2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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「契約の継承」(57)
第8章 村人と村の生活
神の契約にそって生き、教える(2)
村人と村の生活
神が私たちに対して持っておられる契約関係は、私たちの相互の関係に反映されるべきです神は御言葉において、このことを語っておられ、それがどのようなものか、イエスの人格にいて私たちに示されました。示すことと語ることは、人を教えるための強力な方法です。
私たちはみな、常に信じていることを見せたり話したりします。 時には、私たちは聖書真理を語ったり、示したりします。時々、私たちは聖書の真実を語り、行為では真理でないとを示すことがあります。もし、私たちが何も言わず、何も示さないことを考えるなら、そ黙っていること、受け身の態度が、私たちの表すメッセージです。
契約の村では、その村のみんなが、教師であり、みんなが生徒であるという考えがありますもちろん、その教師と生徒の関係は、公式的な教育の場ではもっと親密でより計画的ですが次に述べる原理はすべてに当てはまります。それらは、私たちが信じていることを示したり語ったりするとき、これらの原理は家庭でも教会でもあてはまるものです。
教師というもの(1)
イエスは言われました。「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はな、自分の師ぐらいにはなるのです。」(ルカ6・40)。このみ言葉について、興味深い1のことは、イエスがこれが良いとか、悪いとか、と言っておられないということです。ただのようになります。あるところまでは生徒は彼らの師のようになれるでしょう。
ヤコブがこう語るのも不思議ではありません。「私の兄弟たち。多くの者が教師になっていけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3・1)
パウロは、彼が大胆にこう語るとき、私たちがこの呼びかけから後退して行かないよう励しています。「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。(Ⅰコリント11・1)
イエスは次のように言われるとき、私たちに注意を与え、注意を喚起しておられます。すわち、「戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えりする者は、天の御大な者と呼ばれます。」(マタイ5・19)。
私たちがもっと有能な教師たちになれるための道を探っていくにつれて、この議論が方法よりも、原理的なものに関係することに気づいて欲しいと思います。そのため、それはあらる年代に、またあらゆる人間関係に当てはめることができます。私たちの成人した子どもたち孫たち、私の教会学校のクラスの生徒たち、教会で私がふれあう子どもたちや大人たちにもてはまります。
第一に私たちは「わたしの生徒たちに対してわたしの目指すゴールは何か」を問わなけれなりません。その答えをパウロは示しています。「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキストの力によって、労苦しながら奮闘しています」(コロサイ1・28~29)。
即座に私たちは、とてつもなく大きな時間と感情のエネルギーを投入する現実に直面します「労苦」と訳された言葉はギリシャ語のコピアノという言葉で、その意味は、労苦するとか疲れるという意味です。「尽くして」と訳されている言葉はギリシャ語のテレイオスという葉で、目的地に着いたとか、完全であるとか、成熟したという意味です。私たちはキリストある成熟さより低いものに、決して良しととしてはなりません。そういうことでは、生徒たが天で栄光を受けるまでは、最後の完成に達してはいないのですから、私たちが最後まで教通したことにならないのです。それが究極のゴールです。つまり、『よくやった。良い忠実しもべだ。……主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ15・23)とキリストがいうこができる私たちの天の父に生徒を見せることです。
第二に、私たちは内容・文脈という原理について、絶えず注意しなければなりません。聖的な真理は愛の文脈の中で教えられるべきです。パウロは若いテモテにこのことを強調しまた。「御言葉を伝えよ」(Ⅱテモテ4・2)という命令のすぐ前で、パウロはテモテに、彼がを教えられたかということと、誰が彼に教えたかということを思い起こさせました。アレンカーリー博士は、パウロがテモテに教えた言葉や、彼の教師たちについて、彼に思い起こさたのだと言っています。
けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなた
は自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころ
から聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵
を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることがで
きるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と
義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのた
めにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
(Ⅱテモテ3・14~17)
テモテは契約の子でした。彼の教師たちは、彼の祖母ルイスと、母ユニケ、そしてパウロ身でした。これら三人がテモテに自分たち自身を投資しました。テモテは幼少から信仰の言を教えられてきました。彼は、信頼と服従を学ぶ過程をたどって来ました。彼は自分自身が何を教えられてきたか確信を抱くようになりました。彼が今や、自分で教える働きをはじめるとになったので、パウロは内容・文脈の両方を彼に思い起こさせます。彼に聖書の権威と教た人たちの信頼性の高さとを思い起こさせます。パウロはテモテや、そして私たちにも聖書生ける神の言葉であるからこそ、その神の言葉に従う責任があることを教えます。教師たち従順や不従順に関係なく、御言葉が私たちの権威であるため、それに従わなければなりませんそれが私たちの信仰と実生活のルールです。しかし、テモテには、彼の前に生きて彼を教え人たちを思い出すことができるという大きな強みを持っていました。そのためパウロはテモに他の弟子たちがする以上のことをするように求めました。
神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イ
エスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。
寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
(Ⅱテモテ4・1~2)
スーザン・ハント著
WIC委員会訳
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「みんなでわいわい・ご意見コーナー」
会社を停年退職して一年が過ぎました。最初は、好きなことをして過ごそうと思っていたが、何をしたいのかが分からず、段々焦りを感じてきた。周りや家族の目がきになりだし、少しうつ病になり始めたとき、たまたまこのHPを見る機会に出会った。退職時には、自分でもよく頑張ったと満足していたが、最近、家内の協力があってのことと思えるようになっていたことに気付いた。このままではいけないので何とか考えようと前向きになれたことをお知らせします。男はどうして自慢話と見栄を張るのだろうと思うことばかりで、それが世間を狭くしていることに気が付いて、情けない話しです。そこを改善したいと思っている日々です。
大分県 A・Aさん
大阪市 I・Kさん
『ありがとうございます』
冷たい風から香を含んだ心地よい風になり、春の息ずかいを感じまています。お花屋さんのケースの中にはピンクのバラや色とりどりの花が心を明るくしてくれます。最近、マスクの人が多くなりました。天気予報で花粉に飛散情報も季節を告げています。手袋の人も少なくなり、春を思っています。
今月号の写真も、門馬 亨さん(犬山教会)のものを使わせていただています。感謝です。
****************
吉田誠子様 麦島啓子様 匿名様
郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
『クリスチャン音楽家を支える会』のための献金者
麦島啓子様 匿名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった(創世記4:20~21)。
09年2月20日現在 編集・発行人 長村秀勝
今月のことば
(エペソ6:10)
私たちの内・外の悪に打ち勝つためには、強くなければなりません。私たちが強くなければ一敗を喫するか、あるいは、私たちの代わりに戦ってくれる、敵よりも強い者を頼まねばなりません。このみ言葉は、「主にあって強くなれ」と言われています。「主にあって」であって、私たちの内にある主によって、ではないことに注意しましょう。
「主にあって」、ここに秘訣があります。神ご自身が、私たちの力になられるということです。一方、私たちの内に、神の力を持ってさえいれば、確かに私たちは強くなることが出来ます。しかし、ここで意味するものではありません。ここで描かれるものは、強い父の腕に安心している小さい、弱い幼子であります。力が幼子の中に移し入れられるのではありません。幼子を救うものは、父自身の内なる力であります。
