2017年8 月号 №121 通巻807 号 号)
「つのぶえジャーナル」へようこそ
涙をもって種まく者は、
     喜びの声をもって刈り取る。 詩篇126:5
 

  今月のことば

 想像を超えた大雨の被害に合われた方々に心からお見舞い申し上げます。米国南長老教会の伝道活動には「ラジオ放送伝道と文書伝道」がありました。今回の北九州地域は以前ローカル局から放送された放送圏で、今はご高齢になられましたが数多くの信仰の友がおられ、今もお便りやメールの交換をさせていただいております。

 

 今月の聖書の言葉は「「神は」あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えてくださったのであります。」(ローマ8:30)です。

 

 私たちは困難に直面する時、ああ~神も仏からも見放されたという言葉を口にした時もありましたが、今、キリスト者とされた者として感謝なことは、全てのことが神にあってなされ、万事を益となしたもうという信仰の土台で物事を考えるようにされていることです。

 神中心であることを知り、「神が」「神が」「神が」―そうしてさらに「神が」であって、「私が」ではないということです。

 自分の人生を神に基づいて生き、神に向かって努力し、神の導きを信じ、神の栄光のために生きる喜びを覚えることが出来たなら、何と幸いなことでしょう。見捨てられた絶望から、召されている感謝へと呼び返されるなら、何と幸いなことでしょう。

 私たち一人ひとりは力弱く何の支えにもならないと思わないでください。主にある者として、被災された、東北の地にある方々を思い、今回の激甚の地にある方々を深く思い、全能の神様への熱い祈り人になろうではありませんか。

「執り成しの祈り人」こそ、光栄ある務めなのです。     

 

   小閑記 

 わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

           ~ガラテヤ2:19~20~

 キリスト者の生きる姿勢を示す言葉に「献身」と言うのがあります。一般的には牧師を志すときに、この「献身」に者を付けて「献身者」と言われています。

 この聖句がまず語ることは、キリストの救いのみ業は、私たちが自分でやり遂げたかのように、信じ難いことですが、実際は違いますが、完全に私たちのものであるということであります。神の言葉は、一人の人がすべての者のために死んだので、すべての者はキリストにあって死んだという、言い尽くせない大きな慰めを与えられているのです。こうして私たちはキリストと共に十字架につけられたのであります。

 

しかし、このように完全に私たちのものであるのに、それにもかかわらず、私たちの外側にあります。それはキリストの内にあることだからです。私たちのものであるものが、キリストにあって私たちの所有となるならば、私たちは自分を全くキリストに捧げなければなりません。本当に信じ難いことですが、自分の罪と汚れを主に渡す信仰に立たなければなりません。

 

 現実にキリスト者の日々は、なおも悪の力が私たちを苦しめ、傷つけ、打ち負かすのです。しかし、私たちは悪の奴隷ではないのです。罪み深く、不完全な信仰者でも私たちの支配者は救いの神、愛と許しの神なのです。肉のこの世界に生きていても、支配者は神なのです。

 聖書の中に「あなたは死んだのである。それゆえ死につけられたのである」と言われています。奇妙な言い方ですが、死につけられた者は、キリストと共にあり、キリストにあって生きる者にされた者として、生きることを許され、生きるようにされているのです。

 すなわち「献身者」として生きる権利を神様から与えられていることに感謝なのです。

 

 

世田谷通信(167

猫草

別の環境保全ボランティア活動に誘われ、そちらにも行ってみた。こちらは人数も多く、調査も野草、昆虫、水生生物、きのこ等グループに分かれて本格的。フェノロジー(開花調査)、コドラート(区画植生調査)と言った専門用語も使われている。議事録や報告書はきっちり、専門家もたくさんいて、とても厳密。こっちに最初に入っていたら続かなかったかも、とやや引き気味。保全を巡って意見が対立し、「それは違う!」や「そういう意味じゃない!」と白熱してくるし。メンバーの半分ぐらいは顔見知りだが、場所が違えば表情も意見も違っている。いろいろあるんだね、と眺めている。

要するに、公開されて人が日常的に利用することが前提か、非公開で保護すべきかの違いなのだ。前者は外来種だって入ってくるのは仕方ないし、持ち出されることもある。諸々の変化が受容されている。里山は近所の人たちが入会地として皆で共同管理する場所。枝を払い、竹を伐り、タケノコや山菜をとり、水を田んぼや畑にひいたり、橋や通路が壊れていたら気がついた人が修理する。よかれと思ってやった結果が、プラスもマイナスもあって緩やかに変化しつつ保たれている。

でも保護区の場合は、基本方針や年間計画、年間目標があり、その範囲内で活動するという縛りがある。変化を加えたい場合は、それが及ぼす影響や生態系全体のバランスを考慮しながら、という感じ。

議論を聞いていると、生態系を守るって何なのかなという素朴な疑問が湧く。土壌の無数の菌から、水や木や植物や生物の複雑きわまりない繋がりのうち分かっているのはごく一部なのに。ヒトが議論している間に木は茂り、草は競争を続け、生き物もその命をつないでいる。益も害も誰の視点なのか、角度が変われば万華鏡のようにその形を変える。

