2017年5 月号 №118 通巻804 号 号)
「つのぶえジャーナル」へようこそ
涙をもって種まく者は、
     喜びの声をもって刈り取る。 詩篇126:5
 

  今月のことば

 「見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません」。

    ~詩篇39:5~

 神様は、すべての者に等しく、24時間をお与えになっています。しかし、「あなたの前で」というこの言葉は、とても大切です。「あなたの前で」あれば、私たちの日々は、美しい。そして私たちの日々が美しくない場合には、それは一層長いのです。しかし、「あなたの前で」は、そうではありません。神様のみ前では、70歳が何でしょうか。さらに進んで80歳が何でしょうか。また「あなたの前で」あれば、私たちの生は、決して無ではないのです。たとえば、喜びと悲しみに満ち、影と光に満ち、富と貧しさに満ちている人生・・・。しかしそのような人生も、「あなたの前で」は、束の間の時間であり、泡であり、煙であり、朝開いて夕にはしぼむ花です。

 一週、一週は過ぎ去り、私たちの年々歳々は過ぎ去るものです。40歳となり、50歳は目前も事実です。天地でさえも、「あなたの前で」は過ぎゆき、地は「あなたの前で」は塵となるのです。

 しかし、神のみ前では過ぎ行かないものがあります。それは。「わたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)のです。神の言葉は単なる言葉ではありません。それは神の約束そのものだからです。

 今月も、私たち一人ひとり、神が私に何を約束していられるか問うことに、目を凝らすなら、私たちは「あなたの前で」聖書が示す神の愛、私たち一人ひとりに注ぐ神の眼差しを知るのです。

 「神の前に生きる」人生は、永遠に滅びを知らないということなのであります。

  「そうではない」

 歩むのは私ひとり そうではない そうではない

 私の弱さを知っておられる 主イエスが共に歩みたもう

 

悩むのは私ひとり そうではない そうではない

 私の弱さを知っておられる 主イエスが共に悩みたもう

 

祈るのは私ひとり そうではない そうではない

 私の願いを知っておられる 主イエスが共に祈りたもう

     =水野源三第4詩集=

 

   小閑記 

 心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。

    ~イザヤ35:4~

 私たちの心は弱いものです。病や貧しさや危険は、日々の生活を脅かします。しかもそれは予期せぬ時に来て、心を不安と恐れで支配します。ここから逃れ、救われる道を人は求め、探します。

 人は、誰しも自由でありたいと思います。幸福でありたい、健康でありたいと願います。しかし、その先の未来にあるものを見ているでしょうか。難しく考えるのではなく、ごく自然に、真面目に自分を見つめる時、その思いを妨げるものは何でしょうか。心の、魂に傷を負わせているものに気付いているでしょうか。

 聖書はそれを、「罪と死」の力であると言います。私たちの意志や知恵ではなく、向き合う心の貧困です。道を知らない心の恐れでもあります。

 私たちは、弱い慄く魂の持ち主なのです。そのことを真面目に、素直に認める勇気こそ、必要な心備えです。

 神の言葉は、力と愛と救いの希望を、救い主なるイエス・キリストの十字架の死とよみがえりをもって、私たちに示しています。神の恵みは、求める者に惜しみなくお与え下さる「愛の実」です。

 神は言われました。「強くあれ、恐れてはならない」。この神のお言葉を聞き、読み、知りることは、なんと幸いなことでしょう。神様の約束を信じ、果たしてくださるという信仰は、何よりの神様からの贈り物です。その約束に信頼するすべて者に、「恐れてはならない。わたしがあなたがたとともにおるからである」との救いの恵みを、日々、祈り求める歩みこそ、キリストを知り、信じるキリスト者です。

 

世田谷通信(164

猫草

学校での図書の仕事を続けるのに必要なので、司書教諭の資格をとることにした。大学に通う時間や気力はないので、通信教育である。たった5科目10単位、通学は一切なし。そんなに金額や期間もかからないだろうと思い立った。

大学の卒業証明書等を取り寄せて、入学準備をするなんて何十年ぶりのことだろう。今やインターネット出願。証明写真を貼ったり、誤字脱字に気をつけながら願書を書いたりしなくてもいい。便利な世の中になったものだ。

