201810月 号 №135 通巻820号 号
 

十戒と主の祈り・・4・・

             鈴木英昭著

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

=わたしのほかに=

  第一戒③・全能の神

           Ⅰペトロ5:6、ヤコブ5:11

 私たちは異教社会に多くの神々があることを知っています。その神々は、どれもみな人間に幸いをもたらしてくれるものと期待されています。不幸や災いは神からではなく、別のところからもたらされるものであって、それを防いだり、そこから救い出してくれるのが、神々であるということになっています。そのために、いわば幸福を与える分業を割り当てられたいろいろの神々が挙げられることになります。

 ところが、現実の生活には願っていない不幸が多くあります。そうなると、その原因は悪魔であると考えるが、神も悪魔も存在しないとする人々は、偶然に起こったものとして、運が悪かったと言って諦めます。私たちの人生や世の中には、偶然と思えるようなことが起こります。クリスチャンも偶然という言葉を使いますが、文字どおりに偶然であると信じているわけではありません。偶然を信じているなら、神の支配が届かないところがあることを信じていることになるからです。それは、明らかにこの第一戒の戒めに反することになります。

 

 しかし、神は聖書によって、このように御自身だけが神であることを、はっきりと宣言なさり、御自身だけが幸も不幸も、生も死も、慰めも懲らしめも、すべて両面を行っておられることを表明しておられます。

 具体的な例を挙げれば、エデンの園で、第一に、神は悪魔がアダムとエバとを誘惑することを許可されました。第二に、堕落した罪のため、彼らへの罰として、彼らに苦しみを送られました。そして第三に、神はその憐みから、彼らの裁きと共に、彼らを救う道を備えられました。

 神は悪を憎み、死を憎んでおられながら、神はこの悪と死を支配しておられ、それらを与えることがおできになります。私たちがこの関係を十分理解することができないとしても、神がこのように全能の力をもって、すべてを治めておられることを知ることは慰めです。

 したがって、私たちは、「へりくだって」(ウ大教理の問104)、この聖書の神と共に歩むことが必要です。また神の統治に「忍耐して」(ウ大教理の問105)従うことが必要です。

 「だから、神の力強い御手のもとで自分を低くしなさい。そうすれば、ちょうど良い時に高めていただけます」(Ⅰペトロ5:6)。自分の努力でへりくだるのではなく、全能の神を思って、へりくだります。「忍耐した人たちは幸せだと、私たちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちたかただからです」(ヤコブ5:11)。神は、悪魔の働きを許された神ですが、悪魔がヨブを自由に支配することはお許しになりませんでした。

 

 第一戒④・偶像からの解放 

          ローマ1:21~32

 

 経験のない人から見ると、キリスト信者になったら、さぞ不自由な生活になるのではないかと思われるかもしれません。ところが、実際はその逆で、まことの神を畏れ敬うようになると、だれでもある種の自由を実感します。

 例えば、自然界や、死んだ人や、あるいは動植物に魂があると思って頭を下げ、それらを恐れる人は多いのですが、真の神を知ってからは、そういうことはなくなります。

 真の神を畏れ敬う人は、神でないものを恐れる必要がなくなります。大地は神ではありませんから、地下資源の開発をすることも問題はありません。同時に「地を治める」責任を考えますから、日本の商社のように無計画に森林を伐採させて自然破壊をするようなことはしません。しかも、神が創造され、そして摂理の力をもって守ってくださることを知っていれば、神への感謝をもって開発することになります。開発そのものが大義名分になって、無制限になることからも抑制されます。

 真の神を神としないとき、人が生み出した高度の技術、例えば、原子力にしても、生命医学の技術にしても、やがては恐ろしいものになって、人をその奴隷とするようになってきましたし、これからもそのようになるでしょう。先日のNHKのテレビで北米でのクローンのペットのことが報道され、猫は250万円で予約待ちだそうです。つまり、真の神ではなく、技術が偶像化され、それは神の栄光のためでも隣人の益のかめでもなく、個人の利益のために利用されるようになります。私たちがそれらを支配することができなくなり、反対に支配されるようになるからです。

