2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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世田谷通信
(69)
過去の統計データから将来を予測するときには、突然変異的な発明や発見といったまったく未知の要素を入れることはできない・・つまり現在の延長線上のラインでしかない・・。しかし「今ここにないもの」を予見する手段として、人間の想像力がある。過去の優れたSF、サイエンス・フィクションで「未来社会」あるいは「夢物語」として描かれていた世界が現実となる瞬間もある。インターネット上にあるフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』をご存じだろうか。匿名の編集者15万人、260以上の言語で書かれ、1千万の項目をもつ、そして今この瞬間も編集され増殖し進化を続ける百科事典である。これは「その項目について知っている」人が個人的な知識を書きこんでいく巨大な共有百科事典である。
つまりあなたも私もその項目について何らかの情報を持っていれば編者の一人とし て参加できるのである。もちろん個人の知識には誤解や間違いは多々ある。故意に事実を歪曲した記述もあるだろう。最初は「信用できない」部分も多く、批判されたが、数人~数十人の「その道の権威」が編纂した市販の百科事典にだって同じことは言える。その時点での最新知識は分野によっては1年以内に過去の遺物となる。その点通称「ウィキ」は紙面や締切や価格の制約もなく、延々と書き込みと修正、編集が続けられるのだ。これはまさに人類の共有知ではないだろうか。これはアイザック・アシモフというSF作家が「ファウンデーション」(銀河帝国興亡史)シリーズの中で書いていた銀河百科事典のイメージと重なってくる。銀河のすべての知識を網羅するという壮大な目的で脈々と受け継がれ編纂され続けるエンサイクロペディア。
この作品の第1部はなんと1942年から1953年に書かれている。パソコンが世の中に現れたのが1970年代、インターネットが出現したのが1990年代、爆発的普及は2001年以降と言われている。まさに「この世にまだないもの」を予見して書いているのだ。さらにアシモフと言えば「ロボット」という言葉を最初に使った人でもある。これも初出は1950年というから驚嘆するしかない。ちなみにアシモフは世界初のしゃべるロボット「ロビイ」が発明される数年前の1992年に亡くなっている。作品の中にこんな1文がある。「完全に論理的かつエレガントに見えて、しかもなお表現されていない仮定を含んでいる議論というものがあるかもしれないよ」(出典:「ファウンデーションと地球」)そんな高みから物事をとらえることができたら、どんなにか清明な心持ちとなれるだろうか。想像もつかない。
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その愛のゆえに
=時々の記=
(42)
7月17日
藤沢さんご夫妻と、十数年ぶりにお会いすることが出来ました。お二人とも、共に若く、実年齢を、お聞きしても、それよりも10歳は若いでした。父は四日市教会での5年あまりの兼牧でしたが、母は、とても四日市教会のことを懐かしく、しかも鮮明に覚えていたので、私の方が驚きました。藤沢さんは、今は、まきば幼稚園の園長先生と理事長を兼ねておられるとのことでした。
神様の祝福を受けて、この少子化の中、園児がたくさん集まり、感謝しているとのお話しに、聞いている私たちも、ともに神様のお導きを感謝いたしたのでした。奥様の深根子さんは、若いころから、今にいたるまで、教会学校のご奉仕をされているとのこと。とても、励まされたひと時でした。
花時計 斜面の刈られ ねじり花
紫陽花や 旅先めける 郷の道 馬場路哉
今年は、梅雨明けがいつもより遅いですね。今日も、どんよりとした、蒸し暑い朝です。
予報では、昼前から激しい、雷雨になるとか異常気象が、続きそうです。
7月20日
7月も終わろうとしているのに、まだ梅雨が明けず、うっとうしい、蒸し暑い日がつづいています。心温まるメールを有難うございます。いつも、身構えてしまう自分に嫌気をさすものです。もっと素直に、心から感謝したり、心から喜んだり、お祈りもそうです。今のこの自分の思いを神様と向き合って独り言になったとしても、対話できたら、どんなに、身が軽く感じられることでしょう。
野の花、空の鳥、それらは、神様からあたえられた命を素直に生き生きとまっとうしています。そんな一日一日を生きていきたいものです。
先日、お会いした藤沢さんご夫妻とお別れするとき、また、ジャーナルでお会いしましょうと言っていただき、本来なら涙が出そうになっているところでしたが、そうだ、ジャーナルで、お会いできるのだと笑顔で、お別れすることができました。この、ジャーナルのお陰で、多くの方と、旧交を温めあうことができ感謝です。藤沢さんたちと、お会いできて、母は、夢のようだと申していました。
