2017年12 月号 №125 通巻811 号
「つのぶえジャーナル」へようこそ
涙をもって種まく者は、
     喜びの声をもって刈り取る。 詩篇126:5
 

  今月のことば

 しかし、わたしは考えた、「わたしはいたずらに働き、益もなく、むなしく力を費やした。しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、わが報いはわが神と共にある」と。

       ~イザヤ49:4~

 人は考える葦であるという言葉があります。ことの善悪は別として、何かの行動を起こすとき、「考える」ものです。考えなしに生きることは不可能です。しかし、この「考えること」が問題です。考える可能性を創造主が私たちにお与え下さったのには理由があります。しかし、正直に言えば、考えるということは、私たちの生きる道に障害物になることもあります。

実際に、考えないと同時に、考え過ぎるということもあります。そのために私たちの髪の毛を白髪にしてしまうこともあるでしょう。それは、考えるということは思い煩うということでもあるからです。「わたしは考えた、『わたしはいたずらに働き、益もなく、むなしく力を費やした』」と告白したこの神の人イザヤの魂の上にも、「問い」という病が、広がっているのです。ここでその姿を現しているのは、「思考という誘惑」です。私たちに、自分に課せられた職務を、過剰に疑わしく、見込みのないものと思わせる誘惑です。

 その結果、人は、結局一切は無益だということが分かったと思い、あらゆる仕事に、全く適していないと思って、途中で放棄したくなるのです。

 「思考という誘惑」が姿を現すのは、人が、自分が間違いなしの無能力者であると思い込むことです。しかし、それに対して神は「腕組みをして、思い深げに問うのはやめなさい。新鮮な気持ちで仕事に就きなさい」と言われます。そうして「もしそれを私が喜んでするなら、私は報いられる。たとえそれを喜んでできなくても、その職務は、私に命じられている、ということなのです。

 2017年を振り返る時、「費やすことができた」とするなら、なんと素晴らしいことでしょう。

 「正しきは主と共にあり、わが報いはわが神と共にある」、という神の約束を信じ2018年を迎えたいものです。

 

 

 

 

   小閑記 

 それだから、神の安息に入るべき約束が、まだ存続しているにもかかわらず、万一にも、はいりそこなう者を、あなた方の中から出すことがないように、注意しようではないか。

            ~ヘブル4:1~

 今年の残りも、この月のみになりました。時は変わり、人は変わっても変わらないものに心を向けて、主の2018年を迎える備えをしましょう。

 神様のお言葉の中には、二つの強い対照の上に築かれているように見えても、不思議な調和があります。

 一方において、数々の言葉は、完全な救いと、開かれた扉、そして神様めさまが私たち一人、一人を守ってくださるという、確かな約束があります。この神に様から誰も私たちを引き離すことは出来ず、何物も、主イエス・キリストにある神の愛から奪い取ることはできません。

 しかし、聖書の他の個所では、私たちの危険は大きいとも教えています。もし私たちが目的に達したいと願うならば、気を配り、祈り、戦い、魂をきよめ、恐れおののいて救いのために労し、成長すること願い求めなければならないということです。

 この二つは似ても似つかぬもののですが、ともに真実です。それは、前者は神様に関することであり、後者は私たちに関することだからです。動かせぬもの、確実なもの、決して失敗せぬものは、私たちの救い主であり、父であられる神の内にあります。神と共にあれば、私たちは常に安全ですが、自分たちのことは常に恐れおののいていなければなりません。

 常に危険が潜むのは、私たちの心、内側にあります。

「あなたがたの父の許しがなければ、一羽のすずめも地に落ちることはない」。そして、「あなた方は、多くのすずめよりも、まさった者である」。

 このように、私たちは神の内にある時、安全であることができます。

 「しかし、恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい」。

 自分の弱さを恐れ、神にあることの幸いを知り、そこに生きようではありませんか。
 

世田谷通信(171

猫草

普段は半径2kmぐらいのエリアで暮らしているのだが、たまに出かけると世田谷の住宅街にもいろんな風景があるなあと思う。例えば世田谷に深沢という場所があり大邸宅が多いのだが、コンクリートの壁に囲まれて、塀の上には防犯カメラ、要塞のような威圧感がすごい。うっかり野球のボールをとりに入ったら瞬間的にレーザーで焼かれそう。あくまでイメージですけれど。どなたが住んでいるのやら。

しかし成城界隈のお屋敷は低い生け垣と庭の木々に包まれて洒落た家屋がのぞくのが昔からのスタイルである。昭和の初めに成城学園が移転し、小田急線が開通し、住宅開発が始まったときに、敷地内の樹木をできるだけ残すことと、生け垣が推奨されたらしい。また和風住宅には松、洋風住宅にはヒマラヤ杉を植えていたようだ。

