201810月 号 №135 通巻820号 号
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(17)
 
 「切支丹灯籠への思い」(16)
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:3)ce9e4292.jpg
 
松田氏の本の中に、三重県久居市にある引接寺には切支丹燈籠が寺の中庭に据えられていたとその著書の中で紹介しています。それを少しご紹介いたしましょう。
それは白御影石作りで、ほぼ完全な姿で残っているのですが、燈籠には文様も詩句もなく、尊像のみ陽刻されていて、偽装時代の型と言えます。写真でもお分かりのように、アーチ内の尊像は帽子をかぶり、マントを着て、旅姿の裾太のズボンに長いストッキングをはき、南蛮風俗の旅僧装束の姿です。
この姿は、南蛮屏風や南蛮風俗絵などでよく見かける神父の姿そのものと言えます。信徒たちはこの旅姿の神父の姿を通してキリストのイメージを求めたのでしょうか。このような旅姿の切支丹燈籠は数少なく、静岡・豊橋・呉とこの久居の4基と今のところ言われています珍品です。さらに工夫を凝らして竿には拳大の穴が明けられていてその中に十字架かマリア像を密かに入れて蓋をして外部のものには分からないように細工がなされいたす。
面白いことに、郷土史家によりますと村人たちはその異様さに、縁起が悪い燈籠として伝わっていたのです。真偽の程は分かりませんが、それは、迫害の厳しい時代に行われていた江戸時代の五人組制度や懸賞付密告制度などから逃れる手段として言いふらされていたことのようです。
いずれにしても、信徒たちにとってはかけがえのない礼拝物であったようです。
 
4b8e275e.jpgこのように、切支丹燈籠は潜切支丹信徒にとっては欠くことのできないものであり、単なる偶像物としてではなく、信徒の真摯は拠り所であったと見るべきでしょう。禁制下にあった信徒たちは悪魔祓い、厄払いではなく、凶を招くものとして人々を遠ざけて守り通したものが今「切支丹燈籠」として存在していると思うことは一つの歴史ではないかと思われます。
燈籠に託した先人信徒の切支丹の苦難と戦いの歩みに心を向けることも、大切ではないでしょうか。松田氏が「・・・石が叫ぶ」と言われた言葉は、その思いを見よ!との願いでもあったと思います。
(このシリーズは、今回を以って終わりといたします。次月号からは、ジャン・カルヴァン著・吉岡 繁訳「キリスト者の生活綱要」を連載いたします)
 
=記= 
主な文章は、松田重雄著の「切支丹燈籠の謎・研究」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏のご厚情・賛同を頂きました。また多くの方からご意見、ご助言を頂きましたことをこころより感謝いたします。(長村)
 
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(16)
 
 「切支丹灯籠への思い」(15)IMG_0006.jpg
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:3)
 
 人は何かを守る時に、そのものを奥深いところや人目の届かないところを選びます。それとは反対に、人目の付くころに形を変えて守る方法もあります。「地蔵信仰に習合」して守る方法もありました。広々とした平野、田圃の真ん中にこんもりとした大きな森がつい50年程前には見慣れた日本の風景でした。そこには村や集落のお寺がありました。
潜伏信徒たちがこのような森の墓地に目をつけたことは、ごく自然なことです。そこには必ず一基や二基の燈籠がありました。彼らは仏教徒を装って、静に、密かに礼拝する地として選んだのです。外形は普通の燈籠と変りません。宝珠・笠・火袋なども備わっていました。しかし、どことなく違ったものがありました。文様がなかったり、尊像はあるが、ガウン姿であったり、足の向きが左右に開いていたりという目立たない相違点を燈籠にほどこしているのがあります。
また町や村から離れたところは格好の礼拝場所でもありました。ある切支丹燈籠は、尊像の下半身を土中に埋め、さながら地蔵尊のように見立てたものもあります。村人と共にこの地の地蔵信仰の対象IMG_0005.jpg物のように守ってきたが潜伏信徒には切支丹燈籠だったのです。この様か形で信仰を守るしか術のなかった彼らとって「地蔵信仰に習合」することも命懸けであったことと想像されます。
このようなことは、イエズス会の神父たちによって洗礼を受けた肥前、備後の地で禁制下の信徒の信仰の姿であったことが、数少ない史料としてみることができます。
 
