2018年4 月 月号 №128 通巻814号 号

解説 ウエストミンスター信仰告白(68)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

第31章 地方会議(シノッド)と総会議(カウンシル)について

・・・2・・・

3 信仰についての論争と良心の問題を決定すること、公的神礼拝と神の教会の政治とをより良く秩序付けるための規則や指針を定めること、失政の場合に告訴を受けること、それを権威をもって裁決することは、代理的に地方会議また総会議に属する。その決定や制定は、神のみ言葉に一致しているならば、それが神のみ言葉に一致しているためだけでなく、それを下した権能のためにも、尊敬と従順をもって受け入れられなければならない。その権能はみ言葉において命じられた神の規定だからである(1)

  1 行伝15:15,19,24,27-31、行伝16:4、マタイ18:17-20


三 この項は、信仰について、良心の問題、公的神礼拝と教会の政治に関する規則や指針、失政に対する告訴を受けた時の裁決や決定については、この会議の決定のみが教会の権威ある命令となりえる。従って、如何なる個人であっても教会員一同に向かって、命令的指揮権は与えられていない。また、会議の決定であっても、み言葉に合致しない裁決・決定は、誰の良心をも束縛しえない。

4 使徒時代後のすべての地方会議または総会議は、世界的会議であっても地方会議であっても、誤りを犯しうるし、また多くの会議が誤りを犯した。それゆえ、会議は信仰と実践の規準とされてはならず、両者における助けとして用いられるべきである(1)

  1 エフェソ2:20、行伝17:11コリント2:5コリント1:24

四 個人が指揮者となれないとともに、会議も決して無謬ではない。

 三項と四項は、ローマ・カトリック教会が犯してきた歴史的事実にもとづく反省と言えよう。国家においても近代に至って、独裁制の悲劇が再三深刻な教訓を残したと共に、議会制も決して満足すべき効果を上げていないことをわたしたちは体験しつつある。

 教会は聖徒の交わりとして、聖霊の導きに浴していても、研究不足であり、体験は未熟である。常に聖書によって改革されて行くことへの熱心を鈍らせてはならない。前車のタイヤの跡は、用心深く参考にする心がけを伴わないと破滅に至るおそれがある。

 

5 地方会議や総会議は、教会的な事柄以外の何事も取り扱ったり決定してはならない。また非常の場合における謙虚な請願として、あるいは国家的為政者から求められた場合には良心の満足のための助言として以外は、国家に関係している世俗的事件に干渉してはならない(1)

  1 ルカ12:13,14、ヨハネ18:36

五 これは非常に大切な告白である。教会の会議がどれほど大規模であっても、教会的な事柄を、教会的な見地から取り上げるのでなければ、学問や政治の領域への越権となる。もしそうすれば、当然教会の一致を損ねる結果ともなろう。米国南長老教会が北と別れて一個の教派を結成した創立大会で、世界の諸教会に向かって発表した宣言を私はよい意味で手本とすべきだと考えている。

 そこでは教会が一致をよりよく保ち行くためには北と南が別々の教派として独立した方がよいと判断された。教会的事柄での論争はあくまで聖書にもとづいて議論するのはよいが、政治的課題で論じ合うよりは分かれた方がよい。今日の教会は社会問題に関心を持たざるをえない事情において昔日の比ではないけれども、この一項は十二分に考慮しなければ、教会本来の任務をおろそかにすることになりかねない。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(67)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

 

第31章 地方会議(シノッド)と総会議(カウンシル)について

・・・1・・・

1 教会のより良い政治となお一層の建徳のために、普通に地方会議または総会議と呼ばれるような会議が、当然あるべきである(1)

  1 行伝15:2,4,6

一 日本キリスト改革派教会旧政治基準第33条には「教会の統治権能は会議に出席せる教師及び長老によって運営され、それは個々によって分立することなく、常に一つの統一される権能なり。而して、これ等の会議は一個又は多くの教会の上に権能を有するものなれども常に教会間の一致の理念を実現するよう、相互関係を有するものなり」とある。

 これに対して、現在のそれは、第5条(教会会議)教会の法治権(教会権能)は、連帯的かつ平等の権能であり、大・中・小会において、議員である教師と治会長老が行使する。各会議は、その固有の権能を持つが、相互関係は失われることなく、全教会の一致の精神を実現している。第51条(教会会議の議員)教会、正規の段階を持つ会議によって統治される。これらの会議の議員となりうるのは、教師と治会長老である。また第83条(中会の議会権能と任務)、第97条(大会の議会権能と任務)の中に反映されている。