聖書の中にあるヨシャパテは、自分の戦いをするためではなく、彼に約束されたことを見るために、敵に立ち向かって行きました。ダニエルはライオンの穴にすわった時、普通人より強かったわけではありません。主が力でした。
神の力が、私たちの内に入り、その力を信頼することによって、主の中に私たちの力を求めるという、主にあって強くなると言うことと同じではありません。
「主にあって強くなる」ということは、「無力」を意味し、私たちのために戦ってくださる神ご自身を、信頼して仰ぐことであり、これが私たちの勝利の真に最も深い秘儀であります。
先が見えない、と言われますが、見えます。私たちの未来に、明日に希望と夢が神によって備えられているからです。
道にして、真理、命にいます主よ、
その道を知り、
真理をはなれず、命を得させたまえ。
そのよろこびをとこしえにあふれしめたまえ。
…。自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。
(Ⅰペテロ5:7)
=11月号の続き=
「ゆだねる」という行為は、重大な行為であるので、それは確かな根拠に基づ いてなされなければならない。ただ「神にゆだねるかよい」と、どのように強く勧められても、ただそれだけでは無意味である。
「かえりみる」ということは、積極的な関心と配慮を意味している。ここでも、「かえりみる」主としての「神は」と、客体としての「あなたがたを」とが、はっきりと対照的に記されている。かえりみ給うのは神であって、かえりみられるのは、他ならない「あなたがた」、すなわち、われわれなのである。ここに「かえりみる」者の確かさと、かえりみられていることの現実性とが、はっきり見ていて下さるということは、イエス・キリストによって、はじめて明確に宣げられ、表わされたことであって、さすがのギリシャの哲人たちも、神が完全に全であることを認めたが、神が人を積極的に配慮し給う、ということには、考えが及ばなかったのである。全能の神が配慮していて下さり、自ら思いわずらうことは、全くナンセンスであり、自己撞着である。
「神にゆだねるが良い」という勧めが、終末論的に根拠付けられないで、その根拠が、現在における神の配慮に求められている。6節の「神の力強い御手の下に」という句と共鳴している。
とにかく、7節は、聖書の中でも最も慰めに満ちたみ言葉の一つである。
石井晴美著・註解 ペテロの手紙(1) ヨルダン社
上河原立雄撰
この文章の転載は許可を得ております。
むつかしい路もありましょう
むつかしい路もありましょう
しかしここに確かな私にも出来る路がある
救ってくださると信じ 私をなげだします
八木重吉
眸
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。今日から短大が始まりました。久し振りですので少し緊張もありますが、頑張って勤めて今日1日の無事を祈りながら、電車に乗りました。今年のお正月は毎年恒例の風邪をひくこともなく、穏やかに過ごせたので嬉しかったです。新しい年は希望いっぱい、素敵いっぱいの一年になる気がします。
まずは日々に感謝しながら毎日をできるだけ大切に一生懸命生きようと思います。大晦日は紅白を母と見ました。アンジェラ・アキさん、森山直太朗さんの曲を聞いて涙が出ました。涙が出る事も生きている印ですね。
今年が皆さんにとっても私にとっても穏やかで優しい気分でいられる一年でありますように…。今週は3日間連日、短大に出勤しなくてはならなかったので、体力的にもつかなぁと思っていましたが、痛みの程度も軽く、今帰りの電車でホッとしています。
今、毎日できた事やちょっとした嬉しい事とか、探しながら過ごしていて毎日幸せを貯金しています。もうすぐ誕生日になるので、その日からそんな出来事をメモしていこうかなぁと思っています。また明日、また来週頑張ってやってみます!
私の事や妹の事を思い出して頂ける幸せも大事にします。お寒くなってるのでお風邪もひかないようにして下さいね!
まずは日々に感謝しながら毎日をできるだけ大切に一生懸命生きようと思います。大晦日は紅白を母と見ました。アンジェラ・アキさん、森山直太朗さんの曲を聞いて涙が出ました。涙が出る事も生きている印ですね。
今年が皆さんにとっても私にとっても穏やかで優しい気分でいられる一年でありますように…。今週は3日間連日、短大に出勤しなくてはならなかったので、体力的にもつかなぁと思っていましたが、痛みの程度も軽く、今帰りの電車でホッとしています。
今、毎日できた事やちょっとした嬉しい事とか、探しながら過ごしていて毎日幸せを貯金しています。もうすぐ誕生日になるので、その日からそんな出来事をメモしていこうかなぁと思っています。また明日、また来週頑張ってやってみます!
私の事や妹の事を思い出して頂ける幸せも大事にします。お寒くなってるのでお風邪もひかないようにして下さいね!
