201810月 号 №135 通巻820号 号
 

ビルマ 戦犯者の獄中記(79)最終回 遠山良作著

 ―私のあゆみ―

 今日も一人ヒマラヤの中庭をぐるぐると歩き廻る

 うぬぼれの心が頭をもたげる

 隣人を愛そうとしても愛がない

 それでもなお主にすがりついている私の姿はどうしようもない

 明日もまたこの中庭を私は歩くことだろう

 だが青葉の陰から主のまなざしを見る

 主のみ恵みはなんと大いなることか

「註」私は昭和28年4月10日に刑期を満了し釈放されました。

 

=あとがき=

 昭和13年に応召、中国大陸に従軍、太平洋戦争が勃発するや南下ビルマ戦線に祖国の勝利を信じて戦った。物量を誇る連合軍の前に日本軍は無条件降伏をした。私はこの敗戦をビルマで迎えた。よもやと思っていた私は、国際法上の違反者であるとの一方的な英軍事法廷で裁かれ、戦犯者の烙印を押され牢獄での身となった。

 薄暗い独房での生活は、孤独と悲哀の涙はややもすれば生きる希望さえ失わんとした。このころ一冊の聖書が送られて来た。その聖書は私に生きる目的を教えてくれたのみならず、牢獄もキリストの恵みであると信ずる者になった。

 あれから40年の歳月は流れ、世の人々は戦犯という言葉さえ忘れ、遠い過去の歴史として忘れ去られようとしている。

 いま日本は経済大国として繁栄し、世界をわが物顔で闊歩している日本人の姿を見ると、戦勝に酔った当時の傲慢な日本人の姿を思い出す。この繁栄の背後には、祖国の勝利を信じて死んで逝った幾百万の英霊と、祖国の再建と繁栄を願いつつ戦犯の汚名のもとに異国の刑場に消えて逝った多くの戦友の姿を忘れることはできない。

 敗戦によって焦土と化した焼け跡の中に呆然と立ち、なすことを知らなかったみすぼらしい日本人の姿を今思い出してほしい。・・・。戦争とは常人を狂人のような悪意と憎しみにもかえる悪魔の働きをもする。・・・。

1985年(完)

 

ビルマ 戦犯者の獄中記(78) 遠山良作著

 ―信親友―

 巣鴨にはキリスト教徒を中心に、信友会なる群れがあった。その大半は獄中でキリスト教を知り入信した人たちであった。礼拝は毎週土曜日の午前10から、アメリカの従軍牧師ダットン師の説教を、中田善秋(カナダ生まれの神学校出身の戦犯者)が通訳をして礼拝が守られていた。出席者は4、50名位であった。日曜日の午前は新約聖書研究会、午後は旧約聖書の学びがあり、私はすべての集会に出席した。この年の12月23日、クリスマス礼拝にて、中田先生のすすめもあり、ダットン牧師によって受洗することが出来た。

 戦争→敗戦→戦犯→牢獄の10数年間、生きてきた苦しみ、悲しみの涙の中に真実を見出し、奇しき神のみ業により、その恵みを知り得た喜びの感謝の祈りを捧げる。

 もし私に戦犯者として試練がなかったなら、神のみ恵みも知らずに人生を真剣に生きることすら考えることなく、自堕落な生活を送り、この生涯を終えることだと思う。

 巣鴨での生活の一端を、一人のキリスト者に、次の手紙を書いて送った。

 坂出市 渡辺美津枝姉へ

 「中田先生より貴姉のことはいろいろと賜わっております。―中略―講和条約も間近にせまり、日本も独立国としてやがて一人歩きすることになるでしょう。当所(巣鴨拘置所)も4月1日から日本の管理下に移され、手紙も週に2回出すことが出来るようになりました。

 教会の礼拝も米軍の従軍牧師に代わって、関屋正彦先生と稲葉好延先生が交替で説教してくださることなりました。今週の説教は「9つの福音」(マタイ伝5章)でありました。牢獄の生活と聞けば誰でも惨めな生活を想像されると思われますが、私たちキリスト者は主イエス・キリストの豊かな恵みにより喜びと感謝の日々を送っております。―中略―。

 私は戦犯者としてビルマの獄中において死との対決をせまられ、あるときは病魔に侵され、死線をさまよいつつ、目に見えない神様に救いを求めつつ、叫び続けたとき、一冊の聖書が与えられました。懸命に読みましたが,聖書に書いてある奇跡はどうしても信ずることが出来ませんでした。この聖書から奇跡だけを抜いてあったらこんな素晴らしい本はないとも思いました。時には片隅でほこりにまみれていたこともありましたが読む本がない獄の生活であります。幾回も繰り返して読んでいる間にすべてを創造された全能の神のみ業であるならば、すべてをなし給う神であることを知り、主なる神を信じるようになりました。

 それからは、傲慢なる過去の生活、罪の自覚にさいなまれ、悔い改めの涙で幾夜も枕を濡らしたのであります。悲しみの涙の中にこそ真実があり、神の存在を知り得たのであります。このような過去を持つ一人として世界の平和を願わずにはいられません。去る復活節の夜、信友会に対する研究会の第一回目の集いを行いました。参加者はわずか4人ではありましたが、真実の平和は神によってのみ果たされることだと思いました。