そんな街並の一角、崖沿いの高台に一軒の住宅がある。時々前を通っては、なんだか素敵な建物だなあ、庭は荒れ放題で誰も住んでいないようだけど・・、と気になっていた。それが今年文化財として修復が済み、一般公開されたのである。さっそく中をのぞいてみると、ステンドグラスが玄関ドアの周囲にはめ込まれ、光を柔らかく通している。床は寄せ木細工、壁はクリーム色の卵漆喰。窓は分銅による上げ下げ窓、テラスには綺麗な模様の古いタイルが少し残っている。

応接間にはマホガニーの手すりのついた階段と大きなステンドグラスもある。2階は居住スペース。特別保護区の森を借景にできるテラスもある。2階には 和室もあるが、障子の外に狭い縁側を設け、外観はあくまで洋館である。和魂洋才という言葉があるが、日本の職人さんが丁寧に洋風建築を作った心意気が感じられる。昭和の初めに実業家が建てて、戦後進駐軍にしばらく接収され、その後画家の家だったとのこと。成城にも数少ない貴重な洋風の近代建築である。

華美ではないが、質素でもない、実用的だが機能一辺倒でもない、これが住む人のセンスだなあ。としみじみしながら帰宅する。さて、あんなお屋敷とは比べる気もおきないが、我が家も年末年始に向けて、玄関周りの掃除と生け垣の手入れをしなくては。

 

   『美しい朝に』・・38・・

 10月22日

 大阪は、台風の影響で雨・風が強いです。2014年の秋にITPという血小板が少なくなる難病になり、入院していた時、1ヶ月弱の入院の間に、大阪に2回も台風が来たのを覚えています。

病院では、テレビは1000円でテレビカードを購入して、テレビの横の機械に差し込んで1000円分テレビが見られます。台風のニュースを見ていたら、あっという間に1000円のカードがなくなってしまいました。家で、テレビがカードなしで見れることをしみじみ「ありがたいなぁ」と感じます。

辛いことや苦しいことがおこることが受け入れられなくて、泣きながら祈ることも今でもありますが、網膜剥離・交通事故・ITPと奇跡的に前を向いて良い方向に進んでいけるのは、守られているのだと思います。多くの方のお祈りで支えられています。ありがとうございます。

今は、ステロイドの後遺症で、血糖値が高くなって、ヘモグロビンA1Cが、7・7。それが課題ですが、食事に気を付けて、糖尿病を克服できるように頑張りたいと思います。

つい、「愛ちゃん」の寝ていた食卓の下へ目がいきます。天国に召されて3週間・・・。寂しくないと言えばうそになります。

11月1

 こんばんは、今日は、神経科の日でした。腰の傷みがひどいので、腰のサポーターをして痛み止めを服用して、主人の車で行きました。

先生は、「色々なことが起こると、誰でも眠れない日もあるから、そんな時は薬が効いてないわけでもなくこのままの薬でいきましょう」とおっしゃいました。新しい薬でも、時々は熟睡できるようになりました。ベゲタミンとハルシオンの長年の依存から抜け出せたのもステロイドを減らした経験が役にたっているのでしょう。

「愛ちゃん」のことで、あたたかいお言葉をいただき、うれしかったです。お祈りしていただき心強いです。「つのぶえジャーナル」を通じてのご縁に感謝です。

お天気も良かったので、帰りに来年の手帳を買いに行きました。歩くと痛いので、車いすでのお買いものでした。意外と、道ががたがたしましたが、主人に押してもらい座って移動できるのはありがたいと思いました。車いすで、写真も写してきました。クリスマスツリーも写してきました。好きな写真が写せて良かったです。両眼とも網膜剥離のレーザーの手術をしているのですが、そのままの状態で3年以上もっているのはめずらしいそうです。また、交通事故の後遺症で人の多いところも苦手だったのに、神経科の先生に助けていただきました。

「交通事故にあうことは不幸なことばかりではないよ。子供や周りの人が、杖をついている人に席をゆずるようになったりするよ。死ぬときに、いい人生やったって言いたいやん」と、トラウマを軽くする漢方薬をくださいました。

ITPが治った方で、インフルエンザの予防注射で再発して亡くなった方がいるそうです。難病は何が原因で再発するかわからないので、人ごみを避けてマスクで予防です。

11月9日

 今日は、大阪も良く晴れていました。主人にお布団を干してもらいました。

お布団のカバーも洗濯しました。貴重な晴れの日は、大切ですね。冷え込んでくる前に、お風呂にも入ることが出来ました。体調を考えながらの毎日ですが、

11月16日()が内科の予約日です。血糖値と体重がどう変化しているかラストスパートに入ります。食事の前に野菜ジュースは必ず飲みました。

最後の最後で、気を抜かないように頑張りたいと思います。

11月14日

 大阪は、1日中雨が降っています。主人の仕事を手伝うことが出来ました。それで夜の9時過ぎで、このメールを書いています。1階はパソコンが、窓際にあるのでとても冷えます。もう、冬なのですね。16日の内科まで、お腹がすいても夜食は食べないように頑張っています。カロリーも控えて、野菜ジュースに青汁も飲みました。まずは、血糖値と体重のコントロールですが、どうも、16日はすごく冷え込むらしくて薄着で行けそうにないので、中は薄着であたたかいダウンのコートで行くしかないみたいです。

