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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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19e9c86c.jpg『旧・新約婦人物語』(7)
 
「美点も欠点も持ったリベカ」
        (創世記24章)
 
創世記24章をご覧いただきますと、そこに旧約聖書の中での偉大な主婦リベカが登場してまいります。このリベカは、私たちによく似た美点と欠点、そして悩みを持っていますので、彼女の生涯は私たちに大きな教訓を与えます。
信仰の父アブラハムは、年頃になった息子イサクのために、嫁を迎えてやろうといたします。そこでアブラハムは、彼の忠実な老僕を、自分の故国メソポタミヤの親戚に遣わし、その地よりイサクに相応しい女性を選び出させました。これは東洋の古い習わしで、嫁を迎えるのに親の仲人を介して選択する日本の習慣にも、どこか似ています。現代の日本の若い人たちは、これを封建的な風習だと批評いたしますが、やはり両親が納得し、満足する者同志が結ばれるのが、子供として選ぶべき道であり、聖書的であると思います。
 
アブラハムがイサクの嫁を選ぶに当り、相手を自分が今住んでいるカナンの異教徒の内より求めようとせず、遠く離れた自分の故郷に求めたことは、信仰を同じくする女性を求め、家庭の純潔を図ろうとするためでした。これはクリスチャン婦人として、大いに学ぶべきことです。
クリスチャンとして、結婚についての重要なことは、何よりも、信仰問題が第一でなくてはなりません。クリスチャンは、クリスチャンと結婚すべきです。ただ今の日本の現状では、クリスチャンの数が少なく、良き配偶者を得るのには困難な事情はありますが、このことが余りにルーズなため、日本の教会が発展しない、一つの原因がここにあることを覚えていただきたく思います。
 
イサクの妻としてのリベカの美点の第一は、何といっても美しい妻であったことです(24:16)。それは彼女のうわべが美しいばかりでなく、心が非常に美しく親切であったことです。彼女は水を汲もうとして井戸にやってまいりました。彼女は見も知らぬ旅人に、求められるままに水を与え、しかもその人のひきいるラクダにまで、水をたっぷり与えたことにもそれがよく現われております。
 
第二は、彼女は直ちに実行に移ったことです。アブラハムの老僕からイサクとの結婚を求められた時、彼女はこれが神様の与えたもう道であると信じ、何の躊躇することなく、これを承諾して出発いたしました。見も知らぬ所へ、身も知らぬ人を夫として、嫁ぐことは勇気と決断がいることです。神様を信じてのみできることです。日本の若い姉妹方、貴女はこの勇気をお持ちでしょうか。
 
しかし、リベカにはそのような美点はありましたが、また多くの欠点も持っておりました。聖書はそれを隠すところなく伝えております。
 
リベカの欠点の第一は、彼女の育児方法が誤っていたことです。イサクとリベカは結婚して間もなく二人の男の子を与えられました。兄をエソウと言い、弟をヤコブと申しました。これは双子です。聖書に「イサクは、しかの肉が好きだったのでエソウを愛したが、リベカはヤコブを愛した」(25:28)とあります通り、リベカは兄よりも弟をより多く愛し、偏愛に陥りました。このことが後日、彼女と家族を苦しめる原因となりました。母として慎むべきは偏愛で、これは兄弟の不和をもたらします。
 
第二は、忍耐して神様のみ旨のなることを待つ、従順さが欠けていたことです。彼女は二人の子供がまだ胎内にあるとき「兄は弟に仕えるであろう」(25:23)との告知を受けていました。それにもかかわらず、そのことが神様によってその通りになることを待つ忍耐もなく、自分でいろいろと工夫や手段をめぐらして、父が兄に与えようとする祝福を弟ヤコブが奪ったのです。この悪の報いは、親子兄弟に不和をもたらし、長く彼女を苦しめました。
 
