2018年4 月 月号 №128 通巻814号 号
 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・64・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・7・・

 ところが、お任せすることは他者に自分を委譲することであり、その限りにおいて他者を自分よりも優れたものとすることでありますから、こういうことに承服できない人がいます。何でも自分でしなければ承知出来ない人です。が、委ねるべきことを委ねないなら、そういう人は、自分一人のままで終わるかもしれません。助けようと伸ばされている手があってもはねのけている人は自分のちっぽけな限界の中に留まって終わりです。自業自得とはこのことを言うのでしょう。

 こういう人は、大局に照らしてことを見ることが出来ない「井の中の蛙」に匹敵する人と言えましょう。こういう人にとって必要なことは、他者に委ねようとしない自分を一度殺すことです。そういう自分に死ぬことです。昔から「大死一番」ということが言われてきましたが、それは死ぬべきものについてはしっかり死ぬことの大切さを説いた言葉だと思います。死ぬべきは、今までの自分なのです。その自分を葬り去らないままでいる以上、旧態依然でしかないのです。

 パウロは復活のキリストに出会って「目から鱗のようなものが落ちた」と言っていますが、キリストとの出会いによって、今までの自分を葬り去るべき自分であることを翻然と知られたということでしょう。考えてもいなかった大局のあることを知らされて、今までの自分ではなく、この大局の中に生きる自分とされていることを知ったことが、「キリストと共に葬られ、その死にあずかる者となった」と言っていることであり、それに続いて「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです」と述べていることで、復活は、死あってのことであります。

   篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年4月のラジオ放送予定>  

4月 1日 岩淵正樹  (日本基督教団高蔵寺ニュータウン教会牧師)

   8日 岩淵正樹  (日本基督教団高蔵寺ニュータウン教会牧師)

  15日 畑 雅乃  (日本基督教団金城教会牧師)

  22日 畑 雅乃  (日本基督教団金城教会牧師)

  29日 田口博之  (日本基督教団名古屋教会牧師)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・63・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・6・・

 ところが、この死が、新しい命に回復されることがあります。それは、死んだ最愛のものの甦りによってです。新しい命といったのは、以前の体そのままの命の再生ではなく、霊的という質的に新しい命としてであります。

 私の個人的な経験について言えば、父母が亡くなった後、私は帰るべきところを失いました。それは、言い換えれば、帰るべきところを持っていた自分は、父母の喪失によって、父母と共に失われてしまったということです。しかし、しばらく経つと、父母は生き返ってきました。特に私を愛してくれた日々の父母の姿が、父母が生きていた時には大して感じなかったものが、今や鮮やかに「ああ、そうだったんだ」と言えるような姿で、現れてくれるようになったのです。こうして私は、帰るべき地上の場所を失いましたが、今、父母と共に立つというところを与えられました。これは、失われていた私が新しい私へと変えられた、ということとして考えてよいのではないかと思います。

 こういう経験は、多少の違いはあっても、多くの人にとっての共通していることではないかと思います。

 以上のことから言って、私は、キリストの弟子たちが復活のキリストに出会った復活のイエスは、見てそれと分かる具体的な姿で現れたのではなく、弟子たちに語り掛ける存在として今も生きていることを示されたのでした。これは視聴覚を超えた霊的なことであり、信じられることでした。

 私たちは、時に「お任せします」ということがあります。委任状を出すこともあります。それは、ある事柄の処理決定について、自分以外の誰かに委ねることでありまして、それは、その時点において、自分というものを自分とは別の人のものにしたことを意味します。勿論、そうであるからには、お任せする相手を全面信頼してのことであります。

 それはまた、自分のことでことを処理するよりも、もっと優れた処理決定や指導をしてもらえるに違いないという信頼であります。ある意味において、私共の人生はお任せに終始している、と言えるものではないかと思います。

 生まれた時から成長するまでのことは、父母にお任せしていますし、学校の先生や先輩の指導に自分をお任せしています。この「お任せすることが出来る他者」が存在していることが、自分の生存・成長・充実・補完等に不可欠なことであります。他人に手を引いて貰わなければならない時も来ます。

 そうなったら、引いてくれる手に委ねることが、自分のこれからを生きていくのに欠かせないことです。委ねることが出来る存在があるということは、そういう意味において幸せなことであります。

  篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年3月のラジオ放送予定>  

3月 4日 橋谷英徳  (日本キリスト改革派関教会牧師)

  11日 橋谷英徳  (日本キリスト改革派関教会牧師)

  18日 遠山信和  (日本キリスト改革派静岡教会牧師)

  25日 遠山信和  (日本キリスト改革派静岡教会牧師)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・62・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・5・・

 死は人間の側から見れば絶対の終わりです。しかし、神の側からすれば、人間の死は絶対的なものではなく、その死をもって、神は、永遠の命へと生かす力を持った存在として絶対者であられることを、神に従って生きたイエスを復活させられたことによって、相対化される方であることを証された、ということができます。その意味で、イエスの復活は、人間の側で絶対視していることが、神によって相対化されたことであり、そのことが真の絶対は神の側にあることが明らかにされたことであったと言えます。

 パウロが、死人の復活において「死は勝利にのみ込まれた。死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」という預言者(イザヤおよびホセア)の預言の実現として、絶対化されていた死の壁は破られたとしているのは、まことの絶対者に出会って開眼を得たに他ならないと思います。

 人間は相対的存在に過ぎないのに、しかもその相対性を位置づける視点を持ち得ないままで生きています。イエスの復活は、その相対性を明らかにすることによって、人間がとらわれ、閉じ込められていたものからの解放を、神が、人間に与えられたこととして、受け止められることであります。復活はそういうこととして信じられることです。

 パウロが「キリストを信じて洗礼を受けたということは、キリストと共に葬られ、その死にあずかる者となった」と言っていることは先に引用したことですが、これは、洗礼を受けるということは、キリストが死なれたその死に自分もあずかったことなのだ、と言っているわけで、平たく言えば「キリストの死はわたしの死であった」ということです。

 こういう言い方は、パウロ以外の人からも聞くことがあります。たとえば、最愛の人を失った人が「わたしの人生はあの人が亡くなったことで終わってしまった」という声を聞くのです。この人にとっては、その最愛の人と共に生きていた時の自分が自分であったのに、その共に生きてきた人が亡くなってしまったのですから、それは、その時をもって、今までの自分がなくなってしまったことになるからです。

 自分を自分として生かしているものも大切な者との関りなどまったく持たない人にとっては、どうということはありません。最愛の者を失った後、それは、ほかの何物によっても補うことが出来ませんから、最愛の者の死は、それまでの自分の死でもあるからです。

  篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年2月のラジオ放送予定>  

2月 4日 小室尚子  (金城学院宗教主事)

  11日 小室尚子  (金城学院宗教主事)

  18日 落合建仁  (金城学院大学宗教主事)

  25日 落合建仁  (金城学院大学宗教主事)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・61・・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・4・・

 「復活ということがあり得るか」という議論は、答えは出そうにはありませんが、パウロは次のようなことを言っています。

 「わたしたちは、四方から苦しめられても生き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(Ⅱコリント4:8~9)。四方から苦しめられたら行き詰ります。途方に暮れたらもう望みはありません。虐げられるままでは見捨てられているとしか思えません。打ち倒されたらもうそれっきりです。

 それなのに、こういうことが言えるのは、パウロという人が百戦錬磨の勇士みたいな人であったかと思われますが、彼はその秘訣を「わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために、わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬ筈のこの身にイエスの命が現れるために」(同前10以下)、つまり、どんなことがあってもへこたれないでおれるのは、イエスの復活を信じているからだ、と言うのです。

 ここで明らかなように、パウロは、自分の中にどんなことがあってもへこたれない力があるからだとは言いません。パウロは、「もうダメだ」というしかないどんな事態の中にあっても、それでダメになってしまわないでおれたのは、イエスの復活の事実の中に示されている事実、すなわち、神の大能は、死者を甦らせているのであるから、イエスを信じイエスに従って生きている自分にも、その力が働くことを信じているからだ、と言っているのです。誰かを信じているということは、その誰かの持っているものに自分もあやかれます。「いよいよとなった時には「あの人に頼めば良い」という信頼がありますから、多少の動揺はあるにしても、「もうダメだ」ということにはなりません。

 つまり、ことは信仰にある、ということになります。パウロにとって、どんな時にも失望せず挫折することもないのは、イエスを死人の中から甦らせた神が自分の神であるからだ、と言っているのです。

