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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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「キリスト教百話」

  

問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」

答・・2・・

 釈迦は「生老病死」という人間が抱えている四苦からの解脱を求めて出家したといわれていますが、その解脱とは解放であり、救いであるといってよろしいでしょう。この四苦を苦とも思わない人には、解脱も救いも無縁のことでありましょう。しかし、全ての人間が、四苦という言葉に代表されるような人間そのものの問題を抱えていることは事実でしょう。

 しかも、それを自力では克服解決することが出来ないために、そういう問題に直面した時には「助けて~っ」と、助けを求めずにはおれない存在ではないでしょうか。自分自身の限界にぶつかってどうにもならない時、死に直面した時には、自ずから助けを求めるものです。

 そういう時の「助け主」は同時に「救い主」でもありますが、自分にとってのこの助け主が存在する人は、その窮地から脱却できて、幸いであります。反対に助けを求めるにも誰を呼べばよいかわかっていない人、つまり自分にとっての助け主がいない人は、助けを求める声は宙には発せられはしますが、虚しく消えて行くしかありません。

 「悩んでいる時にはわたしを呼びなさい」と言って助けてくれる「わたし」という呼ぶ相手を持っている人は幸いですが、そうでない人は幸いとは言えません。

 以上のことから言って、自分にとっての助け主、または救い主があり、またそういう方を知っていることは、知っていないことより幸いであると言えます。キリストというのは、先述しましたような人名ではなく、役割を担う存在を言うのでありますから、何もイエスだけがキリストであると限定することはできなくて、「自分にとってはこの方が救い主だ」という人がいてもそれはそれで良いことと思います。

 要するに一人一人が自分にとっての救い主が誰であるかがはっきりしておればよろしいわけです。その点で、イエスだけがキリストであると言って、他と競合するわけではありませんし、第一、誰が正真正銘のキリストの名に値するかを決められる判断基準があるわけではありません。ただ、イエスに出会った人は、「この方こそわたしの救い主である」と言わずにおれないものを覚えることによって、「イエス様、あなたは私の救い主です」と告白するに至っているのです。

 「キリスト教を信じて良いこと」というより、「キリストと信じることが出来る方に出会って、イエス様をキリストとして信じることが出来ている」ということが何よりも良いことであるわけです。

 

    篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

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「キリスト教百話」

  

問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」

答・・1・・

 こういう質問を受けることがよくありますが、その場合知っていただきたいことは、クリスチャンは「キリスト教」と言う宗教、または「キリストの教え」を信じているのではないと言うことです。もちろんキリストの教えを無視しているわけではありません。と言うより、むしろキリストの教えに聞き従うことを最も大切にしているのです。

 それは「教えそのもの」についてのことではなく、それがキリストが告げられた教えであるからです。キリストという言葉は名前ではなく、「救い主」と言う意味の言葉です。その救い主は「イエス・キリスト」というように、イエスという歴史上に現れた人物を「救い主」と信じる「信仰」によって言い表されている言葉であるのです。

 ということから明らかなように、イエスと言う方を「救い主」として信じているからこそ、この方によって語られた教えを大切にしているのでありまして、当然、それがキリストに聞き従うということになるわけです。

 ということは、信じて聞き従うことが、自分の救い主の言葉であるからこそのことでありまして、よく掲げてある格言警句集に記されている言葉を人生訓として重んじるというのとは違うのであります。その場合には「良いことが言われているなあ」と受け止めたり、それを実行に移すのは、自分が主体となってのことであります。その言葉を誰かがいっているとしても、その人に対面して、その人の人格的な触れ合いがあってのことではないのです。つまり、「あなたがおっしゃっておられるのですから、お言葉に従います」というような仕方で受け止めているわけではないのです。

 

 しかし、キリストの教え、つまりキリストが語られた言葉に聞き従うということは「この方は私の救い主である」と信じてのことでありまして、言葉だけが単独に重んじられているのではないのです。クリスチャンという言葉を「キリスト教徒」と訳す人もいますが、前述したことからも明らかなように、これはむしろ「キリスト信徒」という方が正しいのです。