もう少し、ゆっくりしていたいのですが、夜食が食べたくなるので、もう3階にあがって寝ます。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

 

 その愛のゆえに

   =時々の記=

    (140)

 10月23日

 昨日は丸一日、激しい雨に見舞われ、夜はもっと激しく降り続きました。避難勧告が出ていましたが家で待機。怖くて、何度も目が覚めました。山添村の各地で土砂災害が起こりました。中峰山では五ケ所山崩れが起きて、通行止めです。主人は何度も呼び出されて一日中、出かけていました。

今日一日は小学校もお休みのようでした。すぐに道路が復旧するとは思いませんので、しばらく、みなさんが不便な生活となります。先ほどからは断水です。水道の栓が土砂で埋まってしまったのかもしれません。冷蔵庫に入れてある非常時の飲み水を少しずつ大切にして使っています。このようなちょっとしたことでも、パニックを起こしてしまいそうになる愚かな者です。

リハビリに耐へむと眺む秋の空。

ラジオよりキリストを聞く白露の日。(キリストへの時間を聞いて。)

灯火親し英文学に取り組める。

秋灯や師ガリ版を切りにける。

山峡に忍ぶ暮らしや天高し。    馬場路哉

10月26日

  10月に入って最も秋らしい今日、ジャーナル11月号が届けられました。

このように早く届けていただいたヤマト便さんに感謝します。「今月のことば」で、大切な三つのことを導いていただき、どのようなときにも、唯一の知恵深き神様にイエス・キリストによって、栄光が永遠より永遠にありますように。アーメン。このことを心に抱いて、一日一日歩んでまいりたいものです。

 「美しい朝に」さんへ

共に過ごした愛ちゃんを天国へ送られて、どんなに悲しく、辛いことでしょう。それなのに、今月も多くの方を励ますために大切なご自分のことをしたためてくださって感謝いたします。愛ちゃんの様にとても優しい飼い主にかわいがってもらい、静かに眠るように天国へ旅立ったなんて、なんと幸せな愛ちゃんでしょう。私は今までに三匹の愛犬を天国へ送りました。どの犬も最後はとても苦しみました。ですから愛ちゃんの様に静かに安らかに天国へ旅立っていかれるのはとても珍しいことだと思うのです。きっと飼い主さんに全幅の信頼を持って、毎日過ごしていたのでしょう。しあわせ者の愛ちゃんですね。我が家の残っている愛犬たちも愛ちゃんの様に平安に天国へ旅立って行ってくれることを毎日祈っているのです。苦しんでいる姿はもう、見たくありませんから。

11月には、また主人の三重大病院行きの日がやってきます。

11月2日

 今日の朝の冷え込みは12月を思わせるものでした。昼散歩をしていると、月ヶ瀬時代の生徒が、“こんにちは、お変わりありませんか”と明るく挨拶してくれました。電気料金の検針にまわっているとのこと。女の子ですのに、バイクに乗って村中を回っているというのです。担任をしたこともないのに、覚えてくれて挨拶を交わすことができて、何だか、とてもうれしい一日でした。

 明日は、また山添村全村の文化祭と、食べ物店が催されます。小さな村ですが、みんなで力を合わせる団結力はすごいものがあります。

名古屋ではそのような催しはもうなくなっているのでしょうね。小さな村の小さな秋祭りに村の人たちは心躍らせているようです。私たちは、家で静かに過ごします。11月に入ると、急に夕暮れが早くなってきます。とても寂しい月ですね。私が生まれたのがこのようなさびしい月だったのかとしみじみと思いを巡らせています。いつも私の誕生日には父と母からのどちらかから、本を贈ってもらいました。一番最後に母からプレゼントされた本は水野源三さんの詩集でした。同じ信州の生まれの源三さんのことを母はとても共感を覚えたのでしょう。その詩集をまた今年も取り出して、源三さんの素晴らしい詩集に心洗われるのです。