 こういうことから言って、パウロは洗礼を受けたことについて「あなたがたは知らないのか、キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」と言っています(ローマ6:3~5)。

 篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年1月のラジオ放送予定>  

1月 7日 杉本美由紀 (名古屋キリスト教社会館チャプレン)

  14日 杉本美由紀 (名古屋キリスト教社会館チャプレン)

  21日 山田麻衣子 (日本基督教団名古屋北教会牧師)

  28日 山田麻衣子 (日本基督教団名古屋北教会牧師)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・60・・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・3・・

キリストの復活を現象として納得出来るように説明することは出来ませんが、神の愛の力は死者を今に生かし、しかも永遠である神の命の中へ生かしてくださったことは信じられるし、信じてよいことだと言うことが出来ます。永世といい、不死といい、不老長寿と言いますが、それは、愛されている喜びがあって意味があることであって、愛のない世界へは生き返るにも生き返りようがないというものです。

キリストの復活は、以上の意味において、死者を「死なせたままにはさせておかないぞ」という神の愛の力を示していることとして、キリストを信じる全ての人に示されている秘儀であるということができます。

「復活」を「生き返ること」のように思う人は「そんなことはありえない」と言われるに決まっています。その通りでありまして、生き返るのであれば、完全に死んではいないからであります。そして、「死ぬ」ということは、生き返ることのない事態であるからです。「復活」という字は「また生きる」ということを意味しますから、「再生」と同じように受け止められるかもしれません。が、そうではありません。「死」は全く「生の断絶」でありまして、その先に何かに連続されたり、新しい何かが生み出されるということではありません。「虚無の深淵」に落ち込んで終わりです。

聖書が伝える「復活」は、「神による創造」というべき出来事でありまして、こういう出来事を実現させる力のことを「神の大能」といいますが、この力によって、死んだ者に、まったく新しい命を与えられて、この命の支配の中に置かれることであります。それが「死んで、葬られ陰府に下ったイエス」を死人の中から甦らせたことにおいて示された出来事であります。

「そんなことがあり得るか」というのが、すでに述べたように万人の思いであります。しかし、この驚天動地とも言うべき出来事がイエスにおいて起った、言い換えれば、神はイエスを復活させたことを信じるということから、キリスト教が始まっているのであります。それは、この信じ難きことを信じさせる力を神が与えられたからです。

そういう意味からすれば、クリスチャンもキリスト教会も、神のよる創造の業の実現の印ということが出来ます。以上のようなイエス・キリストにおいて示された神の力とその支配を信じることによって「すべてのことを御手に委ねます」ということが出来るのであります。これが、キリスト教が「イエス・キリストによる啓示の宗教」と言われる理由です。

  篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2017年12月のラジオ放送予定>  

12月 3日 山田詩郎 (日本基督教団名古屋北教会牧師)

   10日 山田詩郎 (日本基督教団名古屋北教会牧師)

   17日 草地大作 (日本基督教団名古屋中央教会牧師)

   24日 草地大作 (日本基督教団名古屋中央教会牧師)

   31日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師) 

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

 

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・59・・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・2・・

キリストの復活という出来事の以前に、キリストが死者を復活させられたと言う話がヨハネ福音書に記されています(11章)。それはラザロという男が死んで墓に入れられ、死後4日経っていたのに、イエスが「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれたところ、ラザロは起き上がって墓から出てきた、という話です。イエスがラザロを生き返らせた話として有名です。

 この話をどう受け止めるか、どう説明したらよいか、難渋します。人によってはラザロは仮死状態だったと言いますが、死んでから4日も経ってのことで匂ってもしたと言いますから正真正銘の死であったと言えます。

 キリストの復活の場合は、それがキリストだとは分からなかったと言いますから、復活ということは生きていた時の姿の延長態ではなかったのですが、ラザロの場合はそれと分かる仕方での復活でした。その後、ラザロはどうなったのか、戸籍簿にどう記載されたか興味を惹くところですが、死んだ人が生き返る経過の観察記録など皆無ですから事態の説明のしようがありません。ただ、この話の中で考えさせられることは、ラザロが死んだことを、その姉妹たちが泣いているのをキリストが見て、心に憤りを覚え、興奮された、と言うことについてです。