 もともと「クリスチャン」という言葉は、「イエスのことをキリストと信じ、それを人々に宣べ伝えているやつらだ」という意味で使った言葉でありまして、キリストの名を呼ぶ者への呼称とされたことに発しています(使徒11:26)。新共同訳聖書ではこれを「キリスト者」と訳していますが、これがクリスチャンと言う者の内容をよく言い表しています。

 つまりクリスチャンと言う者は「キリスト教」という言葉の総称される何かを信じているわけではなく、ナザレの人イエスをキリストと信じている者のことをいうのであります。そして、このキリストを信じて生きているということ自体が、良いことであるのです。

    篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

「キリスト教百話」

  

問29 「自殺」のことはどう考えたらよいでしょうか。残された者にとっては何とも釈然としないものが感じられてなりませんが。

答・・3・・

 「殺してはならない」という戒めを与えられている神の真意は「生きよ」ということにあります。そして、神は人間が生きるために必要なものを備えて下さいました。それは神がその独り子であるイエス・キリストを人間の間に遣わされることによって、人間を永遠の存在者であられる神様に繋がる者としてくださっているところに示されているのであります。

 「殺すな」との神の戒めは自殺について言うなら「わたしはあなたが生きることを願っている。どんなことがあってもあなたを生かす。だからわたしを信じて、自分で自分の死を決めることはないのだよ」という勧めになります。ここに神の愛が示されているのでありまして、この神の愛が、死ぬべき者を永遠の命に生きる者とし、死んだ者に新しい命を与えられるのであります。

 ペトロの手紙には「霊においてキリストは、囚われていた霊たちのところへ行って宣教されました」(Ⅰペトロ3:19)とあります。「捕らわれていた霊」というものが、自分の思いだけに囚われている人のこととすれば、見えない力に支配されて自分だけの世界に閉じ込められていた自殺者も、神の語り掛けを受けて新しく、神と共に生きる世界へと導かれるに違いありません。

 神には、人間の絶望を超克する力があって、それが絶望をも希望に変えることを信じてよろしいのではないでしょうか。キリストによって示される神は「神は愛なり」と言える神であられるからです。

  篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 
 

「キリスト教百話」

  

問29 「自殺」のことはどう考えたらよいでしょうか。残された者にとっては何とも釈然としないものが感じられてなりませんが。

答・・2・・

 ただし、生きている者として、自分自身が自殺へと向かう場合は、「帰るに家なく疲れはてて、望み無き身は死をぞ願う」という歌があるように(讃美歌244・3)自分の拠り所を失って疲れ果てて、生きているよりは死んだ方がましだと思うような事態に直面した時ではないかと思います。事実、生きていることの苦悩(その苦悩の内容や程度は別として)に耐え難い時には、それからの解放を願って死を選ぼうという思いに駆られるのであろうと思います。

 しかし、それを実行に移すのは、今一つの何かの力が働くのではないかと思います。

 

 その力というのは、人間には自殺したいと言い、思うようなことがあるにしても、それを阻んで実行に移せなくしているものがあるのですが、自殺を決行しようとする時には、もう戻らないというか、むしろもう戻れなくなってしまう力のことです。本人としては自殺することを自分で決心して決めたように思っているかもしれませんが、わたしにはそういう決心をさせてしまう何かの力が働いてのことではないかと思えてなりません。

 日本の伝統的な言い方で言うと「死に神に取り憑かれた」とか「死に魅入られた」とか、または「魔がさした」などいうことになるかと思いますが、要するに、自殺する本人は自分の考えで自分の責任で死ぬことを考えたのでしょうが、実はそのように考えるということ自体が、そう考えさせて疑わない何者かの力が働いてのことではないかということです。

 よく「自殺する勇気がない」と言われる方がおられますが、自殺は勇気があってすることではありませんし、勇気という言葉がそのように使われるのでは勇気が泣くというものでしょう。勇気と言うなら、むしろ自殺したくなるような苦渋の中で、それにもかかわらず生きていくことの方を勇気ありと言うべきでしょう。それは自分を自殺の方へと引き込む力に抗って勝つことでありまして、その勇気こそ讃えられて然るべきではないかと思います。

