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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
 
4b09f039.jpg「つのぶえジャーナル」、頑張っておられますね。健康に注意して下さい。今日は少し肌寒いですが、過ごしやすいいい季節ですね。庭のキンモクセイの香りに思わず、深呼吸してしまいます。インフルエンザの流行で、季節性のものまでもワクチンが不足しているようです。個人病院は受診歴がないと門前払いであちらこちらへ訪問したり、電話したりでやっと家族全員分の予約が取れホッとしているところです。娘は、なんとかディに通っていますが、疲れと精神的なものが要因のようですが、日々の体調管理に気を使いながら、いろいろ楽しみながら過ごしています。人混みへの外出は、控えようと思っていますが、娘の気持ちに負けて、つい出てしまいます。うがいの出来ない子ですから、十分な手洗いと嫌がるマスクでの外出になりますが、秋を楽しんでいます。
                   和歌山県  K・Sさん

 
わたしの住んでいる団地では、自治会による月1回一斉清掃が行われている。この団地に住む以上、自治会加入が義務付けられている。やむを得ない事情がないかぎり、掃除は強制なのだ。だが、団地も高齢化が進み、別居している母子家庭の世代もいる。人付き合いの苦手な人もいる。外国の人もいる。掃除に参加出来ないと、身勝手だと非難される。わたしみたいな人間嫌いは一斉掃除に出られないので、一日前に自分の分と決めて行っている。これも身勝手なことだよ、と言われていることだろう。
                   愛知県  H・Tさん
 
朗読の会で御見掛けしていた方のお姿を拝見しませんので、どうしたことかと案じていましたが、久し振りにお顔を拝見いたしました。小さな会ですが、年齢差のためかなかなかお声を掛けずにいましたが、思い切ってご挨拶したら、わたしの母と同年で失礼してしいました。、お元気だったお母様が倒れそのお世話で欠席でしたが、元気になったので、また参加しましたが、病院で長期入院のお子さんに出会い、紙芝居をすることが出来ました。自分の暇つぶしのつもりの朗読会の勉強会が、少しお役に立てて嬉しい時を過ごしました。何か張り合いを貰えましたと、お話しくださいました。
きっと、そのような活動をなさっておられる方が各地に大勢おられるのでしょう。私もお役に立ちたいと思いました。
                   神奈川県  A・Kさん
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『ありがとうございます』
 カーテン越しにクリスマスツリーの色とりどりの光を見る季節になりました。「つのぶえジャーナル」ご覧の皆様には、お変わりなくお過ごしでしょうか。神様のお守りがありますようにお祈り申し上げます。今月号も皆様にお届けできました。感謝です。本と観葉植物の仕事場に奈良のAさんから新種のシクラメンを一鉢と手作り野菜が沢山詰まった1箱を、小平市のBさんからは献上米を頂きました。信州のCさんからりんごを頂きました。また、感想や質問のメールと一緒に写真を送信して下さる方もおられます。そして、苦言や心温まるお祈りとお言葉を頂いております。気の効いた言葉は持ち合わせていませんが、お気持ちを想像しながら返信メールや手紙で返事を差し上げていますが、それが私の一番恵まれた時でもあります。
「つのぶえジャーナル」も29号になりました。どうぞ、ご笑覧ください。親しい方にご紹介いただければ幸いです。神様のお支えと心から感謝をもって、また2010年1月号の準備をしております。
  
『つのぶえジャーナル』のための寄付者2a793644.jpg
馬場暁美様 
 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
  
