2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
=地域りぽーと=(15)
水篶刈だより
…14…
最近、人間関係で辛いことがありました。今まで普通にコミュニケーションが取れていた職場の同僚を、私の勘違いにより怒らせてしまいました。謝罪をしましたが許してもらえる雰囲気ではなく、そんなつもりで言ったのではないのにという、わかってもらえないもどかしさと、なんでこんなことでそんなに怒るのという相手に対する憤りなど諸々の感情が湧き上がってきて、自分に対する情けない思いも重なり、何日も落ち込んでいました。 こういう時は、弁解しても裏目に出てしまうので静観するしかありません。信頼関係は築くまでには時間がかかるけれど、崩れる時はあっけないものだなということを思い知らされた出来事でした。とても虚しい気持ちになりましたが、反面、神様のことをいつも以上に思う機会になりました。
今、出エジプト記を毎日通読しています。イスラエルの民が、荒野で、主からの大いなる恵みを忘れ、つぶやくことのなんと多いことか・・。それは人ごとではなく、まさに自分自身の姿です。そんなイスラエルの民に対し、モーセが命がけで神様にとりなしをし、神様の怒りを和らげています。この箇所を読みながら、旧約の時代と違って、今は主イエスの十字架の血の贖いにより、罪を赦されていることに改めて感謝の念を強く持ちました。そして人には許してもらえなくても、主イエスが赦してくださっていることに大きな慰めと平安をいただきました。
※ 実家の垣根の赤い実
PR
…キリスト教…
社会福祉活動のあゆみ(22)
修道会と貧しい人々への救済(2)
これに対して、修道士たちは専門社会事業家になることを目的にしていたのではない。貧しい人々の申し立ての正当性が証明されるまでは、扶養しないことにしたら、慈善は行われないことになるのではないか、と反論しています。貧しい人々の人格を尊重して、その発言を信頼するところに、貧しい人々への救済事業が可能になったのです。
また当時の社会機構をよく観察してみるならば、修道院の門前で与えられる一椀の食事が、中世の社会全体に道徳的腐敗や堕落を流すなどということがあったとは考えられないことです。また中世の無差別の施与についての殆んど全ての議論は、初期産業社会における一般的な思想傾向になっていた先入観に影響されていたと思えます。
すなわち、もし人が窮乏していたら、その人は刑罰に値する怠惰な者であると考えられていました。さらに労働者は、もしその窮乏に際して、恥辱や労苦なしに、公的あるいは私的救済が与えられたならば、無意味に日を送ってしまい、その救済を受け続ける怠惰な性向の持ち主になると考えられていました。
このような考えに支配されていた人々には、飢えている人に対する最も親切な方法は、まず食べさせることである、という単純素朴な中世の見解は、一種の型破りに見られたのでしょう。そして従来の優れた救貧史の多くが、このような社会的思潮が広く受け入れられていた19世紀後半に書かれたものであって、日本の救貧史も、これらの文献によった考え方に立っていたために、深く反省・内省することなしに、ただ受け売りしているところがありました。
現代福祉国家の公的扶助制度においては、無差別・平等の原則に基づいて、しかも生活困窮者の基本的人権の保証ということで、その生活扶助が行われています。この制度は、生活困窮者の生活維持のために有効な制度となっています。
中世の組織的な救貧制度のなかった時代に、修道院の門前に於ける貧しい人々に対する無差別の施与も、貧しい人々の生活維持には役立っていたのです。これを無効であったと非難する根拠はどこにあるでしょうか。
無差別の施与が貧困者を自立生活に至らせることが出来なかったでしょうか。貧困を除去出来なかったのでしょうか。もしそうであるならば、現代福祉国家の公的扶助制度も、その効果の面から見れば、中世の無差別の施与と余り変わりませんから、無効であると言わなければならないでしょう。
19世紀までの自由放任主義の時代における救貧行政の目的は、救貧制度の必要性を減少させ、終局的にはそれをなくすることでした。社会事業の目的は、社会事業をなくすることである、と言われていた時代でした。
日本においては、また「全国民のために、揺り篭から墓場まで」の社会保障制度を成立させているイギリスにおいても、公的扶助の受給者は、減少する傾向は現われていません。そのための国家の支出も、年々増大するばかりです。現時点でも、公的扶助制度の必要性になくなる将来を見通すことは出来ないのです。むしろ、福祉国家においても、永久に必要不可欠の制度であること理解されるべきです。