 この項では、大・中・小の会議よりも、大会及び数個教派の連合会議を意味している。このシノッドは、数個中会の一定の永続的組織として定期に持たれる大会のようなもののみでなく、ある特定の目的の下に、その都度開催される連合的会議(例えばドルト会議のようなもの)をも含むと思われる。

 

2 為政者が、宗教の問題について協議しまた助言するために、教役者やその他の適当な人々の地方会議を合法的に召集できるように(1)、もし為政者が教会に対する公然の敵であるなら、キリストの教役者らは、彼ら自身で、彼らの職のゆえに、あるいは彼らの教会からの代表団である他の適当な人々と共に、このような会議に会合することができる(2)

  1 イザヤ49:23テモテ2:1,2、歴代下19:8-11、歴代下29章、30章、マタイ2:4,5、箴11:14
  2 行伝
15:2,4,22,23,25

1787年合衆国長老教会総会改訂「教会のより良い政治となお一層の建徳のために、普通に地方会議または総会議と呼ばれるような会議が、当然あるべきである。そして、このような会議を定めること、また教会の益のために当を得ていると判断する都度これを召集することは、その職務と、破壊のためでなく建徳のためにキリストから与えられた権能とのゆえに、個々の教会の監督者やその他の統治者たちに属する」。日本基督改革派教会第4回大会採択〕


二 本項は、米国長老教会総会で大いに改訂されているが、歴史的にはウエストミンスター会議そのものは、本項の前半の条文通りに召集された会議の好例であり、スコットランド自由教会が結成されたときは、教職者のみの二百数十名で会議が形成された。この場合の聖書的根拠は使徒行伝15章2節にある。これらの点で原則は必ずしも守られてこなかった。非常事態に対処する必要上止む得ない場合である。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(66)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

 

第30章 教会の譴責について

 4 このような目的をより良く達成するために、教会役員は、犯罪の性質と犯罪者の過失に応じて訓戒・主の晩餐の礼典からの一時的停止・また教会からの除名などの処置をとらなければならない(1)

  1 テサロニケ5:12テサロニケ3:6,14,15コリント5:4,5,13、マタイ18:17、テトス3:10

 

四 ここには、譴責の種類が軽いものから重いものへと順番に記されている。教会の政治の性質に応じて、その罰則は、どこまでも、肉体的苦痛を伴うべきものではなく、また、除名以上に過酷なものは存在しえない。

 日本キリスト改革派教会の政治基準第12条には

 「教会権能は全く霊的であって、二様に行使される。2 役員がこの権能を、職制によって個別的に、福音の宣教・礼典の執行・過誤の戒告・病者の訪問・悩める者の慰安において行使するとき、これを職制権能という。 3 役員がこの権能を、同等の資格で共同的に、教会会議において教会規程に従って行使するとき、これを議会権能、または法治権という」とある。

 

<付注>

 神は人類社会の唯一の統治者である。しかし人類社会には二つの別の領域があって、その統治の性質が異なっている。これは人間が霊魂と肉体という二つの性質の異なった要素からできていることに対応する神の立てた秩序である。現在、日本では教会に当たる霊的秩序が甚だしく不統一(と見えている)であるので、国家的スケールに対して云々できる程強大な勢力だと思われないが、それは異教世界、多神教社会の必然的な不統一性の現われに過ぎない。

 パウロがローマ人への手紙116節で言っている福音の力のスケールからは、むしろローマ帝国に匹敵する世界教会が念頭にあったと思われる。中世ヨーロッパはそのようなスケールで国家的統一と教会的統一が並んで進行した。近世になって、民族国家が成立すると時を同じくして、教会もそれぞれの自治社会に、それぞれの教会、教派が発生した。ウエストミンスター信条が作成された当時の歴史的状況は、このような国家権能と教会権能の相互独立という真理が、明確に自覚された時代あることを先ず念頭に置く必要があろう。

 一方は外的人間の統治、他方は霊的人間の統治。

 確かにその統治権の性質は根本的に別であるが、それが統治であることに変わりはない。従ってこの統治者(統治権をゆだねられた役員)とその組織は一人二役ではなく別個である。

 この事実を明確に自覚したのが長老教会・改革派教会の教会観、教会と国家に関する教理である。

 教会政治には大別して3つの原則を主張するグループがある。

 1 監督制、その一番右翼が法王制である。

 2 会衆制、その左翼が独立教会制。

 3 は両者の中庸をとった長老制。

 しかし、無教会主義や個人主義的信仰を主張する人々には、教会の統治制度そのものが不必要と考えられている。霊的事柄には統治制度というような地上的権力の入り込む余地はないと思われている。