日の当たり 燦然(さんぜん)として 合歓(ねむ)の花
万緑や 底に 渓流光りをる
グラジオラス 赤道思う 深紅かな 馬場路哉
7月29日
きょうは、娘とその子供が帰ってきました。娘だけ奈良へ帰りましたが、孫は、泊っていくとのこと。急に忙しくなりそうです。子供には、自然の多い山添が良いようです。
主人と虫捕りに出かけています。私は、久しぶりにハンバーグなるものを作ろうと、夕飯の準備をし始めています。
8月3日
久しぶりに手つくりハンバーグに挑戦いたしましたが、昔とった杵塚でしょうか。我ながらレストランとまではいかないけれど、満足いく出来具合でした。主人は、孫を連れて、名張の図書館へ、本の返却にいきました。
そこで、孫にも自分の今はまっているトルストイの本を借りさせ、孫は、犬がくわえていた、肉の棒を川に写った姿を見て、落としてしまったと言う、話しを読んで聞かせてくれました。やはり、いつもの生活パターンと違って、疲れてしまいました。子供は、親が面倒をみるのが、一番ですね。そう感じた二日間でした。
8月8日
7日は、暦の上では、秋、立秋でした。これからは、残暑というそうです。こちらは、これから、真夏の暑さになりそうですが、今朝はやくから、石塔の草引き、ゴミ拾いと忙しく動きまわってきました。どの家も、すでに、とてもきれいに掃除してありました。我が家のところだけ、ちゃんと草だらけのままでした。何をするにも、いつも、一番遅いので目立つ存在になってきました。
あんたとこの墓だけが草だらけやで。神様を信じているのやから、目に見える墓を大切にしなきゃあかんやろ。キリスト教でも先祖は大事にしてくれやな、と隣の叔母さんにしかられています。今年は、わたしたちにとっては、早めに行ったのですが、また、どべでした。
8月13日
ここ山添も寝苦しく、除湿機で乾燥させないと、眠る事ができないほどでした。今朝も、その、余韻が続いて、蒸し暑く、朝からぐったりです。
盆と言うことで、隣近所は、とても美しく草が引かれ、里帰りする子供たちを待っているようです。
私は、何もしていないのに、どうしたことか、喉が痛く、頭も痛く、口の中には口内炎が大きく出来、昨日一日、寝てすごしました。今朝も、少し頭がすっきりしません。田舎の方と仕事をすると、決まって、一番に弱ってしまうのです。体の弱い者は、田舎の生活は、とても大変です。
萎れたる(しおれたる) 朝顔のそば 蕾あり
白シャツの牧師 許しを説きにけり
図書館に 集える母子 夏休み 馬場路哉
きょうは、主人は、これから与力内の(よりき)初盆と言うことで、昼食を戴きにいきます。
江戸時代のしきたりをいつまでも、受け継いでいる村ですので、付き合いは大変です。
時代が、変わっているのですから、改善していかねばと、我が家から、改革をしていこうと考えています。
たった一つのキリスト教の家族ですから、世間の体制に押し流されそうになります。祈りつつ、歩みます。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
キリスト者の生活綱要 (1)
Golden Booklet of The Trut Christan Life
By John Calvin
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
序
「真のキリスト者生活の黄金律」(The Golden Booklet of the True Christian Walk)
は、最初、De Vita Hominis Christiani(On the Life 0f the Christian Man、「綱要」の第3巻6章の現在の表題)で、ラテン語とフランス語で出版され、後に同じ表題で、英語(1594年)、ドイツ語(1857年)で出版された。オランダ語で初めて出されたのは、この表題で1858年であった。本来、これは独立した書物ではなく、「綱要」の一部であったが、短い初版ではなく、第2、第3、第4版において、「キリスト者の生活について」という表題をもった最後の章、つまり第21章であった。第5、第6版において、カルヴァンは、「綱要」の内容を、父、子、聖霊、教会の4つの項目に整理した。「キリスト者の生活について」をまったく改訂して、彼は第3巻の中ほどに置き、それを第6章から第10章までの5つの章に分けた。この「綱要」は、ラテン語でも、またその他の国語でも、しばしば版を重ね、ある部分は個別に出版された。この「黄金律」はオランダ語では4回にわたって再販され、その最終版が1938年であった。この英語版は、カルヴァンが全面改訂した版からの翻訳で、「黄金律」のフランス語とラテン語版(綱要6章からダイ10章)によるのである。
