2020年2月  №151号 通巻836号
 

「キリスト教百話」

  

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。

 

答・・8・・

 ある牧師の集まりで「自殺した人はどうなるのか」と言う問題を巡って意見交換をしたことがあります。それはモーセの十戒において、神は「汝、殺すなかれ」と命じられているから、他人であろうと自分であろうと殺すものは神の御心に適わないことをしたのだから、当然、神の祝福の中には入れられない、と考えるからです。

 最近はそうでもありませんが、ローマ・カトリック教会では、自殺は、「殺すなかれ」という神様の戒めに背いたことになるから神に対する罪を犯したこととして赦されず、従って自殺者の葬儀は教会では行わない、ということになってしいました。その観点から言えば妊娠中絶も胎児を殺すこととして赦されないことでした。ただし、こういうことは他者があずかり知ることができない分野のことでもありまして、そう単純明快に答えが出せるものではなく、したがって、不問とされてきた傾向が強かったと思います。しかし、そうは言うものも、何とかある答を見出したいという思いが冒頭のような問題提起となったのでした。

 

 これについて、ある牧師は「神様の愛のみ手に委ねればよい」と言いました。すると別の牧師が「神の愛のみ手に委ねる」という時には、若干人間が自分たちに都合がよいように神様を想定してしまっているきらいがある。そういうことから言って「神の全能の御手に委ねる」という方が良いのではないか、と言いました。

 この発言で大方の人は納得しました。それは、神の全能においてなされることが一番良いことだと信じられるからです。そいういうわけで、わたくしは、葬儀の司式をする時には「神様、この人のすべてをあなたの全能の御手に委ねます」とは言うものの、以上のような説明だけでは納得出来ないと言うのか、落ち着けない点がありまして、様々な質問が出されます。

 例えば「そうはおっしゃいますが、亡くなった人は本当に安らかでしょうか」という質問です。こういう質問を出される人は、恐らく亡くなった人の生前の生き方を見ていて「あのままですんなりと死後の安らぎを得られるとは思えない」と考えられたことと思います。また生前やり残したことが一杯あって、無念のまま死んだ人も安らかでおられるのか、とか、特に心ならずも戦場に送られて無残の死を遂げた人も、死んだ後は安らかな境地になっているのか、などの疑問があるわけです。

 それは、どこかで帳尻が合わないことには、落ち着けないからです。この点について人生の達観者の一人は「善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえにながらえることもある」と言っています。(コヘレト7:15)

こういう言葉を聞くと「それは、そうだが、だからといってそういうことで落ち着かれるか」という思いがあって、不条理には耐えがたいものが人間の中にはあるように思えます。

 

   篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

「キリスト教百話」

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一つ釈然としませんので、もう少し説明してください。

 

答・・7・・

 キリストや殉教者ステファノの例などを引き合いに出すと、ほとんどの人には縁遠い話のように受け止められかねませんが、キリストと共に十字架につけられた犯罪人が、キリストに向かって「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのに対してキリストが即座に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたし一緒に楽園にいる」と宣言された(ルカ223943)ことに即して言うと、キリストがおられる楽園に共におれる者というのは、どういう人であるかに関わりなく、キリストに対して「あなたを信じます」という者でありさえすれば、その時直ちに楽園(神の国=天国)の住民に加えられる、というのである、ということなのです。

 

 このことが非常に大切な点です。と言うのは、多くの人は自分にこだわるからです。例えば「わたしはステファノのような立派な信仰者にはなれない」とか「十字架につけられるほどの人間でもない」とか言うのです。つまり、良くも悪くも何者かとしての自分が自分の内に占めているものですから、キリストはそういう人の内へは入ろうにも入れないでおられるのです。

 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう」と言うのがキリストの招きというものです(ヨハネ黙示録320)。

 

 自分の内側を自分で点検したり他人との比較対照で、あれこれ考えたりしている限り、キリストは、依然として外に佇んでおられるだけです。自分の中のことはどうでもよいのです。もともとこだわるほど大したものではないのです。「さあ、どうぞお入り下さい」と言うのが、キリストを信じるということです。そうすれば、先述の犯罪人ではありませんが、その途端に、信じた者は、キリストと共に楽園に住むことになるのです。

