201810月 号 №135 通巻820号 号
 

解説 ウエストミンスター信仰告白(71)(完)

 

岡田稔著

(元神戸改革派神学校校長)

第33章 最後の審判について

1 神は、イエス・キリストにより、義をもってこの世界をさばく日を定められた(1)。すべての権能とさばきとは、み父から彼に与えられている(2)。その日には、背教したみ使たちがさばかれるだけでなく(3)、かつて地上に生きたことのあるすべての人も、彼らの思いと言葉と行いとのために申し開きをし、また善であれ悪であれ彼らがからだで行なったことに応じて報いを受けるために、キリストの法廷に立つ(4)

  1 行伝17:31
  2 ヨハネ
5:22,27
  3 コリント6:3、ユダ6ペテロ
2:4
  4 コリント5:10、伝道12:14、ロマ2:16、ロマ14:10,12、マタイ12:36,37

一 ここでは、次のことが告白されている。

   イエス・キリストは唯一の審判者である。

   世界審判の日が定められていること。

   その審判の基準は「義」であること。

   そのとき、審かれるのは悪魔と悪霊たちと全人間であること。

わたしたちは、かならずキリストの審判のみ座の前で、その身が行ったこと

に従って、神の公平な審判と報いを受けることを心に銘記しなければならない。キリスト(メシヤ)は、救い主であるとともに審判者でもあられる。

 

2 神がこの日を定められた目的は、選民の永遠の救いにおいて神のあわれみの栄光が表わされ、邪悪で不従順な捨てられた者の永遠の刑罰において神の正義の栄光が表わされるためである。というのは、その時に、義人は永遠の命にはいり、主のみ前からくる満ち足りた喜びと慰めとを受けるが、神を知らずイエス・キリストの福音に服さない悪人は、永遠の苦悩に投げこまれ、主のみ前とみ力の栄光とからの永遠の破滅をもって罰せられるからである(1)

  1 マタイ25:31-46、ロマ2:5,6、ロマ9:22,23、マタイ25:21、行伝3:19テサロニケ1:7-10

二 神が歴史の終わりの日に、審判を行うことを、よしとされる目的は、すべての歴史的事件が、常にそれのみを最高の目標としているところの神の栄光の顕現のためである。そして、この栄光は、二重の方向において示される。すなわち、あわれみ(愛)と正義とである。

 二重予定は今やここに、その真の意義を啓示するのである。天国と地獄は、相互に、それが天国であり、それが地獄であることを他との対比で明示するであろう。

3 キリストは、すべての者に罪を犯すことを思いとどまらせるためにも、逆境にある信者の大いなる慰めのためにも、わたしたちに審判の日のあることを確実に信じさせることを欲する(1)と同時に、その日を人に知らせずにおかれる。それは、彼らはいつ主がこられるかを知らないから、一切の肉的な安心を振り捨て、常に目をさまし、いつも備えして、「来たりませ、主イエスよ。すみやかに来たりませ」と言うためである。アーメン(2)

  1 ペテロ3:11,14コリント5:10,11テサロニケ1:5-7、ルカ21:27,28、ロマ8:23-25
  2 マタイ24:36,42-44、マルコ13:35-37、ルカ12:35,36、黙示22:20

 

三 聖書を通して示されている顕著な事実は、審判の日への警告と、それがいつであるかは不明だということである。これは、一見矛盾のように見えるが、決してそうではない。この二重の教示は、また、二重の目的を持っている。一方は、万人に対する目的であって、一般恩恵的な罪予防であり、他方は、信者に対する目的であって、忍耐と慰めに役立つものである。すなわち、わたしたち信者にとって、主の来臨への期待は、約束の成就の時として、今の苦しみに耐える秘訣となり、「わたしたちは、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている」(Ⅱコリント5:8)との希望になる。

 また「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」(Ⅰヨハネ2:17)ことを知って、宝を地に積む愚に落ちず、天の都を望み、地にあっては旅人であることを自覚させるのである。

 本告白は再臨の予兆について黙している。特に千年王国について言及していない。改革派神学においてアミレ(無千年王国主義)と呼ばれる立場が根強いのはこのような事実によるのかも知れない。しかし、大切なのは、教会が聖書から一定の教説を正統として確立していない場合、各自の研究と良心の自由に任しておくことが、教会の一致の上で大切である。信条とか信仰告白は教会的一致・コンセンサスを見出しえない限り成文化しないし、してはならないものであろう。

 また世界情勢上一時的な事柄は、信条とは別な宣言として発表するのが適当であって、信条は、歴史的作品ではあるが、地上的な恒久性を確信するに止めるのが正しいと思う。そういう配慮から、前兆の問題や千年王国期のことを省いたのではないだろうか。予定論においても、堕落前予定説と堕落後予定説などにはふれていないのも同じ理由からであろうと思う。

