2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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今月のことば
主のいのりはめぐる
天と地とにんげんとをつらぬきてめぐる
とつ如としてきたけれども
「天にいますわれらの父よ」とよぶこえは
あらゆるものの種子なり
この種子は神のまきたまえるはじめのたねなり
「ねがわくば み名をあがめさせたまえ」
種子は水と光とをえてふくらみてゆく
「みこころの天になるごとく 地にもならしめたまえ」
この芽をいださんとねがうこえなり
「われらの日用の糧を 今日もあたえたまえ」
その糧のほかにむさぼらぬこころ
かくて天よりはえいでし芽は地に一葉をしげりたり
「われらに負債あるものを ゆるすごとく
われらの負債をもゆるしたまえ」
かくて地は繁り繁りゆくをみよ
「われらをこころみにあわせず
悪よりすくいだしたまえ」
地の用をなしはてしいのりのこえは
かくて天にかえりゆくなり
ちちのみ名を呼ぶにさまたげあるもの
これのみすなわち悪なればなり
いのりの種子は天にまかれ
さかしまにはえて地にいたりてしげり
しげりしげりてよき実をむすび
またたねとなりて天にかえりゆくなり
信仰詩集「貧しき信徒」 八木重吉
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小閑記
「教会の平和」
(ローマ16:17~24)
パウロが、このように教会の分裂、躓きを警戒し、そのようなことの起こらないように言っているのは、彼の経験からであろう。それは、彼が、教会とは、かくあってはならない、と言うような、いわば、教理上の議論から言っているのではないと思います。実際に教会の仕事をした彼がそういう状態の悲しさや寂しさを、身をもって知っていたからではないかと思います。
キリストの体が裂かれるというような、もっともらしい考え方ではなくて、そうした混乱のただ中にあって知った不幸、憂い、悩みからであったろうと思います。キリストの教会を作ることが伝道であると考えていた彼は、このことについては、特に用心深くならざるを得ない程に、多くの残念な経験を持っていたであろうと思います。
教会に、分裂や躓きが起こってくるのは、それなりの原因がありました。それは福音に背くことであります。しかし、福音に背くと言えば、それは、ただ教理上の争いのように聞こえるかも知れません。自分の信じていることと、違った考えの人がいて、そのために、混乱が起こるのであると思われるかもしれないのです。しかし、そういう考えの上の違いと言うようなことだけでは、教会の平和が乱れると言うことはないのです。そうではなくて、主に仕えないで、自分の腹に仕える者がいる時、平和は乱れるのであります。そこには、言葉や考えよりははるかに深い問題があるのです。
そのことを聖書は、こういう人は、自分の腹を神とする者であるというのです。ただ、自分の腹を神とすると言えば、いかにも妙な言い方のように聞こえますが、福音に背くことが、本当はそういうことを言うのであることが分かると、事の重大さに驚かされるのであります。
パウロは、ピリピ人への手紙の中で、十字架に敵対して歩んでいる者が少なくないと語った後に、この人々にとっては、神は自分の腹のことであるし、自分の恥をかえって名誉のように思っているのである(3:8~19)と言っています。
だから、神による救いなどと言っても、神のことなどは考えないで、地上のことしか思わないのである、と言うのです。それでは信仰生活にはならないのです。それどころか、これでは、信仰とは全く反対なことが出て来るのであります。それは、教えに背くと言うことだけではなくて、どうしても、分裂や躓きを引き起こすことに成らざるを得ないのです。なぜなら、神を崇めることと自分を崇めることですから、事柄は全く反対になってしまうのです。
ですからパウロは、このことを語る時に、涙を流して語る、とさえ言っています。それ程に情けない、残念なことだからです。全く、その反対のことになってしまっているからなのです。
こんなに明らかなことならば、そういうことに引き込まれることはないと思うのです。しかし、これが人間にとっては、一番大きな誘惑になるのです。表面では、神の正義だとか、神の愛だとか言っていても、実際には、自分の腹、自分の利益や名誉のことを考えているから、心ひかれることになるのです。
