2019年7月  №144号 通巻829号
 

第90課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・45・・・

F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。

                  ・・・14:13~23・・・

 「食物のことで、神のみわざを破壊してはならない」(1420a)。

 この文章は14 :15bと幾分か似ています。「神のみわざ」という言葉の性格、厳密な意味については、種々の見解があります。ある人たちは「キリスト者の兄弟たち」という意味に理解します。しかし、最も適当と考えられる意味は、前節の終わりに述べられた「徳を高めること」です。「神が植えられた植物であり神が建てられた建物である同僚のキリスト信者の意味である」。神のみわざと、強いキリスト信者がある種の食べ物を食べる権利の間に重要性の比較があるのではなりません。

 重要性においては、前者は後者のはるか上にあるので、真の霊的なキリスト信者は、弱い信者の建徳が危険にさらされている場合には、自己の自由を制限することに躊躇を感じるものではないのです。

 

 「すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる」(1420bc)。

 ここで「すべての物」とは明らかに「すべての種類の食物」の意味です。「きよい」という語のギリシャ語は「純粋な」と「清い」の両方の意味があります。「すべての食物は宗教的見地によりすれば清い。すなわち、人を汚すものではない」。私たちが覚えておくべきことは、パウロは食物の有効性を論じているのではなく、ある食物についての宗教的な躊躇という問題を論じているということです。

 健康面から見れば、すべての種類の食物が必ずしもきよいわけでないことは明らかです。ひと山のパンも身体のために良くないものを含んでいて、無害でないかもしれません。しかしパウロはそんなことを論じてはいません。パウロは弱いキリスト信者が、ある食物を食べることについて、宗教的にためらいを感じたり、迷ったりしていることを考慮して、強いキリスト信者はその自由の権利をどのように行使したり、あるいは節制したりすべきかを論じているのです。

 私たちはこのパウロの論の中に、近代の衛生論的な事柄を導入するならば、それはパウロの論の正しい理解ではありません。

 J・G・ヴォス著   

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

第89課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・44・・・

F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。

                  ・・・14:13~23・・・

 「こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受け入れられるのである」(1418)。この言葉は前節を確認するものです。「こうして」(in

these things)という語は、明らかに前節の義と平和と喜びを指しています。これらのものが存在するところに、飲食についての相違などは、キリスト者の強い結束を破壊することはできないのです。真の義と聖霊による平和と喜びをもっている人は、これらの賜物を与えて下さった神に受け入れられるばかりでなく、人にも受け入れられるのです。

このことは信仰深い霊的なキリスト者は常に人に受け入れられるとか、すべての人たちに受け入れられるということを、決して意味するものではありません。時として、信仰深い霊的なキリスト者が少数派であって、大多数の者がより通俗的で人の心をくすぐるような教えに拍手喝采するという場合があります。そして忠実なキリスト者は自分とその主張が、いつも誰かによって反対されることを覚悟しなくてはならないのです。

その上、教会においても、反対する人たちが常に存在することを覚えておかなければなりません。しかし、時が来ると、忠実なキリスト信者は必ず人たちに受け入れられるのです。彼の真理への証言が無視され、軽蔑されることがあるかもしれません。しかし、時が来れば、神が彼の義を明らかにし、彼の判断が正しいとされるのです。忠実に神の真理を証言している信者が、長期間にわたって非難され中傷され迫害された時代が、教会の歴史の中に幾度もありました。しかし、時が来たとき、彼らが真理と義に立っていることが認められたのです。

 

「こういうわけで、平和に役立つことや、互いの徳を高めることを、追い求めようではないか」(1419)。ここでパウロは、ローマにいるキリスト信者に対して、平和と相互の徳を立てることの義務を命じています。強いキリスト信者があらゆる場合に自己の自由の権利を行使することよりも、このことの方がはるかに大切なことなのです。

キリスト教的愛、キリストの模範、先に論点とされた事柄はどちらかといえば、些細なことに過ぎないこと、真理の重要性、真の宗教の性質、これらのことすべてが、私たちに対して相互の忍耐と寛容を勧めているのであるからには、私たちは平和と相互の建徳を勧めるように努力しようではないでしょうか。(ホッジ)。

   J・G・ヴォス著   

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

 

 