必要書類や振り込みが受理されてガイダンス、テキスト、学生証が送られてきた。法学部の所属らしい。形ばかりだが学生気分でちょっと嬉しくなる。

大学の通信教育部で学ぶ人たちの年齢や状況は様々である。仕事をしながら、定年後、家庭の事情、健康上の理由で通学できなくなった・・等々。でも、学ぶ気持ちがあればそこに道は開いている。素晴らしいことである。

テキストは毎晩少しずつ読んで、課題や設問にも日々取り組んでいる。レポートはインターネットの通信教育サイトで提出する。これまで断片的な知識で図書の仕事をしていたのが、体系的に整理されてくる。認識が間違っていた部分もあり、これまでのやり方を見直すきっかけにもなる。

最終試験の問題ももう届いている。論述課題が1教科につき数十個並んでいるのだ。試験当日、会場で試験問題の課題番号が発表される。持ち込みも書き込みも一切不可なので、事前に数十個の課題の回答を全部暗記していくのはかなりの勉強量だと思う。インターネット受験の場合は当日別の問題が提示される。回答には時間制限があり、文字数も多い。コピペもできない。その場で入力するのみなので、内容がしっかり頭に入っていないと解けないようになっている。学ぶからにはきちんと取り組んでもらいますよ、という大学側の姿勢がみてとれる。お金さえ払えば遊んでいても単位がもらえて卒業できるような甘いものではない。身が引き締まる思いで取り組んでいる。

学生時代ってこんな感じだったかな、それとも今だから真摯にやろうと思えるのかも知れない。この春大学生になった長男と時を同じくして、50歳になる母も再び大学で学ぼうとしている。

 

   『美しい朝に』・・31・・

3月16日

こんにちは。ベゲタミン0錠で、だいぶ寝れるようになってきていたので、もう、ベゲタミンから卒業できるかもと勝手に思っていました。4日から、ベゲタミン0錠で12日過ぎました。13日ベゲタミン0錠・レメロン2錠・ハルシオン1錠・セパゾン2錠で全く寝れなくて、14日はレメロン2錠→1錠で当然寝れなくて昨夜15日は、レメロンを2錠に戻したのに、全く眠れなくてすごく、自信がなくなりました。22日が、神経科の日ですが、先生とベゲタミンを足さないと約束したのですが・・・。また、辛くなりました。

3月22日

 神経科から、帰ってきました。ベゲタミン依存から無事、卒業できたみたいです。「もう、ベゲタミンは無しで行けると思う」と神経科の先生に言われました。1つ宿題を提出出来た気分です。嬉しいことですが、少し寂しい気がしました。このベゲタミン卒業を影で支えてくれたのは、私の話を黙って聞いてくれた友達はじめ、気持ちが不安定な時も、普通に接してくれた家族の力が大きかったと思います。多くの方にお祈りしていただき、はげましていただきありがとうございます。まだ、不安な気持ちはいっぱいなのですが、長村先生のおっしゃる明日への「新」があるのなら、私も進みたいと思いました。

でも、何故か落ち込んでいました。友達が「空の巣症候群ってあるらしいよ」と教えてくれました。子供が独立して「もう私は必要ない」とむなしさ(虚無感)を感じているという症状です。

3月に卒業して4月に新しい環境で過ごす方々のことも思います。私も外へ出て、写真を写すことで気持ちを外へ向けたいと思います。

4月3日

春らしい季節になりましたね。1年間の自治会の当番が3月で終わりました。

前回の自治会の当番の時は、前の家を取り壊しマンションが建つということに、

反対運動があり大変でした。無駄吠えをしなかった「愛」も、前の家を取り壊していたころから夜鳴きが始まりました。当時は、私もホテルのベッドメイクの仕事をしていて、主人が夜勤のマンションの管理人をしていました。「愛」も、取り壊しから、マンションの建設と大きな音に不安だったのかもしれません。あんなに昼も夜も鳴いていたのに、最近はだいぶ静かになりました。19才になって、年のせいかもしれません。

去年4月から今年の3月までは、私の体調はすぐれませんでしたが、主人が夜勤のマンションの管理人から、自営業になりましたのと自治会での大きな出来事もなかったので、無事お隣へ引き継げました。