 今の日本の現状はどうでしょうか。再軍備こそ国を守る唯一の手段であるとの声も聞こえてきます。米国もソ連も互いに軍備を拡張し、軍備こそ平和への道なりと美しい言葉によって武装への道を歩みつつあります。朝鮮動乱は今や日本をもその渦中に巻き込まんとする情勢であります。敗戦の苦悩を身をもって体験し、戦争憎悪の情はかかるわれわれにこそ強烈であります。

 いかなる主義も思想も永久に平和をもたらすことの出来ないことは過去の歴史が、はっきりと示しております。人類の歴史は闘争の歴史でもありました。

 神様に救われた一人として、つねに主の十字架を仰ぎつつ、また神の御意志はなんであるかを問い続けて歩みたいと願うものであります。このことを覚えお祈りの中に加えてくださるなら幸いと思います。―中略―。」

 

ビルマ 戦犯者の獄中記(77) 遠山良作著

 ―ハンストのビルマ人―

 現政府に反対し、監禁されている共産党員たちは、監獄の給与改善を要求して「ハンスト」を実行した。瀕死の状態で担架で担ぎ込まれた5人は私の隣に入院した。彼らの顔は水ぶくれのように腫れていた。水も食事もとらないことを宣言してハンストに入り33日目であると言う。30日以上も水も食事もとらずによく生きられたものだと思う。

 彼らの話によると水を飲んでいると15日位は歩行が出来るが、水を飲まないと1週間位で歩けなくなる。一番苦しい時は5、6日目である。幾日目には苦しい節目があるが、体力が消耗しないように寝ていた。30日目に同僚の一人は血を吐いて死んだことも話してくれた。入院した初日はほんの僅かな米を入れて焚いたおも湯である。毎日少しずつ、米の量を増やすのである。5日目にはビスケットが与えられた。彼らはまだ回復しないまま15日目には退院した。かつて英軍の給与が悪かったとき、ストライキすらできなかったわれわれのことを思い出し、彼らの勇気ある行動に敬服した。

 

―巣鴨拘置所―

8月26日(昭和26年)、英領地区の戦犯者227名を乗せた貨物船は横浜港の岸壁に横づけになる。夢だに忘れたことのない祖国日本に着いた喜びで誰もが上気していた。波止場にはわれわれの帰国をニュースで知った家族や知人と思われる人々の群れ、中には○○君と書いたのぼりを立てて出迎える人たちでごったがえしている。私たちはこれらの人々を遠くに見て、下船するや米軍の用意したトラックに分乗して巣鴨拘置所に向かった。

やがてひときわ高い3階建てのビルディングが見える。それが巣鴨拘置所だと教えられる。その手前の道路上にアーチ形の門がある。赤地に白くSUGAMO PRISONと書かれている。この門が正規の門、巣鴨拘置所のメインゲート(正面)である。その門を境に高さ3メートルのバリケードがはりめぐらされ、さらに灰色の高い塀に囲まれた内側に拘置所がある。

ここには、極東裁判で裁かれたA級戦犯者をはじめ、B、C級の戦犯者たち2000名近くが収監されている。何時の日に自由の身になれるかは予想することはできないが、とにかく日本に来たという実感は、いままでの苦しみのすべてを忘れ、その歓びは表現することすらできない。

 

ビルマ 戦犯者の獄中記(76) 遠山良作著

 ―結核で入院―・・・2・・・

 独立したばかりのビルマ政府に不満を持つ共産党やカレン族は武力に訴え、国は内乱状態であり、経済的にも極めて深刻である。現在の政府は、外国から輸入する薬などあろうはずがない。友はなんとか私のために薬を入手しようと尽力してくれた。久米大佐(戦犯者)の友人であるビルマ財界の富豪ネザミ氏に薬の差し入れを依頼した。彼は最も高価な朝鮮人参、ビタミン剤、ブドウ糖の注射液等沢山差し入れてくれた。

 その上彼は、きたない牢獄の病院まで毎日5日間、入手困難とも思われるブドウ、リンゴを持って見舞いに来てくれた。嬉しくて涙で布団を濡らした。何の価値もない私のために尽くしてくれる友らのために報いなければならない。全ての人を愛さなければならないと思う感謝の病院生活である。

 聖書は「すべての者を愛せよ」と教えているが、人を愛することの難しさを痛感する。同室にいる悪臭プンプンする病院では、何でも勝手に持ってゆく。コップがないからといってわたしのコップを無断で使用する。つい腹が立つ。誰でも優しい心の持ち主にならなければならないと思いつつも優しい人間になりきることの出来ない弱さを知らしめられる。

 人間はどうにもならなくなると救いを神に求める。かつて私も、死刑になるかも知れないと思ったとき「神様助けて下さい」と願ったが、死刑を免れると神様など何処にいるのかさえ忘れ、聖書を読むことも怠って来たことに気付いた。

 聖書を再び読み始める。直ぐに疲れてしまい、小さな文字がぼんやりとして読めなくなってしまう。しばらくしてまた読む。今度は熱が高くなって苦しくなる。友は疲れるから聖書など読むなと注意してくれる。友の来る足音がすると聖書を布団に隠す。

 友を裏切っているような気がするが、少しずつでも毎日聖書を読まずにはいられない。「労する者、重荷を負う者は我に来れ、我休ません」。この聖書の言葉は私を励ましてくれました。理解できない多くの箇所があるけれども何べんも繰り返して読む聖書は私の心の支えでもあった。

 

