2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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イエス・キリストが言われた言葉の一つに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というのがあります。疲れた者、重荷を負うものへの招きの言葉であります。今日では「疲れた者」に対しては「温泉につかってゆっくりしなさい」とか「疲労回復のドリンクを飲みなさい」とかいう指示がなされますし、「重荷を負う者」に対しては、社会福祉制度の中での様々な面で、その重荷を軽くするための働きがなされ、それ相応に担われています。
そういう点で、疲れた者や重荷を負っている者に、キリストが必要と言うことはありません。私も疲れた時にはその疲れを癒すための工夫を自分でしますし、重荷を背負う時には誰かに助けを求めて、軽くすることを考えますから、別にキリストの助けを求めません。
ところで、釈迦が出家したのは生老病死という4つの苦しみからの解脱を求めてのことであったと言われています。それが出来れば安心出来る、つまり心休まる、ということであった
わけです。それが、悟りを得る、ということに伴うことであったと理解しています。
わけです。それが、悟りを得る、ということに伴うことであったと理解しています。
そういうことから言いますと、疲れとか重荷とか言うものは、その時々のことではなく、むしろ生きていること自体にあるものといえるのではないか、そして、それは、自分の力やこの世にある力によって解決できるものではないのではないか、と思うのです。
キリストが、そういう人は「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけておられるのは、「わたしはあなたの疲れや重荷を一緒に引き受けるよ」と言われていることに他なりません。どうにもならないでいる自分の傍らに、本当に頼りになる人が居てくれることくらい、心休まることはありません。
あなたにとって、キリストとはそういうお方であると言うことを、聖書は告げているのであります。
篠田 潔
(参照聖句・マタイによる福音書11:28)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
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「ローマ人への手紙」研究 (65)
第42課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
10章1~10節
贖い主を信じる信仰によって罪人に与えられる神の義があることをしないで、ユダヤ人たちは早計にも、神の全ての律法の命令に従おうとすることによって、自分の義を打ち立てようと試みたのです。恵みの賜物として救いが与えられることを知らないで、彼らは自分自身の正しい行いによって義を達成しようとする無益で不可能な努力に走ったのです。
私たちがよく理解しなければならないことは、このような誤りはパウロの時代のユダヤ人に特有のものではないと言うことです。それは全ての時代と、あらゆる場所における罪人の特徴なのです。罪に汚れた誇りと愚かさの中で、人間の心は善い行いによって、自分の義を立てようとする傾向があります。
このことは「黄金律の宗教」と呼ばれるものが驚くほど人気を集めているということの証明となるものです。著名人たちが口を揃えて、「黄金律こそ私たちが必要とする宗教である」と言っています。そこには福音もなく、キリストもなく、救いもありません。彼らはキリストも福音も必要ではないということです。彼らの宗教は外形的には違うかもしれませんが、内面的には古のパリサイ人たちの宗教と大差はないのです。彼らは宗教を人間の業と性質の問題であると見做し、それ以上でもそれ以下でもないとするのです。
それは古のカインの宗教であり、現代もなお存在するものです。それは現代ではいろいろの名称で呼ばれています。例えば、「性格による救い」、「最高理想」、「奉仕」、「キリストのような生活」、「キリスト教的人生」、「人格形成」、「修養」など。