先日、家のスイートピーにアブラムシが大量についたので、公園からテントウムシを1匹スカウトし「好きなだけ食べて」とお願いした。彼(彼女かも)は数日スイートピーをせっせと歩きまわってはアブラムシを捕食して全滅させ、仕事は終わったとばかりにどこかへ羽ばたいていった。私とスイートピーはほっとして、テントウムシは満腹。アブラムシには大災厄だろう。ヒトにできるのはその程度の生態系への関与が関の山ではと内心思っている。

 

   『美しい朝に』・・34・・

6月16日

 昨日は、眼科でした。主人の母が亡くなって、予約日をかえていただいたのです。10時の予約でしたが12時なっても、順番は回ってこないようで、結局14時くらいに会計が終わりました。網膜剥離のレーザー手術後の定期検査で、両目とも瞳孔を開く目薬をして診ていただきました。

無事異常がなくて、次回は12月になりました。感謝です。昨日はお天気が良すぎて、瞳孔が開いた目には、光が痛くて昨日も、少し無理をしたみたいで、今でも、目が痛いです。

6月21日

 大阪の空は、今にも雨が降りそうです。娘が息子夫婦の結婚式のアルバムを作ってくれたのですが、息夫婦には先日娘が渡しました。2人とも、喜んでいました。お嫁さんのご実家には、贈らせて頂こうと思います。3月に息子が結婚して、6月に主人の母が亡くなるなんて思いませんでした。

新しい薬だけで5日ぐらい続けて眠れています。定期検査の結果は、異常がなくて安心したせいもあると思います。最近の薬に、身体が慣れてきたのかもしれません。息子の結婚式を目指して、ベゲタミンを減らしてきましたが、今は、ハルシオンも他の薬に変えることができました。

依存性の強い薬なので、生産中止にならなければ、止めれなかったと、思います。5月に、身体中が痛くなって寝返りも辛い時、新しい鍼灸院の先生にも助けていただきました。

薬を減らしていく一番辛い時期に「つのぶえジャーナル」を通じ、多くの方が励ましと祈っていてくださいました。いつも、お祈りしていただき、本当にありがとうございます。

この時期、雨が降ると傷みが、ひどくなる方も多いと思います。少しでも傷みが和らぐ時間がありますように、お祈りします。

6月30日

 こんばんは。今日で6月が終わり、今年ももう折り返しなんて本当に早いですね。今日も「つのぶえジャーナル」を読ませていただいていました。最初に、鍼灸院で写させていただいた「黄色い花」を載せていただいていました。鍼灸院の先生にお聞きすると、南の国の花で年を越して花を咲かせるのはめずらしいそうで、貴重な1枚を写せて、載せていただいて感謝です。紫陽花の花をお送りくださった方もいらして、多くの方の「心の声」も届けられて、多くの方が「ジャーナル」に参加してくださるようになりうれしいです。

 

ツバメと蛇の話は、状況が目に浮かぶようで、手に汗を握りました。虫の苦手な小学校の先生の話は、幼稚園で教えていた時の自分のことのようでした。今でも虫は苦手です。お母さまの介護をされている方のことは、他人事とは思えません。主人の父の介護の頃から、介護認定の方をはじめ役所の皆様・ケアマネージャーさん・ヘルパーさん・多くのお医者さんと周りの方に助けていただかなければ、できないことです。「つのぶえジャーナル」を読んで、反省できたのですから感謝です。

7月5日

 今日は神経科の日でした。レメロン2錠・セパゾン2錠・ソルピデム10mg 1錠(マイスリーのジェネリック)で、眠れたり、眠れなかったりです。ベゲタミンとハルシオンは、完全に切れました。多くの方にお祈りして頂きありがとうございます。あとは、レメロンとソルピデムを減らしていくように言われました。精神科に行っておられる方なら、薬の処方の変化でお分かりいただけると思って、薬のことなど書いています。

明日76日は、友達の誕生日です。「サラダ記念日だそうです。」昨夜「昔そんな本、読んだね」と話していました。

今日、病院の売店で朝日新聞を購入して、久しぶりに読んでいると、天声人語に(「この味がいいね」と君が言ったから76日はサラダ記念日)と、俵万智さんの「サラダ記念日」が刊行30周年を迎えたと記載されていました。

インターネットがあるので新聞を読むのも何年ぶりかでした。

7月11日

インターネットのニュースで知りました。北九州の方では、流木による瓦礫がすごいのですね。大雨で川も溢れ、泥水といっしょに流れてきたのですね。昔の梅雨は、「しとしと」でしたが、今は豪雨か真夏のような暑さかの繰り返しで身体にこたえます。

昔、読んだ三浦綾子さんの「泥流地帯」という小説がありました。自然災害の描写が、現在の様子に似ていてこの様子が、小説の中ではなく、「実際の現実」だということに驚きます。本当にこの気候の中、自衛隊の方やボランティアの方には感謝です。皆様の健康維持ができますようにお祈りします。