おかし
いたずらに一つかくした 弟のおかし。
たべるもんかと思ってて、たべてしまった、
一つのおかし。
かあさんが二つッていったら、どうしょう。
おいてみて とってみてまたおいてみて、
それでも弟が来ないから、たべてしまった、
二つめのおかし。
にがいおかし、かなしいおかし。
(金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと)より
自閉症者のひとりごと
(22)
12月24日
100年に一度という不況のなか、温かい住まいが与えられ、電飾をつけ、チキンなど食べるものが備えられ、主人と共に食卓を囲めるというのが本当にありがたいことだと思っています。寒空のなかで過ごさねばならない人々のことを思います。また大鬱で辛い思いをしている妹が癒されることを願っています。
振り返るといつも神のみ手の中にいる。
アスペルガーとして生まれたこと、それゆえ生き辛かったこと、その中で教会に繋がったこと、大学進学で善き仲間に、特に主人に出会ったこと、良い仲間に出会ったこと、東京で病んで帰ってきて、聖書の学び会で学べたこと、思いもしない福祉職に就いたこと、鬱で泥沼の20代から主人が引き上げてくれたこと、アルコール依存症になり人生のリセットを命じられたこと。すべては予想もつかない繋がりのなかで生きている。摂理のなかで生きている。
振り返るといつも神のみ手の中にいる。
アスペルガーとして生まれたこと、それゆえ生き辛かったこと、その中で教会に繋がったこと、大学進学で善き仲間に、特に主人に出会ったこと、良い仲間に出会ったこと、東京で病んで帰ってきて、聖書の学び会で学べたこと、思いもしない福祉職に就いたこと、鬱で泥沼の20代から主人が引き上げてくれたこと、アルコール依存症になり人生のリセットを命じられたこと。すべては予想もつかない繋がりのなかで生きている。摂理のなかで生きている。
1月1日
昨日から例年の如く、主人の実家に来ています。上膳据膳の生活を送っています。義妹の子どもたちの声で賑やかな正月です。疲れてしまって、独り布団を被っています。どうも風邪気味のようです。
正月もとっくに過ぎたのに、だるくてたまらないし、腰痛も治まってくれない。どうもいろいろなものが頭に入ってくる障害らしいのです。だるさとどう関わりがあるのかわかりませんが。今日はブロックに行ってきたのですが、効き目は数時間でした。その足でAAのメッセージとミーティングに行かせて貰いました。寝て頭がスキっとすればいいのですが。
1月9日
生活のリズムが崩れています。自分に自信、大切に出来ないのだね、とDr。不安を和らげる点滴と薬をもらって帰ってきました。神様助けて。サンタさんは何で物をくれるのかなあ。何で心の落ち着きをくれないのかなあ。わたしが欲しいのは後の方なのになあ。それなら家に煙突がなくてもいいのに。
1月11日
頭ぐしゃぐしゃの日々が続いて、礼拝を休みたいと思っていたら、主人に教会行くのと言われて、行かなきゃと思い直して、顔も洗わず、家を飛び出して行きました。ハイヤーパワーとはすごいなあ。
1月13日
脊髄刺激療法の手術を再度受けることにしました。痛いし、毎週ブロックを受けに行くのはうんざりですから。今回は、1週間から10日ぐらいの入院で済みそうですし。ちょうど来月の今頃です。2月12日入院、13日手術です。少し間があるので、精神的に落ち着きを取り戻し、体力をつけていきたいと思っています。
今日もコーラとコーヒーの飲みすぎで嘔吐したので、ちゃんと施設にも通って生活リズムを整えねば…。感情ではなく行動をおこさねばなりませんね。そういっている今も気が重いのですが。
主に在りて
今日もコーラとコーヒーの飲みすぎで嘔吐したので、ちゃんと施設にも通って生活リズムを整えねば…。感情ではなく行動をおこさねばなりませんね。そういっている今も気が重いのですが。
主に在りて
加納さおり
(62)
猫 草