これら全ては人間の業や功績に依拠する偽りの宗教形式であり、キリストの流された血潮と転嫁されたキリストによる義に基づく真の宗教ではないのです。本質的には、神の義を知らず、自分の義を立てようとしたパリサイ派ユダヤ人たちの努力と同じものに過ぎません。
「神の義に従わなかったからである」。この表現は「罪深い愚かさ」「罪科のある不信仰」を示すものです。キリスト・イエスの福音の中にある神によって啓示されている救いの計画を知らず、受け入れず、従うことをしないことを意味しています。現代において、主の福音を拒み、それに代えて自己の「人格形成」といったことを主張する人々は、不幸にも、誤っているばかりでなく、罪深い不信仰に巻き込まれているのです。このことは彼らがそれに非常に熱心で敬虔で信心深く、社会において、たとい多くの善行をしたとしても、それらによって決して中和されるものではないのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
寒暖交々の春先、あと一息で春らしくなることでしょう。失礼を省みずメールいたします。ある人から「つのぶえジャーナル」さん(お名前が分かりませんので)は、帯状疱疹後神経痛と聞きました。実は、私も3年前から同じ病気で苦しんでいまして、低気圧が通過する時の痛みの時、何時も「つのぶえジャーナル」さんを思って親しみを感じていました。この痛みは経験したものしか理解し得ないものがありますね。
今は薬を飲むこともやめて(効かないだけでなく、胃を傷めるので)、自然治癒にまかせていますが、何時も痛い痛いというもので、家内は温泉巡りの計画を立ててくれました。楽しみにしています。・・・。
新潟県 I・Sさん
(私、長村秀勝も8年前に帯状疱疹後神経痛になり、今も続いています。24時間、365日の痛みは精神的にも肉体的にも堪えますね。同じ病の方が多いと聞きます。支え合い頑張りましょう。)
木の芽時期になりますと花粉症と心のバランスを失う時期に陥り、気力も出ず、意欲もなく、ただ包まっている辛く悲しい時を過ごします。そんな嵐と雨の晴れ間が時にありますのでメールします。「つのぶえジャーナル」さんから一日おきくらいに、お元気ですかメールが届きます。心閉ざしているわたしには正直嬉しいです。何回か後に、ありがとうございます、のような返信しかできませんが、それが精一杯なのです。
「つのぶえジャーナル」さん、これからもよろしくお願いします。
宮城県 K・Kさん
昨日、今日ととても暖かいですね。春ですね。今朝、近くの池にカワセミが来ていることを近所の方に教えていただきはじめて見ました。きれいですね。鴨とあおさぎとカワセミが来ています。飛んで来る時間が、決まっているらしく、今日は、早い時間だったみたいです。いつも出勤の主人を見送っている時間です。
主人は、会社に毎日カワセミが魚を食べに来るといっていましたが、私は、初めて見ました。
大阪府 T・Mさん
『ありがとうございます』
4月になりますと、春を告げる蝶々や虫たち、野の草花が咲き始め、飛び交っています。自然の営みは確かです。疲れたときの楽しみにもそれぞれの好みがあります。音楽を聴くのもその一つでしょう。花鳥風月から季語調べをしていますと、草木や季節を読み込んだ言葉などに出会い、新たな感動が広がります。
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
匿名様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
***************
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
匿名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった(創世記4:20~21)。
‘10年3月15日現在 編集・発行人 長村秀勝
今月のことば
キリストは、わたしたちを愛し、その血によって罪から洗い・・・・。
(黙示録1:5)
このみ言葉は、罪の赦し、救いの確かさを教えてくれる大切なものと言えます。私たちは、日常の生活の中で起こる一つのことで、後々まで不快さが残ることがあります。その一つに、相手の不行きとどきを知った時にとる行動です。その場合、私たちはその原因を確かめ、改善の名の元に、少しきつい表現ですが「あばき出す」とか、「善意の忠告」とかで、相手を非難することがあります。そうして、これも付け加える言葉ですが、「別に悪気があって言っているわけではないんだよ」とか、「悪く思わないでね」とか、「あなたを愛しているから、多少厳しく言い過ぎただけ」とかの弁解が私たちの中にあります。