 

 篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

「キリスト教百話」

  

問29 「自殺」のことはどう考えたらよいでしょうか。残された者にとっては何とも釈然としないものが感じられてなりませんが。

答・・1・・

 いささか教科書的な答えを言いますと、「モーセの十戒」の中には「殺してはならない」という戒めが神様からの断言的な命令として掲げられています。この「殺すな」ということは言うまでもなく、人殺しをしてはいけないということでありますが、それは他人についてだけでなく、自分のことについても命じられていることとして受け取るなら、自殺は神の命令に背く行為であり、「あなたは生きていてよろしいよ」とか「あなたは生きていてほしいよ、わたしはどんな時のもあなたをたすけるから・・・」と言われている神様の語りかけを無視することになります。

 こういうことを、神様の側としてどう受け止められるでしょうか。「わたしがあんなに厳しく命じておいたのにそれに背くなんて怪しからん。あいつは救いようがない」とおっしゃるでしょうか。だとすると、葬ることはしても、葬りに先立っての式をして、その中で死んだ人のために何かを願うことはなくなってしまうことになります。

 しかし、もし神様が「あれだけ厳しく言っておいたのに、わたしの許しも得ないで、自分で勝手に死んでしまったなんて、何とも残念、悔しい、が、そういうヤツだからと言って放ってはおけない、今からでも何とかしなくては・・・」と言われたとすると、葬りに際しても「この人のことを何とかよろしくお願いいたします」という執り成しの祈りが献げられることになります。

 

 「殺すな」と言われても、戦争では相手を殺さなくてはなりません。また殺す意志は全くなくても過失致死ということがあります。また、自殺しても、「人生不可解」といって死んだ人もいれば、「生まれてきて済みません」と言って死んだ人もいます。中には自分が犯した罪を悔いたり、取り返しのつかない過失の責任を負うたりしての自殺もあれば、殉死や病気の治癒不能と知っての自殺もあったりで、その動機は様々であり、また余人には窺い知ることが出来ない点もあって、個々の自殺者については、生者の側で、何か一般論で説明することは難しいし、してはならないと思います。                 

   

 篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

「キリスト教百話」

  

問28 キリスト教は、大きく分ければカトリック教会とプロテスタント教会になると思いますが、どうちがうでしょうか。

答・・2・・

 日本聖書協会によって、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の聖書学者による共同の翻訳作業によって。「新共同訳聖書」が出版され、それぞれの教会で多く用いられています。聖書を信仰の規範としていることにおいては、どちらの教会においても違いはありません。ただし、聖書には解釈が必要であります。そして、そうであれば、どういう解釈が正しいものとするかについての問題が起こります。

 その際、カトリック教会は聖書解釈の決め手となる権威は教皇にあるということになります。その権威は、遡ればペトロに至ります。ペトロはイエスに「あなたは活ける神の子キリストです」と告白しました。これに対し、イエスは「あなたはペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言し、ペトロには「わたしはあなたに天国の鍵を授ける」と言われました(マタイ16章)。ここでペトロはキリストから天国の鍵を授けられた者として、教会の権威の担い手とされたのでありまして、この権威を「ペトロの座」と言い、この権威の座を継承する者が「教皇」であるというのが、カトリック教会における教皇理解であり、これが教会の「伝統」となっているわけであります。

 

 一方、プロテスタント教会においては、既述したことによって明らかなように、教会と信仰の権威の所在は「聖書」にあります。聖書により、また、聖書を通して語りかけられる神の言葉にこそまことの権威があるというのでありますから、ここに二つの教会のちがいがあります。ただし、聖書をまことの権威とすると言いましても、その内容をどう受け止めるか、神の言葉として聞くべきことは何かと言うことになりますと、基本的には聖霊の導きがあってのことでありますが、受け止め方や解釈に、微妙なまたかなりの違いが出てくることになりまして、教理やマリアの位置や典礼などについての様々な違いがありますが、基本的には以上述べたことが、両教会の違いの要点であります。

 