11月4日

 今日、綾ちゃんと一時間ほど、英語の勉強をしている間に金城の同級生から留守電が入っていました。さっそく、折り返し電話をいたしました。同窓生の近況を知らせてくれました。元気だった友が腎臓から肺へ転移し、今は脊髄までに広がって手術ができる状態ではないことを教えてくれました。病に侵されている友は、上野緑ヶ丘教会まで高校時代にクリスマス礼拝に来てくれたのです。その後、受洗に至ったと聞いています。関西に転勤になられ、奈良で会おうということになって高校を出てから25年振りに近鉄奈良駅で出会い、しばらく、お昼ご飯を共にしてお互いにまた元気で再開できる日を約束いたしました。

それ以来、ぷつんと途絶えたお交わり。忙しいのだろうと、思い込んでいましたら、いま杖を持たずには歩行ができないというのです。もう、そのような友が増え始めています。私も、目が悪くなっていると伝えたら、早く検査を受けるようにと厳しく言われました。お互いにとても心細い毎日を送っているのがよくわかりました。秋の夕暮今日は一層寂しさが増しています。友が癒されることを信じて祈っています。

11月10日

 今朝も0度という寒さでした。でも午後からは気持ちよく晴れて、秋らしい一日となりました。「美しい朝に」さんの折り紙、お忙しい中とても繊細に作られてある素敵な折り紙をお送りいただいて心から感謝いたします。さっそく、部屋の壁に飾ろうと考えています。あまりの美しい作品の出来栄えに感動しております。「美しい朝に」さんはとても器用でいらっしゃるのですね。感激しています。創意工夫されてこのような見事な作品が仕上がるなんて。有難うございました。

 いつものように八朔が黄緑色になってきました。しかも今年はとても大きく立派なのです。八朔の木を眺めているだけで、楽しくなってきます。またあの酸っぱい八朔を口にすることができるのでしょうか。そちらにばかり目をやっていると、ふと目の前の椿の花が大きな蕾を付けているのに気が付かなくて、あれ、今年は早く蕾が大きくなっているように思われて仕方ありません。椿は、梅が咲き終わったころに咲き始めるのですから。何だか、季節が異常なのかもしれませんが、庭の木がどんどん先取りしているのです。それを見ているとこちらまで面喰ってしまいます。

  馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(64)

        岡田稔著

       (元神戸改革派神学校校長)

 

第29章 主の晩餐について・・・3・・・

6 パンとぶどう酒の実質が、司祭の聖別あるいは他のどのような方法ででも、キリストのからだと血の実質に変わると主張する(普通に化体説と呼ばれる)教理は、聖書に反するばかりでなく、常識にも理性にも反し、礼典の性質をくつがえし、従来も現在も様々な迷信、否、ひどい偶像礼拝の原因である(1)

  1 使徒3:21コリント11:24-26(*)、ルカ24:6,39
    *使徒3:21コリント11:24-26と比較


六  前項までのローマ・カトリック教会の教理への非難の結論である。「常識にも理性にも反し」との批評は、最大の軽蔑の言葉であろう。やや、ローマ・カトリック教会の理性観を逆用して、とどめの攻撃を加えた感がなくはない。

 

7 ふさわしい陪餐者は、この礼典において、見える品々にあずかりつつ(1)、信仰によって現実にまた実際に、しかし身体的また肉的にではなく霊的に、十字架につけられたキリストと彼の死のすべての祝福を受け、またそれに養われる。その時キリストのからだと血とが、身体的または肉的にパンとぶどう酒の中に、またそれらと共に、あるいはそれらのもとにあるわけではないが、この規定において、品々そのものが信者の外的感覚に対すると同じように現実に、しかし霊的に、信者の信仰に対して存在する(2)

  1 コリント11:28
  2 コリント
10:16

七 ここで初めて、積極的な主の晩餐の聖書的なあり方が述べられている。すべては霊的であって、しかも現実にキリストとこの贖いの祝福が、この礼典において存在し、与えられていると言う一点にかかっているのである。

 

8 無知で邪悪な者がこの礼典において外的な品を受けても、それによって示されているものを受けないばかりか、彼らがふさわしくないままでこれに近付くことによって、キリストのからだと血とを侵し、自分にさばきを招くのである。それゆえ、すべて無知で不信仰な者は、キリストとの交わりを享受するのに不適当であるから、主の食卓にあずかる値打ちがないし、彼らがその状態を続けている限り、キリストに対して大罪を犯すことなしにこの聖なる奥義にあずかり(1)、あるいはあずかることを許されることはできない(2)

  1 コリント11:27-29コリント6:14-16
  2 コリント5:6,7,13テサロニケ3:6,14,15、マタイ7:6

八 この礼典の意義を正しく教えられていない者は、陪餐の資格ないこと。従って陪餐が禁じられているとともに、誤って、あるいは、あえてこれにあずからさるならば、かえって「キリストのからだと血とを侵す」ことによって、主より罰せられる、ということは大切な点である(Ⅰコリント11:29参照)。
 