だからと言って、公的扶助制度が無効・有害な社会制度であると主張する人もいることを知っておくことも大切です。
中世の修道院の行った貧しい人々への救済に対する非難の弁明を考察してきましたが、日本における社会福祉研究者の中にも、中世カトリック教会の、また修道院の慈善事業に対する否定的先入観をもって論ずる人も少なくありません。同時に、修道院の行った数多くの施与は、貧しい人々の自立更生のために工夫することに十分な考慮を払うこと、また、貧しい人々の発生を防止するための社会的制度を整えるために、余り関心を示さなかったことも認めなければなりません。
これは、本来の修道院設立の目的からみて理解されなければならない一面です。
あなたに聖書を
篠田 潔
「目からうろこ」という言葉を聞くことがあります。今まで考えてもいなかったようなことを知らされて、「はっ」と驚くような経験をした場合に使われる言葉でありますが、これは、もともと新約聖書の使徒言行録9章に記されているパウロの経験したことが表現されている言葉でありまして、それが、その後諺のように多くの人に使われるようになったものであります。
そのパウロの経験と言うのは、この人はもともとイエスという人物を神の子であり救い主であると信じるなんてことはもってのほかで、神様を冒涜するのも甚だしいこととして許しておけないというので、クリスチャン撲滅運動をしていた人でした。それが神さまに仕えることであると信じて、何のためらいもありませんでした。
それは、今まで自分が正しいと信じて生きてきたこと全てが、キリストとの出会いによって、まるで違っていたのではないかと思わされるに至ったからです。これは、パウロにとっては、今までの自分がまるで死んでしまうような出来事でした。こういう状況から立ち上がることは、自分では出来ません。幸いアナニヤという人がいてパウロのために祈ってくれたことによって、自分が体験したことが何であったかを知らされました。
この時の経験が「目からうろこのようなもの」が落ちて、全てのことがはっきり分かるようになった、というのであります。
このパウロの経験に即して言いますと、わたしたちも自分では気付いておりませんが、自分の目で見ている自分ではなく、キリストによって知られている自分を見出することによって、新しい自分に変えられることの大切さを思うのであります。あなたの目からも、キリストを知ることによって、目からうろこが落とされるという幸を得られるようにと願っております。
(参照聖句・使徒言行録9:10~19)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「ローマ人への手紙」研究 (54)
第38課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
A 神がユダヤ人を退け、異邦人を召されることは神の約束と矛盾するものではない。
9章1~24節(続)
「その愛顧を与えることにおいて、神は絶対的主権をもっておられる」
9章6~24節 (続)
「したがって、パロが神の正義の対象とされた根拠、または神の律法がパロの場合において曲げられなかった理由は、彼の性質や行動が他の人たちと比べて、特異であったということの中に求められてはならない。それはあくまでも神の主権的意思の中に求められなければならない」(C.ホッジ)。
神はよしとされるならば、パロを救って永遠の命をお与えになることもおできになられた。しかし、実際には神はパロを審きに服させ、滅される道をお選びになりました。神にとっては、一つの選択は他の選択と同じく正当です。
「だから、神はそのあわれもうと思うものをあわれみ、かたくなにしようと思うものを、かたくなにされるのである」(9:18)。この言葉は直ぐ前の部分の結論であるばかりでなく、14~17節全体の結論となっているのです。パウロは人間の上に恵みをお与えになる際の神の主権性ということを無条件に主張し、それを要約しているのです。神は恵みを与えようと決意される者に恵みを注ぎ、恵みを保留しょうと決意されるものには、不可避的に罪の深みに陥っていくのです。
「神の側に不正があるのか」と言う問いに戻って、もう一度考えてみましょう。神の主権の教理は、神を不正にしたり不公平にしたりするものでしょうか。私たちが既に見たように、このような反対論の背後には、神には全ての人間を全く同じように扱わなければならない責任がある。言い換えれば、神はある者にお与えになるものは、全ての他の者にもお与えにならねばならない責任があると言う仮定があるのです。
