2018年12月  №137号 通巻822号
 

第86課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・38・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・7・・・

 「だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである」(14:12)。

 この節は、パウロが今まで述べてきた、神に対する各人の個人的責任という真理の要約です。私たち一人一人が神に対して自分で申し開きをしなくてはなりません。他人のために言い開きをするのではなく、自分自身の言い開きをしなければならないのです。

 私たち自身が神に対して弁明しなければならないのですから、人が他人を裁くことが如何に傲慢であり、不遜であるかがわかるでしょう。

 

 「それゆえ、今後わたしたちは、互いにさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに決めるがよい」(1413)。

 「互いにさばき合うな」という戒めは、パウロの時代と同じく、今日の教会が心しなければならないことです。殆どの教会が、この戒めを破って生きている人々を、その中に持っています。彼らは他のことについては、厳格中の厳格さを持つ。しかし、14章の13節のこの戒めについては、全く誤っており、それを犯しています。

 彼らは鋭い言葉を持って、神が彼らの裁きの下に置かれなかった他のキリスト者を厳しく裁くのです。この罪は真に大きなもので、これが教会の平和と聖潔を乱すのです。

 J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師

 

 

第86課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・39・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・6・・・

 「それなのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのです」(14:10)。この章において、パウロは「神」と「キリスト」とを交互交換的に用いているのは、彼がキリストを神として受け入れているからです。「もし人が私たちの兄弟であるならば、また、神が彼を受け入れておられるのであれば、そして、彼が神の御意思を行なおうという真摯な願望から行動しているのであれば、たとい私たちが誤っていると思うことを彼が正しいと考えているとしても、私たちは彼を非難して裁くべきではない。また彼が不必要な事柄で良心を悩ませているにしても、私たちは彼を軽蔑してはならないのである。ここの箇所の前半は迷いつつあるユダヤ人キリスト者について述べているのであり、後半は異邦人改宗者について語っているのであり、そして最後の部分は、両者に関して語られているのである。私たちはみなキリストの裁きの座の前に立たねばならないのであり、キリストは唯一の究極的な裁き主であるから、私たちはキリストの大権を僣取して、キリストが受け入れられた人を裁こうとしてはならないのである」(C・ホッジ)。

 

「すなわち、『主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神に賛美をささげるであろう』」(14:11)。

これはイザヤ書45:23の引用であるが、イザヤ書の言葉のそのままではなく、パウロは少しく形を変えている。しかし、意味は変わっていない。このことは聖霊がイザヤ書とローマ書の双方の真の著者であるという事実によって説明できるのである。著者は自分自身の著書から引用するとき、彼が適当であると考えるどのような変更をもする自由がある。このようなことは他人の著書から引用する場合にはできないことである。

 ローマ書1411節はイザヤ書4523節と同様に、聖霊がその真の著者であるから、真に霊感を受けているのである。「わたしは生きている」はイザヤ書45:23にある「わたしは自分をさして誓った」という言葉の正しい意味を示している。

 「パウロは明らかに、キリストの権威を認めることは神への服従と同じであると考えており、旧約のエホバの普遍的な支配について述べていることを、躊躇なく贖い主キリストの主権性を宣言しているのである。従って、パウロの評価においては、キリストは神そのものであったのである」(ホッジ)。 

J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

 

第86課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・38・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・5・・・

 「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものである」(14:8)。

この節は7節の思想をより明確な形で、繰り返して述べています。ここにある「主」という言葉は、明確に主イエス・キリストを指していることは文脈から分かります。

8節に述べられていつ献身(devotion)は、被造物が創造主に対して負うているのであり、その献身が主イエス・キリストに対して捧げられるべきであることが言われていることで、ここにキリストの神性が証明されていると言えます。すなわち、このことはキリストが神であることを証ししています。6~9節において、「神」と「主」とが相関的に用いられていることに注目すべきです。このことは、キリストの神性を力強く証明されていることになります。

 

