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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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眸
眸(ひとみ)
 
母の仕事は看護師です。母の姿を見て育った私の夢も看護師でしたので、自然にそのための勉強をしています。親元から離れた寮生活です。毎日の勉強に追われ心細くなって泣き言を携帯で毎日していましたが、先輩たちにはげまされて、頑張っています。憧れから、今は「命、病気」という現実にまだ授業ですが、真剣に考えるようになりました。単なる仕事でないことを知り、母が大きく頼もしく見えるようになりました。同じ願いを持って集まっているクラスメートは、高校の時とは感じ方が違います。皆しっかりしていて、自分だけが幼い感じがしています。時々、お母さんから、頑張るなさい!とメールが来ます。
今は気持ちや時間に余裕が無く、教会の礼拝にも行っていません。勉強に追われて聖書も読めませんが、母や家族に支えられていることが、よく分かります。親元を離れて初めて「家族」を意識できました。・・・。
 
                  静岡県  I・Iさん
 
定年退職して2年になろうとしています。退職してからあれもしよう、これもしょうと考えていたことが、体調を崩して全て幻になってしまいました。苦労をかけた妻と感謝の旅行をしたいと勤めの帰りにパンフレットを貰ったり、家内と話し合っていましたが、その家内も思いがけない病気になりました。体力には自信があったのに、妻の病気で私の方が気持ちの上で駄目になってしまいました。
このままでは駄目だと思い、ご近所の集まりに参加して、人生の先輩たちにいろいろ教えてもらっています。今までは自分で何でも出来ると思っていましたが、この年になって世間知らずを反省しています。家内の通院や教会には、娘が車で迎えに来てくれるので行くことが出来ています。「つのぶえジャーナル」、楽しみにしています。
家内も私も元気になったら、勤めで経験した専門知識をNPO活動で生かしたいと、考えています。
      
                  千葉県  I・Sさん
 
c1651c37.jpg  草の名
人の知って知ってる草の名は、
わたしはちっとも知らないの。
人の知らない草の名を、
わたしはいくつも知ってるの。
それはわたしがつけたのよ、
すきな草にはすきな名を。
 
人の知ってる草の名も、
どうせだれかがつけたのよ。
ほんとの名まえを知ってるは、
空のお日さまばかりなの。
だからわたしはよんでるの、
わたしばかりでよんでるの。
(金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと)より
 
 
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  自閉症者のひとりごと
(28)
 
6月26日
 信仰に立ってとか、聖書では・・・なんて言われたら、たぶん教会には行かないだろうな。この言葉は今でも嫌なくらいですから。わたしの病気は信仰の問題ではなく、ただ融通の効かなさを知って欲しいだけだから。無力を認めて、心が健康になることを信じて、後は神様におまかせすることに取り組んでいますが、なかなか難しいです。日曜日、AAのイベントに行くつもりでしたが、体調を考えると、無理をしてしまうのは目に見えているので、止めました。bdc12075.jpg

6月29日
 また早起き鳥になってしまって、ようやく二度寝なるものをしたら、今度は礼拝がとうに始まっている時刻になってしまっていました。また寝たら、おやつの時間。寝たきり中年になってしまった。久しぶりによく寝たなあ。今朝も早起き鳥。ミーティングの終わる時刻に主人が帰ってくるので、コンビニに行き、夕飯を作りました。ここのところ、不安定です。皮膚科へ行ったその足で、精神科に行きました。家にいればいたで、休んでいられないので、相談に行きました。実家か、病院なら何もしなくて済むし、ゆっくりできるのだけどなあ。
 
7月6日
礼拝で力を頂いて、また出て行くはずなのに、何故か疲れるのです。週で一番疲れる日になります。礼拝の後、何故喜びに溢れて、あるいは思いを新たにして出て行けないのだろう。もうこんな状態が10数年も続いています。毎週の礼拝の説教の言葉が怖いと思ってしまいます。神様の言葉として語っているのでしょうが、人の言葉には慰めも希望も無い・・・。心の病だからと思うことにしていましたが、疲れました。
 皮膚科に行って、薬をたくさん処方してもらいました。主人の同意が得られれば、明日からしばらく実家に帰ります。霊的成長を目指して、アルコールを飲まない生き方を選んだ者としては、礼拝が疲れるのは悲しいことです。どうやって祈ればよいのかわかりません。母教会で礼拝を守って、少し考えてみます。自分の病気も含めて信仰の姿勢のあり方とこれからを・・・。
 