 (完)

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(70)

岡田稔著

(元神戸改革派神学校校長)

第32章 人間の死後の状態について、また死人の復活について

・・・2・・・

3 正しくない者のからだは、キリストの力によって恥辱によみがえらせられる。正しい者のからだは、キリストのみたまによって栄誉によみがえらせられ、キリストご自身のからだに似るものとされる(1)

  1 行伝24:15、ヨハネ5:28,29コリント15:43、ピリピ3:21

 

三  これは前項の補足である。すなわち、復活のとき、生存者と死者とがともに同じ復活の状態に入るのであるが、不義者と義人との区別は決定的であって、生存者も二つに変化し、死者も二つによみがえるのである。一方は復活のキリストに似るのに対して、他方は恥辱によみがえる(または変化する)のである。

<補い>

 信仰告白の文章は、私の註訳ほどに細かく述べていないので、あるいは「終わりの日に生存する者はすべて義人のみである」と受け取る可能性はある。しかし、聖書的根拠が十分ではない。本章の告白は、次のような考え方を否定している。

霊魂が死後復活するまで眠っている、とすること。

霊魂も肉体も最後の審判までは、善人も悪人も同じ運命、または状態の下に置かれているとすること。

死後にも救いに入る機会が備えられていると見ること。

復活は現在のからだとは何の同一性もない全く別なものとすること。

復活は天的な別の被造物だと考えること。

単なる霊魂不滅論や汎神論的な個別性を失って大源に帰一するという見方。

虚無となる。存在性そのものを失うと考えること。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(69)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

第32章 人間の死後の状態について、また死人の復活について

・・・1・・・

 

1 人間のからだは、死後、ちりに帰り、朽ち果てる(1)。しかし彼の霊魂は(死にもせず、眠りもせず)不死の本質をもっているので、直ちにそれを与えられた神に帰る(2)。義人の霊魂は、その時に完全にきよくされ、最高の天に受け入れられ、そこで、彼らのからだの全きあがないを待ちながら、光と栄光のうちに神のみ顔を見る(3)。また悪人の霊魂は、地獄に投げこまれ、大いなる日のさばきまで閉じこめられ、そこで苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける(4)。聖書は、からだを離れた霊魂に対して、これら二つの場所以外には何も認めていない。

  1 創世3:19、行伝13:36
  2 ルカ23:43、コヘレト
12:7
  3 ヘブライ12:23コリント5:1,6,8ピリピ1:23、行伝3:21、エペソ4:10
(*)
     *ピリピ1:23を行伝3:21、エペソ4:10と比較

  4 ルカ16:23,24、行伝1:25ユダ6:7(*)ペテロ3:19
     *ユダ6,7が正しい。


一 これは死後から復活までの中間状態と呼ばれる事柄で、次の点が主張されている。

   霊魂の不滅性と自覚性。

   肉体がちりに帰るように、霊魂は神に帰る。しかし、それは肉体の素材が土であるというのと同じ意味で、霊魂が神の一部だとか、神と同質だとかいう意味ではない。むしろ、肉体が霊魂を離れた瞬間、置かれている場所が地上であると同様に、霊魂の入る場所は神のいます霊界であるという意味にとるべきであろう。

   この神のいます場所(あるいは神の直接の支配下)は二つに区別され、一方は天の国、他方は地獄と呼ばれているところで、どちらも地上あるいは、この世とは異なるところである。復活後の神の国また地獄は、この世と場所的にも時間的にも異なる永遠的世界であるが、ここに言われている天(パラダイス)と地獄(ヘル)は、時間的には異なる世界と見なければならない。

   この二つの区別のある世界へは、死後直ちに入るために、このうちのどちらかに入るかは、まったくこの世という共通世界での人間の全態度がこれを決定する(これはアルミニアン的な意味で言うのではない)。その人をどちらに入れるかは、まったく神の意志によることであるが、人の地上生活のみが、神の提示した救いと滅びとに関係する条件を満たすか犯すかについて決定する機会であることはコリント人への第二の手紙5章10節で明言されている。世界と言うのは、場所でありまた状態の意味でもある。とくに霊魂については後者と考えたい。

 

2 終りの日に生存している者は、死を味わわないで変えられる(1)。死人はみな異なった性質をもってではあるが別のものではない全く同じからだをもってよみがえらせられ、彼らの霊魂に再び永久的に結合される(2)