しかし、キリストは異なります。それは、「キリストの洗い」です。先ず確りと手を差し延べて、私たちの頭も心も洗われることです。それは、キリストは、先ず愛して、その上で洗われるのです。キリストの洗いもまた信じ難いことです。その御業には、何時も愛が先行しています。キリストは、わたしたちを愛し、その血によって罪から洗い・・・・、
なのです。
その洗いの確かさは、言葉としての愛ではありませんでした。その愛の御業の場所はキリストが死なれたあの十字架以外にありません。キリストは、先ず私たちを愛して、その血によって罪から洗ってくださる御業があります。キリストは、私たちのように、改善を求めません。常に、十字架のキリストの洗いを信じて「悔い改め」を待っておられることを、感謝を持って覚えたいものです。
十字架の愛
主イエスが歩まれた道は
昔も今も誰も歩いたことがない
主イエスが歩まれた道は
私をまことの道へ導くため
歩まれた十字架の道
昔も今も誰も語ったことがない
主イエスが語られた言葉は
私を罪の中から救うため
語られた十字架の言葉
主イエスが示された愛は
昔も今も誰も示したことがない
主イエスが示された愛は
私の心に愛をみたすため
示された十字架の愛 水野源三「今あるは 神の恵み」
何が重要であるか
・・・。したがって、最後にもう一つここに書いてありますことは、注意しなければならない。それは10節のはじめです。「それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができるようになる」ということです。この「判別する」という言葉は、鉱石の中にどれだけ純粋な鉱石が入っているかを見分けることであります。われわれは、そのように、本物を見つけることが出来るようになると言うことなのです。
普通には、愛はひたむきである、とよく言われます。それは、人を愛する時には、周囲のことなど、何かを考えているかなどと言う、いとまもなく、なりふりかまわず飛び込んでいくと言うことでありましょう。しかし、それと同時に大事なことは、愛は決してひたむきな思い込みだけでないと言うことでもあります。
愛は、一番敏感であって、物を最もよく知ることが出来るということであります。だから真の愛というのは、決してひたすらな思い込みではないと言うことです。また、愛はひたむきだというのは、愛は計算しないということでありましょうか。しかし、真の愛というものは、何が嘘であるか、何が本物であるかということを、見分けることができるはずのものであります。
人にとっては必要なことは、その人が自分でもっているものが、本物か、偽物かであるかを、見分ける力をもっていることであります。だから真の愛は、偽りを行うことはできないのです。真の愛は、悪を行うことは勿論できません。何時でも、偽物かを見分けられるようなそういう力を持つことです。
そのために深い知識と鋭い感覚をもって、偽物を見分けて、本物だけを捕らえて行くことができるようになるものであります。それがここで言われております「愛が増し加えられる」と言うことなのであります。
このように言うと冷たいように思われるかもしれませんが、愛していると言いながら、何時もいろいろなことを考えているように見えるのがわたしたちのこころです。そんな愛は本物であろうかと思うのです。そうではなくて、愛は一切の打算を超えたものでなければならないでしょう。・・・。(1章10節)
竹森満佐一著「ピリピ書講解説教」(日本基督教団出版局)
上河原立雄撰 この文章の転載は許可を得ております。
眸
結婚して11年目にして、初めて一人家族が増えました。私たちも新米の親、まだまだ物珍しい感じがしてなりません。共に仕事をしていましたから、朝食はばらばら、昼食は職場で、夕食は待ち合わせてか、出来たものを食卓に並べるのが当り前でしたが、今は一変しました。離れていた母が一緒になり、保育園の送り迎えは母の役割。母も生き甲斐に感じてか、病弱な体が元気になり、最近、若返ったみたい!と言ってます。母はもう一人くらいなら、大丈夫だよ。一人っ子は大きくなっても心細いものよ、と言っています。実は母が一人っ子なのです。