                  加納さおり
「地域の人々と共に」 その3
  …二人静…
 
地域の医療を担うためには、気持ちだけでは出来ません。資格・技量が求められますし、経営能力も求めらs-IMG_0005.jpgれすのでございます。その第一関門は、小児科医の資格を取得でございました。先ず波多野診療所に、役場職員の一人として勤務をさせていただくことになりました。私には内科の資格しか持っていません。山添村には、5つの小学校と2つの中学校がありました。それらの校医を勤めなければならなくなりました。それには、小児科の資格がなければ勤めることができません。そこで、母校にお願いして通信教育のような形で、毎週土曜日の午後、天理まで出向いて、講座を聞き、送られてくるレポートを完成させ、3年余りかかりましたが、小児科医としての資格を取ることができました。
診療所でも、この小児科の資格は、とても役に立ちました。全国どこでも同じでしょうが、毎日の生活に追われのが普通でございました。今のような教育を受けられない年若いお母様たちですから乳幼児健診にも、学んだことを生かすことができ、早めに異常を発見し、大きな病院に紹介し、一命を取り留めたこともございました。私の役目は、専ら治療でなく、異常を見つけて大きな病院へ患者さんを紹介することにありました。人の命は尊いものでございます。自分の力で治せる病はひとつも無かったのです。
患者さんが直って、何やら、お礼として菓子折りなど付け届けにきますと、必ず受け取らず、直ったのは、あんたにその力があったからや。私は、薬で、補助をしただけやと言って、患者さんのご好意を受けだけで十分でした。また、患者さんには、必要最低限の薬しか手渡さず、しかも国立の病院が使っている質の良いものしかお渡しいたしませんでした。それは、診療所の経営の赤字につながることでございました。
村の方々のお気持ちもよく分かりました。しかし、黒字にするようにいわれると、決まって、私の給料を下げてくれたらいいから、お願いいたしました。今も昔も同じでございます。地域医療は、赤字になるにが、当り前なのでございます。地域が、日本は貧しいのですから。誠実にしていたら、儲けは、難しいとよく、役場職員と言い争っていました。
                              森三菜子
 
 
世田谷通信 
(68)
猫 草
 
最近の子どもたちの「調べ学習」というのは、「PCでwebサイトを検索する」というのとほぼ等しい。ちょっとキーワードをいれて検索するとなんでも情報が手に入る。「ググってみる」という言葉も日常生活で頻繁に使う。グーグルというサイトで情報検索することだ。
一昔前、調べ物と言えば、図書館でいろんな資料を本棚から探して、目次をみて、ページをめくって、関連情報があれば書き写して・・・という地道な作業だった。今は必要な情報を画面上で「コピペ」(ちなみにコピー&ペーストの略、情報をコピーして別のところに貼り付ける、というような意味だ)すれば事足りる。大学の先生が学生にレポート提出させると、すべてが「コピペ」で済まされていてうんざりする、と聞いたことがあるが、すでに小学生の宿題からしてそうである。図書室に「○○について調べたいのですが!」「○○の本ありますか?」と聞きに来る子どもたちが「あ~パソコンで調べてえー!」とつぶやくのを耳にする。そう、自分の手足、耳目を使って調べるのは労力の割に収穫が少ないのである。5ac96851.jpg
なぜ今さらこんなことをくだくだ書いているかというと・・自分があまりにもPC上の情報に頼りすぎている・・と思うからだ。ふとわからないことや、疑問に思うことがあったときにPCで検索すると即、過剰な情報が提供される。まるでこの世の中にわからないことはない!錯覚に陥るのだ。
今日もどこかの見知らぬ誰かがPCを立ち上げて「こんなこと知ってても何の得になるかわかんないけど見つけちゃったから誰かに見てほしくてアップして」いる。
濃密で過密で過剰な毛細血管のようなインターネットという目に見えない巨大生物が、ほんの薄皮一枚で、画面の前の自分とつながっている。自分の画面の向こうに黒々とした宇宙・・無数の人間の心・・深淵のブラックホールが広がっているような気がする。時々ふと呑み込まれそうな圧迫感を感じるのは私だけだろうか。
  その愛のゆえに
  =時々の記=
   (41)
6月17日
三重大病院から帰ってきたと思ったら、激しい雷に見舞われ、ドシャ降りの雨が降り続きました。今朝は、その雨が上がり、何ともすがすがしく、朝日が昇り、一日、暑くなりそうです。三重大病院に通院している方、入院している方ともに、重い病の方が多く、息苦しさを覚えるのですが、皆の顔からは、こんな病になんか負けていられないぞと言う、必死さが伝わってきます。苦しみから逃げるのでなく、苦しみ、痛みに立ち向かう強さのようなものを感じ取り、こちらも、ともに闘いましょう、という気持ちにさせられます。200907070752000.jpg
同病、相憐れむと言うことなのでしょう。
前の畑 矢車草の 乱れ咲く
二声の 谷をつんざく 雉(きじ)の声
半日の 雨重たげに 紫蘭咲く        馬場路哉
 
