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ほっとひととき『みんなのコーナー』
☆ こんばんは。 つのぶえ4月号を ありがとうございます。 今日は 近くの公園の「桜まつり」。 昨日まで堅かった蕾も、急に暖かくなった陽気に一斉に開いたことでしょう。 教会は公園から近いので、 親子連れや、おじいちゃん おばあちゃんと一緒の子どもが通ります。 外にいて声をかけると、皆さん挨拶を返して下さって…… お花見でいい気分!が伝わってきます。 名古屋も見頃でしょうか? 花冷えがありますから、どうぞ風邪などひかれませんように、お身体大事になさって下さいませ。
静岡県 H・Tさん
☆ ジャーナル発行お疲れ様です。11日には震災後も将来へ向けてたゆまず励み続ける中高生の姿に こちらも力付けられました。草花の芽吹く春は、元気付けられる季節でもあるかと思いますが、インドの哲学者の言葉で『花の香りは風の方向にのみ広がる。だが人の徳はあらゆる方向に広がる』とあります。何げない行いでも覚えておきたい言葉です。またまさにジャーナルは、こうして各々の心に浸透していますね。また春の温かさに戻るそうですが、お身体ご自愛下さい。 奈良県 N・Rさん
☆ 宇都宮はようやく桜が咲き始めました。自宅の近くの児童公園の桜が5分咲きになりました。イースターが今度の日曜日ですが、再度復活の信仰を確認してイエス様につながっていきたいものです。 栃木県 K・Eさん
☆ 戦没者慰霊のためパラオ共和国を訪問中の天皇、皇后両陛下は9日午前(日本時間同)、激戦地だったペリリュー島で、日本政府が建立した「西太平洋戦没者の碑」に供花して犠牲者を追悼された。という新聞記事を読み、自分の中に有った心のしこりに区切りがついた思いがしています。人それぞれ、戦争への思いを引くずってきた人生を、この行為で「もう区切りにしましょう」とでも言うように思えて、無事の帰国されることを願っています。 愛知県 A・Hさん
☆ お元気ですか?私は骨盤が痛かったので受診すると 原因は分からずで沢山の痛み止めを貰いました。余りににも 眠たく 薬剤師さんに聞いてきました。その帰り道に見つけました。やはり都会ははやいわ 、八重桜のモコモコが 可愛いです。 奈良県 T・Mさん
『ありがとうございます』
天気予報も様変わり、桜戦線の予報と同時に「花粉情報」もNHKばかりでなく、民放各局も行うほどになりました。日常生活に欠くことの出来ない大切な情報に成っています。ふと「スギ花粉」のことを思い巡らしていた時、一つの童謡を思い出しました。もう70年も前の記憶ですから、よく覚えていませんが、インターネットで「・・・杉の子」で検索したところ、それは「お山の杉の子」という童謡でした。調べているうちに「お山の杉の子・文化論」という見出しに出会い調べていると、この歌が歌われた時期と杉の木が成長し、花粉症として人様に認識?され始めた時期と関係があるやにと、素人考えで思えたのです。真偽のほどは分かりませんが、一度「お山の杉の子・文化論」で過ぎし日本を振り返ってみるのは如何でしょうか。
2015年3月16日から4月15日まで
西口義昭様 梶川実雪様 進藤浩市様 馬場伸直様 馬場暁美様 匿名3名
郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社
お便り下さる方はこのメール アドレス osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者
つのぶえ社代表 長村秀勝
今月のことば
「・・・。彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者との共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」。 =イザヤ53:12=
人は生を受け、そして、その生涯という言葉で死を迎えます。尊ばれ、惜しまれつつの死もあれば、災害や事故で死を迎える人もおられましょう。戦争や貧困が原因のものもあります。ある本の中に「母性とは、母親とは、新しい命を生み出すために、死という墓を越える生命力を持つ者・・・」とあるのを思い出しました。
一つの命を、一人の小さな命はそのように尊いと思う時、あの処女マリヤの
受胎告知の驚きとその命の持つ重みを知った時のマリヤの賛歌は、心打ちます。そうした命が、十字架の死を遂げる息子イエスを目の前にした、母親マリヤの悲しみは、どんなであったでしょうか。
ベツレヘムで生まれ、自らの手で育み成長した息子イエスは、マリヤの命を受け取った息子でした。
母マリヤの生死のかけた産みの戦いは、聖書には記されていません。しかし、それが、罪を贖う救い主の『罪の贖いの死』であることを、母親としてではなく、信仰者マリヤとして受け入れた時、彼女の悲しみは喜びへと変ったのでした。すべての人間の命を死から救う、唯一の命でもあります。人間には、キリストのような永遠の命を持ってはいませんので、キリストのような仕方で、自分の命を死に渡すことは出来ません。キリストなき死の先には、永遠の滅びあるのみです。
しかし、キリストが死に渡されたこの命だけは、イエスだけの命ではなかったのです。