第三は、主人イサクを欺いたことです。彼女はヤコブにずるがしこい手段を教え、彼を助けて年老いて目の見えないイサクを騙しました。兄に与えようとする祝福を弟は奪いました。これは彼女の一番大きな罪悪です。この行いは当然兄エソウの大きな怒りを買い、創世記27章にありますように、エソウに、「弟ヤコブを殺そう」と決心させてしまいました。そこでリベカは愛するヤコブを自分の実家に逃がしてやりました。
彼らは永遠に逢い見る日のない悲劇の主人公となりました。もちろん兄エソウとの間も面白く行くはずがなく、主人であるイサクとの間にさえも心の溝ができました。その上、姑として一層深刻に苦しまねばなりませんでした。
 
この話は、私たちにいろいろ大切な教訓を与えます。
第一に、神様は私たちお互いには欠点に満ちた者ですが、主の慈しみによって聖別され、主の御用に役立て給うことです。これは実に感謝です。神様はこのような欠点を持つリベカの子孫からイエス様をこの世におつかわしになり人類の救いを完成し給いました。
第二に、家庭において、夫婦兄弟に間に互いに信じ合うことができませんと、平和は望めないと言うことです。お互いの信用がなくなり、不真面目なことが起こりますのは、リベカのような失敗が原因となることが多いものです。
第三に、家庭において子女の育て方がどんなに大切であるかと言うことです。子供たちを分け隔てなく、平等に愛し、良き道に導くことは、主婦の最大の責任です。
「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない」(箴言22:6)。 
 
 ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
 
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…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(32)eab54f17.jpg
 
 キリシタンの貧しい人々への救済(5)
 キリシタンの慈善の動機(1)
 
 事を始めるには、いろいろの理由、目的があります。その出来事を後の研究者は考えます。しかし、至極単純な理由の中に目的があることのも一理ありとも言えるものがあります。
 
 キリスト教の教えからすれば、キリシタンの慈善は当然といえるものが、もっと直接的な動機であるときもあるようです。それは、キリシタンになるのはお寺にお布施をしなくても済むからだといった悪口に対して、キリシタンの心意気を示すという単純な動機からでもあった、と言うのです。
 そこで、もっとも普通に行われたのに、近親者の追善供養がありました。追善供養は古くから仏教的風習として行われてきたのですが、これは、お寺や仏僧へのお布施であったのに対して、キリシタンは貧しい人々への施与としたのです。追善供養だけでなく、この施与はキリスト教暦の重要な祝日や四旬節などにもされるようになり、キリシタン独特の慣習となっている(海老沢有道著「キリシタンの社会活動及び南蛮医学」)。
 キリシタンの慈善は方便で、貧しい人々に施してキリシタンにし、最終的には民衆を引き付けて国を奪おうとするのだといった反キリシタン宣伝も当時からありました。利を求めない無償の行為を理解できない人間は、これまた何時の時代でもいるものです。
 それには、反証を挙げることができます。イエズス会の伝道方針は主として上から下であったことを考え合わせると、病人や貧しい人々を教会に集めることは施与の妨げともなったのです。その伝道方針は現代の考え方から見て適切であったか否かは別として、当時、ヨーロッパにおいても、「支配者の宗教、その地に行われる」(1555年、アウグスブルグの和議)のが原則であったことを、プロテスタント教会も記憶していなければならないと思います。
また、後に述べる府内病院においては、患者の治療中に受洗させず、健康回復後、引き続き教理の勉強を終えて後、はじめて洗礼を授けキリシタンとしていることから見て、患者や貧しい人々に対する深い配慮を学ぶ時、救済を受ける方便としてキリシタンになることを極力避けていることが分かります。
ザビエルによってキリスト教布教の根拠地となった山口では、1553年(天文22)信徒たちが自発的に天主堂の門前に喜捨箱を置いて献金を集め、施与をし、また毎月1回貧しい人々に配米するために、米を入れる櫃を設けたと言われています。翌年、山口は悲惨な飢饉の年となり、配米は多くの農民や貧しい人々の命綱となったと記されています。この年、一人のキリシタンが救貧事業のために土地を寄付し、救貧院ともいうべきものの建設のために募金がなされています。山口救貧院の詳細は知られていませんが、信徒の自発的に慈善事業を組織したことは注目されるところです。そうして、山口の大内氏は毛利氏に滅ぼされキリシタンの中心地は以後豊後へ移っていきます。歴史の流れと表裏をなしています。
  あなたに聖書をs-2010021112230000.jpg
 