 

 少しくどくなったかも知れませんが、ここまで書いてきたことは、「世の終わり」とか「最後の審判」ということも、今、キリストを信じているなら、そこで世の終わりも最後の審判もすべてがキリストによって「楽園住民証明書」をいただいていることによって、「問題なし」として解決済みのこととして理解すれば良い、ということになるのです。

 真面目な人か、ぐうたら人間かなど問われてはいません。問題は、今、キリストを信じてキリストと共に生きる恵みに与かっているかどうかにあります。言うなれば、今と言う時が世の終わりであり最後の審判がなされているところであります。それは今と言う時が、時間と空間を越えた永遠との接点である、と言うことであるからです。

 一点に立てば全体が見渡せるという場があります。今、キリストを信じて生きるなら、神による揺るがない祝福の世界に生きて、行く末も、そういう世界での展望となるに違いないでしょう。

       篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

「キリスト教百話」  

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。

 

答・・6・・

 キリスト教徒の中で、最初の殉教者はステファノと言われています。彼は自分の信仰を証したことによって石で撃ち殺されたのですが、それに先立って、彼は聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っているイエスとを見て「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言い、人々が石を投げ続けている間、主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」と言い、それから、ひざまずいて「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだあと、眠りについた、と伝えられています(使徒75460参照)。

 

 このステファノの最後は、キリストの最後によく似ています。キリストは十字架の上で「父よ、彼らをお許しください。自分は何をしているのか知らないのです」と言い(ルカ2230)また「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と大声で叫んだあと息を引き取たれた、と記されています(同2245)。

 

 この二人の死に際しての共通点は、「主イエスよ」と呼び、また「父よ」と呼んでいるように時間と空間を超えた世界の実存者(霊的存在)に呼び掛けていることにあります。言うなれば、見えない永遠者との関わりに生きている、ということです。従って、その方に向かって、自分の霊を委ねることが出来たわけです。そしてまた、自分を殺す者への赦しを求めている点において、共通しています。死に際して、自分の罪を懺悔して赦しを乞う人や、また自分をひどい目に会わせた人間に対する恨みを抱いたままで終わる人もいます。

 しかし、これでは、死にきれないのではないでしょうか。事実、慰霊とか供養とかということをするのは、死んだ人間の地上におけるすべての決着がついていないと思っているからではないでしょうか。この点、キリストは死を死に切っています。キリストを信じていたステファノも同様です。事のすべてが地上を越えた天との関わりにおいて清算されています。

 

 ステファノの殉教は、言うまでもなくイエス・キリストを信じていたからのことでありますが、以上述べてきたことから言うと、これは殉教というよりも、むしろ天国に生きている人間の証しではないかと思います。

 つまり、彼の死は、地上の出来事でありながら、そこには既に天と関わっており、神の国の民として生きている者であるということの証明である、ということです(もっとも、このことをそのように受け止められるかどうかという問題はありますが)。

 そうだとすれば、彼の死は、地上における肉体の消滅ではあっても、霊においては、肉体の拘束を受けることなく純粋に天に帰属するものとなることへの飛躍台であった、ということが出来ます。人によっては、このことを「天国への凱旋行」といいますが、死が、そう言ってもよい内容を持っているものであるということが出来ます。

   篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者

 

 

 

「キリスト教百話」

 

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。

答・・5・・

 

 不条理に関するもう一つの例を上げますと、生まれつき目の見えない人について「この人がこういう運命を背負わされているのは、どういう理由があってのことか。本人のせいでこうなったのか、それとも親に何かの原因があってこうなったのか」という質問がイエスに対してなされたことがあります(ヨハネ9章参照)。

 これは既に触れましたように因果論によっている発想であります。つまり、何の理由もなくて生まれつき目が見えないなんてことは考えられない。必ず原因がある、と言う考えです。ところがその解明が出来ないものですから、イエスに問うたのでした。