死は、現実そして事実です。しかし、イエス・キリストは全く特異な死なのです。それは、私たち人間がどこにいようが、そのような人生であろうが、信仰者の受ける永遠の命を約束した死であり、命であり、よみがえりなのです。
小閑記
『あなたがたは久しい以前からすでに 教師となっているはずなのに、もう一度神の言葉の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている』。
=ヘブル5:12=
霊的に幼稚なキリスト者は、成長が止まっているような状態です。ここで「乳」と呼んでいるものと違うものを味わわなければ、私たちの内なる人(霊的)は成長が止まってしまいます。しかし、「乳」といわれるものを誤解してはなりません。幼児食から、固い食物に成長するといことは、幼児のような信仰を失うことではありません。あるいは、最初に神と共に生きていたのに、それを止めることでもありません。
訓練された感覚を得る方法は、神と子供のような交わりに生き続けることに尽きます。私たちはキリストを受け入れたように、キリストにあって歩まなければなりません。罪を憎まなくなり、祈りの部屋から遠ざかり、恵みを求める心を失う者は、それ自体、キリスト者としての発展・成長を止めるものです。
「硬い食物」とは、聖書を暗記し、キリスト教の教義・教理をすべて理解するということと同じではありません。それは、霊的な知恵と明確な見通しを得ること、すなわち、善と悪との区別、真実と欺瞞、まじり気のないキリスト教と、キリスト者と称して、そうではないもの等の区別をわきまえるようになることであります。
愛に根ざして「人知をはるかに越えたキリストの愛を知る」ことであります。
私たちは、キリスト教についての知識と、神を知ることとを確りと区別をつけなければなりません。キリスト教を知る知識に富むことは出来ます。その結果、キリストの愛を知識で理解してしまう危険があります。それは、キリストとの交わりを失っているからです。このような言葉使いはしませんが、健康なキリスト者の信仰の成長は、日々の生活に反映されるものです。
『証しになる信仰・生活』こそ、神が求めている信仰者の姿なのです。
大切にしなければ
恵みの恵みにいます
御神から与えられた
この恵みを この信仰を
大切にしなければ
大切にしなければ
命の命にいます
御神から与えられた
この命を この一日を
大切にしなければ
大切にしなければ
希望の希望にいます
御神から与えられた
この希望を この喜びを
大切にしなければ
大切にしなければ 水野源三著・第4詩集「み国をめざして」
世田谷通信
(138)
猫 草
高校生の長男が持ち帰ってきた小論文講習の課題が興味深かった。「あなたが欲しいと思う『ドラえもん』秘密道具の説明とその理由を述べよ」というもの。高校生、理系用の課題なので、それなりの論理展開が期待されるところだ。
ドラえもんが「じゃじゃーん」とポケットから出してくれる便利な道具というのは「未来の技術への期待」であり、それによって可能となる未来の姿への夢想でもある。コストや資源、技術的な壁を全てとっぱらって、「できたらいいな」と願うのは何だろう。まず、これは駄目だなと思うもの。人の心をコントロールする系。そりゃ戦争や紛争はなくなってほしい。でも、何らかの作為で他者の心をコントロールしようとした時点で、もうそこに平和はない。
じゃあ、超人的な能力を持つことができる道具はどうだろう。現在でも介護や農作業などの負担を軽減するパワースーツは実用化されている。もっと凄いものは?スーパーマンみたいな。いや、あまりにも突出したパワーは世界のバランスを崩しはしまいか。悪用されたらどうする?
そうなのだ。単純に「できたらいいな」と夢をみる前に「もしこれが犯罪に使われたら」「もし意図以外の使われ方をして事故が起きたら」という危機管理にばかり気持ちが向く時点で、もう素直に夢を見られる年齢ではないのかもしれない。
食品添加物、農薬、遺伝子組替にしても、生産性、保存や風味、食味、見た目、様々なメリットがあったからこそ使用し始めたのだろう。もし仮に、後になってから健康被害が出たとしても、条件が複合的で複雑なリスクほど事前に察知することが難しい。だからといって技術の進歩を止めることはできない。
さて、長男に「どんな道具について書いたの?」と聞くと、「自分の脳をパワーアップさせる道具。人間の脳ってほとんど使われていないんでしょ?だからイルカみたいに半分ずつ脳を眠らせて、ずっと起きていられたら受験に有利かなと思ってさ」だそうだ。ほう、半球睡眠ね。なるほど。日々睡魔と闘っては負けている高校生らしい夢の道具だ。
ちなみにイルカは右脳が眠っているときには左目を、左脳が眠っているときには右目を閉じているそうだが、終日パフォーマンスが半分にならないかしら・・。いや、水を差すのはやめておこう。あったらいいな、の夢を見る心こそが、技術進歩への原動力だから。
*この添付のイラストは絵を描くのが大好きな次男がパソコンのペイントツールで描いたものです。
『美しい朝に』・・5・・
2月13日
おはようございます。大阪は、良く晴れています。窓からの日差しが、暖かいように感じます。家族の病気は、元気に向かっていると信じたいのですが、一進一退です。お祈り頂いてるのに、自分のことではないので、どうすることもできず、ただ、心がざわつきます。先週は、無駄なことをはぶこうと予定表を作成したら、予定はほとんど薬の服用計画になってしまいました。今週は、しんどくなったので予定はこなせていません。「1週間に1回でも、買い物に行く」予定で、お天気もいいし、マスクをして3月で95歳になる叔母に靴下を買いに行こうと思います。