 キリストを信じることにおいて一つでありながら、このような違いを持ったまま個別的に活動しているのはキリストの名に相応しくないのではないかと言うことでなされているのが「世界教会一致運動」(エキュメニカルムーブメント)と呼ばれているものであります。また「世界キリスト教協議会」(WCC)というのもありまして、出来る協力はしようという姿勢と動きがあることは知っていてよいのではないかと思います。

 ただし、プロテスタント教会の側の問題としては、聖書を拠り所とすると言いましても、その解釈の仕方によっては、キリスト教ではなくなってくるということが、「統一原理」と称する集団発生に見られるところでありまして、聖書の内容の展開の豊かさと、それからの逸脱には峻別が求められます。他人事でなく心したい点であります。                         

   

 篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

 

「キリスト教百話」

  

問28 キリスト教は、大きく分ければカトリック教会とプロテスタント教会になると思いますが、どうちがうでしょうか。

答・・1・・

 わたくしは最初に行った教会がプロテスタント教会でしたからその信徒になったのでありまして、最初にカトリック教会い行っていたならその信徒になっていたかも知れません。その場合、そのどちらの信徒になっていたとしても、イエスを「神の子、キリスト(救い主)」と信じる点において変わりはありませんから、信仰の基本においての違いはないと思っています。ただプロテスタント教会が生まれてきた理由と、今日までの双方の歩みを考えてみると、違いがあることは否めません。それを一言で言えば「権威の所在」ということになろうかと思います。

 「権威の所在」などという言葉を聞きますと、何か難しい問題のようになるかもしれませんが、ことは極めて単純でありまして、「あなたのキリストに対する信仰はそれでよろしい」ということを、誰が、また何が決めるのか、ということであります。「教皇(法王)」が権威の担い手であります。勿論、そうは言っても、教皇個人が自分の意志によって教皇の座についているわけではなく、選挙によって選ばれるわけですから、公(おおやけ)に認められ、またそこに神の意志があると信じる信仰によってのことでありますが、いずれにしてしても、教皇によって代表され担わされている権威が信仰と教会に関することを決定する権威であるわけです。全世界にあるローマ・カトリック教会は、全てこの権威の下にあります。

 

 ところが、この権威のもとでなされていることに疑念を抱いた人たちがいました。それがマルチン・ルターなど宗教改革者と呼ばれるに至った人たちでした。例えばルターは、当時聖ペトロ教会建築の資金を集めるために「免罪符」を販売することが教皇の許可の下に行われていたのに対して、「免罪符を買うことによって罪が赦されることになるのか?」という疑問を抱いたのでした。それで聖書をよく調べたところ、そこで発見したことは「罪の赦しはイエス・キリストを信じる信仰によって与えられるものであって、免罪符を買うとか、そのほか人間が考え出した様々な修行などによるものでない」ということでした。

 それは、言い換えれば免罪符発行を許可した教皇を否定したことになりますから、彼は、この権威に従わないものとして破門されました。

 以上のことから分かりますように、ルターは、信仰とは何かを決定づける根拠となす権威は教皇ではなく、聖書にあると主張したわけです。信仰と教会の拠って立つところはどこにあるか、ということが問われた結果です。

 篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

「キリスト教百話」

  

問27 キリスト教はイエス・キリストを信じるという点では一つであると思いますが、いくつもの教派に分かれているのはどうしてですか。

 おっしゃるように、キリスト教と称されるものにおいては「使徒信条」という、信仰内容を凝縮したものがありまして、この内容を共通のものとしている点では違いはありません。しかし、キリスト教が次第に広がっていくにつれて、それを受け入れた民族の伝統との関連などによって、様々な変容がなされるに至りました。その一つは東西両教会の分裂のことであります。東へ広まって行ったキリスト教会は、東方教会と呼ばれますが、その中心はコンスターチノーブル(いまのイスタンブール)を中心とする集団となりました。