  1 テサロニケ4:17コリント15:51,52
  2 ヨブ19:26,27コリント
15:42-44

二 これは死者のよみがえりと呼ばれるときのことについてで、終わりの日は主の大いなる日とも呼ばれる。これは、いくらかの予兆が現れた後ではあるが、長い期間に成立する事柄ではなく、瞬間に起こる変化であると考えられる。それは、生存者にとっては「変化するとき」であり、死者にとっては「復活のとき」である。また、このことの後には、救われた者は生存者も死者も区別のない「新人類」の一員となるものと考えられる。

 すなわち、復活後の自分の肉体は、死ぬ前のもの、あるいは「変化する」前のものと性質は変化はしているが、別物ではないし、霊魂(現代的には、人格と言う概念がぴったりする)も、同一のものでありながら、罪ある状態から聖化された状態に変わっている。そしてこの新人類こそ栄光化された姿である。

解説 ウエストミンスター信仰告白(68)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

第31章 地方会議(シノッド)と総会議(カウンシル)について

・・・2・・・

3 信仰についての論争と良心の問題を決定すること、公的神礼拝と神の教会の政治とをより良く秩序付けるための規則や指針を定めること、失政の場合に告訴を受けること、それを権威をもって裁決することは、代理的に地方会議また総会議に属する。その決定や制定は、神のみ言葉に一致しているならば、それが神のみ言葉に一致しているためだけでなく、それを下した権能のためにも、尊敬と従順をもって受け入れられなければならない。その権能はみ言葉において命じられた神の規定だからである(1)

  1 行伝15:15,19,24,27-31、行伝16:4、マタイ18:17-20


三 この項は、信仰について、良心の問題、公的神礼拝と教会の政治に関する規則や指針、失政に対する告訴を受けた時の裁決や決定については、この会議の決定のみが教会の権威ある命令となりえる。従って、如何なる個人であっても教会員一同に向かって、命令的指揮権は与えられていない。また、会議の決定であっても、み言葉に合致しない裁決・決定は、誰の良心をも束縛しえない。

4 使徒時代後のすべての地方会議または総会議は、世界的会議であっても地方会議であっても、誤りを犯しうるし、また多くの会議が誤りを犯した。それゆえ、会議は信仰と実践の規準とされてはならず、両者における助けとして用いられるべきである(1)

  1 エフェソ2:20、行伝17:11コリント2:5コリント1:24

四 個人が指揮者となれないとともに、会議も決して無謬ではない。

 三項と四項は、ローマ・カトリック教会が犯してきた歴史的事実にもとづく反省と言えよう。国家においても近代に至って、独裁制の悲劇が再三深刻な教訓を残したと共に、議会制も決して満足すべき効果を上げていないことをわたしたちは体験しつつある。

 教会は聖徒の交わりとして、聖霊の導きに浴していても、研究不足であり、体験は未熟である。常に聖書によって改革されて行くことへの熱心を鈍らせてはならない。前車のタイヤの跡は、用心深く参考にする心がけを伴わないと破滅に至るおそれがある。

 

5 地方会議や総会議は、教会的な事柄以外の何事も取り扱ったり決定してはならない。また非常の場合における謙虚な請願として、あるいは国家的為政者から求められた場合には良心の満足のための助言として以外は、国家に関係している世俗的事件に干渉してはならない(1)

  1 ルカ12:13,14、ヨハネ18:36

五 これは非常に大切な告白である。教会の会議がどれほど大規模であっても、教会的な事柄を、教会的な見地から取り上げるのでなければ、学問や政治の領域への越権となる。もしそうすれば、当然教会の一致を損ねる結果ともなろう。米国南長老教会が北と別れて一個の教派を結成した創立大会で、世界の諸教会に向かって発表した宣言を私はよい意味で手本とすべきだと考えている。

 そこでは教会が一致をよりよく保ち行くためには北と南が別々の教派として独立した方がよいと判断された。教会的事柄での論争はあくまで聖書にもとづいて議論するのはよいが、政治的課題で論じ合うよりは分かれた方がよい。今日の教会は社会問題に関心を持たざるをえない事情において昔日の比ではないけれども、この一項は十二分に考慮しなければ、教会本来の任務をおろそかにすることになりかねない。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(67)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

 

第31章 地方会議(シノッド)と総会議(カウンシル)について

・・・1・・・

1 教会のより良い政治となお一層の建徳のために、普通に地方会議または総会議と呼ばれるような会議が、当然あるべきである(1)

  1 行伝15:2,4,6

一 日本キリスト改革派教会旧政治基準第33条には「教会の統治権能は会議に出席せる教師及び長老によって運営され、それは個々によって分立することなく、常に一つの統一される権能なり。而して、これ等の会議は一個又は多くの教会の上に権能を有するものなれども常に教会間の一致の理念を実現するよう、相互関係を有するものなり」とある。