こんばんは。靴下を買いに行って帰ってきましたら、雪が降りだしました。
晴れてるのに寒くて・・・油断したらだめですね。現在は、原因不明の病気ですので、マスクで対応です。花粉症状が出たら、主治医の先生に相談しょうと思います。
2月14日
今朝、叔母に電話しましたら、「病気なのにねてなあかん」とおこられてしまいました。「色々今まで私からプレゼントされたものを、便利に大事に使っているから、気持ちだけで充分感謝してるんよ。寒い時期に、外へ出て体調が悪くならないほうがうれしい」と、言われました。私とは、40歳年上ですが、まだまだ、心配してもらっています。叔母は阪神淡路の時、家が全壊して近所の方に助けてもらって、現在があります。叔母が元気でありがたいと思っています。
2月21日
こんにちは。大阪は、いいお天気です。お仕事場のヒヤシンス咲いたのですね。良かったです。私は18日(水)ステロイド0錠・19日(木)1錠・20日(金)0錠、そして今日21日(土曜日)1錠で、過ごしています。明日は22日は0錠です。ステロイドの離脱症で、トイレに起きるのさえ辛いです。寝室は3階でトイレは2階、PCは1階にあります。もちろん階段です。頑張って3階まで上がって寝てきます。
2月25日
今日は1錠の日なのですが、昨日、書類を記載して頂くため病院に行きましたので、1錠服用してしまいました。それで、今日25日(水)0錠で、今頃ようやくお布団から出てきました(PM4;00)。でも、昨日は病院の近くで、春の花を写せました。なんか、春の便りはうれしいですよね。薬がたりなくなるので、1・1・0・0でもいいよと先生はおっしゃっていました。かなり、不安ですが挑戦してみます。
3月2日
こんばんは。1年は早いです。1年前の3月2日は娘の結婚式でした。明日3月3日(火曜日)は、外来治療の日です。やはり、ステロイド1日おきに0錠・1錠・0錠・1錠は、2週間辛かった。出来ればもう少し毎日1錠を続けたいのが本音です。今日は、早めに寝てきます。
3月4日
こんばんは。やはり0錠で過ごして、病院へ行ったのがかなり疲れて、先生が「こんなにしんどくなるとは思わなかった。炎症反応もあり、ステロイドを減らすスピードに身体がついていっていない」と言って下さり、その日だけ2錠で、しばらく体調が戻るまで1錠になりました。かなり、辛いので寝てきます。
3月8日
こんにちは。今日は、少し体調が良いのでお昼に起きています。今月はほとんど、病人の生活ですが、病院の帰りに、主人に外食に連れて行ってもらいました。その時の写真です。最近は、食事は作れていませんが、またその時の写真などをお送りしますね。
3月10日
こんにちは。今日は大阪は晴れていますが、冬日で雪がちらついています。家の中からは窓越しに青空が見えているのですが、なかなか外へ出る勇気がでませんね。私と同じ病気の方が、インフルエンザの予防注射をして血小板が急に「0」になって脳内出血で亡くなられたそうです。先生が「この病気の場合インフルエンザの予防注射はしないほうがいい」とおっしゃったので受けなかったのですが原因も治療法も不明の難病なので、少し怖くなりました。でも、死ぬことばかり恐れていては前進できませんから、今出来ることを少しでもしたいと思いました。寒いです。お身体ご自愛くださいませ。お祈りしています。
3月11日
おはようございます。今日は、眠りが浅いので夜寝て朝起きです。2月14日は「バレンタインデー」で、3月14日は「ホワイトデー」と言うことになっています。主人と息子から頂いた「お菓子」です。気持ちが、うれしいですよね。
大阪府K・Aさん
(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)
その愛のゆえに
=時々の記=
(108)
2月13日
主人の俳句が出てきましたのでお送りいたします。
永久の生こそ望みなれ老いの春。
幹揺れず枝葉の揺るる冬木かな。
しっかりと歩けば寒風心地よく。
庭木苗育ちつつある町冬日濃し。
信楽の山かすかなり冬霞。 馬場路哉
今朝も寒さの中、一時間余り主人は
2月16日
今日は久しぶりに隣村の月ヶ瀬まで一人で車で走ってきました。17年間同じ学校で勤めさせてもらったのは私だけです。10年が転勤の条件となっていますから、無理を聞いてくださった村の教育長さんのお家を通って梅がつぼみを付け始めている梅林で懐かしい景色に見入っていました。当時一緒に勤めていた給食の調理師さんが声をかけてくれてびっくりしました。30分程寒い中、立ち話しをしながら当時を懐かしく思い出していました。
2月20日
こちらは朝から暖かい日差しがありましたが、急に時雨れてきてあられが降ったり雨が降ったりと洗濯物を入れたり出したり忙しい一日でした。灯油の補給を毎日しなければならず大変です。20リットル入りのポリ容器に大きなタンクからまず給油しに行きます。
結構重くて膝が痛みます。最近
2月28日
寒いけれど、もう春ですよ、とでも言うように裏山から鶯の鳴き声が聞こえてきました。朝から風が冷たく、午後にはあられが降り出したりと、まだまだ春は遠い感がいたしますが、鳥たちはもうすぐですよと言わんばかりに元気づけてくれます。ようやく、待ちに待った春の訪れですね。