ここ山添では、これから、草刈の「出会い」が目白押しにやってきます。この土曜日、日曜日も村中揃って、草刈です。草刈機をつかえない者は、仕事になりませんから、本当に、主人に行ってもらえるので、助かります。
 
6月18日
今朝も、真夏のような陽が射しています。一日暑くなりそうです。今年は、梅雨入りしてから雨の量が少ない気がいたします。カビが生えないので、私は嬉しいのですが、農家さんは、水不足は収穫に影響しますから大変です。適度の雨が必要なのでしょう。雨を降らせるのも、陽を照らすのも、神様のなせる業ですから、人間は、謙虚に自然の営みを受け止めなければなりませんね。主人は、今日は、毎月の山添村の俳句会に行きます。
高齢の女姓がお元気で、張り切っているとのことです。
 
6月22日
昨夜とても大きな雷が近くの松の木に落ちました。それは、怖かったです。光った瞬間大きな地響きとともに、ドッカーンですから。犬たちは、がたがた震えて怖がって隠れ場を探し求めていました。一番賢い犬は、防空豪のように、深く穴を掘って、その中にすっぽり身をうづめていました。3時間ほど、その中から出てきませんでしたから、よほど怖かったのでしょう。もう、30年以上も前、我が家の裏山の木に落ちたことがあります。その時は、電話線から火が噴出し、とても怖かったことを、思い出しました。
自然の力の恐ろしさをまざまざと感じさせられるのです。
 
6月24日
7月5日は講壇交換日です。久しぶりに違う先生の説教を聞けるのは、楽しみでもあります。会員も、みな張り切ってくるので、不思議に思うことがあります。人間には、新鮮さを求めるところがあるようですね。マンネリにならないように、学校の担任は、長くて2年間、たいていは1年間で交代していました。寂しいようですが、いろいろな個性を持った方に指導してもらって、子供は成長していくのですから。そして、良い意味で、多くの方に指導してもらった方が、一人の子供を見る角度が違いますから、子供にとっては、ほっとするところがあるのでしょう。
犬散歩 谷より匂う スイカヅラ
常滑の 緩やかな瀬へ 鮎放つ(山添村の川では、6月21日に鮎の解禁日になり、各地から、鮎つりにくる方が増えています)
ソラマメの 手鍋に煮ゆる 匂ひ立つ(家の小さな畑で、ソラマメが20粒できました。嬉しくて、二人で、皮をむいて、塩ゆでしたのでした。) 馬場路哉
 
7月5日
7月4日に7月号のジャーナルが届きました。心から感謝して、早速、主人と二人で、読ませて頂きました。なんといっても、今月号で、特別寄稿をよせられた、ベンソン・ヶイン元宣教師のメッセ-ジに、心打たれました。
神の恵み、許し、大いなる愛によって、日本宣教を志し、多くの日本人に伝道し、今も、まだ、その実が豊かに、実り続けていることを伝えられ、こころから感謝し、キリストは憎しみを愛に置き換えてくださる方だと、確信いたしました。
「祈り」では、入院されている息子さんのことを思いやる、ご両親の愛を、深く感じることができました。私たちも、同じ思いで苦しみ、悲しみ、辛かった日々を思い出していました。どうぞ、神様の平安と慰めが、豊かに注がれますように。心病む多くの者の家族を励ましてくださって、有難うございました。
礼拝を 休む人たち 梅雨寒し
白シャツの 増えし教会 窓も開け      馬場路哉
 