 普通親しい人が死んだ時、泣きはしますが、憤って興奮すると言うことは先ずありません。がイエスは憤られた、というのです。これは私の解釈になりますが、この憤りは「ラザロをこのままにしておいてなるものか」と言う激しい思いからであり、これがラザロを生き返らせる力となったのだと思うのです。

 事実、わたしたちも愛する者を失った時、「死なせっ放しにさせてはおかない」という思いがあって、それが死者を今に生き返らせているという事実があるのではないでしょうか。それが死者に対する愛であり、この愛の中へ死者は何時も甦ってくるのではないでしょうか。

 そういうことを思うと、ラザロの死に対してはイエスの、イエスに対してはその父なる神の愛が、死の壁を破って、新しく生かす力となって現れるのは、むしろ当然のことではないかと思われるのです。

  篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2017年11月のラジオ放送予定>  

11月 5日 高木総平 (岐阜済美学院総主事・中部学院大学宗教主事)

   12日 高木総平 (岐阜済美学院総主事・中部学院大学宗教主事)

   19日 志村 真 (中部学院大学短期大学部宗教主事)

   26日 西島麻里子(済美高等学校宗教主事)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

 

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・58・・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・1・・

「復活」という言葉は、それ自体に、そういう言葉を語る人にも聞く人にも、何らかの先入観を抱かせるようです。例えば「敗者復活戦」とか「あの人をもういっぺん復活させよう」などと言うことがありますが、その場合の復活は、一度退けられた者にもう一度生かすチャンスを提供することを意味しますが、命が断たれた上での復活ではありません。また「復活なんてことがあり得るか」と言う人には、復活と言うことを、完全に死んだ人の蘇生として受け止めておられるから、そういう批判をされるわけです。

 そのほかにも、復活ということについてはいろいろな理解の仕方や批判があって、そのどれもがもっともなことと言えますが、ただし、聖書が語っているのは、復活の一般論ではなく、神が、神の力をもって、イエスを死人の中から甦らせたこととしての復活であります。

 そうは言うものの、この復活ということが理解しがたく信じられないのは事実です。先に述べましたように、イエスが復活されたことは、復活のイエスに出会った人たちがほかの人たちにそのことを話しても誰も信じなかった、と言います。またパウロがアテネで人々の求めに応じて彼らにとって新しい教えとして興味を抱いて聞いていた話の中で、ことがキリストの復活に及ぶと「ある者はあざ笑い、ある者は『そういう話はいずれまた聞かせてもらおう』と言ってその場を立ち去った」といいます(使徒言行録17:32)。アテネといえば知者の集まる所として自負していた町ですから、復活のことは、彼らの理性や知性によって一笑に付されたわけです。

 ことほどさように、復活ということは「聞いても分からない」という性質のことです。それは、わたしたちが何かについて「分かる」というのは、わたしたちに分解・総合する力があってのことです。「分かる」と言えるのは、わたしたちが、その対象となっている物事を把握する主体となっているからです。ただ、そうは言っても、この主体には限界がありました。自分を超えたものについては、分かりようがありません。死後のことなどそうです。

 死後のことについていろいろ分かっているかのように言う人がおりますが、どうしてわかったと言えるのか、疑問です。クリスチャンはキリストの復活を信じていますが、この「信じる」ということも、わたしたちの中に「信じる能力」があってのことではありません。ことはキリストの復活に限りませんが、こういうことを「信じられるか」と問われたら、「信じられません」というのが正直なわたしたちの事実です。しかし、そういっている自分が逆転するのもまた事実です。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2017年10月のラジオ放送予定>  

  10月 1日 金原信義 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)   

      8日 金原信義 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)

     15日 金 起泰 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)

     22日 金 起泰 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)

     29日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・57・・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・

答・・16 「陰府」というところは、死んだ人が赴く最終箇所であります。「地獄へ落ちる」ということを言いますから、その「落ち込む果て」と言ってもよいでしょう。「そんなところがあると確証できるか」という人もおられるでしょうが、「地獄へ落ちるのではないか」と思っている人間の真実性があることは否定できません。そういう前提の上で言いますと、イエスは死んで葬られ「陰府に下った」というのですが、死後人間が行き着く究極の場まで行ったということになります。前回触れた「使徒信条」には「陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り」とあります。これはイエスが「死から復活された」ということです。