 しかしわたしたちは、聖書の中に、長老制の原則的実施が既に存在している事実を認め、また霊的と言っても、地上の人間が肉であることを自覚する以上、この統治の存在意義を確信するところである。

 特に、生活における教会の一致・純潔を保持する上での、一定の訓練戒規の必要性を信じている。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(65)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

第30章 教会の譴責について

1 主イエスは、教会の王またかしらとして、教会に、国家的為政者とは別個の教会役員の手にある政治を定められた(1)

  1 イザヤ9:6,7(5,6)テモテ5:17テサロニケ5:12、使徒20:17,28
    ヘブル13:7,17,24コリント12:28、マタイ28:18-20
一 主なるイエスは、教会政治の主権者であり、教会の役員は主よりその政治の権能を委託された教会的為政者である、という告白である。(主イエスは教会のかしらであるばかりでなく主である)。

 

2 これらの役員に、天国のかぎが委ねられている。そのゆえに、彼らはそれぞれ罪をとどめ、またゆるし、悔い改めない者に対してはみ言葉と譴責とによってみ国を閉ざし、悔い改めた罪人には、その場合の必要に応じて、福音の奉仕や譴責の解除によって、み国を開く権能をもっている(1)

  1 マタイ16:19、マタイ18:17,18、ヨハネ20:21-23コリント2:6-8

二 マタイによる福音書16章19節にある「天国のかぎ」に関するわたしたちの解釈が、ここに告白されている。まず、この「かぎ」をキリストから委託されている人間とは、教会の役員たちのことである。次に、「天国のかぎ」とは、見える教会における秩序上の入会、除籍の権能である。また、教会員を教会のうちに守り養う必要上、彼らの誤り、罪、不遜などに対して加える戒規・訓練の機能も、これに含まれている。

 そこには「閉じる権能」と「開く権能」とがあり、前者は、悔い改めない者への譴責であり、後者は、悔い改めた時の譴責の解除と福音の宣教による入会許可である。

 

 3 教会の譴責は、罪を犯している兄弟らを矯正し獲得するため、同様な罪を犯すことを他の者に思いとどまらせるため、また塊全体を感染させるあのパン種を一掃するため、キリストの名誉と福音の聖なる告白を擁護するため、またもし神の契約とその印証とが極悪の頑固な犯罪者によって汚されるままにしておくならば正当に教会にくだる筈である神のみ怒りを防ぐために、必要である(1)

  1 コリント5章、テモテ5:20、マタイ7:6テモテ1:20コリント11:27-34、ユダ23(*)
     *コリント11:27-34をユダ23と比較


三 ここには、譴責の必要な理由が列記されている。それは、第一に、当人を悔い改めに導くためであり、決して放逐し去ることではない。第二は、その悪しき行為を教会内に感染させないためである。第三は、禍根を絶って教会の聖潔を守るため。第四は、キリストのみ名が汚され、あるいは、キリスト教信仰が真理であることに疑いをかけられないため。第五には、神の怒りと呪いがそのことを通して教会の上に加えられることを未然に防ぐためである。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(64)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

 

第29章 主の晩餐について・・・3・・・

6 パンとぶどう酒の実質が、司祭の聖別あるいは他のどのような方法ででも、キリストのからだと血の実質に変わると主張する(普通に化体説と呼ばれる)教理は、聖書に反するばかりでなく、常識にも理性にも反し、礼典の性質をくつがえし、従来も現在も様々な迷信、否、ひどい偶像礼拝の原因である(1)

  1 使徒3:21コリント11:24-26(*)、ルカ24:6,39
    *使徒3:21コリント11:24-26と比較


六  前項までのローマ・カトリック教会の教理への非難の結論である。「常識にも理性にも反し」との批評は、最大の軽蔑の言葉であろう。やや、ローマ・カトリック教会の理性観を逆用して、とどめの攻撃を加えた感がなくはない。

 

7 ふさわしい陪餐者は、この礼典において、見える品々にあずかりつつ(1)、信仰によって現実にまた実際に、しかし身体的また肉的にではなく霊的に、十字架につけられたキリストと彼の死のすべての祝福を受け、またそれに養われる。その時キリストのからだと血とが、身体的または肉的にパンとぶどう酒の中に、またそれらと共に、あるいはそれらのもとにあるわけではないが、この規定において、品々そのものが信者の外的感覚に対すると同じように現実に、しかし霊的に、信者の信仰に対して存在する(2)

  1 コリント11:28
  2 コリント
10:16

七 ここで初めて、積極的な主の晩餐の聖書的なあり方が述べられている。すべては霊的であって、しかも現実にキリストとこの贖いの祝福が、この礼典において存在し、与えられていると言う一点にかかっているのである。