 これに対して、現在のそれは、第5条(教会会議)教会の法治権(教会権能)は、連帯的かつ平等の権能であり、大・中・小会において、議員である教師と治会長老が行使する。各会議は、その固有の権能を持つが、相互関係は失われることなく、全教会の一致の精神を実現している。第51条(教会会議の議員)教会、正規の段階を持つ会議によって統治される。これらの会議の議員となりうるのは、教師と治会長老である。また第83条(中会の議会権能と任務)、第97条(大会の議会権能と任務)の中に反映されている。

 この項では、大・中・小の会議よりも、大会及び数個教派の連合会議を意味している。このシノッドは、数個中会の一定の永続的組織として定期に持たれる大会のようなもののみでなく、ある特定の目的の下に、その都度開催される連合的会議(例えばドルト会議のようなもの)をも含むと思われる。

 

2 為政者が、宗教の問題について協議しまた助言するために、教役者やその他の適当な人々の地方会議を合法的に召集できるように(1)、もし為政者が教会に対する公然の敵であるなら、キリストの教役者らは、彼ら自身で、彼らの職のゆえに、あるいは彼らの教会からの代表団である他の適当な人々と共に、このような会議に会合することができる(2)

  1 イザヤ49:23テモテ2:1,2、歴代下19:8-11、歴代下29章、30章、マタイ2:4,5、箴11:14
  2 行伝
15:2,4,22,23,25

1787年合衆国長老教会総会改訂「教会のより良い政治となお一層の建徳のために、普通に地方会議または総会議と呼ばれるような会議が、当然あるべきである。そして、このような会議を定めること、また教会の益のために当を得ていると判断する都度これを召集することは、その職務と、破壊のためでなく建徳のためにキリストから与えられた権能とのゆえに、個々の教会の監督者やその他の統治者たちに属する」。日本基督改革派教会第4回大会採択〕


二 本項は、米国長老教会総会で大いに改訂されているが、歴史的にはウエストミンスター会議そのものは、本項の前半の条文通りに召集された会議の好例であり、スコットランド自由教会が結成されたときは、教職者のみの二百数十名で会議が形成された。この場合の聖書的根拠は使徒行伝15章2節にある。これらの点で原則は必ずしも守られてこなかった。非常事態に対処する必要上止む得ない場合である。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(66)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

 

第30章 教会の譴責について

 4 このような目的をより良く達成するために、教会役員は、犯罪の性質と犯罪者の過失に応じて訓戒・主の晩餐の礼典からの一時的停止・また教会からの除名などの処置をとらなければならない(1)

  1 テサロニケ5:12テサロニケ3:6,14,15コリント5:4,5,13、マタイ18:17、テトス3:10

 

四 ここには、譴責の種類が軽いものから重いものへと順番に記されている。教会の政治の性質に応じて、その罰則は、どこまでも、肉体的苦痛を伴うべきものではなく、また、除名以上に過酷なものは存在しえない。

 日本キリスト改革派教会の政治基準第12条には

 「教会権能は全く霊的であって、二様に行使される。2 役員がこの権能を、職制によって個別的に、福音の宣教・礼典の執行・過誤の戒告・病者の訪問・悩める者の慰安において行使するとき、これを職制権能という。 3 役員がこの権能を、同等の資格で共同的に、教会会議において教会規程に従って行使するとき、これを議会権能、または法治権という」とある。

 

<付注>

 神は人類社会の唯一の統治者である。しかし人類社会には二つの別の領域があって、その統治の性質が異なっている。これは人間が霊魂と肉体という二つの性質の異なった要素からできていることに対応する神の立てた秩序である。現在、日本では教会に当たる霊的秩序が甚だしく不統一(と見えている)であるので、国家的スケールに対して云々できる程強大な勢力だと思われないが、それは異教世界、多神教社会の必然的な不統一性の現われに過ぎない。

 パウロがローマ人への手紙116節で言っている福音の力のスケールからは、むしろローマ帝国に匹敵する世界教会が念頭にあったと思われる。中世ヨーロッパはそのようなスケールで国家的統一と教会的統一が並んで進行した。近世になって、民族国家が成立すると時を同じくして、教会もそれぞれの自治社会に、それぞれの教会、教派が発生した。ウエストミンスター信条が作成された当時の歴史的状況は、このような国家権能と教会権能の相互独立という真理が、明確に自覚された時代あることを先ず念頭に置く必要があろう。

 一方は外的人間の統治、他方は霊的人間の統治。

 確かにその統治権の性質は根本的に別であるが、それが統治であることに変わりはない。従ってこの統治者(統治権をゆだねられた役員)とその組織は一人二役ではなく別個である。