 ここで少し聖書の記事に触れますが、イエスの伝記とも言うべき福音書には、復活のイエスに最初に出会ったのは、数人の女性であったといいます。その話を聞かされた弟子たちは誰も「そんなことが信じられるか」と、彼女たちの言うことを信じなかった、と言います。それは今日に至るまで同じことでありまして、イエスが死人の中から甦ったなどは、まともに受け止めようとはしません。むしろ、そういうことは信じることが出来ないということが当たり前で、信じるという方がおかしいとされます。

 ところが、この「おかしい」とされていたことが、おかしくなくて真実となったというのが、福音書に記されている弟子たちの証言でありますし、その後、クリスチャンになった人たちの証言でもあります。

 キリスト教会が日曜日に仕事を休んで礼拝の日としたのは、日曜日が復活の日であったことに因ります。逆に言うと、イエスが復活されなかったなら、日曜日を礼拝の日として仕事を休むということはあり得なかったということになります。

 では、イエスが復活されたということはどういうことであったかと言いますと、先ず言えることは、人間にとってその生の最後に立ちはだかって、それから先へと進ませないという壁がイエスによって打ち破られた、ということであります。勿論、そのことは人間の体がいつまでも死なないということではありません。体は死ぬことは確実です。イエスも死なれたのです。

 しかし、その死が終わるのではなく、神によって新しい命へと変えられる、ということがイエスの復活において示された、とうことであります。

 このことが、「死は勝利にのみこまれた。死よ、お前の勝利はどこにあるか」という根拠であります(コリントⅠ、15:54~)。

 この項の始めに「陰府」のことに触れましたが、イエスの復活は、この「陰府を支配している力が破られたことでありますから」、「陰府に閉じ込められていたすべての人の陰府からの解放」が実現したのでもあります。「死からの解放」としての「救い」がここに実現しているということであります。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2017年9月のラジオ放送予定>  

  9月 3日 田口博之 (日本基督教団名古屋教会牧師)  

    10日 田口博之 (日本基督教団名古屋教会牧師)

    17日 尹 成奎 (日本基督教団津島日光川燈台伝道所牧師)

    24日 尹 成奎 (日本基督教団津島日光川燈台伝道所牧師)

 

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・56・・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・

答・・15 こういうことが言えるのは、イエス・キリストを信じているという信仰によってのことであります。では「キリストを信じることによってそういうことが言える根拠は何か」と問われたならキリストが十字架につけられたことと、三日目に復活されたことにあります。

 戸籍の記録が残っているなら「ナザレのイエス・○○年○○月○○日エルサレム、ゴルゴタ刑場にて死刑により死亡」とあるはずです。日本の寺のように過去帳があれば埋葬の記録もあるはずです。その後、その遺体が、アリマタヤのヨセフによって引き取られ、彼の墓に納められた。ということも、当時新聞記者がいれば事実として読者に伝えたに違いありません。これらのことは、歴史上の事実であるからです。イエスの伝記を書いた福音書の記者もこのことは記しています。

 ところが、キリスト教のエッセンスともいうべき「使徒信条」には、イエスについて「死にて葬られ」に続いて「陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り・・・」というひとくだりがあります。これは史実としては記録されません。もし記録されるとすれば「イエスの弟子たちは、イエスの死後、イエスは陰府に下って、三日目に死人のうちより甦って、更に天に昇った、と信じているそうだ」ということになるでしょう。それは、まさにその通りでありまして、イエスが陰府に下ったとか、復活したとかいうことは、誰にも納得できるような確証を提供することができない事柄であるからです。

 そういうことから言って「使徒信条」というものは、信仰を言い表したものであって、史実の確認文ではないことは明らかです。

 「そうだとすると、信仰といったって、それは単なる思い込みに過ぎないのではないか」という批判が出ることだろうと思います。しかし、そういう批判は、すべてを合理性と客観性に合致しなければ認められないとする、科学によってだけ事柄を捉えようとするところから出てくるのであって、科学ではとらえきれないものが沢山あるのに、それを無視していることに因ると言わざるを得ません。