「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」(14:9)。キリストはその死によって、その民を自分の者としてあがなわれた。その復活によって、キリストはすべてのものの王・主として現在の栄光を獲得されたのである。キリストの栄光と高挙と支配とは、キリストの服従と苦難と死の代償として提供されていたものであると聖書は教えています(ピリピ2:8~9)。

ここの9節では、パウロは、救い主・王としてのキリストの権威は現世に限られたものではなく、死後の生涯にまで及ぶものであると教えています。何故ならば、キリストは死んだ者と生きた者との主であるからです。

 

私たちはここで、ここに述べられているキリスト観が、近代自由主義的プロテスタント教界に広く浸透しているキリスト観と如何に相違しているかを認識しなくてはなりません。近代自由主義キリスト教の見解は、イエスが真の神であることを否定し、偉大な人物であると見るのです。彼は贖い主ではなく、単なる教師・模範者と見られているにすぎないのです。しかし、パウロが信じたキリストは死者と生者との主でした。イエスは真の神でした。 

J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師

 

 

第85課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・37・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・4・・・

 「日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する」(6節)。

 ここの言葉は、ユダヤ教の祭りの日を守るものも守らない者も同様に正しいと言っているのではなく、また、肉を食べる者も野菜だけ食べる者も共に正しいと言っているのでもありません。それどころか反対に、一方は正しく他方は間違っており、一方は信仰が強く他方は弱いと言っているのです。この聖句でパウロは、両方のグループのキリスト信者が共に神への献身という動機から良心的に行動していると言っているに過ぎません。 

 一方は忠実に神に仕えており、他方は罪を犯しているケースではありません。双方共に献身の気持ちと神への感謝から、各々そのように行動すべきであると良心的に信じて行動しているのです。ユダヤ教の祝祭日を守ることをせず、宗教的な迷いでなく、すべての食物を食べる強いキリスト者は、そうすることによって神に感謝を捧げていること、良心に従って行動していることを明らかにしているのです。それを用いることが有罪であり禁じられている事柄を行いながら、神に感謝することはできません。同様に、それらの日を守り、肉を食べることを控えている人は、確かにその信仰において弱く、誤っているけれども、やはり自分は神のご意思に従って行動していると信じて、神に感謝を捧げているのです。

 

 「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」(7)。

すなわち、真にキリスト信者ならば、自分自身を自分の主人と見做す者はなく、また、自分の好むところに従って行動する自由があると考える人はいない。彼は自分の生と死において、生きるにも死ぬるにも、その主なる目的は神の栄光を表わすことであることを認識しています。彼は自分自身は自分のものではなく、価をもって、すなわち、キリストの尊い血潮にとって買い取られたものであることを認識しており、従って、自分がキリストの僕であり、神のみ心に従ってその栄光を現わすように生きるべきことを知っています。

 

 パウロはこの原則を受け入れる人はすべて、たとえ個々の事柄についての神のご意思を理解することについて、誤りや弱点を持っていても、真のキリストとして取り扱われるべきであると言っているのです。自分が全くキリストに属するものであることを認識し、自分の生と死について、自分が権威を持つ者ではないことを知っている人々は、キリスト者兄弟姉妹として受け入れられるべきであります。

   J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師

 

 

第85課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・38・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・3・・・

 「また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれの心の中で、確信を持っておるべきである」(5節)。

 ここで言われていることは、明らかに旧約の儀式律法にある種々の祭りの日に関してです。律法が清い肉と清くない肉とを区別したように、日についても区別していました。明らかに、あるユダヤ人キリスト者たちは、これらの日を従来の仕方で守らなければならないと考えていました。この信仰は誤っていました。それは彼らの弱い点でした。しかし、それは重大な事柄ではなかったので、それによって教会の統一性を損なわれることは許されないことです。

 

 ここの個所は、ある人たちによって、安息日を守ることはキリスト者の義務ではなく、個人の好みにゆだねるべき選択的な問題であるとする議論の根拠として用いられてきました。しかし、これはここの個所のひどい曲解にほかなりません。文脈とガラテヤ書4:10やコロサイ書2:16のような並行聖句から見て明らかなように、ここでパウロはユダヤ教の祭りについて述べているのであって、その言葉をキリスト教の安息日に適用することは重大な誤りです。