7月8日
娘から電話が入りました。7月号のジャーナルをパソコンで、開いて読んだよとのこと。7月号は、特別な思いで、読ませてもらった。
精神的に苦しんでおられる方のご両親の切実な思いを、伝えてくださって、本当に、心打たれたとのことでした。私たちも同感でした。どうぞ神様、心病める多くの友の上に、憐れみ、慰め、励ましをお与えください、と祈ります。
快方を 祈れる医師や 聖五月
梅の実の 落ちて匂ひぬ 朝散歩
土手降りて 摘んでをるのは 夏あざみ
 
7月15日
義母の見舞いに行ってきました。元気そうにしていましたが、入院生活は、辛いと訴えていました。昔話にしばらくの間、花を咲かせ、大笑いして帰ることができ、久しぶりに気持ちよい見舞いとなりました。やはり、ご機嫌が良いときは、若かりしころ、ドクターと言われていたころのことを話題にするときです。今でも、ドイツ語で体の各臓器の名前をしっかり言うことができます。ひとつでも覚えようとするのですが、私たちはひとつもおぼえられず、アホやなと一喝です。
紫陽花の その名の道を 彩りぬ
どことなく 雀の宿や 今年竹
道端に 蛍袋の 灯るなり        馬場路哉
 
馬場暁美
                       (上野緑ヶ丘教会員)
s-200907201317000.jpg…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(25)
 
 プロテスタントの貧しい人々への救済のあゆみ(3)
 「宗教改革とルター」(2)
 
ルターは人が義とされるのは、「信仰のみによる」として、教皇の首位権も認めず、ただ聖書のみを権威として認めるという立場でした。ところが、カトリック教会は、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16・18~19)というキリストのペトロに対するこの首位権の約束や、使徒言行録で見られるパウロもペトロの決定を最重要視したことなどに、ペトロの首位性の根拠を見出し、その後継者としてローマ教皇に首位権を認めるのでした。
 聖書の解釈にあっても、トレント公会議の第4会議(1546年)で、救いの真理と道徳の源泉は聖書だけでなく、聖伝の中にも含まれること、信仰は全ての義認の基礎であることが、その義認には神の恩恵だけではなく、これに協力する人間の自由意志が必要であることを明確にしています。
 しかし、これも公会議の宣言を承認しない人には、何の権威もないことです。
 聖書は聖霊によって神の言葉を書き記した書物であって、神の言葉は不変であり、絶対なものであるということを承認しています。また、教会の教えは、トレント公会議でも宣言されている通り、聖伝に基づいて説くとされています。聖伝とは聖霊の助けのもとに、言い伝えと種々の制度によって使徒たちから教会の内に伝えられた神の啓示であるとされています。
 プロテスタントは聖書のみの権威を絶対視して、信仰と生活の基準は全て聖書に基づくとしています。それならば、この聖書の正しい解釈はだれがするのか、となりました。聖書の絶対の権威を認めると言っても、万人がこれを正しく、或いは同じように理解し、解釈するとはかぎらないのではないか。もし、聖書の理解や解釈に異論が出て、論争するような場合に、一体、誰がそれを裁定するのだろうか。しかし、それは聖書の解釈は聖書によってなされること。各教派、教会が告白する信仰基準・教理問答によってなされているのです。
 ルターは、修道院制度を撤廃し、修道院の施与に頼る怠惰な物乞い的生き方を恥辱であると断定しています。「中世には施与は受ける側への効果の如何を問わず、施与者の救いに役立つ善き業と考えられていた。ルターは、善き業によって自分を救うという考えを一掃し、それによって慈善の動機の大部分を取り除いてしまった。したがって、自分の魂の救いではなく、隣人への支援ということだけが弁護可能な理由として残された。そのため慈善は無差別であってはならない。社会的な影響を考慮に入れることの出来ない個人よりは、市町村や教会のような公共体によって管理された方が良い」(ベイトン著・宗教改革史)としていました。
 ルターのこうした精神に影響されたと考えられるのですが、ルーテル教会が国教の地位を占めているノルウェー、スウェーデン、デンマークのスカンジナビア3国は、現在、高福祉の社会保障制度が世界で最も進んだ国になっています。それに反して、カトリック教国が、社会保障制度の点で遅れていることは事実です。
 