 この事実を明確に自覚したのが長老教会・改革派教会の教会観、教会と国家に関する教理である。

 教会政治には大別して3つの原則を主張するグループがある。

 1 監督制、その一番右翼が法王制である。

 2 会衆制、その左翼が独立教会制。

 3 は両者の中庸をとった長老制。

 しかし、無教会主義や個人主義的信仰を主張する人々には、教会の統治制度そのものが不必要と考えられている。霊的事柄には統治制度というような地上的権力の入り込む余地はないと思われている。

 しかしわたしたちは、聖書の中に、長老制の原則的実施が既に存在している事実を認め、また霊的と言っても、地上の人間が肉であることを自覚する以上、この統治の存在意義を確信するところである。

 特に、生活における教会の一致・純潔を保持する上での、一定の訓練戒規の必要性を信じている。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(65)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

第30章 教会の譴責について

1 主イエスは、教会の王またかしらとして、教会に、国家的為政者とは別個の教会役員の手にある政治を定められた(1)

  1 イザヤ9:6,7(5,6)テモテ5:17テサロニケ5:12、使徒20:17,28
    ヘブル13:7,17,24コリント12:28、マタイ28:18-20
一 主なるイエスは、教会政治の主権者であり、教会の役員は主よりその政治の権能を委託された教会的為政者である、という告白である。(主イエスは教会のかしらであるばかりでなく主である)。

 

2 これらの役員に、天国のかぎが委ねられている。そのゆえに、彼らはそれぞれ罪をとどめ、またゆるし、悔い改めない者に対してはみ言葉と譴責とによってみ国を閉ざし、悔い改めた罪人には、その場合の必要に応じて、福音の奉仕や譴責の解除によって、み国を開く権能をもっている(1)

  1 マタイ16:19、マタイ18:17,18、ヨハネ20:21-23コリント2:6-8

二 マタイによる福音書16章19節にある「天国のかぎ」に関するわたしたちの解釈が、ここに告白されている。まず、この「かぎ」をキリストから委託されている人間とは、教会の役員たちのことである。次に、「天国のかぎ」とは、見える教会における秩序上の入会、除籍の権能である。また、教会員を教会のうちに守り養う必要上、彼らの誤り、罪、不遜などに対して加える戒規・訓練の機能も、これに含まれている。

 そこには「閉じる権能」と「開く権能」とがあり、前者は、悔い改めない者への譴責であり、後者は、悔い改めた時の譴責の解除と福音の宣教による入会許可である。

 

 3 教会の譴責は、罪を犯している兄弟らを矯正し獲得するため、同様な罪を犯すことを他の者に思いとどまらせるため、また塊全体を感染させるあのパン種を一掃するため、キリストの名誉と福音の聖なる告白を擁護するため、またもし神の契約とその印証とが極悪の頑固な犯罪者によって汚されるままにしておくならば正当に教会にくだる筈である神のみ怒りを防ぐために、必要である(1)

  1 コリント5章、テモテ5:20、マタイ7:6テモテ1:20コリント11:27-34、ユダ23(*)
     *コリント11:27-34をユダ23と比較


三 ここには、譴責の必要な理由が列記されている。それは、第一に、当人を悔い改めに導くためであり、決して放逐し去ることではない。第二は、その悪しき行為を教会内に感染させないためである。第三は、禍根を絶って教会の聖潔を守るため。第四は、キリストのみ名が汚され、あるいは、キリスト教信仰が真理であることに疑いをかけられないため。第五には、神の怒りと呪いがそのことを通して教会の上に加えられることを未然に防ぐためである。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(64)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

 

第29章 主の晩餐について・・・3・・・

6 パンとぶどう酒の実質が、司祭の聖別あるいは他のどのような方法ででも、キリストのからだと血の実質に変わると主張する(普通に化体説と呼ばれる)教理は、聖書に反するばかりでなく、常識にも理性にも反し、礼典の性質をくつがえし、従来も現在も様々な迷信、否、ひどい偶像礼拝の原因である(1)

  1 使徒3:21コリント11:24-26(*)、ルカ24:6,39
    *使徒3:21コリント11:24-26と比較


六  前項までのローマ・カトリック教会の教理への非難の結論である。「常識にも理性にも反し」との批評は、最大の軽蔑の言葉であろう。やや、ローマ・カトリック教会の理性観を逆用して、とどめの攻撃を加えた感がなくはない。

 

7 ふさわしい陪餐者は、この礼典において、見える品々にあずかりつつ(1)、信仰によって現実にまた実際に、しかし身体的また肉的にではなく霊的に、十字架につけられたキリストと彼の死のすべての祝福を受け、またそれに養われる。その時キリストのからだと血とが、身体的または肉的にパンとぶどう酒の中に、またそれらと共に、あるいはそれらのもとにあるわけではないが、この規定において、品々そのものが信者の外的感覚に対すると同じように現実に、しかし霊的に、信者の信仰に対して存在する(2)

