2019年3月  №140号 通巻825号
 

「キリスト教百話」

問25 キリストの再臨ということが言われていますが、それはどういうことですか。最後の審判があるとも聞いていますが・・・。

答・・3・・

 キリストの再臨ということは頭の中では、なかなか理解しにくいことでありますが、このことを考える手掛かりになるかと思われる話を、キリストが語られた譬え話を借りて言うと、次のように理解されるのは「タラントンのたとえ」という、題でよく知られている話でして、ある人が旅に出かけるに際して、三人の使用人を呼んで、それぞれの力に応じて、一人に5タラントン(1タラントンは労働者の20年分の賃金相当とされています)、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けたというのです。

 そこで5タラントン預けられた者は、早々出掛けて行って商売をして、ほかに5タラントンを儲けました。もう一人の2タラントンを預かった者も同様にしてほかに2タラントンを儲けました。もう一人の1タラントン預かった者は、穴を掘って主人の金をその中に隠しておきました。

 かなりの日がたってから主人が帰って来て、預けておいた金の清算をはじめたところ、前述のような結果で、主人は先に二人に対しては「忠実な奴だ。わたしはおまえのことで喜んでいる。お前も一緒に喜んでくれ」と言い「これからはお前にもっと多くのものを管理させよう」と言い、1タラントンをそのまま差し出した使用人に対しては、「お前は怠け者で悪い奴だ。お前がそういうやつだと始めから分かっていたのなら、銀行に預けておいた方が、利息付きで返してもらえたのに、そういうことにならなくて残念だ。お前にはもうなにもたのまないから、とっとと出て行ってくれ」と言ったという譬え話です。この使用人は、その結果外で泣いて歯ぎしりするのであろうが、もう取り返しはつかない、という話です(マタイ25:14以下)。

 

 この話のポイントの一つは、人間にはそれぞれに応じたタラントンが与えられているということです(タラントンということは、これに関わる言葉でありまして、それぞれに与えられてる賜物ということを意味します)。問題は、この賜物には、それを信頼と期待をもって貸し与えている主人がいて、その賜物をどのように生かしたかについての評価をするということです。その主人が何時帰ってくるか、その日のことは使用人には分かりません。が、その日が来ることは確かです。

 ですから、何時帰って来られても良いように、主人の信頼と期待に応えるために精いっぱいの努力をするのが、使用人の当然の生き方となるわけです。その結果、「わたしのなすべきことをしただけのことですが、ご主人さまにこんなに喜んでいただいたばかりでなく、更に沢山の信用預かりの栄に浴しました。こんな喜びと光栄はありません」と言うことになります。

 しかし、一方同じ主人であっても、この主人をただ厳しい人とだけ受け止めて、自分が信頼され期待されているとは考えていない使用人にとっては、ケチな主人の怒りを受けないようにきゅうきゅうとしているだけで、賜物も下手に損じないようにしまっておくだけとなるしかありません。

 この話をどう受け止めるかは聞く人次第でありまして、特定の受け止め方だけに絞って、それ以外は認めないというような性質の話ではありません。しかし、イエスが「聞く者は聞くが良い」と言われていることに即して言うなら、この話は、われわれにも主人にあたる方がおられて、その方からそれぞれに相応しいとされている賜物(タラントン)が与えられており、何時の日か、その方から、人生の総括を受けることは確かであると信じて生きることが求められている話であると言うことができます。

       篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

「キリスト教百話」

問24 キリストの再臨ということが言われていますが、それはどういうことですか。最後の審判あるとも聞いていますが・・・。

答・・2・・

  歴史上では、キリストの再臨がすぐにでも起こるように言った人や、それを信じた人たちがいました。大分前のことですが、一通の葉書が送られてきまして「来年の夏ごろには富士山が爆発して世の終わりとなるからご用心ください」という知らせが書いてありました。実際には何事も起こりませんでしたが、そういうことより、むしろ最近の世相や国際情勢には、「このまま行けば世も終わりとなるのではないか」と危ぶまれるものがあるように思います。

 日本でも、「末法時代の到来か」と言われた時がありました。平安末期の戦火、戦乱によって明日が望めなくなったからです。「世も終わりか」と思われるような時はあるものです。しかし、わたしたち人間の思いと、わたしたちを超えたところにある神様の思いとが一致するわけではありません。

