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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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自閉症者のひとりごと
(33)
 
11月21日
痛みというものは、厄介ですよね。今日は皮膚科に来ています。それが終わったら、接骨院へ行こうと思います。入院しますが、そうしたらどうなるのだろうかと思ってしまいます。5年は大丈夫と言ったのに、痛いし、機械は不調だし苛々してきます。病気の特色にプラスしてのことなので神様は、わたしに何をお望みなのだろうと考えると頭が混乱して壊れそうになる。それなら、壊れたらこの苦しみから解放されるのだろうと思う。 

 
11月25日
半日かかって痛みブロックをしました。飛び入りだから時間がかかってしまうのでしょうね。途中でだんだん苛々してきて、帰って、かきこむようにご飯を食べてしまいました。この苛々は一体何なのだろう。とにかく横になっています。
 
12月11日
昨日入院し、今日は手術です。何時もの如く早起き鳥です。眠れているからいいんですけどね。病室にはいろいろな症状の人がいます。痛い痛いと言い続けている人もいれば、いわゆる老人病の人もいれば、埼玉から来ている人もいれば、いろいろです。わたしはおとなしくして過ごそうかな・・・。どこまで猫かぶりが続くかわからないけど。人間の本性が出るのが、こういう場所ですね。朝から昼にかけた手術でした。今は術後3時間の安静時間中です。麻酔が切れてきつつあるのか、痛みが出始めてきました。後は電気がどう流れるか、感染防止に気をつけるだけですね。うまくくっついてくれるのを願うばかりです。何にせよ、無事に済んだことに感謝してます。
加納さおり
 
  みんなをすきに
わたしはすきになりたいな、7b772809.jpg
  何でもかんでもみいんな。
ねぎも、トマトも、おさかなも、
  のこらずすきになりたいな。
うちのおかずは、みいんな、
  かあさまがおつくりになったもの。
わたしはすきになりたいな、
  だれでもかれでもみいんな。
お医者さんでも、からすでも、
  のこらずすきになりたいな。
世界のものはみィんな
  神さまがおつくりになったもの。  (金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと)より
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世田谷通信 
(73) 
猫 草
 
 2646d577.jpg次男の学校では毎週調理実習がある。そして実にいろいろなものを作っている。最初はホットケーキや白玉団子など混ぜるだけ、丸めるだけの簡単なメニューだった。最近ではけんちん汁やスイートポテト、肉団子入り野菜スープ、鶏肉入り煮込みうどん、ベーコンポテトパイ・・と切る食材も味も多様、手順も複雑なものになっている。偏食気味な次男だが自分で作ったものは「おいしい」のか「特別」なのか、野菜でも肉でもよく食べてくれる。そして、ここが厄介なのだが家でも「正確に」再現したがる。
私の作る料理はいつも冷蔵庫にある材料で、賞味期限の状況、昨日のメニュー、あとは気分とか・・そういったものにあちらこちら流されながら「なーんとなく」できあがってしまったものが多い。しかし次男はきちんと材料をそろえて手順どおりに作りたいのである。学校ではスイートポテト作りの甘味づけにコンデンスミルクを入れるという。お砂糖じゃだめ?と思うが、いやそこは断固コンデンスミルクなのである。
 またある時はアンパンマンに「春巻きぼうや」という男の子が出てきて、春巻きを作っている。「ひき肉、もやし、ピーマン、たけのこ、しいたけを細かく切って入れて・・」というのをじーっと見ていると思ったら、次の日スーパーではその通りの材料をそろえることになる。
 世の中には料理の本がたくさんある。料理番組や雑誌にもおいしそうなレシピはあふれている。でも「ふーん、おいしそうだな」と思うだけで、材料・分量どおり、指示どおりに作った試しがないのである。だいたいこんな感じでしょ?この材料とあの調味料はないからこれでいいや、と自己流のアレンジが過ぎて、目指していたものとは似ても似つかない結果になる・・料理だけではなく、この傾向は生活の中の万事すべてについて当てはまるかもしれない。レシピ通りに材料を買いそろえて、手順通りに作ったメニューは、やっぱり適当な料理より数段おいしいのである。基本に忠実であること。・・今年の目標にしたい。
  その愛のゆえに
  =時々の記=
    (46)
 