第89課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・43・・・

F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。

                  ・・・14:13~23・・・

 「それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい」(1416)。

 これは多分、強いキリスト信者に対して言われた言葉でしょう。そして良い事というのは強い信者たちの肉を食べる自由を指していると考えられます。だから、ここの意味は「それ自体は良い事であるあなたの自由を、悪とすることの機会としてしまい、自分の上にそしりをもたらす結果とならないようにしなさい」ということです。

 

 「神の国は飲食ではなく、義と、平安と、霊における喜びである」(1417)。

「これは抑制・忍耐・寛容を勧める新しい理由である。自由の行動を抑制しても、そこには、いかなる義務の原則も犠牲にされてはならないし、宗教にとって必須なものは何一つ無視してはならない。何故ならば、宗教は外に現われた行為にあるのではなく、聖霊の内的な恵みにあるからである。ある肉を控えることは罪を犯すことにはならない。だから、他人の益のために食べないことが必要であれば、私たちは食べないようにするべきである」(ホッジ)。

 

 旧約の儀式律法の下では、外的なものが強調されている。しかし、キリスト教は違うのである。神の国―その民の上に及ぶ神のご支配―は飲食のような外的なものにあるのではない。それは、み霊による義、平和、喜びのような霊的なものに存するのである。「これらの言葉はその聖書的な意味で解釈されなければならない。ここでパウロは、キリスト教の道徳性に存するとか、公正で平和を愛する明るい人が真のキリスト信者であるなどとは決して言っているのではない。そのように考えることは、このローマ書全体の論旨と矛盾するものである。義と平和と喜びとは、聖霊が生み出したものである。義は私たちを神の御前に立つことを得させるものである。何故ならば、それは神の律法の要求を満たすものであるからである。

 それは客観的と主観的の両面において、信仰による義である。平和とは神と人間、理性と良心、私たちの心と兄弟たちとの間の一致である。そして喜びとは、救いの喜びである。聖霊との交わりの中にある者だけが経験できる喜びなのである(ホッジ)。

   J・G・ヴォス著   

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

 

第88課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・42・・・

F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。

                  ・・・14:13~23・・・

 「もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない」(15節)。

 ここの「もはや愛によって歩いているのではない」という言葉は適訳です。もし強いキリスト者があらゆる環境下において、またあらゆる人々がいるところで、どんなものでも食べてよいというキリスト者の自由を行使することを主張するならば、彼らは弱い人々の上に悪い影響を与えることになるのです。他人の霊的状態を無視して自己の権利と自由のみを主張することは、キリスト者の愛の義務に反することなのです。従って、強い人々は肉を食べることによって、肉によって躊躇している弱い人々を傷付けることにならないように注意しなければなりません。

 

 「あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである」(15B)。

 ここで私たちは、良心を無視することが、魂を滅ぼすような性質のものであることを知ります。強い信者が肉を食べることが、どうして弱い信者を滅ぼすことになり得るのでしょうか。肉そのものはもちろん害もないし、宗教的敵に腐敗をもたらすようなものではありません。しかし、強い信者が肉を食べることによって、弱い信者を滅ぼすことがないように注意しなくてはならないのです。「滅ぼす」(アポ オルエdestroy)という語は明らかに極めて強い語で、傷つけるとか、つまずかせるとか、悲しませるとかいう意味より、はるかに強い意味を持っています。

 それは破壊的な性質と魂を破壊して神より離れさせてしまう性質をもった言葉です。もちろん、神は弱い信者を立たせることがおできになることは、全く正しいことです。さらに神があらかじめ知っておられて、生命に予定されていた人々が栄光を受けることも全く真理です(830)。これらのことは全て確かです。しかし、パウロはここでは信者をお支えになる神の力のことではなく、罪の破壊的な力について語っているのです。15節でパウロが「滅ぼす」という言葉を用いる時、罪はもし神の恵みによる制御の下で活動しているのでなければ、どのようなことになるかについて述べているのです。

 

 神の恵みによる制御の手から離れてしまう時、罪は確かに罪人を永遠に滅ばしてしまうのです。そして弱いキリスト者は、自分の良心に反した行為をするとき罪を犯してしまうのです。強いキリスト者は、まず止まってよく考えてみなくてはならないのです。罪とは如何に恐るべくも危険なものであるかを考えなくてはなりません。彼は自由を行使するにあたって、この点をまず考え、彼らの自由の行使が、弱いキリスト者を導いて罪を犯させることにならないかを考えなくてはならないのです。

 