社会のためとか、隣人のためとか言えば、いかにも立派なことに聞こえます。したがって、誰にとっても、甘い言葉と響きましょうし、美しい言葉のように聞こえてくるのです。しかし、実際は、神のことは考えず、人間のことしか思っていないということになります。悩みを持っている人に、悩みをなくしてあげると言えば、純朴な人々の心を欺くことが出来るでしょう。しかし、その時に、その人にとって最も重要なことは、主イエス・キリストの十字架によって罪を赦される、救われることであることを忘れてしまえば、その救いは、真の救いになりません。困難にある人を放っておいていいということではありません。しかし、その人にも福音が与えられなければ、その人は救われないのです。
それなのに、その方は、ほとんど言わないばかりか、むしろ、救いは人間の体や生活の問題の方が先だと考えるのです。その方が、人の耳に入り易いのです。しかし、そういう考えこそ、教会の中に分裂と躓きを起こすことになることを、しっかりと知っておかねばならないのであります。
(竹森満佐一著「ローマ書講解説教集」新教出版)
上河原立雄撰
これらの文章の転載は許可を得ております。
眸
子供の頃からの夢でした介護の仕事に就こうとしています。研修中ですが、戸惑いと失敗ばかりの毎日です。先輩たちには励まされたり叱られたりで、つい母の声が聞きたくて携帯してしまいます。返ってくる言葉は、お祈りしているよ、頑張りなさい・・・です。頑張っているのに分かってくれないと思ったことも度々でしたが、今は母の気持ちが支えです。
兵庫県 I・Iさん
自分の生き方に疑問と不安を持ち始めて何年も迷っていました。ある人から、この「つのぶえジャーナル」を見せてもらい、いろいろの方の生き方に触れて、教会に行って見たくなりました。最初は主人や家族に内緒で行っていましたが、今はそんな心配も消えて毎週出かけています。家からはバスの乗り継ぎですが、今は不便とは思っていません。お話は難しいのですが、賛美歌を歌ったりするのが楽しいです。信仰などと言うものではありませんが、自分探しなっています。何とか主の祈りを口にすることができるようになりました。「アラフオ」より少し上ですが、教会に行くことをお薦めします。新しい自分を見つけますよ。
福島県 M・Fさん
教員生活から身を引いて5年になります。沢山の教え子も働き盛りになりました。各地に散らばっている子どもたちから年賀状が届き、今も目を通しています。寂しいことにその校舎も廃校になります。生徒の有志が同窓会を計画してくれています。教員だった家内と参加しようと楽しみにしています。
青森県 I・Sさん
(23)
1月17日
生きてくのって辛いなあ。自分の思い通りにはならないし、どうしようと思うことだらけ。神様に依り頼むものには何ひとつ善いものに欠けることはないというけれど、神様にとって善いこととわたしにとって善いこととは違うんだろうな。確かに守り導かれているなあと感じることはたくさんある。けど、生きてくのって、ぼろぼろになって、苦しいです。神様はわたしに生き直しを命じられたのだから、インマヌエルだから、これがベターなんでしょうね。でも打ち砕かれるのが怖い。あまりにも痛くて辛そうだから。
2月2日
自分で読んでいても、「つのぶえジャーナル」は中味がいっぱい詰まっているから、読者は楽しみにしておられるのでしょう。待っている人がいるということは、張り合いがありますし、ありがたいことですね。
わたしは自助グループの一つの会場でチェアマンをしています。会場を確保し、メンバーが来る前に会場を開け、お茶の用意、設営をし、メンバーが来るのを待ちます。そしてミーティングの総合司会をします。サービスをすることは、わたしのような気配りのできないうえに傲慢な者には修行になります。
家庭内でも食事を作って給仕をしなければなりません。主人にあれ取ってこれしてと言われると、自分でやれよと思いながら、渋々要求には応えます。しかし、これも仕事なのだなあと思います。
わたしは自助グループの一つの会場でチェアマンをしています。会場を確保し、メンバーが来る前に会場を開け、お茶の用意、設営をし、メンバーが来るのを待ちます。そしてミーティングの総合司会をします。サービスをすることは、わたしのような気配りのできないうえに傲慢な者には修行になります。
家庭内でも食事を作って給仕をしなければなりません。主人にあれ取ってこれしてと言われると、自分でやれよと思いながら、渋々要求には応えます。しかし、これも仕事なのだなあと思います。
2月3日