ここのところ、子どもが毎週レンタルしてくるDVDがある。「鉄腕アトム」である。懐かしのテーマソング「空をこえて~ラララ星のかなた~」で始まるアニメではなく、数年前にリメイクされた新しいバージョンのアニメである。最初は子どもが見ているだけだったのだが、映像の美しさ、ストーリーの面白さについつい引き込まれて一緒にみている。はじめの方はアトムが様々な事件をそのスーパーパワーで解決する、まあ単純なヒーローものなのだが、回が進むにつれて、複雑で深いテーマを内包していることに気が付く。ロボットが記憶や感情を持ち、経験によって進化し、自らの意思で行動するとき、ロボットと人間の境目は次第にあいまいなものになり、そこに対立や葛藤が生まれる。ロボットが「心を持つ」とはどういうことか、そして「心」とはそもそも一体何か。
現在この不況でもヒットしている商品にWiiというゲーム機がある。うちにもある。フィットネスができるWii Fitというものだ。これがまたよくできたプログラムなのである。メンバー登録をすると、「こんにちは○○さん!いっしょにがんばりましょう!」と話しかけてくる。朝運動すると「おはよう!よく眠れましたか?毎日がんばってますね!その調子です!」とほめてくれ、ちょっとさぼると「昨日は何かありました?こつこつ続けることが大事ですよ。」と諭される。しょせんは機械!と思いつつ、そのタイミングの良さに、つい「ちょっと忙しくて、時間がなかったの、ごめんね」とか言い訳してしまうのだ。決して厭味にならない程度に、当たり障りのない世間話までしてくれる。ちょっとしたゲーム機でもこれだけの親和性があるのだ。まだ高価で市販段階ではないが、すでにこの世に存在する人工知能をもったロボットはある程度は「自分で判断して」「自律的に行動」できる。そしてそのロボットやプログラムが人間の思惑を超えて、自分の意見や夢やあこがれ、権利や自由を主張しはじめたら?そもそも人間の都合で、人間に似せて作りだされたロボットが、本当に人間に近づいたとき、人間は「人間に似ているから」という理由で、限りない嫌悪感を抱くのである。50年前には夢物語だったはずの、手塚治虫が示唆した未来社会は、日々現実のものとなりつつある。
その愛のゆえに
=時々の記=
(35)
12月17日
きょうは、恵みの雨が降っています。雨でよかったとホットしています。雪になれば、我が家からは、車では、一歩も出られなくなることが多いのです。K先生からクリスマスカードが届きました。クリスマスおめでとうございます!と挨拶を交わすことができるのは、神の恵みです、と一言添えてくださってありました。幾度もの手術をされ、今年もクリスマス礼拝を守ることができる幸いを共に感無量の思いで受け止めておられることと、お察しいたします。同じ病いで、何時再発転移するかの不安、恐れ、瀬戸際に立たされ、それでも、なお、神様を信頼し、すべてを御手にお委ねする信仰を持ち続け、福音宣教のために、ご自分を捧げ尽くしておられる先生に励まされている私たちです。
暁光(ぎょうこう)に 直ぐ開けにけり 冬の朝
伝えたき 聖句を入れて 賀状書く 馬場路哉
主人と二人で、祈祷会に出席します。
12月24日
主人は、ほっとしたのか、昨日の夜中から、痛風の発作に見舞われました。しばらく発作から遠のいていましたので油断していました。持病でいつも薬を服用していたのですが、勝手に止めていたら、やはり疲れなどが伴うと出てくるのですね。きょうは、診療所へ行って薬をもらって、痛みを止めてもらわなければ……。
底冷えに 箒(ほうき)持つ手の 痛くなり
落ち葉焼く 煙日輪 見ゆことも
大空へ 梅の蕾の 朱を点ず 馬場路哉
「つのぶえジャーナル」で信仰を強められ、多くの方に励まされ、支えられ、この年を終えることができますこと、心から感謝しています。私たちは、もうどこに行かなくても、ジャーナルで、各地に旅をさせてもらっていますので、とても充実した感謝の毎日です。
お祈り有難うございます。帯状疱疹の痛みほどではないのですが、痛風もかなり痛みがきついようですが、今回は、今までよりかるく、歩く事ができるので、嬉しいと言っています。帯状疱疹は、疱疹がきえても、痛みが強く残ると聞いていますが……。今朝は、この冬一番の北風が冷たく吹いています。朝、散歩に行くと、懐中電灯の明かりをとうして、粉雪が舞っているのがわかりました。寒さで、手がかじかんできましたが、犬たちに励まされ、小走りしましたら、ちょっと、ぬくもってきました。明日は、主人の母をお見舞いに行きます。自宅で、お正月を迎えさせてと、病院の方が言われますが、この家の寒さに直面すれば、風邪をひかすもとになると考えて、鈴鹿の近くで、暖かいところをみつけて、団らんのひとときを持とうということになりました。明日、雪が降らないようにと願っています。