7月13日

 交通事故の後、トラウマがひどく神経科の先生が「昔、教科書を写真のように記憶できて、かなり恩恵をうけたこともあるでしょう。そういう記憶の出来る人は、交通事故の記憶も鮮明に記録されるのです。」と言われました。

ずいぶん、交通事故のトラウマからも解放されたかのように感じていましたが、交通事故も7月10日で、夏祭りの頃でした。季節や、だんじりの音とともに辛さもよみがえりよけいに、心も身体もしんどいのかもしれません。

:小学校の校舎とハトも一緒の写メです。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 その愛のゆえに

   =時々の記=

    (136)

6月14日

今週からはメモ帳を片手にEテレで学んだことを書き留めています。今までとは真剣さが違います。私も一からのスタートです。生かされている間、持てるものを精一杯出せたらと祈っています。でもあまり気負いすぎると長続きしませんから、そこのところを十分に配慮しながら進めていくつもりです。昨日、月ヶ瀬小学校で苦楽を共にした者たちが集って、昔話に花を咲かせると同時に、今まどのようなことに取り組んでいるかを語り合いました。特に気の合う仲間4人ですから、皆、今の自分を率直に語ってくれました。最年長は今年90歳になられた方です。現職のころは子供たちにも同僚にもご自分にも、とても厳しいところがおありでしたが、教育に関してはやはり人一倍の情熱を持っておられました。その方に、“この頃よく頑張っているね”と言われて、とても励みになったことを覚えています。私は「ジャーナル」のことをお話したのですが、今朝そのうちの一人から電話が入り、私の生活ぶりがとても刺激になったとお礼の電話が入りました。何だかほのぼのとした一日となりました。

6月17日

道端のアジサイ、お隣のお家のアジサイが濃い紫色に変わってきていますが、“雨が欲しいよ”とでもいうようにしんなりしています。家のアジサイにはたっぷりお水を与えています。嬉しそうに元気よく花を咲かせてくれています。小学三年生の女の子との初めての勉強が始まりました。お互いに緊張しての30分でした。英語のテキストに今はCDがついていて、とても便利になっています。直ぐ同じように発音できるのは素直な心があるからでしょうか。今は、ALTの先生がアメリカから来てくれて、月に一度は本物の英語を聞くことができるというのです。一気に何もかもは無理なので、まずは聞くことに慣れるようにと考えています。

6月26日

30度を超す暑さです。また、来週からは雨が続くという予報ですが、今年の梅雨はとても激しいですね。一日でひと月分の雨というのですから熱帯地方のようになってきているようですね。

 主人のこと、ご心配をおかけしていますが、リハビリには今日も出かけて行きました。加齢によるものと、使いすぎが重なってのことだと思われます。杖の力を借りて、歩くことができていますから感謝です。診療所できつめの痛み止めの薬を頂いてきました。それを服用しながら、ゆっくりゆっくり杖を使いながら歩いています。

渇かざる命の泉湧きにけり。

揃ひたる淡竹タケノコ送りけり。

止まるのはわづかの間なり山の蟻。

一筋に向かひて来る蛍かな。

玄関の敷石洗ひ夕立す。       馬場路哉

まだ山添村では蛍を見ることができます。田んぼの近くや、井戸水が湧き出るところにほのかな明かりをともしてくれています。静寂なひとときです。

7月5日

こちらは久しぶりに傘を持たずに夕の散歩を終えることができました。ほっとしています。その夕の散歩の折、ねじ花(もじずりそう)が一本ピンクの花を咲かせていました。主人に言わせると夏本番に咲く花だそうです。どんよりした空のもととても愛らしく、小さな花をいっぱい咲かせて元気をもらいました。

主人の足はきつい痛みどめのおかげで少し、和らいできているといっています。でもまだまだ無理はできないのでしばらくは私一人で犬たちとの散歩が続きそうです。

7月12日

朝からの蒸し暑さで汗が噴き出てきます。高温多湿、まさに熱帯地方に暮らしているようなこの頃です。クーラーを掛けようかと迷いましたが朝からはもったいない気がして、窓という窓を開け放して何とかしのぎました。庭の朝顔がいつもならもう蕾を付けるころなのに葉っぱだけが大きくなって一つの蕾も見当たりません。これも異常気象の影響でしょうか。

午後から激しい雨という予報でしたので、洗濯物を午前中に仕舞い込みました。今のところあまり雨は降らずに蒸し暑さだけが残っています。

    馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (60)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第28章 洗礼について・・・2・・・

3 その人を水に浸すことは、必要ではない。だがその人に水を注ぎ、あるいは水をふりかけることによって、洗礼は正しく執行される(1)

  1 ヘブル9:10,19-22、行伝2:41、行伝16:33、マルコ7:4

三 洗礼に関するプロテスタント教会内の論争は、主として、その執行の形式に関してであった。バプテスト派は浸礼を主張するが、改革派教会は、浸礼のみが唯一の定められた方式ではなく、潅水や注水などどちらでもよいと考えている。洗礼に関する形式は、決してイエス・キリストによって定められたり、命じられたりはしていないことが、マタイによる福音書28章のみでなく、使徒行伝の実例からも推論できる。