 聖書の中の「山上の説教」の中で語られている言葉の一つを前月号でお知らせしましたが、イエス・キリストは「心の清い人たちは幸いである」とも言われています。「清い心でありたい」ということは、みんながそうありたいと願っていることではないかと思います。特に自分の子供や、若い人たちについては「いつまでも清い心を持ち続けていて欲しい」という願いがあるのではないでしょうか。
 
 しかし、はっきり言って、そういう願いは叶えられそうにありません。というわけは大人の大部分は「心の清らかな人」ではないからです。人里はなれたところに住んでいる人や、世間から隔離されてまるで純粋培養されているような人はともかく、わたしたちは、泥にまみれた世界に生きており、自分だけは全くそれに汚染されていないとは言えません。「清い」という字は、「水が澄き透っている有様」を言うそうです。「混じりけがなく純粋な」ということでしょう。そういう心の状態を考えて、それを目安に「清くなろう」、または「清くならなくてはならない」と考えたり願ったりしても、それは出来ないことです。
 
 キリストが言われた「心の清い人」というのは、自分にとって一番大切なことに心を向けて一途な人、ひたむきな人のことを言うのであります。そうすれば、それに応じた結果を得られます。ただ、この場合、自分にとって何が一番大切なことであるかが問題であります。キリストは、それを明らかにする人として、人間を超えた神の側からこの世に来られた方であります。
 
 従って、キリストによって示されることを信じて、これに生きることを一番大切にする人は、その結果「神を見るに至るであろう」、そして、そのことが、キリストが語られた「幸いな人」であります。あなたにとって、「どういう人が幸いな人」であるか。考えていただくきっかけになれば幸いです。
 
 
(参照聖句・マタイによる福音書5章8節)
 
篠田 潔
 
 
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 
 「ローマ人への手紙」研究 (64)eb0be884.jpg
 第42課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
C 福音による救いと言う方法の単純さと適切さ
       10章1~10節
 
 ユダヤ人たちは彼ら自身の伝統と義の達成については極めて熱心であったけれども、同時に当然とても傲慢で、他に対して批判的でありました。彼らの熱心は、神への熱心に関する限り、無関心よりはましでした。このことはパウロが彼らの熱心を、条件付きで褒めている理由を明らかにしています。
 「なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(10:3)。その真摯な熱心にもかかわらず、ユダヤ人たちは最も重要な問題、すなわち、どうすれば罪人たちは神の前に義とされるかということについて、完全に誤っていたのです。この最大の問題に対して、彼らは、罪人は律法を守る行いによって、神の前に義を獲得することができるという誤った解答を与えていたのです。
 この誤りは単なる無邪気な誤りでは決してありません。これは彼らの側の深い道徳的な罪科を含む誤りなのです。彼らの義認についての考え方は、神と律法の要求と彼ら自身の道徳的・霊的状態についての誤った理解を含んでいるからです。神の御性質と律法の要求について、彼らは余りにも低い見解を持ち、彼ら自身の能力については極めて高い理解を持っているのです。
 このような事柄について誤っていることは、単に罪の結果であるばかりでなく、それ自体が重大な罪なのです。このような重大問題について誤っている人々は霊的には盲人であり、他の多くの小さな事柄でいかほど正しくあろうとも、それは彼らの優越性とは成り得ないのです。
 
 ここで「自分の業」と「神の業」とが対比されています。前者は明らかに、彼らが自分の行いによって立てようと試みる義を指しています。ここの「自分の義」という表現の正確な意味を把握することは少しく困難があります。それは、「自分の義」と対比されているから、この意味では「神がその源である義」、「神から受け取る義」でありましょう。
 
 J.G.ヴォス著
 玉木  鎮訳
 (日本キリスト改革派引退教師)
 