しかし、神がその恵みを絶対的に同様に全ての者に与えなければならない、ちょうど、戦時中の配給切符のように、神は全ての人に同様になさらなければならないという考えは、聖書の中にはないのです。それは罪ある人間の先入観に過ぎないと言わなければなりません。
正義とか公正とかいうことは、全ての人間に各々それに値するものを与えることです。もし神が恵みをお与えになるべき者を罰せられるならば、神は不正であると言わねばなりません。また、もし神が選びに値する者を拒まれたり、正しい者を不正な者として取り扱われるならば、まさに神は不正であると言わなければなりません。神の側にこのような行為があれば、確かに神は不正であり、不公平であると言うべきでしょう。
しかし、事情は全く違っていて、全人類は神のみ前に堕落し、罪の中に落ちているのです。全人類のうちに、神の怒りと呪い、審き、地獄への滅びに価しない者は一人もいません。もし神が全人類を等しく定罪し裁かれるならば、それは不正ではなく、それこそ全人類が受けるべきものです。それこそ厳密に正義に適ったことなのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
祈 り
わたしは地方の老健施設で働いています。夫と二人子供がいます。この仕事は中学の時からの夢でした。とても充実した日々を過ごしています。ニュースでは老人施設の暗い部分、劣悪な労働条件などが伝えられていますが、同じ仕事をしている多くの仲間には笑顔があると信じています。わたしはいろいろの問題は解決できると思っています。「孤独・孤立」という言葉がありますが、わたしの感じでは、老健施設そのものが、地域から、社会から「孤立・孤独」の中にあると思います。地域の老健においられる方々は、つい最近まで道でお目にかかっている方々です。わたしたちも努力しますから、どうか覗きに来てください。お元気な姿や笑顔になったと感じてくださるだけで、勇気もやる気も元気も湧いてきます。わたしの施設は2ヶ月に1回、地域の老人会の集まり会の会場に利用していただいています。
わたしの祈りは、地域が育てる「老人施設」になることです。頑張ります。
和歌山県S・Kさんのお便りから
芝草
名は芝草というけれど、
その名をよんだことはない。
それはほんとにつまらない、
みちの上まではみ出して、
力いっぱいりきんでも、
とてもぬけない、つよい草。
げんげは紅い花がさく、
すみれは葉までやさしいよ。
かんざし草はかんざしに、
京びななんかはふえになる。
けれどももしか野原っぱが、
そんな草たちばかしなら、
くたびれたときわたしらは、
どこへ腰かけ、どこへねよう。
青い、丈夫な、やわらかな、
たのしいねどこよ、芝草よ。
(金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと)より
******************
憲法第25条(国民の生存権と国の保障義務) すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(15)
「切支丹灯籠への思い」(14)
「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
道路整備が行き届い今の時代には想像できないことの一つに、秘境とか、獣道が地域の大切な生活道路になっていることや、ひと山越えると別の世界と言う表現です。
熊本県の人吉市は日本3急流の球磨川の上流の人吉盆地の中心をなしている地です。
神父たちはこの球磨川の難所を渡り、この奥地にまで分け入って布教していました。それは天正8年(1580)4月3日、相良義陽に、アレキサンドル・ワリニヤーニが、備慈多道留(ビヨタドル)の名で送った書状が、相良家文書の中に残っていましたが、そこから当時の布教の事実を物語っています。
人吉地方には疫病除けの守り神として、ゴットン(牛頭天王)の守り札を折りたたみ、糸で首に掛ける風習がありました。これは天主教徒のスカプラリオの姿です。守り札の中身は牛頭天王ではなく異形のものであり、時には迷彩された十字架が描かれていました。信徒たちは牛頭天王の「天王」にキリスト教の「天の神」を習合させ、牛頭天王すなわち天王社の氏子のようになりすまし、ひそかに天の父を礼拝していたのでした。このような例は京都、兵庫県、愛知県、鳥取市などの天王社を聖なる礼拝地としていたことと好一対であると松田は見ています。
また、聖母子像を子安観音と称して金立院にあり、人吉藩の寺社奉行を勤めていた林田家の八幡宮内には、聖母子像が合祀されていたことがわかっています。