また早くに目が覚めてしまいました。やはり昨日の疲れが残ってしまって、今日は家でぐったりしていました。わたしの場合、一日何件も用事を入れると駄目です。せいぜい2件までですね。だから何をするか取捨選択をすればいいのかに頭を使ってしまって、それだけでも疲れてしまいます。
2月7日
主人と公園へ梅を見に行きました。大掛かりな造園工事をしていました。梅は半分程咲いていました。梅は芳香を放っていました。わたしはデジカメを借りて、わたしなりの写真を撮りましたが、何を撮っているかわからない写真ばかりになっていました。けれど今までのような主人の後をくっついて歩くのと違って楽しい散策となりました。マンサクやらソシンロウバイ、福寿草も咲いていました。春は確実に来ているのですね。とはいえ、夕方になるとやはり寒いです。
2月14日
両親が見舞いに来てくれました。「さおりはわしらにとってはかけがえのない子だから」という言葉を聞いて涙が出そうになりました。わたしは幸せ者だと思いました。神様の配慮に感謝しています。体が良い方向に向かってくれるといいなあ……。
加納さおり
世田谷通信
(63)
猫 草
長男が少年野球チームに入って約1年になる。土日祝日は朝から夕方まで練習だ試合だと楽しそうにしているが、母にも役目はある。月に1~2回「お当番」が回ってくるのだ。監督やコーチたちの飲み物を用意したり、怪我をした選手(子どもたちのことだ)の手当をしたり。まあ要するに練習のお手伝いである。
夏場は熱中症対策でひたすら水分補給とクールダウンだが、冬場は自分自身の防寒対策が最重要である。どんなにカイロと着ぶくれで行っても、吹きさらしの多摩川グランドは寒い!ので、球拾いなどで体を動かした方がマシ。というわけで、先日お当番の折には、私もせっせと球拾いをしていた。あ、ここにもボールが~、と手を伸ばしたとき、ビシッと鋭い衝撃があった。子どもの返球が逸れて私の手にあたったのだ。所詮軟球、小学生の球だ、などとバカにしてはいけない。痛い。みるみる腫れてくる。いつもは「血が出ました」「突き指しました」「ボールが当たりました」とか言ってくる子どもたちに、救急バッグから絆創膏や湿布を出して貼りながら「そんなの野球なんだからあたり前じゃない!ほら、治った!」と冷たくあしらっているのをちょっと反省する。
6年生が年末に野球チームを卒団する「納会・送別会」というのがある。そこで6年生は一人ずつ「野球部の思い出」の作文を読むのが慣例だ。最初はルールもわからず、キャッチボールもできなかったこと、毎週の練習が辛かったこと、合宿で自分の限界まで挑戦したこと、初ヒットが打てたこと、試合に負けてみんなで号泣したこと、仲間と励ましあって頑張って勝ったこと、そんな一つ一つを語るうちにみんな涙でくしゃくしゃの顔になる。先輩たちのそんな姿に、いつもふざけて、生意気な下級生たちもこの時ばかりは神妙である。
バーチャルなゲームの世界ではどんなに殴っても蹴っても、実際に痛みは感じない。野球ゲームの勝敗では、悔しさに泣き崩れたり、抱き合って喜んだりできないだろう。勝っても負けても、上手でも下手でも、怪我したり転がったりしながら、リアルな世界で大切なものを学んでいるんだな、と腫れた手に自分で湿布を貼りながら思った。 =時々の記=
(36)
1月14日
今朝もマイナス5度の寒さです。足にカイロを張って出かけるのですが、その足のぬくもりを地表の気温に吸い取られて、暖かくなりません。あと2ヶ月は我慢のときです。教会も私たち一人一人も、もっと若者が、今どんな思いで、社会に不安を持ちながら、生きているか知るべきです。社会に出て、その苦しみ、心の中を察知して、祈ることが大切と私は考えています。
しなやかに 枝そり返す 枯れ木かな
形よき 樫の青葉を 掃き初むる 馬場路哉
あまりの寒さで、気力、体力ともにしぼんでしまいます。犬たちがどうしたの?これぐらいの寒さで、というように、励まそうとしてくれます。有難う。お前たちのお陰で、朝早くおきられるよ、と会話をかわしながら、滑らないように、凍てついた山道をいつもより、時間をかけて、慎重に散歩をしてきました。
早く、暖かい日が来ますように。
1月17日
しばらく、パソコンに向かうことができませんでした。その訳は、まっすぐに歩くことが出来なくなったからです。簡単にいうと、軽いめまいというか、若いころから、メヌエルという、さんはん器官のバランスが崩れて、目を動かすだけで、ぐらぐらするという病気によくなりました。しばらく、出ていなかったのですが、寒さと歳のせいで、出はじめたのです。じっくり、休んだので、だいぶ元気になりました。