11月18日
昨日は、一日冷たい雨が降り続きました。体感気温も低く、一月はじめごろの寒さとか。
きょうは、朝から雨が上がりましたが、寒さは身にしみます。その上、6時でも、まだ暗く、散歩をするのに、よほど集中していないと崖けっぷちからすべり落ちそうになります。最近、とくに、運動神経が鈍くなり、とんでもない所で、ひっくり返って足を痛めたりの連続です。年はとりたくないのですが、仕方ありません。記憶のほうも、スピードを加速させながら、衰えていっています。こんなはずじゃなかったと日々悔いています。
 082ae8ca.jpg落ち鮎を狙い川鵜のおびただし
日を弾き岩間を行きぬ秋の川
星屑のごとく固まる小菊かな       馬場路哉
きょうは、祈祷会を休むことにしました。欠席の電話を入れると、先生は、残念そうでしたので、申し分けなく感じましたが、少し一人で静かにあれこれ考えてみたいときもあります。
 
11月24日
寒さ厳しくなってきました。私たちは、この急な寒さに、震えあがっています。あまりの寒さで身体が対応しきれず、動作も感度が鈍くなり、何をするにも、時間と気力が必要となってきました。昨日は、少し温かくなるという予報でしたので、勤労感謝の日でもあるし、伊賀の里モクモクファームへ、二人で出掛けました。温泉あり、食堂あり、ちょっとした遊び場ありの農場です。多くの子供連れの家族に出会いましたが、皆、疲れ気味でした。少し奮発すれば、手つくりの美味しいパン、ハムなどが手に入るのですが、ふたりとも、財布の紐を固く締め、何も買わないで帰りました。家へ帰って、いつものように、倹約してのお昼となりました。
しばらくすると、隣りのおばさんが、とりたての野菜をいっぱい下げてもってきてくれました。その素材をふんだんに使ってあつあつのおでんが夕食に出来上がりました。
やはり、家で、手つくりの食卓を囲むことは、心も、身体もぬくもりますね。
寒い、信州の冬は、いつも、祖母の作ってくれた、あつあつのお味噌汁が、唯一のご馳走でした。そんな昔のことを、懐かしく思い出しながら、これからの寒さを乗り越えることができますようにと願っています。
鎌で刈る草の錦に染まりつつ
麗しき山の有明月掛かる       馬場路哉。
俳句を作るのも、なかなか手間取ってきました。年のせいでしょうか。寒さのせいでしょうか。あと一週で、12月ですね。気ぜわしくなってきました。
 
11月27日
・・・。立花隆さんの、「死ぬまで生きる」その思いは、とくに、ガンと言う死を告知された病いの方は、生きること、死ぬことに真っ向から立ち向かっていかなければ、負けてしまうのでしょう。主人も今日一日を無駄にしたくない。そんな生き方をしている気がいたします。
とても、エネルギッシュに、朝を迎えて、ラヂオ体操にはじまり、ルターの「日々の御言葉」を通読。庭の木々に向かって、挨拶するかのように、落ち葉を掃きそろえ、食事となります。いわく、ガンと告げられときには、おれは部下に厳しいことばかり言って苦しめてきたので、神さまから、このような試練を与えられたのだと、とても悔やんだと。しかし、聖書を読んでいくうちに、あなたの罪は許されたと書かれてあったので、救われた思いになったと3年前を思い出すように、伝えてくれました。
本当に、苦しい病ですが、「死ぬまで生きる」を合言葉にして、与えられた命を精一杯生き抜いたとき、悔いは残らないはずです。
 