この時代の切支丹燈籠の形態は、形の上では初期のものを受け継いでいますが、文様も詩句もない偽装時代型であることから、弾圧そのものは厳しいものであったことは推察できます。辺境の地であった人吉の地には多くの都落ちした流れ者が信仰の自由を求めて入り込んでいました。平家の落武者がこの渓谷の奥に逃れ地としたことは落武者伝説で知られているところです。角川選書(139)の「落人伝説の里」(松永伍一著)をお薦めいたします。
=記=
主な文章は、松田重雄著の「切支丹燈籠の謎・研究」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。またインターネットで人吉市の市史を調べるのも面白いでしょう。
「契約の継承」(59)
第8章 村人と村の生活
神の契約にそって生き、教える(4)
村人と村の生活
生徒というもの(1)
少年イエスをエルサレムに残して、宮で教師たちを教えていた彼を見つけるまで、必死でしていたマリヤとヨセフのエピソードに続いて、「それからイエスは、いっしょに下って行れ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。イスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」(ルカ2・51~52と語られています。
私たちの子どもたちは、イエスが育ったと同じように、四つの点で成長する必要がありますけれども、この成長が起こるのはどの場所であるか注意してください。それは愛した両親と、従順に従った子どもに起こります。私たちは私たちの家庭と、クラスで、権威を愛し続けなればなりません。私たちの生徒たちとの契約の関係を育むこと、そして、彼らが知恵を増し背丈を伸ばし、神と人とに愛されるように、彼らに指導と適応と機会を提供しなければなりせん。この四つの成長の分野はどの時代にも当てはまります。
「賢い」という言葉に当たるヘブライ語「ハカム」は知識とか知性といったものよりもっ多くのことを意味します。それは知識を正しく用いることを意味します。人生経験に関するえ方や反応が含まれます。旧約聖書の「知恵」は他の古くからの世界観とは違った世界観ですなぜなら、聖くあり、義であり、正しい人格的な神の教えを示しているからです。また神と契約関係にある人々が実生活において、神の性質を反映するのを願う人格的な神の教えを示ているからです。知恵とは、神が私に知ることを願っておられることを知り、神が私に考えことを願っておられることを考えることである、と定義することができます。詩編の作者はう言いました。「神に逆らう者はそれを見て憤り、歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の望は滅びる」(詩編111・10)。
「愛された」と訳される言葉は、ギリシャ語では「カリス」という言葉であり、「恵み」いう意味です。神に愛されて育つことは、彼の恵みのなかで育つことです。ヨハネはそのこを簡潔に言っています。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3・30)。リストがより大きくなるために、わたしがより小さくならねばなりません。彼はこのためにえをして下さいました。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担っくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためですそのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(Ⅰペテロ2・24)。私たがキリストの恵みにより多く満たされれば、私たちはそれだけ多く互いにその恵みにふれるとができ、こうして、神と人とに愛されて成長するのです。
知恵も背丈も成長して、神と人とに愛されること、すべての人が、パウロの弟子たちに対て描いたゴールに達するように結びあわされること、……キリストにある完全とか、成熟をらわすことです(コロサイ1・28)。
『信心深さを求めて:キリスト者生活へのピューリタンのヴィジョン』という本の中でJ.I.ッカーはピューリタンの成熟さについて描いています。この文章は私たちが生徒たちに神の真理を教え込むように、全力をもって働くための判断基準を示しています。
成熟というのは、知恵と善意と快活さと創造性の混ざり合ったものです。
ピューリタンたちは成熟さの模範を示しました。…彼らは偉大な神に仕え
る立派な人たちでした。彼らには頭の冴えた情熱と、心の暖かい同情心が
結び合わさっていました。ヴィジョンと実践があり、理想を持ち現実的で
もありました。ゴールを決めることと、実行の方法を持っていました。彼
らは偉大な信仰者、偉大な待望者、偉大な実行者、そして偉大な受難者た