 ここの聖句が言おうとしているのは、「ある人はユダヤ教の祭りを守り、他の人は守らない」ということです。私たちの知るべきことは、使徒時代の教会において、週の最初の日、すなわち、主の日を守るべきことにおいて一致していた人々にさえもそのような事実があったということです(ホッジ)。

 

 「各自はそれぞれの心の中で、確信を持っておるべきである」(5b)。

 ここでパウロは一人の人の良心が他人の行動を支配することはできないという原則を述べています。各人は自己の良心に従って行動すべきです。そして自分が間違っていると確信することを行うことは避けなければなりません。現代の教会においても、自分たちの良心に基づく確信を他人の行動の基準にすることに、神は定められておられると考えている人々がいるのです。このような人たちは他人に対して「君はこうしなくてはならない。何故ならば、私はそうすることが君の義務であると信じるからだ」とか、「君はそのようなことをするのを直ちに止めなければならない。何故ならば、私はそれが間違いであると思うからだ」などというような言葉を、あからさまに言わなくても、態度で示すのです。

 これと同じような精神はパウロの時代のローマの教会に存在していたことは明らかであり、このような傾向に反対するためにパウロは「各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」と記したのです。もちろん、それは神のみ言葉によって正されるべきであって、他のキリスト信者の良心によって正されるべきものではありません。私たちは自分の道徳的問題を、だれか他人の確信を自分のガイドにすることによって解決することではありません。

 私たちは自分自身の良心によって、神が私たちに要求しておられることは何かを確信させられなくてはならないのです。ある教会の人々が持っているこの考え、すなわち、神はとにかく他の兄弟たちの良心を支えるために、自分たちを指名されたのだとする考え方は大変な間違いであり、自惚れなのです。

J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師

 

 

第84課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・37・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・2・・・

 「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受け入れて下さっていたのであるから」(3節)。

「他人の僕を裁くあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである」(4a.

神は、その信仰において 正しく強いキリスト者が、その信仰において未熟であり、したがって臆病であるキリスト信者を裁くことを命じてはおられないのです。要するに、弱いキリスト者もキリスト者であり、したがって、キリストのものなのです。キリストこそ裁きの座に立つべき唯一の存在なのです。

 

パウロの時代もそうであったように、現代にあっても、教会の中には、自称「裁き主」が多くいるのです。そうして彼らは兄弟姉妹のキリスト者たちの意見や躊躇や迷いや行動について、裁きを下そうとするのです。そうして現代においては、弱い人々を強く裁くことだけでなく、その反対の状況をも見るのです。ですから、弱い者が強い者を裁くのです。キリスト教の筋道さえもよく知らない者が、傲慢にも長い信仰生活をしてきた人々を、その謙虚さに乗じて裁くのです。ある特定の事柄について躊躇している人々が、多くの強い人々によって寛容をもって、その未熟さを受け入れられていることによって満足しないばかりか、彼らの未熟な主張に全教会が従うことを要求するのです。そして、その線に従って不断に宣伝を続けて、教会の平和をかき乱そうとするのです。強い者であれ弱い者であれ、彼らすべてがパウロの問いかけに注目しなければなりません。

「他人の僕をさばくあなたが一体、何者であるか」(4節)。

 

「彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである」(4節b)。

神は弱いキリスト者をその弱い信仰と誤れる信仰にもかかわらず、救うことがおできになるのである。ここには、キリスト者兄弟に対する相互の寛容をもつべき理由が述べられています。ある人がたとい信仰においてどんなに弱いとしても、彼がキリスト信者であれば、私たちはその人を非キリスト者や部外者のような取扱ってはならないのです。

「兄弟たちは相互に責任を持つのではなく、また、教会に対して責任があるのでもないのです。神こそ良心の主なのである。神に対して応えなくてはならないのだ。神の前に彼らは立つのか倒れるのかなのである」(ホッジ)。

J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師

 

第84課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・39・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・1・・・