早春やふと讃美歌を口ずさむ。
寒緩み雨となりたる峡の村。
川浪のうねりぞ高く春立ちぬ。
春立つやリハビリウオークする人に。
石垣の長き棚田を耕しぬ。 馬場路哉。
3月7日
朝からくもり空でしたが、午後から雨がしとしと降りだしました。ちょうど犬たちとの散歩に出掛けようとしたとき雨が激しく降り出してきました。傘を差して、レインコートを着て出掛けました。犬たちには何も着せることはできませんから、とても早足になりました。昨日の新聞の声の欄に”愛犬との17年”というコラムに目が留まりました。愛犬がいなくなってもう5年が過ぎたけれどその思い出は尽きず、一緒に散歩した道を一人で歩いて癒してくれた犬の優しさに感服している、との事でした。梅の花が雨に濡れてもしっかり咲き続けています。華やかではない梅の花ですが、とても愛らしく気品を感じるのです。
教会の帰り上がりぬ春の雨。
柵近く崖の上より梅探る。
石庭(せきてい)の一本の梅蕾(つぼみ)ける。
早春の艶艶(つやつや)とした蘇鉄かな。(そてつ)
早春や乙女より矢の放たるる。 馬場路哉
奈良ではこのような歌があります。「吉野は春の桜がり、龍田は秋のもみじがり 梅は月ヶ瀬つきゆきぬ」と。これほどまでに月ヶ瀬の梅は奈良では有名になっています。主人は月ヶ瀬は平家の落人が住み着いたのではと教えてくれました。
馬場暁美
上野緑ヶ丘教会
解説 ウエストミンスター信仰告白 (34)
岡田 稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第16章 よきわざについて・・2・・
4 服従において、この世で可能な最高度に到達する人々でも、義務以上にすること、すなわち神の要求以上にすることはとても及びもつかないだけでなく、義務上しなければならぬ多くのことにさえも達しないほどである(1)。
1 ルカ17:10、ネヘミヤ13:22、ヨブ9:2,3、ガラテヤ5:17
四 ここでの告白は、聖霊によらなければ一歩も歩めないわたしたちは、聖霊によってもなおとうてい命じられているすべてを、なしえないということを常に悟る時、謙遜と熱心な祈りと、また、うむことのない励みとがあたえられるというのである。
5 わたしたちは、自分の最良のよきわざをもってしても、神のみ手から罪のゆるしまたは永遠の命を功績として得ることはできない。その理由は、そのよきわざと来たるべき栄光の間に大きな不釣合があり、またわたしたちと神との間には無限の距離があって、わたしたちはよきわざによって神を益することも前の罪の負債を神に償うこともできず(1)、かえって、なし得るすべてをなした時にも自分の義務をなしたにすぎず、無益なしもべだからであり(2)、またそれが善であるのは、それがみたまから出ているからであって(3)、わたしたちによってなされる以上それは汚れており、多くの弱さや不完全さがまじっていて、神の審判のきびしさに耐えられないからである(4)。
1 ロマ3:20、ロマ4:2,4,6、エペソ2:8,9、テトス3:5-7、ロマ8:18、
詩16:2、ヨブ22:2,3、ヨブ35:7,8
2 ルカ17:10
3 ガラテヤ5:22,23
4 イザヤ64:5(6)、ガラテヤ5:17、ロマ7:15,18、詩143:2、詩130:3
五 ここでは、クリスチャンのなす善(よきわざ)の限界が告白されている。わたしたちは聖霊の恩恵的助けによってさえも、決して救いを買い取るほどの善をなしえる者ではないこと。また、クリスチャンの善行は、一方、聖霊のみ業であるが、同時に人間の業でもある。そして、人間はどこまでも汚れ、腐敗した人間性より解放されないから、その業も地上では、やはり完全な善ではありえないのである。
アウグスチヌスが言ったように、善人もまた腐敗している。このことを考える時、キリストのみ業がいかに独自なものであり、その意義がいかに高価なものであり、実にわたしたちの罪の贖いとしての値を十分に備えたものであったかを知るのである。メイチェン博士が死の床で、親友マーレー教授に向かって「キリストの積極的服従に感謝する」と言った言葉を私は幾度か思い返して味わうのである。
わたしたちの善が何万何億と集積されても、ひとりの魂をさえ救いえないことは、詩編49編の作者がうたったところである。しかし、ただひとりの神の子イエス・キリストの血とその罪なき三十数年の生涯は、実にわたしたち全人 類の大罪を一切贖ってもなお、余りのあるほどのものなのである。
6 しかも、それにもかかわらず、信者自身は、キリストによって受け入れられているので、そのよきわざもまたキリストにおいて受け入れられる(1)。それは、そのよきわざが、この世で神のみ前に全く非難され責められるべき点がないものであるかのようではなくて(2)、神がそれをみ子において見られ、誠実なものを、多くの弱点や不完全さを伴ってはいるが、受け入れて、それに報いることをよしとされるからである(3)。
1 エペソ1:6、Ⅰペテロ2:5、出エジプト28:38、創世4:4、ヘブル11:4(*)
*創世4:4をヘブル11:4と比較
2 ヨブ9:20、詩143:2
3 ヘブル13:20,21、Ⅱコリント8:12、ヘブル6:10、マタイ25:21,23