  1 コリント11:28
  2 コリント
10:16

七 ここで初めて、積極的な主の晩餐の聖書的なあり方が述べられている。すべては霊的であって、しかも現実にキリストとこの贖いの祝福が、この礼典において存在し、与えられていると言う一点にかかっているのである。

 

8 無知で邪悪な者がこの礼典において外的な品を受けても、それによって示されているものを受けないばかりか、彼らがふさわしくないままでこれに近付くことによって、キリストのからだと血とを侵し、自分にさばきを招くのである。それゆえ、すべて無知で不信仰な者は、キリストとの交わりを享受するのに不適当であるから、主の食卓にあずかる値打ちがないし、彼らがその状態を続けている限り、キリストに対して大罪を犯すことなしにこの聖なる奥義にあずかり(1)、あるいはあずかることを許されることはできない(2)

  1 コリント11:27-29コリント6:14-16
  2 コリント5:6,7,13テサロニケ3:6,14,15、マタイ7:6

八 この礼典の意義を正しく教えられていない者は、陪餐の資格ないこと。従って陪餐が禁じられているとともに、誤って、あるいは、あえてこれにあずからさるならば、かえって「キリストのからだと血とを侵す」ことによって、主より罰せられる、ということは大切な点である(Ⅰコリント11:29参照)。
 

解説 ウエストミンスター信仰告白(63)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

第29章 主の晩餐について・・・2・・・

4 個人的ミサすなわち司祭またはその他の者からひとりでこの礼典を受けることは(1)、会衆に杯を与えることを拒むこと、品々を礼拝すること(2)、崇敬のためにそれらを持ちあげたり持ち回ったりすること、偽りの宗教的用途のためにそれらを保存することと同様に、すべてこの礼典の性質とキリストの制定に反する(3)

  1 コリント10:16
  2 マルコ14:23コリント
11:25-29
  3 マタイ
15:9

四 前項に引き続き、ローマ・カトリック教会の教えや、やり方を具体的に非難している。その基礎的な誤りは、第一にパンがキリストのからだに変化する、という教えであり、「これはあなたがたのための、わたしのからだである」(Ⅰコリント11:24)の「である」を字義通りに解釈するために生じた無理がある。ルター派も、この点にこだわったために迷信から十分には逃れきれなかった。第二に、前述のように、ミサを犠牲とする考えである。第三は、品々を礼拝しること(これは第一の点より来る直接の結果であり、ルター派ではキリストの人性を礼拝すると考える)。第四は、さかずきを一般信徒には分け与えないこと(マタイ26:27の「みな、この杯から飲め」は11使徒に言われたと理解している)。第五は、個人的ミサで、第四のことに関係して、司祭だけで別個に式を守ることは、聖俗二元論であり、他は第一点の延長である。

 

5 キリストによって定められた用途のために正しく聖別されたこの礼典における外的な品は、真に、しかしただ礼典的にそれらが表わしているもの、すなわちキリストのからだと血という名でしばしば呼ばれるような関係を、十字架につけられた方に対して持つ(1)。しかしそれらは、その実質と性質とにおいては、依然として前と同じように、真実に、ただパンとぶどう酒のままである(2)

  1 マタイ26:26-28
  2 コリント11:26-28、マタイ
26:29

五 この項では、前述のローマ・カトリック教会の基本となっている化体説を具体的に非難している。パンはパンであり、ぶどう酒はぶどう酒であることに終始変わりがない。ただ、礼典が正しく信仰的に執行されている時には、この品々は主イエスの血と肉とのサクラメンタル(礼典的)な一致関係にあるから、パンがキリストの肉と呼ばれ、ぶどう酒がその血と呼ばれる。しかし、「である」は、どこまでも「引証・保証」の意味である。従って、キリストそのものよりも、キリストの贖いの祝福を意味し、また、与える効力を持つものである。

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(62)

        岡田稔著

     (元神戸改革派神学校校長)

第29章 主の晩餐について・・・1・・・

1 わたしたちの主イエスは、渡される夜、主の晩餐と呼ばれる彼のからだと血との礼典を制定され、彼の教会において世の終りまで守るべきものとされた。それは、彼の死によるご自身の犠牲を不断に記念するため、その犠牲のすべての祝福を真の信者に保証するため、彼らのキリストにある霊的養いと成長のため、彼らがキリストに対して負っているすべての義務を更に履行するため、またキリストの神秘的からだの肢体としての彼らのキリストとの交わり、また彼ら相互の交わりのきずなと保証になるためである(1)