 技術だけでなく、神の賜物である経済も政治も、神と人々に仕えるための手段です。真の神への畏れがないとき、技術、経済、政治、異教の神々、欲望という偶像が、これまで人をその奴隷にしてきました。これからもそれは繰り返されます。

 

 こうした偶像から解放されるには、第一戒が出発点になります。神と共に歩まなければなりません。神の契約を喜び、神の愛を知って生きることが必要で、すでに述べたように、「神などない」といって、高慢な態度で生きることは、必ずさまざまな偶像を恐れる生き方になります。人は神を崇めるか、それとも自分自身を崇めるか、そのいずれかをとるものだからです。

 ローマの信徒への手紙の1章21~32節は、神に造られたものを崇める人間の姿が描かれています。自分を誇る、被造物に似せた偶像を拝む、欲望の虜になる、さまざまな罪の奴隷になる・・・と言われています。ですから神の戒めの真理だけが信じる者を偶像から解放することができます。

 

十戒と主の祈り・・3・・

             鈴木英昭著

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

=わたしのほかに=

  第一戒①・偶像の支配

           出エジプト記20:3、ローマ1:23~25

 天地には、天地を造られ、それを治めておられる神だけがまことの神です。人々はいろいろなものに名を付けて、神々と呼んでいますが、それらは神ではありません。聖書はそのことを直接的に、また間接的にはっきり述べています。

 例えば、申命記4章28節のモーセの言葉は、将来イスラエルの民が約束の地に入った時のための注意を与えていますが、その中で次のように述べています。

 「あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、たべることも、嗅ぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう」。

 このように、偶像とされるものは、実際には神ではないのです。預言者のエリヤもイザヤも、同じことをこう述べています。バアルの預言者たちとカルメル山で対決した時、エリヤは彼らをあざけって言った。「大声で叫ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか。それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて起こしてもらわなければならないのだろう」(列王記上18:27)。

 イザヤも4019節は、こう言います。

 「職人は偶像を作り、金箔を作ってかぶせ、銀の鎖を付ける」。

 このように人間が作った神ですから、偶像は神ではありません。それでも、偶像を問題にし、攻撃する必要があることを、神は第一戒で、禁じるという命令によって教えます。

 旧約聖書にも新約聖書にも、偶像というものが作り出され、神の民はその偶像に従う危険に囲まれていることに注意を与えられています。イスラエルの民の歴史が示すように、それが内部から崩壊していったのは、まさに、この問題でした。間もなくソロモンの晩年の箇所になりますが、彼の不信仰はアンモン人の神ミルコム、モアブ人の神ケモシュ(列王記上11:4~8)の影響でした。

 

 そのように、偶像は単なる異教の神々の問題ではありません。われわれの周囲に、われわれの心の中に、力をもって支配するものが偶像だからです。人を奴隷にする力をもっているものが全て偶像になります。例えば、典型的なバアルにしても、それは肥沃な収穫という富を人格化して神にしたものです。雨や雷の神、多産の神という具合です。

 その他、いろいろな願望が神になります(ローマ1:23~25)。黄金や財産が崇められ(ヨブ31:24~25)ます。聖書はまた貪欲を偶像崇拝といいます(コロサイ3:5)。偶像のリストはさらに広いわけで、美貌、権力、知能、伝統、良心、趣味というように、良いものであっても私たちを支配するとき、偶像になります。ヨハネは「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」(Ⅰヨハネ2:16)が偶像になることを警告します。

 