この「黄金律」は、特別な目的のために、「綱要」の他の部分よりもやさしい文体でかかれた。この霊的かつ実践的な性質は、キリスト教ルネッサンス時代(1350年から1500年)に、ヨーン・ファン・ルースブルーク(John Vsn Ruysbroec)や、トマス・ア・ケンピス(Thomas a Kempis)を生んだオランダ国民に、消すことのできない感動を与えた。それはまた、ピルグリムやピューリタン、さらにはキリスト教をバランスをもって実際生活に応用することの必要を感じていたすべてのグループの人々に、驚くべき感動を与えたに違いない。
カルヴァンは、頭脳と心情と手の業に思いを向ける。それは、彼こそが、キリストの三職(預言者・祭司・王・訳者注)の教理を大成した最初の人だからである。彼は、理知的であり、神秘的であり、実践的である。彼の基本原理は、多くの学者、宗教的指導者、政治家を満足させた。それと同時に、この「黄金律」ほど深遠で、しかも普遍性のある瞑想の書は、この世に存在しない。文体、精神、生き生きとした文章に関しては、アウグスチヌスの「告白」、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」、バンヤンの「天路歴程」のような、偉大な古典と競うことができる。ただこれは、より短く、公正で健全であり、より力に満ち要領を得ている。そのため、これは、まことの宗教性を持つすべての人々、特に、宗教の価値を日常生活において実践しようと願う人々によって、歓迎されるべき書物である。
この新しい訳は現代語訳であるが、古典本文にはできるだけ近づけるように努めた。しかし、編者は、ある章の表題を、その内容にいっそう一致するように変えたところもある。また、各節に見出しをつけ、節をさらに細かい項目に分け、若干の聖句引照を括弧に入れてつけ加えた。
ここに簡単な伝記を、読者の興味のために載せておこう。ジャン・カルヴァンは、1509年に、北フランスのノアイヨン市に生まれ、1564年に、スイスのジュネーブで死んだ。彼は、母国の大学で、古典学と哲学、法律と神学の教育を受けた。迫害のためスイスのバーゼルに逃れ、そこで「綱要」の初版を書いた。その時、彼はまだ26歳であった。その後、彼は北イタリアの、フランス王の妹フエラ大公妃の下に身を寄せた。大公妃が多くの改革派の亡命者に庇護を与えていたからである。イタリアからバーゼルへの帰途、友人ファーレルの強要で、ジュネーブの改革を援助することになった。この地でカルヴァンは、新しい国家を建設することはしなかったが、新しい教会、すなわち改革派(リフォームド)、あるいは長老派(プレスビテリアン)と呼ばれる教会と、有名な大学を有する新しい学校制度をつくった。この新しい大学の大学院、すなわちアカデミーで、カルヴァンは神学の教授になった。
その短い生涯のなかで、カルヴァンは58冊の書物を著した。あるものはラテン語であり、あるものはフランス語であった。彼の著作は神学的であるだけでなく、その多くのものは倫理学的、哲学的原理を含んでいて、それが新しい思想体系の基礎を築いた。彼の「綱要」は、200年もの間、教義学、倫理学、そして哲学の教科書であった。彼は、西ヨーロッパの諸国に熱心な信奉者を得ただけでなく、ハンガリー、ウクライナ、ポーランドにもそうであった。彼の最大の影響は、スイス、ライン渓谷、オランダ、イングランド、スコットランド、そして最後に、しかし最小ではなく、北アメリカに見られる。
カルヴァンの聖書注解は有名であって、最近アメリカで新しく再販された。その「綱要」も多くの大学、神学校で、再び教科書として用いられるようになった。彼の思想は、彼の基本的概念に完全に同意しない人々によっても、研究されている。ジャン・カルヴァンは、やさしい性質の、背の高い人であったが、今や、ヨーロッパとアメリカの正統的プロテスタント陣営の指導的人物となっている。
1952年
ヘンリー・J・ヴァンアンデル
カルヴィン・カレッジ
グランド・ラピッヅ・ミシガン州
:再読希望者がおられますが、「キリスト者の生活綱要」は在庫がないため、この「つのぶえジャーナル」に連載いたします。つのぶえ社)
「地域の人々と共に」 その4
…二人静…
医療に携わって小児科医の資格を取得し、医師として専念して仕事に取り組み始めたのもつかのま、昭和22年に、次男が誕生いたしました。昭和27年には、三男が誕生が与えられました。仕事を続けながらも、育児にも携わらねばならず、忙しい日々が続きました。これは、私だけではございません。農家に嫁いだ女性は、農家の仕事、子育て、妻として、嫁として当然のことでございました。
往診用のかばんは、6キロぐらいの重さでございましたから、かばんは持ってもらいましたが、一度、呼び出されると、ほとんど一晩かかりでございます。それは、患者さんは、一番不安になるのは、夜だからです。
ご家族と一緒に容態を見守るには、時間が必要です。あせってしまうとミスをしかねません。どんな時にも、あわてないこと。きっちりと消毒をすること。これだけは、鉄則でございました。ある患者さんは、手を握って、脈を計っているうちに、落ち着いてくるときもありました。うれしい時でございます。朝、明るくなるころ自宅にもどり、また、次の日は、普通の診療が待っています。自分でいうのもなんですが、本当に体が強かったから、医師として勤められたのでございます。