 
=記= 
主な文章は、松田重雄著の「切支丹燈籠の謎・研究」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。またインターネットで人吉市の市史を調べるのも面白いでしょう。
 
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(15)
 
 「切支丹灯籠への思い」(14)
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:3)ad682be2.jpg
 
 道路整備が行き届い今の時代には想像できないことの一つに、秘境とか、獣道が地域の大切な生活道路になっていることや、ひと山越えると別の世界と言う表現です。
熊本県の人吉市は日本3急流の球磨川の上流の人吉盆地の中心をなしている地です。
神父たちはこの球磨川の難所を渡り、この奥地にまで分け入って布教していました。それは天正8年(1580)4月3日、相良義陽に、アレキサンドル・ワリニヤーニが、備慈多道留(ビヨタドル)の名で送った書状が、相良家文書の中に残っていましたが、そこから当時の布教の事実を物語っています。
人吉地方には疫病除けの守り神として、ゴットン(牛頭天王)の守り札を折りたたみ、糸で首に掛ける風習がありました。これは天主教徒のスカプラリオの姿です。守り札の中身は牛頭天王ではなく異形のものであり、時には迷彩された十字架が描かれていました。信徒たちは牛頭天王の「天王」にキリスト教の「天の神」を習合させ、牛頭天王すなわち天王社の氏子のようになりすまし、ひそかに天の父を礼拝していたのでした。このような例は京都、兵庫県、愛知県、鳥取市などの天王社を聖なる礼拝地としていたことと好一対であると松田は見ています。
 
また、聖母子像を子安観音と称して金立院にあり、人吉藩の寺社奉行を勤めていた林田家の八幡宮内には、聖母子像が合祀されていたことがわかっています。
 
s-IMG_0001.jpg不思議なことは、九州各地で盛んに行われていた拷問的な踏絵を、人吉藩では一度も行われていないとされています。相良藩の史料には切支丹を取り締まった記録がありません。毎年春秋の2回行っていた宗門改帳を調べると、同一印鑑を数人の人に使用されているのも不可解なことです。その理由はともあれ、人吉の地は相良藩主庇護のもとに潜伏信徒たちの聖なる地となっていたのでしょう。
この時代の切支丹燈籠の形態は、形の上では初期のものを受け継いでいますが、文様も詩句もない偽装時代型であることから、弾圧そのものは厳しいものであったことは推察できます。辺境の地であった人吉の地には多くの都落ちした流れ者が信仰の自由を求めて入り込んでいました。平家の落武者がこの渓谷の奥に逃れ地としたことは落武者伝説で知られているところです。角川選書(139)の「落人伝説の里」(松永伍一著)をお薦めいたします。
 
 
=記= 
主な文章は、松田重雄著の「切支丹燈籠の謎・研究」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。またインターネットで人吉市の市史を調べるのも面白いでしょう。
 
 
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(14)
 
 「切支丹灯籠への思い」(13)
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:3)
 
つい最近まで正式な和服にはそれぞれの家紋が染め抜(手書き)かれていました。古沢恒敏編「正しい紋帖」(金園社)は手ごろな本です。太巴(ふとともえ)から一つ巴、左一つ巴、右一つ巴など、陰左三つ丁子巴(かげひだりみつちょうひともえ)まで約200種ありました。校章、会社や商標、県都市章など身近に見ることが出来ます。バッジと思えば分かりやすいでしょう。また、坪井利弘著「古建築の瓦屋根」-伝統の美と技術―(理工学社)参考になるかと思います。家紋は今でもヨーロッパの国々には受継がれ、見ることが出来ます。
 
8fed9a72.jpgさて、切支丹大名の京極家の御廟は、兵庫県豊岡市にあります。御廟の屋根の巴瓦・鬼瓦・破風(破風・日本建築で、切り妻や入母屋の屋根につけた山形の装飾板。風雨を防ぐ意味もある・国語辞典より)などに斜四ツ目紋と、巴瓦に三巴紋がつけられています。
京極高知宮津藩主には3人の男子があって、長男の高広は宮津藩を継がれたが、その子高国に子がなくお家断絶とたる。二男高三は舞鶴の城主となり、その子は田辺に転封となり、孫の高盛はさらに豊岡に転封されていた。
 