キリスト教には「歴史を支配される神」という神様に対する信仰があります。ここで少し歴史というものについての理解の仕方について触れてみたいと思いますが、先ずは「世界の動きというものはその時々の人間の営みの所産であって、その中に特にこれと言った何かの意思が働いているのではない」という考えがあるように思います。過去と・現在・未来というものが直線的に無目的に移行しているという考え方です。

次に「歴史は繰り返す」と言われます。また「永却回帰」という思想もあります。「昔あったことは今もこれからも同じように繰り返される人間の営みはそのようなものだ」ということになりましょうか。

但し、変化しつつ進んでいるのが、との理解もあります。この三つの理解の仕方はそれぞれ説得性を持っているように思います。そして、それは、無目的的であるという点で共通しています。

これに対して、聖書の見方は「歴史は神の支配の展開である」という点において、人間を超えた超越的主体によって、目的的に進められている、という理解に立っているのでありまして、これは神の存在を前提とし、神を世界そのものの歩みが主であると信じている信仰によっての理解であります。

それは、聖書の冒頭に「初めに、神は天と地を創造された」(創世記1:1)と記されていることに明らかなように、この地上の歴史というものは、神によって始められたものであるという理解であります。理屈から言えば「その初めのことを書けるのは、その初めに立ち会った人でなくてはなるまい。しかし人間は神のよる創造の最後に造られたものであるというのであれば、初めを見た人はいないのであるから、聖書の話は作り話に過ぎない」と言うことになります。

まことにその通りでありまして、「見てきたような嘘を書くな」という主張の一面性を否定はしません。が、それは小説の真実性が虚構を用いて表されていることを理解されるなら納得できるように、聖書の表現形式と言うものも、信仰に拠って理解している真実を表現しているものとして受け止めるところから、歴史とその中に生きる人間の生き方が決まってくると思っています。

             篠田 潔

 (日本基督教団隠退教師・

     元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

    <20192月のラジオ放送予定> 

2月 3日 落合健仁 (金城学院大学文学部宗教主事)

  10日 落合健仁 (金城学院大学文学部宗教主事)

  17日 吉松 純 (金城学院大学人間科学部宗教主事)

  24日 吉松 純 (金城学院大学人間科学部宗教主事)

      (放送開始195210月)

 (CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)

 

 

「キリスト教百話」

問24 キリストの再臨ということが言われていますが、それはどういうことですか。最後の審判あるとも聞いていますが・・・。

答・・1・・

 前にも触れましたが、キリスト教の信仰内容を要約したものとして「使徒信条」というものがあります。その中にキリストの昇天に続いて「かしこ(かの場所、すなわち全能の父がおられる神の右の座)より来りて、生ける者と死ねる者を審きたまわん」という一項目があります。

これは、聖書の中に、キリストが昇天されるのを見ていた弟子たちに、天の使いが現れて「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」言ったことにっ準拠している信仰内容であり、またキリスト自身が、ユダヤ人の最高法廷で裁判を受けられた時、「あなたがたはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と言われたことに拠っていることでありまして、」ローマ・カトリック教会にしてもプロテスタント教会にしても共通して信じていることであります(マタイ2064)。

 

問題は、このキリストの再臨ということが、何時、どのようにして実現されるかということですが、初代の信徒たちは「主は近い」と言い、キリストが現れる時を「主の日」と呼んで、この日を待ち望んでしました。但し「近い」ということが時間的に短期間のこととして考え考えられているのか、それとも何万年という期間の中での比較としてのことなのかとなると、どちらとも決めようがありません。

「遅い」と思っていたことが予想に反して早く実現することがありますし、「すぐに」と思っていたことが相当待たされ、忘れたころに実現することもありますから、キリストの再臨については、キリストがその時期を決められることでありますし、しかもキリストにしても父なく神様の指示に従うことによって、時が決められているのでありますから、それに先走って人間の側であれこれ言うのは僭越至極であります。

                    篠田 潔 

(日本基督教団隠退教師・

    元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

<2019年1月のラジオ放送予定>

1月 6日 伊豆倉明美 (日本キリスト改革派関キリスト教会会員)