 第一戒② 神を愛する

        出エジプト記20:3、ヨハネ21:15~16

 「あなたは、わたしのほかに何者をも神としてはならない」という第一の戒めは、わたしのみを神としなさい、という命令でもあります、前に申しましたように、神々は多く存在していているのでありません。聖書によって神の方から御自身を明らかにしてくださった神のほかには、神は存在しません。それなのに、人間は自分の思いや都合のために神々を作りますから、多くの神々がいて、その中から選ぶかのように見えるため、それに合わせて、神はモーセにこのように第一戒をお与えになりました。

 この十戒と共にイスラエルでよく読まれていたのが申命記6章です。主イエスも律法について、どれが最も大事な戒めかを問われた時、申命記6章の4節の言葉を引用されました。

 「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。

 ここで、「愛しなさい」と言われていることが大事です。これは、レビ記19章18節の隣人愛の戒めと共に、十戒の内容を要約したものとして、主イエスによって用いられたこと(マタイ22:37~40)を、私たちはよく知っています。

 この「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」ということが律法の要約であるということは、十戒を守る力が神に対するものであれ、隣人に対するものであれ、愛にあることを教えます。事実、私たちが聖書の神を神として選び、その命令を守ることができるのは、単なる理屈から出てくるものではなく、神を愛するときに可能です。私たちが親の言葉に本当に従うのも、親を愛するからであるのと同じです。

 

 主イエスの到来は、父なる神の臨在を私たちに非常に身近なものにし、神を愛することも現実なものにしてくださいました。私たち人間の代表ともいえる主の弟子たちは、主との歩みを共にすることができなかったので、主の復活を信じるのに鈍かったこと(ルカ24:25)、主がゲッセマネの祈りの時、大きな苦しみの中にあった時でも、居眠りをしているような始末であったこと(マタイ26:40)、ペトロに至っては、イエスを知らないと誓ったこと(マタイ26:69~75)、そして、主の約束どおりに復活なさったことを仲間から知らされても、弟子たちの中には信じられない者もいたことを、知らされます。

 こうした彼らがやがて主を愛し、隣人を愛してその伝道の道を歩んだのは、彼らが主イエスに愛されていることを知って、主を愛するようになったからでした。ヨハネが福音書の17章に記されているように、主イエスは愛して執り成しの祈りをなさいました。やがて彼らは、主イエスに十字架と復活が保証している救いの恵みを知るようになりました。特にペトロは、「わたしを愛するか」と三度も問われ、主を愛することが掟を守るための秘訣であることを教えられました。

 

十戒と主の祈り・・2・・

             鈴木英昭著

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

=わたしは主=

  まえがき②・キリストへ導く

           出エジプト記20:2、Ⅰペトロ2:13~20

 この十戒のまえがきから分かるように、神は、ご自分を「あなたの神」、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神」と自己紹介しておられます。「あなた」という二人称単数が用いられていて、「あなたがた」という複数ではありません。このことは、まえがきだけでなく、十戒の本文のすべてにおいても同じです。

 前回学びましたように、神はイスラエルの民をご自分との契約の中に入れてくださいました。しかし、この神によって自由にされた民が自由であり続けるためには、契約に伴う責任を自覚しなければなりません。そのために、彼ら一人一人がそうでなければなりません。全体が契約を守るということのほうが一見、適しているように見えます。しかし、それは幻想です。一人一人が守ることができて始めて、全体が守ることになるからです。最後の審判のときにどうなるか、パウロは次のように、述べています。

 「わたしたちは皆、キリストの裁きの座のまえに立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(Ⅱコリント5:10)。

 

 神は信仰者の個人の責任を問われますから、信仰の良心のうえに社会的に孤立するようなことがあっても、自分の個人的確信を貫くところに、神から与えられている自由があります。

 

十戒は「~してはならない」という否定的な戒めが肯定的な戒めより多く、前者は8つあるのに対して、後者は2つで、第4戒と第5戒の2つがそれです。ウ大教理問答の99問の4の答えにあるように、肯定の戒めでも、否定の禁止は含まれ、否定の8つの戒めも、その反対の積極的なことが勧められています。禁止の戒めが多いことは、自由を禁じているように思われて、まえがきが明らかにしている自由の律法という意味を維持できるのかという疑問が起こるかもしれません。

