2018年7 月 月号 №130 通巻817号 号
詩編を祈る  12編
 
「彼らがあえぎ望む救い」
 
 この詩編の背景は明らかではありませんが、ダビデがサウル王に追われていた時のこと、ケイラやジフの人々から受けた仕打ちを背景にした詩編と考えられています。
ダビデはペリシテの襲撃からケイラの人々を救ったにもかかわらず、彼らはダビデを裏切ろうとし、ジフの人々もダビデの居場所をサウルに通報し、彼を窮地に追い込もうとしたのです。このような経験からダビデは、人間の言葉と神の言葉の違いを自覚させられたのでした。
 
 「主の慈しみに生きる人」「神を敬う人」(口語訳)は、自らがその神の真実と慈しみに生きる中で、そこに他者をも引き入れます。隣人に主の慈しみを施す者でもあるのです。
「信仰ある人」ア-メンである人、真実で信用できる人です。そのような人は「絶え、消え去」ってしまったのでした。そして「偽りを言い、滑らかな唇、二心をもって話」す者が横行し、我が世を謳歌するのでした。ダビデは、宮廷に渦巻く権謀術策と人間の裏切り、不真実、偽りをいやというほど見てきて、その人間の不真実とへつらいと人を平葉、うわべやおべっか、悪口や中傷、批判や暴言、陰口、そういった言葉に、私たちはいやというほど苦しめられてきたのでした(箴言26章19~28節)。
いやそういう私たち自身、気づくところで意図的に、あるいは気づかないところでも、同じ言葉を発してきたのではないでしょうか。十戒における「殺すなかれ」は、言葉の暴力による人格否定をも含み込んでいます。神を賛美する、その同じ口をもって、神にかたどられた隣人を呪います(ヤコブ3章2~10節)。これが人間の言葉の現実です。
 この人間の偽りの言葉の苦しみから、神は「立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう」とされます。かつてエジプトの苦役に服し、その過酷な苦しみから神に叫び訴えたとき、神は立ち上がって救ってくださったのでした(出エジプト2章23~24節)。同じ神が、今や不真実と偽りと暴力の言葉に苦しむ民のために立ち上がり、救いだしてくださるというのです。彼らがあえぎ望んだ救いとは、二重の救いでした。それは一方では悪しき者の言葉が裁かれ、絶やされることであり、同時にこの悪しき者からの誘惑に屈しないで、正しい言葉、真実な言葉を語り続ける者とされるようにとの神の守りです。かつてイスラエルが、荒れ野でマナ、つまり神の言葉によって日々養われたように、神の真実な言葉によって私たちも養われ(マタイ4章4節)、日毎にその「生命のパン」(ヨハネ6章22~28節)をいただくことです。
 
 神の言葉は「土の炉で七たび練り清められた銀」つまり完全に精錬されて、中に不純物や汚れが一切ない聖いものです。「混じりけのない言葉」(新改訳)偽りがなく、信頼しうる確かな言葉でもあります。その言葉は、この世界を創造した力ある言葉(創世記一章)であり、言われたことは必ず実現する言葉(イザヤ55章)でもあります。しかもその神の言葉が、肉体をとって、私たちの間にまで来てくださったのでした。私たちはこの真実な言葉にこそ、私たちの言葉を基礎づけ、またこの言葉を慕い求めて養われつつ(第一ペトロ2章2節)、この言葉を語る者とされていきたく願います。その時、私たちの言葉は、塩で味つけられた真実な言葉(コロサイ4章6節)とされていくのです。
              
                       稲毛海岸教会牧師
                      三川栄二
 
詩編を祈る 11編

「主を、わたしは避けどころとし」

 この詩編は、ダビデがサウル王に命を狙われ、追われていることを背景にした詩編と考えられています。いわれのない理由で都を追われ、妻や友、家族とも別れて放浪し、王とその取り巻きに命をつけ狙われているという理不尽な境遇の中で詠われたものです。社会の基盤である法と秩序と正義が、その実行者である王自身によって公然と破られ、無法と不法がはびこる世となってしまったのでした。無実の人、誠実な忠臣をその地位から追い落し、政務をほったらかしにして、ひたすらその命を狙うという異常な事態によって、「世の秩序が覆っている」のでした。そのような中で一体何ができるというのでしょうか。