 あなたに聖書を
 
 私は、子供の頃、子供同士で何かの取り決めをした際に、「指切りげんまん、ウソついたら針千本飲~ましょ」と言い合ったのを覚えています。また「ウソついたら、地獄で閻魔さんに舌を抜かれる」ということとか、「ウソつきは泥棒の始まり」とかいう言葉を、特定の誰かに言われたわけではありませんが、子供の時からよく聞かされたことを覚えています。それは恐らく世の中を生きていくために必要な基本的戒めとされていたからであろうと思います。
 モーセの十戒の中にも「隣人に関して偽証してはならない」という戒めが神様からの戒めとしてありますが、これは、私たちが、この世の中を安心して生きて行くことができるための必要条件であるからであります。
 
7ead2f81.jpg ということは、逆にいうと、人間はウソをつくものである、という前提があるということであります。実際、今日私たちの国は、ウソで塗り固められていると言ってよいほどの状況であります。国会での議論の中で、食品の表示の中に、また身分や資格を示す肩書きにおいて、そのほか振り込め詐欺や、建築設計や工事における偽りなどがそうであります。そして、これから先も、そういうウソツキはなくならないであろうと思わざるをえません。
 
 では、どうして人はウソをつくのでしょうか。考えられることの一つは、自分を守るためであります。本当のことを言うと、自分にとって都合が悪くなることが予想されるからです。しかし、自分にウソをつかせるように命令する・自分の中にいるもう一人の自分は、それをよいとするでしょうか。ウソつきの自分をそのままにしておいてよろしいでしょうか。それが、自分を大切に守ることになるでしょうか。
 人間は、時に、自分のしていることが分からなくなることがあります。そういう意味で、どんな時にも、「ウソをついてはならない」ということを、絶対命令として聞かなければならないと思うのであります。 
 
篠田 潔
 
(参照聖句・出エジプト記20:16))
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
 「ローマ人への手紙」研究 (57)
 第39課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
       9章1~11章36節(続)
A 神がユダヤ人を退け、異邦人を召されることは神の約束と矛盾するものではない。
       9章1~24節(続)b281dbc7.jpg
 「その愛顧を与えることにおいて、神は絶対的主権をもっておられる」
       9章6~24節 (続)
 
 神の主権は人の責任を破壊するとして反対する人々は、自分は被造物であり、神が創造者であるということを忘れ去ってしまっているのです。神がすべての起こり来ることを予定しておられならば、人間はその行為については責任が無いと主張する彼らは、神の主権性と人間の責任性との間を対立関係と見て、神が主権的であるか人間に責任があるか、そのいづれかであって、両立すること有り得ないとするのです。そして、彼らは人間の責任性を立てるために、神の主権性を否定しょうとしているのです。
 
 人間は被造物であり、神が創造者であるということを忘れている人間は、自分が究極的・絶対的でなければ、その行為について責任は有り得ない、すなわち、自分の行為は神の永遠のご計画の外にない限り、責任は有り得ないと言います。言い換えると、神が神である限りは人間に責任が無いのだと言っていることになるのです。
 
 勿論、正しくは、すべてが生起することは永遠から神によって聖定されているが、人間は自由行為者であるから、その心の状態・思想・言葉・行為については道徳的に責任があるということです。このことは人間理性では解くことができないパラドックス-外見上の矛盾を含んでいる。いかにして神が主権者でありながら、人間が自由でありうるか、すなわち、人間に責任が存在し得るかということは、人間理性が解決することが出来ないパラドックスなのです。
 聖書における神の啓示の上位に人間理性を置くことを主張する近代の人間にとっては、これは躓きの石となるでしょう。しかし、聖書が神の主権と人間の責任の両方を教えているという事実は全く疑いのないことです。もし私たちがこれらの二つの真理のいづれか一方を放棄するならば、より大きな問題と困難の中に踏み込むことになるのです。
 唯一の確実で正しい問題解決の方法は、聖書の教えるところに従い、これを神の神秘・奥義のままにしておくことなのです。過去、幾世紀にもわたってこの問題は解決不可能と見られてきています。それは私たちの主なる神に属する神秘の一つだからです。私たちは神の主権の真理と人間の主権の真理との両方を主張すべきです。そして、恐れつつ人間理性によってそれを解決しようとすることを慎むべきです。
 