 一方、西方に伝えられたキリスト教は、ローマを中心として西方教会と呼ばれていました。これがはっきり分裂したのは11世紀であり、それ以来「正教会」(オーソドックスチャーチ)と自称し、ギリシャ正教会、ロシア正教会となりました。このロシア正教会が日本に伝道して出来たのが東京のニコライ堂を中心とするハリストス(キリストのロシア語による発音)正教会であり、イコン(聖画像)を掲げるのが特徴であります。

 西方教会はローマ・カトリック(普遍性)教会と自称し、ローマ帝国の進展に伴って西欧に広がりました。日本に最初に伝道をしたのはこの教会でありまして「天主公教会」と自称し、この信徒は「キリシタン」(クリスチャンの意、切支丹)と呼ばれました。この教会はローマの法王を持つバチカン市国を形成していることと、ローマ教皇を権威の頂点としているところに特徴があります。

 16世紀に英国王ヘンリー8世の結婚がローマ・カトリック教会によって無効の宣言が発せられたのを機に英国の教会は自立宣言をして「英国教会」となり、これが国外に伝道されて「聖公会」(聖なる公同の教会の意)を自称し「日本聖公会」を造り、立教大学や聖ルカ病院や学校の経営にも力を注いでいました。

 同じく16世紀にドイツの修道士マルチン・ルターが信仰に関する公開質問状を張り出したことによって起こされたのが宗教改革(リフォーメイション)と呼ばれることでありまして、この結果プロテスタント教会と呼ばれる教会が生まれました。ローマ・カトリック教会を旧教と呼び、プロテスタント教会を新教と呼ぶのは、この出現の時期に関してのことでありであります。

 プロテスタントというのは「抗議者」の意でありまして、ドイツにおける改革運動に対して、国会の多数派を占めるカトリック派の絶対多数派が改革阻止を決議したのに対して、改革推進派の少数が抗議したことによって、この人たちが「抗議者」と呼ばれたことに発しています。これがルターと同じく改革の路線にある者の総称となったわけです。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

「キリスト教百話」

  

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。

 

答・・10・・

 ある仏式の法要が行われた後で、読経を司られた曹洞宗の僧侶が「人間は死んだら皆仏(ほとけ)になるのです」といわれたものですから、「では地獄に落ちるなどということはないのですか、「往生要集」には随分地獄のことが詳しく書いてありますが…」とお聞きしましたら「それは人間が悪いことをしないように勧めるための話でありまして死ねばみんな仏になるのです」という答えでした。

 「往生要集」を書いた源信という人は浄土宗の人ですから、曹洞宗の人との地獄についての説明の仕方が違うかもしれませんが、「死んだ人はみんな仏になる」という死後理解については、大変興味深くお聞きしました。そして、テレビなどで、死体を前にして警察官が「仏さんの身元は確認されているか」など言い交しているのも、まんざら理由のないことではないなあと思ったことでした。そして、そうであれば、読経は以上のことの確認を告げていることとして有り難いことだろうと思いました。

 

それと、A級戦犯を靖国神社に祀ったことが問題にされている中で、ある人が「日本人は、戦犯であろうとなかろうと、人間は死んだらみんな神になるのだから、戦犯であったかどうかなどは全く問題にならない」と言っておられるのを聞いたことがあります。そして「死んだ人にまで恨みを抱き続ける外国人には、日本人のこういう心は分からないだろうなあ」と言われましたので「そうなれば生前何を行いどう生きたかなんてことは一切問題にならないということになるが、それでよいのかなあ」と思いました。「人の生涯は棺の蓋を覆うた後でわかる」と言われていることの真実性は承認しましたが、「死者に鞭打ってはならない」と戒められていることは、生前の人物評価はあってよいとするも、死後のことは死の彼方を支配される方にゆだねるべきであって、生きている人間が与り知ることができない死後世界のことにまで介入してはならないし、そういうことができるものではない、という宣言であろうと思います。

 そうであれば、死後のことは、永遠の支配者であられる神に委ねればよろしいし、この点についてあれやこれや思い煩うことはなかろうと思います。が、死者はすべて仏になり神になるというのは、聖書が告げているのとは違うという思いを禁じ得ません。