六 これは前項の反面を述べたものであって、よき業は未回心者のものとしては、救いに役に立たないばかりか、神の審判に耐えられない汚れたものであるが、信者にとっては、その人格、性質同様、赦され、受け入れられるものとされ、従って、善行にふさわしい報いをも頂くものと認められるのである。
7 再生しない人々がする行為は、事柄としては、たといそれが神の命じておられる事柄であり、自分にも他人にも有益であるとしても(1)、それでもなお、信仰によってきよめられた心から出ておらず(2)、み言葉に従って、正しい態度からも(3)、また神の栄光という正しい目的のためにもなされていない(4)。それゆえその行為は、罪深いものであり、神を喜ばせることも、神から恵みを受けるにふさわしくすることもできない(5)。それでもなお、彼らがこの行為を怠ることは、一層罪深く、神を怒らせることである(6)。
1 列王下10:30,31、列王上21:27,29、ピリピ1:15,16,18
2 創世4:5、ヘブル11:4,6(*) *創世4:5をヘブル11:4と比較、ヘブル11:6
3 Ⅰコリント13:3、イザヤ1:12
4 マタイ6:2,5,16
5 ハガイ2:14、テトス1:15、アモス5:21,22、ホセア1:4、ロマ9:16、テトス3:5
6 詩14:4、詩36:3(4)、ヨブ21:14,15、マタイ25:41-43,45、マタイ23:23
七 ところがそれとは全く逆に、未再生の人の業は、行為自体としてはどれほど立派でも神の不興を買う。この両項の告白は文章としては、とても一般人に認容され難い逆説的とも言えるものであるが、予定論と罪人の本性・人格とそれが産み出す行為との不可分的関係とを前提にして判断すると、当然こうした厳しい割り切り方がなされることになろう。
全ての恵みと善を神に帰す信仰は当然こういう告白をアーメンと言わざるを得ないところに至るまで忍耐ある思索を深めなければならないだろう。
*******
この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。
単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500
465-0065
さんびか物語・・・13・・・
(広く愛唱されている50曲)・・・12
ポ―リン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美歌138番
ああ主は誰がため 世にくだりて
<神様のみ言葉>
「まことに、彼(キリスト)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやさ れた。 =イザヤ書53章~5節=
この讃美歌は、受難週に歌われるものの一つであります。主イエス・キリストの苦難と十字架での苦しみの目的が誰のためであったかを、明確に、しかも美しく歌っていますのが、この讃美歌138番の‘ああ主は誰がため世にくだりて’であります。
この讃美歌が発表された1707年です、からもうすでに270年近くもの年月がたちました。しかし、今も多くの教会で歌われ、多くの人々をキリストへの道に導くにふさわしい素晴らしい讃美歌であります。
この讃美歌の歌詞によって、回心された多くの人々のうちの一人に、有名な盲人作者フアニー・クロスビー(ヴァン・アルスタイン)がおります。彼女はまだ信仰のない時に、ニューヨークのある教会の礼拝に出席し、この讃美歌を聞いた時、‘急に心が天よりの光で満たされた’とその時の感激を言っています。その後、彼女は自分の全てをキリストにゆだね、その救いの素晴らしい光にみたされて多くの信仰に輝く讃美歌を書き続けました。493番・495番・529番などがそれであります。
讃美歌138番の作詞者アイザック・ウオッツは1674年7月17日サウザンプトンに生まれました。彼の両親はプライベート・スクールを経営し、幼い子供たちを養育し非常に信仰深い夫婦でした。
父のエノク・ウオッツは英国国教会の反対者であったため、数回にわたって投獄されています。アイザックは8歳の時から詩才に恵まれていたのでしょうか、詩を書き始めました。高等学校時代には、ギリシャ語、ラテン語、ヘブル語などに優秀な成績であったと言われています。
彼の才能を知ってサウザンプトンのある医師は、名高いオックスフォードかケンブリッジ大学で勉学できるようにと奨学金の援助を申し出、受けるように奨めましたが、それを辞退しました。辞退の理由は、当時の両大学の入学資格の一つに、国教会の信者でなければならないと条件があったからです。
彼は非国教会の私立ストック・ニューイングストンにあった大学へと進み、卒業後の2年間、自分の家に帰って、600ほどの素晴らしい讃美歌を書いています。
それを集めて、1707年‘Hymns and Spiritual Songs’と題して出版しました。この讃美歌集は、イギリスの創作讃美歌集最初のものであるばかりでなく、内容においても、旧来の詩編歌の形を破って自由で新しくユニークなものでした。
当時の讃美歌は、詩編の言葉そのままを用いていましたが、彼は詩編の本来の意味をそこなうことなく、詩編の生命的な意味を十分に生かしたところに、彼はオリジナリテーがありました。彼は1712年にメーク・レイン教会と言う大きな教会の副牧師として迎えられ、10年間教会に全精力を注ぎました。