 しかし、ドウマ教授は、禁止の命令が、その命令に違反する私たちの性質を映し出す鏡のようなものであって、私たちが殺人犯であるから、殺してはならないのであり、姦淫する者であるから、姦淫してはならないのである、といいます。律法は仮面を剥ぐ機能も持っていることを知るとき、私たちは律法によって偽りや欺瞞から解放されます。

 それと共に、律法を完全に実行されたキリストとの生きた交わりだけが、義を与えてくださる保証になります! キリストにあって、律法は私たちの自由の憲章です。従って、律法はわたしたちの罪を示し、キリストへ導き、信仰生活の実践を教える感謝の指針という、二つの重要な面があります。

 

 まえがき③・律法の意味

         出エジプト20:2、マタイ5:22~26

 十戒のまえがきで、このことが直接言われているものではありませんが、十戒を理解するために基本的に重要な規則を、なお加えて理解しておくことにしましょう。

 それは、聖書解釈の重要な原則の一つで、聖書全体の光に照らして、解釈するということです。特に、主イエスが山上の説教において、十戒に言及して、その意味を教えてくださいましたから、特に彼の足下に座って、その教えに耳を傾ける必要があります。そうすることで、十戒の内容をより良く知ることができます。

 例えば「殺すな」という第6戒が禁じている命令について、主は、ただ単に人の肉体的な命を奪うことだけではないことを教えられました。それは、心の中に生じる憎しみも違反であり、それを言葉によって口に出すことも、この律法の明らかな違反であることも指摘なさいました。つまり、十戒の言葉に深さと広さがあるので、その点を理解しなければならないということです。

 従って、十戒を理解するために、第一に、この律法が霊的な意味をもっていることを知っている必要があります。この律法はキリストによってはじめて完全に実行され、キリスト者だけがこのキリストにあって初めて守ったと見なされるため、霊的です。また、律法は表面的に守っているように見えても、神は心を見られるので(マタイ22:37~40)、霊的です。

 第二に、してはならないという否定の命令は、反対のことをする肯定の命令でもあるということです。例えば、第二戒で、偶像礼拝の禁止が命じられています。偶像を作ったり、それを販売したり、それを拝むということはないとしても、神よりも大切なものを持つことは偶像を持つことになります。自分の名誉や富、人々からの評判、つまり、自分自身、あるいは自分の家族、そうしたものは、主なる神よりも、「崇められるもの」となってしまう危険はないでしょうか。

 あるいは、日曜出勤は、週日の働きが不十分なためなのか。そうではないにしても、その仕事を週日にするように努力したうえでのことか。こうしたことによって、ウエストミンスター信仰告白の21章8項の「必要な義務」と言えるかどうかが判断されます。

 さらに第4戒に、十戒の要約は、神への愛と隣人への愛です。この二つが対立する時、例えば、夫が律法に反することを求めた時、その求めには神からの権威がないと考えなければなりません。神への愛が隣人への愛より重いということです。

 最後に、十戒の出発点も、愛です。形式的に守っていても、守ったことにはなりません。愛が律法を成し遂げさせるかどうかが問題になります。

 

 

『十戒と主の祈り』・・1・・

             鈴木英昭著

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

はじめに

 人はだれを信じ、どのように生きるべきか、ということについては、多くの人々が語ってきた大きなテーマです。そして、それは神御自身が聖書によって語ってくださっていることですが、わたしたちがその答えにたどり着いてみると、多くの回り道をしていることが分かります。それでも神を信じる生活が始まると、何事にも成長があるように、信仰生活にも幼児期から、成人へと成長が始まります。そして、やがて落ち着いた老齢期を迎えることができるのも、聖書の言葉によって、神が光を与えて歩む道を照らし、聖霊も聖書の言葉をもって臨んでくださり、歩む力を与えてくださるからです。