まだまだ団欒とまでは行きませんが、イスとテーブルの部屋から、畳になりました。不思議なものですね。見るもの聞くものが変りました。仕事に対してもまだよく整理はつきませんが、感じ方が変りました。一番変ったのは、主人の禁酒・禁煙の不実行が実行に変ったことです。
山口県 M・Mさん
仕事に追われ、疲れを感じている最近、忘れていた言葉があった。「生き甲斐」である。やりたい仕事であったのに、何のために働いているのか分からなくなっていた。何々のためという目的が何時しか、生活のため、ローンの支払いのために変っている。電車の中に同年代の顔を見る。寂しさと疲れを見て、それが自分であると気付く。「生き甲斐」と言う言葉が眩しく輝いていたのが、今はそれを失っている。このままではいけない。「生き甲斐探し」をしなければこのまま流されてしまう。そうだ、「生きる生き甲斐探し」を始めよう。そのために、無駄な時間と思える時を先ず作ろう。
ふと夜空を見上げて見た。周りの明りで星は見えなかった。
東京都 I・Kさん
薔薇の根
はじめて咲いた薔薇は、
紅(あかい)大きな薔薇だ。
土のなかでは根がおもう。
「うれしいな、うれしいな。」
紅い大きな薔薇だ。
土のなかで根がおもう。
「また咲いた、また咲いた。」
三年めにや 七つ、
紅い大きな薔薇だ。
土のなかで根がおもう。
「はじめの花は なぜ咲かぬ。」 (金子みすゞ童謡全集)
自閉症者のひとりごと
(35)
大人の発達障害というのは、自分探しの一つと捉える医師もいます。発達障害だとは気が付かれないで、過剰反応のところへ、鬱だということで薬を処方されて、それでもしっくりこないので、また薬を処方される。西洋薬はキレがいいので、余計おかしくなる。大人になってからの自分探しは大変です。わたしは生活の上で困ったことが多過ぎて、今の児童精神科へ罹ったのだけど、診断が付いて楽になったところがあります。
1月29日
アスペの大人たちは診断が受けられないので、困っています。適切なアドバイスを得られないのです。どこのクリニックへ行っても爪弾、結局、病院の梯子・・・。世界の偉人といわれる人には、アスペの人がいますが、ほとんどの人は凡人なのです。わたしも身を持て余しているのです。今日の喜びが欲しい。
2月2日
今まで何度も自分の生まれてきたことを恨めしく思ったことか。どうしてこんな病気になったのか。伝えたくても伝わらない。思いはあっても言葉にならない。焦れば焦るほどパニックに陥ることが、月に何度も起こる。孤独感、虚しさ、言いようのない不安感、怒り、恨み、そして絶望感。人はお祈りしなさい、信仰を確り持っていれば・・・という。背の低い人がお祈りして大きくなるだろうか。手や足の失った人がお祈りして元に治るだろうか。受け入れるなんて簡単に言われたくない。諦めの毎日。今日も、明日も、これからも生きている限り。ああもう嫌だ。
2月5日
Dr.に薬の整理をしてもらいました。本来なら入院3ヶ月で必要な薬なのかを見極めた方が安全らしいのですが、それは家庭の事情で無理なので、通院でできる範囲で行います。
ただ曲者なのが、どこまで高揚と低迷を耐えられるかを見極めるかがです。どんな状態でも最低限のことができることをわたしの条件にしています。
とりあえず1種類だけ減らして様子をみてみます。
ただ曲者なのが、どこまで高揚と低迷を耐えられるかを見極めるかがです。どんな状態でも最低限のことができることをわたしの条件にしています。
とりあえず1種類だけ減らして様子をみてみます。
諦めの中にあっても光が欲しい。
加納さおり
(75)
猫 草
卒業式の季節である。長男の公立小学校には、いわゆる謝恩会はない。例え企画しても先生方がなかなか参加できないからである。卒業式が終われば次は入学式準備が即始まる。とにかく忙しい。感傷に浸る暇はない。というわけである。
先生が来ないのに謝恩会は成立しない。というわけで、今年は卒業式の翌日に大きなホールを借りて、子供たちの「お別れ会」を保護者が企画した。
なんでそんなことをわざわざ?さんざん学校で一緒に過ごしているでしょう?と思われるだろうか。昔なら「サイン帳書いて~」だったろうが、今はケイタイのメルアド交換やデジカメで写真をとりあったり、ゲームのアイテム交換をしたり・・要するに学校持ち込み禁止のアイテムがいまどきのコミュニケーションツールなのである。