ちでした。しかし、受難は…熟して実を結び、英雄的行為の名声を得るま
でになりました。私たちの豊かさが今日私たちにもたらしている安易さと
贅沢は、成熟さを生み出すことはありません。困難と努力が生み出すもの
です。そして神が彼らをそこに置かれた霊的、そして状況の荒れ地に対し
てのピューリタンの戦いは、失意や恐れを超えてひるむことも、沈むこと
もない活力を生み出しました。
注一J.I.パッカー・『信心深さを求めて:キリスト者生活へのピューリタンのヴィジョン』(ホィートンイリノイ・クロスウエイブックス1990)22頁。
スーザン・ハント著
WIC委員会訳
「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
4月号で、はっとさせられたのは、祈りの部分です。私たちは、聖書の御言葉の中にイエス様がおられることを、つい、ないがしろにしてしまいます。ですから、自分が今、幸せであれば、救われたと思ってしまいます。そうでない場合には、道を迷い、闇の中へ入っていってしまうのです。イエス様は、私たちのこの罪のために死にわたされ、わたしたちが、義とされるために、よみがえられたのだということを、今一度、胸にきざんで、救われた喜びを感謝して、この週を過ごし、聖書に記されている救いの約束を信じて、生きて行きたいと切に願い、祈る者です。
岡山の方は、30年もの長い間、地域の合唱サークルにて、ご活躍されているとのこと。わたしは、5年でコーラスをやめてしまいました。続けておられるご様子を拝読して、きっと素晴らしい歌声で、ハーモニーの輪が広がっていることでしょう、と想像しています。
奈良県 B・Aさん
兵庫県 N・Nさん
『ありがとうございます』
柳の芽吹きの淡い緑や色鮮やかなバラの美しさは何ともいえない季節感を届けてくれます。皆様の所は如何ですか。「つのぶえジャーナル」を立ち上げて22ヶ月になりました。不安のスタートでしたが、多くの方に支えられてきました。感謝して居ります。「いこいの広場」になればと願いつつ、励んでまいります。多くの方に知っていただきたいと願っていますので、PCお持ちの方には「つのぶえジャーナル」で検索していただけますので、ご紹介下さい。
今月号の写真も、桒原廣子さん(日キ教団金城教会員・CBC「キリストへの時間」アナウンサー)、門馬 亨さん(犬山教会)、匿名さんなどのものを使わせていただきました。感謝です。
****************
犬山教会兄弟会様 匿名様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
『クリスチャン音楽家を支える会』のための献金者
匿名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった(創世記4:20~21)。
09年4月20日現在 編集・発行人 長村秀勝
今月のことば
(ローマ12:12)
聖書が歓喜について語る場合、それは、私たちが歓喜と呼ぶ場合とは根本的に違っていることに気付きます。私たちの普通の喜びは、私たち自身の快適な状態に関っています。自分が悲惨な状態になると、私たちの喜びは、消えてしまいます。私たちは、自分が「ご機嫌」な時にだけ喜ぶのです。
しかし、キリスト者の喜びは、その根拠を、第一には、現在の幸福な状態に持ってはいないのです。それは本来、その最も深い本質からいって、「前喜び」、すなわち「希望」に基づく喜びなのです。将来の約束が、大きな光のように、なによりも暗闇を照らす光のように、信仰・教会の上に輝いているものです。ですから、キリスト者の喜びは、現在起こっていることについてではありません。むしろ「苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう」(詩篇34:2)という驚くべき言葉が記されているのです。
苦しむ者は、必ず来る助けを期待して喜ぶ、と言うのです。「未来への希望」を内に秘めている聖書の喜びは、苦しみに満ちた現在を支え、この世に勝利する神様からの強大な力のことです。パウロはそのような喜びを「望みをいだいて喜び」と語っています。
私たちキリスト者には使命があります。絶望した人々の中にあって、様々な出来事にあって暗く悲しみに沈んでいる人々や、時代にあって、「喜びの叫び」を上げなければなりません。福音に生きる者として、救われた者の喜びの叫びで、悲しむ人々の声を心して受け止める者に変えられたいものです。
こんな美しい朝に
霧がしだいに晴れて来て
山々が姿現わす
こんなすばらしい朝に
主は主はよみがえられて
空高くひばり鳴き出し
露にぬれてすみれが咲く
こんな美しい朝に