  1 コリント11:23-26コリント10:16,17,21コリント12:13

一 これは、主の晩餐の定義である。その目的・効用を詳記することによって、プロテスタント教会に生じた最初にして最大の論争点に関する改革派教会の教理を明確に告白している。ルターは「パンとともにキリストのからだでもある」と言い、ツイングリーは「単なる記念のみ」であると言うのに対して、カルヴァンは「記念とともにキリストは霊的に臨在する」と言っている。

 ルターは後年、このカルヴァンの表現が、たしかに適切な中庸であることをもたらした―というように、最近刊行の一教理史の本は記している。ここに表明されているところは、まったくカルヴァンの所説に基づく教理である。しかし、ローマ・カトリック教会の教えが直接の論争の相手であるから、以下、主にその誤りを指摘する言葉で満たされている。

 

2 この礼典において、キリストが、生きている者または死んだ者の罪のゆるしのためにみ父にささげられるのではなく、またどのような現実の犠牲がなされるのでもない(1)。それは、キリストが自らご自身をただ一度だけ十字架にささげられたことの記念、またそのため神にささげうるすべての賛美の霊的ささげ物にほかならない(2)。それゆえ、いわゆる教皇主義的ミサ犠牲は、選民のすべての罪のための唯一のなだめの供え物であるキリストのただひとつの犠牲にとって、最もはなはだしく有害である(3)

  1 ヘブル9:22,25,26,28
  2 コリント11:24-26、マタイ
26:26,27
  3 ヘブル7:23,24,27、ヘブル
10:11,12,14,18

二 この項は、ローマ・カトリック教会のミサに対する非難である。ローマ・カトリック教会の宗教を迷信ではないと思い、有害であることに気づかない人は、この一事に注目すべきである。ローマ・カトリック教会の礼拝の中心はミサである。ミサは、主の晩餐の根本的な迷信化である。神父が司祭と呼ばれるのは、ミサを司るからである。ミサは天主に向けて、もう一度キリストのからだを献げる儀式である。そして、その効果は罪人のためのなだめの儀式(旧約時代の神殿のそれと同様)が、実際、そのたびに献げられるというのであり、さらに、それが死人のためにもと主張されているのである。

 宗教改革者が憤りを爆発させたのは、決して誤りではない。その意味で主の十字架と、主の晩餐とが実質的に同一の意義を持つ事柄だと考えてはならない。その意味で主の十字架は一回だけで完全である(へブル9:12)。そして、主の晩餐は、それの永続的記念に過ぎない。主の晩餐でなされる神への供物は、ローマ人への手紙12章以下に言われている「信徒の献身」のことである。

 

3 主イエスは彼の教役者に、この規定において、礼典制定のみ言葉を会衆に宣言し、祈り、パンとぶどう酒の品を祝福し、それによってこれらのものを普通の用から聖なる用に聖別すること、パンを取って裂き、杯をも取り、(彼ら自身もあずかりながら)陪餐者に二品を与えること(1)、しかしその時に列席していない者にはだれにも与えないことを命じられた(2)

  1 マタイ26:26-28、マルコ14:22-24、ルカ22:19,20コリント11:23-26(*)
     *マタイ26:26-28とマルコ14:22-24およびルカ22:19,20を、コリント11:23-26と比較

  2 使徒20:7コリント11:20

三 この項は、主の晩餐の執行の仕方を示している。同時に、誤った気ままな仕方を排除している。特に、ここで二つの誤りが指摘されている。① 教職者だけで、別にこれを守ること。② 私的ミサ、すなわち、病人など欠席者を訪問して、この一部を使用し、ミサにあずからせること、である。 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (61)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第28章 洗礼について・・・3・・・

5 この規定を侮り、あるいはなおざりにすることは、大罪ではあるが(1)、それなしにはだれも再生させられ、あるいは救われることができないとか(2)、受洗者はみな疑いもなく再生させられるといったように、恵みと救いがそれに不可分に付加されているのではない(3)

  1 ルカ7:30、出エジプト4:24-26(*)     *ルカ7:30を出エジプト4:24-26と比較
  2 ロマ4:11行伝10:2,4,21,22,31,45,47(*)
     *行伝10:2,4,22,31,45,47が正しい。1648年(第3版)には10:21は含まれていない。

  3 行伝8:13,23


五 本項は、洗礼に対する合理主義的な解釈とともに、迷信的な考え方を排除している。人はいつも、これらのどちらかに傾いた考えにとらわれやすい。一方は近代的な理性の自立を盲信する点で、他方は古代的な無理性的、奴隷的盲従という点で、これらはともに迷信であると言うべきであろう。信仰のことに関して、どこまでも神の言葉である聖書に基準を置かなければならない理由は、実にこのような迷信への逸脱を防ごうとするためである。

 