 
70d2796e.jpg「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
 
 定年退職して2年になりました。何かしなければと焦った時期もありましたが、今は毎朝犬の散歩に出掛け、家内の負担を軽くするためと、足腰の衰えを防ぐために日課にしています。御近所の方との挨拶など、勤めていた時には全くありませんでしたが、このほと言の挨拶で心にゆとりが持てるようになりました。それと、ゆっくり新聞に目を通すことが楽しみです。経済新聞の大見出しばかりでも、仕事の会話は成り立ちましたが、考えてみると大切な人と人との繋がりや、日常の些細な出来事には無関係でした。社会の一員ではなかった気が最近しています。盆栽の手入れから季節を感じたりするうちに、生きることって何だろうと、ふと考える時が生まれました。
結婚して30年、家内がお茶を入れてくれた。
                        千葉県  K・Tさん
 
皆さんのところは如何ですか。急に春の陽気です!と言われたと思ったら、今度はまた真冬日です!と言われ、季節の肌感覚がよくわからなくなっていますが、今日の神戸は寒いですね。学校も始まり、後期試験に突入しています。例年のことですが、生徒には辛い時でもあります。実技試験でなかなか上手く指が動かない学生の側について指導して、その日を共にドキドキしながら迎えています。笑顔で終われる学生や涙で終わる学生、緊張のあまりパニックの症状が出る学生など色々で対応も色々です。
 それが終わるといよいよ新しい春、そして卒業の時がくるんだなぁと思います。それぞれの夢に向かって進んでいく姿は晴れやかですね。
                       兵庫県  K・Mさん
 
 
「つのぶえジャーナル・自閉症者のひとりごと」の加納さんお変わりありませんか。このコーナーがあるので、毎月、楽しみにしています。何か分かり合える気がするからです。私は先週から落ち込みっぱなしで、今年はまだ一日しか畑を耕していません。ジャガイモを植える苗床もまだまだです。やっと買った麦の苗を植木鉢に移しました。畑の麦はまだまだ小さいです。
先週からまた体が痛み、手足の先はしびれて痛いです。冷たいです。体に意地悪するのにもってこいのこの冷たい気候、使い捨てのカイロで温めながら仕事をする時もあります。腰も痛いし痛いとこだらけ・・・。もうイヤ! でも、今日は精神科の受信日、何とか行かなくちゃ!
                       大阪府  W・Tさん
 s-2010021112270000.jpg『ありがとうございます』
 
何時ものお花屋さんでリリアンとシマトネリコの鉢植えを買い求めて仕事場に来ました。鉢に刺してある葉なの紹介には、「春を よぶ はな リリアン」「艶やかな小葉が可愛い! シマトネリコ」と書いてありました。
 昨年秋に買い求めたガジュマルは背丈が倍の30センチに、つる性植物のパンドレアは上と左右にぐんぐんといきよいよく伸びて何処まで成長するのか楽しみです。その内に手におえなくなる予感がしています。3月号も皆様にご覧いただけることに感謝しています。
       
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
 麦島啓子様 匿名様
 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
 
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『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
麦島啓子様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
 
アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった(創世記4:20~21)。
‘10年2月15日現在 編集・発行人 長村秀勝
   今月のことば
 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマ5:8)
 
 キリスト者なら、誰もが驚くことの一つに、私たちがまだ神様を知らなかった時、神様は既に私たちを知っておられた。私たちがまだ神様を呼び求めなかった時、神様は既に私たちの名を呼んでくださったという事実です。しかも、私たちがまだ罪人であったときに、と言われます。
 私たちが自分の罪に驚く以前に、自分の汚れと不完全さを認める以前に、神様が禁じられる全てのものをまだ好ましいと思っていた時に、罪を憎む以前に、反省する以前に、悔い改めて神様のみもとに立ち返ろうとする以前に、まさに「まだ罪人であった時に」に、キリストは、私たちのためにその命を捨ててくださったのです。
 神様の愛と主権的な選びは、これほどまでに完全であり、絶対的でありました。私たちは自分の生涯を振り返る時、後悔が伴います。しかし、そこには何の希望も喜びも存在いたしません。有るのは諦めです。しかし、神様の愛とご計画をもって、神様の方から救いのみ手をさし伸ばし、キリスト者をして招いてくださいました。
 私たちのために十字架に赴き、パンとぶどう酒を差し出し、私たちの罪のためにそのパンを割きぶどう酒を注がれたのは、神様の愛でした。この驚きは感謝の驚きです。暗く悲しい現実に押し潰されそうになる時、神様に知られている幸いを今一度かみ締めたいと思います。
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 キリストの愛に触れてみよ
 