 今日の時代において、きよい肉と汚れた肉という問題はもはや論争点とはなりません。しかし、15節において具体的に示されている原則は、依然として真理であり有効であることを知らなくてはなりません。強いキリスト者は弱いキリスト者を滅ぼすことにならないように、その自由を行使しなければなりません。この原則を適用することができる事例は今日いくらでもあります。

 パウロの時代がそうであったように、神によって禁止されていない事柄について、良心的に迷っている人々は今も多いのです。例えば、真面目なキリスト信者の中には生命保険は有罪であると考える人々がおります。大多数のキリスト者は生命保険は道徳的に正しいと主張します。そして彼らはこれに加入する権利を持っています。しかし、彼らは迷っている人々を説得して、それに入らせようとしてはならないのです。弱い人々が良心に逆らって行為して、罪の破壊的な力の犠牲者となってはならないためです。

   J・G・ヴォス著   

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

 

第88課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・41・・・

F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。

                  ・・・14:13~23

 「わたしたちは、主イエスにあって知り、かつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである」(1414)。

 旧約の汚れているものと清いものとの区別は、もはや効力を持っていない。その限りにおいては、異邦人のキリスト改宗者、すなわち、強い人たちが正しいのである。しかし、彼らが銘記しておかなくてはならないことは、この点について旧約が教えている律法が、今もまだ拘束力を持っていると考える人々(ユダヤ人改宗者)は、良心的にそれを無視することができないということである。それ故に、強い者は、弱い者に対してその義務感を犯させるに至らしめるような行動は何一つしてはならないのである」(ホッジ)。

 

 「わたしは、主イエス・キリストにあって知りかつ確信している」。パウロがここで述べようとしていることは、自分自身の理論によって到達したような結論ではなく、神の啓示によって知るに至ったものです。マルコ福音書71423にあるキリストのみ言葉を暗示させるようなものがここにあります。すなわち、「すべて外から人にはいって、人をけがしうるものはない」(714)。主はもちろんここで宗教的な汚すものについて語っておられるのです。そしてパウロは1414で、宗教的な汚すものについて述べています。旧約の儀式律法の中の汚れた食物についての古い区別や禁止は廃止されてしまって、今では拘束力をもってはいないです。従っていかなるものもそれ自体汚れたものとみなされるものではありません。同じ教えが語られている使徒行伝10915を参照してください。

 それ自体汚れているものは一つもないということが真理ですが、パウロのローマの教会に中には、まだこの単純な真理をはあくしていない人々がたくさんいたのです。彼らの考えによると、それ自体汚れていて清くないものがまだ多くあっただけです。そこでパウロは付言して「ただ、それが汚れていると考える人にだけ、けがれているのである」と言ったのです。すなわち、清くないものがなおまだあると信じているキリスト者には、それらにあずかることは安全ではない。彼らにとっては、それはまだ清くないのであるから、それを食べることによって、有罪と考えていることをすることになり、したがって彼は自分の良心を犯すことになるからです。

 たとえ良心が無知であり、誤っているにしても、とにかく良心に逆らって行動することは罪なのです。

 「きよくないものの肉を食べること自体は罪ではない。しかし、神によって禁じられているとその人が信じていることを行うことは、罪なのである。その罪は肉を食べることの罪ではなく、良心を無視することの罪なのである」。

J・G・ヴォス著   

 玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)


写真・・・地方伝道時代のバラ宣教師(1880年48歳)
     日本基督公会横浜海岸教会

 

 

第87課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・40・・・

F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。

                  ・・・14:13~23

 「それゆえ、今後わたしたちは、互いにさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい」(14:13)。

 

 しかし、この考えはこの章のパウロの文脈には合いません。パウロはここで述べている弱い信者というのは、ちょっとしたきっかけでたらすく不節制に陥ってしまいやすい人々ではありません。彼らは不節制になりやすい人々では全くありません。それどころか彼らはある事柄を節制する人々なのです。彼らは肉を全く食べようとしないで、野菜のみを食べようとしている人々です。弱い人々の弱点というのは、不節制や節度を失うことではなく、ある事柄について宗教的にびくびくするという弱点のことなのです。弱点であるのは肉を食べないという点なのです。強い人々は少しもびくびくしないで、それを食べることができないが、弱い人々はそれについてびくびくしたのです。

 

 それでは、強い人が弱い人の前に置くべきではない「つまずき」とは何であるのでしょうか。1423節にのべられていることを考慮すると、「つまずき」というのは、弱い人々が悪いことであると信じている事柄を行わせるように、弱い人々を推進するような強い人々の側の行為を指していることがわかります。