さんびか物語 ・・・45・・・

    (広く愛唱されている50曲) ・・・44・・・

           ポーリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美445番

 御神とともに

<神様のみ言葉>

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」。

~ヨシュア記1章9節~

この讃美歌445番“御神とともに”は活気に満ちた歌で、特に青年たちの間で広く歌われているものの一つであります。しかし、この歌詞の主題は“強くあれ”とありますように、年齢に関係なく歳を重ねたすべてのクリスチャンのための讃美歌としても味わっていただきたいと思っています。

 

作詞者モルトビー・D・バブコックは、1858年8月3日にニューヨーク州のシラキュースで生まれました。彼は多くの才能の持ち主で信仰、音楽、勉学、詩人、競技者とどれをとっても秀でた学生でした。シラキュース大学を卒業してからニューヨークのオーバーン神学校で学びましたが、どちらの大学でも彼は学問の上でも、運動に対しても、また、オルガン、ピアノ、バイオリンのソロリストとしても、あるいは グリークラブの活動にも活躍しました。

それとともに、彼は自分の才能を誇るような人物ではなく、本当に信仰に立つ魅力のある人格の持ち主でした。

神学校を卒業した彼は、長老派教会の牧師として按手礼を受けて牧師となり、まずオンタリオ湖畔の近くにあったロックポートの教会で奉仕いたしました。その後、ボルティモアの有名なブラウン・メモリアル教会に招かれて、そこで特にジョウンズ・ホプキンス大学の学生のために14年間、素晴らしい牧会を続けました。

1899年にはニューヨークの有名なブリック・プレスビテリアン教会でも大きな働きを期待されていたのですが、あいにくのことに、そこでは18ケ月の間の牧会で終わってしまいました。それは、1901年にバブコック夫妻はパレスチナ旅行に出かけましたが、その帰りにイタリアのナポリで43歳の若さで急死してしまったからです。

彼の有名な二つの讃美歌は、どちらも1954年版の讃美歌に収められていまして、この445番の他に讃美歌90番の“ここもかみのみくになれば”であります。

 

讃美歌445番の曲はTAUNTONですが、この曲について、また作曲者のH・J・デイについては何一つわかっておりません。本当に残念に思います。それはともかくとして、このバブコックの歌詞とデイの曲とは本当によく合っていて、元気で活気に満ちた素晴らしい讃美歌と言えます。

私たちも、この歌を元気よく歌いたいと思います。そうして、原作と日本語訳とを比較しながら、そのことばを学んでまいりましょう。

<445>

  1 御神とともにすすめ 死もなやみもおそれず

    ただ御業をはげみて ゆけや、ゆけ。

1節ですが、この讃美歌に共通していることですが、原作で一番目立つBe

Strog(強くあれ)という日本語の“ゆけや、ゆけ”とのコントラストであります。私はやはり原作の“強くあれ、雄々しくあれ”の方が聖書的であり非常に力のあるもので、どちらかと言えば、“ゆけや、ゆけ”は信仰者の雄々しさから少しばかりかけ離れた弱々しさが感じられるように思います。また、原作ではこの讃美歌のいずれの節でもBe Strongという言葉で始まっているが、日本語訳では、いずれの場合も“ゆけや、ゆけ”が結びの言葉にもちいられていることであります。

いかがでしょうか。“強くあれ”という言葉の励ましのお言葉が最初に出てくる場合と、“ゆけや、ゆけ”との場合では讃美歌全体の様子が大きく変わってきましたが、私は“強くあれ”という言葉が訳の上でもう少し有意義に用いられたらと思っています。それは、この讃美歌全体に大きな影響を及ぼすからであります。

この讃美歌の背景にあるのは、神様がヨシュアに語られたお言葉であります。この神様のみ声は、ヨシュアばかりでなくイスラエルの民にとっても大きな励ましになったばかりでなく、警告の言葉でもあります。

長い間、彼らを指導してきたモーセが死んで、彼らは途方にくれていた時に、神様は「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」(ヨシュア1:5~8)と言われました。

 作詞者のバブコックも、この“強くあれ”という言葉を通して私たちに、「この都の中に置かれている目的は遊ぶためでも、夢を見るためでも、漂うためでもありません。一生懸命に働いて、重荷を負うのは私たちのなすべきことです。戦いを逃れようとせず、それに立ち向かいなさい。それは神様よりの賜物です」と原作で力強く歌っています。

もちろん、ここで作者が言うことは、決して遊んではならないということではなく、いつも、まず第一にすべきことをするという意味であると思います。

主イエス・キリストのみ言葉にもありますように「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)ということであります。私たちの本当の目的、唯一の目的は「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」とあります(ウエストミンスター小教理問答書・問1の答)。

この第一になすべきことを“勇気をもって雄々しく”なしてまいりましょう。

 