そして、医師として、大切なことは、耳がよくなければなりません。この研ぎ澄まされた耳から聞こえる異常が発見できなくなったときには、自分は、医療を辞めなければならないといつも、考えていおりました。
森三菜子
『旧・新約婦人物語』(1)
「すべての人間の母エバ」
創世記2章
旧約聖書に登場してきますいろいろな人物の中から、主な婦人たちについて、考えつつ学びたいと思います。この研究によって、少しでも、お互いの信仰が強められ、励ましとなれば幸いです。
さて、この研究で第一番に取り上げられる婦人はもちろん聖書の一番初めに現われてまいりますエバであることは、言うまでもないことです。では、エバはどういう婦人だったのでしょうか。どこに住んでいたのでしょうか。親は一体誰であったのでしょうか。
ご記憶下さい。エバには私たちの両親のような親はなかったのです。彼女には赤ん坊の時も、少女時代もなく、エバは神によってアダムの次に、大人として完全な人として、この世に造り出されたのでした。これは神様の聖なるみ業の一つでした。創世記2章20節と23節を見ますと、「そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠ったときに、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへつれてこられた。そのとき、人は言った。『これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう』・・・」。
この創造の順序が非常に大切です。神が第一にアダムを造り、その後にアダムの助け手として、エバをお造りになったのです。パウロもテモテへの第一の手紙2章で「アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した」と同じことを言っています。ここで2、3のことについて学びましょう。
第一は、この20、21世紀におきまして、男女同権ということがやかましく叫ばれ、女の人も男の人と同様、権利・義務を持つべきだといわれて言われてきました。ここで私たちは聖書の与えている教訓を静かに考えねばならないと思います。男は男らしく、自分に任された範囲において、自分の責任と義務を果たさねばなりませんし、女は女らしく自分に与えられた範囲において、女としての義務と責任を果たすのが一番理想です。
第二は、皆さんもご承知の通り、このアダムとエバの二人が住んでいましたのは、エデンの園でした(創世記2:8)。この園はペルシャ湾の北西に当る美しい谷と川のあったところだと言われています。創世記2章14節を見ますと、2つの川の名が出てまいります。ヒデケルは現在のチグリス河であり、ユフラスはそのまま今もユーフラテス河と呼ばれています。それでエデンの園は、この2つの河の流域であったと思われます。
神様はアダム、エバの二人にこの園を治め、守らせになりました(2:15)。また神様は、彼らが何不自由なく住めるように、すべてを備えられました。彼らはエデンの園で自由に生活することができましたが、ただ一つの条件として、園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはいけないということでした。彼らは自由を与えられ、恵まれた境遇におかれていました。しかし彼らは自由を濫用し、神の戒めに背いて、「食うべからず」と命じられています木の実を悪いことと知りつつ、悪魔に誘われて先ずエバが食べ、アダムもついで食べたのです。
この悪と知りつつ犯した罪の報いを、彼らは免れる術はありません。彼らは犯した罪のために、エデンの園より追放されました。神から離れた彼らは、死ぬまで額に汗して日々の糧を得なければなりませんでした。しかも地は神の呪いのために、あざみと茨が生じたとあります。その上、女は生涯苦しんで子供を生まなければならなくなりました。「罪の支払う報酬は死である」とある通り、恐ろしいことです。
第三は、この恐ろしい悲惨な希望のない状態のうちにも、ただ一つの望みが彼らにありました。それは暗闇の灯とでも言いましょうか、暗い部屋に細い一本のローソクが燃えているような、かすかな望みでした。この希望というのは創世記3章15節に記されています。
「・・・彼はおまえのかしらを砕き・・・」という神様のお言葉です。いつかエバの子孫から悪魔の頭を砕く力のある者が出て、彼らを罪の苦しみより救うと言う神様のお約束です。きっとエバはその日を待ち望んだことでしょう。その内にカインが生まれました。エバはこの子こそサタンの頭を砕くものと思い「わたしは主によって、ひとりの人を得た」と喜びました。しかしそれは虚しい喜びでした。カインは自分の弟を殺すような大罪を犯してしまいました。
このサタンの頭を砕き、悪魔を征服して下さる救い主を待ち望む思いは、彼らの子孫によって永く受け継がれてきましたが、ついに、今から二千年程昔、ベツレヘムの馬小屋に生まれたもうたキリスト・イエスによって、そのお約束が成就されたのです。