『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
稲田喜水様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
                    09年11月20日現在 編集・発行人 長村秀勝
   今月のことば
 「感謝」、この言葉には限りない喜びが溢れています。キリスト者にとって、礼儀正しい生活を送ることは素晴らしいことです。しかし、その生活を送るための一つの規範に「感謝」がなるものではありませんし、立派な道徳というのでもありません。またそれは美しく細やかな感情というものでもありません。むしろ、それ以上のものではないでしょうか。
 キリスト者にとって、「感謝」というものは、ごく平凡で、実際的なものであり、日々の生活の力として、神様が下さった「恵み」です。時として、いろいろの出来事に翻弄されて、感謝の根拠を見失うことが多々襲って来ます。そうであっても、「感謝の根拠」を失ってはいません。それは、神様からの永遠の福音であり、イエス・キリストの使信だからです。
 その事実は、十字架において神様がして下さった救いの愛は、否定のしようのないものです。この事実に、キリスト者は、いつも、そして朝ごとに新しく、感謝すべき根拠を頂いて、一日を始めるのです。この恵みに対して十分に感謝することは到底不可能です。この恵みに比べるならば、私たちの感謝は、生涯かけても小さすぎるのです。
 神のご好意(行為)に対する感謝は、悲しくても喜びを、不安であっても夢を持ち、暗闇の只中でも光となるのです。そこには、醜い打算や思惑など入り込むすきまはありません。
 「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい。もし、だれかが、あなたをして一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」(マタイ5:40~41)と言うみ言葉は人の思いを越えていますが、「感謝」はその思いへと変えるのです。これは、神の業-神様へのキリスト者の思い-「感謝」から出るものです。
 
キリストの御(み)愛に触れたその時にs-200910040935000.jpg
 
キリストの御(み)愛に触れたその時に
キリストの御(み)愛に触れたその時に
私の心は変りました
憎しみも恨みも 霧のように消え去りました
 
キリストの御(み)愛に触れたその時に
キリストの御(み)愛に触れたその時に
私の心は変りました
悲しみも不安も 霧のように消え去りました
 
キリストの御(み)愛に触れたその時に
キリストの御(み)愛に触れたその時に
私の心は変りました
喜びと希望の 朝の光がさして来ました     水野源三第三詩集「今あるは 神の恵み」

*ノボタンです。鉢で大事に育てています。 
   小閑記
       
 「直向に前のものに向かって」
   (ピリピ3:13~14)
 
 10月号では「後ろのものを忘れ」ると述べる時、これまで自分がキリストのために成し遂げてきた過去の輝かしい成功や業績をも考えていたのではないでしょうか。あるいは、自分の霊的成長であったかもしれません。しかし、どんな立派な過去のものでも、それに執着し満足しているならば、前進にとって致命的な打撃になりかねません。登山家にとって最大の危険は、登ってきた後ろを見ることである、と言われています。
 では、その積極的な面に目を向けましょう。それは、ひたむきに前のものに向かって進み、イエス・キリストにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと、目標を目指して直向に走ることです(3:14)。
 ここでパウロが「目標」と述べていることは、どういう意味でしょうか。全たき聖めといえましょう。主がきよくあられるように、自分を清くすることです。言い換えますと、キリストに似た者となることを望み、キリストがきよくあられるように、自分を清くすることです(Ⅰヨハネ3:2~3)。別言しますと、この目標は主ご自身です。私たちのキリスト教的人生観・価値観・生活観・思考生活・言動など、私たちの生き方の領域全体をキリストご自身に支配していただくこと、つまり、キリストを中心として一心に走ることが目標を目指すことです。
 
s-200910091442000.jpg 私たちは、ここで真にパウロの生き甲斐を見るのです。生き甲斐は、普通「子供だけが生き甲斐だ」とか、「中華料理を毎日食べるのが生き甲斐」などと言う、生きて行く張り合いと言う意味で使われています。パウロは、キリストに絶対的価値観を発見したので、生き甲斐を感じたのです。それが「ただ捕らえようとして追い求めているのである。」「ただこの一事に努めている」「目標を目指して走っているのである」と言うようにキリストをひたすら追い求めさせていただいたのです。
 宮城音弥氏は「人間年輪学入門」(岩波新書)の中で、生き甲斐の類型を6種類に分類しています。無執着人、冒険人、逃避人、義務人、享楽人、追求人です。特に、追及人に目を留めましよう。宮城音弥氏はこれを、「あくまで目標に向かって進んで行こうとする人」と説明しています。パウロはこの「追及人」だったのです。「追求人的生き甲斐」は聖書的です。パウロ的です。そしてこれが私的、あなた的となるべきです。
 このように、聖書的・追求人的生き甲斐をもって、目標を目指して一心に走っていく時、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠」が得られます。これは神の召しに応じた報いとして与えられる祝福です。上からの報い、復活、栄化、そして永遠命です。贖われた者の命、全き祝福と言いかえられましょう。
 聖書的・追求人的生き甲斐に必要なものが2つあります。それは献身と集中です。献身とは、自分の体と命を投げ出して、あらゆるものを犠牲にして1つの目的のたまに一心に力を尽くすことです。集中とは、1つのところに集めることから、あらゆる力を結集して、また、あらゆる努力を払って実行に移すことです。
 神様からの恵みをいただいて、励んでまいりましょう。
 