しかし、以前より虚弱であった彼は、マーク・レイン教会の会員であった、アブニー郷が彼を別荘に招いたのが縁になって、その家の終生の客となり(36年間)、1748年に天に召されました。36年もの長い間、彼の世話をしたアブニーご夫妻は、ウオッツの信仰に深い尊敬と愛をもっていたのでしょう。
彼の影響は、イギリスの教会は言うに及ばず、アメリカでも深いものがあります。ともあれアイザック・ウオッツは「イギリス讃美歌の父」と仰がれた偉大な人物であります。
讃美歌の曲BELLERMAはフランス人のフランソワ・H・バルテレモン
(1741~1808)によるものです。フランソアはアイルランドで教育を受け、英国へ行ってバイオリンニスト及びオペラの指揮者として活躍しました。彼は作曲家として多くのオペラやバイオリン・ソナタを書きましたが、教会音楽の作品はわずかでした。この讃美歌のメロデーは、古いスペイン民謡から取材されたもので、彼の唯一の讃美歌と言われています。1954年版の曲はロバート・シンプソンの編曲になるものであります。
<138>
1 ああ主は誰がため 世にくだりて、
かくまでなやみを うけたまえる。
1節では、イエス・キリストが、私たちひとりひとりの罪を取り除くために、受肉なさって、この世にくだりたもうたことを歌っています。
ヨハネの福音書1章14節には「主イエス・キリストが人となって、私たちの間に住まわれた」と記されています。また、同じ3章16節には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とも記されています。神様は、私たち罪人に対して、こうようなまでに深いあわれみと愛とをもってかえりみて下さるとは、なんと素晴らしいことでしょう。
2 わがため十字架に なやみたもう、
こよなきみめぐみ はかりがたし。
2節では、預言者イザヤがイザヤ書53章4~5節で、主イエス・キリストの十字架での悩みと苦しみを言い表しています。イザヤ書には「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。・・・私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と記されています。
主イエス・キリストは、誰のために死にたもうたのでしょう。そうです!私のためであり、あなたのために十字架上で死にたもうたのです。全人類は、神様のみ前に罪を犯した罪人です。そうして罪の支払う報酬は死罪です。この死罪の宣告を受けている私たちの、否、全人類の身代わりの贖いとして、その身に刑罰を負って下さったのであります。誰がこの贖いの恵みを軽んじるでしょう。私たちは、ただ素直にこの救いの恵みを感謝をもって頂きましょう。
3 とがなき神の子 とがを負えば
てる日もかくれて やみとなりぬ。
3節では、罪なき神の子キリストが、私たちの罪のために十字架につけられた時のことを歌っています。
ルカの福音書23章44節にはその時「全地が暗くなって、3時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕が真二つに裂けた」。太陽はなぜ真昼に3時間もの間、光を失ったのでしょうか。これは決して自然の日蝕ではなく、全能なる神様の不思議なみ業であったに違いありません。
私たちがこのみ業を通して学ばなければならない大切なことは、人間の罪の深さと神様の愛の広さであります。即ち、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する御自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)という事実であります。
4 十字架のみもとに こころせまり、
なみだにむせびて ただひれふす。
4節では、イエス・キリストが十字架におかかりになった時、周りにいた人々の様子を歌っています。
「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしった。同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちもあざけりました。イエスといっしょに、十字架につけられた強盗どもも、同じようにののしった」(マタイ27:35~44)のです。しかし、「イエス様の見張りをしていた百人隊長は地震やいろいろな出来事を見て、非常な恐れを感じて「この方はまことに神の子であった」と言いました」(マタイ27:54)。
また、遠くから涙にむせびつつ見つめていた、イエスを信じ、つかえていたところの女たちもいました。あなたはイエス様をののしるグループですか。それともイエス様の救いの恵みを信じるグループの方ですか。
5 なみだもめぐみに むくいがたし
この身をささぐる ほかはあらじ。
5節では、この讃美歌の主題が、素晴らしいクライマックスとして‘この身をささぐる、ほかはあらじ’という言葉の中に示されています。ファニー・クロスビーもこの言葉を耳にすると同時に、自分の傲慢とわがままを捨てて、イエス様の十字架のみもとにひれ伏し、イエス様を自分の救い主として受け入れたのであります。
私たちが神様の愛に応答する道は、ただこの身をささげ、神様のみもとにひれ伏し、讃美の歌声をもってほめたたえる道以外にどこにもありません。そのためにこそ、神様の本当の愛をあなたご自身味わい知ることが大切であります。