 パウロが指摘したように、創造者・被造物の関係を正しく認識すれば、私たちは19節にあるあるような反対論を持つことはないのです。創造者の無限の偉大さと被造物の神への絶対的依存性を認める者は誰でも、そのような反対論を起こすことはないのです。創造者・統治者としての神―私たちがその中に生き、動き、存在している神に対して真の宗教的な畏敬を抱く者は、このような反対論には組しないのです。そのような人は謙虚に、神は全て起こり来ることを予定しておられ、しかも人間は自由で責任性を持っていることを認められるのです。
神は人間の自由を取り去ることなく、その行為を予定しておられるのです。
 
 J.G.ヴォス著
                    玉木  鎮訳
                   (日本キリスト改革派引退教師)
 
  祈 り
 
わたしの行いが、この世の中を少しでも人びとの住みよい場所にすることがでる場合には、それを行い、わたしの言葉が、落胆している人びとの心をなぐさめ、弱い意志をふるいたたすことのできる場合には、わたしの祈りが、キリストのみ国をひろくすることができる場合には、それを祈ることができますように。
主よ、この日
 私に親切な心をお与えください。
 柔和にたえ忍ぶ心と、堅い決心を与えてください。33e84f0d.jpg
 苦しみにたえる心を与えてください。
 慈愛をお与えてください。
 貞潔をお与えください。
 私の言葉に誠実を与えてください。
 課せられたつとめに対する勤勉をお与えください。
 
             J.ベイリー著
「朝の祈り 夜の祈り」より
 
       ******************
憲法第25条(国民の生存権と国の保障義務) すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(17)
 
 「切支丹灯籠への思い」(16)
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:3)ce9e4292.jpg
 
松田氏の本の中に、三重県久居市にある引接寺には切支丹燈籠が寺の中庭に据えられていたとその著書の中で紹介しています。それを少しご紹介いたしましょう。
それは白御影石作りで、ほぼ完全な姿で残っているのですが、燈籠には文様も詩句もなく、尊像のみ陽刻されていて、偽装時代の型と言えます。写真でもお分かりのように、アーチ内の尊像は帽子をかぶり、マントを着て、旅姿の裾太のズボンに長いストッキングをはき、南蛮風俗の旅僧装束の姿です。
この姿は、南蛮屏風や南蛮風俗絵などでよく見かける神父の姿そのものと言えます。信徒たちはこの旅姿の神父の姿を通してキリストのイメージを求めたのでしょうか。このような旅姿の切支丹燈籠は数少なく、静岡・豊橋・呉とこの久居の4基と今のところ言われています珍品です。さらに工夫を凝らして竿には拳大の穴が明けられていてその中に十字架かマリア像を密かに入れて蓋をして外部のものには分からないように細工がなされいたす。
面白いことに、郷土史家によりますと村人たちはその異様さに、縁起が悪い燈籠として伝わっていたのです。真偽の程は分かりませんが、それは、迫害の厳しい時代に行われていた江戸時代の五人組制度や懸賞付密告制度などから逃れる手段として言いふらされていたことのようです。
いずれにしても、信徒たちにとってはかけがえのない礼拝物であったようです。
 
4b8e275e.jpgこのように、切支丹燈籠は潜切支丹信徒にとっては欠くことのできないものであり、単なる偶像物としてではなく、信徒の真摯は拠り所であったと見るべきでしょう。禁制下にあった信徒たちは悪魔祓い、厄払いではなく、凶を招くものとして人々を遠ざけて守り通したものが今「切支丹燈籠」として存在していると思うことは一つの歴史ではないかと思われます。
燈籠に託した先人信徒の切支丹の苦難と戦いの歩みに心を向けることも、大切ではないでしょうか。松田氏が「・・・石が叫ぶ」と言われた言葉は、その思いを見よ!との願いでもあったと思います。
(このシリーズは、今回を以って終わりといたします。次月号からは、ジャン・カルヴァン著・吉岡 繁訳「キリスト者の生活綱要」を連載いたします)
 