幾度も聞いても読んでも
キリストの愛の尊さは
触れなければ分からないから
キリストの愛に触れてみよ
キリストの愛に触れてみよ
 
幾度も思い考えても
キリストの愛の確かさは
触れなければ分からないから
キリストの愛に触れてみよ
キリストの愛に触れてみよ
 
涙を流して感動しても
キリストの愛の嬉しさは
触れなければ分からないから
キリストの愛に触れてみよ
キリストの愛に触れてみよ    水野源三第四詩集「み国をめざして」
   小閑記
       
  「生ける望み」­=神の羊の群=s-IMG_0025.jpg
 
 なぜ信徒たちは羊と呼ばれているのか。これは、イスラエル人たちの日常生活から取り上げられた譬えでございます。その場合の羊という表現は、弱い動物、しかも他に対して依存する性格の大変弱い動物、それが羊でございます。
 この羊はどうしても羊飼いの世話になることが必要でございます。羊はそういう意味では依存的な存在です。つまり、人間としてのクリスチャンの姿! それはまさに羊であるというのでございます。この羊は、羊飼いキリストに、何よりも依存するのでございます。キリストがあってクリスチャンが存在するわけでございますが、同時に、羊同士が互いに依存し合う関係と言うことであります。
 羊には、年上の、親の羊もいれば、年の若い子供の羊もおります。その羊がお互いに依存し合って、それぞれの役割を果たして共に生きて行く羊は群を成して生きる動物でございます。
その際、羊は先なる羊と、後なる羊がある。年齢的により先に生まれた羊と、より後に生まれた羊があっても、お互いに依存し合って一つの群を作って生活している。しかも、先に生まれた先輩の羊は、後に生まれた後輩の若い羊に対して、口先で何かを教え、教育するのではなく、身をもって模範を示すというのです。
 また若い羊は、先輩の羊の生き方というものを見て真似をして、それに従うというのです。そこに見られるのが、この聖書に示されている「模範となる」ということと、「従いなさい」ということなのです。
 (Ⅰペテロ5:1~5)
 芦名直道著(「ペテロの第一講解説教」キリスト新聞社)
 
                上河原立雄撰 
 
これらの文章の転載は許可を得ております。
(ひとみ)
s-IMG_0023.jpg私の両親は人一倍健康に注意した生活をしてきましたので、大きな病気もせず、父は定年退職を迎え、母は4人の子供を育てながら、好きな朗読会に参加していました。私たち子供たちもそんな両親を、頼もしく、ある種の誇りをもって手本にしていましたが、一昨年、母の入院、昨年は父の入院となり、その後は両親とも病気との闘いになりました。
私たちは、それぞれ親元を離れた生活をしながら、将来の両親のことを心の片隅に置きながら考えてきましたが、現実になると、思いとは裏腹になることが多くなりました。4人の兄妹が分担して連絡を取りながら両親の家を訪ねることにしています。
病との闘いは、日々の生活の戦いでも有ります。三度の食事、掃除、洗濯など几帳面な母には十分に出来ない悔しさを、つい口にしますがそんな姿を私たちは何か安堵感を感じます。手伝わせたことの無い母でしたが、笑顔で受け入れてくれます。しかし、無趣味な父は段々気力が衰えて来ましたが、最近、変んな言い方ですが、病に関する本を読み出しています。
ある時、父は「お母さんも戦っているんだから、戦友だよ」と言って母の姿に元気を貰っているようでした。支え合うとは、お互いの病の身を思いやり精一杯生きることなんだと改めて両親から教えられ、私たち夫婦もそうありたいね、と主人と話し合っています。
庭の小枝に雀が体をまるくして寒さに立ち向かっている姿に勇気と希望を貰っています。
                千葉県  I・Iさん
 