12月3日
木枯らしが吹く寒い日になりました。先日、届いたジャーナルに励まされ、昨日の礼拝にも、何とか出席できました。世田谷通信にもありましたが、人間は、土の上をきれいに、舗装し、何もなかったかのように、次々と家を立ち上げていきますが、土の下で、生きているものたちは、脈々と生き続け、目を出し、季節が来ると、花を咲かせてくれている。そんな、自然界の生き物たちを、大切にしたいものです。
「キリストへの時間」の機関紙に真山先生の奥様が長い間、アナウンサーとして、ご奉仕され、その思い出を綴ってくださっていました。多くの方の伝えたいと言う熱い思いが、ひとつとなって、ラヂオ伝道が今も福音を求めている方のところへ届けられているのですね。
闇から光へと照らし出された私たちは、この良き福音を周りの方に伝えたいという思いを持ち続けていくことは、大切です。
 
12月7日
またとても、冷たい散歩となりました。温度計を見ると、外は氷点下。真っ白に霜、薄氷が、張っていました。集中していないと、足を滑らせてしまいます。このごろは、懐中電灯をもって散歩にでかけています。真っ暗だからです。懐中電灯で遠くをてらすと、野生の狐や、たぬきは奇声を発しながら、逃げていってくれるので、安全面でも電燈は必携です。
今、庭にお日様が照りだしました。犬たちは、緊張感が緩んで、皆揃って、寝ています。
山の木の伸びて挟まる冬の空
図書館に燃えて満天星紅葉かな
マスカット数粒持ちて施設訪ふ      馬場路哉
主人は図書館に熱心に通って、長編小説を借りてきては、読書三昧の冬ごもりです。
あまり、家の中に閉じこもっていると、足にも良くないので、きょうは、山歩きにでかけようとしています。山といっても、小山ですから、半日で十分なのです。
 
12月12日
今の時期、朝6時でもまだ真っ暗です。夕方も5時で真っ暗です。ですから、一日がとても早く気ぜわしく過ぎて行くのです。私たちも、加齢による運動神経の鈍さから動作がとてもゆっくりになりました。何をするにも時間がかかります。特に、食事の準備には、時間がかかってしまいます。その割には、たいしたご馳走はできないのですが。
きょうは、教会学校のクリスマス会です。教会学校の奉仕をしてくださっている方々は、とても熱心にこの日のために準備してくださいました。きっと、神さまの豊かなお導きのもと、多くの子供たちがまことのクリスマスを味わって、喜んでくれることでしょう。
子供のころのクリスマスの思い出は、年を重ねた今でも懐かしく思い出されるのです。
天に栄光。地に平和が豊かにきますように。
 
12月14日
ゴダート先生から、クリスマスカードが届きました。いつものように、ご自分で作られた、押し花のカードです。今年9月に行われた、改革派五十周年記念大会のことをお知らせしたところ、どうぞ、日本の改革派教会が熱心に伝道に励み、成長することをいつも祈っているとのお返事でした。
ご自分の生涯を日本伝道に捧げられ、特に、中部中会で青年たちに熱心に福音を述べ伝えてくださった先生ですから。今年、80歳になられそうですが、伝道する意気込みは、決して失わないと言っておられます。励まされました。そして、賛美歌の美しい歌声のことも、よく思い出します、と伝えましたら、昔の賛美歌が好きですと。今のは、ヒップ、ホップのような歌が多いのでと、良いものは、歌い続け、神さまを褒め称えたいです。
岐阜加納教会の尾野さんが、先日、加納教会の新築された会堂の写真を送られ、先生は、立派な建物になっていますねと驚いていました。これから、皆が心と力をあわせ、ひとりでも、多くの方に、この良き福音を伝えていかなければ、と祈るものです。
ゴダート先生や、マカルピン先生ご夫妻の命がけの伝道に学びたいと切つに、願うものです。
 
                   馬場暁美
                  (上野緑ヶ丘教会員)
 
 
            キリスト者の生活綱要  (5)5aca609f.jpg
               ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第1章 謙虚な服従、真実にキリストにならう
 