   13日 伊豆倉明美 (日本キリスト改革派関キリスト教会会員)

   20日 吉住 隆弘 (日本キリスト改革派豊明教会会員)

    27日 吉住 隆弘 (日本キリスト改革派豊明教会会員)

    (放送開始195210月)

    CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ) 

 

「キリスト教百話」

問24 キリストの再臨ということが言われていますが、それはどういうことですか。最後の審判あるとも聞いていますが・・・。

答・・2・・

  歴史上では、キリストの再臨がすぐにでも起こるように言った人や、それを信じた人たちがいました。大分前のことですが、一通の葉書が送られてきまして「来年の夏ごろには富士山が爆発して世の終わりとなるからご用心ください」という知らせが書いてありました。実際には何事も起こりませんでしたが、そういうことより、むしろ最近の世相や国際情勢には、「このまま行けば世も終わりとなるのではないか」と危ぶまれるものがあるように思います。

 日本でも、「末法時代の到来か」と言われた時がありました。平安末期の戦火、戦乱によって明日が望めなくなったからです。「世も終わりか」と思われるような時はあるものです。しかし、わたしたち人間の思いと、わたしたちを超えたところにある神様の思いとが一致するわけではありません。

キリスト教には「歴史を支配される神」という神様に対する信仰があります。ここで少し歴史というものについての理解の仕方について触れてみたいと思いますが、先ずは「世界の動きというものはその時々の人間の営みの所産であって、その中に特にこれと言った何かの意思が働いているのではない」という考えがあるように思います。過去と・現在・未来というものが直線的に無目的に移行しているという考え方です。

次に「歴史は繰り返す」と言われます。また「永却回帰」という思想もあります。「昔あったことは今もこれからも同じように繰り返される人間の営みはそのようなものだ」ということになりましょうか。

但し、変化しつつ進んでいるのが、との理解もあります。この三つの理解の仕方はそれぞれ説得性を持っているように思います。そして、それは、無目的的であるという点で共通しています。

これに対して、聖書の見方は「歴史は神の支配の展開である」という点において、人間を超えた超越的主体によって、目的的に進められている、という理解に立っているのでありまして、これは神の存在を前提とし、神を世界そのものの歩みが主であると信じている信仰によっての理解であります。

それは、聖書の冒頭に「初めに、神は天と地を創造された」(創世記1:1)と記されていることに明らかなように、この地上の歴史というものは、神によって始められたものであるという理解であります。理屈から言えば「その初めのことを書けるのは、その初めに立ち会った人でなくてはなるまい。しかし人間は神のよる創造の最後に造られたものであるというのであれば、初めを見た人はいないのであるから、聖書の話は作り話に過ぎない」と言うことになります。

まことにその通りでありまして、「見てきたような嘘を書くな」という主張の一面性を否定はしません。が、それは小説の真実性が虚構を用いて表されていることを理解されるなら納得できるように、聖書の表現形式と言うものも、信仰に拠って理解している真実を表現しているものとして受け止めるところから、歴史とその中に生きる人間の生き方が決まってくると思っています。

             篠田 潔

 (日本基督教団隠退教師・

     元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

    <20192月のラジオ放送予定> 

2月 3日 落合健仁 (金城学院大学文学部宗教主事)

  10日 落合健仁 (金城学院大学文学部宗教主事)

  17日 吉松 純 (金城学院大学人間科学部宗教主事)

  24日 吉松 純 (金城学院大学人間科学部宗教主事)

      (放送開始195210月)

 (CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)

 

 

「キリスト教百話」

問23 聖書には、キリストは復活された後、天に昇ったと記されていますが、これはどういうことですか。

答・・2・・

 昇天後のキリストは、「使徒信条」というキリスト教の信仰を要約したものの中には、「全能の父なる神の右に座し給えり」と告白されています。全能者であるキリストの父である神の右に座しておられるというのです。「右」というのは権威が委譲されている場ですから、昇天後のキリストは、今も生きて、父なる神の権能を委ねられているということです。

 そのことが何を意味することであるかと言えば、キリストによってわたしたちの願いはキリストの父である神に取り次いでいただけるということです。「主イエスの御名によって」祈るのはそのためです。キリストが「わたしによらなければ父を知ることはできない」と言われているのも以上の理由によってのことです。