さらに昔と違うのは「クラス名簿」を作成しないことだ。配布されるのは緊急連絡網の電話のみ。自分の子供のころはクラス全員に名前、住所、電話番号に、両親の名前と親の職業まで書いたものが配布されていた記憶があるが、「個人情報保護」の観点からそんなものはもってのほか。が、そうなると同窓会やクラス会の葉書ひとつ出せないのが実情である。地元の中学にみんなが進学するなら「中学でまた一緒だからいいじゃない」だが、私立受験率が7割という長男の学校では、卒業したらそれっきりになる子がほとんど・・というわけで「お別れ会」の企画なのである。そこで携帯番号やアドレスを交換するもよし、写真をとりあって「後で送るから住所教えて」と切り出すもよし。
何事もドライで個人主義になっているのだろうか。そして相手の都合を考えない行動は「空気読めない~」と嫌われるからだろうか。誰かが「場所」をセッティングしないと動けないのがいまの子どもたちである。思えば幼稚園のころからこの子たちは遊ぶ時にも事前に電話でアポとりをしてからだった。いきなり「あーそーぼ!」と押しかけたら親子ともども「マナー違反」と眉をひそめられるのである。アポなしで遊べるような暇な子はおらず、習い事など様々な予定がぎっちり詰まっているのである。
最近の子はお膳立てをしないと何もできない、とは言うものの、子供の生活をそんな風にしてしまったのは誰なのか。本来自由でおおらかであるはずの子供たちのコミュニケーションに窮屈な影を落としているのは紛れもない事実である。
その愛のゆえに
=時々の記=
(48)
1月16日
一日に、二回もパソコンに向かうのは、やはり、今まで何も自分の考えを伝えられなかったストレスのせいでしょうか。そうではありません。お返事してくださっていると、思ってです。私の思いに間違いはありませんでした。ちゃんと、メールが入っていました。
嬉しい限りです。今朝、金城学院の友だちから、四十年ぶりの電話が入りました。聞いてみると、伊賀市へ来ている(結婚して)とのこと。逢いたいとおっしゃるので、18日に、お会いすることにしました。お互いに年を重ねて苦労しているので、びっくりすることでしょうね。とにかく、わたしは、その方の車の種類とナンバーをお聞きしました。
主人は、笑って上野の小さい町で年寄り二人が待ち合わせていたら、直ぐにわかると言ってくれましたが、大丈夫かなと昔のアルバムを持ち出して、確認をしておきます。
1月18日
今朝は、昨日より幾分寒さがやわらいでいます。それでもマイナス3度です。家の中のガス湯沸かし器が止まったままです。お昼ごろには、温かくなるので、水も出てくることでしょう。このような寒さの中、今年一番の春を見つけました。庭のこぶしがしっかり大きな花をさかせようと、蕾を膨らませかけています。三年前、主人が退院して来た時きも、お帰りなさいとでもいうように、庭のこぶしが満開に咲きほこって、歓迎してくれたのを思い出しています。
明日、いよいよ検査結果の日です。今日一日、イライラしながら過ごすのも、しんどいので、主人は、いつものように、山添の俳句の例会に出かけます。わたしは、旧友と出会うことにしました。このように言っても、やはり二人とも心のどこかに検査の結果のことを気にしながらの外出です。
明日のことは、思い煩うなと聖書にあるように、神様に祈りつつ、平安に過ごしたいものです。
昨日、日曜礼拝に、久しぶりにKさんご一家がきてくださり、とても、嬉しかったです。Yちゃんはすっかり赤ちゃんから抜け出て、とても愛嬌よくにこにこしてくれました。
Mさんも、母親業の喜びをかみしめているように感じました。まだ氷点下の寒さになりましたが、家の庭には、梅が蕾をふくらませ、すでに花を咲かせているのが見つかり、主人と思わず、春は、すぐそこまで来ているねと和やかに、顔を見合わせました。
すべてのこと、相働いて益としてくださる神さまに、お委ね仕切れる信仰を持ちたいものです。
篤農の手なる沢庵直売す
大学の構内歩き冬温し 馬場路哉
1月25日
今朝も、寒さが厳しい中、犬たちに引っ張られての散歩でした。大寒ですもの仕方ないのですが、何時もこの時期、春よこい、早くこいと口ぐせになっています。主人にいわせれば、草たちは黒い地面から、針のような勢いで、天に向かってぐいぐい伸びてきている。自然の生命力のすごさに目を見張る毎日だと。
これと同じように、人間も弱ってしまうとき、また、元気を取り戻して、勢いよく動けるようになるときが必ずあるはずだと。私も、そう信じて生き続けたいものです。
1月28日