 
  樋口信平著「ピリピ人への手紙講解説教・いのちのことば社」
 
                上河原立雄撰 
 
これらの文章の転載は許可を得ております。    
 
 
眸
眸(ひとみ)
 
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「つのぶえジャーナル」を毎月楽しみにしている一人です。「眸」の中に福祉の仕事に関わっている方のお便りを拝見し、一人悩んでいる自分に勇気をもらうことばかりです。そうして、沢山の笑顔や喜びも頂いて過ごしていることも知らされて、自分の仕事に生意気な言い方ですが誇りに思うことがあります。もう少しで20年になろうとしていますが、何時も失敗ばかりで、だめだ!ばかりです。どんな小さなミスでも絶対に許されませんのに・・・。
 学校で習った知識では追いつかないほどのいろいろの器具や複雑な操作の習得に経験が妨げになることがあります。受け入れる側の問題解決に弁解や時間はありませんが、現実は厳しいものがあります。数年前ですが、救急車のサイレンと共に、青ざめた表情で目をつむったままのご高齢の男性が来ました。何の反応もありません。
 医師をはじめ、私たちは一瞬にして緊張が走ります。隊員の説明では「近くの市の病院の前で倒れていたんですが受け入れてもらえず、あちこちの病院をあたっていたんですが・・・」と教えてくださいました。話を聞けば、発見から一時間以上たっているというのです。そんなに長い時間タライ回しされていたことに、自分に腹だたしさを感じました。
 私たちの側として万全のことをいたしましたが、二日後に息を引き取りました。老いた体で必死に助けを求めてきた病院の前で倒れ、タライ回しにされ、力尽きた男性の無念さを私たちは忘れてならないと思いました。命の重さ、尊さを思う時、改めて、今の仕事に誇りを持っています。・・・。
                 大阪府  O・Sさん
 
星とたんぽぽ
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる。
昼のお星は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。
 
散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。  (金子みすゞ童謡全集)
 
    自閉症者のひとりごと
(31)
 
9月26日
主人と二人で彼岸花を見に行きました。堤防一面彼岸花で埋め尽くされていました。今が見頃のそれらを主人はカメラを構えて、懸命に写真を撮っていました。わたしはデジカメで、何を撮っているのかわからないような写真ばかりを撮っていました。あまりにも広いので、帰りは疲れて、主人が撮っている間、しゃがみこんでいました。暑くて仕方がなかったけれど、稲穂のうえを赤トンボが飛んで、秋を思わせました。まあ、キラキラ光る彼岸花自体秋の花ですが。良い休みでした。
 
9月27日
こんなに穏やかな気持ちでいられたのは、何ヶ月ぶり、いや何年ぶりだろう。説教を寝転んで聞きながら、そうだ神様という大河をライフジャケットを着けて浮きながら生きているのだ。流木が当たったり、石にぶち当たったり、水位が上がったり、それでも神様の方向だから、身をまかせておけばいいのだ。それでいい。委ねるってそういうことなんだ。つかえが取れた気がする。
 
9eaa6ad3.jpg10月5日
わたしはニコチン中毒である。根性論では効かないので、禁煙外来にお世話になっている。そこで処方される禁煙補助剤を飲んでいる。タバコもアルコールも依存症なのだから、断ってしまわないとだめである。我慢しても無理である。人間、欲望には勝てない。そこで役に立つのが、自助グループで使っている12のステップだ。自分がアルコール、ニコチン依存症であると認めて、神様が健康な心にして下さると信じて、神様の配慮に自分をおまかせするのだ。口で言うのは簡単だが、なかなか難しい。しかしアルコールが止められていられるのは、神様の配慮に他ならない。ニコチンだって同じであろう。ニコチンマラソンだって、自助グループでいうミーティングみたいなものだから。
 とにかく悪しき習慣は取り除かねばならない。タバコもアルコールも健康を損なうものだ。自助グループのメンバーの中には、祈り続けてタバコをやめられたと聞いた。だが最近、過食がひどい。吐くところまではいかないが、家にあるものをすべて食べてしまうと、コンビニまで走ってしまう。やれやれ。これでは太るはずだ。
 
