいろの先入観にわざわいされ、イエス様のお言葉も信ずることは出来ませんでした。それのみでなく彼らは、イエス様を殺そうとまでしたのです。
しかし、イエス様は彼らの真ん中を通り抜け、ナザレを立ち去って行かれました。イエス様はガリラヤの町カペナウムにおいでになり、この町で安息日毎に会堂で多くの人たちに説教をなさり、また悪霊に取り付かれた人々をお癒しになりました。さて、マルコによる福音者によりますと、イエス様は会堂を出られた後、すぐにヤコブとヨハネとをお連れになって、シモン・ペテロの家へ行かれたとあります。
ペテロとアンデレの家庭で、彼らの家族の人たちの心からの歓待を受け、あたたかい交わりを持つことがお出来になれたことは、イエス様のお働きに大きな励ましとなったことでありましょう。ともあれ、カペナウムの町が、イエス様のガリラヤ伝道の中心地であり、ペテロの家が伝道の根拠地となったことは、疑う余地のないことと思えます。
お話しを本筋に戻しましょう。イエス様の弟子たちが、ペテロの家に入っていきますと、ペテロの姑が高熱にうなされて、病床に伏しておりました。家族の者が、どうしたらよいのかと心配していたところです。ところで彼らは、お疲れになっているイエス様を煩わしてはいけないと、心に思いましたが、思い余ってやむなく、事の次第をイエス様にお話しし、彼女が高熱で苦しんでいるのを、お癒し下さいとお願いいたしました。
イエス様はすぐに彼女の寝ているところへ行かれ、彼女の枕元にお立ちになり、彼女の手を取って起こされますと、たちどころに熱が引き、姑は直ぐに立ってお台所に行き、お客様のために食事の準備をいたしました。「これは不思議なことだ」と、お思いですか? 決して不思議ではありません。これはキリストのお力の偉大さの証拠です。このような例が、聖書には沢山あります。今でも、キリストは同じ力をお持ちになって、私たちに力と慰めとを与えてくださっています。
さて、聖書には、神が信仰ある人の祈りを、必ず、お聞きくださるとの約束が語られています。ところで、私たちは、いろいろな条件を付けずに、すべてを主のみ心に任せるべきです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」との主の約束のように、どのようなことでも神に祈り求めることは正しい方法であります。私たちの祈り求めたことが、例え希望に反して違った答えが出たとしても、それは神様の愛の摂理であると信じましょう。多くの人々は、この点まことに気まま勝手で、「神様、どうか私の病気を癒して下さい。癒して下さったら、神様を信じてクリスチャンになります」と祈っています。またある人は、キリストの神を試してみようとします。もし病気が癒されたら、商売が繁盛したら、受験に成功したら、そうしたら、信じましょう・・・と神様を試しています。こんな気持ちでどんなに多くの方々が、教会に来たり、聖書研究会に出席されたりしていることでしょう。このような考え方、気持ちでは、何時までたってもキリストを正しく知ることは出来ませんし、本当のキリスト者にされないのです。
最近はことの外、様々な怪しい偽宗教や新興宗教が流行しています。これらの宗教の中心は御利益主義で、信者たちの病気が必ず治ると高言しています。そして、もし治らなかったら、その人の信心が足りないからだと逃げるのです。このような偽宗教に迷って、莫大なお金を巻き上げられた人たちが、沢山おられると聞きます。
あなたは、このような間違った宗教に迷い込むことなく、どうか正しい真の神様、キリスト教を熱心にお求め下さるようにお奨めいたします。真の神に祈れば、病気が癒されるとか、癒されないとかを越えて、私たちの心に病気や悩みに打ち勝つ力、信仰が与えられるのです。私たちはシモン・ペテロの家族のあたたかい雰囲気から、いろいろと多くのことを教えられます。ペテロの家族がどうしてあたたかく、キリスト・イエスをお迎えすることが出来たのでしょうか。その根本的な理由は、彼の家族の者が皆、イエス様をよく知り、神様を心から信じていたからであります。
「聖書を読むこと、そのことが教育なのである」(テニソン)
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
…キリスト教…
キリシタンの貧しい人々への救済(6)
キリシタンの慈善の動機(2)
豊後の育児院と府内病院(1)
豊後府内は、近代医学史にとって重要な土地であり、わが国における西洋近代医学の発祥の地でもあると言われています。それをもたらしたマイケル・ルイス・アルメイダは、社会事業史における重要な人物なのですが、来日前の彼の経歴はあまり知られていませんでした。
1546年、ポルトガル王より外科医の免許を得ており、来日した1555年の時は30歳であったという。しかし、それ以前の52年に来日したとの節もありますが、もし来日したとするなら貿易商人としてであったと思います。もしそうなら、インドシナ地方において名の知られた貿易商であったアルメイダが、その巨万の富を整理してイエズス会入会志願者として再来日ということになります。
聖フランシスコ・ザビエル以来、日本へ来たイエズス会士の心を痛めていたことは、胎児殺しと堕胎であったという。ザビエルの説教でも必ずそのことを非難し続けていたことからその悲惨な事実は確かであった。豊後に来たアルメイダもその資財を提供して、育児院を1555年に開設しています。殺したり捨てたりする児童を育児院に連れてくるようにとの命令を出すように、領主(大友義鎭)に請願しています。義鎭は、そのことに大いに喜び賛同し、田地を与えています。アルメイダは、育児院に乳母を雇い、二頭の乳牛を飼い、幼児が欠乏のため死なないようにしたという。悲しい現実ですが、当時の戦乱の社会にあって、堕胎、胎児殺し、棄て児は普通のこととして行われており、その救済が急務であったのです。
ザビエルが山口を去った後、パードレは子供をさらい、その血を吸い、肉を食うという流言が広まったことからも、残った宣教師や信徒が児童の救済に当っていることは確かでした。この孤児救済が、他の地方でも行われていたためそのような流言の根拠になったと考えられます。
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円