 3 聖潔とはキリストへの完全な服従である
  1  聖書は、ただ聖潔という原理を示すだけでなく、キリストがそれに至る道であることを示している。父はわれわれを、キリストにあって御自身と和解させてくださっため、われわれの模範としてのキリストと一つになることを命じられる。
     哲学者だけが、唯一の正しい秩序だった道徳の体系をもっていると思っている人々には、キリストに服して従うよりも優れた計画を示させるがよい。哲学学者によれば、最高道徳とは自然のままの生活をすることであるが、聖書は、模範としての完全なキリストを、われわれに教える。
     われわれは、その生活で、このキリストの性質をあらわすべきである。これほどすばらしい効果的な考えがあるだろうか。これ以外に、どんな要素があるだろうか。
  2  子とされるため仲保者となってくださったキリストに、われわれがならうという条件で、主はわれわれを神の子らとして受け入れてくださった。熱心に、しかも祈りをもってキリストの義にこの身を献げないなら、われわれは創造主に不真実にもそむいているばかりでなく、救い主としての神を棄てているのです。
  3  聖書は、その勧めと共に、神の限りない祝福の約束と、われわれの包括的な救いの約束とを与える。神が御自身を父としてあらわされたのであるから、神の子として振る舞うのでなければ、われわれは最悪の忘恩の罪を犯していることになる。
     キリストは、その血によるバプテスマによって、われわれを潔めてくださるから、われわれは新たな汚れによって汚されるべきではない。キリストは、われわれを肢体として、御自身の体に結び合わせてくださったからには、われわれはどんな汚点によっても、彼の名誉を汚さぬように留意すべきである。
     われわれのかしらであるキリストは、天に昇られたのであるから、われわれは、肉体的欲望を背後に退け、心を天におられるキリストに向けるべきである。われわれの魂も身体も、朽ちることも、色あせることもない冠を受け継ぐように定められているのであるから、自分の魂も身体も、主の日まで潔く汚されることのないように保つべきである。
    これらは、ふさわしい生活の規範にとって最良の土台である。哲学者たちは、せいぜい人間生来の威厳までしか昇れない。(しかし、聖書はわれわれに、唯一の罪のない救い主、主イエス・キリストを示す。ローマ6:4以下、8:29)
:再読希望者がおられますが、「キリスト者の生活綱要」は在庫がないため、この「つのぶえジャーナル」に連載いたします。つのぶえ社
 
 
「地域の人々と共に生きて」 その8cdbe340c.jpg
     …二人静…
 
昭和61年11月。40年近く地域医療に携わってきた、この私に文化勲章瑞宝章受章の知らせが届きました。ただひたすら、人並みの医療を続けてきただけですのに、このように評価していただき、身に余る光栄と、感謝して受けさせていただきました(当日の記念写真)。
新しい診療所が建設され、医師も若くて、新しい医学を学んだ方に、お譲りするのが本意でありました。それで満70近くにもなったことですし、いったん退職いたそうかと考えまして、村長さんの考えを伺いにまいりました。ところが、新しい若い医師に来てもらうとなると、相当多額の給与を支払わねばならず、今の村の経済では、そんな医師を雇う事ができないので、たのむから、健康が続く限り、勤めて欲しいと懇願され、今まで以上に給与は安くしてもらうために、嘱託医として勤め続けることになりました。名前が変わっただけで、仕事の中味は、今までより厳しくなってきました。高齢化が進み、診療所へ来ることすら出来なくなった方が増えてきましたから、午後からは、毎日、往診です。しかも、中には、入院治療しなければならない方が数名いましたが、在宅治療を家族も、本人も望んでいるということで、往診に行くときは、入院患者の病棟を回るのと同じでした。 
しかし、医療器具は整っておらず、流動食の注入、痰の咳き込みを防ぐ始末など、とても神経を使いました。私は、医療法に基づいて、注射、点滴針などは、看護婦にまかせることなく、どんな忙しいときでも、医師である私がしてまいりました。疲れのあまり、手が震えることもありましたが、神経を集中させて、患者さんや家族の方とともに、歩んでまいりました。
森三菜子
『旧・新約婦人物語』(5)082ae8ca.jpg
 
 神の約束を信じたサラ
  (創世記18章)
 
 「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた」(ヘブル11:11)
 