10月16日
ここのところ、体調が悪くて動けません。医院に行くため起き上がりました。半端な時間なんだな。仕方がないので、いつも行く喫茶店で時間を潰すことにしました。なんだか鬱なのか、普通なのかわからない。やだこういうの。雨降りの前は痛みますか?持病のある方は皆そうおっしゃいます。わたしはあまり天候には左右されにくいですが、肌荒れがひどくなったり、思考にブレがでたりします。あぁやだやだ。
                       加納さおり
世田谷通信
 (71)
 猫 草
 
6379097b.jpgウーパールーパーというやけに引っ張った名前の生き物をご存じだろうか。サンショウウオの仲間で顔の周りにヒラヒラした飾りのようなものをつけたやつである。あれはエラ呼吸をしていた時のなごりで、実はオタマジャクシにもある。カエルになるまでのほんの一時期だけですぐに体内に消えてしまう器官だが。そうエラ呼吸から肺呼吸に変化する途中段階のところで止まってしまった形である。「幼形成熟」というのだそうだ。
そのウーパールーパーを飼い始めた。顔が大きくて手足が短い幼児体型、頭の横にはイソギンチャクの触手のようなひらひらが左右3本ずつ。きょとんとした表情を浮かべているところも赤ちゃんっぽい。ものすごく食欲旺盛。乾燥エビや乾燥赤虫をあげると大きな口で丸呑みにする。そしてお腹いっぱいになると「遊び」はじめる。水槽のエアポンプの泡がブクブク出ているところにやってきて手足を広げ、ふわっと浮いて流れに身を任せる。何度も。まるで水中で「わーい」と歓声をあげて遊んでいる子どものようだ。他愛ないその行動を飽きずに繰り返している。
人間は何かと理由をつけて一生「遊び」たがるが、それ以外生き物で「遊ぶ」という感覚があるのは幼少期だけなのだと思っていた。子猫はやたらじゃれるし、子ウサギも無邪気に跳ねまわる、しかしあっという間に大人になると「めんどくさい」と言わんばかりに暇な時にはごろん、と横になったままのことが多いではないか。ウーパールーパーの隣の水槽に住んでいるご長寿アカハライモリは餌を食べる以外はじーっと穴の中にもぐったままである。余計なエネルギーは使わないのが生きる知恵であり、分別や知識をつけて、無駄なことはしなくなるのが「大人」かもしれない。しかし一方で、人間は「遊び」に憧れたまま成長してしまう部分があるのだろう。癒しとかリラクゼーションとか趣味とか・・ちょっと見渡せばそんな言葉が氾濫している。「無趣味な人」は退屈だと言われるし、老後のために趣味のひとつもないと、と強迫観念にとらわれたりする。でも「さあ遊ぶぞ!徹底的に効率よく完璧に遊ぶぞ!」と気合をいれてもかえって疲れてしまう。今日もウーパールーパーが呑気な顔で頭のヒラヒラを揺らしながら水槽の中をお散歩している。日常の中のほんのちょっと、つい、ふと、という自分のためのひとときが「遊び」の時間なのかもしれない。
  その愛のゆえに
  =時々の記=
    (44)
9月24日
秋の大型連休も終わり、どことなく静けさが取り戻されつつあります。名前は、シルバーウィークという、何とも響きのよいものですが、名古屋の往き帰りだけでも、通常の約3倍は時間が掛かってとても大変でした。無事に帰ってくることができて、ほっとしています。「教会の言葉」は、それぞれ、とても勉強になりました。とにかく、各教会が、原点に立ち返って、神さまのみ言葉を真剣に宣べ伝え、祈りつつ歩まねばならないことでしょう。
プラタナス 図書館前に葉を落とす
稽古ごと少し進みて 秋深し
明星の光り残れる 朝涼し          馬場路哉
きょうは、これから犬たちのワクチンの接種です。上野まで、三回往復です。
 
2f67dc97.gif9月29日
三重大病院へ、レントゲンの検査結果を聞きに行ってきました。異常なしと主治医の先生から伝えていただき、いつものことですが、ほっとしました。来年の一月まで、猶予があたえられました。こちらは、久しぶりの雨で、畑の作物や、野の雑草たちもやれやれという感じです。でも、もう少し降って欲しいですね。尾鷲では、豪雨というのに。
 