 聖書によって示される神は「全能の神」であられますから、この方に委ねることが、神を信じるということの具体的表明であろうと思います。わたくしたちの間では「冥福を祈る」とか「慰霊」とかいう言葉が、何の違和感もなくごく普通に語られています。西欧では「鎮魂曲」という音楽がありますが、これらのことをせざるを得ない心情には共感し同情はするものの、全能の神がおられないかのように振る舞うことは、神への不信という逸脱行為になるのではないかと思います。

 死後の世界の展望は、聖書にはさまざまに述べられておりますが、それは神のご支配の豊かさを示すものとして受け止めたいものであります。

 

       篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

 

「キリスト教百話」

  

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一つ釈然としませんので、もう少し説明してください。

 

答・・9・・

 わたしたちの中には勧善懲悪的な発想が潜んでおりまして、生前善いことをした人は死後天国に、生前悪いことをした人は地獄に…という風に、応報の理に適わないと落ち着けない性格があります。ですから、仏教説話のように、地獄極楽の仕分けがはっきりしており、しかもその中で地獄に関する説明が圧倒的に多いのは、それだけ人間の関心は地獄に寄せられているように思えます。そして地獄にいるものは永劫にその世界に留まっているだけで、そこからの脱出や救済はあり得ないように思われいます。

 イエスは「神の国」(天国)のことを語られましたが、同時に「地獄」のことも語られ、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」(マルコ9:48)と言われ、また「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。誰を恐れるべきかを教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」(ルカ12:4~5)と言われています。こういう言葉によれば、地獄とは正に永劫に続く世界であり、その地獄に投げ込むか、神の国に入れるかを決定する権威を持っている方は神である、ということになります。

 その最終的な仕分けが「最後の審判」となるわけですが、既述しましたように、イエス・キリストを信じている者は既に「楽園(天国)住民証明書」を受け取っているのですから心配することはないのですが、中には「あの証明書を頂いているものの、その後、天国住民に相応しくないことをいっぱいやってきたので、減点が重なって「証明書無効」となっているのではないか」という人がいます。こういう疑問に対する答えとして「煉獄」の存在を説く人がいます。つまり、減点が多くて証明書無効となった人にも救済策があるので、有効性回復のための講習を課せられるという道が用意してある、ということです。

 この講習を受けるのは、かなりの時間と苦労を伴いはするものの、そういう労苦を重ねさせられるのも、減点を抹消するための配慮として受け止めなくてはならない、という言い分です。一安心できるということでしょうか。しかし、そうは言っても、この労苦を一人で負うのは重すぎて潰れてしまうという人には、特別加算ということも可能である。それは点数を他人にあげられるくらい余分に沢山持っている人がいるので、その人から点数を分けてもらうことができる、という特別措置法があるというのです。それは「聖マリア」とか「聖ペトロ」とか「聖」が冠せられているから人は、点数が足らない人には点数補充を受けることができる、というのです。

 一旦、天国住民である証明書を発行したからには、それを無効になどさせることなく、至れり尽くせりの手立てが講じられている、ということになります。それを信じるものには…です。

 

   篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

「キリスト教百話」

  

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一釈然としませんので、もう少し説明してください。

 

答・・8・・

 ある牧師の集まりで「自殺した人はどうなるのか」と言う問題を巡って意見交換をしたことがあります。それはモーセの十戒において、神は「汝、殺すなかれ」と命じられているから、他人であろうと自分であろうと殺すものは神の御心に適わないことをしたのだから、当然、神の祝福の中には入れられない、と考えるからです。

 最近はそうでもありませんが、ローマ・カトリック教会では、自殺は、「殺すなかれ」という神様の戒めに背いたことになるから神に対する罪を犯したこととして赦されず、従って自殺者の葬儀は教会では行わない、ということになってしいました。その観点から言えば妊娠中絶も胎児を殺すこととして赦されないことでした。ただし、こういうことは他者があずかり知ることができない分野のことでもありまして、そう単純明快に答えが出せるものではなく、したがって、不問とされてきた傾向が強かったと思います。しかし、そうは言うものも、何とかある答を見出したいという思いが冒頭のような問題提起となったのでした。

 