 

8 無知で邪悪な者がこの礼典において外的な品を受けても、それによって示されているものを受けないばかりか、彼らがふさわしくないままでこれに近付くことによって、キリストのからだと血とを侵し、自分にさばきを招くのである。それゆえ、すべて無知で不信仰な者は、キリストとの交わりを享受するのに不適当であるから、主の食卓にあずかる値打ちがないし、彼らがその状態を続けている限り、キリストに対して大罪を犯すことなしにこの聖なる奥義にあずかり(1)、あるいはあずかることを許されることはできない(2)

  1 コリント11:27-29コリント6:14-16
  2 コリント5:6,7,13テサロニケ3:6,14,15、マタイ7:6

八 この礼典の意義を正しく教えられていない者は、陪餐の資格ないこと。従って陪餐が禁じられているとともに、誤って、あるいは、あえてこれにあずからさるならば、かえって「キリストのからだと血とを侵す」ことによって、主より罰せられる、ということは大切な点である(Ⅰコリント11:29参照)。
 

解説 ウエストミンスター信仰告白(63)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

第29章 主の晩餐について・・・2・・・

4 個人的ミサすなわち司祭またはその他の者からひとりでこの礼典を受けることは(1)、会衆に杯を与えることを拒むこと、品々を礼拝すること(2)、崇敬のためにそれらを持ちあげたり持ち回ったりすること、偽りの宗教的用途のためにそれらを保存することと同様に、すべてこの礼典の性質とキリストの制定に反する(3)

  1 コリント10:16
  2 マルコ14:23コリント
11:25-29
  3 マタイ
15:9

四 前項に引き続き、ローマ・カトリック教会の教えや、やり方を具体的に非難している。その基礎的な誤りは、第一にパンがキリストのからだに変化する、という教えであり、「これはあなたがたのための、わたしのからだである」(Ⅰコリント11:24)の「である」を字義通りに解釈するために生じた無理がある。ルター派も、この点にこだわったために迷信から十分には逃れきれなかった。第二に、前述のように、ミサを犠牲とする考えである。第三は、品々を礼拝しること(これは第一の点より来る直接の結果であり、ルター派ではキリストの人性を礼拝すると考える)。第四は、さかずきを一般信徒には分け与えないこと(マタイ26:27の「みな、この杯から飲め」は11使徒に言われたと理解している)。第五は、個人的ミサで、第四のことに関係して、司祭だけで別個に式を守ることは、聖俗二元論であり、他は第一点の延長である。

 

5 キリストによって定められた用途のために正しく聖別されたこの礼典における外的な品は、真に、しかしただ礼典的にそれらが表わしているもの、すなわちキリストのからだと血という名でしばしば呼ばれるような関係を、十字架につけられた方に対して持つ(1)。しかしそれらは、その実質と性質とにおいては、依然として前と同じように、真実に、ただパンとぶどう酒のままである(2)

  1 マタイ26:26-28
  2 コリント11:26-28、マタイ
26:29

五 この項では、前述のローマ・カトリック教会の基本となっている化体説を具体的に非難している。パンはパンであり、ぶどう酒はぶどう酒であることに終始変わりがない。ただ、礼典が正しく信仰的に執行されている時には、この品々は主イエスの血と肉とのサクラメンタル(礼典的)な一致関係にあるから、パンがキリストの肉と呼ばれ、ぶどう酒がその血と呼ばれる。しかし、「である」は、どこまでも「引証・保証」の意味である。従って、キリストそのものよりも、キリストの贖いの祝福を意味し、また、与える効力を持つものである。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(62)

        岡田稔著

     (元神戸改革派神学校校長)

第29章 主の晩餐について・・・1・・・

1 わたしたちの主イエスは、渡される夜、主の晩餐と呼ばれる彼のからだと血との礼典を制定され、彼の教会において世の終りまで守るべきものとされた。それは、彼の死によるご自身の犠牲を不断に記念するため、その犠牲のすべての祝福を真の信者に保証するため、彼らのキリストにある霊的養いと成長のため、彼らがキリストに対して負っているすべての義務を更に履行するため、またキリストの神秘的からだの肢体としての彼らのキリストとの交わり、また彼ら相互の交わりのきずなと保証になるためである(1)

  1 コリント11:23-26コリント10:16,17,21コリント12:13

一 これは、主の晩餐の定義である。その目的・効用を詳記することによって、プロテスタント教会に生じた最初にして最大の論争点に関する改革派教会の教理を明確に告白している。ルターは「パンとともにキリストのからだでもある」と言い、ツイングリーは「単なる記念のみ」であると言うのに対して、カルヴァンは「記念とともにキリストは霊的に臨在する」と言っている。