 

4 実際にキリストへの信仰と服従を告白する人々だけでなく(1)、信者たる両親または片親の幼児らも(2)、洗礼を授けられなければならない。

  1 マルコ16:15,16、行伝8:37,38
  2 創世17:7,9、ガラテヤ3:9,14、コロサイ2:11,12、行伝2:38,39、ロマ4:11,12(*)

    コリント7:14、マタイ28:19、マルコ10:13-16、ルカ18:15
     *創世17:7,9を、ガラテヤ3:9,14、コロサイ2:11,12、行伝2:38,39、ロマ4:11,12と比較


四 誰に対して洗礼は授けられなければならないか、であるが、それは第一に、信仰を告白する人にである。この場合、特に「実際にキリストへの信仰と服従を」と記されていることは改革派教会的特色であろう。それは「信仰と行ない」とを二本立てにしているローマ・カトリック教会の立場とは異なるところである。洗礼の意義(一項を参照)の中に列記されている諸点からいって、信仰の告白ということの中には、主イエスを己が救い主として受け入れる者は、当然、彼の戒めを守り、教会員の義務を忠実に行うという誓約が含まれている。第22章「合法的宣誓と誓願について」で学んだ通り、ローマ・カトリック教会的宣誓(誓いを立てること)に反対するけれども、本項のような意味の誓約は必要である。

 次に、幼児への洗礼が「授けられねばならない」と告白されていて、「してもよい」と言われていないのも改革派教会的特色で、もちろん誓約の信仰から出てくる結論である。幼児洗礼に関しては、なかなか問題が多い。

 ウエストミンスター小教理問答の問94の答えを見ると、第一に、キリストに接ぎ木されること、第二に、恵みの誓約の祝福にあずかること、第三に、主のものとなるという誓約(主のものに予約されること)とが言われているが、再生や、罪の赦しという点は言われていない。それは第二点に含まれている。バプテスト派は、この点(再生、罪の赦し)こそ、洗礼の第一義的なことだと考えている。

 たしかに、洗礼は罪の赦しのバプテスマなのである(クルマンなどの洗礼論はこの点を強調する)。しかし、ローマ人への手紙やヘブル人への手紙の所説は、かならずしも、そうはとれない。むしろ、ウエストミンスター小教理問答の言う通りである。

 この点から見るとき、初めて幼児洗礼の意義がはっきりしてくる。ただし家族主義ではなく、家庭本位という見地から第二親等以下の血族のことは問題にならない。かえって、養子女の場合は施すべきであると私個人は思っている。

 

 

 

 

さんびか物語・・・41・・・ 

    (広く愛唱されている50曲)・・・40・・・

           ポーリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美403番

 かみによりて

<神様のみ言葉>

「そして人々に言われた。『どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです』」。 

~ルカの福音書12章15節~

 

神様にあるキリスト者の交わりを、非常に美しく歌っている讃美歌の一つは、この403番“かみによりて”と言えます。

この讃美歌の原作者はジョン・フォーセット(1740~1817)ですが、この讃美歌は自分がある素晴らしい経験をしたことを記念するために、また、長く覚えておくために書いたものであります。

その出来事とは、次のことであります。

時は1772年です。場所はイギリスのヨークシャーで、ジョン・フォーセットと妻のメアリーは、7年の間、ウェインズゲートの村にあったヘブデン・ブリッジのバプテスト教会で非常に貧しい、しかも少数の会員でしたが献身的な牧会を続けていました。

ところが、彼はロンドンにある有名な教会に招かれ、そこで説教をした結果、是非、その大きな教会へ来てもらいたいと言うと招聘がありました。4人の子供を育てなければならないフォーセット夫妻は、ロンドンに移ることを神様のみ旨と信じて、ジョンは別れの説教を済ませました。その2、3日後、彼らが世帯道具を荷台に積んでいるところに、教会員のみなさんがやって来て、涙を流しながら愛する牧師家族を見送ろうとしました。メアリーはこの教会員の愛に“わたしはこの教会の方々と別れるのは、とてもできない”と言ったところ、ジョンも“わたしも同感です”と言って再び世帯道具を下ろしてしまいました。そうして、この夫妻は54年の長い間、経済的には貧しいものでしたが霊的には非常に恵まれた牧会の歩みをいたしました。その後、フォーセットはイギリス中でも知られた牧師、また作詞家、詩人として大きな影響を及ぼしました。

フォーセットはウェインズゲートに残ることを決めたあくる日曜日には、冒頭の聖句の「人のいのちは財産にあるのではない」というところをテキストにして説教しました。そうして、彼の習慣に従って説教後、前の晩に書いたこの讃美歌Blest be the tie that binds(われらの心を結ぶ絆はどんなに尊いことでしょう)を会員に教えて、ともに初めて歌ったのであります。