 弱い人々の側の失敗というのは、ある種類の不節制に陥ることの罪ではなくて、彼らが自ら神の前に言い開きを十分にしていない事柄や、かれらがまだ疑念や躊躇を感じているような事柄をあえて行う罪なのです。23節「しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められます。すべて信仰によらないことは、罪である」に注目すべきです。ここで罪というのは、食べる罪ではなく、疑いつつ食べる罪のことです。それをすることは正しいことであるという確信がなく、疑いつつ食べることの罪なのです。

 

 私たちは、次の課で、1423節をさらに詳しく学ぶことになります。ここでは、13節で述べられている「さまたげになる物」や「つまずきになる物」の本当の意味を理解するために、1423節を大まかに見たにすぎません。弱いキリスト者たちのさまたげとなるものは、不節制に陥ることや罪み深い放縦に走ることではなくて、確信がなく疑いつつ物事をすることなのです。それ自体が悪いことではなく、強いキリスト者ならば何のためらいもなく行うようなことでも、疑いながら行うことです。「つまずきとなる物」というのは、弱いキリスト者たちに、彼らがためらいを感じているような事柄を行わせるように勧める結果となる強い信者の側の行為を指しているのです。

   J・G・ヴォス著   

 玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

第87課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・39・・・

F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。

                  ・・・14:13~23

 「それゆえ、今後わたしたちは、互いにさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい」(14:13)。

 

 パウロはここで、進んで新しい話題に移ろうとしています。もちろんそれは、先に彼が述べたところと相互関係にあることです。その新しい話題というのは、信仰の強い者が、その信仰の自由をどのように行使するべきであるかという問題です。

 キリスト者は一人一人が神に対して、自分の行いが正しいと申し開きをするだけでは十分ではないのです。キリスト者たるものは、自分が行おうとしていることが正当であると自分に関して申し開きをするだけでなく、その行おうとしている行為によって、兄弟たちを傷つけないように注意しなくてはらないのです(Ⅰコリント1023以下)。パウロはここでキリスト者の自由の問題と、それが如何に行行使されなくてはならないかを取り上げています。

 

 13節は強いキリスト者に対して、語られているものと考えられます。すなわち、彼らは弱いキリスト者の前につまずきとなるものを置かないように警告されているのです。だから、私たちはここでパウロが言っているようなつまずきとは何かを考えなければなりません。

 「つまずきとなるもの」と「さまたげろなるもの」とは、明らかに同じものを指しているのであって、つまずきや失敗の契機となる、あるもの、妨げとなるものを兄弟の前に置くことです。しかしキリスト者の行為において、これらの語は何を指しているのでしょうか。

 

 パウロの意味するところを理解しるために、私たちはパウロがこの章で述べている弱い信者を性格付けているのは、どんな種類が弱点なのであるかを理解しなくてはなりません。本章を理解する場合に、この独自の点を見落としてしまって、安易に現代の問題に適用してしまうことが多いのです。弱い者の弱点とは、例えば不節制のように、罪に汚れた行動に入り浸ってしまい易いことであるといわれてきました。

 この考えによると、弱い兄弟たちが弱いのは、彼らが誘惑に弱いという点にあるということになります。そして、彼らの弱点は不節制と節度を書くという点にあるということになします。

   J・G ヴォス著

   玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)

 

第86課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・38・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・7・・・

 「だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである」(14:12)。

 この節は、パウロが今まで述べてきた、神に対する各人の個人的責任という真理の要約です。私たち一人一人が神に対して自分で申し開きをしなくてはなりません。他人のために言い開きをするのではなく、自分自身の言い開きをしなければならないのです。

 私たち自身が神に対して弁明しなければならないのですから、人が他人を裁くことが如何に傲慢であり、不遜であるかがわかるでしょう。

 

 「それゆえ、今後わたしたちは、互いにさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに決めるがよい」(1413)。

 「互いにさばき合うな」という戒めは、パウロの時代と同じく、今日の教会が心しなければならないことです。殆どの教会が、この戒めを破って生きている人々を、その中に持っています。彼らは他のことについては、厳格中の厳格さを持つ。しかし、14章の13節のこの戒めについては、全く誤っており、それを犯しています。

 彼らは鋭い言葉を持って、神が彼らの裁きの下に置かれなかった他のキリスト者を厳しく裁くのです。この罪は真に大きなもので、これが教会の平和と聖潔を乱すのです。

 J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師

 