 アブラハムの妻サラは、聖書の中に出て来る婦人の中で、特別な存在であると言えます。それはエバの時からサラまで、信仰のあった婦人が現われなかったため、私たちに淋しい思いを抱かせました。そのような時、サラが登場してまいりまして、信仰の美しい花を咲かせたからです。サラは聖書にありますように、心から神が約束に忠実なお方であることを信じていましたので、彼女の信仰が認められ、年老いた後にも子供を生むことが出来ました。だから、ペテロもこのサラを模範として、全てのクリスチャン婦人が見習うように勧めております(Ⅰペテロ3:5~6)。
 聖書に記されていますサラの話は、アブラハムとの結婚に始まっております。彼らの住んでいたカルデヤのウルという町は、チグリス、ユーフラテス河の流域で、土地は豊かに肥えていました。迷信に満ち溢れた堕落した町でした。ウルの多くの人々は月を神として崇めていたということです。神はこの不信仰の環境から不思議な摂理で、アブラハムとサラの夫婦をお選びになり、彼らをカナンの新しい地に旅立たせて、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12:2)と、お約束なさいました。ここで私たちは、1、2の大切なことを教えられています。
 第一に、サラが夫と共に、誤った宗教を振り捨てて、真の神様の声を聞き、これに従順に従ったことが、彼女の信仰の第一歩であったことです。
 サラはアブラハムとともに、神様がお命じになりましたカナンの地に移住いたしました。「あなたがたを大いなる国民とし・・・」というお約束は、サラに子供がいないために、すぐに実現されず、彼女は思い惑い、あせって不信仰に陥り、自分のはした女ハガルを夫に与えて、彼女によって子供を得ようといたしました。これは当時の多妻主義の習慣で、普通のことでしたが、神のお約束を何度も受けて分かっている彼らにとっては、神様の前に不信仰をあらわした大きな罪であることには間違いありません。
 その結果、サラは自分の不信仰な行いのために、自ら自分をどれだけ苦しめたことでしょうか。ハガルにイシマエルが生まれるようになり、サラの悩みは一層ひどく、アブラハムの家の大問題となりました。サラは神様のお約束を待たないで、焦ってしたことで失敗し、いたずらに悶えと苦痛が彼女に生じただけでした。
 第二に、創世記18章10節を読んで下さい。サラは初めから大きな信仰の持ち主ではなかったことがわかります。神より「あなたの妻サラには男の子が生まれるでしょう」と告げられました時、彼女はこの言葉を信じないで、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえましょうか」と、心の中で笑ったほどのはかない信仰でした。しかし神様は彼女を導き助け、聖霊により彼女の信仰も一歩一歩強められ、心より神様のお約束を信じ、やがて約束の子イサクが与えられました。神様には、「主にとって不可能なことがありましょうか」とある通りです。信仰の第一歩は、自分の知識、自分の考えを捨てて、全てを神様にお任せして、従順と謙遜に従うことです。
 
 今日の日本の多くの婦人方は、初めのサラのように、間違った考えを持って、神様でないものを拝み、命のない宗教や習慣に囚われておられるようです。早く間違った宗教や習慣から逃れて、新しい約束のカナンへ旅立とうではありませんか。
 自分の知恵やこの世の知識は、信仰に何の役にも立ちません。これら全てを捨てて、素直な謙った心で、真の神様を求め祈るべきです。神様のお約束はサラに対するように、すぐには果たされなくとも、絶えず祈る謙遜な心に「女よあなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)と、神様はお約束を成就して下さいます。 
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(30)0cc536e3.jpg
 
 キリシタンの貧しい人々への救済(3)
 キリスト教の伝来とその展開(3)
 