フォーセットはこのように毎週説教に伴う新しい讃美歌を書いたのであります。本当に素晴らしい才能と牧者としての熱心さでありましょう。

ジョン・フォーセットは幼い時から非常に苦労しなければならない状態に置かれていました。彼は11歳の時に父を亡くし、13歳で故郷のヨークシャーにある仕立て屋の見習いに出されまして、朝は6時から夜の8時まで働かなければなりませんでした。

その時期に有名な伝道者ジョージ・ホイットフィルドの説教によって信仰に導かれて、牧師になる決心をしました。独学で彼は、その後ブラットフィルドのバプテスト教会の会員となり、その教会の牧師の勧めによって、1763年に周りのバプテスト教会で説教するようになりました。そして、1765年にウェインズゲート教会の牧師に任命されました。その教会では1816年まで牧会を続けましたが、2月に脳卒中で倒れ、翌年の7月25日に召されました。

彼は多くの宗教書を発表しましたが、他に1782年には、166曲も収めた讃美歌集を出版しています。この讃美歌集にこのBlest be the tie that bindsが初めて発表されました。1954年版の讃美歌には彼の作品として“みかみよ、めぐみを”(64番)があります。

讃美歌403番の曲DENNISですが、これは1845年にロウエル・メイスンによって編曲されたものです。記録がありませんから、フォーセットの時代に歌われていた曲が、どのようなものであったか分かりませんが、1832年にロウエル・メイスンが、BOLYSTONという曲をフォーセットの作詞に合わせてThe Choirという本に発表しました。また、さらに13年後にメイスンがDENNISという編曲を作りました。

原作者はハンス・ヨーハン・G・ネーゲリというスイス人でした。ネーゲリはチューリッヒで楽譜出版業を営みながら音楽教師をし作曲もする精力家でした。

ロウエル・メイスンは、ヨーロッパにいた間、DENNISの原作の写本をネーゲリから買い、アメリカに戻ってから、これをフイリップ・ダッドリッチの歌“かみにたよりて”(84番)のために編曲したものです(1954年版の84番の曲ではありません)。

そうして、後になってメイスンがこの編曲DENNISBlest be the tie that bindsの曲として発表しました。アメリカの讃美歌集では、両方の曲が用いられていますが、どちらかと申しますとDENNISの方が広く使われているようであります。

<403>

  1 かみによりて いつくしめる

    こころの交わり いともたのし。

この讃美歌は原作では6節からなっているのですが、残念なことに多くのアメリカの讃美歌集では、これを、3節か4節に短くして用い、最後の2節を省略しています。日本語訳の場合は5節ですが、省略されているのは原作の5節であります。

原作の1節と日本語訳を比べますと少し違いがあります。それは「キリストの愛によって、私たちの心が結ばれるその絆は、まことに祝福されています。同じ信仰を持っている人々の交わりは、天にある交わりのようなものであります」と原作では歌われています。ですから、日本語訳よりも具体的で意味がはっきりしているように思います。

  2 ちちのまえに せつに祈らん

    望みも恐れも ともにおなじ。

2節で歌われていますのは、父なる神様のみ前に心から祈る私たちは、「あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる、父なる神」(マタイ6:8)に悩みも、恐れも、慰めも、重荷についても、そうして、救いも希望もすべての源であられる神様に切に祈り求めるようにすすめています。それは、神様にこそ本当に解決と望みがあるからにほかなりません。

  3 ともにしのぶ うきなやみも

    ゆたけき恵みに やがて消えなん。

3節では、ガラテヤ人への手紙6章2節とローマ人への手紙12章15~16節のみ言葉が背景にあると思います。そこには「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」(ガラテヤ6:2)、また「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になりなさい」(ローマ12:15)とあります。

お互いの悩みを分かち合い、重荷を負い合うのはクリスチャンの義務でもあり、光栄ある責任でもあります。喜ぶ者とともに喜ぶのは別に難しいことでもないですが、泣く者とともにその重荷を負うことは、なかなか出来ることではありません。しかし、クリスチャンは神様の私たちへの愛を知っているが故に、神様を愛する者でありますから、兄弟を愛し重荷を負うための愛の心を神様に求める者であります。そして、その愛の心を得ている者ですから、この大きな役目を果たしてまいりましょう。

原作にありますように、キリストにある友のために、同情の涙を流すことの出来る者なのです。どうぞヨハネの手紙第一、3章以下を是非お読みください。

 4 わかるるとき かなしけれど

   ふたたび相見る さちやいかに。

4節では、別れる時は悲しいけれども、主イエス・キリストにつらなっているなら、主にあって、心と思いは今も結ばれていて、別れは場所的なことに過ぎないことである。また再び相見るその日を喜びと希望をもって待ち望むことが出来る、と歌っています。

日本語訳にはない原作の5節では、作者は次のように歌っています。

「愛する友人たちを、再び相みることの素晴らしい希望が、私たちに勇気を与え、その日を期待して待ち望みながら、私たちは人生の旅を続けるのであります」と。なんと素晴らしい信仰でしょう。