高知は文禄4年(1561)に受洗し入信された切支丹大名であったことは、イエズス会通信にも明らかにしているところです。高知の入信は、日本にキリスト教が伝えられて から13年後に当ります。高知は当代の文化人で英智に優れた名君と言われ、国内の信望厚い人物と言われています。高知は西洋の諸事情を神父たちから聞き、さらに彼らが持っていた西洋の諸器具などを目の当たりにして、その文化の高さに強く打たれたと言う。
高知の兄高次は小浜城主で、この人物も切支丹大名でした。奥方の常高院(幼名おはつ)は淀君の妹で熱烈な切支丹信徒であったと言われています。おはつの父は浅井長政で、母は信長の妹お市の方です。
豊臣から徳川に移り、禁教の弾圧が厳しくなった頃、外様大名であったため冷遇を受けていた。そのような中で城奥での信仰も危険となり、お家断絶の処分を受けかねない状況で、熱烈な信徒であった高次夫妻は、仏教徒に転んだように見せかけて常高寺を建立したと伝えられています。
彼らは禅宗の教義の中に即三是一・即一是三の教えとキリスト教の三位一体の教えに相通じることろから、信徒の中には、禅宗に習合し、信仰の場を禅宗に求め、表面上は禅宗の宗徒に成りすまして切支丹信仰を守っていたとも言われています。
 
弾圧の厳しい当時にあって、その信仰を守るためにいろいろの智慧を用いていたことは想像に難くないところがあります。切支丹燈籠は当時の弾圧の厳しさを証言する物の一つといえましょう。 
 
 
=記= 
主な文章は、松田重雄著「切支丹燈籠の謎・研究」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。インターネットで「キリシタン燈籠」を検索して参考になさることをお薦めいたします。また、系図を掲載していますので、拡大してご覧になることをお薦めいたします。
 
 
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(13)
 
 「切支丹灯籠への思い」(12)
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:3)3ca8ce66.jpg
 
切支丹迫害には多くの信徒が犠牲になりました。いろいろなものが形で残っていますが、「踏み絵」と言う言葉はその代表的なものの一つでしょう。
松田重雄は、その著書の中で「信徒をたくみに転ばす殉教者皆無の鳥取池田藩」という章がありますので、その要旨をご紹介いたしましょう。
「鳥取城主池田氏は清和源氏の流れをくむ家柄で、かつては松平姓をなのり三河・尾張などに住まっていた豪族で、天主教の流行した戦国時代には攝津国豊島郡池田に住んでいた。当時摂津・河内方面は切支丹の信奉者の多い地帯であった。池田氏の切支丹信仰もこのころから始まったものと思われる。
見聞諸家紋を見ると、池田筑後守充正の家紋には木瓜と三葉葵紋をのせている。池田氏は松平姓を名乗っていたことから三葉葵紋を使っていたのである。また摂津国大広寺に所蔵されている池田家の系図には、池田六郎佐正が、明徳元年(1390)山名清を討ち、その功績によって足利義満から三木瓜の家紋を賜ったと書かれている。
池田氏が木瓜と三葉葵紋を使いながら、これを久留子紋に何時の頃に変えたかは不明ですが、池田信輝は永禄10年(1567)の本国寺の戦いの時、指物に十字のクルス紋を描いて使用いますから、その頃すでに切支丹信者であったのです。
 
池田家は、信輝に始まった切支丹であることが分かります。ここでも、入信の動機が何であるかは推測の域を超えませんが、西洋の優れた物資・精神文化をいち早く取り入れ富国強兵を図った名君の配慮であり、それを補佐した文化性豊かな家老たちの優れた慧眼であろうと思われます。その後、池田家は鳥取城主(32・5万石)、岡山城主(32万石)の大名として明治維新まで続いていました。
 