主は主はよみがえられた
早起きの人が笑顔で
朝のあいさつかわしあう
こんなうるわしい朝に
主は主はよみがえられた
水野源三第二詩集「主にまかせよ汝が身を」
小閑記
「キリストを喜ばせる」
(ピリピ1:21)
キリストに喜ばれるということと、神に、喜ばれるということと、どういうふうに違うかということも考えてみる必要があるかもしれません。だれでも、ほんとうにいい人間になるためには、神に喜ばれなければならないでしょう。人に喜ばれることももちろん大事ですが、結局は、神に喜ばれる生活なのでありましょう。
しかし、神に喜ばれることと、キリストに喜ばれるということと、どこが違うかということです。別に違いがあるわけではないので、これは全く同じことであります。同じことですが、しいて分けて言えば、一つの大きな違いがあります。それは、キリストに喜ばれるというときは、キリストによって与えられた十字架によって自分が新しくなったということが入っているからです。ですから、キリストに喜ばれようと努力するのではなくて、そういう恵みを与えられていることが分かって、キリストに喜ばれるように生活しなければ、自分の生活は落ち着かないということになるのです。
神に喜ばれるということだけを考えれば、その十字架を抜きにしても考える場合もありうるでしょう。もちろん、われわれの信仰ではそんなことはありえませんが、普通の人が考えるときには、人間に喜ばれるのではなくて、神に喜ばれるというときには、十字架のことは入っていません。したがって、神に喜ばれると言っても、ただ、神の仰せになったことに従うことしか考えないでありましょう。それでは、いつも喜んで神に従うとか、神に喜んでいただく生活をするということにはならないのであります。それは、十字架によって自分が救われたということがないからであります。この方のおかげで自分が生きているということが、ないからです。
パウロが、こういうことをたびたび言いますのは、さきほど申し上げたように、「この世を去ってキリストと共にいたい」というのは、キリストと一緒にいることの喜びを知っているからであります。それは、どこからも出てきません。ただ、キリストが自分のために死んでくださったということからしか出てきようがないのであります。したがって、聖書が記しているキリストを喜ばせる生活は、いつでも自分がキリストに夢中になっている生活から来るのです。
たとえば、マルタ、マリヤの姉妹の中に出てくるマリヤの場合であります。キリストのみ言葉に聞き入って、ほかのことはみな忘れてしまうかのような、夢中になる生活というのは、ただキリストによって自分が生かされていることを知っているからでありましょう。キリストに価の高い油を注いで、自分の髪の毛でぬぐったというあの婦人の場合も、我れを忘れたようなところまでいかなければ、自分の気持ちが表わせないようなキリストと自分との関係を、この人は知っていたのであります。
どういう婦人であるかは分かりませんが、おそらくキリストによって罪赦されたことを知っている人でありましょう。われわれもそういうキリストから受けている恵みを考えなければ、われわれももちろんのこと、パウロも、ここに自分が書いているような、そういう生活が生まれてくるはずはないのであります。
(竹森満佐一著 ピリピ人への手紙講解説教・日本基督教団出版部)
上河原立雄撰
これらの文章の転載は許可を得ております。
眸
まだ雪深いですが、孫がこの4月から一年生になります。毎日、真新しいランドセルを背負ってはしゃいでおります。親と違って子供の成長を見るのは自分の子育ての失敗を思い出しながら眺められますのが、娘には申し訳ない気持ちもありますが、主人と楽しんでおります。幸いにもお隣にはお兄ちゃんとお姉ちゃんがおりますので心強いです。今の家の話題は孫の話で一杯です。
週に一回通院しているリハビリの待合室も孫や子供たちの話になると明るくなります。教会でも、信仰の話しや孫の話が出来ると長生きさせていただいてよかったと感謝できるのにと思っています。幸いにも私たち三世代はクリスチャンですから、夜は賑やかですが家庭礼拝をしています。これは本当に感謝です。
岩手県 S・Kさん
八王子市 K・Kさん
カテゴリー
ブログ内検索
バックナンバー
カウンター
★ごあんない★
毎月第一日更新
お便り・ご感想はこちらへ
お便り・ご感想くださる方は下記のメールフォームか住所へお願いいたします。お便りは「つのぶえジャーナル」の管理人のみ閲覧になっています。*印は必須です。入力ください。
[PR]Samurai Sounds
〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円