 「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受け入れて下さっていたのであるから」(3節)。

「ここでは、この問題について、キリスト者相互においてはなさねばならない寛容と忍耐とが教えられている。強い者は弱い人々を迷信的であるとか、程度が低いとか言って、軽蔑すべきではなく、また、弱い者も自らの躊躇や周到さを見過ごす強い人々を裁いたり、咎めたりしてはならない」(ホッジ)。

教会には、二種の人々がいます。一つは、信仰において強く正しい人々であり、他は信仰において弱く、誤っている人々です。しかし、それらの両方ともが存在していて、パウロは相互の寛容を命じているのです。

 

「神は彼を受け入れて下ったのであるから」。すなわち、神は弱い兄弟たちをも、その弱い信仰にもかかわらず受け入れて下さったのである。寛容の勧めは強い人々にも弱い人々にも適用されているのです。「恐らくユダヤ人改宗者たちは異邦人キリスト者たちを軽蔑し、異邦人キリスト者たちはユダヤ人キリスト者たちを裁こうとしていたと考えられる。パウロはそれらの双方に対して警告をしているのである。しかし、第1節や文脈から考えると、異邦人たちが主として対象にされていると考えられる」(ホッジ)。

 

現代の教会において、肉を食べるという特定の問題は重要ではありません。しかし、ここでパウロが述べている原則はすべての時代に有効でしょう。それ自体は良くも悪くもない問題―すなわち、聖書によって要求も禁止もされていない事柄―についての種々の見解は、キリスト信者の交わりを破壊するものであってはなりません。

現代に実例を挙げることは容易です。礼拝時刻が何時であるべきか、家庭礼拝における聖書朗読の計画などはその例です。主の晩餐の執行の回数などもそうです。このような例は幾つも挙げられます。このような事柄は正しいか正しくないかの明確な決定点を含んではいないから、キリスト教会の統一性や交わりを破壊する要因とならせてはなりません。

強い者は弱い者を軽蔑してはならないし、弱い者は強い者を裁いてはならないのです。

 J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師

 

第83課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・38・・・

 

第83課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・36・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・2・・・

 「信仰の弱い者を受け入れなさい。ただ、意見を批判するためであってはならない」(1節)。ここでパウロは弱い迷っている信者たちを、その弱い未熟な信仰にもかかわらず、キリスト信者の交わりの中に入れるべきであると言っているのです。「信仰とは、ここでは真理の確信のことであって、人はある真理については確信を持っているが、他の真理については極めて弱い確信しか持っていないことがあります。初代キリスト信者の中には、イエスが救い主であることは疑いなく十分に確信していても、聖い食物と聖くない食物の区別が全く廃されたということについては疑念を抱いていた人々もいました。

 これは当時のキリスト信者の生活における重大な欠点でした。それは義認の恩恵的性質についての知的な理解と確信の欠如に起因するものでした。しかしながら、この弱さはキリストへの真剣な献身と矛盾しないものでしたので、そのような人々も受け入れられるべきである」(C・ホッジ)。

 

 「ただ、意見を批判するためであってはならない」(口語訳)。「その意見をさばいてはいけません」(新改訳)。

 この箇所の解釈の鍵となる二つのギリシャ語があります。一つは「識別力」・「批判」・「眼識」で、もう一つが「人間の思考における、思想・疑い・躊躇」で、文脈を考慮して、「信仰の弱い人々を、キリスト信者として受け入れ、彼らに意見・見識を批判しようとしてはいけない」(ホッジ)と解釈するのが妥当なのです。

 

 「ある人は、何を食べても差し支えないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる」(2節)。ある人は宗教的には何を食べても差し支えないと確信を持っている。しかし、他の人は信仰的に未熟なので、野菜類だけを食べるのです。このことは、すべての食物が同様に有益であるという意味ではなく、また、通常のキリスト者は健康のことを考えないで、何でも食べてよいという意味ではありません。