 ルターは後年、このカルヴァンの表現が、たしかに適切な中庸であることをもたらした―というように、最近刊行の一教理史の本は記している。ここに表明されているところは、まったくカルヴァンの所説に基づく教理である。しかし、ローマ・カトリック教会の教えが直接の論争の相手であるから、以下、主にその誤りを指摘する言葉で満たされている。

 

2 この礼典において、キリストが、生きている者または死んだ者の罪のゆるしのためにみ父にささげられるのではなく、またどのような現実の犠牲がなされるのでもない(1)。それは、キリストが自らご自身をただ一度だけ十字架にささげられたことの記念、またそのため神にささげうるすべての賛美の霊的ささげ物にほかならない(2)。それゆえ、いわゆる教皇主義的ミサ犠牲は、選民のすべての罪のための唯一のなだめの供え物であるキリストのただひとつの犠牲にとって、最もはなはだしく有害である(3)

  1 ヘブル9:22,25,26,28
  2 コリント11:24-26、マタイ
26:26,27
  3 ヘブル7:23,24,27、ヘブル
10:11,12,14,18

二 この項は、ローマ・カトリック教会のミサに対する非難である。ローマ・カトリック教会の宗教を迷信ではないと思い、有害であることに気づかない人は、この一事に注目すべきである。ローマ・カトリック教会の礼拝の中心はミサである。ミサは、主の晩餐の根本的な迷信化である。神父が司祭と呼ばれるのは、ミサを司るからである。ミサは天主に向けて、もう一度キリストのからだを献げる儀式である。そして、その効果は罪人のためのなだめの儀式(旧約時代の神殿のそれと同様)が、実際、そのたびに献げられるというのであり、さらに、それが死人のためにもと主張されているのである。

 宗教改革者が憤りを爆発させたのは、決して誤りではない。その意味で主の十字架と、主の晩餐とが実質的に同一の意義を持つ事柄だと考えてはならない。その意味で主の十字架は一回だけで完全である(へブル9:12)。そして、主の晩餐は、それの永続的記念に過ぎない。主の晩餐でなされる神への供物は、ローマ人への手紙12章以下に言われている「信徒の献身」のことである。

 

3 主イエスは彼の教役者に、この規定において、礼典制定のみ言葉を会衆に宣言し、祈り、パンとぶどう酒の品を祝福し、それによってこれらのものを普通の用から聖なる用に聖別すること、パンを取って裂き、杯をも取り、(彼ら自身もあずかりながら)陪餐者に二品を与えること(1)、しかしその時に列席していない者にはだれにも与えないことを命じられた(2)

  1 マタイ26:26-28、マルコ14:22-24、ルカ22:19,20コリント11:23-26(*)
     *マタイ26:26-28とマルコ14:22-24およびルカ22:19,20を、コリント11:23-26と比較

  2 使徒20:7コリント11:20

三 この項は、主の晩餐の執行の仕方を示している。同時に、誤った気ままな仕方を排除している。特に、ここで二つの誤りが指摘されている。① 教職者だけで、別にこれを守ること。② 私的ミサ、すなわち、病人など欠席者を訪問して、この一部を使用し、ミサにあずからせること、である。 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (61)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第28章 洗礼について・・・3・・・

5 この規定を侮り、あるいはなおざりにすることは、大罪ではあるが(1)、それなしにはだれも再生させられ、あるいは救われることができないとか(2)、受洗者はみな疑いもなく再生させられるといったように、恵みと救いがそれに不可分に付加されているのではない(3)

  1 ルカ7:30、出エジプト4:24-26(*)     *ルカ7:30を出エジプト4:24-26と比較
  2 ロマ4:11行伝10:2,4,21,22,31,45,47(*)
     *行伝10:2,4,22,31,45,47が正しい。1648年(第3版)には10:21は含まれていない。

  3 行伝8:13,23


五 本項は、洗礼に対する合理主義的な解釈とともに、迷信的な考え方を排除している。人はいつも、これらのどちらかに傾いた考えにとらわれやすい。一方は近代的な理性の自立を盲信する点で、他方は古代的な無理性的、奴隷的盲従という点で、これらはともに迷信であると言うべきであろう。信仰のことに関して、どこまでも神の言葉である聖書に基準を置かなければならない理由は、実にこのような迷信への逸脱を防ごうとするためである。

 