ビルマ 戦犯者の獄中記(75) 遠山良作著

 ―結核で入院―・・・1・・・

 6月(昭和24年)、長い牢獄生活からの疲れであろう、軽い作業でも疲れを覚える。作業を終えて二階の房に帰る階段を昇ると息苦しく休んでは昇る。疲れている者は私ばかりではない。誰でもみんな疲れているのだと心に鞭打って休まずに作業を続ける。作業は戦争により手入れも出来なかった老朽化した家屋の取り壊し、パンを焼くかまど作り等当局から命じられた一般作業班である。

 ついには歩くことすら苦しくなったので、医務室に診断に行く。体温は38度である。休養を許され、その日は房に帰り、布団を敷いて休んだ。その午後。急に頭から血の気がス~と引いて行くような気がしたと思うと、真っ暗な深い穴に中に落ちて行く。その瞬間「ああ俺は死ぬんだ」と思った。そのまま気を失ってしまったのである。

 それからどれくらい時間が経ったのか知らないが、気が付いて見ると枕元には監獄の医師と心配そうに私を囲んでいる友の顔があった。「ああ死ななかったのか」と思う。起き上がろうとしても、まるで力が出ない。「無理するな寝とれ」と友は言う。立って便所に行くことすら出来ない。

 そのまま担架で刑務所内にある病院に入院をした。病院と言っても角材の格子に囲まれた部屋に寝台が並べてあるだけである。50人位の現地人が入院していた。入院患者は作業が免除される。一日一回医者の回診はあるが薬もなく、ただ寝ているだけである。仰向けになると格子の間から見える白い空はまぶしくて目を開けていることが出来ない。布で目を覆いながら寝るのである。熱を測ると37度5分から38度よりなかなか下がらない。着ているシャツは寝汗のためにびっしょり濡れてしまう。一日に何回も着替えなければならない。

 昼の休憩時間と、作業が終わると主に桧垣君が交代で汗に濡れたシャツの洗濯や一日二回の食事も運んでくれる。「遠山君今日はどうかな」とやさしく声をかけて来てくれる。そして、その日にあった出来事を話してくれる。

 彼らが来る時間が待ち遠しい。こんな入院生活が何カ月も続くが、病状は一進一退で病名もはっきりしない。医者は熱があるからマラリヤだとの診断である(後日、日本に送還され巣鴨拘置所でレントゲン検査の結果肺結核であったことが判明した)。

 なかなか回復しないはなはだしい貧血状態の病状を友はみんな心配してくれる。B級扱いを受けている戦犯者に支給してくれる副食物は現品を支給してくれる。これを炊事当番が調理する。鶏やあひるは生きたまま支給してくれる。その肝臓は栄養があるからといって私のために特別に料理してくれた。時には作業中に捕まえたサソリは、猛毒があるからきっと薬にもなるだろうといってサソリの黒焼きも食べた。味はないが、その友情を噛み締める。

 

ビルマ 戦犯者の獄中記(74) 遠山良作著

昭和23年1月2日

 ―ビルマ管理下の刑務所生活―

 ここラングーン中央刑務所に監禁されている囚人の待遇は、社会的地位、財産の多寡等によって、ABCに区分されている。英国植民地時代の名残かも知れない。Aクラスは最高の取り扱いを受け、当番もつけられ差し入れも自由である。この一人にボヤナイ大佐(日本軍当時の首相バアモー博士の娘婿)が政治犯で監禁されていた。

 Bクラスの食事は白米で毎日魚又は肉類が支給される。

 監禁されている囚人の90%以上はCクラスで主に強盗犯である。彼らに一日2回支給される食事は赤黒い玄米飯で、外部では牛や豚に食わせる最悪の米である。副食物として週に1回(金曜日)だけ親指大の豚肉が1片支給される他は毎日豆と野菜汁のみである。

 われわれ戦犯者はCクラスであった。食べたことのない玄米飯と豆と野菜汁の食事のため、胃腸障害を起こし、体に不調を訴える者が出だした。当局に待遇の改善を申し出たが、所長の権限外のこととして拒否された。こんな食事でも食べなければ死んでしまうのが獄生活である。こんな生活が数か月続いた。

 ある日、ビルマ政府の司法大臣がこの刑務所を視察に来たことがあった。彼はわれわれに要望事項の有無を問うた。われわれは「是非全員をBクラス待遇に改善されたし」の旨を要求した。彼は直ぐその日から准将以上をBクラスにすることを許可してくれた(その後漸次全員がBクラスになった)

 ビルマ当局は所長以下、日本人に対して実に友好的であった。所内にある二百坪くらいの畑の耕作を許可し、そこで収穫した野菜は自由に使用することを認めてくれた。灼けつくような炎天下で作業する一般囚人は裸足で帽子すら被ることは許されないが、われわれには靴、帽子、半ズボン等支給してくれた。

所内での行動も自由で、幾つかある棟から棟を通過する出入り口には看守がいて用件のある者以外は通ることは許されないが、われわれのみ検査もなく自由に出入りすることが出来た。一般囚人の起居している房は一部屋に40人位入っているが、50人足らずのわれわれには4部屋与えられている。

 作業は木工班、事務室勤務、農作業(自分たちの副食にするため)、炊事班(自炊のため)に分かれているがすべての作業場に監視員はいない。すべて自分たちで計画し作業するのである。