 5 つみとうれい なきみくにの

   つきせぬ睦びを よろこび待たん。

これは、原作の6節にあたりますが、ここでは、罪、うれい、悩み、苦しみのないみ国について歌っています。

日本語訳では“み国のつきせぬ睦び”を待ち望んでいるというようになっていますが、英文の方では“完全な愛と完全な友情が永遠に続くみ国である”となっていますが、同じような意味を表現していると思います。

ヨハネの黙示録21章3~4節には「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死のなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」と記されています。

この神様にある交わりと喜びを、心から待ち望む歩みでありたいものです。同時に、主にある兄弟姉妹の信仰の交わりをも大切に育ててまいりましょう。

 

 

 

ビルマ 戦犯者の獄中記(77) 遠山良作著

 ―ハンストのビルマ人―

 現政府に反対し、監禁されている共産党員たちは、監獄の給与改善を要求して「ハンスト」を実行した。瀕死の状態で担架で担ぎ込まれた5人は私の隣に入院した。彼らの顔は水ぶくれのように腫れていた。水も食事もとらないことを宣言してハンストに入り33日目であると言う。30日以上も水も食事もとらずによく生きられたものだと思う。

 彼らの話によると水を飲んでいると15日位は歩行が出来るが、水を飲まないと1週間位で歩けなくなる。一番苦しい時は5、6日目である。幾日目には苦しい節目があるが、体力が消耗しないように寝ていた。30日目に同僚の一人は血を吐いて死んだことも話してくれた。入院した初日はほんの僅かな米を入れて焚いたおも湯である。毎日少しずつ、米の量を増やすのである。5日目にはビスケットが与えられた。彼らはまだ回復しないまま15日目には退院した。かつて英軍の給与が悪かったとき、ストライキすらできなかったわれわれのことを思い出し、彼らの勇気ある行動に敬服した。

 

―巣鴨拘置所―

8月26日(昭和26年)、英領地区の戦犯者227名を乗せた貨物船は横浜港の岸壁に横づけになる。夢だに忘れたことのない祖国日本に着いた喜びで誰もが上気していた。波止場にはわれわれの帰国をニュースで知った家族や知人と思われる人々の群れ、中には○○君と書いたのぼりを立てて出迎える人たちでごったがえしている。私たちはこれらの人々を遠くに見て、下船するや米軍の用意したトラックに分乗して巣鴨拘置所に向かった。

やがてひときわ高い3階建てのビルディングが見える。それが巣鴨拘置所だと教えられる。その手前の道路上にアーチ形の門がある。赤地に白くSUGAMO PRISONと書かれている。この門が正規の門、巣鴨拘置所のメインゲート(正面)である。その門を境に高さ3メートルのバリケードがはりめぐらされ、さらに灰色の高い塀に囲まれた内側に拘置所がある。

ここには、極東裁判で裁かれたA級戦犯者をはじめ、B、C級の戦犯者たち2000名近くが収監されている。何時の日に自由の身になれるかは予想することはできないが、とにかく日本に来たという実感は、いままでの苦しみのすべてを忘れ、その歓びは表現することすらできない。

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・56・・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・

答・・15 こういうことが言えるのは、イエス・キリストを信じているという信仰によってのことであります。では「キリストを信じることによってそういうことが言える根拠は何か」と問われたならキリストが十字架につけられたことと、三日目に復活されたことにあります。

 戸籍の記録が残っているなら「ナザレのイエス・○○年○○月○○日エルサレム、ゴルゴタ刑場にて死刑により死亡」とあるはずです。日本の寺のように過去帳があれば埋葬の記録もあるはずです。その後、その遺体が、アリマタヤのヨセフによって引き取られ、彼の墓に納められた。ということも、当時新聞記者がいれば事実として読者に伝えたに違いありません。これらのことは、歴史上の事実であるからです。イエスの伝記を書いた福音書の記者もこのことは記しています。

 ところが、キリスト教のエッセンスともいうべき「使徒信条」には、イエスについて「死にて葬られ」に続いて「陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り・・・」というひとくだりがあります。これは史実としては記録されません。もし記録されるとすれば「イエスの弟子たちは、イエスの死後、イエスは陰府に下って、三日目に死人のうちより甦って、更に天に昇った、と信じているそうだ」ということになるでしょう。それは、まさにその通りでありまして、イエスが陰府に下ったとか、復活したとかいうことは、誰にも納得できるような確証を提供することができない事柄であるからです。

 そういうことから言って「使徒信条」というものは、信仰を言い表したものであって、史実の確認文ではないことは明らかです。

 「そうだとすると、信仰といったって、それは単なる思い込みに過ぎないのではないか」という批判が出ることだろうと思います。しかし、そういう批判は、すべてを合理性と客観性に合致しなければ認められないとする、科学によってだけ事柄を捉えようとするところから出てくるのであって、科学ではとらえきれないものが沢山あるのに、それを無視していることに因ると言わざるを得ません。