12月29日
この年末は、専ら体を休めています。生来怠け者なので、人が忙しくしていると、余計、怠けてしまいたい。子供は、9日間も休みがあるのに、沖縄からだと、飛行機代がとても高いので、沖縄周辺を巡ってゆったり過ごすとのこと。奄美大島まで、船で行くとか。好きなようにしなさい、といっておきました。何しろ、誰に似たのか、とても、口下手で、人とうまくコミが取りにくいので、仕事から解放されて、一人ゆっくり過ごしたいのでしょう。二人の英、米の方と共に研究に携わっているのですが、一番下っ端なので、とても厳しく言われるとか。それに対して、どうしても微妙なニュアンスの違いで、うまく、英語で返答できないので、とてもストレスがたまるのでしょう。
昨日、隣のおじいさんが、急に亡くなりました。86歳でした。今日は、二人で葬儀の手伝いに行かなければなりませんが、考慮してくださって、主人一人でよいとのこと、ほっとしています。田舎の葬儀は、飲み食いが中心で、女性はとても大変です。でも、最近、山添村も変わりつつあるので、ありがたいです。この一年神様のお守りがあったことに感謝しています。
おもむろに 明けぬ冬至や 烏(からす)飛ぶ
この曲を この度も聴きて 年の暮れ 馬場路哉
1月6日
1月5日は寒の入り。でも平年に比べると穏やかな日和でとても嬉しいでした。北国の方の寒さとの厳しい戦いを思い巡らすとき、寒い冬を乗り越える体力、気力が備えられますように、とお祈りするものです。今朝、雀が我が家の窓にぶつかって、意識を失い、苦しそうにしていました。犬たちは、それを見て悲しいようと、とても悲しそうに泣くのです。動物はとても敏感です。何か悲しい出来事が起きたら、表情で泣き声で訴えるのです。
一人ひとりの頭をなでながら、大丈夫、すずめさんは、きっとお空へ向かってとんで行くと思うよ、と語りかけると落ち着いてきました。犬たちから命の重みを教えられた一瞬でした。
一対の 葉牡丹に先ず 迎えらる
若き日より 見しオリオンや 冬の空
しなやかに 枝揺れ返す 枯れ木かな 馬場路哉
きょうは、冬休み最後の日です。奈良からJR関西線に乗って、およそ50分、島ヶ原駅まで、娘とその子を迎えに主人はでかけました。名張の図書館へ、本を借りる日の更新にも行かなければならず。分刻みで動かねばならないとぼやきながらも、うれしそうに、孫を迎えに出かけていきました。
1月8日
文は、人なりと言いますが、私のこの拙い日記にも、私の人となりが出るものなのですね。読んでいただく方のことを思いますとき、申し訳ない気持ちになりますが、今日の、今の自分の思いを、発散させていただけますこと、とても感謝しています。
きのう、祈祷会の帰り、伊賀市主催の全盲の13歳の男の子のピアノリサイタルがありました。主人と二人で、聴きにいきました。1歳のとき、白血病からくる高熱のため、両目がまったく見えなくなりました。白血病は骨髄移植によって、完治いたしましたが、目がその副作用で見えなくなってしまいました。5歳からピアノを習いだし、僕の目が見えないことに、かわいそうという言葉を言わないでと学校の先生や、友達に訴え、公立の普通学級に小学校、中学校と通っているそうです。
ショパンの幻想即興曲を見事に弾き終え、私たちに感動を与えてくれました。娘も、よく練習していた曲ですので、そのタッチの滑らかさ、優しさが伝わってきました。すべて楽譜は、耳から聞いて、鍵盤へと伝わっていくとのことでした。本当に目が見える私たちは、もっと努力し、練習を積み重ねていかねばと、60にして、心新たにさせられたのでした。
1月9日
昨日の夕方、「ジャーナル」が届きました。新年号は、また、身の引き締まる思いで、読ませていただきました。多くの病める方が「ジャーナル」に救いを求めておられること。私たちも、苦しみ、悲しみのどん底にあるとき、「ジャーナル」さんに祈っていただこうと、発信していました。
今月号の宮沢賢治の詩”雨にも負けず”は、賢治の信仰していた法華経の考えが貫かれているのでしょうか?心打たれ、涙する部分は、決まって、みんなにデクノボウと呼ばれ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、そういうものに私はなりたい、です。