 このような事態の中で人々は「鳥のように山に逃れよ」と勧めます。小鳥が不安に駆られて、小さな物音にも敏感に反応し、本能的に逃げ去るように、自分を守れというのです。ユダヤの荒れ野にはあちこちにほら穴や洞窟があり(創世記14章10節)、社会的逃避者の避難所となっていました(サムエル上22章1~2節)。
この「山に逃れ」るとは、かつてソドムとゴモラが滅亡するとき、ロトに命じられたことと重ね合わされています(創世記19章17節)。町は神の裁きにゆえに、火と硫黄によって滅ぼされたのでした(19章24節)。

 しかしダビデは明言します。「主を、私は避けどころとしている」と。この世の秩序は覆り、「拠り所」が壊されたとしても、それを自分の拠り所とするのではなく、主なる神をこそ避けどころとするというのです。詩編は繰り返し、神が私たちの避けどころであると告白します(46編1節、59編17節、62編7~8節など)。この世がその基から崩壊し、揺れ動くとき、この世の基準が壊され、秩序も道徳も混乱していくとき、自分が一体何を「拠り所」「避けどころ」としているかを問わなければなりません。私たちは、主を避けどころとしているでしょうか。

 地上の混乱のただ中で、ダビデが主を見上げていったとき、ただ一人変わることなく、揺らぐことのない方をそこに見ました。天の御座にいて、この世を見据え、公正に裁かれる神こそ、私たちの「避けどころ」です。「人の子らを見渡し」とは、物を詳細に調べることで、その背後まで見透かす目をもって見極めることです。人は見かけしか見ませんが、神は人のすることの全てを見通す方です。「人の子らを調べる」とは、金の精錬に用いられる言葉で、一つ一つの出来事に目を留めて注目される神の目配りが語られています。
神の裁きは、その初めから終わりに至る全てに渡って正当なのです。その神が「主に従う人と逆らう者を調べ」、それにふさわしい取扱をなさるのです。従う者には「調べる」とは「試みる」ことですが、それは彼らに「義という平和に満ちた実」(ヘブライ12章11節)を結ばせます。しかし逆らう者には神の適正な裁きをくだされるのです。

 ここで神の裁きが「火」のイメ-ジで語られていることに注目しましょう。聖書で「火」は、神の臨在を現わし、この聖なる神の臨在はそれ自体が恵みであると共に裁きにもなります。それは神の近づき難い「聖さ」「栄光」を示し、それに触れる者をそれにあずからせずにはおかないものです。だから神の聖なる臨在そのものが正しい者にとっては恵みであり、逆らう者にとっては裁きとなるのです。それは私たちを「浄化する火」です。それは苦しみでもありますが、それによって私たちは神に近づけられていくのです。
「見よ、わたしは火をもってお前を練るが、銀としてではない。わたしは悩みの炉でお前を試みる。」(イザヤ48章10節)神の火は、私たちから「不純物を取除く」(箴言25章4節)ものです。それは「吟味の火」(コリ第一 3章10~15節)でもあります。こうして神は「御顔を心のまっすぐな人に向けて」「避けどころ」となってくださるのです。
          
稲毛海岸教会牧師
             三川栄三

詩編を祈る 10編
「御手に労苦と悩みをゆだねる人を」
 
この詩編には「貧しい人」が多くでてきます。標題もないこの詩編は、まさに「貧しい人」の詠う詩編です。貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて、その策略に陥ろうとしている」(2節)時に詠った詩編です。「神に逆らう者」は「何事も神を無視してたくら」(4節)みながら、欲望、貪欲、高慢、呪い、詐欺、搾取をもって繁栄し、富み、栄えています(3-7節)。にもかかわらず、神の裁きは高くて(5節)、彼とは無関係であり、揺らぐことなく、幸せで(六節)、「罰などはない」と心に思うのです(13節)。しかも彼らの繁栄と富は、まさに「貧しい者」の犠牲と搾取によって成り立っているのです。
 