このアダムとエバの罪(原罪)のために、永遠の命を失い、神の国への道をふさがれてしまいました。私たちはキリストの十字架の死による贖いによって、永遠の命を得ることができ、再び神に帰り、失われていた神との交わりを回復し、神の国に入ることが出来るのです。
ヨハネによる福音書10章10節には「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」とあります。愛する読者の皆様はどうですか、この命の道をしっかりお歩きになっていますか。
ポーリン・マカルピン著
(つのぶえ社出版)
…キリスト教…
社会福祉活動のあゆみ(26)
改革派教会における救貧活動(1)
今月号も、宗教改革を中心に改革派教会の視点で見てみたいと思います。
一般的には、社会福祉活動はカトリック教会がその歴史的経緯から、プロテスタントよりはるかに凌駕しているという印象があります。そのような印象は印象として、実際は、プロテスタントの救貧活動も目を見張るほどであると言うのは、何に起因するのでしょうか。
プロテスタント教徒の間における、25回(前号)で紹介したルターの提案とは矛盾するような現象はどうして起こっているのでしょうか。その理由は、プロテスタント教徒の多くは、ルターの勧めよりも、聖書の教えに忠実に従ったことであります。
「・・・、また、隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ19:19)というキリストの言葉、そして『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』(マタイ25:40)と言う勧めを実行したからでありましょう。
ヤコブの手紙にも、次のような行いのない信仰の虚しさを語っています。『わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っているという者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いたとき、あなたがたのだれかが、彼らに「安心していきなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、なんの役に立つでしょう。信仰もそれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです』(2:14~17)。
特にこのようなことは、ルター派から分かれたツイングリー(1484~1531)やカルヴィン(1509~64)等のルター派以外の諸教派に見られるところです。ツイングリーは「ルターが福音と律法を峻別し、信仰生活における第一義的なものを福音だけに限定したのに対して、ツイングリーは、福音は神の啓示のすべてでその中に律法をも含むと考えた。それゆえ福音を伝える聖書は、単なる恵みの媒介体ではなく、信者の生活を律する戒律的性格をもおびているものと理解された。ここに福音信仰は、社会的実践から遊離したものではなく、日常生活と結びついて考えられることになった」(半田元夫、今野国雄共著・キリスト教史)とすると、社会的活動としての貧しい人々への救済の実践も当然推進されることになります。
私は、ホスピスに入院しておられる方々とお話をする役目を与えられています。いろいろな質問を受ける中で、時に「死んだらその後どうなりますか」と聞かれることがあります。それは、間もなく自分が亡くなることを予想されてのことであります。この先、自分がどうなるか分からないのが不安である、というところから出される質問であります。しかし、これは癌末期にある人だけでなく、全ての人にとっての問題であろうと思います。
さて、こういう質問に対して、私は「私にはわかりません」と答えています。それは、死んだ後のことについては確かめようがないからであります。もちろん、これについて、例えば地獄・極楽のことなどを含めて様々な説明をされた方や、今もされる方がおられます。また、それを信じている方もおられます。それは、それぞれが想像したり、何かの示しを受けてのことであろうと思いますし、それを信じて人生を送っておられる方もあるかと思いますから、どういう答えが正しいとも正しくないとも言えません。
ところで、聖書の中に出てくるアブラハムという人は、神様から「生まれた故郷を離れて、わたしが示すところへ行きなさい」と言われたとき、住み慣れたところを離れ、行き先のことは知らないまま出発しました。75歳のことでした。無謀と言えば無謀です。しかし、アブラハムは、行く先のことはよく分からなくても、旅立ちを促したのは神様ですから、神様が責任を持って下さると信じて出発しました。
最初に言いました「死んだらどうなりますか」という質問に対しては、私は、「アブラハムは行く先どうなるか分かっていなくても、神様に促されての旅を続けました。だから、あなたも、この先のことはよく分からなくても歩き続けられてよろしいのではありませんか」と答えることにしています。