さて、迫害は厳しさを極め、全国の各藩では、毎年次々と切支丹受刑者を出していました。豊後藩は特に厳しく数十人・百数十人と血なまぐさい迫害の年が続いています。しかし、鳥取藩主は幕府の布告を掲示し、表向きは厳重に取り締まっています。
この間、多くの人々が切支丹として取調べを受け、投獄されていますが、何れも許され、これらの人々の入牢中は家族に米・銀子を与えるなど想像できない援助の手が差しのべられていたと言う。さらには鳥取藩内からは切支丹信徒の首切り者・磔刑者は、明治維新まで1名も出ていないことは全国的に信じられない出来事でした。
 
池田三左衛門輝政の重臣4人が、仏僧たちから切支丹であると告訴された時、輝政は幕府の手前とお家大事を思って、一応切支丹として吟味したが、この内の1人は転び、他の3人はあくまでも信仰に徹したので、追放されています。これを伝え聞いた姫路城下の切支丹たちは、自ら進んで亡命することを輝政に申し出たが、その申し出は許されなかった。輝政はこれらの人たちのもとに使者を送って、信仰は自由であることを保証し、迫害を強要した仏僧は輝政に見放されたと言われています。
 
=記= 
主な文章は、松田重雄著「切支丹燈籠の謎・研究」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。インターネットで「キリシタン燈籠」を検索して参考になさることをお薦めいたします。また、系図を掲載していますので、拡大してご覧になることをお薦めいたします。
 
 
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(12)
 
 「切支丹灯籠への思い」(11)
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:3)bda03a07.jpg
 
京都を訪れる人々にとって、多くの楽しみがあります。名所旧跡という言葉では言い尽くせないものがあります。日本の文化・心を垣間見ることが出来る処です。
京都には桂離宮という所があります。PCで「桂離宮」を検索してみますと、「宮内庁」という言葉に出会います。ですから、一般の観光地・名所旧跡とは異なることが分かります。そこに「切支丹燈籠」があるのです。
 
ご存知の通り、「桂離宮」は八条宮智仁(としひと)親王のために豊臣秀吉が造営した建物と言われ、数奇屋風を加味した書院造りに居住建築として造られて、その構造は日本建築の傑作と言われています。さらに、建物ばかりでなくその庭園美・建物の配置・意匠など、美の極みともいえます。「雅」そのものの中に、日本人の持つ「侘び」をも表現する自然観を観る者に訴えます。
物の本によりますと、この造営には、秀吉は小堀遠州に命じたとも言われていますが年代的には少し無理があります。それは、慶長(1596~1615)の末年にこの地が八条宮領になっていて、その後に智仁親王によって別荘が造られ、工事は元和6年(1620)から数年にわたって行われていますので、当時、遠州はまだ少年期に当たるからです。
2回目の造営は二代智忠(としただ)親王の寛永年間(1624~44)に造営・拡張工事がなされて、明暦年間(1658頃)に完成し、現在の規模になったと言われています。そこにある庭園は遠州好みがみられ、智忠親王の時の遠州一派が関わっているとも考えられます。
この時代は、秀吉とその側室淀君に鶴松が誕生したので、天正18年(1590)八条宮を新しく創立されています。戦国時代の時です。
 
88e87b09.jpg八条宮は当時の第一流の文化人で、和漢・茶道・音楽・絵画とともに、建築・造園にも優れた才能を持っていたといわれています。「源氏物語」の主人公の光源氏にあこがれをもって桂殿を幕府に望み、所領地の配置換えに成功し所領としたとも言われています。その後、何度か補修されているので、当初のものとは言いがたいものがあります。
 