 パウロは食物の健康上の善し悪しを言っているのではなく、宗教上における食物の問題についてビクビクしていることを述べているのです。宗教的根拠に関する限り、通常のキリスト者は何を食べても良いと確信しているのであり、どんな食物も宗教的根拠からは禁じられるべきではありません。すなわち、宗教的に腐敗を招くとか、汚れているとか言って禁止されるべきものはないのです。

 

 旧約の儀式律法は野菜だけを食べることを要求してはいません。また、すべての肉を食べることも禁じてはいませんでした。ある種類のものは許され、あるものは禁じられていました。しかし、迷っていたユダヤ人キリスト者たちは特に異教世界の中で生きていたときには、すべての種類の肉を食べることや、調理された食物を食べることなどを恐れていました。それは律法に禁じられていた物を食べることによって、霊的に腐敗することを恐れていたからです。

 彼らの食べ物を、口に入れる時に自然のままであるかどうかをよく確かめて食べ、そして野菜を食べることによって自分を制限していました。すべての潔くない肉や偶像に捧げられた食物を確実に避けるために野菜だけを食べていたのです。

  J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

 

第83課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・37・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・1・・・

 ここの個所においては、パウロは弱い兄弟たち、すなわち、それ自体は道徳的に中立であるいろいろの事柄について疑念や咎めを感じている人々に対して、キリスト者はどのように対処すべきかを述べています。私たちは、ここでパウロが論じている「弱い兄弟たち」というのが誰であるのかを正確に知ることではありません。

 この点について諸説があります。しかし、最も妥当であると考えられる説は、弱い兄弟と言われている人々の多くは、ユダヤ人キリスト者たちを指しているのであって、彼らは食物についての儀式律法の命令を守っているばかりでなく、その命令の侵犯を恐れるあまり、行き過ぎてしまっている人たちであるとする説であります。

 初代キリスト者たちの多くはユダヤ教的背景を持っていました。従ってキリスト者にとなった以後も、彼らは聖い食物、聖くない食物といった旧約の儀式律法を守らなければならないと感じていたのであります。食物の規則の他にも特定の祭りの日の規則などがありました。このようなことは明らかに諸教会の中に、特にローマにある教会の中に問題を引き起こしていました。もしこの問題が不注意に取り扱われたならば、深刻な事態が生じる可能性があったからです。

 

 これを正しく理解するためには、先ず旧約の儀式律法に従わなければならないと考えている人々は間違っているということを理解しなければなりません。パウロはこの問題を両方とも正当であるとか、両方とも部分的には正しいとか言った問題として取り扱ってはいません。パウロは一方は正当で他方は間違っている問題として扱っています。そうして、正しい人の立場は誤った立場の人たちの取り扱いについて思慮を払わなければならないと言っています。

 

 使徒行伝15章にある使徒会議は、儀式律法はキリスト者を拘束するかどうかという問題について、拘束しないという結論を下して決着をつけた会議でした。ローマ書14章において、パウロは教会において、儀式律法に従わなければならないと感じている人々は例外的存在であると見ています。パウロはこのような人たちを愛と同情と忍耐をもって取り扱わなければならないが、しかし同時に 

それらの人たちのそのような考えは間違っていると言っています。

 彼らは信仰における弱さのゆえに、そのような考えをするのであり、「弱い」というのは未熟の意味と考えてよいのです。弱い人々のこの考えは間違っているから、教会全体の上に課せられるべき教理や信条の中へ加えてはならないと言っています。

 J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

第82課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・36・・・

D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:14・・

 「あなた方は、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(14)。

 ここでは、積極的な面が述べられています。キリスト者は闇の業を捨てるだけではなく、光の武具を着けなければならないのです。不節制や不潔や不和という、闇の衣を脱ぐだけでなく、その代わりに主イエス・キリストを着けなくてはならないのです。

 「主イエス・キリストを着る」ということの意味は、「私たちの中にイエスが生きておられるのを、人々が認めるほどにキリストと密接に結びつく」ということです。それはまた、聖霊に満たされ、その導きの下にあって、私たちの生活が、周囲の人々に対して、キリストが生きておられることを示すようになることです。

 