 

第86課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・39・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・6・・・

 「それなのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのです」(14:10)。この章において、パウロは「神」と「キリスト」とを交互交換的に用いているのは、彼がキリストを神として受け入れているからです。「もし人が私たちの兄弟であるならば、また、神が彼を受け入れておられるのであれば、そして、彼が神の御意思を行なおうという真摯な願望から行動しているのであれば、たとい私たちが誤っていると思うことを彼が正しいと考えているとしても、私たちは彼を非難して裁くべきではない。また彼が不必要な事柄で良心を悩ませているにしても、私たちは彼を軽蔑してはならないのである。ここの箇所の前半は迷いつつあるユダヤ人キリスト者について述べているのであり、後半は異邦人改宗者について語っているのであり、そして最後の部分は、両者に関して語られているのである。私たちはみなキリストの裁きの座の前に立たねばならないのであり、キリストは唯一の究極的な裁き主であるから、私たちはキリストの大権を僣取して、キリストが受け入れられた人を裁こうとしてはならないのである」(C・ホッジ)。

 

「すなわち、『主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神に賛美をささげるであろう』」(14:11)。

これはイザヤ書45:23の引用であるが、イザヤ書の言葉のそのままではなく、パウロは少しく形を変えている。しかし、意味は変わっていない。このことは聖霊がイザヤ書とローマ書の双方の真の著者であるという事実によって説明できるのである。著者は自分自身の著書から引用するとき、彼が適当であると考えるどのような変更をもする自由がある。このようなことは他人の著書から引用する場合にはできないことである。

 ローマ書1411節はイザヤ書4523節と同様に、聖霊がその真の著者であるから、真に霊感を受けているのである。「わたしは生きている」はイザヤ書45:23にある「わたしは自分をさして誓った」という言葉の正しい意味を示している。

 「パウロは明らかに、キリストの権威を認めることは神への服従と同じであると考えており、旧約のエホバの普遍的な支配について述べていることを、躊躇なく贖い主キリストの主権性を宣言しているのである。従って、パウロの評価においては、キリストは神そのものであったのである」(ホッジ)。 

J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

 

第86課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・38・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・5・・・

 「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものである」(14:8)。

この節は7節の思想をより明確な形で、繰り返して述べています。ここにある「主」という言葉は、明確に主イエス・キリストを指していることは文脈から分かります。

8節に述べられていつ献身(devotion)は、被造物が創造主に対して負うているのであり、その献身が主イエス・キリストに対して捧げられるべきであることが言われていることで、ここにキリストの神性が証明されていると言えます。すなわち、このことはキリストが神であることを証ししています。6~9節において、「神」と「主」とが相関的に用いられていることに注目すべきです。このことは、キリストの神性を力強く証明されていることになります。

 

「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」(14:9)。キリストはその死によって、その民を自分の者としてあがなわれた。その復活によって、キリストはすべてのものの王・主として現在の栄光を獲得されたのである。キリストの栄光と高挙と支配とは、キリストの服従と苦難と死の代償として提供されていたものであると聖書は教えています(ピリピ2:8~9)。

ここの9節では、パウロは、救い主・王としてのキリストの権威は現世に限られたものではなく、死後の生涯にまで及ぶものであると教えています。何故ならば、キリストは死んだ者と生きた者との主であるからです。

 

私たちはここで、ここに述べられているキリスト観が、近代自由主義的プロテスタント教界に広く浸透しているキリスト観と如何に相違しているかを認識しなくてはなりません。近代自由主義キリスト教の見解は、イエスが真の神であることを否定し、偉大な人物であると見るのです。彼は贖い主ではなく、単なる教師・模範者と見られているにすぎないのです。しかし、パウロが信じたキリストは死者と生者との主でした。イエスは真の神でした。 

J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師

 

 

第85課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・37・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・4・・・

 「日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する」(6節)。

 ここの言葉は、ユダヤ教の祭りの日を守るものも守らない者も同様に正しいと言っているのではなく、また、肉を食べる者も野菜だけ食べる者も共に正しいと言っているのでもありません。それどころか反対に、一方は正しく他方は間違っており、一方は信仰が強く他方は弱いと言っているのです。この聖句でパウロは、両方のグループのキリスト信者が共に神への献身という動機から良心的に行動していると言っているに過ぎません。 