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この「さんびか物語」は「つのぶえ社」の出版(第一刷1974年、第二刷1992年)で、出版社の許可を得て掲載しています。本の購入を希望される方は、「つのぶえ社」までご注文ください=
ビルマ
戦犯者の獄中記 (49) 遠山良作 著
昭和22年
6月20日
マカ不思議なところはこの独房である。検査をされて彼等から必要なものを取り上げられると、雑房にいる戦友(容疑者)は直ぐにその品物を整えてくれる。日記を書く鉛筆やトイレットペーパー、それに洗面兼用のバケツ代わりの、かんかんまで作って、食事を運ぶ度に少しずつ差し入れてくれるのである。本当に有難い。獄中の生活とはいえ無くてはならないものばかりである。監視する側の当局はこのことを知っているのか、知らないのか・・・、監視の歩哨たちもあまりやかましく言わない。実に大らかである。われわれ日本人との国民性の違いを改めて知らされた気がした。
6月23日
―戦友の出所―
今日は戦犯者としての容疑が晴れて戦友が出所する日である。残された者は、私たち戦犯者、起訴中の者、取り調べ中の者の外に少数の残務整理(通訳者たち)の者のみである。今日まで1年半余の独房生活の中にあって、言葉では言い尽くすことの出来ない友情に涙を流したことは数えることは出来ない。空腹でどうにもならない時には、ジャングル野菜(雑草)を汁の中に入れてくれた。孤独と絶望の中に、生きる希望さえ失いがちの私を励ましてくれた友情は忘れることが出来ない。
この友等が出所するのである。この友のために心から喜び、祝福しなければならないと思えども、今日まで支えてくれた友がいなくなるのである。これから一体俺等はどうするだろうと、不安と寂しさはどうすることも出来ない。心の底に渦巻く醜い己を覗いたような気がする。
千藤君も今日出所する。彼は私の両親の住んでいる隣村(東野村)の出身者で、この刑務所に入るまでは一面識もなかったが、私が独房生活をしていることを知って、いろいろと御世話になった。耐えられない空腹の時に乾パンや煙草も差し入れてくれた。
彼は「出所するから、両親宛に伝言があるなら伝える」と言ってくれたので、今日まで書いてきた「トイレットペーパー」の日記を家に届けて頂くことにした。しかし途中検査があって迷惑をかけてはと思ったが、彼は腹にでも巻き付けて持って行くから大丈夫だと言ってくれた。両親への手紙を、食事を運んできた食器の間に隠して持ち帰ってくれた。両親宛に手紙を書くことも、今日が最後かもしれない。
出所する友に送る
ビルマの前線で共に戦った友よ
戦いに敗れた敗者への道は
高い壁に囲まれた牢獄であった
毎日水の中に米が浮いているような粥
塩汁の中に幾すじかのジャングル野菜
何回も噛んで食べた
人間の生命の強さも知った
今日まで生きられたこともみな友の情けである
ゆるされて帰る友よ
憧れの祖国の山河は
君たちを力強く抱いてくれるであろう
死か生かの戦いの中で知り得た体験はきっと
焼野と化した焦土の中に立って
新しい日本を作ってくれることを信じる
ゆるされて 祖国に帰る 戦友達の 歌声高く 獄舎かけゆく
ともがらは みな帰りゆく 今日のわれ 淋しくもあり 嬉しくもある
帰りゆく 友に託せる 獄だより 我が帰る日を 知らせ難くも
手を振りつつ ゆるされてゆく 友がらを 独房にありて 我ら見送る
*この文章の転載はご子息の許可を得ております。
「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・28
問20・・6 キリスト教では「罪」と言うことを言いますね。クリスチャンは「われらの罪を赦し給え」と祈っていますが、別に犯罪を犯しているようでもないのに、どうしてあんなことを言うのですか。
答 「罪」と言う言葉は普通には何か悪いことしたことに対して、それは「罪を犯した」という風に使われますね。それが法律に引っかかる場合には明らかな「犯罪行為」とみなされます。その場合は法律に違反しなければ「犯罪」とはなりません。と言うことは、その場合の「罪」というものは、そのほうりつが適用せれる範囲内の人にとって誰もが認める共通の「してはならないこと」が明文化されていますから、「罪」とは何かがはっきりしています。
<続き> 戒めは神からのものでありますから、戒めに背くことは、神に従うことをやめることになります。それは神よりも自分が主人公になるということです。主人公を持っていなければこういう事態は起こり得ません。罪を犯したという罪意識は起こりません。クリスチャンが罪の赦しを神に求めるのが何故か分からないと言う人は、自分が主人公になっているから、神を主人公とし、神の戒めに従うことが楽園にいる保障となっているということが分らないためにそう言うのでありまして、無理からぬところであります。こういう人に罪とはなんであるからを分かって貰おうとすれば、神のことを知って貰わなくてはなりません。
キリストが語られた話の中で「『放蕩息子』のたとえ」と呼ばれている有名な話であります。」
それは次のような話です。