もちろん、こういう時に対する答えの確実性を保証することが出来るものはないのですから、この時の質問は「イエスを試してやろう」という魂胆があってのことであったと考えられます。

 これに対するイエスの答えは「それは、本人の罪によるものではなく、また、親の罪によるものでもない。この人の上に、神の栄光が現れるためである」というものでした。問うた側は「えっ」と驚いたに違いありません。が、イエスは、この人の目を開かせて、見える人に変えられました。

どうしてそういうことが起こったのか、医療カルテがありませんから、そういう次元での説明は出来ませんが、この話は、因果論や不条理を超えて、神の栄光を現すに至る条件がイエスの内には備えられていたことを告げています。

 こういう話をどう受け取るかということが、これを聞く側の問題であると思いますが、聖書は、先に述べたヨブのことを含めて、神は因果論や不条理を超えて、神による新しい局面を展開される方であることを告げています。

 ヘレン・ケラーのように、見えなくても、見える人以上に見えた人がいることを思うにつけ、神の人間への関わりは、神の栄光を現すことが目指されているのであって、本項でここまで述べてきた「最後の審判」ということも、こういう信仰の視点によって、とらえられて良いことではないかと思います。

    篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者

 

「キリスト教百話」

  

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。

答・・4・・

 ところが、彼の悲惨な状況を聞いて見舞いに来た友人たちはあまりの悲惨さにものも言えないでいましたが、ヨブが、あまりの辛さに耐えかねて「こういうつらい日に会うのなら、生まれてこなかった方が良かった」と呟くに及んで、友人たちは「君は誰にも知られないところで神様に罪を犯しているに違いない。でなければ、こんなひどい目に会わされるはずがない」とか、「君の信仰が足りないので、どれほどの苦難に耐えられるか神様が試しておられるのだ」とか、いわゆる因果論とか、教育目的論などで、ヨブの苦難の意味を解説して納得させようとしました。

 しかし、ヨブには、友人たちの物分かりぶりの説得には承服できません。そういうことであるならば、ヨブには既に解決をつけておれたからです。ヨブの苦悩は「正しいものがなぜ苦しまなければならないか」が分からないことにありました。そこで彼は、神様に直接「なぜこうなのですか」と、神様の胸ぐらを掴むかのように、答えを迫りました。

 これに対して神は答えるというより、矢継ぎ早の質問を発せられました。例えば「あなたはオリオン星座の形を変えることが出来るか」とか、「君が馬に力を与えることは出来るか」とか、こんにちなら「君は鰻の生態を全部知っているのか」とか「UFOの正体が確認できていないとでも言うのか」などという問いでした。

 ヨブは「知りません」「分かりません」と言うしかありませんでした。これを聞いて神様は「あなたには知らないことや分かっていないことが一杯あるのではないか。そういう無知でもって、正しい人(義人)が苦しむわけを知ろうとでも言うのか、この馬鹿もん!」と一喝されました。ヨブは、これによって「分かりました」と言ったのです。

 ヨブが分かったことの一つは、自分がいかに無知であるか、ということでした。そういうことの見当違いを知ったということです。それと、もっと大切なことは「この馬鹿もん!」と言われたことによって、自分のことを知っていてくださる生きた神様に出会うことが出来たことでした。これを、ヨブの「見神経験」と言います。また、ヨブを巡って展開される問題追及を「神義論」と呼んでいます。

 「正しい人がなぜ苦しむのか」という問いに対して、納得できる理論が展開されたわけではありません。しかし、ヨブは満足したのです。不条理があっても、そのことが意に介することではなくなったのです。それは、不条理を負うものに対する一つの解決であるということが出来ます。

    篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者

 

 

「キリスト教百話」  

 

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。

答・・3・・

 しかし、その真実は、先述した因果応報の原理の真実性であって、それが納得できるからこそ、成り立っている説話ではないでかと思います。

 ということを、少しくどくどと述べたのは、この原理では納得できないことが人間とこの世界における事実としてあるからです。いわゆる「不条理」と呼ばれている事柄がそうです。