9月30日
朝から雨です。やっと、地面が湿るほどに降ってくれました。昨日は、やはり疲れましたが、結果が良かったので、あまり気になりません。雨の中でしたが、いつものように、主人と、犬たちと散歩できたこととても感謝です。
絵のごとく 入日に映ゆる秋の雲
日が落つと にわかに起こる虫の声
奥伊賀の雲低くして 花槿(はなむくげ)   馬場路哉
あっという間に、金木犀は、花を落として、今は何の香りも放ってくれません。花の命は短くてとは、桜のことだけではないように思われます。でも、それぞれの生きとし生けるものが精一杯与えられた命を生きているのは、とても励まされるのです。
 
10月5日
今朝は、また、随分冷え込みました。夕暮れもはやくなりまして、6時には、薄暗くなっています。朝は、5時30分にならないと、暗くて犬たちとの散歩はできません。秋の深まりを感じるこのごろです。今日は、10月第一聖日でしたのに、二人とも教会の礼拝に欠席いたしました。というのは、我が家の隣りの長男に男の子が誕生したと言うので、今年の村祭りに村の方に披露する行事が行われます。そのプレ行事が昨日あり、一日中朝から晩まで、手伝いに行っていました。まだ、江戸時代の古いしきたりが脈々と残っている村です。それを受け継ぐものが少なくなっていますが、生きているものたちだけで、続けられる間、続けていこうと言うことです。
 
10月8日
台風18号の激しい雨風が今漸く通過していきます。テレビで、愛知県は、知多半島付近に上陸した模様と伝えていました。名古屋の町並みも写っています。まだ、激しく木々がゆれています。雨も横殴りに降っています。収穫前の農家の方は、大きな被害がありませんようにと祈る思いで、台風の過ぎるのを見守っていることでしょう。今朝の犬たちの散歩には、すこし、勇気が必要でした。気象予報士の方が、外出は危険です。控えてください、と言っておられましたが、犬たちは、お構いなしにせがみます。仕方なく、いつものように、いつもの散歩コースをでかけました。さすがの犬たちも身震いしながら、風と雨をまともにうけながら、無事に行ってくることができました。朝から、奈良市の方から、安否を尋ねてくださる電話が2件もはいりました。感謝です。
朝焼けに浅葱(あさぎ)色なる秋野山
穏やかや山峡(さんかい)覆ういわし雲      馬場路哉
 
10月10日
大きなつめ跡を残して、台風は日本列島を縦断していきました。こちらでは、名張川が上流で氾濫し、下流の山添は危機一髪というところまで、川の水が流れ込んできました。
恐ろしい勢いでしたが、住宅地は大丈夫でした。
今朝は、とても冷え込んで寒い朝となりましたが、これからは、太陽がてりだし、久しぶりに明るい一日となりそうです。
 
10月14日
明日10月15日は、この波多野地区の秋祭りです。神輿や、鬼の行列が我が家の家の前の道を練りあるきます。高齢化がすすみ、500キロあまりの神輿を担ぐものが減ってきました。何とか、8人のメンバーが揃いましたが、さて、8人で、往復八百メートル、石段百三十段あまりを担ぎ切れるでしょうか?昔は、12人以上で担いだと言われます。
宗教とは別にして、笛のピーひゃら、ピーひゃら、太鼓の音は、なんとも、昔懐かしいものです。村の人たちは、一張羅をきて、神輿のあとをついていきます。田舎の人にとって、唯一の楽しみだったのでしょう。若い世代は、そんな風習に目もむけませんが、ここに住み着いた方たちは、はしゃいでいます。
そんなわけで、普段は、枯れ葉がたくさん落ちている道ですが、明日ばかりは、ひとつの枯れ葉のないように、掃き清められます。祭りが近づくと、どこの家も、毎日、掃除に明け暮れます。今も、主人は丁寧に手ほうきで掃除しています。周りの家に合わせないと失礼にあたるので、ちょっと大変です。
 