本来なら、雪が降り積もるころですのに、今日は大雨でした。春を呼び寄せてくれそうな、降り方でした。そんな雨でもなんのその、犬たちは決まった時間に散歩を要求してきます。ちょっと待ってといっても、聞いてくれません。一日、唯一楽しみにしている時間ですから。
散歩から帰ると、どの犬たちも、とても爽快な顔つきになります。動物は、このようにして、私たち人間に、運動することの大切さを教えてくれます。本能的に運動、日光浴の大切さを察知していますから。久しぶりの雨で、また庭の梅が蕾を大きくさせてくれました。あと、一週間もすれば、暦の上で、春をむかえるのですものね。冬きたりなば、春遠からじ。これが今の私の心境です。
2月2日
やはり昨日の大雪で、今朝硬く凍っていました。どうしても三重大病院へ、行かねばなりませんので、主人と二人でスコップと竹箒で急な坂道をおおよそ30メートルを雪かきしました。寒いはずですのに、汗がでるほど温かくなりましたが、とっても、力のいる作業でした。
何とか家から脱出できました。検査結果を待つ間の長く感じられたこと。神様に、大きな試練に合わせられ、この私は、神経がどうにかなってしまいます。助けてくださいとじっと、祈ってまつこと二時間余り、やっと診察室へ呼んでもらって、異常なしと言っていただけました。ほっといたしました。
初めて、主治医の先生から、順調に回復してきていますよ、と言ってもらいました。
感謝して、帰路につきました。帰りの景色は、行きと違って、とても美しく雪化粧された山を眺めて、思わず、微笑みながら、和やかな車の中となりました。
福音を読み上げて寝る寒夜かな
母と子の縄飛びしをり冬日向
山仕事始むる日なり雪の舞う 馬場路哉
2月8日
先週の厳しい寒さから、漸く抜け出ようとしていますが、高齢の方には、あの寒さが応えたのでしょう。三軒隣のおばあさんが、金曜日に亡くなられ、土曜日には、馬場家の親戚に当たるおばあさんが亡くなり、私たちは二軒に関わっていますので。大忙し。昨日、月曜日まで、連日4日間、葬儀の手伝いに追われました。手伝いといっても、私たち女性は、専ら、食事の準備です。
主人たちは、山へ出かけて墓つくり、受付、帳簿の整理に終われたようです。このような盛大な葬儀を前にして、私のときは、このような無駄なことはしないで欲しいと願ったのでした。家族だけで、静かに、見送ってくれたらそれでよい。多くの方に貴重な時間を費やしてもらいたくない。そんな気持ちに強くさせられた4日間でした。
神の愛覆えるごとし冬の雲
ストーブに寄りたる犬の落ち着きぬ
凍星の冴え渡りたる夜明け前 馬場路哉
今日が何曜日なのか、わからなくなるほど、めまぐるしく過ぎていきます。
アンナの祈り、また、神様の御声に謙虚に耳を傾ける姿に、深く心打たれ、そう、ありたい!と、祈っています。
竹沢さんの特別寄稿も、我が家にあっても、まず家族に福音を伝えていかねばと、反省することしきりでした。体調は、少しづつ回復してきています。
2月13日
パソコンがやはり、元のように、うまく、作動してくれません。今も、ちょっとしたことで、2月9日のメールの返事をしていたら、消えてしまいました。
我が家と一緒で、パソコンも、調子を崩しているようです。久しぶりに今朝は、陽がさしています。冷たい中にも、春の日射しです。庭の古い梅が待ちきれずにちらほら咲きはじめました。そのほのかな香りが、私たちを癒してくれます。
庭土に覚ゆ弾力凍て緩む
翼下なる山の先頭雪被る
冬灯強き空港着陸す 馬場路哉
いよいよ、バンクーバーオリンピックの開催ですね。
選手団は、皆それぞれプレッシャーを抱きながら、チャレンジされることでしょう。
テレビで、観戦しながら、健闘を祈りたいものです。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
キリスト者の生活綱要 (7)
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第1章 謙虚な服従、真実にキリストにならう
5 霊的進歩が必要である
1 われわれが、福音の絶対的な完全さに向かって、努力すべきであると、どんなに言ったとしても、兄弟であるキリスト者にそれを要求すべきではない。キリスト者として認める条件として、福音的な完全さを要求することは正当ではない。
もし絶対的完全さという基準をおくなら、教会はなくなってしまうであろう。というのは、われわれのうちの最善のものですら、理想よりはるかにかけ離れているからである。そして、ほんの少しの進歩しかない多くの人を、拒絶しなければならなくなるからである。