 例えば、出会い頭に人とぶつかった場合「目から火が出た」と言います。また、ある時、今まで全く気付いていなかったことを「はっ」とするような仕方で気付かされた場合に「目から鱗が落ちた」と言います。こういう時、第三者には「目から出た火」や「目から落ちた鱗」が見えるわけではありません。それは客観性を持っていないし、科学的に証明できることでもありません。だからといって「それは単なる思い込みではなかったか」と言われてれも当事者は承服できないことだろうと思います。それは、その人にとって真実であるからです。また、批判した人が後に同じようなことを体験した場合、以前批判したことが見当違いであったことを体得するに違いありません。それは「真実」というものがそういうものでもあるからです。

 信じていることに対して「それは非科学的である」とか「客観的普遍性を持っていない」と批判することは容易でありますが、そういう批判が「真実」を見過ごすことになってしまうことになりかねないことを、先ずは知っておく必要があると思います。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2017年8月のラジオ放送予定>  

  8月 6日 黄 敬秀 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)     

    13日 黄 敬秀 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)     

    20日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)

    27日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・55・・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・9・・

答・・14 では「永眠」というのは本当に永遠の眠りであって、朝起きるように、時が来れば再び眠りから覚めるかどうか、ということが問題になりそうです。この点、わたしたちが子供のころから仏教説話で聞かされてきた内容は、三途の川を渡ること、しかも渡し賃が要ることを始めとして、飽きないくらい多様な世界が死後段階的に展開されるというものでありました。勧善懲悪を教えることに現実性がありました。

 こういう説話をどう受け止めるかは別として、この説話では死んだら永眠とはならないわけです。生きていた時のツケは四十九日までに、遺族が代わってきちんと始末しなければならないとされています。仏教の門外漢であるわたくしには誤解があるかも知れませんが、見た所ではそんな感じがします。即身成仏ということも言われていますから、成仏ということは有り得るわけです。

 こういうことに比べると、キリスト教では、成仏とか成神とかは有りません。死んだ人にも等しく神の支配の下で、神と共にある、ということです。そして、そのことは、イエス・キリストを信じている者に示されていることである、ということです。

 ただし、ここで明らかにしておきたいことは「××に成る」ということはないにしても、キリストを信じる者は、現に今生きているこのままで「神の子とされている」ということがあります。「神の子とされている」というのは、本来神の子ではなく、神の子と呼ばれるには全くふさわしくない者が、神の側の一方的な意志によって(それが恵みというものですが)「あなたをわたしの子とした」と宣言されたことによって成り立っていることなのです。

 これはわたしたち人間の側の精進潔斎修行努力の結果与えられた身分ではなく、わたしたちが神の子として遇されるためにしなくてならないことの一切をキリストが引き受けて下さったことによって実現されている事実です。

 神は永遠の方で、神を信じる者は、この永遠であられる方に受け入れられているのですから、この地上という空間と時間の制約のある世界に住みながら、すでに永遠の世界に繋がれているのです。ですから、死んで改めて神と共にいるようになる、ということではありません。死ねばこの世にはいなくなりますが、神と共の生きるということは、生きている時から変わりなく続いているのです。

 さきに「死んだらどうなるか」と問われる方があったことを述べました。ここでこの問いに答えるなら「どうかなるというものではありません。今がそうであるように、死んでからも神様と共にいることに変わりはありません。そして、神様が計画されていることを、わたしにされるでしょう。そしてそのことがなによりも一番良いことだと信じています」と答えたらよい、と考えています。

 篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・54・・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・8・・

答・・13 日本人は昔、死んだ人は山へ帰ると信じられていたようです。山ふところに抱かれて永遠の眠りにつくなど、自然でいいなあという思いがあります。土葬にすることは、人間のからだが遂には土の成分に吸収されてしまうことですから、聖書記者が「神は人間を土から造られた」と言っているのは、その意味では適切な表現であると言えます。事実人間には自然的な存在であるという一面があります。

 ただし、こんにちでは死者が「山へ帰る」という思いにはなかなか繋がりません。中には「山に帰りたい」とか「海へ帰してほしい」という人もあって、そういう場所へ散骨する人もいますが、大抵の人は墓場か納骨堂へ、それも骨だけで納まることになっています。帰る場所が人工的になりました。死後納まる場所が人工的になり、しかも狭い場所に限定されることになってしまいました。