10月16日
晴れ渡った、祭りでした。みな秋の収穫を無事に終え、神様に感謝する思いを、胸に携え、嬉しそうに、真っ黒に日焼けした顔をほころばせ、歯だけは、真っ白で、丈夫そうな体つきでした。最高齢は、満90歳の方が、神輿の紐を引っ張って、全体をリードしていました。さすがですね。教会でも、こうした長老方が、引退なさらず、教会のあり方、礼拝のあり方をリードしてくださったらなーと。ふと、そんな思いが湧き出てきました。一つ年とる度に、遠慮されて、あまり口出しされなくなっています。もっと、くちやかましく、忠告していただけたらなーと。
秋も、いちだんと、深まってきました。今から義母のお見舞いと、昨日のこちらの様子を伝えに行ってきます。
 
10月17日
瞬く間に、10月も半ばを終え、いよいよ、秋たけなわというところでしょうか。面白いことに、庭の金木犀の一部が、再び、花をちらほらつけはじめ、良い香りを放ってくれています。今朝、どこから、こんな良い香りがするのだろうと、金木犀に近づいてみると、小さな蕾が、そこここについているではありませんか。びっくりしていると、ほのかな香りがするのです。
御言葉に聞く約束や秋深む
木犀や平安なれる日の続く
草の戸の巡らに見ゆる秋の草。
きょうは、久しぶりにうす曇りとなっています。そして、また、いつものように、年寄りだけの村にもどりました。とても、静かです。どこからも、物音ひとつきこえません。
私の部屋の時計の秒針のコチコチと刻まれる音が、妙に大きくきこえてきます。
 
                    馬場暁美
                  (上野緑ヶ丘教会員)
 
   キリスト者の生活綱要  (3)
  ジャン・カルヴァン著
    ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
    吉岡  繁訳
 
  第1章 謙虚な服従、真実にキリストにならう1210d7b2.gif
 
 1 聖書は生活の規範である
  1  神の子らの新しい生活の目標は、その生活において、メロデーとハーモニーを奏でることである。メロデーは神の正義の讃美であり、ハーモニーは神の義とわれわれの服従との和音である。われわれが、すばらしい神の律法の中を歩む時だけ、天の父の子とされたことを、確信するようになる。
     この神の律法には、新しい生活の原動力がある。その力によって、神の像が、われわれの中に完全に回復されるが、われわれは本性において怠惰であるから、一つの指導的原理によってその努力が励まされ支援される必要がある。真心から真剣に悔い改めても、それで、もうまっすぐな道から迷い出ず、時には惑わされることもないという保証にはならない。それで聖書を調べ、われわれの生活を改革するための根本原理を探すことにしよう。
  2  聖書には非常に多くの勧めがあるので、その全部を論ずることをすれば、大きな書物が必要になる。昔の教父たちは、徳について膨大な書物を著した。それは決して無駄なおしゃべりではないが、どんな学問的教説でも、もろもろの徳の中の一つの奥深さえ教え尽くすことはできない。
     しかし、まことの敬虔のためには、そうした教父たちのすぐれた著作を読む必要はなく、聖書の唯一の基本的規範を理解すればよいのである。
    (注)カルヴァンは、ここに「わたしは、簡潔を愛するので、多く書くことには適していない。しかし、将来このことを試みるかもしれない。もしわたしが、できなかったら、その仕事を他の人に残そう」を挿入している。
  3  キリスト者の生活について、一つの簡潔な教えが記されたとしても、他の入念な議論が不必要になったとか、哲学はもう何の価値もないというような結論を、それぞれから引き出してはならない
     哲学者たちは野心的であるために、巧妙な明確さと器用な精巧さとを旨とするが、聖書は、美しい簡明さをもちつつ、その正確さにおいて、すべての哲学者に勝るのである。哲学者たちはしばしば感情を飾ろうとするが、聖書はそれとは違った方法(直接的で簡潔な方法)を用いる。これは決して侮られてはならないことである。
    (注)カルヴァンは、ここで明らかにⅠコリント1章~3章を考えている。
:再読希望者がおられますが、「キリスト者の生活綱要」は在庫がないため、この「つのぶえジャーナル」に連載しています。つのぶえ社)
 
 
 