 一方は忠実に神に仕えており、他方は罪を犯しているケースではありません。双方共に献身の気持ちと神への感謝から、各々そのように行動すべきであると良心的に信じて行動しているのです。ユダヤ教の祝祭日を守ることをせず、宗教的な迷いでなく、すべての食物を食べる強いキリスト者は、そうすることによって神に感謝を捧げていること、良心に従って行動していることを明らかにしているのです。それを用いることが有罪であり禁じられている事柄を行いながら、神に感謝することはできません。同様に、それらの日を守り、肉を食べることを控えている人は、確かにその信仰において弱く、誤っているけれども、やはり自分は神のご意思に従って行動していると信じて、神に感謝を捧げているのです。

 

 「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」(7)。

すなわち、真にキリスト信者ならば、自分自身を自分の主人と見做す者はなく、また、自分の好むところに従って行動する自由があると考える人はいない。彼は自分の生と死において、生きるにも死ぬるにも、その主なる目的は神の栄光を表わすことであることを認識しています。彼は自分自身は自分のものではなく、価をもって、すなわち、キリストの尊い血潮にとって買い取られたものであることを認識しており、従って、自分がキリストの僕であり、神のみ心に従ってその栄光を現わすように生きるべきことを知っています。

 

 パウロはこの原則を受け入れる人はすべて、たとえ個々の事柄についての神のご意思を理解することについて、誤りや弱点を持っていても、真のキリストとして取り扱われるべきであると言っているのです。自分が全くキリストに属するものであることを認識し、自分の生と死について、自分が権威を持つ者ではないことを知っている人々は、キリスト者兄弟姉妹として受け入れられるべきであります。

   J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師

 

 

第85課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・38・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・3・・・

 「また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれの心の中で、確信を持っておるべきである」(5節)。

 ここで言われていることは、明らかに旧約の儀式律法にある種々の祭りの日に関してです。律法が清い肉と清くない肉とを区別したように、日についても区別していました。明らかに、あるユダヤ人キリスト者たちは、これらの日を従来の仕方で守らなければならないと考えていました。この信仰は誤っていました。それは彼らの弱い点でした。しかし、それは重大な事柄ではなかったので、それによって教会の統一性を損なわれることは許されないことです。

 

 ここの個所は、ある人たちによって、安息日を守ることはキリスト者の義務ではなく、個人の好みにゆだねるべき選択的な問題であるとする議論の根拠として用いられてきました。しかし、これはここの個所のひどい曲解にほかなりません。文脈とガラテヤ書4:10やコロサイ書2:16のような並行聖句から見て明らかなように、ここでパウロはユダヤ教の祭りについて述べているのであって、その言葉をキリスト教の安息日に適用することは重大な誤りです。

 ここの聖句が言おうとしているのは、「ある人はユダヤ教の祭りを守り、他の人は守らない」ということです。私たちの知るべきことは、使徒時代の教会において、週の最初の日、すなわち、主の日を守るべきことにおいて一致していた人々にさえもそのような事実があったということです(ホッジ)。

 

 「各自はそれぞれの心の中で、確信を持っておるべきである」(5b)。

 ここでパウロは一人の人の良心が他人の行動を支配することはできないという原則を述べています。各人は自己の良心に従って行動すべきです。そして自分が間違っていると確信することを行うことは避けなければなりません。現代の教会においても、自分たちの良心に基づく確信を他人の行動の基準にすることに、神は定められておられると考えている人々がいるのです。このような人たちは他人に対して「君はこうしなくてはならない。何故ならば、私はそうすることが君の義務であると信じるからだ」とか、「君はそのようなことをするのを直ちに止めなければならない。何故ならば、私はそれが間違いであると思うからだ」などというような言葉を、あからさまに言わなくても、態度で示すのです。

 これと同じような精神はパウロの時代のローマの教会に存在していたことは明らかであり、このような傾向に反対するためにパウロは「各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」と記したのです。もちろん、それは神のみ言葉によって正されるべきであって、他のキリスト信者の良心によって正されるべきものではありません。私たちは自分の道徳的問題を、だれか他人の確信を自分のガイドにすることによって解決することではありません。

 私たちは自分自身の良心によって、神が私たちに要求しておられることは何かを確信させられなくてはならないのです。ある教会の人々が持っているこの考え、すなわち、神はとにかく他の兄弟たちの良心を支えるために、自分たちを指名されたのだとする考え方は大変な間違いであり、自惚れなのです。

J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師

 

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ISBN978-4-535-55538-9
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森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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