 これは因果論では説明できません。ですから「不条理」というしかありませんが、そういう説明はつくとしても、そういう不条理という事実の中にある人にとっては、これは耐えられるものではありません。この苦悩から脱却できる「安らぎ」を見いだすことはできません。ということは、人間の側にあるものや、人間が考えることによっては解決を見いだすことができないこの「不条理」の中に、人間は放り出されていて、出口のない、そして光のない闇の世界のただなかに置かれているような存在である、というしかないのが事実ということになります。

「不条理」は説明できないから不条理なのですが、人間はこの説明がつかない事態の中で苦悩してきました。例えば、聖書に出てくるヨブという人は、神様の前にも人々の前でも全く非の打ち所のない人でした。そして資産家でした。ところが、ある日、突然、すべての子供を失い、財産のすべてを失い、おまけに体一面に腫れ物ができて、当人とは見定め難い状況に陥りました。踏まれ蹴られるの極致に至りました。

彼の妻は「そんなにまでして神様を崇めるなんてことはないでしょう。神様なんか呪って死んだ方がましよ」と言わずにおれないほどでした。しかし、それでも彼は、神に文句や不平を言うことなく「神は幸いを与えて下さる方だから、災いをくださるのだ。神様のことを悪く言ってはいけない」と言って、神への信仰を貫いたのでした。

信仰の人というのはこういう人のことをいうのかと思わされます。つまり、神を信じて生きることが、何か良い見返りがあってのことではない、ということを立証しているからです。

     篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者

 

 

「キリスト教百話」

 

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。

答・・2・・

 死後に、生前してきたことに対する裁きがあることは、仏教説話の中に、様々な仕方で、説かれています。そういう説話を枠づけているものは「因果応報」原理ではないかと思います。この原理はなかなか説得性を持っていました、どこかに後くらいものを覚えている人にとっては、死後どうなるかについての不安がありますから、死期が近づいてくると、殊勝な生き方をしたり、死後遺族の供養によって、好ましくない応報を軽減または消滅させてもらえるのではないかという期待を抱きます。

 

また、そういう期待がありますから、その期待を死者に反映させて死者供養と称する形での行為に委ねているのではないかと思います。

 死者に対して「安らかであれ」という思いも、つきつめていけば、応報の原理に支配されているのではないかと思えてなりません。それがどうしてかというと、「安らかであれ」というのは、「安らかさ」だけが支配していると信じているなら、敢えて「安かれ」と祈ったり願ったりする必要はないからです。

 

 死者の死後についての不安材料が皆無とは言えないために、「安らかに」と祈るのではないでしょうか。そういう不安材料の軽減や消滅のために考え出された様々な供養と称する行為をしているのですが、「慰霊」と称しての行為と同様、その行為が文字通り供養や慰霊になっているかどうかについては確かめようがありません。

 強いて言えば、それは、そう信じてのことである、といことになります。

 

 仏教説話の類は、この点について実に巧みな展開をしておりまして、地獄極楽について、特に地獄の様相についての綿密は解説をしていました。それは、現世における生き方を正すための方便としては優れたものであると言えますが、人間の生が、なまやさしいものでないことを捕らえている点では頷けるものがあっても、その様相は虚構(フィクション)であって、そういうものへと現われてきている真実に注目しなければならないのではないかと思うのです。

    篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者

 

「キリスト教百話」  

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。

答・・2・・

 わたしたち日本人は、昔から「天地神明にかけて恥じない」生き方を良しとしてきました。そう言い切れる人を立派な人としてきました。そういう言い方でもって自分を律してきた人には尊敬の念を払います。但し、その場合、「天地神明」というのは何をもってそう言うのかはっきりしているわけではありません。「天地神明」と言うからには、人間を超えた存在が前提されているでしょうし、そういう言葉を聞く者にとっても、漠然としてではあっても、なにがしかの共通理解をしているように思います。単に「人倫に照らして」という次元のことではなく、人倫と言うにしても、人間を超えた存在との関係の中でのこととして考えられているように受け止められているわけです。