 この禁教令は、パードレの国外追放と武士のキリシタン信仰の禁止であったので、以後、イエズス会は表立った布教活動は極力押さえることになりました。しかし、都の南蛮寺も破壊されるが洗礼を受ける者は急速に増えてさえいます。また、それまで日本の布教はイエズス会が独占していたのが、1593年、フランシスコ会のペトロ・バウチスタがフイリピン(スペイン領)の使節として来日、秀吉の許しを得て布教活動を活発に始めます。さらに、アウグスチヌス会、ドミニコ会も日本布教に加わります。禁教令は撤廃されてはいなかったが、キリシタンの活動はその中心地長崎でも、京畿方面でも活発になっていきました。
 1596年(慶長元)、サン・フェリッペ号事件が起こりました。乗組員の不用意な発言に秀吉は激怒し、キリシタン弾圧に乗り出し、その見せしめとして行ったのが、翌1597年(慶長2)2月5日、長崎で日本26聖殉教者の処刑でした。また、マルチンス司教をはじめ、外国人宣教師や日本人も国外へ追放されました。しかしながら、その後は、秀吉そしてその後を継いだ徳川家康も禁教令はそのままにしておきながら、キリシタンは黙認されていました。
 秀吉、家康の禁教令が不徹底だったのは、ポルトガル、スペインとの外国貿易が必要だったからです。新たに、オランダ(1609)、イギリス(1613)が日本との貿易に加わると、その必要がなくなりました。1614年、伴天連追放令が出され、パードレや日本人キリシタンは長崎に集められ、国外追放となり、天主堂はほとんど全て破壊されました。1623年、三代将軍家光によってキリシタン弾圧は全国的に徹底するようになりました。
厳しい弾圧の中でも死を覚悟して日本に潜入し、キリシタンの中で活動していたパードレも、1643年、マンショ小西の殉教を最後に途絶えました。
 
 
  あなたに聖書をbe8c2302.jpg
 
日本人の殆んどの人は「クリスマスは終わった。さあ次はお正月だ」という風に考えているのではないかと思います。若者たちも含めて大人たちもクリスマスパーティを楽しみ、また新年宴会も楽しんでいます。子供たちも、クリスマスプレゼントの後、お年玉ももらえると思っています。そういう時の流れの中で生きているのが、こんにちの一般的な時の捕らえ方ではないかと思うのですが、どうでしょうか。
 
しかし、聖書を書いた人のとらえ方は、それとは違うんですね。例えば、新約聖書の中の「コリントの信徒への手紙2 5:17」ですが、これを書いたパウロは「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じる」と言っています。「キリストに結ばれる人」というのは、「キリストの命」または「キリストだからもっているもの」を、自分の内に、自分のものとして、受け入れている人のことをいうわけです。
 
とすれば、その時から、自分という者は、今までの自分とは変ったものになっているわけです。今までは自分流に、またこの世の中の流に生きてきた自分が、キリスト流に生きる者に変った、というより変えられたのであります。これが、「新しいものが生まれた」ということであります。
 
クリスマスはキリストの誕生を祝うことでありますが、その誕生によって、自分がキリストに結びついて、新しい者にされるということであるから、祝うのであります。ですから、逆に、自分の内にキリストが誕生されていなければ、自分にとってクリスマスということはないわけです。また、自分の内にキリストが誕生されることというなら、クリスマスは12月25日に限ったことではありません。その人にとってのクリスマスがあるわけです。
 
いずれにしても、そういうこととしてのクリスマスは、キリストの誕生によって、私が新しい自分として生き始める日でありまして、そういう内容を持ったクリスマスを、同時に、新しい歩みを始める日、すなわち新年として祝いたいものであります。
 
篠田 潔
 
(参照聖句・コリントの信徒への手紙2 5:17)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 「ローマ人への手紙」研究 (62)d9e56d12.jpg
 第41課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
B ユダヤ人は旧約に述べられているように、その不信仰の故に拒否された。
       9章25~33節(続)
 
 こういうわけで、神が彼らを拒まれた原因は、全く彼らの側に責任があるのです。彼ら自身以外の誰も、それについて非難されるべきではありません。救われる者はただ一途に、神の主権的恵みによって救われるのであり、拒まれ定罪される者は彼ら自身の罪の故にそうされるのです。
 
 「信仰によらないで、行いによって得られるかのように」、すなわち、義は律法の行いによって得られるかのようにと言う意味です。実際に、罪人が律法を守る行いによって、義を獲得することは不可能です(3:20)。しかし、ユダヤ人たちは自分を欺いて、熱心と努力を持って、空しくも義を獲得しようと奔走したのです。
 
 「彼らはつまずきの石につまずいたのである」(32)。「つまずきの石」というのは、勿論メシヤ、すなわち、イエス・キリストのことです。彼らは自ら罪人であることを告白することも、神の御計画とみ言葉に従って、救いを受けることもしようとはしなかったのです。
 