 正直者が馬鹿を見る、まさにそれがこの世の現実です。そこで逆らう者の「手に陥り」倒された「不運な人」は、率直に神に訴えます。「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」(1節)「神は私をお忘れになった」(11節)と。これが正直な気持ではないでしょうか。そこで苦悩にあえいでいるのに、神は何もしてくださらない。正しい者ばかりが虐げられて不幸であり、悪事を働く者が栄えて、幸福なのです。この詩編は、まさにそのような神への問いかけの中で詠われたものです。
 この詩編を詠った詩人は、そこから訴えました。「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。
貧しい人を忘れないでください。」(12節)しかし彼は、この切なる訴えと祈りの中から、神への信仰に至らせられます。神は我らの労苦と悩みを「必ずご覧になって」(14節)くださると。神は「貧しい人に耳を傾け、その願いを聞き、彼らの心を確かにし、みなしごと虐げられている人のために、裁きをしてくださ」(17-8節)ると。
 
 まことの神は、「貧しい人」「不運な人」「虐げられている人」の神です。神は常に彼らの側に立ち、彼らを支え守られる神なのです。富む者、幸福な者には、神はいりません。彼らは神を必要としないで生きていくことができますから。しかし「貧しい人」とりわけ「みなしご」は違います。彼らは神なしには生きていくことができません。神だけが彼らのよりどころです。彼らはその自分の弱さと欠けを自覚すればこそ、神にのみ寄り頼みます。
神だけが彼らの生命です。その彼らを、神も慈しみ、守られるのです。こうして主イエスが語られた言葉が真理となるのです。「貧しい人は幸いです。天国は彼らのものだからです。」   
  
                  稲毛海岸教会牧師
                      三川栄三

詩編を祈る 9編
「彼らが人間にすぎないことを」
 
 「ご覧ください。私を憎む者が私を苦しめているのを」(14節)から、この詩編はダビデが敵対する者によって苦境に陥っているときのものであることがわかります。
しかもその敵とは、ダビデとその民を取り巻き、虐げる「異邦の民」です。そこでダビデがまず詠ったことは、過去における輝かしい勝利です。しかもその勝利は、神によってもたらせられたと、賛美します(2節)。ダビデにとっては「あなたの賛美をひとつひとつ物語り、御救いを喜び踊ることができる」(15節)、その神の恵みの勝利があるのでした。その1つ1つを数え上げることができる、神の確かな救いの出来事があったのでした。それを根拠にして、ダビデは再び、神による助けと救いを求めるのです。神が敵に御顔を向けられれば、「敵は退き、倒れて、滅び去る」からです(4節)。
 
 さらにダビデがこのように神に訴える根拠は、神が彼の「訴えを取り上げて裁いてくださる」(5節)ことです。なぜならダビデに敵対する異邦の民は、主を畏れる者を虐げ、血を流し、貧しい者を圧迫する者たちだからです。まことの神を畏れない者は、神が造られた人間を恐れることなく、むしろそれを虐げるのです。神との関係が崩れたところでは、隣人との関係も崩れ、倒錯していくのです。ここでダビデが神の求めることは、神の正義と公正です。神の公平な裁きが、国々の中に行われるように、そうして「御自ら世界を正しく治め、国々の民を公平に裁かれる」(9節)ことです。
ここにはイスラエルのみならず、世界を支配したもう神への信仰が脈打っています。まことの神は、イスラエル、神を畏れる者だけの神ではなく、神を恐れない民、神を知らず認めない者にとっても神であられること、全世界の主な神であられることを表わします。多神教の、強大な偶像国家に囲まれたイスラエルにとって、それは驚くべき信仰でした。弱小国にすぎないイスラエルの神こそ、世界の主、世界の神であるとの信仰告白なのです。しかもその神が全世界を裁かれる方でもあり、その裁きは公正であるというのです。驚くほど大胆な信仰です。
しかしこの神への苦難のうちにある者を支え、強めるものでした。主こそ「砦の塔」なのです。「苦難の時の砦の塔」(10節)となってくださる神こそ、力強い国々をもお裁きになる生ける神、それらを御手のうちにあって支配したもう世界の主なのです。その主が臨在されるのはシオンの門です。それ以外の門がどれほど強固でも、それは「死の門」にすぎません。それがどれほど強くとも、所詮人間にすぎないものを恐れる必要はないのです。                                                                                                                           稲毛海岸教会牧師
                                                                                                                                          三川栄二 
詩編を祈る 8編
 