1月22日
早速のお励まし、お祈り、有難うございます。めまいは、少しづつ、よくなってきています。歯は、やはり根の深いところで、膿みがたまっているので切開して、膿みを出すとのこと。それまで、少しでも炎症をくいとめるように、抗生剤を飲み続けています。
主人いわく、ガンだったら、痛まないでどんどん進行してしまうのだから、まだ痛むことは、良い物と考えて、忍耐するようにと言ってくれました。
なるほど、主人の場合は、少しも痛まないで、大きな腫瘍になっていましたから。そういう考え方もあるのかと思わされました。
復調の 兆しに 年の改まる
澄み渡り 早や 中天の寒の月 馬場路哉
1月26日
あまりの痛さにたえられず、昨日、歯医者さんに開けてもらって、診察を受けました。
すぐに、切開手術をしていただきました。すると、腐った歯が2本も抜けてしまいました。でも、今までのような痛みはとれて、頭や肩の鈍痛もやわらぎました。昨日は、会員総会でしたので、歯の治療を終えてから、出席しました。一番の課題は、伝道をしてくださる牧師先生を支える事ができるかでした。厳しい経済状態の方が多く、重苦しい、総会でしたが、何とか神様に支えられて、予算を満たすことができそうです。一人一人の、信仰のゆえに成り立つものですから、これでよいと、高ぶらず、神様のお導きを切に祈るものです。
ここ3日ほど、家の中の水道が出ません。マイナス7度になっています。大寒そのものです。あと、もう少しの辛抱ですね。いつも、この時期になると、思い出すのは、「春よ来い 早く来い」の歌です。
1月27日
今朝は、久しぶりにカイロをはらないで、散歩に出かけることができました。少し、寒さが和らぎ、ほっとしています。寒さのゆえに、心も体も衰え、うつ状態になっていました。日がさして、暖かくなると、気力がよみがえってくるのです。教会の礼拝にも、多くの方が体調を崩して、休んでおられます。そのような方に、このジャーナルが励ましの友となってくれることを、願いつつ、祈っています。
主のみを誇れと 聞きて 老いの春
琴の音を 流す茶房の 睦月かな
枯れ草を 円く集めて 田で焼きぬ
明るさの漂う 厨(くりや)日脚(ひあし)伸ぶ 馬場路哉
名古屋の最低気温をいつもテレビで見てみ、こちらとあまり変わらないので、びっくりです。
2月2日
今日は、節分ですね。信州で、祖父がよく豆まきをしていたことを思い出しています。馬場家に来てからは、馬場の母が甘納豆を買ってきてくれて、自分の年の数はたべるように、と言ってくれて、甘いものが好きなわたしは、喜んで自分の年をはるかに越える数を食べつくしたものでした。
今は、節分であろうが、立春であろうが、いつもと変わらない生活を送るようになりました。日差しは久しぶりに温かく、このまま春になってくれたらな・・・と願う思いです。犬たちも、気持ちよさそうに、太陽の方に向けて、寝そべっています。
青青と 庭の一隅 冬の草
リンクスの 隅冬萌えを 認むなり
霜晴れの 日差し届きて 犬ねむる 馬場路哉
2月3日
きょう歯医者で、びっくりすることを言われました。あなたの歯は、奥歯の大切な部分が抜けています。入れ歯にするか、差し歯(インプラント)にしたらどうですか。ちなみに、インプラントは、1本、30万ですと。そんな高い治療は私には、できませんから、とすぐに断り、歯が無くたって、かめますからと開き直って、帰ってきました。でも、家へ帰ってから、大切な永久歯。母の栄養を吸い取ったこの歯をもっと大切にする必要があったと後悔しきりの私です。
2月6日
夕方、春を先き取りした2月号のつのぶえジャーナルがとどきました。今の私たち夫婦にとって、今月の言葉は、心に残る言葉です。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。このみ言葉は、神様にすべてを委ね、信頼し、無力さをさらけ出して、神様を一心に仰ぐことによって、強くしてくださるということ。ともすれば私たちのうちにある主によって、強くなったように、勘違いしてしまいますが、傲慢なことであると教えられました。また、八木重吉の詩集より、救ってくださると信じ、私を投げ出します。このような、気持ちを持ち続けていれば、恐れることはないはずですね。ここ数日、落ち込んでいた私ですが、主を見上げなさい。苦しみにまけないで、祈っているから天国にいっても、と言う源三さんの詩によって励まされたのでした。有難うございます。きょうは、充実した一日を送ることができそうです。
2月8日