 2 むなしきものによらず ちからの御手にたより

   まことの道をふみて ゆけや、ゆけ。

2節ですが、原作では「強くあれ、今の時代は悪の時代であると言ってはなりません。それはだれの責任でしょうか。あなたは、ただ手を組んで、おとなしく悪に同意するのですか。それは恥です。神のみ名によって立ち上がり、遠慮なく、また勇気をもって、その悪に敵対しなさい」と歌っています。何と素晴しいことでしょう。

私たちは、特に悪魔に試みられた時のイエス様が、荒野でサタンに対してどのようにして退けられたかを覚えなければなりません。イエス様はみ言葉をもって悪魔の誘惑を退け、退散させました。

私たちも、神のすべての武具を身に着けなければなりません。真理の帯、正義の胸当て、信仰の大盾、救いのかぶと、御霊の剣、神のことば、祈り、忍耐であります(エペソ6:11~18)。

この神様の武具を身に着けて雄々しく進みましょう。

 

 3 あだのいきおいつよく たたかいははげしくとも

   勝利(かち)は汝が手にあれば ゆけや、ゆけ。

原作の3節では「強くあれ、あなたに敵対しているその悪は、どんなに強いものであり、ひどいものであったとしても、それに負けてはならない。悪との戦いは、どんなに激しくとも、どんなに長く続いたとしても、臆病になったり疲れ果てたりしてはならない。戦いを続けよ。あしたには勝利の歌を歌えるからです」とあります。

この信仰こそ、勝利者の歌でありましょう。日本語訳では“たたかいははげしくとも勝利は汝が手にある”と美しく歌っています。この勝利は単なる希望ではありません。主イエス・キリストの十字架のみ旗をかざして進む主の民には、確実な勝利であります。それは、主イエス・キリストこそ勝利者だからであります。ですから、この勝利の確かさこそがこの讃美歌の最も素晴らしいクライマックスなのであります。

主イエス・キリストは、すべての王、主であられます。そして、そのみ業への道を歩まれる時、「天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた」(ルカ9:51)。エルサレムに待つのは十字架の死でした。それは、罪ののろいであり、恥でありました。しかし、それは、メシヤ(救い主)の栄光でもありました。そうして主イエス・キリストはみ顔をまっすぐに向けてのぼられたのであります。

この讃美歌445番は、私たちひとりひとりに、そのような勇気と決断を与えようとしていると思います。私たちも、主とともに顔を天のみ国に向けて雄々しく、勇気をもって歩む決心を、神様のみ前にいたしましょう。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、 雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでください。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(へブル12:1~2).

<90>

  3 ここもかみの みくになれば

    よこしま暫しは ときを待つとも、

    主のみむねの ややに成りて、

    あめつち遂には 一つとならん。

 

 バラ・マカルピン「日本伝道百年史」・・2・・   

             水垣 清著

    (元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)

2 成仏寺の生活・・1・・

 「どんな場所へ案内して呉れるのかと尋ねて見たかったのですが、遠慮してしまった。するとやがてお寺について、大きいどっしりした門が開いて、大きい立派な建築物、門からそこへ石畳をしいて舗道が出来ているのを見て驚きました。ブラウン一家は本堂に接する庫裡(くり)におられ、バプテスト派の宣教師ゴーブル氏は境内の小さい家に住んでおりました。

ヘボン博士は独り本堂に住まっておられましたが、家族はその頃アメリカに帰っておられたので、私達はヘボン博士と共に本堂に住むことになりました。ブラウン夫人の言われるには、『これが日本のこの地に於ける唯一の宣教師館なのです。あなた方を歓迎しますよ』と、ヘボン博士は独り住まいにあきて、私共夫婦を親切に迎えて下さいました。寺の境内の外景は立派でありましたが、家の中は稍(やや)暗く、陰気でした。博士は仏像を取り除き、ガラス窓や紙の仕切りなども作ったのでしたが、私共はブラウンさんの一家に迎えられました。ヘボン博士は喜色満面、微笑をうかべ戸口で私共を迎え応接間を通って気持ちのよい居間に案内して呉れました」(ドクトルヘボン伝)。

こうしてバラ夫妻の日本伝道の出発は、仏教寺院を本拠にして始められ、その本堂が日曜礼拝の教会堂となり、横浜居留の宣教師や信徒たちが小舟に乗って礼拝に集まった。宣教師たちの子供のため、バラ夫人などが日曜学校を受持った。クリスマス礼拝も、パーティーもこの成仏寺の本堂で行われた。

バラ先生の日課は、毎朝早く起き出して、成仏寺から1キロ程北の丘にある「岩崎山平尾内膳守物見の松」に登り、その樹下でしばらく祈って帰り朝食をとられ、それから横浜の167番の建物に出かけて、その日の教務を執られた。  成仏寺の附近には、本覚寺に米国領事館、フランス公使館には神奈川甚行寺、オランダ領事館には長延寺、成仏寺のすぐ左り隣りの慶運寺にはフランス領事館にあてられ、成仏寺前の小川の向か側の浄瀧寺は英国領事館があった。