「ある人に二人の息子がいた。弟が父に『俺が貰う分の財産は今すぐにくれ』とせっつくので、父親は相続分の生前贈与をした。貰った息子はそれを全部カネに替えて、『はい、さようなら』と、父親の干渉から全く離れた遠くへ行って、そこで、自分の好き勝手な生活をした。遂にカネがなくなった。放蕩にあけくれていた彼を雇ってくれる人はなく、やっとのこと当時みんなから一番嫌われていた豚飼いの仕事を与えられたが、腹が減ってたまらず、豚の餌を食べたいと思うほどになった。惨めさの極限に達したのだ。その時彼は我に返った。『どうして俺はこんなにまで落ちぶれ果てたんだろう』と思ったのだ。そうして得た結論は『俺がオヤジのことなんか構わずに俺の勝手に生き始めたところから、全てが狂っちゃったんだ。俺の今の惨めさはそのツケだ。オヤジのところへ帰れば、こんなひもじい思いはしなくても済む。あそこへ帰りたい。しかし、この俺が、どの面下げて帰れるか。身の程知らずもいいところで、みんなからも散々ののしられて当然だ。
でも、今となってはそんなことはどうでもいい。とにかくオヤジには地べたに頭をこすりつけて俺が悪かった、申し訳ないことをした、と詫びるしかない。それだって詫びて済むことではないから、もう息子として扱ってくれなくて雇人の一人として使ってくれ、と頼み込もう』という決心をするに至った。こうして彼は往年の彼とは全く見間違う落ちぶれ果てたしょぼくれ姿で、父の所に帰ったのであった。
一方、父親はというと、毎日『あいつはあんな風にして飛び出していったが、ああいう奴のことだ。きっと行き詰って帰ってくるしかないだろう。でも帰って来てくれさえしたら、消息不明なんて言うより安心出来る。帰ってこいよ。』という思いで、毎日家の外を見ながら、息子の帰るのを待っていた。だから遠くにどこの誰とも見分けがつかないような人影が見えた時『あ、あいつだ』と素早く見て取って、自分の方から走り寄って抱きかかえて迎えてやったものだ。
息子の方は、豚小屋を出た時からオヤジに謝る言葉を繰り返し心の中で反芻していたのであろう。オヤジに会うや否や『オヤジ、俺が悪かった。赦してくれ』と言い、それに続けて『俺はもう息子と呼ばれる資格はない・・・』と言うつもりだったのに、父親はそういうことを言うのを遮るかのように『よく帰ってきた。わしはお前が出たきりになっているので、もう死んでいるのではないかと思っていたんだ。それなのに帰ってきてくれて本当に嬉しい』と言うと同時に、召使いの者たちに、大声で『おお~い、いなくなっていた息子が帰ってきたぞ。こいつに一番良い着物を着せてやってくれ。そして、さあ、歓迎大祝賀会だ。近所の人もみんな呼んで最上のご馳走を振るまって、喜び祝おう』と言った。」
以上の話はルカによる福音書15章というところに記されている話です。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<4月のラジオ放送予定>
4月 5日 草野 誠 (日本キリスト改革派恵那教会牧師)
12日 草野 誠 (日本キリスト改革派恵那教会牧師)
19日 小野静雄 (日本キリスト改革派多治見教会牧師)
26日 小野静雄 (日本キリスト改革派多治見教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
「ローマ人への手紙」研究 (123)
第68課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・6・・・
A 個人の生活上の聖潔を養う義務
12:1~21・・・6・・・
「兄弟姉妹たちの助けになろうとの配慮」・・12:4~8
第3節は謙遜と柔和を教えていますが、この章の後の節と共に学ぶことにします。
4~8節は兄弟姉妹のキリスト者に対する私たちの関係について教えている箇所です。他の人たちを助けるという気持ちと心構えがなくては、私たちは聖潔を身につけることではありまん。言い代えるならば、聖化の恵みに預かりつつある者は、真に困っている人々を助けようという気持ちが自然の発露として出てくるのです。数世紀前までは、多くの人たちが聖潔ということについて誤った考えを持っていました。
彼らはこの世から逃避して、僧院の中に入りこの世に対して戸を閉じたり、あるいは草庵を結んで社会から孤立して新カトリック教会の修道士や修道女ばかりでなく、今もこのように考える人々が、プロテスタントの中にもいます。これらの人々も聖ということについて、上述に近い考え方を持っています。しかし、聖書的な聖潔観はそのようなものではありません。真の清潔は世から自らを孤立させることではなく、進んで他の人々を助けることです。
もし私たちが真に聖潔であるならば、他の兄弟姉妹の福祉と進歩に関心を持つべきなのです。私たちキリスト者は自分一人では、キリスト者生活をすることは出来ないということを認識すべきです。教会は一つの有機的な全体なのです。キリストをかしらとする生命体であり、私たちはこの身体の肢々なのです。そして個々のキリスト者生活は、多くのキリスト者たちの生活と密接な関係があるのです。
私たちの各々が、この体、すなわちキリストの体なる教会の肢々として行動しなくてはならないのです。私たちはキリストにあって一つの体であると共に、互いにその肢々なのです。各自の果たさなければならない機能があるのです。神は個々のキリスト者をキリストの体における一つ一つの地位と機能に召されたのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」