教会に行くときも、歯医者さんにいくときも、ジャーナルを必携しています。信仰的に強められるだけでなく、とても私など知らない分野まで伝えてくれるのですから・・・。中味は、どの宗教誌よりも、充実しています。キリスト者であっても、この世で生きるものですから。知識として知りたいものがあります。
それを、満足させてくれるのです。読者と編集者がうまく交流できているのです。多くの方の訴えを、大切にしてくださる。一人一人が、またたくさんの方の考えを読んで、励まされる。新しい一週が神様に目を向けることの多い日でありますように。
3月が近づいてきました。主人の三重大病院での検査がまためぐってきます。それも、3月3日。いやだなー。でも、受けなければならないのですよね。
2月12日
主人は、毎朝私が犬の散歩に行っている間、旧約(ダニエル)を読んでいます。毎日1章を読むようにしているみたいです。私は、専らルターの「日々のみ言葉」を読み進めています。信仰弱い者で、それらから目をそらすとき、この世の誘惑にまけてしまします。ただ、どんなに意気消沈してしまっても、やはり、神様を見上げて、お祈りをささげて、残る僅かな信仰のともしびを灯し続けて生きたいと願っています。神様の与えてくれるこの希望は、決して失望に終わらないとありますから。このことを信じて歩む者とさせてくださいと祈るものです。
昨日から、15年間、私たち家族と苦しみ、悲しみ、喜びをともにしてきた、愛犬ムクちゃんが、水も一滴ものまず、横たわっています。そのムクに、「有難う、本当に長い間、私たちをいつも、傍らで、慰めてくれたね。少しでも、語気を荒立てると、それぞれのひざに寄り添って、そんなに、大きな声をださないで、と細い手で、静かにと言ってくれました。」天国へ行っても、また、私たちを見守ってね。安らかに、苦しまずに、最期のお別れができたね。最愛のムクちゃん、これからは、ムクの残してくれた子供たちといつも、ムクのやさしさ賢さを思い出して、力をあわせて生きていくよ、心配しないでね、もういちど、ありがとう。
春光や 瀬音の聞こゆ 忠魂碑
施設への 見舞い客増え 春隣
春雷の 大きく朝の ひとつかな 馬場路哉。
2月16日
今朝はまた、寒さが戻ってきました。花を咲かせた梅もびっくりしているようです。先日、娘が少しの間来ました。「ジャーナル」を読ませて、というので渡たしましたら、「世田谷通信」を読んで、自分の家と同じところがあまりにも多くて、と言って安心していました。ゲーム機に操られているようで、人間らしさを失いかけるとき、原点に戻って、こうして、ジャーナルに目をとおすことによって、聖書を開くことによって、ほっとすると言って帰りました。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
水篶刈だより
…13…
近頃は講演を聴きに行くことがめっきり減ってしまいました。30~40代の頃は、よく講演を聴きに行ったものです。その時々に聴いた話をふっと思い出すことがあります。その中でも、今の私の人間観に影響を与えていると思われる講演があります。それは、15年前に小布施町にある新生病院で聴いた工藤信夫氏(精神科医)の話です。氏は当時、日本ルーテル神学大学教授をされていました。病院の敷地内にある聖堂の静謐な雰囲気の中で、氏の話に聴き入ったことを思い出します。「医療の心」という演題でした。氏は最初に、「私たちの生きる目的は心の量り(視野)を広げることです」と述べられ、それについて次のように話されました。「すべての人の中に尊敬できる人がいないと思うことは、自分の心の狭さを暴露していることです。すべての人の中に例外なく尊敬すべきことがあるはずだと考えて、自分の心の量りを広げていきましょう」人と接する時、その人が私の知らないところで、辛いこと、悲しいことなど様々な体験をして、それを乗り越えて今日があるということに思いを馳せると、そのことに敬意を表したいという気持ちになります。
それは子どもに対しても同じです。「今まで健気によく生きてきたね」と思うと、ちょっぴりやさしい気持ちにさせてもらえます。その人の置かれた状況や生育歴が大変な場合はなおさらです。そういう観方が習慣になったのか、若い時に比べて想像力を働かせて、その人の立場や背景を推測してみるという思考回路が知らず知らずのうちにできてきたような気がします。