 以上は場所のことですが、それだけではありません。神道では亡くなった人は神になりますし、仏教では仏になります。靖国神社に神として祀られたり、祭神が大昔の誰かであったりするのはその現れであり、死人のことをホトケサマなどというのもそれです。更には死んだ人に戒名に現されているような位階がつけられます。そういう風に、わたくしたちの間には「成神」とか「成仏」とかいうように、死者を拝むということも何ら問題なくなされています。

 以上のような伝統的でまた一般化されている死者や死後観に対して、「ではキリスト教ではどう考えているか」と問われて先ず言えることは、聖書では、死ぬことを「眠りにつく」と言っているということです。日本語でも「永眠」という言葉は定着しています。この表現はなかなか言い得て妙だと思います。というのは、わたくしたちは、朝、目覚めて、それまで眠っていたことを知ります(もっともそういうことを毎朝考えているわけではありませんが、事柄としてはそうです)。

 目覚めなければ眠っていたということは分りませんから、「永眠」と言うことになります。ただし、その眠っている状況が本人においてどうであるかは、第三者には分かりません。生きている人間が「あの人はお眠りについた」という言い方であっても「死んだ」ということを言い表している、ということです。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

<2017年6月のラジオ放送予定>  

  6月 4日 沖崎  学   (金城学院高等学校宗教主事)     

    11日 沖崎  学   (金城学院高等学校宗教主事)     

    18日 後藤田典子   (金城学院中学校宗教主事)

    25日 後藤田典子   (金城学院中学校宗教主事)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・53・・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・7・・

答・・20 わたくしが幼稚園児であった時です。先生が部屋の中に入ってきた時、紙くずが床一面に散らかっていました。先生は厳しい顔つきで「こんなこと誰がやったのです?」とみんなを睨みつけました。誰も何も言いません。沈黙の時間が流れました。すると一人の園児が身をかがめて紙くずを拾い始めました。「あなたがやったの?」と先生が問いました。彼は一言も答えず、黙々と紙くずを片付けました。「しょうがない子ね。今度やったら承知しないわよ」と言って、彼を叱りつけました。

 わたくしは、やったのは彼でないことは知っていました。彼がそんなことをするような子ではないことを知っていたからです。恐らく先生も彼がやったのではないことを知っていたと思います。しかし、なされた結果については厳しく咎めなければなりません。そうでなければ、先生が平素から注意していることが、どうでもよくなってしまいます。だから厳しく咎めたのだと思います。わたくしは、その時、彼にちょっとした嫉妬心を抱きました。

 わたくしも一緒に片付けに加わっていたらちょっとカッコよかったなと思いました。しかし、わたくしは見ているだけで何もしませんでした。ほかの連中も皆そうです。しかも、紙くずを蒔き散らした子に「やめろ」ときつく制止する子はいなかったのです。更に悪いことには、その子が紙くずを蒔き散らすのをはしゃぎ立てた子もいれば、黙ってみていた子もいたのでした。そういうことから言えば、全員がられて当然だったと言えます。が、実際には紙くずを万座の中で一人かがんで拾い集めた子に、集中的なお叱りが下ったのでした。

 キリストは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちのやっていることがわかっていないのですから」と言って、自分を十字架につけて殺す側にいるすべての人のために、神からの赦しを求められました。本来、許しを求めなければならない側の人間の無頓着さを担って、自分の命をかけられたのです。

 罪に対するものは何であっても赦しはありません。罰せられて初めて赦しが成り立つのです。その意味では、キリストが十字架の上で父である神から見捨てられたのは、すべての人が受けるべき神からの遺棄という罰を、代わって担われたということが出来ます。キリストによって代罰、代苦ということが成し遂げられたことによって今やすべての人が神に赦された者として、キリストが神の子であられたと同じように、神の子として遇されるという恩恵に与かることができるに至っているのです。

 この事実を贖罪と言い、このことによって得られたことが「神との和解」と言われていることであります。ですから、このことを信じている者はすべて「天の父なる神様」と言って、まるで子が親に向かって言うように語りかけることが出来る者とされているのでありまして、これが「神なき世界」からの解放であり、救いであります。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

<2017年5月のラジオ放送予定>  

  5月 7日 横山良樹   (日本基督教団半田教会牧師)

    14日 横山良樹   (日本基督教団半田教会牧師)

    21日 西村 清   (中部教区巡回牧師)

    28日 西村 清   (中部教区巡回牧師)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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