「乳飲子の口によって」
 
 「ギディトにあわせて」の意味には諸説がありますが、ぶどうしぼりのときに歌う陽気な歌、豊かな収穫を喜ぶ調べと考えることができます。この詩編では満ち溢れる喜びが歌われているのです。
 
 この天地を造られ、その威光が「全地に満ちている」神の栄光の輝きは、この天の万象と星振によって表わされているばかりか、それがいとも弱く小さな人間によっても表わされていることの驚きを、この詩編は語ります。天地を造られた神は、ご自身の栄光を、私たち人間によって表わされることをよしとしてくださったのでした。神が御心に留められる「人間」とは、エノ-シュ、弱く死ぬべき存在にすぎない無力な人間であり、「人(アダム)の子」、土の塵から造られた空しい存在です。土にすぎない人間を、なぜ神は顧みてくださるのか。「神に僅かに劣る者」として、「創造の冠」として、神は人間をお造りになられたのでした。それは人間が神に似せて、「神の像」に造られたということです。その「神の像」とは、神の被造世界と万物に対する支配権でした。神の地上における代理人として、神の統治権をもって支配する、その「栄光と威光」を与えられたのです。それを謙虚に受け止めて、「地を治めよ」との神の命令を忠実に果たすところに、人間の栄光と誇りとがありました。しかし罪によって堕落した人間は、神から与えられたこの栄光の使命、地を治める支配権を、己が栄光と己が益のために用い、横暴に支配し、無益に殺生し、自分勝手に搾取することで、結局今日の環境破壊と自滅の道に至ったのでした。
 
 しかしこの詩編で詠われている本来の人間の姿を、神が再び回復し、取り戻してくださいました。神は本来あるべき人間、まことの人間、神の像としての人間を、イエス・キリストにおいて成就してくださったのでした。この詩編は、実は主イエスについて語っている詩編です。キリストこそ「見えない神の像」(コロサイ1章15節)であり、キリストにあって、人間は神の栄光とその代理者へと高められたのでした。人間に与えられた、地を治める務めは今やキリストに与えられました(マタイ28章18節)。主キリストこそ、神によって高められた人間そのものとなられた方なのです。5~7節がヘブライ2章6~8節に引用され、それはキリストのことであると理解されています。キリストこそ、栄光ある神の御子であるながら、乳飲み子となって、つまり最も弱く小さい姿をとってこの地上においでくださり、貧しさのうちに生き、神に従って、地上での贖いの御業を果たしてくださいました。受肉、受苦、十字架、死、葬り、よみ下りという一連の「キリストの低い状態」をもって、罪にある人間を贖い、ご自身が低くされることによって、人間を高めてくださったのでした。それによって神はキリストを高められ、ご自身の代理者としての支配権を与えられたのでした(フィリピ2章6~11節)。
 
 それにしても神の偉大な栄光が、「幼子と乳飲み子」
によって表わされるとは、何という恵みでしょうか。主がエルサレムに入城されたとき、主をほめたたえたのが幼子たちでした(マタイ21章15、16節)。神は幼子たちによって、その栄光を表わし、賛美させるのです。幼子とは、人間の最も小さく弱い姿です。であればこそ神だけが彼らの依るべであり、彼らは己の弱さと無力さを自覚するゆえに、神にのみ依り頼むのです。だから神の国は、彼ら幼子のものとなるのです(マタイ18章1~5節)。そして偉大の神の栄光は、実に彼ら弱く小さき幼子によってこそ表わされるというのです。己の弱さと無力さを自覚して、ただ神に依り頼み、神だけを信頼して生きる彼らこそ、神の栄光の器なのです。神はこの世の知者、力ある者を辱めるために、取るに足りない者を選んでくださいました(コリント第一1章26~29節)。死すべき人間、塵にすぎない人間、それも最も弱く取るに足りない者を選んで、神の栄光の器としてくださる、その恵みを感謝したいと思います。弱い者なればこそ、神に依り頼んで生きる私たちを慈しみ、憐れんで、ご自身の尊い栄光を表わす者として高めてくださる、その慈しみを覚えて賛美したいと思います。乳飲み子が、乳を求めて力一杯泣き叫ぶ、あの泣き声が神の栄光を賛美していると、この詩編は語ります。私たちも、力の限り主の恵みを感謝し、主を賛美する者でありたいです。
 