智仁親王にとって優れた西洋文化は関心の深いものがありました。伴天連たちにとっても親王のような文化人好みを見逃すことは無かったでしょう。伴天連の宣教の強力な手段に、当時の藩主・豪族・文化人・豪農を信徒にすることは目標の第一にしたことは言うまでもありません。また、親王の室常子姫は父京極高知で文禄4年(1595)に受洗し大の信奉者でした。当時、切支丹同志の結婚のみとしていた時代にあって、信者同士であったことは、戦国の世の政略結婚としてだけでは理解できないものがあると考えられます。
高知の父高吉も受洗し、母はマリヤと称していたことは「日本切支丹宗門史」(バジェス)にも見ることが出来ます。高知の兄高次(小浜藩主)の室常高院も信奉者です。常高院は禁教になった時、禅宗常高寺を建立し、仏教徒にころんだように振る舞い、常高院のお墓には、正面と側面に巧みに十字架を模したものがありました。紋様には代表的のものとして十・卍などがあり、卍は仏教でも用いられる紋様でしたから何ら不思議はないでしょう。
桂離宮には主屋である古書院・中書院・新書院などがあります。さらには山里に見立てた賞花亭・卍亭・腰掛などの中の卍亭は他の離宮内には見られないものと言われています。修学院離宮にも切支丹燈籠があります。
 
ここに松田重雄の記した京極氏の系図、智仁親王御系図をご紹介いたしますので、PCの方は拡大してご覧下さい。系図は無言ですが、時代の鏡でもあります。何故、このような婚姻が成立したのか。その信仰生活は? 貴族・支配者以外のキリシタンたちはなど、推理・想像することも歴史探訪の楽しみの一つともいえましょう。
 
 
 
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(11)
 
 「切支丹灯籠への思い」(10
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:3)
 
2d77076e.jpg世界の歴史を振り返るまでも無く迫害の中で信仰を守ることは、個人の熱心だけでは成立しません。いろいろの形を取りながら時代・状況に信仰・集会の維持がなされて来ました。
 
十字架を陰刻したものがありました。キリシタン大名松前藩主の墓地・有珠善光寺には、三墓の切支丹燈籠があって、その燈籠の宝珠・傘などの継ぎ目のほぞ、合わせ目、背面などにT十字を陰刻されていて、一見、普通の明り燈籠に見せかけて、密かに切支丹たちは礼拝していた切支丹燈籠であることは明らかでした。このようにT・+・X・#など一般の明り燈籠とは異なるものが刻まれているものが60墓ほど発見されています。
また、迫害の手から逃れた者たちは、切支丹燈籠を安全な場所を求めた場所として寺院がありました。ある記録によりますと、武士の何某が寺を訪ねて「私は故あって他国に参りますので、これを当山のどこかの庭の片隅にでも置いていただきたい」と願い出て、わずかのお金と共に願い出た例は各地に見られます。
また、庶民信仰に紛れ込み、その地の宗教行事の中で守っていたことも調査の結果分かってきています。切支丹の詮索が厳しさを増してくるに従って、尊像を削り落としたり、地蔵・観音・天神・道祖神・庚申信仰などに習合し、巧みに偽装しながら信徒たちは礼拝していたのです。
また、尊像を埋めて隠す方法もありました。数ある燈籠の中に見るからに背丈の低い、バランスの取れない燈籠は、竿の尊像の部分を埋めて、切支丹たちのみが分かる部分を出して、礼拝物としていたものとわかります。その選択・方法に当時の信徒たちの悲壮な決意に触れる思いがいたします。e203ea05.jpg
また、信徒の中に茶庭を建てた中に、燈籠を深く土の中に埋め込んで火袋を低くして普通の庭の露路を照らす明り燈籠のように用いられているものあります。考えられないような庭の隅や何気ない庭の空間に置かれているものもあります。その当時の庭園師や後の世の庭師には理解し難い建て方に思われたことでしょう。
また、墓碑にも転用の例があります。これは、燈籠の竿の部分を墓石にして隠蔽する方法です。その他にも、年代の偽装、迷彩紋様の使用、一般には、同一石材で作られる燈籠に異質の石材で造るなど、迫害の厳しさに比例するかのように、その巧みな隠蔽も見ることができます。
 
戦時下の信仰の戦いとは異なるにしても、迫害に耐え抜く知恵は学ぶべきでしょう。
 
=記= 
主な文章は、松田重雄著「切支丹燈籠の謎・研究」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。インターネットで「キリシタン燈籠」を検索して参考になさることをお薦めいたします。
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(10
 
 「切支丹灯籠への思い」(9)
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:3)
「松田氏の分類・その3」
 