 これについて、ある牧師は「神様の愛のみ手に委ねればよい」と言いました。すると別の牧師が「神の愛のみ手に委ねる」という時には、若干人間が自分たちに都合がよいように神様を想定してしまっているきらいがある。そういうことから言って「神の全能の御手に委ねる」という方が良いのではないか、と言いました。

 この発言で大方の人は納得しました。それは、神の全能においてなされることが一番良いことだと信じられるからです。そいういうわけで、わたくしは、葬儀の司式をする時には「神様、この人のすべてをあなたの全能の御手に委ねます」とは言うものの、以上のような説明だけでは納得出来ないと言うのか、落ち着けない点がありまして、様々な質問が出されます。

 例えば「そうはおっしゃいますが、亡くなった人は本当に安らかでしょうか」という質問です。こういう質問を出される人は、恐らく亡くなった人の生前の生き方を見ていて「あのままですんなりと死後の安らぎを得られるとは思えない」と考えられたことと思います。また生前やり残したことが一杯あって、無念のまま死んだ人も安らかでおられるのか、とか、特に心ならずも戦場に送られて無残の死を遂げた人も、死んだ後は安らかな境地になっているのか、などの疑問があるわけです。

 それは、どこかで帳尻が合わないことには、落ち着けないからです。この点について人生の達観者の一人は「善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえにながらえることもある」と言っています。(コヘレト7:15)

こういう言葉を聞くと「それは、そうだが、だからといってそういうことで落ち着かれるか」という思いがあって、不条理には耐えがたいものが人間の中にはあるように思えます。

 

   篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

「キリスト教百話」

問26 前回の話では「最後の審判」があることが望ましいように言われましたが、その辺のことが今一つ釈然としませんので、もう少し説明してください。

 

答・・7・・

 キリストや殉教者ステファノの例などを引き合いに出すと、ほとんどの人には縁遠い話のように受け止められかねませんが、キリストと共に十字架につけられた犯罪人が、キリストに向かって「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのに対してキリストが即座に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたし一緒に楽園にいる」と宣言された(ルカ223943)ことに即して言うと、キリストがおられる楽園に共におれる者というのは、どういう人であるかに関わりなく、キリストに対して「あなたを信じます」という者でありさえすれば、その時直ちに楽園(神の国=天国)の住民に加えられる、というのである、ということなのです。

 

 このことが非常に大切な点です。と言うのは、多くの人は自分にこだわるからです。例えば「わたしはステファノのような立派な信仰者にはなれない」とか「十字架につけられるほどの人間でもない」とか言うのです。つまり、良くも悪くも何者かとしての自分が自分の内に占めているものですから、キリストはそういう人の内へは入ろうにも入れないでおられるのです。

 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう」と言うのがキリストの招きというものです(ヨハネ黙示録320)。

 

 自分の内側を自分で点検したり他人との比較対照で、あれこれ考えたりしている限り、キリストは、依然として外に佇んでおられるだけです。自分の中のことはどうでもよいのです。もともとこだわるほど大したものではないのです。「さあ、どうぞお入り下さい」と言うのが、キリストを信じるということです。そうすれば、先述の犯罪人ではありませんが、その途端に、信じた者は、キリストと共に楽園に住むことになるのです。

 

 少しくどくなったかも知れませんが、ここまで書いてきたことは、「世の終わり」とか「最後の審判」ということも、今、キリストを信じているなら、そこで世の終わりも最後の審判もすべてがキリストによって「楽園住民証明書」をいただいていることによって、「問題なし」として解決済みのこととして理解すれば良い、ということになるのです。

 真面目な人か、ぐうたら人間かなど問われてはいません。問題は、今、キリストを信じてキリストと共に生きる恵みに与かっているかどうかにあります。言うなれば、今と言う時が世の終わりであり最後の審判がなされているところであります。それは今と言う時が、時間と空間を越えた永遠との接点である、と言うことであるからです。

 一点に立てば全体が見渡せるという場があります。今、キリストを信じて生きるなら、神による揺るがない祝福の世界に生きて、行く末も、そういう世界での展望となるに違いないでしょう。

       篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

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森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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