 
「地域の人々と共に」 その66e3c5273.jpg
  …二人静…
 
子供たちは、それぞれの道を歩み始め、私の勤めも、そろそろ定年を迎えるころでした。夫が59歳で、くも膜下出血で倒れ、救急車で、岡波総合病院に搬送されましたが、意識は戻ることなく、奈良県立病院に転送されました。
しかし、好転することなく、一年あまりの入院生活の甲斐もなく、息をひきとりました。その間も、私は、診療所を休むわけにはいきませんでしたので、土、日の二日間だけしか、看病に行ってやれませんでした。夫の異常に気付くことが出来なかった自分にとても、自責の念を感じたのでございます。
血圧を測っても、普通より、少し高いだけでしたので、大丈夫かと考えておりました。今から思い返せば、よく頭が痛いと言っておりましたので、その時に注意して、血圧を下げるために食事療法をしていれば、あんなことにならなかったのではと、悔やまれてなりませんでした。
他人様の病気の異常を見つけて参りました。それなのに、自分の家族、最愛の夫の異常に気が付かなかったのは、無念でした。夫を失った私は、60歳という定年を延長してもらって、医師として、がむしゃらに働くようになりました。それは寂しさを紛らわすためにでもありました。
今まで多くの患者さんの、死亡診断書を書いてまいり、検死に立ち会うこともありましたが、家族、特に、夫の死を前にして、何もできず、ただただ、泣き崩れるばかりでした。
そして、私に代わって、夕飯の準備をよくしてくれていた夫に申し訳ない思いで、いっぱいになりました。
惨めな、弱い一人の人間に過ぎないのだ。反省することばかりでございました。夫が、私の務めに理解を示し、協力してくれたお陰で、長い間、仕事に専念できたのでございます。今でも、夫には感謝しております。
森三菜子
 
『旧・新約婦人物語』(3)
 
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マリヤ(Ⅰ)
 
おとめマリヤは全世界に一番よく知られているクリスチャン婦人です。しかし残念に思いますことは、マリヤについて多くの人々に知られていること、また信じられているところ、それは聖書に基づいておらず、おもに迷信であって、わたしたちはよく気を付けて、主の母マリヤのことを研究しなければ、いろいろと間違った考えに陥る危険があります。
ルカによる福音書1章26節以下に、マリヤのことが記されています。わたしたちがここで教えられることは、
1 彼女の生まれはガリラヤのナザレであること。
2 彼女はダビデの家のヨセフと言う人と婚約の間柄であったこと。
3 神の不思議な摂理によって、彼女はすべてのユダヤの婦人の内から、主イエス・キリストの母として神に選ばれたこと。
4 神がこの喜びの知らせを天使ガブリエルをお遣わしになって、彼女にお知らせになりました。その時、マリヤはひどく驚き胸騒ぎしましたが、この知らせを信じ、主のはしためとして、聖霊の不思議なお力でみごもっている子の生まれるのを待ち望んだこと。
 これらの事柄を考えて見ますと、マリヤ自身は完全なものであったとは、聖書には書いてありません。何の罪もなく、清いおとめであったから、イエス様の母として選ばれたとは言えません。またマリヤ自身の善い行いの報いとして、イエス様の母となれたとも記されてもいません。ただただ神の不思議なお恵みによって、イエス様の母として選ばれたのです。
 ガブリエルの言った言葉、「恵まれた女よ、おめでとう・・・」(28)をよく味わって下さい。この本当の意味は、わたしが申しました意味と同じだと思います。マリヤは実に世の婦人の内、最も恵まれた女性です。神のひとり子を暫くの間でも、自分のお腹に宿し、イエス様が赤ん坊の時から彼女は「お母さん」と呼ばれ、あの十字架の最後の時まで、彼女を母として愛したのです。
 しかし、主イエス・キリストの母としての尊い務めを果たすその喜びも大きかったでしょうが、反面、その責任の重さと、神への犠牲の大きさも、わたしたちの想像も及ばないものがあったと存じます。
 このところで皆様に考えていただきたいことは、マリヤの特徴はどこにあったかということです。
1 彼女の謙遜であります。彼女は自分をいやしくし、「わたしは主のはしためです」(38)と答えております。彼女には別に人目をひくような能力も、世の人が考えているような清さもない、小さな片田舎のおとめにしか過ぎなかったのです。
2 この謙遜なおとめが、喜んで神のお言葉を聞き、それを信じて服従した時、彼女は全世界の婦人の内で、一番恵まれた者となったのです。
 しかし、謙遜だけでは足りないと思います。たとえいかなる犠牲を払っても、わたしたちは勇気を持って神に服従して行かなければなりません。マリヤの場合、服従はかえってやさしいことで、彼女の妊娠に対する村の人たちの誤解と非難はどんなであったでしょう。夫のヨセフでさえも一時は、彼女を離婚しようとしたほどです。わたしたちは、マリヤのこの謙遜と神への服従に、彼女の涙の苦闘があったことを忘れてはなりません。
 どこまでも神に従って行くことの難しさが、つくづくと感じさせられます。
 「兄弟たちよだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。こうして、わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである」(Ⅱペテロ1:10~11)。
 わたしたちは皆選ばれた者です。選ばれた者として、神から命じられた使命があるはずです。その使命が大であれ、小であれ、わたしたちは懸命に果たすべき責任があります。あなたは今、選ばれた者として、神よりの務めをどのように果たしておられるでしょうか。
 