 

 神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題を捉えて初めて、それが可能になります。その意味で、人生の指針と言われる「十戒」と「主の祈り」を、倫理的な状況の変化していくなかで、どのように適用したら良いかを新たな視点から教えられたいと思います。

 

 30数年の牧会生活が終わろうとしている時期に、2002年7月から2004年9月にかけて、毎週の水曜日の夜の聖書研究と祈祷会で、十数名の熱心な教会員と信仰を求めておられる方とともに、この学びをし、祈りを共にすることが出来たことを、懐かしく思いながら、感謝しております。

 

 このような信仰生活の手引書は、これまで多くの方々による良書が存在するわけですが、この機会に一冊にまとめるように励ましていただいたこともあって、つのぶえ社の長村秀勝兄の御厚意により、パソコンから取り出して、二つの奨励を一つにまとめさせていただきました。

 

 1999年12月に86歳の高齢の母でしたが、山形の第一聖書バプテスト教会で受洗と、信仰生活の恵みに満ちに導いてくださっておられる主に感謝し、母へ贈ることにさせていただきました。

 主の2004年クリスマス

                  鈴木英昭

 

=わたしは主=

  まえがき①・神の真実

           出エジプト記20:2、申命記6:20~25

 これからしばらくの間、十戒を学ぶことにします。出エジプトの出来事も十戒もイスラエルの民の起った三千数百年も昔に関するものですが、神の命令として受け止める人は実に幸いです。オランダ改革派教会(自由派)の神学大学のJ・ドウマ教授によると『十戒』―キリスト者生活のための手引き―という大著を参考に、十戒を私たちの実生活と関連を持ちながら学ぶことにします。また大小教理問答にも、十戒のことが教えられています。

 この申命記6章20~25節には、律法を次の世代に教えるにあたって、モーセは彼らに指示を与えています。その中から3つのことを覚えておきましょう。

 第一は、神が自分たちをエジプトから導き出してくださるにあたって、「大きな恐ろしいしるしと奇跡を行って」(22)下さったことが語られています。私たちがよく知っているように、主なる神は、十の不思議な業をなさいました。主の働きがなければ、イスラエルは決してエジプトを出ることはできませんでした。したがって、自分たちに「主を畏れ敬うようにしてくださった」(24)ことを思って、神の戒めを守れるようにしてくださったことを思うようにと語られます。事実、主なる神はそのようにしてくださいました。それを語り伝えていくのです。

 第二に、十戒のまえがきにの言葉にありますように、主なる神が、イスラエルを「奴隷の家から導き出してくださいました」。そのことがこの21、23節で繰り返して語られています。エジプトからの解放です。しかし、ここで注意しなければならないことは、奴隷であったのはイスラエルの民だけではありませんでした。また、ヤコブやヨセフは、その時代に奴隷ではありませんでしたが、彼らは死んだらカナンの地に葬られることを命じました。

 理由は神の契約への信仰のためでした。「わたしは主、あなたの神、あなたを奴隷の家から導き出した神である」という「まえがき」の言葉は、自由になったイスラエルに中心があるのではなく、導き出した「神」に中心がおかれます。虐げられていた民の救いが中心ではなく、アブラハムをはじめ先祖と契約を結ばれた神の真実さが中心となっているからです。

 第三に、それでは、契約を真実に守られる神が、こうして十戒に代表される律法をお与えになったことは、どんな意味をもつのでしょうか。それは、真実な神との契約の中に歩むとき、神の民はそこに自由を見出すことができます。

 律法がないことが自由なのではありません。罪人である私たちはそう思いやすいのです。しかし、魚は水の中にいることに自由があり、鳥は空中にいることに自由があります。同じように、神の契約により救い出された信仰者は、契約のゆえに与えられた律法に従って歩むとき、そこに自由を得ることができるのです(ヤコブ1:25)。

 *この連載は「つのぶえ社」の許可を得ています*

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