篠田 潔
(参照聖句・へブライ人への手紙11:8)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「ローマ人への手紙」研究 (58)
第39課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
A 神がユダヤ人を退け、異邦人を召されることは神の約束と矛盾するものではない。
9章1~24節(続)
「その愛顧を与えることにおいて、神は絶対的主権をもっておられる」
9章6~24節 (続)
神は陶器作りであり、人間は粘土であります。神は人間の行為が自由であり、すなわち、人間は行為について責任があり、そしてしかも神は永遠より人間のそれらの行為を予定しておられるように、人間を創造し形成されたのです。このことに反対する者は、自分が神の御手の中の粘土であることを喜ばない者であり、聖なる陶器作りに対して指図しようとする者なのです。
何故ならば、陶器作りには自主性を持っているが、粘土は全く依存的であるからです。もし人が神と同じ自主性を持っていたとすれば、彼の自由な行動は予定されることは有り得なかったはずです。しかし厳密に言えば、人間は被造物として神に依存しているので、人間の行為は予定されていても自由で有り得るのです。神は人間をそのように創造されたのです。神は人間をそのような種類の被造物として形成されました。神は人間をその行為が予定されながらも自由であるように創造されたのです。
人間は神に依存する存在として、神のみ旨に従って考え、神が人間の歴史に計画されたプランに基づいて生きるように創造されているのです。神は人間を自立的な存在としてお造りにならなかったのです。すなわち、人間をその思想と行為の絶対的創始者であるようには創造されなかったのです。
人間は神の被造物であり、従って、神に依存的であるばかりでなく、有罪の被造物であって、神の愛とあわれみを要求する権利は持たないのです。神は完全な主権をもってある者を救いに選び、他の者を遺棄する権利をもっておられるのです。このことは決して不正を含まないし、何人にも不平を言わせる余地を与えるものではありません。遺棄される者はその罪のために罰せられるのであり、それは正に彼らが受けるべきものなのです。選ばれた者はその罪から救われるのであり、それは神の自由な恵みによるのです。
パウロは、次に反対者たちに注意を、彼らが忘れている事柄、すなわち、悪い者たちが罰せられることも、選ばれる者の救いと同じく、神の栄光を現わすものであるということに向けさせるのです。このことは22~24節で述べられています。忍耐に富んでおられる神は、「滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれる」のです。何故なら、「神は怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせよう」とされるからです。
「悪人の処罰は決して神の気ままな行為ではありません。それは悪に対する神の聖なる怒りを明らかに示すためであり、また、神の聖なることを明示すためであります。他方、正しい者の救いは神の恵みの豊かさを示すためです。ある者たちの処罰と他の者たちの扱いということの両方において、最も、峻厳であり慈しみに富んだ神の御目的が遂げられているのである」。(C.ホッジ)。
一方的に、しかも非聖書的に神の愛のみが過度に強調される現代は、邪悪な者たちの処罰が、選びの民たちの救いと同様に、真に神の栄光を現わすものであるということを全く忘れ去っているのです。悪人の処罰は神の正義を示し、選びの民救いはあわれみを示すのです。今日、私たちは、聖書の中で語っている聖霊が「滅びることになっている怒りの器」と呼んでいる人々が現実にいることをすっかり忘れてしまっています。しかし、このことは疑いもなく神のみ言葉の真理なのです。
もし、私たちが真に聖書的な視点と主張を持っているならば、ある人々が永遠に滅びるということに対してでなく、ある人々が救われるということにこそ驚きを抱くべきなのです。新約聖書に描かれているような初代教会は、ある者たちが滅びることになっている怒りの器であるという考えによって非難されはしませんでした。それどころか、初代教会は罪に汚れた人類に対して、神が救いをお与えになるという良い知らせを聞いて、驚嘆と驚喜に満たされたのです。
そこでパウロは、22~24節で、神は罪人の処罰と選びの民の両方によって、栄光を現わされると言っているのです。彼はさらに付け加えて、救われる選びの民はユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも出るのであると言っています。このことは現在の私たちにとっては、明らかなことですが、その当時のユダヤ人社会においては、全く驚くべきことであって、彼らが受け入れるには極めて困難なことであったのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