6 洗礼の効果は、洗礼が執行されるその時だけのものではない(1)。けれども、この規定の正しい使用によって、約束されている恵みはただ提供されるだけでなく、神ご自身のみ旨の計画に従って神が定められた時に、老幼を問わずその恵みが属している者に、聖霊によって現実に表示され授けられるのである(2)

  1 ヨハネ3:5,8
  2 ガラテヤ3:27、テトス3:5、エペソ5:25,26、行伝
2:38,41

六 礼典が神の定められた恵みの手段であることを思うとき、その悪用、誤用、乱用が厳に戒められなければならないとともに、その軽視は、実に神に対する不信に通じることなのである。また、その効果、発生の時期に関し、人間の側の勝手な憶測は禁物である。

 すべては聖霊のみ業であるために、不可見的なものである。これが信仰の目に見え出す時期(聖霊の結ぶ実とパウロが言うもの)は、決して聖霊が現実に与えられた時と一定の時間的関係を持つものと考えるわけにはいかない。忍耐を持って信じて待つ必要がある。

 

7 洗礼の礼典は、だれに対しても、ただ一度だけ執行されるべきである(1)

  1 テトス3:5

 

七 このことも前項までの理由から、当然の結論である。それが正規になされたキリスト教の洗礼であった以上は、訂正は「信仰と服従の告白」の内容においてなされるべきでもので、洗礼それ自体はやり直すべきではない。そのやり直しを要求することは、どこかに洗礼そのものへの迷信的気持ち、感情が手伝っていると思われる。
 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (60)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第28章 洗礼について・・・2・・・

3 その人を水に浸すことは、必要ではない。だがその人に水を注ぎ、あるいは水をふりかけることによって、洗礼は正しく執行される(1)

  1 ヘブル9:10,19-22、行伝2:41、行伝16:33、マルコ7:4

三 洗礼に関するプロテスタント教会内の論争は、主として、その執行の形式に関してであった。バプテスト派は浸礼を主張するが、改革派教会は、浸礼のみが唯一の定められた方式ではなく、潅水や注水などどちらでもよいと考えている。洗礼に関する形式は、決してイエス・キリストによって定められたり、命じられたりはしていないことが、マタイによる福音書28章のみでなく、使徒行伝の実例からも推論できる。

 

4 実際にキリストへの信仰と服従を告白する人々だけでなく(1)、信者たる両親または片親の幼児らも(2)、洗礼を授けられなければならない。

  1 マルコ16:15,16、行伝8:37,38
  2 創世17:7,9、ガラテヤ3:9,14、コロサイ2:11,12、行伝2:38,39、ロマ4:11,12(*)

    コリント7:14、マタイ28:19、マルコ10:13-16、ルカ18:15
     *創世17:7,9を、ガラテヤ3:9,14、コロサイ2:11,12、行伝2:38,39、ロマ4:11,12と比較


四 誰に対して洗礼は授けられなければならないか、であるが、それは第一に、信仰を告白する人にである。この場合、特に「実際にキリストへの信仰と服従を」と記されていることは改革派教会的特色であろう。それは「信仰と行ない」とを二本立てにしているローマ・カトリック教会の立場とは異なるところである。洗礼の意義(一項を参照)の中に列記されている諸点からいって、信仰の告白ということの中には、主イエスを己が救い主として受け入れる者は、当然、彼の戒めを守り、教会員の義務を忠実に行うという誓約が含まれている。第22章「合法的宣誓と誓願について」で学んだ通り、ローマ・カトリック教会的宣誓(誓いを立てること)に反対するけれども、本項のような意味の誓約は必要である。

 次に、幼児への洗礼が「授けられねばならない」と告白されていて、「してもよい」と言われていないのも改革派教会的特色で、もちろん誓約の信仰から出てくる結論である。幼児洗礼に関しては、なかなか問題が多い。

 ウエストミンスター小教理問答の問94の答えを見ると、第一に、キリストに接ぎ木されること、第二に、恵みの誓約の祝福にあずかること、第三に、主のものとなるという誓約(主のものに予約されること)とが言われているが、再生や、罪の赦しという点は言われていない。それは第二点に含まれている。バプテスト派は、この点(再生、罪の赦し)こそ、洗礼の第一義的なことだと考えている。

 たしかに、洗礼は罪の赦しのバプテスマなのである(クルマンなどの洗礼論はこの点を強調する)。しかし、ローマ人への手紙やヘブル人への手紙の所説は、かならずしも、そうはとれない。むしろ、ウエストミンスター小教理問答の言う通りである。