 このような寛大なビルマ当局の好意に報いるべく、時には2時間の昼休みすら返上して働いた。彼らには奇異の目でわれわれの行動を見つめ、信頼の度を深めた獄の生活である。

ビルマ 戦犯者の獄中記 (73) 遠山良作著

12月17日 

―シンガポールへ出発―

 ビルマが英国植民地の支配から離脱して独立することになり、われわれ戦犯者はこの刑務所からシンガポールに移送されることになった。全員90名(内死刑囚は6名)である。過酷な2年余の獄中生活は、悲哀と苦悩の中に、戦友18名を絞首台に送った。今この刑務所を離れことは後ろ髪を引かれる思いである。さまざまな思い出は脳裏に交錯する。あの高い塀、獄の監視塔が見えなくなるまで振り返っては別れを惜しむ。

 ラングーン港の埠頭から貨物船に乗せられ、行く先は定かではないがシンガポールらしい。船はイラワジ河を南下する。見え隠れしていた島影も次第に視界から遠のいて行く。

 島かげの 白きパゴダ(仏塔)は イラワジの 河面に映して 陽は傾きぬ

 行く先も わからぬままに ラングーンの 獄舎をあとに 友等と発ちぬ

12月24日

 シンガポールに上陸し、高い塀に囲まれたオートラム刑務所に入る。所持品の検査が終わると死刑囚を除いて直ぐ作業の指示がある。現地の囚人たちに混じってレンガ運びである。12月とはいえ赤道に近いここの太陽の光は強烈である。敷き詰められたレンガの坂道は焼けるように暑いが、歯を食いしばって運ぶレンガは重く肩に食い込む。

 灼けつくる 赤きレンガの 坂道を 裸足にて ノルマのレンガ運びぬ

 オ―トラムの 獄は怖し 卑屈にも あたり窺い 小声にて語る

12月27日

 今日は朝から作業がない。全員集められ、この刑務所に残る者と、再びビルマに返される者とが分けられた。死刑を宣告されていた宮本さんは10年に減刑され、ビルマ組に加えられ、51名はビルマに引き返すことになる。親友田室さんは残留組に入れられる。親しい者との別れは辛く悲しいが、どうすることも出来ない。

 残留組の竹下少佐は「久米大佐は実に運の良い人であるからビルマに行く方がきっと良い」との言葉を残して去って行かれた。死刑囚5人を残してこの地を去ることは胸痛む思いである。彼らとの別れの言葉すら交わすことも許されぬあわただしい出発である。

 言葉さえ 交わさず別れし 死刑囚 急ぎオートラムの 獄を発ちきて

 

昭和23年1月2日

 再び来ることのないと思っていたラングーンの刑務所に着いた。奇しくも5年前のこの日は、北支那からラングーンに着いた日である。迎えてくれたビルマの看守も囚人たちも「マスターよかったビルマが一番よい」と言って歓迎してくれたことは有難い。余りにも苛酷なオートラム刑務所の数日の生活を顧みて安堵の胸を撫で下ろす。

 重壓の 船路を終へて 帰り来ぬ ビルマの牢に はしゃぎつつ入る

 容赦なき 英兵と離れて 来し獄の ビルマの人の 意外にやさし 

 
 

ビルマ 戦犯者の獄中記 (72) 遠山良作著

―戦犯裁判終わる―・・・2・・・

11月26日 

 この刑務所にはわれわれ刑を受けた者の外に、戦犯容疑者として取調べの中の者、外に証人として残された者も40数名、弁護団、残務処理のために残っている者、日本の逃亡兵等約80名全員は今日出所した。

 戦争、敗戦、刑務所との生活から解放されての出所である。彼らの喜びはいかまかりか。われわれは淋しさを隠して拍手で見送った。少人数ではあったが、最後までわれわれを励まし、支えてくれたことに心から感謝する。これからはどんなことがあろうとも、自分たちの力で幾年続くか分からない異国の牢獄で生きてゆかねばならない。

11月30日

 死刑囚を除いた者、全員雑房に移された。雑房とは木造二階建ての建物である。今までの戦犯容疑者が収容されていたところで、階下に4部屋、二階に4部屋仕切られ、1部屋に約30名位収容できる広さである。私たちは全員2階に入った。床は板張りであるから、コンクリートの独房と違う。また友と枕を並べて語り合うことが出来るからありがたい。それに空がとても広い、四方は塀に囲まれて外部を見ることは出来ないけれども、長い獄房生活者にとっては広い世界を見るようである。

 所内の景色をあきることなくいつまでも、いつまでも眺める。

 誰の顔を見てもホッとしたような喜びの笑顔である。死刑の宣告を受けて独房にいる戦友には本当に申し訳けない思いがする。

 白き雲 囲むがごとく 悠々と 鳶は舞いおる 獄の真昼は

 日もすがら 扉に寄りて 破れたる ただ一枚の 上衣つくろう

 そよ風の 流れゆくそき 黄色なる 木々の葉のひかり ああビルマの秋

 独房(ひとや)より 雑房移りて とまどえり わが目に映る 視野の広さに

12月16日

―絞首刑を執行された3名―

 戦犯裁判が終了したから、9名の死刑囚にも減刑になるのではないかとの希望もむなしく、葵生川(けぶかわ)、岩木、鼻野の3名の死刑が執行された。一人の英兵が10名が使役に出るように指示してきた。私たち10名は絞首台のある地に案内された。そこで太いロープで首を巻かれたままの3名を見た。執行されたばかりの遺体はまだ温かいが顔はむくみ、誰であるかの判別すら困難であるほど変わり果てた姿に止めどなく流れる涙でどうしょうもない。