人の心の世界は底知れず深いものです。たとえ他の人から見たらまずいなと思われる面が出ているとしても、それは氷山の一角にすぎません。一面だけを見て、その人を断定することは避けたいと自分に言い聞かせています。「あなたは病む人、私は健康な人」という見方ではなく、「私も病むことがあるかもしれない。たまたまいろいろなものに支えられて病んでいないだけ」という、低い心(謙虚さ)を持って人に接したいと思っています。目に見えないところで多くの方に支えてもらっていることに感謝し、受け止め合い、支え合える関係を自分の周りから一歩ずつ作っていけたらと思います。
* 長女が描いた絵
…キリスト教…
社会福祉活動のあゆみ(20)
修道院の貧しい人々への救済(6)
修道院生活(6)
この托鉢修道会の創設者は、イタリアの聖フランシスコ(1182~1226)とスペインの聖ドミニコ(1170~1221)の二人の仕事であったと言われています。聖フランシスコは、アッシジの富豪な商人の息子でした。フランシスコは正規の教育を受けず、華やかな青春の生活を送り、放蕩にふけっていました。ある時、心の声が彼にマタイによる福音書の次の語句に注目させたと言われています。
行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である(マタイ10:7~10)。
彼はこの言葉に従って、富も名誉も捨てて華やかな遊び仲間とも別れて、清貧を自分の伴侶とし、ハンセン病や社会から見捨てられた人々に奉仕することを始めました。彼の熱心なそして誠実な態度は、たちまちにして彼に従う弟子たちを見出しました。彼には修道会を設立する意図はなく、ただ使徒的貧困に生き、キリストの命令に従い、筋肉労働によって、もしこれが不可能な場合には物乞いによって生計を得るような僅かな伝道者を持ちたいと望んでいました。
その熱心、献身、そして自ら身をもって示す実例によって、世界を改革する原始キリスト教的伝道機関を創立しようと願っていたのですが、教皇の勧告によって、初志を諦めて、修道会の設立に同意したのでした。彼は、最初は哲学や科学を全然尊重しない人物でした。全ては弱者、病人、貧者の実際的救済、人間の道徳的・宗教的革新が、彼にとってはキリスト教の初めであり、終わりであったのでした。布教活動のために教育を重んじるようになったのはドミニコ会に負う所があったと言われています。
彼は異端者を説得するには、清貧、謙遜等の徳行をもってしなければならないと考え、信者の寄進によってのみその生活の糧を得る托鉢修道会を組織しました。この修道会は1217年1月に教皇ホノリウス三世によって「説教者修道会」として認可を受けました。これがドミニコ修道会です。フランシスコ会は、主として都市のスラム街で働き、ドミニコ会は、これと同時に、教育のある人々や上流階級に福音を伝えて今日もなお続いております。
フランシスコ会、ドミニコ会の組織にならって、新しい修道会がその後現われるようになりました。使徒的目的と使命を果たすために、おそらくもっとも完成されて組織を持ったものとして、1534年に創立されたイエズス会を挙げる人もおります。なお、16世紀以後、いわゆるオルド、すなわち、教会法による本質的な古い修道会の他に、多少、戒律の緩和された組織を持った新修道会が現われました。これをコングレガチオと言います。
これらの新しい種類の修道会は、ますます活動的になって、それぞれの創立の目的に応じて、直接の布教事業、慈善事業、教育事業、あるいは医療事業、更生事業などに献身するようになって行きました。
ことに女子修道会は、16世紀までは、ほとんど純粋な信仰的な組織の修道会のみであったのに、時代とともに次第にコングレガチオの形で、数え切れないほど新しい修道会が、至るところに出現するようになったのです。その数と多様性は、今なお続いていると言われています。
篠田 潔
少し前から「自分を見つめる」とか「自分探し」とかいうことが言われるようになってきています。「自分とは何者なのか」ということはずっと以前からの変らない人間についての探究課題でありますが、今日また改めて問題になっているのは、自分を見定め難い状況になってきているせいではないかと思います。これは大正末期から太平洋戦争時代に、全ての国民が、自分は国家のため、天皇のために生きるのだと信じ込まされていたことに比べると、良いことであると言えます。
しかし、自分と言う存在を確かめられないのは不安でありますから、何とかしてこれを確かめたいと思うのは当然であります。