 次に、昇天後のキリストは、キリストを信じている者のために、ご自分に代わって、ご自分が地上に生きているのと全く同じ助け主の聖霊を送り続けておられます。また、キリストのことを知らないでいる人たちに、ご自分のことを知らさるために、聖霊を送って下さっているのであります。聖書において証されているキリストが、聖書を読む人に生きた語りかけをされるのは、この聖霊の働きにおいてであります。

 聖霊のことは既に触れましたから、重複しますが、「聖霊によらなければ誰もイエスを主と呼ぶことはできない」のです。このことは、言い換えれば、聖霊においてイエス・キリストは今も生きて働いておられる、ということであります。見えず、触れることもできないイエス・キリストを、見え、聞こえ、触れることもできないイエス・キリストを見え、触れるよりも確かな生きた存在として信じることが出来るのは聖霊によってのことであります。  

 イエスが地上に生きておられた時、弟子たちをはじめとして多くの人はイエスを見、イエスに聞き、中にはイエスに触った人もいました。しかし、イエスの人格・神格の神髄に触れた人はいませんでした。神の側のことは、人間の視聴覚機能ではとらえることが出来ないからです。聖霊は、生きておられるイエス・キリストを、わたしたちの内に宿らせて下さるのです。言い換えれば聖霊によって、わたしたちの内側から聞こえてくるものは、本来的な自分の声だけでなく、むしろ雑音に惑わされている自分に代わって真に自分を生かすものとして発せられるキリストの声となるのです。救われるとはこのことです。自分が自分であることに変わりはありませんが、その自分がキリストと共に生きる自分になるのです。

 このようにして、天にあって生き続けておられるキリストと、地上にあって終わるしかないわたしたちの内に、永遠の命に生き続けておられるキリストが、「わが主」となるのです。キリストの昇天あってのことです。

 篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年12月のラジオ放送予定>  

12月 2日 二宮 創 (日本キリスト改革派太田教会牧師)

    9日 二宮 創 (日本キリスト改革派太田教会牧師)

     16日 橋谷英徳 (日本キリスト改革派関教会牧師)

     23日 橋谷英徳 (日本キリスト改革派関教会牧師)

     30日 相馬伸朗 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)

     (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

 

 

「キリスト教百話」

問23 聖書には、キリストは復活された後、天に昇ったと記されていますが、これはどういうことですか。

答・・1・・

 確かに、聖書には、「復活後のイエスが、その後弟子たちの上に聖霊がくだることを告げられた後、弟子たちがみているうちに天に上げられ、雲に覆われて、弟子たちの目から見えなくなった」と記してあります。(使徒言行録1:8)。「天」という表現が地球の上方のことだとすると、キリストは空中の彼方からの引っ張り寄せる力を受けて上方へ昇ったということになりますが、こういうことがあり得るかと問われた場合、その問いが科学的実証をもとめてのことであるとすると、あり得ないとしか言えません。

 しかし、聖書記者は、新聞記事を書くように見たこと聞いたことを書いたのではありません。早い話が「トンビが天上高く舞い上がった」とか、「隕石が天から降って来た」という場合の「天」は物理的空間を表す語として理解できます。しかし「天地」という場合の「天」は必ずしも上空のことを言うのではなく、また「地」が必ずしも大地をさすわけでもなく、むしろ「地上を超えた世界」とか「天の下にある世界」というように、即物的でないいささか抽象的な意味合いをもった言葉として用いられることがあるわけです。

 そういう言葉の使い方から言うと、聖書の言うところの「天」というのは「神のおられるところ」であるのです。

 

ですから、キリストの昇天ということを、テレビの映像に現れるような視覚的なこととして捕えたり理解したりしようとするのでなく、むしろそういう表現をもって言い表そうとしている意味内容に即して考える方が、事柄の正しい受け止め方であるといってよろしいでしょう。

 キリストの誕生を「降誕」と言いますが、それはキリストの誕生が、神の子が神の世界から地上の人間世界へと下ったことであったからです。そうすることが神の御心でありましたから、キリストの誕生の時、地上の反応よりも、先ず天の側に賛美の歌が奏でられたという聖書の記事の意味することであったわけです(ルカ福音書2:13~14)。