=記= 
主な文章は、松田重雄著の「切支丹燈籠の謎・研究」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏のご厚情・賛同を頂きました。また多くの方からご意見、ご助言を頂きましたことをこころより感謝いたします。(長村)
 
「契約の継承」(61)
第8章 村人と村の生活
 神の契約にそって生き、教える(6)
村人と村の生活
 
生徒というもの(3)
 
私たちが生活している今の文化的状況は、私たちの生徒がその種の成熟さを追求するようし向けるのを難しくしています。しかし、実際の障害というのは文化ではありません。問題利己主義へ心が傾くことです。しかしながら、これらは大いなる希望を与えます。私たちがの世にいる限り、文化は私たちに対峙するでしょう。しかし、心というものは聖霊の力によて、大きく直ちに変えられことができます。私たちの方は罪の力に気づくべきであって、罪合わせるのではなく、それと対決すべきです。私たちの生徒が五人であろうと、五十人であうと、「彼ら」も「私たち」も罪人たちであることを理解しなければなりません。
 S.G.デグラーフはこう書いています。
 
子どもの典型的な罪は自分のことを第一に考えることである。子どもは神bde75a7c.jpg
が第二番目である限り自分の生活において神のための場所を持っている。
私たちは罪に傾く子どもたちの行動の性質に順応しているとき、責任をも
って行動しているだろうか。あるいは、私たちはそれに反対すべきか。適
切な視点から、聖書の物語を子どもたちがしっかりつかまえることが、子
どもにとって困難なのは彼らの理解力がそこまで至っていないからではな
く、心が受け入れないためである。小さい子どもたちは大人にくらべ彼ら
の生活の中で神について考える余裕がない。私たちが人生において、神が
中心であることを子どもたちに見せるなら、私たちの中心のゴールに到達
したことになるであろう。③
注三S.G.デグラーフ『約束と救い』第一巻(オンタリオ・パイデイア出版1977)20頁
 
 生徒たちの必要に合わせることが今日多く強調されています。ルカ2章51~52に見られる4つの成長の分野(知恵がみち、知識が増し、神に愛され、人に愛される)は内面に焦点を当てたものではありません。もし、私たちが、聖書的な知識を得るのを切望するように、生徒たちに挑戦するつもりなら、彼らに神の清さと、彼ら自身の罪の現実に絶えず対面させなけばなりません。
 フィラデルフィアのキリスト教カウンセリング教育協会のスタッフの一員であるエドワー・ウェルチ博士は、彼の『人が大きく、神が小さいとき』という題名の著書の中で、奉仕にして、人の自尊心と、困窮というような問題について、神中心の方向へ私たちを導いてくれす。彼はこのように書いています。
 
 罪よりもむしろ、必要が私たちの第一の問題となっているとき、私たちの
自己認識が影響されるばかりではなく、福音それ自体が変えられてしまいま
す。
……神を思い描くことの本質は、神のご臨在を喜ぶことであり、すべてのも
のにまさって、神を愛することであり、私たち自身の栄光ではなく、神の栄
光のために生きることである。人間存在の最も根本的な問いかけは、「どのよ
うにしたら、神はわたしの心理的な願いを満たしてくださるか」ではなく、
「どのようにしたら、わたしは神に栄光を帰することができるか」というこ
とになる。こうした違いは、私たちの心を、非常に異なった方向へ引いてい
くことになる。すなわち、一方はいつも私たちを外の方に向けて、神の方へ
と引き寄せるが、他方は、まず私自身に向かって、内面へ引いていくのであ
る。……私たちの心理的な必要を満たすために、キリストに向くことは、私
たちの渇望をキリストにある者とすることである。……
 自己中心的な要求は、満たされることはなく、結果として死に置かれるこ
とになる。④
注四 エドワード・T・ウエルチ『人が大きく、神が小さいとき』(Phillipsburg,NJ:Presbyterian &
 Reformed .1997)157、165、172、174頁
 