そして、当時の東北の貧しさ、農業に重きを置いた生活、一日に玄米4合と味噌と少しの野菜だけを口にして、懸命に生きようとした賢治のこの詩は、暗唱するに値する作品ですね。
源三さんの詩も、主人と二人で、声にだして、斉読いたしました。主人も感激していました。あのような苦しみの中から、こんな素晴らしい神様を褒め称える詩がで出てくるんですね。源三さんのような信仰をこの年、少しでも持ち続けていきたいと、祈っています。
今朝は久しぶりの雨です。乾燥が激しかったので、ほっとしています。これから、2週間分の食料を買い求めにいきます。安いお店を広告で探しながらですから。一日仕事になりそうです。
1月12日
今朝から、大雪が降りました。一歩も外に出られません。家で、朝から、冬篭りです。午後からは、全国高校サッカー選手権大会決勝戦がありましたので、息子の高校時代を思い出しながら、テレビに釘付けでした。かわいそうなことに、息子のいる沖縄では、読売テレビが映らないとのこと。実況放送のように、携帯で伝えてやりました。広島皆実が初優勝しました。若さ溢れる青春時代を、サッカーに情熱をかけている姿は、とても頼もしく、若さをもらった一日でした。
馬場暁美
(上野緑ヶ丘教会員)
…12…
ここ数年来、元日は一日中家でゆっくり過ごしています。何年か前に散歩がてら、善光寺のそばを通ったところ、参道が人で埋め尽くされており、参拝までに1時間以上かかるとの話にびっくりしました。寺の周辺は自家用車が一寸ずり。三が日は特に渋滞が激しいため、今年は寺の近くを通るバス路線の一部は、混む時間帯に限り別の道を通っていました。1年前の三が日のお昼頃にバスに乗ったところ、この渋滞に巻き込まれ、いつもは5分で通過できる所が1時間近くもかかり、うんざりしてしまいました。その時、つくづく思ったことに、この何十分の1の人でもいいから、教会の新年礼拝に来てほしいと・・。思うだけでは神様に届かないので、祈らねばと今年は思っています。『日々の聖句』(ローズンゲン)の今年の聖句は「人間にはできないことも神にはできる」(ルカ18:27)です。教会の信徒も高齢の人が目立つようになって来ました。教会の今後を考えると、信仰を継承できるように真剣に神様に祈る必要があります。今年はこのことを日々の祈りに覚えたいと思っています。
さて、ここ何年来の元日の過ごし方を記してみます。早朝、夫が新聞を5紙買いに行き、定期購読している2紙と併せ、計7紙を一日かけてゆっくり読みます。読む箇所は自分の興味がある分野にどうしても偏ってしまいますが、見出しだけでも拾い読みをすると、今、世の中が何を大切に考えているのか、どんな願いを持っているのか大まかな情勢がわかるような気がします。今年は、やさしさ・許す心・分かち合い・笑いが大切・耐える強さというような言葉が多く目に止まりました。解雇、内定取り消し、就職がないといった暗いニュースばかりが連日報道されています。それを視聴するにつけ、心が痛みます。当事者の方は心身ともに傷ついていることでしょう。「第三者は心痛んでも傷ついてはいない。そこに大きな溝があるということを認識して、当事者の方と接することが大切である」と以前に教えていただいたことを思い出します。こういう状況下であっても物事は悪い面ばかりではないので、紙上で目に止まったやさしさ・分かち合いといったことが、お題目にならないよう、溝を埋める努力をしていきたいと思います。
主イエスがいつも共にいてくださることを信じ、祈りつつ、生かされている今を大切に過ごしていければ幸いです。
* 写真は『日々の聖句』(ローズンゲン)
…キリスト教…
修道院の貧しい人々への救済(5)
修道院生活(5)
ベネディクトの戒律は、修道会の制度をより良くしました。極端な形の克己を廃し、修道士たちに共同生活を営ませ、日常の筋肉労働に従事するように要求していました。しかし、ベネディクトの制度には、おのずからその限界がありました。修道士たちは、定住の誓願を守って、修道院内は世間からまったく離れて生活し、もっぱら、自分自身の魂の救済のみを目的としました。