 そういうことから言って、キリストの昇天は、地上の人となって来られた神の子が、今やその使命を終えたことによって、もといた場所へと戻られたことであったわけで、まことに当然のことであったわけです。その使命というのが、地に朽ち果てるしかない人間を、天に繋ぐために、それを阻んでいる罪の赦しを得させるためにご自分の命を捨てられたことによって全うされ、罪を告発する者にとどめをさす働きを貫遂されたのですから、神はイエスを陰府から復活させ、そして昇天という凱旋を行われたわけです。全地が暗くなるような神の子の十字架上の死という悲痛な出来事を通しての神の側の満足は、御子の昇天においてなされたと言えます。

 篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年11月のラジオ放送予定> 

11月 4日 高木 総平(岐阜済美学院宗教総主事・中部学院大学宗教主事)

   11日 高木 総平(岐阜済美学院宗教総主事・中部学院大学宗教主事)

   18日 志村  真(中部学院大学短期大学部宗教主事)

25日 西島麻里子(済美高等学校宗教主事)

      (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

 

 

「キリスト教百話」

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・13・・

 この文章は、テサロニケ教会の中に、復活を信じないという人がいたことと、「主は近い」と言ってキリストが再び来られる(再臨)日が間近に迫っていいるというのが、その時生き残っているわれわれはどうするのか、という質問に対して答えたものと言うことができます。しかし、この文章表現は、まだ起こっていないことをあたかも既に見たように書いているわけですから、詳細に語れば語るほど、逆に「本当かな」という疑問が出てくるのを禁じ得ません。

 この手紙を読んだ人たちは、これをパウロがこう言ったから「はい、そうですか」と素直に信じたとすれば、パウロに対する信頼度が深かったせいかと思いますが、わたくしにはどうしてこういうことが言えるのか、単なる幻想か主観に過ぎないのではないかと思えてなりません。

ただし「読む者は悟れ」ということであるなら、納得出来ます。それは、復活ということは、どういう説明をするにしても、一つの説明でもって集約されることではなく、どんな風にも説明できることであって、パウロもパウロなりの苦労をしながら、彼の表現の仕方で説明したのだと受け止めればよい、ということです。

 ですから、復活ということを、このパウロの説明だけに限ると言ってこれに固執するなら、その一方的な偏りには同意し得ませんが、復活という言語表現では言い尽くすことができないことを言語で言い表そうとしている努力の一つであるなら、これはこれとして受け止めて良いと思います。むしろ、様々な仕方での説明がなされることの方が、復活信仰に生きる命の多様性を示すこととして受け止めて良いのでないかと思います。

 以上の考えに基づいて讃美歌の歌詞を読むと、復活信仰の表明が実に多彩であることを改めて思わされます。その幾つかを揚げてみます。

489番1 清き岸辺にやがて着きて、天つみ国に遂に昇らん。

      その日数えて玉のみ門(かど)に、友もうからも、われを待つらん。

      やがて会いなん、愛でにし者とやがて会いなん。

    3 親は我が子に、友は友に、妹背相会う父のみもと。

      雲はあとなく霧は消え果て、同じ姿共に写さん。

      やがて会いなん、愛でにし者とやがて会いなん。

 よく「天国でまた会いましょう」か「向こうで待っててね」など言うことがあります。向こうにいる人は何億と数知れないのですから、どうしてそんなに会えると言えるのか、「あの人とは同じ墓に入りたくありません」という人に 

とっては、向こう岸も別々が良いことになります。地上の彼方に「清き岸辺」があることや、彼方も地上も同じではないかと思うことも、どうしてそういう風に言えるのか、その確証があるか、と問われたら、返答に困るのではないでしょうか。