2 完全さは、われわれが目標とする最終の標的であり、われわれの努力すべきゴールである。義務の一部だけを果たして、他は自分勝手に省いてしまうような妥協を、神に対してすることは正しくない。
主は、何にもまさって奉仕における誠実と、狡さと虚偽のない率直な心を求められる。ふた心は霊的生活と相容れない。というのは、霊的な生活は、聖潔と義とを求める神への真実な献身を意味するからである。
この身体の地上的牢獄を持ったままでは、正しく目を覚ましつつ前進するのに、十分な力を自ら持っている人は、一人もいない。(キリスト者の)大多数は、極度の弱さのもとに喘いでいるので、ためらったり、休んだり、地上を這いまわったりして、ほんのわずかの進歩しかしないのである。
3 しかし各人は、それぞれに与えられた能力に応じて歩み、その始めた旅を続けるようにしよう。ど ん な に小さいとしても、何らかの進歩をみないというような不幸な人間はいないのである。主の道を間断なく前進するために、最善を尽くすことを止めてはならない。また、成し遂げたことが小さいといって、失望しないようにしよう。今日が昨日に勝るなら、目的が達成されなくても、われわれの働きは失われないのである。
4 霊的進歩のための1つの条件は、真実と謙遜を失わないことである。目標を望み、ゴールに向かって前進しよう。誇りに耽けったり、罪の情火に身を委ねたりしないようにしよう。
3 しかし各人は、それぞれに与えられた能力に応じて歩み、その始めた旅を続けるようにしよう。ど ん な に小さいとしても、何らかの進歩をみないというような不幸な人間はいないのである。主の道を間断なく前進するために、最善を尽くすことを止めてはならない。また、成し遂げたことが小さいといって、失望しないようにしよう。今日が昨日に勝るなら、目的が達成されなくても、われわれの働きは失われないのである。
4 霊的進歩のための1つの条件は、真実と謙遜を失わないことである。目標を望み、ゴールに向かって前進しよう。誇りに耽けったり、罪の情火に身を委ねたりしないようにしよう。
生きる限り、求め続ける善の完成に、われわれが最後に到達するまで、より高い潔さに近づくように常に努力しよう。しかしわれわれが、あらゆる地上の弱さから解放されて、神との完全な交わりが許される時、初めてそれに到達するのである。
「地域の人々と共に生きて」 その10
…二人静…
土をいじっていると、今までの辛いことも、すべて忘れることができ、とても楽しい時となりました。何でも、し始めると夢中になるタイプですので、夕方になっても家に帰るのを忘れて、家の者を心配させたことも度々でした。
一番初め手がけたのは、かぼちゃです。これは、初めてのひとでも出来ると本に書かれてあったからです。次に、なすです。これは、ちょっと難しかったですが、自分で作った野菜が食卓に出ると満足感で満たされました。次第にきゅうりもうまく作れるようになり、そのきゅうりで奈良漬けを作るのがとても楽しみになり、奈良漬けをたくさんつくっては、旧友に送って喜ばれるのが嬉しく、楽しみになりました。
料理は、生まれつき苦手でしたので、お嫁さんに任せていました。すべて、三度の食事は、お嫁さんにまかせて、楽しく余生を送っておりましたが、また、自分の頭が、変に物忘れがひどくなったり、目の前にある服を自分の力で着ることが出来なくなってきました。
暁美さんに助けてもらわなければ、外出の準備すら不可能になってきました。
若い時に勤めていた岡波病院で診てもらっても、たいしたことがないと言っていただきましたが、自分の病は、どんどん進んでいくように思われ不安でした。
思い切って、榊原病院を訪ね、診てもらったところ、やはり、認知症の始まりだと言われ、しばらく入院することになりました。85歳の時でした。病院の生活は、想像していた以上に苦しいものでした。自分が医師として、働いていた時、患者さんのことをあまり考えていなかったことが悔やまれました。
昔のことは、しっかり覚えているので、看護師さんや医師の医療に対する曖昧な態度に、憤慨することもありました。ですから、看護師さんや医師には余り好かれませんでした。その後、あちこち入院先が変りましたが、今は、鈴鹿におりますが、少し落ち着いております。
森三菜子
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円