 ウェルチ博士は、私たちが誰であるかという点で、聖書が持つ見方は、私たちの中にあるの似像に焦点があるという説明しています。「神の似像につくられているということは、私ちがあらゆるところで、神を愛し、創造物が彼を愛し、神の栄光を誉め讃えるためであるとうことを意味する。」(エペソ1:12、14)このことは、神が、私たちが仕えられる要より、むしろ仕える賜物を私たちに与えられたことを示している。他のどんな展望も、聖書には及ばず、最終的には喜ぶよりも、むしろ悲惨な方向へと私たちを導いてしまう。」⑤
 注五 エドワード・T・ウエルチ『人が大きく、神が小さいとき』(Phillipsburg,NJ:Presbyterian &Reformed .1997)179頁
 
 これ以外の他の見方は私たちの生徒たちを喜びよりも、悲惨へと導くでしょう。契約によ扱いは生徒たちに自分たちのことよりも、むしろ彼らの救い主を指し示します。私たちがイスを見れば、見るほど、私たちの罪深さがわかります。罪の認識は悔い改めに導きます。悔改めの喜びは直ちに許しが続きます。
 契約による展望の重要性を説明して、S.Gデグラーフは次のように書きました。
   
    その物語は子どもたちが理解することが困難であろう。彼らの知性がそれ
  らをそれらを理解することができないというのではなくて、彼らの心がそれ
   を受け入れないためである。罪は私たちを分離させてしまったため、どの子
   どもも生まれつき個人主義者である。私たちは一人一人独立した存在として、
   この世に生きており、自分自身の思想を形成する。
   あなたが物語を語るときに、個性主義を力説するなら、子どもたちはあな
  たが言うことをたやすく受け入れるであろう。しかし、私たちは罪のために
   負わされた状態にいることや、宣伝マンの美しい石けんを売るような方法で
   福音を売るようなことに我慢できるだろうか。それとも、私たちが物語を語
   ることが、その個人主義に戸を閉ざそうとすべきなのだろうか。⑥
注6S.G.デグラーフ『約束と救い』25頁
 
 私たちは生徒たちにイエスを示さなければなりません。彼らがキリストに属するゆえに、仰という村の一部分であることを示さなければなりません。私たちは、彼らが村の共同体の務を負っているということを示さなければなりません。
 
  『契約の継承者』連載終了のお知らせ
主にある兄弟姉妹の皆様、長い間「契約の継承」の連載をしてきましたが、このたび出版することが出来ましたので、この「つのぶえジャーナル」での連載をひとまず打ち切り皆様には本を読んでいただきたくご案内申しあげます。
『契約の継承者たち「信仰を受け継ぐ」』
出版 聖恵授産所・ 販売店 全国キリスト教書店 ・価格1800円+消費税
お問い合わせ WIC 代表 岸上とし子(〒500-8223)
           岐阜市水海道2-12-2 ℡058-245-7609
 
次月号から「ポーリン・マカルピン著「旧・新約聖書婦人物語」を連載いたします。 
 
 
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
 
7月号の「祈り」のM・Mさんの記事を読ませていただき、涙が出てきました。私たち夫婦も同じ状態です。違うのは、私たちは教会には行ったことはありません。同じ苦しみを抱えた「親の会」には欠かさず参加していますが、ただただ耐えるしかないのでしょうか。・・・。子供の行く末を考えては、ため息ばかりです。10数年、楽しい食事をしたことも無く、子供の話になると直ぐ、夫婦喧嘩でしたが、今はそれもなくなりました。もう一度、夫婦喧嘩をしてみたいと思うと涙が出てきます。
58c656cc.jpg子供も地獄、私たちも地獄です。M・Mさん、ありがとうございます。
       合掌。
                  兵庫県  O・Hさん
 
・・・。M・Mさんの「祈り」を読みました。主人と数年前までの自分たちの姿を思い出しました。本当に辛くて、主人と何度死を話し合ったことでしょう。誰にも分かってもらえなくて・・・。お話しすると親の育て方が悪い・・・です。クリスチャンなのに・・・です。このような言葉は数え切れないほど受けてきました。その息子も、他の病気で召されました。今は、やっともっと何か出来たのではないかという後悔からやっと解放されて、同じ苦しみの中にある方々のお手伝いをしています。・・・。どうぞ皆さん、お願いいたします。あたたかい目とお言葉をかけてあげてください。・・・。
千葉県  H・Oさん
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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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