6 洗礼の効果は、洗礼が執行されるその時だけのものではない(1)。けれども、この規定の正しい使用によって、約束されている恵みはただ提供されるだけでなく、神ご自身のみ旨の計画に従って神が定められた時に、老幼を問わずその恵みが属している者に、聖霊によって現実に表示され授けられるのである(2)

  1 ヨハネ3:5,8
  2 ガラテヤ3:27、テトス3:5、エペソ5:25,26、行伝
2:38,41

六 礼典が神の定められた恵みの手段であることを思うとき、その悪用、誤用、乱用が厳に戒められなければならないとともに、その軽視は、実に神に対する不信に通じることなのである。また、その効果、発生の時期に関し、人間の側の勝手な憶測は禁物である。

 すべては聖霊のみ業であるために、不可見的なものである。これが信仰の目に見え出す時期(聖霊の結ぶ実とパウロが言うもの)は、決して聖霊が現実に与えられた時と一定の時間的関係を持つものと考えるわけにはいかない。忍耐を持って信じて待つ必要がある。

 

7 洗礼の礼典は、だれに対しても、ただ一度だけ執行されるべきである(1)

  1 テトス3:5

 

七 このことも前項までの理由から、当然の結論である。それが正規になされたキリスト教の洗礼であった以上は、訂正は「信仰と服従の告白」の内容においてなされるべきでもので、洗礼それ自体はやり直すべきではない。そのやり直しを要求することは、どこかに洗礼そのものへの迷信的気持ち、感情が手伝っていると思われる。
 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (60)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第28章 洗礼について・・・2・・・

3 その人を水に浸すことは、必要ではない。だがその人に水を注ぎ、あるいは水をふりかけることによって、洗礼は正しく執行される(1)

  1 ヘブル9:10,19-22、行伝2:41、行伝16:33、マルコ7:4

三 洗礼に関するプロテスタント教会内の論争は、主として、その執行の形式に関してであった。バプテスト派は浸礼を主張するが、改革派教会は、浸礼のみが唯一の定められた方式ではなく、潅水や注水などどちらでもよいと考えている。洗礼に関する形式は、決してイエス・キリストによって定められたり、命じられたりはしていないことが、マタイによる福音書28章のみでなく、使徒行伝の実例からも推論できる。

 

4 実際にキリストへの信仰と服従を告白する人々だけでなく(1)、信者たる両親または片親の幼児らも(2)、洗礼を授けられなければならない。

  1 マルコ16:15,16、行伝8:37,38
  2 創世17:7,9、ガラテヤ3:9,14、コロサイ2:11,12、行伝2:38,39、ロマ4:11,12(*)

    コリント7:14、マタイ28:19、マルコ10:13-16、ルカ18:15
     *創世17:7,9を、ガラテヤ3:9,14、コロサイ2:11,12、行伝2:38,39、ロマ4:11,12と比較


四 誰に対して洗礼は授けられなければならないか、であるが、それは第一に、信仰を告白する人にである。この場合、特に「実際にキリストへの信仰と服従を」と記されていることは改革派教会的特色であろう。それは「信仰と行ない」とを二本立てにしているローマ・カトリック教会の立場とは異なるところである。洗礼の意義(一項を参照)の中に列記されている諸点からいって、信仰の告白ということの中には、主イエスを己が救い主として受け入れる者は、当然、彼の戒めを守り、教会員の義務を忠実に行うという誓約が含まれている。第22章「合法的宣誓と誓願について」で学んだ通り、ローマ・カトリック教会的宣誓(誓いを立てること)に反対するけれども、本項のような意味の誓約は必要である。

 次に、幼児への洗礼が「授けられねばならない」と告白されていて、「してもよい」と言われていないのも改革派教会的特色で、もちろん誓約の信仰から出てくる結論である。幼児洗礼に関しては、なかなか問題が多い。

 ウエストミンスター小教理問答の問94の答えを見ると、第一に、キリストに接ぎ木されること、第二に、恵みの誓約の祝福にあずかること、第三に、主のものとなるという誓約(主のものに予約されること)とが言われているが、再生や、罪の赦しという点は言われていない。それは第二点に含まれている。バプテスト派は、この点(再生、罪の赦し)こそ、洗礼の第一義的なことだと考えている。

 たしかに、洗礼は罪の赦しのバプテスマなのである(クルマンなどの洗礼論はこの点を強調する)。しかし、ローマ人への手紙やヘブル人への手紙の所説は、かならずしも、そうはとれない。むしろ、ウエストミンスター小教理問答の言う通りである。

 この点から見るとき、初めて幼児洗礼の意義がはっきりしてくる。ただし家族主義ではなく、家庭本位という見地から第二親等以下の血族のことは問題にならない。かえって、養子女の場合は施すべきであると私個人は思っている。

 

 

 

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