 ロープを解いて用意された棺に死体をおさめて、トラックに乗せてラングーン郊外になる日本人墓地に運んだ。用意されて来た薪を積み重ね、その上に死体を乗せて、荼毘(だび)にする。いやな臭いの黒煙はあたり一面に立ち上こめて、彼らの魂があたかも天に昇って行くようである。

 英兵の指揮するインド兵10名が要所で銃を構えて監視している。彼らは戦友の遺骨を拾うことを許さない。しかし我が子の帰りを待っている御遺族のことを思うとなんとか遺骨なりとも御届けしなければならない。薪をくべるふりをしては監視兵の隙を見て少しずつ拾って持ち帰ることが出来た。

 「ああむごい」と首に巻かれし ロ-プ解く 刑死の君は 未だ温し

 体温の 残る刑死の 戦友を 抱けばむやみ 涙流れて

 識別の かなわぬまでの 貌(かお)となり 絞首刑受けし 友の死骸(なきがら)

 刑死せし 君の亡骸 荼毘にふす 黒き煙の 立ち込む中を

 死刑囚 戦友の遺骨(ほね)を盗むごと 広いてひそかに ポケットに蔵う

 処刑されし友 遺骨を葬りて 古き板切れ しるしに立てぬ

   

 

ビルマ 戦犯者の獄中記 (71) 遠山良作著

11月17日    

―屋(おく)軍曹に死刑判決―

「イエケース」として公判中の宮本曹長死刑(確定判決で10年減刑)、屋正義軍曹死刑の判決がある。屋軍曹は北支那の5期生で、北支那からビルマに転属し、任地は私と同じモールメン分隊であった。着任間もなく、イエ地区に降下した英軍の落下傘諜者の捜索のためジャングル地帯を4ケ月間共に捜索した仲である。その後彼は「タイ緬鉄道」の終着地、タンビザヤ派遣所に転任したが連絡のためモールメン分隊に時々出張して来た。

 インパール作戦に敗れ、戦況が不利になるにしたがって会う機会もなく、彼がイエ派遣所に移ったことも知らなかった

 彼がイエケースで起訴されたことを聞いて私は彼に尋ねた。

 「屋よ、起訴された事件は大丈夫か」

 「反乱軍の関係者を逮捕し、二人を殺した事件であるが、俺は殺していないから大丈夫ですよ」

 「だけどなあ、いままでの裁判の例を見ると、例え殺さなくとも証人より、指名されると危ないから十分気を付けてその対策をしろよ」と話したことがあったが、彼もついに死刑の判決を受けてしまった。彼の減刑をただ祈るのみである。

 戦友の 死刑宣告 聞きし夜は たかぶりわれも 目覚め更け行ゆく

 屋軍曹の辞世

 今更に 言う言の葉も なかりけり 我が逝くことも 運命なりせば

11月21日

­―戦犯裁判終わる―

 「メイミヨー」で行われていた戦犯裁判は17日橋本定曹長の判決を最後に閉廷したのに引き続き、今日ラングーンの公判廷も、浜部隊の佐々木憲中尉に20年の判決を下し閉廷した。顧みれば弓部隊のカラゴン事件に始まり、絞首刑、銃殺刑によって死刑が執行された者15名。今なお死刑の宣告を受けて明日にも刑の執行をされるかもしれない戦友9名が西独房で死に備えて、自分の思いを短歌に、詩にと遺書に綴っている。

 有期の刑を受けた者は今までに久米憲兵司令官外80名いた。

 このような結果で戦犯裁判が終了したことは、暗い所内にもほのかな喜びであった。

 

ビルマ  戦犯者の獄中記  (70)  遠山良作 著

11月22日    

―小田大尉、塩田中尉の死刑執行される前夜―・・2・・

―小田大尉、塩田中尉の死刑執行される前の夜―2時10分頃、塩田中尉から「皆さんの熱意ある言葉を聞いて安心して逝くことが出来ます。日本再建は必ず出来ると信じます。かつて独逸が第一次大戦に敗れた1年後、少年に将来何になるかと尋ねたところ、99%の者が「ソ連をたたくことだ」と答えたそうです。これがゲルマン民族の気概です。ところがそれ以上にまさる我々大和民族は、独逸が立ち直った以上に早く復興すると信じます。そして大和民族が再度この悲劇を繰り返さぬようにお願いします」との言葉がある。続いて2時30分頃から小田大尉が、11年間にわたる野戦勤務の想い出を語られる。

「昭和12年の春、2・26事件半ばにして満州に派遣され、14年の春、南支那に移り、16年春、福州作戦に参加、同年10月海南島に赴任し、サイゴン、泰国に平和進駐、そしてベッグ山系を越えて17年2月11日、紀元節の日にマンダレーに入り、シッタン作戦後、3月8日ラングーンを攻略(この間弓部隊に配属)、4月29日マンダレー作戦に参加し、この間門出中尉(現在少佐)と共に元ビルマ国家代表バーモ博士を救出した。その後雲南作戦に参加、6月龍陵分遺隊長、181月本部附となり、モービン県地区粛正討伐隊長として出勤した。この時の事件が今度の裁判で起訴され、今日の結果になったのです。その後、191月西南憲兵隊本部附となり、55師団連絡将校を1カ月やった後、特殊工作隊を編成し、それを指揮してバセイン、アラカン地区で勤務、20年5月転進作戦でベグー山系に入り、特殊工作神風隊と改名した。マンダレー街道を突破する友軍のために情報収集及び地形敵状偵察等の任に当たる。