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(34
12月23日
今度は何が何でも成功するまで病院にいるつもりです。同室の認知症のお年寄りが静かにしているからか、ゆっくり休んでいます。持ってきた本も読んでしまったこともあり、昼寝をしていました。夜眠れるかな。だけど療養にはもってこいです。
 休み明けには治療が再開されます。さあ、今年中に退院できるか。今回で同じ科での手術入院5回目だが、混合病室ならではの単科病室とは違う。毎回いろいろなことに直面し、教えられることがある。単なる白内障から、生死に関わる病気まで、子どもからお年寄りまで、いろいろある。イライラすることもあるが、けっして我儘で言っているわけではないということ、年老いていくということ、医療従事者の超過労勤務の大変さを.思う。月曜日になると、また新しい人が入院してくるだろう。患者同士とはつかずはなれずが一番。振り回されないようにしなければ、これも身につけた業だ。
 
1月4日
今日から仕事始めとか。わたしの「始め」は何だろう。どうもなさそうだ。イライラと不安、不満の連続。断ち切る方法は一つ。それは「死」。わたしの願いごとは何だろう。この病から解き放たれること。しかし、機能に障害があるので不可能。心の病は、副作用みたいなもの。再生動物がうらめしい。
 
1月12日
退院したが、団地のエレベーターの工事で今は使用出来ません。いつも階段で足腰を痛めてしまっているので、怖かった。これでは、外に出た時、車などが危ないから外出は止めましょうになってしまうので、今日は思い切って、AAのミーティングに行きました。それでも気分のもやもやが続いているのと、階段の恐怖は取れません。困っています。
 
1月14日
わたしはSCS置換という手術を受けた。微弱電流を流す機械を体に埋め込んで、ある痛みを感じにくくするためのものだ。何やら恐いもののように聞こえるが、慢性疼痛にストレスを感じる人にとっては有効な手段だ。わたしはこの治療を受けるのは2回目だ。なぜ2回か。簡単にいってしまえば、電池がきれたことと、電極が壊れたこととが、重なってしまったからだ。この経験からいえることは、ちょっとしたことで体位のバランスを崩すと、機械が壊れるということだ。だから今回はナーヴァスになっている。初回は電圧をガンガン上げて、疼痛をごまかしながら生活してきた。転びそうになってバランスをとるために腰を捻ったり、足を挫いたりしていた。しかし痛みで毎週病院に通う必要もなくなり、制限はあるにせよ、それなりに生活出来ていた。
 ところがやはり無理があったようで、入れ替えが必要になった。手術から一月になるが、それこそ神経質なほど慎重に生活している。怖いのだ。たまらなく怖いのだ。ちょっとしたことで壊れることが分かったからだ。特に階段は要注意だ。あと家事が意外と捻る動作が多いのでこれもそうだ。では何も出来ないではないか。生活の質をあげるためにこの治療を受けたのに。
 日常生活動作で折り合いを付けるとは難しいものだ。
 