 この点から見るとき、初めて幼児洗礼の意義がはっきりしてくる。ただし家族主義ではなく、家庭本位という見地から第二親等以下の血族のことは問題にならない。かえって、養子女の場合は施すべきであると私個人は思っている。

 

 

 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (59)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

 

第28章 洗礼について・・・1・・・

1 洗礼は、イエス・キリストによって定められた新約の礼典であって(1)、受洗者をおごそかに見える教会に加入させるためだけでなく(2)、彼にとって、恵みの契約(3)、キリストにつぎ木されること(4)、再生(5)、罪のゆるし(6)、イエス・キリストによって自分を神にささげて新しい命に歩くこと(7)のしるし、また印証となるためである。この礼典は、キリストご自身の指定によって、世の終りまでキリストの教会のうちに継続されなければならない(8)

  1 マタイ28:19
  2 コリント
12:13
  3 ロマ4:11、コロサイ2:11,12(*)  *ロマ4:11をコロサイ2:11,12と比較

  4 ガラテヤ3:27、ロマ6:5
  5 テトス
3:5
  6 マルコ
1:4
  7 ロマ
6:3,4
  8 マタイ
28:19,20

一 この定義を学ぶにあたって、わたしたちは前章で告白されていた「礼典」一般についての教えをよく覚えていなければならない。二つの礼典に共通な基本的な教えを、まずよく理解したうえで、洗礼という一つの特定な礼典について考えるのでなければならない。

 洗礼の第一義的な意味は、見える教会に加入させる(入会式)という点にある。けれどもそれだけではない。自分と神との恵みの契約、キリストとの神秘的結合、再生、罪の赦し(義認と言いかえてもよい)、新しいいのちに歩むためのイエスにあっての聖別(再生また聖化と言いかえてもよい)をも意味している。この最後の点は、さらに感謝と献身の意味を含むものとみてよいが、以上のような事柄の「しるし」であり、また「印証」である。

 これをひと口で言いかえると、この世の人の一人として、人間中心に生きていたわたしたちが、今やイエス・キリストの贖いに浴して、神のものとして信仰生活に入れられたことの信仰告白であるとともに、そのような信仰を与えられた、神の恵みの手段であり、その聖霊の働きの保証である。これが、二礼典中の一つであるのは、まったくマタイによる福音書28章にある復活の主の成文的なご命令に基づくのである。無教会主義が、洗礼の必要性をコリント人への第一の手紙1章17節などから否認するのは誤っている。

 

2 この礼典において用いられるべき外的な品は、水であり、当事者はそれをもって、合法的にその職に召された福音の教役者によって、父と子と聖霊のみ名において洗礼を授けられなければならない(1)

  1 マタイ3:11、ヨハネ1:33、マタイ28:19,20

二 礼典には、しるしと表象されるものとの二面がある(第7章2項参照)ように、外的要素と霊的恵みとがある。洗礼の外的要素は水であって、液体なら何でもそれに代用してよいのではない。その意味で、洗礼を「水の洗礼」と呼んでいる。また、洗礼において定められていることは、①「合法的にその職に召された福音の教役者によって」施行されなければならないこと。②「父と子と聖霊」という三位一体のみ名において洗礼を授けなければならない、ということである。

 第一の点は、前章の4項で学んだ通りである。第二の点については、マタイによる福音書28章の方は「父と子と聖霊のみ名によって」なされることが正しい。使徒行伝2章38節などで「イエス・キリストの名によって、バプテスマを・・・」となっている場合は、洗礼形式の問題ではなく、「キリストの権威による」という意味であり、キリスト教の洗礼(バプテスマのヨハネの洗礼などとの区別)という意味と思われる。とにかく、マタイによる福音書28章は唯一のこの事柄に関する明言的なみ言葉であるから、教会はこれを根拠として、洗礼が礼典であり、また、その形式についても、そこに言われている限りのことを守るべきである。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (58)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第27章 礼典について・・・3・・・

5 旧約の礼典は、それによって表象され表示される霊的な事柄に関しては、実質的に新約の礼典と同一である(1)

  1 コリント10:1-4

五 新約時代と旧約時代は、同じ恵みの契約の二つの時期で、一方はキリストが来られた後であり、他方はキリストを待ち望んでいた時であって、別個の契約ではない。従って、旧約時代の礼典のしるしが表示した霊的事柄と、新約時代の礼典のしるしが表示していることとは別の事柄ではなく、まったく同一の霊的事柄であることは当然である。

 まず、わたしたちキリスト者がこの世で受けている救いの祝福(義認とか、子とされることとか、聖化などの恵み)と最後の審判において受ける究極的な救いの完成状態との関係を考えると、それは太平洋と海岸の入江の関係に比べることができよう。両者は、完全な状態とそれの初歩的な様相との相違であって、実質は同一の新しい命である。