13世紀の初めになって、托鉢修道者の出現によって、修道生活の新しい概念が生まれました。すなわち、托鉢修道者は、従来よりももっと直接に使徒的活動を行うことを志した活動でした。これまでの清貧は、全ての修道会会則の一部をなしていたものですが、それは個人として守るべきもので、団体はあずかり知らないものであったのです。そのために、各修道士は清貧であっても、修道院自体は、徴税、寄付、献金によって、また修道院が経営する地域に根差した一次産業によって得る収入によって、巨万の富を有することは珍しくなかったのです。
修道院の多くが「祈りと労働」をきわめて調和的に重視したにも拘らず修道院の発展と拡大と言う思いが、また、修道院の多くが、その当時の有力な俗人貴族たちによって設立されたり、修道士自身が貴族出身であったり、司祭にしても修道士にしても、基本的にはラテン語の知識が必要なことから、知的な階層の出身者が多くおりました。
そのためかどうかは別にして、修道院の発展と拡大のために、多くの労働修士(助修士)や近隣の農民(年季奉公人・賃金農業労働者)、また、賦役労働(領主の直営地の仕事が週3~4日、自分の土地で働くのは日曜日を除く2~3日)によって維持されていたこともヨーロッパの修道院研究によって最近知られるようになって来ました。
発展と拡大は、今日的表現を用いるならば、親会社の支店・営業所化のようになり、親会社は修道院領主として、全ての権益をその手に入れることとなってきました。この修道院領主の存在を軽視しては修道院の姿に近付くことは出来ないと言われています。
このような背景にあって、新しい托鉢修道会は、修道院・団体にも同じく清貧を守らせようとした運動でした。彼らは個人としても団体としても、何一つ所有せず、ただ信徒の献品によって生命を維持するのです。しかし、決して富を呪うものではなかったのです。無一物であるから、人に憎まれる理由もなく、羨望の的となることもありませんでした。それだけに民衆の人気を得、たちまちにして驚くべき勢力を築いていったのでした。
この托鉢修道会の創設者は、イタリアの聖フランシスコ(1182~1226)とスペインの聖ドミニコ(1170~1221)の二人の仕事であったと言われています。聖フランシスコは、アッシジの富豪な商人の息子でした。フランシスコは正規の教育を受けず、華やかな青春の生活を送り、放蕩にふけっていました。ある時、心の声が彼にマタイによる福音書の次の語句に注目させたと言われています。
行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である(マタイ10:7~10)。
あなたに聖書を
篠田 潔
「1年の計は元旦にあり」と言われています。1年の始めには、その1年をどう過ごし、どう生きようかについてじっくり考えることが大切である、ということでしょう。その他、「何事も始めが肝心」とか、「初心忘るべからず」とか言います。
いずれも、事を始めるに当っては、最初に十分な計画と心構えをしておきなさいと言う勧めであります。
更には、1年の計にしても初心にしても、それは自分が自分で決めなくてはならないことではありますが、その自分というというものがどれだけ確かな自分であるか、という問題もあります。1年の運勢を占ってもらったり、おみくじを引いて、その年が吉か凶かを見てから考えたりするのも、自分の考えだけでは心もとないからでしょう。
ところで、マルコ福音書1章35節には、「朝早く、まだ暗いうちに、イエスは起きて、人里はなれた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と記されています。これが毎朝のことであったか、また、たまのことであったかは分かりませんが、それは1つには初心と言うべきものの確認をしておかないと自分が失われてしまうという危機意識を持っておられたからではないかということと、いま1つには、その認識を自分の中だけでしないで神様との対話の中でなされことであったと考えられます。
「祈っておられた」というのは神様を相手にされていたことであるからです。このキリストに倣うところに、わたしたちの1年の計や初心と呼ばれるものの確かさが保証される鍵があると思うのですが、どうでしょうか。
(参照聖句・マルコ福音書1:35)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円