                    加納さおり
世田谷通信a1ae7d52.jpg
 (74
 猫 草
 
いよいよ世の中は受験シーズンクライマックスである。いや、他人事ではない、うちにも受験生がいる。12月まで土日は早朝から夕方まで野球の練習と試合に明け暮れ、ようやく本腰を入れたのは年末から、という遅まきな状況は、小学校の低学年から塾と模試に時間を割いてきた家庭とは勉強の絶対量が違っている。
公立小学校なのに、学年の8割の児童が外部の学校を受験するというので週刊誌ネタにもなった学校だけに、毎年1月末から2月はじめの受験日になると6年生はクラスの半分近くが学校にこない。「体調管理のため」だ。受験日当日ともなるとクラスはがらーんとしている。例年、受験直前はみんなピリピリ、イライラしてケンカが絶えず、受験あとは呆然と真白に燃え尽きている・・というのだがさて今年はどうなることか。
最初は小学生のうちから受験なんて、と考えていた。自分自身ずっと公立の学校に通っていた。しかし、小学校6年間の勉強がきちんと身についていなくては、この先どんな進路を選ぼうと、積み重ねる土台なしに先はない。しかし小学校の授業だけで本当に教科書の力がきちんと身についているか?それは甚だ疑問である。学校の授業ではわからなくても、間違っていてもそのままでフォローの機会がない。塾や模試や通信講座などでの予習復習で繰り返し確認しなくては、学力が維持できないほどに、普通の公立小学校の授業レベルは低い。ようやく図工や調理、音楽などでの専科の先生が増えてきたが、主要教科は担任が教えている。国語、算数、理科、社会はもちろん、その他のさまざまな学校事務にかかわる雑事、クラブ活動やクラス運営や学校行事など、すべてが担任の力量一つにかかっている。まったく無茶な話である。完全にキャパシティオーバーである。
不十分な準備のもとに行われる授業は魅力がない。子どもたちは塾のプロフェッショナルな授業に慣れているので、退屈して騒ぎ出す。「静かにしなさい!」で時間が過ぎていく。そもそも1クラスに30~40人も学習レベルもモチベーションもばらばらな子どもを寄せ集めただけの教室である。しかも専門性も時間もない教師の手で、高度な授業が成立するはずもない。公立小学校の限界である。学校に疑問を感じた親は塾に頼る。子供は先生を軽んじる。学校はさらに荒廃する。この悪循環を断つ方法がどこにあるのか?私には見当がつかない。
  その愛のゆえに
  =時々の記=s-IMG_0019.jpg
   (47)
 
1月6日
新年明けましておめでとうございます。年末にパソコンの基盤が壊れ、修理をお願いしましたが、時間がかかっています。台所においてありますので水気が入るからかも知れません。それで、お手紙にしました。娘から電話があり、「今月号の「つのぶえジャーナル」で、またまた元気をもらったよ」と弾んだ声が聞こえました。今年も頑張らなければと、娘から励まされたようで、私もうれしくなりました。
 1月13日は主人の定期検査です。そして19日には結果が言い渡されます。3年間、よくぞここまで支えられたものと、神様のお守りと皆様のお祈りに感謝するものです。
 
1月16日
漸くパソコンが昨日、直ってきました。記録をみてみると、ちょうど、一と月前に故障したことになります。直ぐに、電気店と連絡をとって、見に来てもらいましたが、年末、年始と重なって、なかなか思うように直してもらえず、結局、一と月が経ってしまいました。その間、お心温まるお励ましのお手紙を頂いて、とても強められましたこと、感謝いたします。また、ジャーナル新年号も届けていただき、いつもとは遙かに重みのあるジャーナルのように感じられるほど、ジャーナルと繋がっていて、本当に良かったと感慨深く拝読いたしました。
いよいよ寒さも頂点というところでしょうか。ここ一週間、部屋の中の水道の水が凍ってしまい、とても困りましたが、今朝は、水が流れ嬉しいことが二つ重なりました。
来週は、主人の検査結果が出ます。いつも、同じ様に、不安と恐怖にさらされるのですが、今回、少し私自身、気持ちを切り替えようと努力しています。私たちのこの身体は、皆、何時かは滅びるのです。その時は、すべて神さまの御手の中にあること。死ぬことも、生きることも主のためなのだと。
だから、どのような診断を下されようと、これも神様のなさることと受け止める事ができるようにと祈っています。
今、外は細かい雪が降りしきっています。きっと、積もることでしょう。今日から大学入試センター試験です。十年前のことを、思い出しています。その時も、雪が降る寒い一日でした。センター試験の結果で、受験する学校がきまるのですから、皆、力を出し尽くしてくれることでしょう。
湯がきたる冬の野菜の青さかな(家で作った白菜は、丸くならず、おひたしにしました)
過疎の村要のイチョウ紅葉せり
くすぼれる落ち葉そのうち燃えにけり
喚声の少しは、上がる餅をまく
山峡の冬至の朝日木の間より
一人居を託つ(かこつ)農夫や年の暮れ     馬場路哉
パソコンで、メールを発信できる喜びを感じています。
 
                     馬場暁美
                   上野緑ヶ丘教会員
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緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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