 例えば、出会い頭に人とぶつかった場合「目から火が出た」と言います。また、ある時、今まで全く気付いていなかったことを「はっ」とするような仕方で気付かされた場合に「目から鱗が落ちた」と言います。こういう時、第三者には「目から出た火」や「目から落ちた鱗」が見えるわけではありません。それは客観性を持っていないし、科学的に証明できることでもありません。だからといって「それは単なる思い込みではなかったか」と言われてれも当事者は承服できないことだろうと思います。それは、その人にとって真実であるからです。また、批判した人が後に同じようなことを体験した場合、以前批判したことが見当違いであったことを体得するに違いありません。それは「真実」というものがそういうものでもあるからです。

 信じていることに対して「それは非科学的である」とか「客観的普遍性を持っていない」と批判することは容易でありますが、そういう批判が「真実」を見過ごすことになってしまうことになりかねないことを、先ずは知っておく必要があると思います。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2017年8月のラジオ放送予定>  

  8月 6日 黄 敬秀 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)     

    13日 黄 敬秀 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)     

    20日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)

    27日 長谷川潤 (日本キリスト改革派四日市教会牧師)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

 

第79課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・29・・・

B キリスト者の市民的義務・・・15・・・ 

       13:5~7・・・14・

「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・6・・

 この政治的不同意という問題に対して、ローマ13:1~7が特に持っている意義を考えるにあたり、二つの誤解を排除しなくてはなりません。第一はローマ13:1~7は改革派長老教会の政治的不同意の立場を否定しており、私たちに現在の憲法の下で投票し、選ばれれば公職に就くことを要求しているという人々がいます。私たちは上に立つ権威に従うことを命じられているからには、投票し、選ばれれば公職に就くことは、私たちの義務でなければならないと論じるのです。

 

 この議論は極めてもっともらしく聞こえますが、実は正当な論ではありません。何故ならば、それは混乱した思考に基づいているからです。それは市民的義務を上に立つ権威の機能と混同しています。法律に従うことと、税を納めること、上に立つ権威に従うこと、これらはみな市民的義務であります。これらは市民的、或いは民間の領域に帰属するものです。

 

 他方、公職に就くことや、他人に公職に就くように投票することは、民間の領域に属することではなく、政治的な事柄です。公職に就いている者は、上に立つ権威に従っているのではなく、彼自身が上に立つ権威の一人に他ならないのです。投票する者も、公職も政府に従っているのではなく、彼ら自身が政府なのです。民主主義政治において、投票する者が支配者であり、すべての投票者が政府の一部なのです。政府の性格、政治、活動を決めるのは投票者であります。投票は政治活動であり、支配者の機能なのです。

 

 神のみ言葉は「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである」と命じていますが、これは投票することや公職に就くことによって、上に立つ権威の一つになることが、キリスト者の義務であると言う意味では決してありません。もしキリスト者が投票したり、公職に就いたりすべきでない本当の理由があれば、これらの政治的行為を差し控えることがキリスト者の義務なのです。

J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

    ほっとひととき『みんなのコーナー』

☆ 昨日の雨には、恐怖を感じました。子供たちも怯えて二階の部屋で震えていました。今朝もまだ激しい雨です。向かいの家が傾いています。道路なんかありません。一面流木と泥と流れ着いた冷蔵庫が見えます。濁流です。大分に育った私ですが、雨で恐怖を感じたのは初めてです。お祈りください。 大分県 BDさん

☆ お仕事とはいえ、若い自衛隊の皆さんは、本当に私たちの気持ちを感じつつ、瓦礫の除去や不通になっている道路の整備に頑張ってくださいます。国会では、「言った言わない・・・」でテレビで聞いていたら、腹立たしい気持ちになりました。野党の国会議員さんは誰一人、被災の地、自衛隊員に激励のために来たというニュースはありません。東京にこのような災害が起こっても、野党のくだらない、揚げ足取りの議論をしているのでしょうか。私のいる避難所には冷房はありません。あの議員さんのいるところは、冷房完備なのですね。誰も扇子を使っていないのですから・・・。 悔しいです! 大分県 KCさん

 ☆ 今年も今回で7回目のメールになる83歳の自称ハイカラ老婆です。覚えていますか。一人で生活してもう25年になりました。感謝なことは教会は歩いて行ける所にあることですね。でも、最高齢者ですから、何だか変な気持ちになることもありますね。知らない人ばかりの感じがしてしまいますよ。ああ~認知症だ~と思っています。毎日聖書は読んでいますが、時々変だと思う時があります。栞を入れ忘れるので、いつも同じところを読んでいるので、先に進みません。幸いなことは覚えていないので、いつも新鮮な感じ?かな。便利になりましたのは、惣菜が一人分の物が多くなりましたので、粗末にすることがないことですね。そうそう、私はパソコンを覚えて17年、パソコンフレンドが多くなりました。テレビより有益?で面白いですよ。意見交換できるのが面白いですね。またつぶやきメールを送りますね。 福島県 OKさん