3 偽装時代型 
 
 制作年代=寛永・正保・慶安・江戸中期に至る。
 竿   型=次第に十字架型は消滅し墓標化する。
 丸   味=次第に直線的な形式が多くなる。
 尊   像=多く が5~4頭身の地蔵形となり袈裟紋様も現われ、3d641c83.jpg
         蓮弁彫刻もほどこされ仏像化している。
 足   型=仏像化した足型となる。足を露出しないものもある。
 面   取=多く消滅している。
 基   壇=基壇が多くなり、一般の燈籠型が多くななる。
 庶民信仰= 民信仰と結びつくものが多くなる。禁忌のあるものが多くある。
 
4 無刻時代型 
 
 制作年代=慶安・承応・明暦・江戸末期に至る。     cbea540a.jpg
 竿   型=墓標化する。
 丸   味=直線的な形式が多くなる。
 尊   像=消滅。
  足   型=消滅。
 面   取=消滅。
 基   壇=基壇が多くなり、一般の燈籠型が多くなる。
  庶民信仰=庶民信仰と結びつくものが多くなる。禁忌のあるものが多くある。
 
=記= 
文章は、松田重雄著「切支丹燈籠の謎・研究」(同信社)からの引用もあります。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。インターネットで「キリシタン燈籠」を検索して参考になさることをお薦めいたします。 
 
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(9)
 
 「切支丹灯籠への思い」(8)
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 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:3)
 
「松田氏の分類・その2」
 
2 迷彩時代型 
 
 制作年代=元和・寛永・江戸前期に至。
 竿  型=十字架型、T字型クルスが現れる。墓標化が現れ始める。
 丸  味=次第に直線化してくる。                                                                                                                                           
 足  型=足首が短くなる。甲もやや小さくなる。
 面  取=次第に消滅する。
 基  壇=基壇が現れ始める。
 庶民信仰=地蔵・観音・庚申・道祖神・天神信仰に結びつくものが現れ始める。 
 尊  像=八頭身型のものが少なく6~5頭身となり、次第に地蔵化し、袈裟衣紋も
        現れ始める。
=記= 
87176461.jpg主な文章は、松田重雄著「切支丹燈籠の謎・研究」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。インターネットで「キリシタン燈籠」を検索して参考になさることをお薦めいたします。 
 









 
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(8)
 
 「切支丹灯籠への思い」(7)
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:3)
 
キリシタン燈籠の存在には多くの謎があります。迫害下あった当時、このような礼拝物を考案した人たちが、その由来・製作依頼人を書き残せる時代ではなかったからでしょう。そうであるために、信徒の心から心へとその意味を伝えた想像できます。また、潜伏信徒の動向については歴史の空白部分でもあります。f8171ecd.jpg
歴史に登場するのは、明治維新に条約改定のために岩倉特命全権大使が、ヨーロッパ各国を回った時でした。慶応4年浦上信徒約3000人が捕らえられ、改宗を強要され、迫害を受けている事件について、欧州各国より強い非難を受けました。そのため一行の中の伊藤博文は、日本政府に至急信教の自由を布告するように強く要請したとされています。日本人の中には、「信教の自由」という「基本的人権」が育ってはいなく、外圧によったものでありました。
しかし、理由はどうであれキリスト教の禁止令撤廃が公布されました。時の政府は諸藩知事に命じ、各藩の不浄蔵に管理されている切支丹・不受不施派・黒住教に関する記録文書を全て焼却させました。不浄蔵とは禁教関係の文書記録を収めていた蔵の別名です。
文書に関していえば、潜伏信徒たちの動静等を文書に残し、万一にもそれが奉行などの目にふれるならば弾圧・迫害の機を与えます。当時、在日していた神父の責任者は、ローマに報告する義務がありました。この報告書は同じものを2~3通作成し、数回に分けて送っていたといわれています。それは交通の不便な時代の知恵であると同時に、何らかの理由で信徒の氏名等の秘密事項の知られることを恐れて正確なものは書き送られていないのです。そのために今日に至るまで潜伏切支丹の資料が乏しく暗中模索と言えます。そのような中での切支丹燈籠の存在た貴重な資料となりました。
松田氏はその切支丹灯籠を幾つかに分類していますので、松田氏の分類をご紹介いたいましょう。
1 創造時代型 2 迷彩時代型 3 偽装時代型 4 無刻時代型です。
 