この寺町の一画に、常に「尊王攘夷」をとなえる水戸浪士や長州、土佐などの浪人たちが横行して、すきがあれば外国人を斬殺しようとねらっていたのである。また江戸幕府もキリスト教禁制の立場から、門衛や下僕にしたてたスパイを入れて、成仏寺の宣教師の行動をいつも探っている有様であった。幕府は宣教師を寺に軟禁して監視するという政策をとったので、寺の門の両側には、保護という名目で監視の役人がいつも4人ずつの交替で立ち番をしていた。  

 成仏寺に於けるバラ、ヘボン、ブラウンの三家族は異教の国、日本にあって、言語の通じる唯一の友であり、また慰めであった。日本語のわかるアメリカ人はおらず、また、英語を解する日本人もいない生活は、ずいぶんと不自由であったが、言葉によらず行ないによる宣教師たちの生活に感化された一つの物語が残っている。

 ::この文章は、月刊「つのぶえ」からの転載で、「つのぶえ社」から許可を得ています::
 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・60・・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・3・・

キリストの復活を現象として納得出来るように説明することは出来ませんが、神の愛の力は死者を今に生かし、しかも永遠である神の命の中へ生かしてくださったことは信じられるし、信じてよいことだと言うことが出来ます。永世といい、不死といい、不老長寿と言いますが、それは、愛されている喜びがあって意味があることであって、愛のない世界へは生き返るにも生き返りようがないというものです。

キリストの復活は、以上の意味において、死者を「死なせたままにはさせておかないぞ」という神の愛の力を示していることとして、キリストを信じる全ての人に示されている秘儀であるということができます。

「復活」を「生き返ること」のように思う人は「そんなことはありえない」と言われるに決まっています。その通りでありまして、生き返るのであれば、完全に死んではいないからであります。そして、「死ぬ」ということは、生き返ることのない事態であるからです。「復活」という字は「また生きる」ということを意味しますから、「再生」と同じように受け止められるかもしれません。が、そうではありません。「死」は全く「生の断絶」でありまして、その先に何かに連続されたり、新しい何かが生み出されるということではありません。「虚無の深淵」に落ち込んで終わりです。

聖書が伝える「復活」は、「神による創造」というべき出来事でありまして、こういう出来事を実現させる力のことを「神の大能」といいますが、この力によって、死んだ者に、まったく新しい命を与えられて、この命の支配の中に置かれることであります。それが「死んで、葬られ陰府に下ったイエス」を死人の中から甦らせたことにおいて示された出来事であります。

「そんなことがあり得るか」というのが、すでに述べたように万人の思いであります。しかし、この驚天動地とも言うべき出来事がイエスにおいて起った、言い換えれば、神はイエスを復活させたことを信じるということから、キリスト教が始まっているのであります。それは、この信じ難きことを信じさせる力を神が与えられたからです。

そういう意味からすれば、クリスチャンもキリスト教会も、神のよる創造の業の実現の印ということが出来ます。以上のようなイエス・キリストにおいて示された神の力とその支配を信じることによって「すべてのことを御手に委ねます」ということが出来るのであります。これが、キリスト教が「イエス・キリストによる啓示の宗教」と言われる理由です。

  篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2017年12月のラジオ放送予定>  

12月 3日 山田詩郎 (日本基督教団名古屋北教会牧師)

   10日 山田詩郎 (日本基督教団名古屋北教会牧師)

   17日 草地大作 (日本基督教団名古屋中央教会牧師)

   24日 草地大作 (日本基督教団名古屋中央教会牧師)

   31日 横山良樹 (日本基督教団半田教会牧師) 

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

 

 

第81課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・33・・・

D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:14・・

 「夜はふけ、日が近づいている・・・・」(13:12a

 ここで言われている「夜と日」とは何かを考えてみなくてはなりません。一つの解釈は、「夜」とはユダヤ人たちがキリスト教を迫害することが可能であった時期を意味し、「日」とはAD70年におけるエルサレム陥落と共に来る新しい時を指すとする考えです。しかし、この解釈は余りにも狭すぎて文脈に合いません。その上、ユダヤ人の迫害の終結は初代キリスト者にとって本当の助けとはなりませんでした。その理由は、その迫害が終わると共に、引き続いてローマ帝国による長期にわたる、更に過酷な迫害がやって来たからです。

 

もう一つの解釈は、「夜」は現在のキリスト者の生活を指し、「日」は、永遠の生活を指すとするものです。この解釈は、先の解釈に比べて説得力があり、部分的には正しいと言えましょう。