10日ほど前にH子が突然、胃腸風邪になり久しぶりの発熱でびっくりでしたが、比較的軽く済んだのでよかったです。今、流行ってるらしいですね。気をつけてくださいね。基本の手洗い、うがいが大事ですね。発作も毎日のように続いていましたが、1週間前に薬をかえてもらってから、ピタリと止まり、今のところ調子良さそうで安心してるところです。
息子は今月末まで試験で、今頃大変な時期と思います。困ったときには、電話があるので元気でやっていることと思います。下宿といっても近いところにいるのですぐに様子を見に行ける距離なので安心です。
今年、私達は、銀婚式を無事迎えまして、5月に前から行きたいなと思っていた沖縄に、二人で行くことができました。綺麗な景色と真っ青な海にとても感動しました。
今度は、H子を連れてきてやりたいねと言う思いになり、来年の春休みくらいに家族5人で沖縄に行けるといいなと思ってます。息子もだんだんと学校の方が忙しくなってくるし、5人そろっての家族旅行も、これが最後かなと思ってます。
H子の体調が安定していないと、いろいろH子の思いをできる限り実現させてやりたいと言う思いがより強くなってきます。体調がいいところを見計らって、少しずつ実行に移してやりたいと思ってます。ヘルパーさんもとても協力的で、いい方に恵まれてとても助かってます。
どうか体調がこのまま安定していることを祈りながら・・・。H子が笑顔でいてくれることが、私の元気のサプリです!
三重県 N・Yさん
・・・。毎日暑いですね。上海には年に数回行っています。今回は7月の18日~21日まで次男親子のところへ行ってました。上海は名古屋より日差しが強く暑かったです。1日ずらしていれば、22日の日食が見れたのに・・・。あいにく雨で見られなかったけど、昼間真っ暗になり神秘的でず~と(すごい!すごい!)連発してたそうです。ほんと!悔しい!!限りです。最近、私は、あまり車を運転してないんです。息子は送迎してもらっており、用事の時は自転車だったり地下鉄だったり、なんだかその方が楽です。自転車の時は帽子をかぶり手袋をし日焼けしない様にして移動してます。息子は気温が上がると体温も上がるので、首や脇の下にアイスノンを付け、頑張ってますよ。
名古屋市 T・Sさん
・・・。今まで経験したことのない様な豪雨で親戚の家が流されてしまいました。今後のことを考えると本当にどうして良いかわかりません。今は生きていることに感謝しなければと励ましあっていますが、それぞれの家にも生活や事情があります。避難している私の家には叔母夫婦が居られます。子供たちと相談して離れが空いていますので、そこで生活していただこうと思っています。
女学校時代の友からお見舞いの便りをいただきました。もう何十年もお互いご無沙汰していましたので、びっくりしました。私は忘れていましたのに、覚えていてくださったのが嬉しくお便りしました。・・・。
山口県 S・Nさん
残暑ですが、お元気ですかとお便りをいただき、心が和みます。朝、バスの中から外を見ると雨が降っていました。傘を持っていなかったので何時もと違うスーパーマーケットを通り抜け近道しました。苦瓜も雨に濡れていました。小さな黄色い花も濡れていました。何時も見過ごしていましたが、苦瓜と黄色い花と私は雨に濡れていましたが、時には雨も良いね、と声を掛けて通り過ぎました。
今月号の写真も、川畑朱美さん(堺みくに教会員)や娘さんの二日がかりの手作りケーキの写真もあります。桒原廣子さん(日キ教団金城教会員・CBC「キリストへの時間」アナウンサー)、門馬 亨さん(犬山教会)、匿名の方のものを使わせていただきました。感謝です。
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『つのぶえジャーナル』のための寄付者
稲田喜水様 匿名様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
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『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
匿名様
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アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった(創世記4:20~21)。
09年8月20日現在 編集・発行人 長村秀勝
今月のことば
喜びの叫び
望みをいだいて喜び・・・(ローマ12:12)
キリスト者ばかりでなく多くの方が聖書を読まれます。しかし、聖書が歓喜について語る場合、他の場合に歓喜と呼ぶものとは、根本的に違うことにお気づきと思います。私たちの普通の喜びは、私たち自身の側のこと、心地よい快適な状態にあります。誰でも、自分が悲惨な状態になった時、それを喜ぶことなどありえません。私たちとは、自分が「ご機嫌」な時だけ喜ぶのです。