 「肉の欲を満たすことに心を向けるな」。

 ここの「肉」を「肉体」と同一視する人がいます。しかし、それは正しくありません。「肉」という表現は不節制と不潔の罪を含むだけでなく、不和の罪をも含むものであると言わなければなりません。不和の罪は心の罪であって、肉体のみの罪ではないからです。パウロは、この書簡の他の個所で、「罪」を人間の人格のにおいで腐敗しているすべてのもの、すなわち、私たちの罪に汚れた有罪的人間性の意味で用いているのです。

 ガラテヤ書5:19~21でパウロは、17節の「肉の働き」を列挙していますが、それらは肉体による罪だけでなく、心の罪をも入れています。すなわち、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、ねたみなどです。

 もし「肉の働き」が心の罪をも含むのであれば、ここの「肉」を決して肉体の意味で、パウロが用いているというだけではない。それか私たちの罪に汚れた人間性全体を意味するものでなければなりません。従って、ここのパウロの勧め全体の意味は、「あなたがたの罪に汚れた人間性より出る欲望に、わが身を委ねてはならない」(ホッジ)ということです。

 キリスト者はこれらの欲望を持っています。彼らは決してこれらの欲望から完全には解放されていません。それらはキリスト者にとっては依然として重荷であり、誘惑なのです。しかし、キリスト者はそれらに屈服してはならないのです。彼らは決してそれらの欲望に、自分たちの人生を牛耳らせてはならないのです。反対に、それらの欲望を屈服させ、制御し、十字架につけなければならないのです。そうしてこそ、夜明けを迎えることができるのです。キリスト信者よ、雄々しくあれ、キリストは私たちの首(かしら)として、すでにそれらに勝利しておられるのです。「勇気を出しなさい。わたしたちはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)のです。

 J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

第82課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・35・・・

D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:14・・

 「それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか」(12)。

 永遠の夜明けが近づいているというキリスト者の信仰は、単に論理的な問題であるだけではありません。それはまた極めて実際的でなくてはなりません。もし「夜はふけ、日が近づいている」のであれば、個々のキリスト者は、どのように敬虔で熱心で真摯な生活を送るべきであるかを考えなくてはならない。人生とはなんと真剣な問題であるかを考えてみよ。もし私たちが「日が近づいている」ことを本当に信じるのならば、どうして自分たちの思考と注意を、自分自身の野心や快楽にのみ釘付けにして、人生を流浪することができるでしょうか。

 

 パウロはここで「日は近づいた」という真理を、キリスト者は何故真摯で真剣な聖い生活を送らねばならないかの強力な理由として強調しています。「夜」と「やみ」と罪と悲しみを連想させ、「日」と「光」とは正義と喜びを想起させる。この世の悪はやがて過ぎ去り、永遠の喜びの朝が間もなく明けて来る。これが真理であるならば、私たちは闇の業を捨てて、光の武器を着けるべきである。私たちは恥とすることや、隠れて行うようなことを捨てなくてはならない。同時に、私たちは日の光にふさわしいものをもって自ら装うべきである。衣服を脱いだり着たりするという思想は、原語のギリシャ語から分かることである。「私たちは一揃いの衣服を脱ぎ捨て、もう一つの揃いの衣服に着替えなければならない。夜にふさわしい衣服を脱ぎ捨て、日にふさわしい衣服をもって装わなくてはならないのである」(C・ホッジ)。

 

 「そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか」(13節)。

 この個所は前節の思想の継続であって、どのような業をキリスト者は捨て去るべきかを指摘し、次の節においては、どのような業を身に着けるべきかを教えています。 

 パウロは先ず捨て去るべき三つの罪を指摘し、各々の罪に二つの用語を用いています。①宴楽と泥酔、②淫乱と好色、③争いとねたみ。①の類は不節制・放縦の罪、②の類は不潔の罪、③の類は不和の罪です。注目すべきことは、いかに広い範囲の罪が、ここで語られているかということです。ある人は罪はそのうちの一種の罪であり、また他の人の罪は他の種のものであるかもしれない。ある人は不節制の罪を犯さなくても、不潔の罪を犯しているかもしれない。また他の人はこれら二つの罪を犯していなくても、不和の罪を犯して、教会の平和を乱しているかもしれません。もし私たちが不断に不和の罪を犯して、神を悩まし、人々を不快に陥れているとするならば、たとい不潔や不節制の罪を犯していないとしても、神のみ前に決して喜ばれるものではありません。