8月26日、初めて終戦になったことを知り、直ちにモールメンに赴き、10月11日、武装解除され、2、3日後、久米司令官たち5名と共に飛行機でこの刑務所に移送された。私が神風隊長の理由で独房に入れられたが、そのことは何もなかったので、翌年(21年)11月独房から出された。この時はほっとした。そして生きて内地に帰れると思い本当に嬉しかった。―中略―

自分の人生観は(朝に紅顔ありて、夕に白骨となる人の一生)の要旨を語られる。―中略―

2時50分頃、清水中尉は「塩田さん、腹の具合は如何ですか」

塩田「もう大丈夫です。明朝は火葬で完全消毒して行くんだから、「アミーバ」でも大腸炎でも大丈夫ですよ。それに英軍の親切ですよ。あの世に行くのに予防接種までしてこれるんですからねアハッハ!」

今度は葵生川准将が「塩田さん一度聞こうと思ってわすれていたけれど・・・」「何かね」「一寸言いにくいね。フフフ、言っちゃおうか。貴方の妹さんのことだよ」

塩田「ああ妹かね。あれはまだ小さいから使いものにならんよハハハ」「小さいから可愛いいでしょう」と、葵生川さんの声

―中略―

4時10分頃、小田「今日、死刑の言い渡しを受けて帰る時、SK(印度人)に会って、永い間有難うと言ったら、お国のためだから安心して行って下さいと逆に激励されたよ。井出、後からよろしく言っていたと伝えてくれよ」

小田「井出、恩を忘れるな。三恩をな。君の恩、親の恩、師の恩を。師は小学校の時の先生が一番良い。人間としての基礎を作ってくれたのだから。そのことを大野当房、塩田たちにも伝えておいてくれ。そして屋には最後まで希望(減軽のこと)を持って頑張れと言ってくれ」

このとき5時を知らせる時報が鳴る。

5時8分頃、小田大尉から「じゃ「君が代」を始めてください」

塩田「お願いします」

森元「承知しました」と答える。森元准将の音頭により全員で『君が代』『海行かば』を各々2回合唱する。

小田「今度は二人だけで『海行かば』を歌います」と言って二人合唱さる。

小田「平素の気持ちと変わりありません。ただ神様と阿弥陀如来が迎えに来ているような気がします。8棟や東独房の方々にも長い間いろいろとご迷惑をかけました。皆さんのご厚情と真心を抱いて笑っていきました、と伝えてください。どうも皆様ありがとうございました」

塩田「長い間いろいろ無理なお願いも聞いていただき、どうも有難うございました。二人は笑っていきました、と皆さんにも伝えてください」

5時45分頃、小田「決して悲しまないでください。笑って送ってください。万歳は縛られる前にします。井出、いよいよお別れだな。君からもらった水を末期の水に飲んで行くよ」

このとき所長が来る。両官は所長と何か話しておられるが声が低くて聞き取れない。暫し沈黙、房内の者はみな息をひそめ、時の経過を待つ・・・。

5時56分頃、両官は声高く「万歳」を三唱、一同もこれにあわせて「万歳」を唱える。

両官「さようなら」の最後の言葉を残して房を出る。各人直立身を固くして息をのみ、去り行く両官の足音のみを聞く。

両官は房を出られるに際して、次の辞世を朗詠される。

祈りつつ 死に行く吾は 霊となり 永遠に護らん 皇御国を

6時、早朝の静寂を破って冷酷な踏板の落ちる音が響く。全員万歳を以てこれに和す。 

 

ビルマ

  戦犯者の獄中記  (69)  遠山良作 著

11月22日    

―小田大尉、塩田中尉の死刑執行される前夜―

モービン討伐ケースで死刑を宣告されていた小田大尉、泰面鉄道ケースで死刑の宣告を受けている士官学校出身の若い塩田中尉の死刑を執行される前夜の記録(筆記者不詳)は次の通りである。

 西独房20号に小田大尉、塩田中尉、清水中尉、橋口准将の4名、向側1号房には宮本、岩城、葵生川准将、鼻野、屋(おく)曹長がいる。19号には菅原、渡辺の両准将(いずれも絞首刑の宣告を受けているものである)は15時30分頃夕食を食べ終わって雑談していた。そのとき英人曹長たち3名が房に入って来た。そして「キャプテン小田、リュテナント塩田」と両名の名を呼んだ。呼び出しを受けた両名は「とうとう来たか」と言いながら彼等に従って房を出た。刑の確定判決を受けるためである。16時頃両名とも死刑確定の言い渡しを受けて帰って来る。両名は房の廊下を歩きながら各房にいる友だちに「永い間お世話様になりました。今晩が最後になりましたからお願いします」と挨拶される。