聖書が示すキリスト者の喜びは、それとは異なっています。現在の状態ではないのです。その最も深い喜び、言い換えますと「前喜び」に対して希望を持って喜ぶというのです。先のことなど分からない。先を考えると不安になるのは、この「前喜び」を持っていないからではないでしょうか。
将来に望みがある。未来に希望がある、光がある人生は、現在起こっていることには決して、その根拠を持っていません。そうではなく、現在も、キリストを信じる信仰によって苦しくても喜ぶ、悲しくても希望を抱いている、それがキリスト者の特徴です。キリスト者は「痩せ我慢人間」ではありません。むしろ、今をきちんと認めています。罪深さ、不完全さ、弱さ、汚れを認めています。この負の自覚を神様によって変えられると言う、考えられない招きを信じるのが、キリスト教信仰です。
詩篇の中に「苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう」(34:2)という驚くべき言葉があります。使徒パウロも「望みをいだいて喜び・・・」と言います。教会は、現在という時の中にあって、希望を失い、喜びを捜し求めている方々に、教会は「喜びの叫び」をあげなければならないのです。気難しい心、強張った顔からは「喜びの叫び」は上がらないのです。
ニーチェという哲学者は、皮肉を込めて「私に、彼らの救い主を信ぜよと言うのであれば、彼ら自身の様子が、もっと救われた者らしくしなければならない」と言われたとか・・・。
キリスト者の「喜びの叫び」を声え高らかに上げようではありませんか。
真の平安
草花が香っていても
神のみもとへ帰るまでは
真の平安はない
友だちと言葉をかわし
家族に囲まれていても
神のみもとへ帰るまでは
真の平安はない
私たち一人一人を
ご自身のため創られた
神のみもとへ立ち帰って
真の平安を得よう
水野源三第四詩集「み国をめざして」
=写真=娘と同い年の子が、給食にでたびわの実を蒔いたら大きく育ちました。隣の家のびわの実です=
『相互援助』 (ローマ15:22~29)
ぺウロの伝道の話の中に、教会相互の援助ということが出て来ます。ここにも具体的に、1つの例があるのです。教会が互いに助け合うことは、その後も、何時の時代でも行われたことであります。ここの場合には、エルサレム教会の貧しい人々のために、マケドニアとアカヤの教会が援助したと言うことが書いてあります。
しかし、ここで注意したいことは、マケドニアとアカヤという異邦人が、エルサレム教会のユダヤ人を援助したことであります。常識的に言えば、お互い親しい交わりが難しい異邦人とユダヤ人が、キリストの教会に連なっているために、こういう助け合いが出来たことは、感謝すべきことであります。
彼らは、どのようにして助け合いをしたのでしょうか。マケドニアとアカヤの教会の人々は、自分たちが救われたことや、自分たちの教会が出来たことは、エルサレム教会から霊の賜物を与えられたからであることを知っていました。そこで、今、エルサレム教会の中に経済的に困っている人があるならば、肉の物をもってお返ししようと言うのであります。
教会と教会との間には、いろいろの形の支援の仕方があって良いのではないかと思います。そして、それがまた、大きな伝道の力なのであります。しかし、1:12を見ますと「あなたがたに霊の賜物を幾分かでも分け与えて力づけたい」と言いながら「あなたがたとのお互いの信仰によって、共に励ましあうため」と言うことが書いてあります。霊の賜物に対して肉の物を与えることも、援助の仕方であります。
しかし、相手がどんなに未熟であっても、霊の賜物を互いに与え合うことは大切であると思います。肉の物をもって援助されたとしても、受けた者は、肉の物とともに、霊の賜物を豊かに受けるに違いないのであります。
教会が困った人を助けることは、当然なことであります。ただ、その場合にも、誘惑が多いことを忘れてはならないでありましょう。使徒行伝を見ると、はじめの教会でもこのことは難しかったようであります。自分の財産をみな売った後でも、その一部を隠しておいたアナニヤとサッピラの夫婦の例があります(5章)。あるいは、教会の中の寡婦に対する食糧の配給においてユダヤ系とギリシャ系の間に不平・不満が起こったということもあります(6章)。
霊の賜物を分ける、あるいは、霊の賜物を受けるということが中心にならないと、せっかくの愛の業が崩れる危険があるのです。
教会の援助は、時代によって問題が変って来るでありましょう。しかし、それが伝道の有力な力になることは、間違いのないことでありましょう。妨げになるようなことが少なくないことも事実です。しかし、これが正しく行わ れることは、何時でも伝道を勧めるに違いがありません。
(竹森満佐一著 ローマ書簡講解説教・新教出版社)
上河原立雄撰
これらの文章の転載は許可を得ております。
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円