 キリストが「つまずきの石」であることは、旧約聖書の中に啓示されています。パウロはイザヤ書28章16節と8章14節を引用しています。彼はこの二つの引用句を9章33節において一つの文章にまとめています。イザヤ書の真の著者である聖霊によって、霊感されているゆえに、パウロがそうすることは正当であります。前にも述べたように、新約聖書が旧約聖書より引用することは、霊感の教理に照らしてみる時、それは全く正当なことです。
 
 イザヤ書28章は、神以外のものに望みを置いて、アッシリヤの侵略の危険より自らを守るために、エジプトと同盟しようとする人々に対して言われた預言です。言い換えると、人間や人間的な方法や力、すなわち、神の力以外の力により頼む人々に対する神の言葉は、「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石である」(イザヤ28:16)であったのです。
 これはメシヤであるキリスト・イエスの来臨の預言なのです。イスラエルは約束のメシヤが来るときまで、敵によって滅ぼされることはあり得ない。だから彼らはアッシリヤの力を恐れる必要がないのです。彼らは神の約束に信頼を置くべきです。来るべきメシヤとその贖いの業にだけ望みを持つべきであって、地上的な同盟や方法に頼るべきではないという意味です。 
 イザヤ書8章14節はユダヤの人々に対して、シリヤとエフライムとの同盟を恐れるべきではないと説くのです。「この民がすべて陰謀ととなえるものを陰謀ととなえてはならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となりわなとなる」(8:12~14)。
 神はある者にとっては聖所であり、のがれ場となる。しかし、他の者にとっては、さまたげの石、つまずきの岩となると神は言われるのです。ある者は信頼を神に寄せるが、他の者は愚かにも神に信頼を寄せることを拒むのです。パウロはこの言葉をイエス・キリストに対する人々の態度に適用していますが、それは真に妥当なことです。神のみ子であるキリストはある者には受け入れられ、他の者には傲慢にも退けられます。「ユダヤ人の全精神・見解・期待は、贖い主の人格・性格・教理に相反するのです。従って、イエス・キリストは他の者にとっては愚かと見えるように、彼らにとっては「つまずきの石」なのです。彼らはイエスを彼らが予期していたメシヤと認めることができなかったのです。また、イエスが語られた言葉に従って天国に入ることに同意しません。このようにして彼らがキリストを拒絶したので、神の民より除外されることを述べた昔の預言が、彼らの上に成就したのです(C・ホッジ)。 
 
 J.G.ヴォス著
玉木  鎮訳
                       (日本キリスト改革派引退教師)
 
 
  祈 り
 わたしたちの教会の祈祷会では、聖書の学びの後、今気になることを自由に話し合い、それぞれがお祈りします。わたしたちの教会も子供たちは都会に出て行きますから、自然にその子供たちのことが教会の祈りになっています。数ヶ月前ですが、ある姉妹が、私が気になることは、元気そうにしている若者の笑顔に、力が感じられないと言うのです。そういえば、テレビからですが笑顔の後の何ともいえない淋しそうな顔に祈らなければ、と思わされました。それから一人の祈りの時は、人々に笑顔をお与え下さい、と祈ることにしました。それが、わたしの社会に仕えることだと思うようにしています。・・・。
                    茨城県  I・Tさん 
 
    愛
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恐れなきこころがある
とかす力である
そだつるふしぎである   信仰詩集「貧しき信徒」 八木重吉
       ******************
憲法第25条(国民の生存権と国の保障義務) すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」c9fe62b5.jpg
 
3歳の娘が欲しがるので初めてミニクリスマスツリーを買いました。教会とはあまり関係のない私たちでしたので、飾ったこともなければ、興味もありませんでしたが、家族三人で眺めていると嬉しい気分になりました。そういえば、最近、ガラス越しにクリスマスツリーの電球の淡い色を見ることが多くなりましたね。今度機会があったら教会のクリスマスを見たいと思いました。
                  神奈川県  S・Sさん
 