 小田大尉は10号、塩田中尉は11号と向かい合った房に移された。衛兵が帰ると間もなく塩田中尉は「小田大尉殿、仲よく行きましょう」と言う。

小田「ああ、仲よく行きましょう。今日はなかなか親切だったね、何もせずここまで連れて来たなあ」と両名とも声高く笑う。

 一寸間をおいて、

小田「オーイ井出いるか」「ハイ」と答える井出准将。

小田「書いたものやその他の品は新山大尉に渡してもらってくれ。森本君はどこか」「ハイ15号です」「今晩は頼むぞ」「ハイ承知しました」との会話が続く。

塩田「塩田の歌集やその他の品は橋口さんに言って、菅野少佐殿に渡して下さい」「ハイ承知しました」との返答がある。

 16時10分頃、英人曹長以下5名が来て両名を連れ出した。5分ほどして帰り廊下を歩きながら各房に向かって、小田大尉は「今晩は演芸を頼むぞ」と声をかける。塩田中尉も「お願いします」といいつつ元の房に収容される。

 衛兵が去ると井出准将が「今、何処に行かれましたか」「ああ、一寸体重を図りに行って来た」と小田大尉の返事がある。

 16時20分頃、小田大尉「印度人通訳ワタン(戦犯調査委員会通訳)が来て「お国のためだから安心してください」と言うから「お前たちにそんなこと言われなくとも、俺たち日本人には、ちゃんと覚悟は出来ている。でたらめな通訳ばかりしていらんことを言うな」と言ってやったらすごすごと帰って行ったよ・・・)と笑われた。

16時25分頃、刑務所長(印度人)が来て「何か頼むことはないか、欲しいものがあれば出来る限りのことはするから遠慮なく言ってくれ」

小田「一晩中話をすることを許可してほしい。そしてそのことを衛兵司令に伝えておいてほしい」と申し入れる。所長はそれを承諾した模様であったが、後の言葉は雑音で聞き取れない。そのとき菅野少佐と共に英人将校が来たが会話の内容は聞き取れない。

16時30分頃、西独房の者全員が漸次面会する。東独房から久米憲兵司令官たちが面会に来る。雑房からも原田少佐たち10名もそれぞれ最後の面会をする。所長はこれに立ち会い、17時30分頃帰った。暫く二人は無言であったがやや経ってから、「これで満足した。皆さんに会えてこんなに嬉しいことはない」と言われた。

17時40分頃、菅野少佐が桃の罐詰を持って来て分配しながら何か話しをしているが聞き取れない。―中略―

18時40分頃、小田大尉は房にいる全員に明朝出発の行事として、5時に私たちは遥拝をします。そして、「君が代」「海行かば」を各々2回歌います。万歳は房を出る直前に致しますから御承知下さい。歌の音頭は森本君に取っていただきたいと思います、と言われる。

19時頃より井出准将の進行係により演芸会が始まり房内は賑やかになる。

22時20分頃、全員の心からのはなむけの演芸会に応えて、塩田中尉は「二・二六の歌」自作の歌を謳われ、次いで辞世の歌を朗詠される。

あたたかき 友の情に うるおいて 心豊かに 我は逝くなり

身はたとえ 断頭台に 消えるとも 永遠に生きん 真心もちて

引き続いて小田大尉は、都々逸、詩吟、正気之歌、自作の「転進行」などを歌い、辞世の歌を朗読される。

皇国の 悠久平和を 祈りつつ 南の涯に 我は散り逝く

悠久に皇御国(すめらみくに)の新代を 興されかしと祈りつつ逝く

そして「内地に帰るもの者は戦犯をよく理解して帰り、祖国再建に尽してもらいたい」と言われた。―中略―

23時両官は「余り遅くなると皆様にもご迷惑だからこの辺で切り上げて下さい。長い間有難う御座いました」との謝辞があった。

清水中尉「時間の心配はありませんから続けましょう。そのかわり遅くなったから拍手だけは止めましょう」と提案される。2時ころまで演芸会は続けられる。

=東独房のスケッチ=

 

ビルマ

  戦犯者の獄中記  (68)  遠山良作 著

―「メイミヨー」の公判廷―・・・3・・・

11月4日・・2・・    

―東 登大尉、中山伊作少尉の最後の日・・2・・

―死刑者東大尉、中山少尉最後の夜の語らいは続く―

(両官ともしばらく静かになる)

中山 「何を考えていましたか」

東  「いや何も考えていない。ただ今日のことは夢のようだ」

中山 「そうですね。夢です!今までのことはみんな夢ですね。人生は夢の如くですな。分隊長、あれは仕上げましたか」

東  「うん仕上げた。創作的に書こうと思ってみたがやっぱりそういう風に書くと文学的能力がいる。何しろ自分の一生涯を書くのだからちっとも飾らずにありのままを書き表そうとしたのだから大分苦労をしたがようやく仕上げた。それに歌のほうも仕上げた」

中山 「それは良かったですね。私も一生涯を、生まれてから現在までの状況を詩によって書きました。将来、子供が見て父親がこんな人生航路を歩んで来たか、と見て何かの役に立てば良いと思っています」

  (すこし間を置いて)

東  「中山君、俺と君とは長い間いっしょに勤務したが俺は己の全能力を発揮して勤務したことはなかったよ。司令部にいる時、分隊にいた時、全智、全能を発揮して勤務したことはない。実に情けないことである。俺の力の半分位出したかな・・・、何しろ仏印時代は俺の花だったし、活躍の舞台であった」

中山 「そうですね。実に仏印時代は花でしたね。いろいろの面でも思い出の多い地でもありましたね。ところで今夜は皆さんに私たちが余り沈んでいてはいけないから演芸会をしてはどうでしょうか」