  

 第三の解釈は「夜」は、人間の堕落以来のこの世界の歴史を指し、「日」は罪とは絶対的に無関係な永遠の世界を指すとするものです。「日」「主の日」「かの日」など、パウロ書簡や聖書の中の用法を考慮すると、この第三の解釈が最も正当であると考えられています。

 

 従って、「夜は更け、日が近づいている」という言葉の意味は、「この富の成果の長い歴史は終わりに近づいている。そして新しい永遠の時代の夜明けが近いている」ということです。勿論、これはキリスト再臨の実際の時が近づいているかを知るのに、ある手掛かりを提供するということではありません。「その日、その時は、だれも知らない」(マタイ2436、マルコ332)のです。パウロ自身も現代の私たちが知っている以上のことを知ってはいないのです。それは人間には啓示されていないからです。ここで意味されていることは、私たちのカレンダーの時において、再臨が近いということではなく、聖書の歴史観による近さを意味しているのです。

 J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

    ほっとひととき『みんなのコーナー』

☆   台風21、22号の被害を心配しましたが、事前に強風対策をしたので、作物の被害はありませんでした。今は寒い秋晴れ、遠くの山には白い帽子を被った山々が11月だよう~と教えてくれています。冬支度はもうすんだか~と呑気な私に応援してくれているように思います。秋田の今です。 秋田県TMさん

☆  昨日は、朝はとても冷え込みが厳しかったのですが、今朝は、気持ちよく晴れ上がりました。残っている瓦礫は砂浜にはたくさんありますが、漁師さんが自分たちの仕事場をきれいにするかのように、頑張っている姿を遠目に見ています。観光地の方々は、お正月にお客さんをお迎えしようと、後片付けや広い庭の手入れをしている様子が地元テレビが伝えています。和歌山県 KSさん

☆  まだまだ手付かずの壊れた家がそのまま伸びた草の中にあります。ご高齢の方が住んでおられたようです。来年の春にはこの家も崩れるのでしょうか。この地域の崩壊の姿を見る思いで、寂しいです。人影は全くありません。台風は、人の絆も破壊するのですね。 大分県 DKさん

☆  田舎にいる母から、今年もたくさん干し柿を作ったから、そのうちに送るよと電話が来ました。私の故郷は、山の中、どこの家の軒先にも干し柿のオレンジ色のすだれが初冬の風景です。渋柿の皮をむいて、紐をつけて鍋で湯通しした後、竹竿につるして作りますが、もう80歳になる父、78歳の母の生き甲斐だそうです。元気でいてくれる両親を思い、声を聞きながら、知らずに流れる涙を拭いていました。今年も帰ることが出来ません。お母さんごめんなさい・・・。 神奈川 TMさん

*この記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております* 編集子

 

 

  

 『ありがとうございます』

この時期になりますと、お花屋さんの店頭には、色とりどりのシクラメンの鉢植えが並んでいます。お店の人にお聞きしたところ、毎年新しい品種が数多く店頭に並ぶのだそうです。お客さんも迷っていますよとのこと。名古屋市のお隣に春日井市というのがありますが、ここは、種から育てる実生栽培サボテンの生産が日本一だと、最近知りました。このサボテンのコーナーが名古屋市立の東山動植物園(開園は昭和12年・私と同じ年でうれしくなっています)にあり、広い展示スペースに沢山のサボテンが植えられていました。シクラメンの華やかさとは比較にならないサボテンですが、その咲く花には、秘められた生命の美しさがあり、愛好家のこころを虜にしているといいます。我が家の食卓の上に最近3つの小さな手のひらサイズのサボテンの鉢植えがありました。私は忘れるのですが、家内は3日に一回、霧吹きをしています。

2018年の12月にはどれだけ大きくなっていることでしょう。そのことを私は12月号の編集・発行の時、覚えているでしょうか・・・。こちらこそはなはだ疑問です。

 

2017年11月16日から2017年12月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。

加納さおり様 西口義昭様 佐藤のり様 前田和夫様 匿名1名

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(http://tunobue.blog.shinobi.jp(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

ブログ内検索
カウンター
★ごあんない★
毎月第一日更新
お便り・ご感想はこちらへ
お便り・ご感想くださる方は下記のメールフォームか住所へお願いいたします。お便りは「つのぶえジャーナル」の管理人のみ閲覧になっています。*印は必須です。入力ください。
〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
217ff6fb.jpg 








「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

b997b4d0.jpg
 









「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
 a0528a6b.jpg









「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
4008bd9e.jpg
われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

0eb70a0b.jpg








さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

Copyright © [   つのぶえジャーナル ] All rights reserved.
Special Template : シンプルなブログテンプレートなら - Design up blog
Special Thanks :
Commercial message :