Ⅱ136番1 われ聞けり「かなたには麗しき都あり」

       輝けるかの岸に、われは間もなく着かん。

       「ハレルヤ」と歌いつつ、歌いつつ進み行かん。

       わが足は弱けれど、導き給え、主よ。

     3 われ聞けり「み冠と真白き衣を着け主を褒むる民あり」と、

       われも共に歌わん。

       「ハレルヤ」と叫びつつみ声聞きて喜びみ国へと昇り行かん。

       わが旅路終わらば。

 仏教では「極楽浄土」という世界があることを言いますが、この讃美歌に即して言えば、キリスト教では「麗しい都で、冠をかぶり真っ白な衣装をまとって神様をほめたたえている人々がいる輝かしい、かの岸」があることを歌うのですが、そういう世界や彼岸があるということの確証があるかというと、誰にも納得できるような説明は出来ません。妄想であり幻想に過ぎないと言われたら、それを跳ね返すだけの論理は残念ながら持っていません。

 しかし、信仰というものは、そういう人間の側での確証によっているのではなく、人知を越えたところによっているものでありますから、各自各様自由にその表明が出来ますし、してよろしいわけです。復活についての証言も、その意味において、自由な多様なものであるのが当然であると理解してよいのではないかと思います。

  篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年10月のラジオ放送予定>  

10月 7日 木下喜也  (日本基督教団金城教会牧師)

     14日 木下喜也  (日本基督教団金城教会牧師)

21日 横山良樹  (日本基督教団半田教会牧師) 

28日 横山良樹  (日本基督教団半田教会牧師) 

     (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

 

「キリスト教百話」

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・12・・

 テレビの「お笑い番組」によって提供されているお笑いでなく、死に直面するという危機においても、なおこの危機を危機としないで、新しい命へと変えられるものとする視点に立つという、イエスの復活によってわたしたちに提供されて自由に生きることができるなら、そういう死をも笑う人は、ユーモアに生き、人にもそれを示すことができる人であり得ることでしょう。ユーモアということは、そのように、復活という、人間の思いを超えた神の業を信じる者に与えられ発揮できる境地ではないかと思うのです。

 パウロはテサロニケ教会に宛てて書いた手紙の中に、次の一文があります。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいて欲しい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から下って来られます。するとキリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」(Ⅰテサロニケ4:13~18)。

  篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年9月のラジオ放送予定>  

9月 2日 木下裕也  (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

   9日 木下裕也  (日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

16日 金原義信  (日本キリスト改革派豊明教会牧師)

23日 金原義信  (日本キリスト改革派豊明教会牧師)

30日 長谷川潤  (日本キリスト改革派四日市教会牧師)

     (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」 

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・11・・

 この話に示されていることは、イエスが死んだ、という事実と、イエスが生きているという事実と、この二つは矛盾することでありながら、矛盾しないで成り立っているということであります。そして、そういう矛盾を超えて、その双方を成り立たせることができるものとして神の全能という力があるということが、この記事を書いた人が伝えたいと願っていることのポイントではないかと思うのです。

 死んでいると同時に生きているという矛盾そのものが復活のイエスに他ならないと知ることが、復活の真理が分かったといえることではないかと思うのです。「絶対矛盾の自己同一」という言葉があります。絶対に矛盾することが同一になるはずはないというのが、時間と空間の中で事をとらえようとする者に起こる反応ですが、それが可能になるのは、そういう発想を超えた次元においてのことであるというのであれば、わたくしは、イエスの復活という事態において示されることは、この矛盾を克服する秘密がここにある、ということが出来ると思います。

 パウロは「キリストに結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです」と言っています(Ⅱコリント5:17)。そして、そのように新しく創造された者としての自分のことを「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらぼされない」と言っています(同4:8以下)。これは彼が実際に四方から苦しめられて行き詰まったことや、途方に暮れたことがあったことを語っています。

 しかし、そうでありながらそうでない、というのは自己矛盾ですが、その矛盾が、矛盾という次元を超えて、矛盾でない受け止め方がなされている秘訣として、パウロは「わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために、わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」という、イエスの復活に示されている事実を、自分の事実としていることによるのであると述べています(同4:7以下)。

 ある状況の中にありながら、その状況に支配されないでおれるということは、その状況に支配されないでおれる自由を持った人間でなくてはなりませんが、そういう状況を超えて立つことができる自由なものであり得るのは、生来の自分によってではなく、これを超えたものとして対応できる新しく造られた者において初めて出来ることであって、その新しく造られるということが、イエスの復活ということにおいてわたしたちに与えられている、いわば秘儀に属する事柄、即ち、信じる者に実現する神の働きであるということができます。

  篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年8月のラジオ放送予定>  

8月 5日 田中文宏  (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)

  12日 田中文宏  (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)

19日 山田詩郎  (日本基督教団名古屋北教会牧師)

26日 山田詩郎  (日本基督教団名古屋北教会牧師)

     (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・67・・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・10・・

 許されるはずはないと思っている者にとって、許しの宣告に接することは、「ほっとする」ことであります。死ですべてが終わりだとしか思えない者にとって、その終わりをも包み込む新しい世界が突如ぽかっと目の前に展開されること、「これはこれは」とばかりに驚くことであるに違いありません。しかし、この「ほっとする」ことや、「たまげる」ことを経験した者は、それ以前の自分の状況にこだわることがない歩みを踏み出すことができるものとなることは当然のことと言えます。これは、今までの自分から解放されて自由になるということと言えます。

 この「自由を得ている者」が「ユ―モア」をもって人生を生きることができる人だと思います。それはユーモアというものは、いつもその状況を超え、それに縛られていない人の中にあるのであり、それは復活のキリストに出会った人が得ている境地であると思います。

先述した「ユーモア」についてですが、日本語の辞書には「人を傷つけない上品な洒落」という説明がされていました。大正から昭和初期には「ユーモア小説」と銘打った作品が多く発表されていました。日本語で言うなら「滑稽小説」とでも言うことになりましょうが、十辺舎一九による「東海道中膝栗毛」などは、その部類に属する江戸時代からのものと言えましょう。

「ユーモア」というのは、もともとは体液、特に人間の体液のことを言うのでありますが、その体液の結果である気質や気分を意味している言葉であるそうです。しかし、その気分が単に生理的や感覚的なものにとどまらないで、人間存在の全体的な状態としての気分をあらわす言葉の一つとされています。

いささか難解な話になりましたが、これまで述べてきた「復活」ということに即して言いますと、イエスの復活のことを告げている記事には、実にユーモアが溢れていると言えるように思います。それは、復活したイエスを、弟子たちが亡霊を見ているように恐れおののいたのに対して、イエスは手や足を見せて亡霊ではないことを示すと共に、「ここに何か食べるものがあるか」と言い、差し出された焼き魚の一切れを弟子たちの前で食べた、ということにあります(ルカによる福音書24:36~43)。

弟子たちにとっては、イエスは十字架につけられて死んだ、というのが事実です。ですから、イエスが現れたのは、亡霊としてのイエスとしか思えません。イエスは手足を見せました(十字架に釘づけされた跡がある、ということで、正真正銘のイエスであることを示されたことでしょう)。

亡霊の現れ方はいろいろあるようですが、足を出して見せる亡霊などは極めてユニークです。しかも焼き魚を食べる亡霊なんて言うのは、古今東西聞いたことがありません。第一、亡霊が焼き魚を食べる必要など全くないのです。そういう観点からすると、復活のイエスは自分が自分であることを知らせるために、ずいぶん苦労されたなあ、と思います。食べなくてもよい魚をむしゃむしゃ食べるなんて、まあなんて楽しい方かと思いますが、如何でしょうか。

   篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年7月のラジオ放送予定>  

7月 1日 楠本 茂貴 (名古屋学院名古屋高校聖書科教諭)

8日 大藪 博康 (名古屋学院名古屋高校宗教部長)

15日 葛井 義憲 (名古屋学院大学名誉教授)

22日 柳川真太郎 (名古屋学院大学キリスト教センター職員・伝道師) 

  29日 黒柳 志仁 (名古屋学院大学国際文化学部准教授)

     (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 
 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・66・・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・9・・

 注意したいと思いますことは「イエス様に出会った」と言う人は、皆喜びに満たされた顔つきでおられることです。人生の終末期においても、感謝や賛美の言葉を発せられることです。キリストの復活を信じることを、幻想に取りつかれているとの評を受けることであっても一向に差し支えないことであると私は思っています。逆に「幻想でないと分かったら、あなたの人生の実はどうなりますか」と問われることになりはしないでしょうか。