産地直送・地域特産派で注文していた北海道から産地直送の野菜が届きました。ジャガイモやかぼちゃの冷たいこと、汗かいてるし、冷蔵庫に入っていたのかなと思い電話で確かめました。毎日雪が降っているとのことで天然冷蔵庫とのことです。そんなに違うのですね。驚きました。ジャガイモは干物籠に入れて、少しだけ皮を剥き料理に使いましたが手が冷たいので悲鳴を上げてしまいました。その他に買ったのは、いろんなお豆さんです。 食べるのに少し作ってみるためです。豆が大好きで、知らない物を見るとどんな味かなとか、奈良で実を付けるかなとかいろいろ思いますと楽しくなります。教会の方にもお裾分けしています。兵庫の母ちゃんにも作ってもらおうと思うと楽しくなります。もう年ですが・・・。
                  奈良県  T・Mさん
 
「自閉症者ひとりごと」を何時も読んでいます。私も同じ病気ですから加納さんの日常生活は良く分かります。自閉症は心の病ではなく先天的な脳の機能障害です。しかし、現実は、心の病と同一視されます。自閉症者の心の病は自閉症による二次的なものです。投薬で改善するのは、心の病の部分だけなのです。私の場合はそのために夫や家族や同僚に心の病ととらえられていて、逆に理解されない怒りや悲しみの中に今もおります。どうぞ機能障害として理解し受け止めていただきたいのです。拘りもあります。人間関係も下手です。会話も苦手です。考える視野も狭いです。伝える言葉を持っていないのです。
本で調べました。カウセラーにも相談してきました。しかし、答えは与えられませんでした。逆に、もっと柔軟になりなさいと言われます。くよくよ考えないで・・・とも言われます。信仰があれば、とも言われます。その通りです。そうしたいです。そうなりたいですが、出来ないのです。努力や意志の問題ではないのです。自閉症の一人として、どうぞ、そのままを認めてください。お願いいたします。このメールも3日ほどかかりました。
                  埼玉県  K・Aさん
 
おはようございます。嬉しいことをお伝えいたします。昨日、礼拝で、滋賀から来ているHさんの娘さん(高一)が、息せききって伝えにきてくれたのです。先週の日曜日(13日)に草津の教会の礼拝に出たところ、Yさんと言われる方が近づいてきてくださり、上野緑ヶ丘教会からいらしたのなら、馬場さんによろしく言っておいてください。つのぶえジャーナルを毎月楽しく読んでいますとのことです。私はあまりの突然のことですし、草津の教会の方がジャーナルを読んでいてくださっていると聞いて、嬉しさのあまり、Hさんの娘さんと抱き合ってよろこびました。ジャーナルで各地の方と繋がれている喜びを味わわせていただきました。最近では、一番嬉しいプレゼントです。これからも、このような者のつたない思いを読んで下さる方に感謝し、続けていかせていただけたらと祈っています。
                 奈良県  B・Aさん
 『ありがとうございます』
 s-200912051253001.jpg主の2010年が皆様に良いものでありますようにお祈りいたします。クリスマスカードやお便りで励ましとお祈りを頂きました。有り難うございました。皆様の叱咤激励をいただいで、今年も「つのぶえジャーナル」作りに励みます。多くの方に、読んでいただけるように頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。お便りの中に「春の七草」という言葉がありました。ことの由来を調べてみました。平安時代の清少納言の「枕草子」にも一文があるとか。=春の七草=せり(セリ)、なずな(ナズナ)、ごぎょう(ハハコグサ)、はこべら(ハコベ)、ほとけのざ(コオニタビラコ)、すずな(カブ)、すすしろ(ダイコン)。これぞ七草と古くから詠われ、きっと来る春を心待ちにして七草粥として食べたのでしょう。
       ****************
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
山本 充様 森谷千文様 小幡伸幸様 小幡美智子様 宮川眞澄様 松岡 茂様 白石和子様 中西加津子様 金田好美様 篠田敏治様 匿名3名様
 
 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
 
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『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
山本 充様 篠田敏治様 匿名1名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
 
アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった(創世記4:20~21)。
09年12月20日現在 編集・発行人 長村秀勝
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緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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