 ☆ いつも「つのぶえジャーナル」やお便りをお送り下さり、ありがとうございます。精神治療施設にお世話になり、もう30年近くになります。この施設から出て生活することは出来ません。医師の許可でコンビニと月一回の教会の礼拝には出ることは許可されています。普段はたまに来る叔父と話したり、あとは人とゆっくり話したり、作業療法に参加したり、ストレッチやラジオ体操をしたり、本を読んだりして過ごしています。私は長村さんから、いつもお便りもらえる者は、私以外にはほとんどいません。外の人との接触は注意するように言われていますから、別世界の感じです。この生活で一生を終わるのかなあ~と考えると不安になります。 兵庫県 K・Kさん

 ☆ コンビニで、水出し用の麦茶を5箱買いました。一夏分ですね。今日から活用します。もう、そんな季節になったのですね。すぐ傍の公園で、セミが鳴いています。そりゃ暑いわ。体が暑さに慣れていないので、今日は要注意です。これだけ気温が高いと被災地の衛生状態が心配です。今朝もお祈りさせていただきました。無力な私ですが「祈りは力」を信じています。愛媛県 NRさん

*********

Δ 子供たちと梅雨明けの計画していた矢先のこの豪雨、避難勧告を聞いて玄関を開けたら、道路がありません。慌てて戻り二階の部屋に閉じこもり・・・。不安と恐怖で泣いてしまう子供、私も泣きたい気分・・・。怖いです。今は朝の3時です・・・。

Δ 私は、主人が躁状態で頭を痛めています。入院しないで済ませたいですが、出掛けると今日は、帰って来てくれるかと心配しています。私も普通に寝るのですが、気になって目が覚めます。寝る時間は少しなので、辛いです。息子がお父さんこんなに、お金使っているんだと、驚きでした。本当に疲れます。私も鬱になり気力がなく 死にたいです。死んでくれるなといいつつ 歯医者に行ったら、どこに行ったのか帰ってこない日もあるのです。元気が戻ったらこれだから、もうイヤになります しんどいです。薬は、増やしていますが、いつ気分良く出歩くかわかりません。鬱の時では医者にも行けません。薬を増やしてしまうと、主人が動ける範囲が狭まり、トイレや入浴にも支障が生じてきますので、私も辛いのです。入院になるとお金もいりますし、近くの病院だと薬付けにされるので、動けるようになるまで日にちがかかるのではと 恐れています。今の先生は極力、少しでも安定するようにしてもらっていますのですが、 先生の病院は、他県なので、入院費の負担が県によって違うので、またややこしくなります。こんな毎日、もう疲れました。20年以上ですよ・・・。教会にも行けていないんですよ。

Δ 私は一人っ子で、何もかもお母さんがしてくれたので、掃除も洗濯、お料理もできないまま、大学に行き、快適な仕事場で働いていました。ペット嫌いな母ですから、生き物に触ったことはありませんでした。そんな私が結婚し、子供が生まれましたが、どうして良いのか分からず、育児本を読みあさっていると、自分の未熟さに心が変になってきました。子供を産み育てる資格なんか全くない・・・。周りの人は、笑顔で子供と接しているのを、ベランダ越しに見ています。心の中で、誰か助けて!!と叫んでいるのに、声にはならないし、変なプライドで声も出さない・・・。そんな自分が出来ることは、母が教えてくれた「ジャーナル」のアドレス。こんなメールでごめんなさい。迷惑でしょうが、これからも時々メールさせてください。育児ノイローゼなんて言葉、他人事と思っていましたが、私かも・・・と思ってしまったので、メールしました。・・・。

Δ 私の住む集落はホタルが乱舞するところです。林業を生業とした何代も続く家業の人たちですが、そのような丹精込めた山の木が家や道路を塞ぎ、孤立していましたが、家族、親戚のようなこの地域、家は壊れましたが、連帯感は壊れません。みんな高齢ですが仕事で鍛えた体は丈夫です。私は大阪から嫁いだ者ですが、仲間に入れてもらい頑張ります。

*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております* 編集子

 

  『ありがとうございます』

京都の友人からメールが来ました。・・・京都の7月は、祇園祭で始まり祇園祭で終わります。伝統的な祭りというだけでなく、美術的な美しさに加えて京都府民の熱い魂が込められているので、外国から観光に訪れた人は圧倒されてしまうほど。1416日に行われる『宵々々山~宵山』は、のんびりと祇園祭を楽しめますが、17日の『山鉾巡行』はその壮大な姿に圧倒されてしまいます。・・・。

日よけの簾、団扇や扇子が日傘とともに好調な売れ行きとか。夕方には浴衣姿が一時期より多くなった気がいたします。その理由の一つに、海外からの旅行者の和服への関心の高まりとか・・・。それに刺激されたのか、日本人も身近な浴衣や和傘などに関心を持つようになっていると言います。理由はともあれ、身近な生活の中に日本再発見になればうれしいことです。

風鈴、朝顔もどこか懐かしい思いをさせます。この猛暑を乗り越える何かになるかと期待しています。

2017年6月16日から2017年7月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。

 

馬場暁美様 太田敏子様 宮川真澄様 西口義昭様 泉 和夫様 佐藤のり様 吉田みよこ様 匿名1名

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

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緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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