 椎名麟三の作品の一つに「美しい女」というのがあります。その女というのは、作品中の男の主人公の生活の場面にひょいひょいと現れる、というのです。例えば、何かのことで気が滅入っていて、屋台の店に首を突っ込んで杯を傾けている時に、ふと見ると「美しい女」がそこにいて、自分の方を見ているのに気付く、するとその途端にその女の姿がすっと消えてしまうというのです。

 そのようなことは、ほかの人には全然気付かれていないが、自分には何となく心が楽しくなるようなことである、というようなことが筋書きの作品ではなかったかと記憶しています。この「美しい女」とは誰のことかと言いますと、この作者の作風から推して、「復活のキリスト」であるといえるように思えます。それというのも、椎名麟三の人生を支えていたものが復活のキリストであったといわれているからです。

 復活されたキリストが、弟子たちに現れて最初に言われたのは「シャローム」という言葉でした。これは、日本語では「こんにちは」に相当する日常の挨拶語ですが、ヘブル語では「平安であるように」とか「平和であるように」とかいう意味の言葉です。それは、キリストの弟子たちが、キリストの弟子であることが知られることによって捕らえられたり処刑されたりすることを恐れていた時に、また、先生であるイエスが捕らえられた時、自分たちも一緒に捕らえられることを恐れて逃げてしまった自分たちであったため、その先生には大きな負い目を覚えていた時に、キリストの方から「平安があるように」との声をかけられたことでしたから、これは、本当に大きな平安を得、喜びを得たことであったに違いありません。この後の弟子たちの全行動は、この復活のキリストとの出会いに拠ってなされるものとなりました。

   篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年6月のラジオ放送予定>  

6月 3日 沖崎  学 (金城学院高等学校宗教主事)

  10日 沖崎  学 (金城学院高等学校宗教主事)

17日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)

24日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)

       (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・65・・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・8・・

 わたくしが東京のある教会に出席していたある日のこと、一人の信徒の方が御自分の信仰についての話をしに来られた際、その話の中で「先日、数寄屋橋のところで、イエス様にお会いしました」と言われました。今なら「どんなお顔でしたか」とか「服装はどんなでしたか」など、もう少し話をふくらませるような質問をするところですが、その時は「そんな、イエス様が数寄屋橋あたりに来られるはずなんてあるものか」と思って、心の中で一笑に付していました。

 ところが、その後、わたしが牧師として赴任していた教会の信徒で、高齢で入院していた一女性が、危篤であることを聞いて見舞ったところ、「先生、私はさっきイエス様にお会いしました」と言われたものですから、「どんな風にですか」と聞きましたら、「ほら、あそこの白い壁のところです。あそこに現れて、にっこり笑ってくださったのですよ」という返事が返ってきました。

 同席しておられた家族の方には見えなかったそうですが、この話を聞いて、わたくしは「そうでしたか、それは良かったですね」と祝意を表しました。先述の人に対するような批判的な思いはありませんでした。死期を前にしている人に対してのことであったかも知れません。そういうことがあって、それから一時間も経たないうちに、その方は召されました。

 その後、そのほかにも、「イエス様にお会いした」とか、「イエス様が来てくださった」とか言う人の話を聞いたことがあります。その都度、わたくしは「それは良かったですね。わたしも一度お会いしたいものですね」みたいなことを言っています。

 それは、どういう形においてであろうと、キリストに出会うという体験をすることは、祝福されてよいことだと思いますし、キリストが、復活され、今も生きておられるからに外ならないと思うからです。

 こういうことを言いますと「それは幻想に過ぎないよ」と仰る方が少なからずおられることと思います。そう評されて「そうではない」と言えるような客観的根拠となるものは持ち合わせていません。しかし、「幻想に過ぎない」と言う批判も、そう言い切れる根拠があるか、と問われることと思います。つまるところ、「キリストの復活」ということは、信仰のことであって、その信仰によって生きた人がいたことや、そういう人の歩みは歴史的証言の対象とはなり得ても、信仰の内容そのものは史実としては客観化され得ないことであるからです。

   篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年5月のラジオ放送予定>  

5月 6日 久保田証一 (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)

  13日 久保田証一 (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)

20日 相馬 伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師) 

  27日 相馬 伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)

          (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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