自分は自分として立つことを主体性の確立と呼ぶことが出来ます。論語を書いた孔子は「30にして立つ」と言いましたから、30歳にもまれば、主体性が確立していなくてはならないということでしょう。しかし、30過ぎた人は皆主体性が確立していると言えるでしょうか。主体性というのは、自分が自分の主人公であることを言うのでありますが、自分がそうなっているかどうか甚だ怪しいと思われる点が少なくありません。吹く風のように絶えず変るのが事実であるからです。
中には、「おれは大丈夫だ」とか、反対に「わたしなんかダメです」とか、自分のことは自分が一番よく知っているかのように言う人もいますが、そういう自己判断をしている自分の確かさを裏付けるものは何かと問われたら、答えられないのではないでしょうか。要するに、自分は揺るぎのない確かな主人公となる自分ではあり得ないということであります。
自分探しと言い、自己探求と言い、自分を見つめると言いますが、それは自分だけで出来ることではなく、自分を超えたもの、それも揺るぎなく確かなものとの出会いがなくては叶わないことでありまして、人は全てそういう出会いを求めてきたと思うのです。
これについて聖書は、「イエスは主なり」と告げています。この主を自分の内に迎え入れるところに自分の主体性が確立されると言うのが、あなたへの聖書のメッセージであります。
(参照聖句・フィリピの信徒への手紙1:21)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
「ローマ人への手紙」研究 (52)
第37課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否
9章1~11章36節(続)
A 神がユダヤ人を退け、異邦人を召されることは神の約束と矛盾するものではない。
9章1~24節(続)
「その愛顧を与えることにおいて、神は絶対的主権をもっておられる」
9章6~24節 (続)
全ての非キリスト者は言うまでもなく、多くのキリスト信者でさえも、ここで教えられている主権的選びの教理に強く反対しています。この学習の目的は聖書の教えを弁証することではなく、それを説き明かすことです。主権的選びの教理は霊感されたこの聖句の中にあるこの章の中だけでなく、ローマ書の中だけでなく、旧新約の神のみ言葉の中にあまねく教えられていることです。たとい私たちがそれを好まなくても、それは聖書の中に厳然とあることです。そして、それを消し去ることはできないのです。もし私たちがこの教理を退けるならば、私たちの戦いの相手は、聖書の著者である神であり、聖霊です。
13節、「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」は、マラキ書1章2~3節からの引用です。この言葉は12節に引用されている言葉と同様、ヤコブとエサウと彼らの子孫たちに関するものです。一方の子孫に示された神の愛顧は他方の子孫に対しては与えられていません。
このことは初めに2人の兄弟、ヤコブとエサウの間になされた区別にその起源をもつものです。従って、ここの意味は「神は一方を他方よりも好まれ、一方を採り他方を退けられた。このことを言おうとしておられるのであるから、この場合、『憎む』という言葉は、『より少なく愛された、或いはより少ない愛顧しかお与えにならなかった』という意味である」(C・ホッジ)。「愛する」と「憎む」という言葉のこのような用法は聖書の中にはよく出てきます。(参照:マタイ6:24、ルカ14:26、ヨハネ12:25等)。
パウロは神が人々に愛顧と恵みを与えることにおいて、完全な主権をもっておられることを明らかにしました。神は人間の習慣や儀式や様式や原則に服する必要はないのです。また、神はご自身の決定について、私たち人間に説明や弁明をする義務も必要も全くないのです。このことがヤコブとエサウの歴史から明らかにされたのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳
(日本キリスト改革派引退教師)
祈 り
昨年末、突然内定取り消しの連絡が来た。それまで自分とは関係ないと思っていたことだったので、めっちゃ焦った。友だちの中にも何人かいた。一年留年しようと考えている者もいた。僕の家は山梨でぶどうを作っている。父で2代目だ。父は自分の代で終わりと考えている。子供たち3人はみな東京で働いているからだ。僕もその一人だ。
嫌だった日焼けした顔、ごつごつした手の父がすごいなあ・・・と思った。今は迷いはない。父に弟子入りさせてもらって頑張ることにした。
僕のように内定取り消しで落ち込んでいる人もいるだろうが、自分を見つめるときだよ!