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(28)
 
 キリシタンの貧しい人々への救済(1)
 キリスト教の伝来とその展開(1)
 
3d77eebf.gif 今月号から、日本に視点を移してみましょう。歴史の流れに沿いつつ、社会福祉活動の歩みを振り返ることで、日本の歴史のある一面を垣間みることになるのではないでしょうか。
 
 日本にキリスト教がもたらされたのは1549年(天文18)でした。ポルトガル人が種子島に漂着したのは1543年と言われていますから、日本と言う国がヨーロッパに紹介されて間もない時期と言えます。日本のキリスト教宣教のきっかけは、聖フランシスコ・ザビエルが日本人アンジロウに出会ったことによると言われています。
 アンジロウに日本におけるキリスト教布教の可能性を聞いて、ザビエルは日本へ渡る決心をしたようです。ポルトガル人のパードレ(神父)・ザビエル及びイルマン(修道士)・フェルナンデス、スペイン人のパードレ・トルレス、インド人のアマドール、中国人のマヌエル、そして日本人アンジロウ(洗礼名パウロ・デ・サンタフェ)ジョアン(フロイスによるとアンジロウの兄弟)及びアントニオの一行8名は、マラッカより日本に直行しました。(フロイス著・柳谷武夫訳「日本史キリシタン伝来のころ」平凡社)
 1549年8月15日(聖母被昇天の大祝日、陰暦7月21日)鹿児島に上陸、アンジロウの家の客となる。やがて領主島津貴久よりキリスト教の布教の許可とささやかな住家を与えられた。鹿児島滞在約1年、布教活動はかならずしも十分な成果をあげ得なかったが、ザビエル一行は、1850年8月、都に向かって鹿児島を出発しました。
 
 ザビエルは日本に来る前から、「日本へ行けば、第一に国王のいる処へ行き、次に諸大名を訪ねるつもりである」(聖フランシスコ・ザビエル書翰抄上)とイエズス会の創立者イグナチウス・ロヨラ宛の手紙で述べています。先ず都にのぼって、天皇に拝謁し、全国的な布教の許可を得ることが望みでした。途中、山口で領主大内義隆に謁見、領内での布教の許可を得ています。 
 1551年1月半ば、ザビエル一行はようやく京の都に到着しましたが、都はザビエルの期待を全て裏切るものでした。天皇も将軍も名前のみであって、全国に号令する「国王」ではなかったのです。戦禍で荒廃した都に滞在したのは僅か11日で、ザビエル一行は平戸に引き返しました。そこで布教は西の京とも呼ばれ、大内氏のもとで繁栄を誇る山口に定めました。4月末、インド総督の使節として、ザビエル一行は、威儀を整えて大内義隆に謁見、インド総督とゴアの司教から託された親善の書簡と数々の贈物を献上しています。義孝は、大いに感激して領内に布教活動の許可と共に、無住の一寺をも与えています。ザビエルは、以後4ヶ月山口で布教活動を続けています。「その説教の内容は、まず天地創造のことから説き始めて、必ず次の三ケ条をあげて叱咤することであった。第一、日本人は自分たち人間が、天地を創造した神を拝まず、甚だしきは木や石を拝んでいる。第二、人間の自然性に反する男色は最も汚らしく、嫌うべきもので、神の重い罰が下るであろう。第三、日本では平気で行われる幼児殺しと堕胎は、人道に反する重罪である」(片山弥吉「日本キリシタン殉教史」時事通信社)。
 
 
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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