                稲毛海岸教会牧
                     三川栄二
 
 
 
詩編を祈る 7編
 
「あなたを避けどころとします」
 
 この詩編の直接的背景は明らかではありません。伝統的には、このベニヤミン人クシュは、ダビデの命をつけ狙っていたサウル、またはその腹心の部下と考えられてきました。いずれにしろ、いわれのない中傷を浴び、無実の罪で訴えられて苦しんでいるのです。
6編と違い、後ろめたいところはありません。むしろ自分の無実を訴え、神が身の潔白をはらしてくださることを求めます。
 ダビデはここで誓いの形で、自分の無罪性を主張します。自分に不正はないこと、仲間を陥れたことはないこと、悪者の悪を不正に見逃したことがないことをです。これらはいずれも道徳的完全さではなく、社会的正義です。ダビデは一人の市民として、また王として、国を司り、裁きをなすとき、まずこの社会的公正さが求められました。そしてその点で落ち度はないと主張するのです。
神が繰り返しイスラエルに求められたのが、この社会的正義でした(アモス5章24節、ミカ6章8節など)。神への信仰と畏れが欠けるところでは、神の像に造られた隣人に対する関わりも失われていきます。十戒の第一の板の戒め(神に対する戒め)を破るところでは、第二の板の戒め(隣人に対する戒め)も破られていくのです。ダビデはこの点において、落ち度はなかったのでした。
 
 しかしそれにもかかわらず、彼に追い迫り、魂を餌食とする者がいるのです。獅子が獲物をもて遊び、引き裂き、貪り喰らうように、その魂をずたずたに引き裂き、もて遊ぶのです。自分の力では、どうにもならない圧倒的の力の前に、踏みにじられていく様が語られるのです。かくも無力なダビデが、ここでどのように神に向き合っているかを見ていきましょう。彼は神を「主」と呼び、この主なる神を「避けどころ」とするのです。主、ヤ-ウェとは契約の神、ご自身の立てられた契約に忠実な神です。ダビデはこの神から一方的に契約を与えられ、王とされたのでした(サムエル下7章)。今、見に覚えのないことで中傷され、追われる身となっているのも、この神との契約のゆえでした。だからダビデは、自分の神が契約を守られる、真実な神であることに訴えて、助けを祈り求めているのです。
 
 しかもここでダビデが求めていることは、神ご自身が天の法廷を開き、裁きを行われることでした。地上の法廷では、不義がまかり通り、わいろによって裁きが曲げられます。人間の評価は不正確で、その裁きは偏っています。ですから唯一の正義であられる神が、その公正をもって正しく裁いてくださり、心のまっすぐな者を救われるようにと求めるのです。神の怒りは、感情的なものではなく、どこまでも倫理的なものです。不義と罪に向けられていくものです。
だから神とは「正しく裁く神。日ごとに憤りを表わす神」なのです。つまり神は日毎に、その義をもって悪しき者を裁き、正しい者を救われる神なのです。その神の裁きの確実さを、剣、弓、殺戮の武器、炎の矢によって表現し、城を取り囲んで、ついにそれを落城させてしまう様になぞらえています。しかし最後の落城は、実は自滅です。結局、悪しき者は、自らの悪と罪によって自滅するのです。彼らの悪が、自らの滅びを招くのです。
 
 ですからまことに畏るべきは、「心とはらわたを調べる方」です。それは心臓と腎臓で、知性と情緒が宿る場とされています。人が探ることができない深みにまで、それを探り究めることのできる方をこそ、畏れなければなりません。
「人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる」(箴言16章2節)「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サム上16章7節)まさにその言葉によって自分を選ばれた神を信じ、ダビデは訴えます。この神を畏れる者にとっては、このことこそ慰めなのですから。
 
稲毛海岸教会牧師
                                               三川栄二
 
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東京大学大学院法学政治学研究科教授
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東京大学大学院人文社会系研究科教授
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富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
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電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
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東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
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東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
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