1 創造時代型
 制作年代=文禄、慶長、元和、江戸初期に至る。
 竿  型=十字架型、ギリシャ・クルス型が多い。
 丸  味=竿の上部に宇宙を表現した丸味がある。
 尊  像=南蛮風俗の美しい八頭身型のものが多い。後期のものは7~6頭身となる。
 足  型=長い足首を露出し、八の字開きで上履きを履き甲は太い。
 面  取=竿の面取りのものが多い。
 基  壇=竿の下部を荒加工して基壇として埋めている。
 庶民信仰=キリ シタン灯籠には関係なく、古キリシタン信徒の中には祇園信仰と結びつくものもある。
 
46f5a91c.jpg創造時代型の文様は裏文字で、信徒たちのかくし文字と言われています。この文様を裏返しにしてみるとPATRI(ラテン語)のパートリーは「父」を意味しています。尊像はキリストを象徴し、燈籠の竿は父・キリスト(子)・聖霊を象徴し、キリスト教の三位一体を表しているとされています。
平安時代の木造建築の美しさは、柱の面取りにあるといわれています。この作風を模したものでしょうか。また、基壇を土の中に埋めて立てると竿は十字架形にもなります。
 
 
=記= 
「…」内の文章等は、松田重雄著「切支丹燈籠の謎・研究」(同信社)からの参考・引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。インターネットで「キリシタン燈籠」を検索して参考になさることをお薦めいたします。
 
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(7  3d533802.jpg 
 「切支丹灯籠への思い」(6
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1:3)f2f0bff7.jpg
 提灯(ちょうちん)
 
童謡「おさるのかごや」に♪エ~ッサ エッサ エッサホイ サッサ おさるの かごやだ ホイサッサ 日暮の山道細い道 小田原ちょうちん ぶらさげて ソレ ヤットコドッコイ ホイサッサ ホーイホイホイホイサッサ~♪ という歌があります。江戸時代には、あちこちに腰から小田原提灯をぶら下げて籠を担いでいたのでしょうか。当時、江戸から小田原まで籠に乗って行こうと思ったら12時間以上かかったといわれています。
光は、その歴史、民族をこえた無くてはならない大切なものの一つです。日本独特のあかりである提灯も素材、製法で様々の特徴がありますが、光源は油からロウソクに変わって大きく変化しています。用途も変わり広まりました。室町時代に生まれた紙や布を貼った竹篭や藤篭から江戸時代中期には、馬上提灯、御神燈提灯、高張提灯など現在に見る形のものが出来ていました。有名な産地としては良質な竹と紙のきれいな水が産地となっています。長良川の清流と豊富な竹、和紙の本場とされる美濃紙を産出する岐阜は岐阜提灯として有名です。その他、福岡県の八女提灯、山城、丹波、丹後では良質な竹と神社仏閣とのかかわりの深い京提灯などがあります。
日本で一番古い提灯の文献は応徳2年の「朝野群載」に見ることができるといわれていますが、それが現在の提灯と共通しているかはよく分かっていないとされています。
日本のキリスト教では神父たちによって天正の昔に礼拝用として燈籠(提灯)が御光を捧げるために使われていました。
5d50691d.jpg松田重雄は「昭和50年3月東京に出張したおり、内山善一先生・神原和荘氏その他同志の方々と品川区小山にお住いの長谷川秀治先生宅をお訪ねし、貴重なコレクションを拝見した。先生は数枚のつづれ織を示され、この織物はコプト織で、コプト織とはエチオピア語である。西暦500年ごろ、エチオピアの潜伏切支丹たちは、ひそかにエジプト、チュニジア、アルジェリアなど北アフリカにのがれ、これらの地方で信仰の火をもやしていた。これらの人々の間で、このコプト織が作られていた。彼らはこの織物の赤色が信仰の情熱、青が信仰の鎮静・誠実、白は信仰の潔白・自由を表し、信仰の対象として使用した。このことは後世に欧州諸国で国旗に採用され、愛国・平和・誠実・純白・純潔・自由・平等などと、いろいろの象徴されるもととなった。…。弾圧時代に神父・信徒たちが英知をしぼって、ありとあらゆる多くの秘密的シンボルを作り上げた。その一つに切支丹燈籠がある。天正の昔から燈籠を教会にもち込んで礼拝用に使い、また燈籠を葬儀の儀式用としたことがその後も続き、これも一つのヒントになって切支丹燈籠という仮託礼拝物を創作し、潜伏時代も永く切支丹燈籠を中心に信仰を貫きとおしたのである」と語っています。cae9251f.jpg
 