 ところが、礼典のしるしが表示する霊的事物とは、普通には自分の掌中にすくい上げられたにも等しい一滴の水そのものである(場合によっては、太平洋そのものを意味するかも知れないが)。従って、この霊的いのちと、それを表示しているしるしそのものとは、決して本質的には同一物ではない。洗礼の水にしろ、聖餐式のパンやぶどう酒にしろ、それ自体はどこまでも被造物であり、朽ち果てる品物に過ぎない。

 しかし、この礼典を行なう場合、それにあずかったキリスト者の魂は、現実にそれが表示する霊的祝福、すなわち、永遠のいのちの一滴に浴しているのである。その効果は、何となく心がうるおう、というような気分的な問題ではなく、むしろ、主観的自覚を越えた客観的実効を伴うものである。

 もちろん、これにあずかった人が真に神の聖霊の働きに浴している場合のことであって、偽信者、偽りの一時的信仰の持ち主の場合には、受洗も、主の晩餐の陪餐も、少しもそのような祝福を伴わないばかりか、かえって、裁きを招くことになるのである。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (57)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第27章 礼典について・・・2・・・

3 正しく用いられる礼典の中で、またはそれによって、表示される恵みは、礼典のうちにあるどのような力によって与えられるのではない。また礼典の効果は、それを執行する者の敬けんあるいは意図によるのでもない(1)。それはただ、みたまの働き(2)、および礼典の使用を権威付ける命令と、ふさわしい陪餐者に対する祝福の約束とを含む礼典制定のみ言葉とによるのである(3)

  1 ロマ2:28,29ペテロ3:21
  2 マタイ3:11コリント
12:13
  3 マタイ26:27,28、マタイ28:19,20

三 ここでは、次の2点が留意されなければならない。

   ローマ・カトリック教会のサクラメンタリズムと呼ばれる誤り(すなわち、礼典の効力は、ローマ・カトリック教会の司祭による執行によって発効するという主張とともに、外的物質そのものに救いの恵みの効力が内在するために、たとえ不信者(動物でも)でも、これにあずかる時には、その効果に浴するとする誤り)。

  礼典の効果を、これを受ける者の側の主観的影響に取ると考える誤り(従って、その効果を、これにあずかる本人の信仰から生じるとする誤り)。

これら二つの誤見を排除して、礼典の効力は、聖霊の働きと、これを制定された神・キリストのみ言葉に根源する、ということの主張である。信仰とは、このように聖霊とみ言葉とによって、信者の側に生じる事柄に他ならない。

 

4 福音のうちにわたしたちの主キリストが命じられた礼典は、ただ二つ、すなわち洗礼と主の晩餐だけである。そのいずれも、合法的に任職されたみ言葉の教役者以外のだれによっても執行されてはならない(1)

  1 マタイ28:19コリント11:20,23コリント4:1、ヘブル5:4

四 ローマ・カトリック教会が7つの礼典を主張するのに対して、わたしたちは2つのみに限定する。結婚式や按手式などには、ある点、礼典的な要素のあることは、否定できないけれども、決して恵みの契約の礼典ではない。礼典はキリストの制定によるもので、特にみ言葉の使役者、すなわち、教師によってのみ執行されるものであり、これは、特に重大な一点である。ローマ・カトリック教会は、一方、彼らの司祭の執行する礼典のみに効力があることを主張しつつ、他方、緊急の場合には、助産婦による授洗を有効と認める。それはサクラメンタリズムの論理からくる自己矛盾である。

 しかし、ではなぜ礼典が教師によってのみ執行されなければならないのだろうか。福音の宣伝(教)は、キリスト者すべての義務であるのに、という疑問に対する答えは、礼典は地上教会(可見教会)に不可欠な事柄であり、可見教会は単に個々の信者の総和ではなく、一つの制度、組織を持つ団体である。公同礼拝の宣教が、教師(または説教免許者)によってのみ正規になされるように、礼典も教師によってなされるべきである。

 それは、礼典は可見的宣教に他ならないからである。さらに、なぜ、説教免許者は礼典を執行してはならないのであろうか。それは、礼典執行には会員の戒規と言う意味が付随するからである。

 教師といえども個人の資格でなすべき事柄ではなく、教会の役員として公式に行なうべきであるから、小会の委託によってこれをなすのである。

5 旧約の礼典は、それによって表象され表示される霊的な事柄に関しては、実質的に新約の礼典と同一である(1)

  1 コリント10:1-4

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