 J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

 

第81課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・34・・・

D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:14・・

 「夜はふけ、日が近づいている・・・・」(13:12a)・・・2・・・

 それでは、聖書の歴史観とは何でしょうか。聖書によると、キリストが十字架にかけられて死を遂げられ、次に死人の中から甦られた時、世界の終わりが始まりました。それ以前の全てのことは、カルバリの十字架のための準備的ものでした。それ以降の全てのことは、永遠を迎えるために、この世の事柄を完結させることの一部に過ぎないのです。Ⅰペテロ1:19~20.へブル1:1~2、9:26、Ⅰコリント10:11と比較すると良いです。

 これらの聖句から、使徒たちや初代キリスト者たちは、神の日の数え方による終わりの日の中に生きていたということがわかります。私たちは今日は日常生活においてカレンダーの時によって生きています。しかし、もし私たちが聖書をよく理解しようとすれば、聖書の歴史観を把握して、神の時間の計り方を知らなくてはなりません。聖書の歴史観によると「万物の終わりが近づいている」(Ⅰペテロ4:7)のであって、キリストの再臨は近づき、彼は速やかに来られるのです。その理由は再臨は神のご計画における次の大きな贖いの出来事であるからです。更に、それは神の計画における最終の出来事であるとも言えるからです。それは、私たち一人一人の前方に巨大な軌跡として現れつつあり、それはこの世界歴史を実際に終止させるものなのです。

 

 歴史の黄昏なのです。長くてもの憂い、罪と苦しみと戦いの時代は、ほとんど終わろうとしています。私たちはあとどれくらいの時間が再臨の前に残されているのかは知りません。しかし、それは構わないことです。この世界は現在のコースを終わりなく続けるのではありません。それは終末へと急ぎつつあるのです。時間は永遠に終結し、働きは休息に、信仰は現実となり、闘争は勝利に帰着するのです。

 しかし、その終末はこの歴史の黄昏の彼方に、そして、その黄昏と長い長い夜は過ぎ去ろうとしています。新しい曙は近づきつつあります。それは永遠の曙であり、夜明けなのです。この世とこの世に属するものとは過ぎ去ろうとしており(Ⅰコリント7:31、Ⅰヨハネ2:17)、すべてのものが新しくされる永遠の世界が近づきつつあります。真摯なキリスト者はこの真理をしっかりと自覚して、日毎の生活を生きなくてはならないのです。「日が近づいている」ことを知っている者として生きなければならないのです。

 

 永遠の夜明けについて考えることは、私たちを消極的になりやすい一つの原因は、聖書の歴史観を把握することに失敗しているからです。多くのキリスト者たちが主の再臨に与かることを熱心に望む代わりに、自分の計画や構想を完成させるまで、それを先送りにしようとするのです。私たちは自分の重要な仕事が進行中であるとき、人間の歴史の終末が今来ないことを願うのです。しかし、そのような態度こそ聖書の歴史観とは真っ向から背走するものです。

 神の御思いは人間の思考に優っており、神の経綸は私たちの行動を越えています。私たちの計画の実施のために、私たちが神の贖いの出来事、すなわち、再臨や終末から、注視の目をそらすようになる時、私たちはもはや真の信仰的な態度ではなくなってくるし、また信仰によって歩んでいるとは言えないのです。神がしてくださる贖いの行為は、私たちの活動に優先するものです。私たちは自分たちの計画や働きを永遠の光に照らして行わなければならないのです。 永遠は絶対的に重要なのです。時間が相対的に重要であるに過ぎないのです。もし私たちが時間を永遠より重要であると見るならば、私たちはもはや聖書的な立場と聖書的な歴史観に立っているとは言えないのです。

J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

 

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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