=記= 
「…」内の文章は、松田重雄著「切支丹燈籠の謎」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。インターネットで「キリシタン燈籠」を検索して参考になさることをお薦めいたします。 長村
 
松田重雄が観た「切支丹燈籠の世界」(6)
 
 「切支丹灯籠への思い」(5)                                         
 
 「あなた方に言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(ルカ19:40)
 
 実像と虚像   d1a22d1e.jpg
昨年の世相を現した言葉は『偽』でした。悲しいことと言えます。しかし、弱いものがその身を守る方法に「擬態」があります。弱い者、迫害の中にある者が時の権力から身を守る術、体制に対抗する手段は、何時の時代、いろいろの民族が持つ知恵としてあります。文学、芸術、或いは芸能・習慣の中に潜んでいるものもあります。「弱者の知恵」と言えるでしょう。
一見、織部燈籠としての体裁をとりつつ、細部が異質なものがあります。出所不明であったりしながらも、笠に異質なものがのせてあったり、竿は完全であっても織部とは違う直線形であったり、また、ご尊像を刻んだ燈籠は各地に見られますが、粗末な彫り方ではなく、むしろ巧みな石工の技のものが多いように思います。そのためでしょうか、その姿が7頭身でガウンを着けていたり、足先が外側開きになっているのが特徴ですが端麗です。
今は、車社会ですから、道もつい最近作られているため旧街道や荷車や畑仕事の農道や生活道路に足を踏み入れる機会が少なくなりましたが、つい最近まで、生活道にはお地蔵さんや馬頭観音などを道の辻に見ることができました。無縁墓もありました。今は、道路・区画整備のためにこれらの物は一まとめにされたりしていて古の意味が分からなくなっていますが、それでも見うけることがあります。
民衆が素朴に心の安んじる場所・供養する地蔵信仰は、大伽藍の仏像とは違って生活に密着していて、もっともらしい逸話と共にその土地土地にありました。子供の成長・安泰を願った子安地蔵、農夫が牛を曳いて田を耕す時に、牛が動かなくなって困った時に、鼻取小僧が現れて身代わりに牛を曳いてくれたが、それは実は地蔵菩薩であったという伝説は各地にあります。そうした身代わり地蔵の信仰は、世界の各地にあります。そのような素朴な地蔵信仰群の中に紛れ込むように切支丹燈籠がありました。
松田重雄は「…。指導者たちは町外れに六地蔵尊を建て、旅の安全と他から災厄の入るのを防ぐ地蔵(西洋では聖人像)にからませて、人里離れた町の入口付近の、人家もない淋しい場所に、たくみな聖地をもったのである」とその著に記しています。
 
余記になりますが、「道を考えることはなんと雄大なことでしょう。歴史をしらべることは、なんとゆたかなことでしょう。わたしはこの本で、道のもつふしぎなはたらきをみなさんに考えてほしいとねがいました。道をとおして、歴史のもつ重い意味を考えてほしいとねがいました。なによりもしらべてみることのすばらしさを知ってほしいとねがいました」(「道は生きている」富山和子著・講談社・小学中級から 選定図書)。図書館ででも借りてお読み下さい。お薦めいたします。
 
 
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=記= 
「…」内の文章は、松田重雄著「切支丹燈籠の謎」(同信社)からの引用です。また、ご子息の松田章義氏の賛同をいただいております。インターネットで「キリシタン燈籠」を検索して参考になさることをお薦めいたします。 長村





 
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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