東  「うん、それは俺も考えていたことだ。所長が来たら頼んでみよう」

   7時50分演芸会に移る。両官のために、軍歌、和歌等を贈る。

 特に千葉の「子守歌」には感無量であると言われた。

 中山少尉は詩吟。西郷南州、摘流を吟ずる。

東  「私の心境は何一つわだかまりなくて本当に安らかです。既に逝かれた緑川大尉(カラゴン事件で死刑)の彼のあの暁の心、今晩は心から喜びに満ちております。それ以外なに物もありません。これひとえに戦友諸氏の大いなる愛情と、刑務所長たちの好意のお陰であると感謝します。みなさんの真心ある今度の演芸会、これはまた厚く御礼申し上げます。数限りなき愛情に満ちたこの気持を歌でお答えします」

  限りなき 人の情けに つつまれて 今宵の心 みちてあかるき

一段と声を張り上げて、日本再建の道について語られた。その要旨は「日本再建は重大かつ困難である。敗戦によって国民全般はその本来の伝統精神の退廃を見たが、それは敗戦の衝撃により生じた一時的現象であると思う。真の日本人はそれではいけない。また本来の日本精神は戦友諸氏によって生きているから安心して逝ける。帰還されたならば祖国再建のために、愛と誠に徹して奮闘努力して下さい。“欲望と私心を捨てよ”真の意味において真の愛は祖国再建をなし得る唯一の道である。これによってのみ祖国は栄えるのであると信じて疑わない。武力、全力で繫栄したならば、再び今日の如き悲惨な轍を踏む。「非理法権天」の道、即ち「人の道だ、愛だ誠だ」。

 畏くも詔書に明らかに示されてある。世界人類の普遍の原理であるこの大理想による以外に日本再建の道はない。私たち日本人は今次の敗戦によってこの反省が出来たのだ。日本は古きより愛の国である。武力再建は夢だにも思ってはならぬ。再び今日の悲劇の歴史を繰り返してはならぬ」。

 辞世として

 新しき 国のかためと 散りて逝く 吾が行く道は はげしくとも楽し

中山 「このような皆様の愛情に答えて私の偽らざる気持ちを申し上げます。死刑の確定の言い渡される前には、いささか心配で悩みもしました。が、今は非常に安らかな気持ちです。大野君以下7名は減刑になった。これらの若い方々の減刑はかねて願っていた。それが叶って本当に嬉しい。今日まで人生最高の体験をされたみなさんの祖国再建に力強さを覚えます。

 中山少尉の辞世

 吾は今 南の涯に 朽ちぬとも 永久に護らじ 皇みくにを

 東大尉は斎藤曹長に対して

 「この鉄格子の生活は誠に尊い得難い人生修養道場だ。ただ単に小説や諧きや雑誌等に読み耽けることなく、たとえ一日にひとこと、五分でよいから将来の日本再建を如何に計るかの大理想を語るべきである」と言われた。

 その後両官はお互いに幼き頃の思い出話をされた。

 12時を過ぎた。中山少尉は「みなさん眠いでしょうから寝てください」と言われる。3時頃、桧垣曹長は、「分隊長殿、桧垣がお宅に行きますから安心してください」

東 「有難う。遺族の者にこの状況を知らせてくれ。桧垣よ、小説やくだらない雑誌はなるべく読むなよ。論語か、役に立つ本を読んで人格の完成につとめよ」

 5時頃、私は(この記録の筆記者井出准将)両官に白い花を一枝ずつ贈った。東大尉はこれにこたえて。

 贈られし 葉末にとまる コオロギの 小さきひとみに 吾は語りぬ

東  「中山君そろそろ準備をしなければならないよ」

中山 「はい、承知しました」

5時20分 両官と全員で「君が代」と「海ゆかば」を合唱する。

5時40分 英人2名監房に入って来た。開錠の音が聞こえる。この時両官は万歳を叫ぶことを認められず、直ぐに連れ出さんとするものの如し。両官は「今ゆくぞ」と叫ぶ。突如、「天皇陛下万歳」を叫ぶ声がする(英人執行官烈しく制止する)。全員これに続いて万歳を三唱する。

5時50分 絞首台において中山少尉は天皇陛下万歳を一唱、おわらないまま余韻を残して踏台は落とされ「バタン」と不気味な音が響いてきた。

 整頓された空房に残された湯呑に差してある白い花の一枝は、生き生きとしてあたりに香りを漂わせていた。

 11月10日

 神野中尉たち3名を絞首台に送って以来、死刑を宣告された者は全員西独房収容されるようになったので、この棟(東独房)には有期刑の者ばかりである。したがって監視も緩やかになり、棟の外にある空き地を利用して野菜を作ることを許可してくれた。狭い独房に閉じこめられて生活していた私たちにとっては、棟の外はとても広い感じがする。

 雑草の覆い繁る荒地に裸足で踏み込むと朝露でひんやりと冷たい。力一杯振り下ろす鍬に驚いたコオロギが飛び出す。常夏の国にも秋の訪れを知る。運動不足で体力は弱っているので、直ぐ吐く息は荒く額からホトホトと流れる汗は目に口に入る。しかし本当に気持がよい。生きていることの実感が湧いてきた一日であった。

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
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「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
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「著者のことば」より
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定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
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 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
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鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
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おすすめ本

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さんびか物語
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讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
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