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解説 ウエストミンスター信仰告白(68)
岡田稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第31章 地方会議(シノッド)と総会議(カウンシル)について
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3 信仰についての論争と良心の問題を決定すること、公的神礼拝と神の教会の政治とをより良く秩序付けるための規則や指針を定めること、失政の場合に告訴を受けること、それを権威をもって裁決することは、代理的に地方会議また総会議に属する。その決定や制定は、神のみ言葉に一致しているならば、それが神のみ言葉に一致しているためだけでなく、それを下した権能のためにも、尊敬と従順をもって受け入れられなければならない。その権能はみ言葉において命じられた神の規定だからである(1)。
1 行伝15:15,19,24,27-31、行伝16:4、マタイ18:17-20
三 この項は、信仰について、良心の問題、公的神礼拝と教会の政治に関する規則や指針、失政に対する告訴を受けた時の裁決や決定については、この会議の決定のみが教会の権威ある命令となりえる。従って、如何なる個人であっても教会員一同に向かって、命令的指揮権は与えられていない。また、会議の決定であっても、み言葉に合致しない裁決・決定は、誰の良心をも束縛しえない。
4 使徒時代後のすべての地方会議または総会議は、世界的会議であっても地方会議であっても、誤りを犯しうるし、また多くの会議が誤りを犯した。それゆえ、会議は信仰と実践の規準とされてはならず、両者における助けとして用いられるべきである(1)。
1 エフェソ2:20、行伝17:11、Ⅰコリント2:5、Ⅱコリント1:24
四 個人が指揮者となれないとともに、会議も決して無謬ではない。
三項と四項は、ローマ・カトリック教会が犯してきた歴史的事実にもとづく反省と言えよう。国家においても近代に至って、独裁制の悲劇が再三深刻な教訓を残したと共に、議会制も決して満足すべき効果を上げていないことをわたしたちは体験しつつある。
教会は聖徒の交わりとして、聖霊の導きに浴していても、研究不足であり、体験は未熟である。常に聖書によって改革されて行くことへの熱心を鈍らせてはならない。前車のタイヤの跡は、用心深く参考にする心がけを伴わないと破滅に至るおそれがある。
5 地方会議や総会議は、教会的な事柄以外の何事も取り扱ったり決定してはならない。また非常の場合における謙虚な請願として、あるいは国家的為政者から求められた場合には良心の満足のための助言として以外は、国家に関係している世俗的事件に干渉してはならない(1)。
1 ルカ12:13,14、ヨハネ18:36
五 これは非常に大切な告白である。教会の会議がどれほど大規模であっても、教会的な事柄を、教会的な見地から取り上げるのでなければ、学問や政治の領域への越権となる。もしそうすれば、当然教会の一致を損ねる結果ともなろう。米国南長老教会が北と別れて一個の教派を結成した創立大会で、世界の諸教会に向かって発表した宣言を私はよい意味で手本とすべきだと考えている。
そこでは教会が一致をよりよく保ち行くためには北と南が別々の教派として独立した方がよいと判断された。教会的事柄での論争はあくまで聖書にもとづいて議論するのはよいが、政治的課題で論じ合うよりは分かれた方がよい。今日の教会は社会問題に関心を持たざるをえない事情において昔日の比ではないけれども、この一項は十二分に考慮しなければ、教会本来の任務をおろそかにすることになりかねない。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」