 と言うことは「天地神明にかけて」と言っても、その「天地神明」は、はっきりした人格的意思表示をしている存在ではないと言うことです。モーセが十戒を与えられた時のように、「わたしはあなたがたをエジプトから導きだした主である」という神様の名乗りが挙げられて、その上で「わたしのほかに何者をも神としてはならない」ということを始めとして、「殺すな」「盗むな」「姦淫するな」などのように、はっきりとした神からの人格的意思表示を受けてのことではないのです。

 「天地神明」という言葉に、まるで人格的なものが想定されていないと言うのではありませんが、あるとしても、それは擬似人格的と言ったらよいか、人格な匂いがすると言ったらよいかと思う程度で、モーセの場合とか違うのであります。これはモーセに限ることではありません。イエス・キリストは「わたしを信じなさい」と言われ、「わたしの戒めを守りなさい」というように、はっきりと意思表示をされています。従って、これにどう答えるかが問われているわけで、「最後の審判」ということも、こういうことからして当然のこととして理解され、受け止めてもいるわけです。

 「天地神明にかけて」というのと「イエス様の御心に照らして」と言うのとでは、以上のような違いがあるのです。日本人の中にある「諸行無常」というとらえ方を自分なりにしているのと、「あなたは・・・」という問いかけを受けている者とでは、その人生を含めての最終的な決着がどうつけられるかがそうはっきりした問題意識にはなって来ないのと、これが大きな問題となってくるのとの違いが出てくるのは当然ではないかと思います。

 どちらが良い悪いかの問題ではなく、「最後の審判」と言うことが問題になるか、ならないかの人生基盤に違いがあることを先ず明らかにしておきたいと思って、以上のことを述べた次第です。

   篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

「キリスト教百話」  

問25 キリストの再臨では「最後の審判」があることが信じられているのですが、それはどういうことですか。

答・・2・・

 既に触れましたように、キリスト教では、神は歴史の支配者であり、世界の歴史は神の経綸の舞台であると受け止めております。すなわち、ことを始められた神は、またことを終えられる神であられるという信仰に立っております。このことを「神はα(アルファ)でありΩ(オメガ―)である」とも言っております。こういう歴史の支配者であり、それ故に最終的にことの決着をつける主である神がおられるということが信じられなければ、最後の審判ということは、問題にはなりません。

 しかし、わたしたちには、自分の人生の決着はどうであるかについての気がかりがあるのではないでしょうか。ミケランジェロの描いた「最後の審判」の絵が多くの人の関心を惹き、また仏教の「地獄絵図」にみんなが見入るのは、親鸞の「地獄は必定わが住家ぞかし」という言葉が、他人事にならず、自分のこととして迫ってきているからではないでしょうか。

 ただし、親鸞は、そう言いながら「そういう自分であればこそ、そういう自分を救ってくださるところに阿弥陀の本願がある」と言って、救いの確信をのべています。ヨハネは「自分がどのようになるかは、まだ示されていません。・・・しかし、御子(キリスト)に似たものとなるということを知っています」と言っています(ヨハネの手紙Ⅰ、3:2)。これは、「わたしはダメだ」みたいな言い分ではなく、期待と希望に満ちた信仰の告白です。それは自分が自信満々であるからでなく、神の計らいの確実であることへの信頼から出ている言葉です。

 聖書が告げていることは、わたしたちの人生に対する決着は、既に完了しているということです。

 それはどういうことかと言いますと、イエス・キリストが十字架につけられたことにおいて、神に対するわたくしたちの罪(神に対する見当違いの生き方、つまり自分がすべてであるとしている生き方)は、すべて、完全に、裁かれていて、それによって、わたくしたちは新しく神様によって肯定されるものとして生きることを許されている、ということであります。

 このことが非常に大切なところですが、神様の前には、そのままでは到底立つことが出来ない者が、今やそのあるがままで、臆することなく立つことが出来るのは、罪のないキリストがすべての人の罪を担って、すべての人の為に、すべての人に代わって、神の裁きとしての死を死んでくださったことによって、すべての人が、全く新しい人として生きることが出来るようになった、ということであります。とすれば、これからの展望も、神の計らいを受けての新しいものとされているわけですから、最後の審判はむしろ喜びを先取りしてよろしい、と言える性格のことではないでかと言えるのであります。神様が神様であられることは、キリストの十字架と復活において明らかにされていることでありますから、後はこれに相応しく生きることであります。

     篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

「キリスト教百話」

問25 キリストの再臨では「最後の審判」があることが信じられているのですが、それはどういうことですか。

答・・1・・

 前に聖書の中にあるキリストが語られた「タラントンのたとえ」の話を紹介しましたが、あの話に出てくる主人がもしあなただったら、あなたはどうするでしょうか。つまり、自分が遠方へ出かけるので、留守をあずける使用人に対してそれぞれ、五億、二億、一億という風にカネを預けておいて、相当期間を置いて帰宅した場合、その清算を求めないでしょうか。もちろんその金額が百円や千円単位のものであれば、預けるとかあずけられるなどということはたいして問題にはなりません。

 問題になるのは仇おろそかにはされないであろうと信じて、それを失ったら大損害を被るほどの大金を預けた場合のことです。帰宅したあなたは、必ずその清算を求めるでしょう。もし、あなたが帰宅後直ちに清算を求めなくても、預けられていた側からは、進んで清算結果を報告するでしょう。それが信頼に答える当然の姿勢です。いずれにしても清算をしないままで放っておきはしないでしょう。仮にもその相手から何の応答もないままで過ぎることがあったら「あれはどうなったか」と問いかけ、その結果、預けたことが何の意味も効用もなかったとすれば「もう君はわたしにとって無用な人間だから、どこへなりと勝手に出て行ってくれ」ということになりはしないでしょうか。

 

 以上の話は「もし・・・」という前提での話ではありますが、その前提は、あなたがことがらをうやむやにしないできちんと処理される方であると信じてのことであります。

 それで、もし、この前提が成り立つとすれば、一つはわたしたちの人生という実に貴重なものを神様から預かっている者としては「あなたの人生はどうであったか」と問われる時が来、そういう場に立たされるのは避けがたいことであると思われるのではないでしょうか。そして、そうであればこそ、この信頼と委託に答えるために人生を生かしたいと、願うのではないでしょうか。

 

 もし、あなたが、以上のようにではなく、事のけじめなどどうでもよいというふうに振舞っておられるなら、使用人もまたかなりいい加減にしか生きないでしょう。主人も使用人も、それっきりで終わりです。最後の審判なんかあり得ないし、問題とも思っていないでしょう。

 以上のことから言って、最後の審判ということは、わたしたちが、自分の人生というものをかけがえのない貴重なものとして、わたしたちの主である神様から、信頼されて、預けられていると信じ受け止めている者において、その人生の展望の中に入ってくる、必然的な視野というべきものであると言うことが出来ると思うのであります。

  篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

「キリスト教百話」 

問24 キリストの再臨ということが言われていますが、それはどういうことですか。最後の審判があるとも聞いていますが・・・。

答・・4・・

 しかし、一方その方がやたら厳しい方であって、迂闊なことをしようものなら、厳しいお咎めを受けるしかないということになるのであれば、あまりあれこれしないで、じっとしていた方が良い、という生き方が出てくる話でもあります。

 そこで、この話をキリストの再臨ということに即して考えるならば、先ず神はキリスト共に生きておられる方であるということです。そしてわたしたちはそれぞれにふさわしいかお考え賜物を与えられて、それがどのように喜ばれるように生かされたか、期待して待っておられる方であるということです。

 わたしが、もし自分の人生を、自分を超えた存在によって与えられ、そこに貸し与えられた賜物をどう生かしたかを問われる方の下で生きている者であると受け止めるなら、最終的な評価(審判)を受けるときが来ることは、それがいつの日のことかわからないにしても当然のこととするのでありますし、この方に喜ばれるように生きることを志すこともまた当然のことであります。

 これらのことはいずれもキリストの再臨を信じるという信仰によることでありまして、「そういうことは信じられない」ということは、理性的には「その通りです」と言いつつ、「そういうこととは全然違います」ということであるわけです。