山梨県 Y・Tさん
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(13)
「切支丹灯籠への思い」(12)
「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
切支丹迫害には多くの信徒が犠牲になりました。いろいろなものが形で残っていますが、「踏み絵」と言う言葉はその代表的なものの一つでしょう。
松田重雄は、その著書の中で「信徒をたくみに転ばす殉教者皆無の鳥取池田藩」という章がありますので、その要旨をご紹介いたしましょう。
「鳥取城主池田氏は清和源氏の流れをくむ家柄で、かつては松平姓をなのり三河・尾張などに住まっていた豪族で、天主教の流行した戦国時代には攝津国豊島郡池田に住んでいた。当時摂津・河内方面は切支丹の信奉者の多い地帯であった。池田氏の切支丹信仰もこのころから始まったものと思われる。
見聞諸家紋を見ると、池田筑後守充正の家紋には木瓜と三葉葵紋をのせている。池田氏は松平姓を名乗っていたことから三葉葵紋を使っていたのである。また摂津国大広寺に所蔵されている池田家の系図には、池田六郎佐正が、明徳元年(1390)山名清を討ち、その功績によって足利義満から三木瓜の家紋を賜ったと書かれている。
池田氏が木瓜と三葉葵紋を使いながら、これを久留子紋に何時の頃に変えたかは不明ですが、池田信輝は永禄10年(1567)の本国寺の戦いの時、指物に十字のクルス紋を描いて使用いますから、その頃すでに切支丹信者であったのです。
池田家は、信輝に始まった切支丹であることが分かります。ここでも、入信の動機が何であるかは推測の域を超えませんが、西洋の優れた物資・精神文化をいち早く取り入れ富国強兵を図った名君の配慮であり、それを補佐した文化性豊かな家老たちの優れた慧眼であろうと思われます。その後、池田家は鳥取城主(32・5万石)、岡山城主(32万石)の大名として明治維新まで続いていました。
さて、迫害は厳しさを極め、全国の各藩では、毎年次々と切支丹受刑者を出していました。豊後藩は特に厳しく数十人・百数十人と血なまぐさい迫害の年が続いています。しかし、鳥取藩主は幕府の布告を掲示し、表向きは厳重に取り締まっています。
この間、多くの人々が切支丹として取調べを受け、投獄されていますが、何れも許され、これらの人々の入牢中は家族に米・銀子を与えるなど想像できない援助の手が差しのべられていたと言う。さらには鳥取藩内からは切支丹信徒の首切り者・磔刑者は、明治維新まで1名も出ていないことは全国的に信じられない出来事でした。
池田三左衛門輝政の重臣4人が、仏僧たちから切支丹であると告訴された時、輝政は幕府の手前とお家大事を思って、一応切支丹として吟味したが、この内の1人は転び、他の3人はあくまでも信仰に徹したので、追放されています。これを伝え聞いた姫路城下の切支丹たちは、自ら進んで亡命することを輝政に申し出たが、その申し出は許されなかった。輝政はこれらの人たちのもとに使者を送って、信仰は自由であることを保証し、迫害を強要した仏僧は輝政に見放されたと言われています。
=記=
主な文章は、松田重雄著「切支丹燈籠の謎・研究」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。インターネットで「キリシタン燈籠」を検索して参考になさることをお薦めいたします。また、系図を掲載していますので、拡大してご覧になることをお薦めいたします。
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書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円