 マザー・テレサはインドの路上で弱り果てて横たわっている老人を見て「イエス様がここにおられることを知った」という旨のことを言われたと聞いています。そうだとすれば、キリストの再臨はいつの日とも言えない終末的な事柄であるとともに、日常的なこととして、体験する出来事でもあると言えます。それはキリストが今も生きておられるからに外なりません。ある人は「キリストの再臨は終末における事柄であると共に日々の日常的な事柄でもある」と言っています。

 「いと小さき者の一人」においてのキリストとの出会いはあります。終末的な事柄の現在性があると言えるのではないかと思います。それがキリストによって与えられている信仰ではないかと思っております。

 篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

「キリスト教百話」

問25 キリストの再臨ということが言われていますが、それはどういうことですか。最後の審判があるとも聞いていますが・・・。

答・・3・・

 キリストの再臨ということは頭の中では、なかなか理解しにくいことでありますが、このことを考える手掛かりになるかと思われる話を、キリストが語られた譬え話を借りて言うと、次のように理解されるのは「タラントンのたとえ」という、題でよく知られている話でして、ある人が旅に出かけるに際して、三人の使用人を呼んで、それぞれの力に応じて、一人に5タラントン(1タラントンは労働者の20年分の賃金相当とされています)、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けたというのです。

 そこで5タラントン預けられた者は、早々出掛けて行って商売をして、ほかに5タラントンを儲けました。もう一人の2タラントンを預かった者も同様にしてほかに2タラントンを儲けました。もう一人の1タラントン預かった者は、穴を掘って主人の金をその中に隠しておきました。

 かなりの日がたってから主人が帰って来て、預けておいた金の清算をはじめたところ、前述のような結果で、主人は先に二人に対しては「忠実な奴だ。わたしはおまえのことで喜んでいる。お前も一緒に喜んでくれ」と言い「これからはお前にもっと多くのものを管理させよう」と言い、1タラントンをそのまま差し出した使用人に対しては、「お前は怠け者で悪い奴だ。お前がそういうやつだと始めから分かっていたのなら、銀行に預けておいた方が、利息付きで返してもらえたのに、そういうことにならなくて残念だ。お前にはもうなにもたのまないから、とっとと出て行ってくれ」と言ったという譬え話です。この使用人は、その結果外で泣いて歯ぎしりするのであろうが、もう取り返しはつかない、という話です(マタイ25:14以下)。

 

 この話のポイントの一つは、人間にはそれぞれに応じたタラントンが与えられているということです(タラントンということは、これに関わる言葉でありまして、それぞれに与えられてる賜物ということを意味します)。問題は、この賜物には、それを信頼と期待をもって貸し与えている主人がいて、その賜物をどのように生かしたかについての評価をするということです。その主人が何時帰ってくるか、その日のことは使用人には分かりません。が、その日が来ることは確かです。

 ですから、何時帰って来られても良いように、主人の信頼と期待に応えるために精いっぱいの努力をするのが、使用人の当然の生き方となるわけです。その結果、「わたしのなすべきことをしただけのことですが、ご主人さまにこんなに喜んでいただいたばかりでなく、更に沢山の信用預かりの栄に浴しました。こんな喜びと光栄はありません」と言うことになります。

 しかし、一方同じ主人であっても、この主人をただ厳しい人とだけ受け止めて、自分が信頼され期待されているとは考えていない使用人にとっては、ケチな主人の怒りを受けないようにきゅうきゅうとしているだけで、賜物も下手に損じないようにしまっておくだけとなるしかありません。

 この話をどう受け止めるかは聞く人次第でありまして、特定の受け止め方だけに絞って、それ以外は認めないというような性質の話ではありません。しかし、イエスが「聞く者は聞くが良い」と言われていることに即して言うなら、この話は、われわれにも主人にあたる方がおられて、その方からそれぞれに相応しいとされている賜物(タラントン)が与えられており、何時の日か、その方から、人生の総括を受けることは確かであると信じて生きることが求められている話であると言うことができます。

       篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

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日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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