4月4日

 今日は、2年ぶりぐらいに、母が家に来てくれました。バスで天王寺まで迎えに行こうと思っていたのですが、春休みで座れないと困るので、天王寺からタクシーで来てもらいました。今までは、JR新今宮から来ていましたが、電車の乗り換えに階段しかなくて、家に来てもらうのは無理かなと思っていましたが、主人が考えてくれた方法で無事来れました。

帰りは家の近くのバス亭から、終点まで乗って天王寺から地下鉄と泉北線の乗り換えが、スムーズに行ければ、ちょっとした小旅行です。母も喜んでくれました。長村先生と同じく、私も腰痛とひざ痛です。階段の上り下りが辛いですが、仕事は1階で、寝るのは3階。トイレは1階と2階なので、夜中のトイレは辛いです。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

 

 その愛のゆえに

   =時々の記=

    (133)

3月22日

昨日とは打って変わってお日様が照りだして嬉しい一日でした。アジサイが青い青と目吹いていました。家に戻って狭い庭を見渡すと、去年植えた“雪柳”もけなげに一ミリほどの芽を吹いていました。何だかとても気持ちが明るくなりました。今朝のEテレで、“秘密の花園”のお話を聞くことができました。印象に残った言葉は、その人の心の中に小さな庭があり、そこに自然と向き合う心があるならば、希望と、生きる力が湧いてくる、というのです。はっとさせられた言葉でした。

3月27日

 また遠い国から燕の家族たちがやってきました。去年まで来ていた燕かどうかはわかりませんが、土地勘があるとか・・・。またすっと空高く飛んでいきました。去年の日記を見直していないので、はっきりしたことがわからないのですが、同じように三月の末にやってきているはずです。生き物たちの季節感に驚かされます。

先日、お隣の家まで行くと、なんと一度も見たことがない“アライグマ”が私をちらっと見て、すぐに逃げて行きました。見た目はとても可愛くて愛くるしいのですが、農業をされている方たちに言わせると、このアライグマが一番たちが悪いのだそうです。頭がよいので“スイカ”でも瓜でも形はそのまま残して中身だけをすっかり食べてあるというのです。生き抜くための動物たちの生活の知恵に人間も負けまいと対策を練っています。

3月29日

主人は今日3月29日に73歳の誕生日を迎えました。すっかり誕生日のことは忘れていました。子供たちも誰も何も言ってきません。はっと思ってカレンダーを眺めるとひょっとして主人の誕生日かも・・・。主人に念を押して、“今日は誕生日やね。おめでとうございます”と改めて言うと、嬉しそうにしていました。

物覚えはよいはずでしたのに・・・・、ああ~~。

4月3日

 4月になりました。テレビのニュースではあちこちの新入社員の入社式が映し出されていました。みなさん希望に胸ふくらませて、新生活のスタートを切っている姿に、若かりし頃の自分の姿と重ね合わせていました。そんな中、本日、四日市教会のまきば幼稚園で長い間、ご奉仕されていた藤沢元長老さんから、“体調がすぐれないために、この3月を最後に、理事長を辞任いたします”というとても美しい絵葉書で退任のご挨拶を頂きました。四日市教会に私がお世話になっていたころから長老として毎週の週報作成のご奉仕をされ、牧師の父を助けてくださったお姿には若い私には心打たれるものがありました。そして、まきば幼稚園の理事長兼園長として本当に長い間ご奉仕をしてくださって、私たちは励まされ続けました。四日市教会を離れてからも、伊賀上野までお訪ねくださり、心温まるお交わりをしていただきました。

文学者でいらして、主人の俳句には添削をしてくださって力つけていただきました。またご自身も、四日市の文芸の会に属しておられ、よく冊子を送ってくださったり、ご兄弟(三人)で出版された本を送ってくださったり、まきば幼稚園誌を最後に作成されて、その長い歩みを学ぶことができました。

まだまだ、現役続行をされたかったことでしょうが、神様がこれからはご自分のための時間をゆっくりされなさい、と言われたのでしょう。これからは、ゆっくりなさって奥様とご自分のための時間を有意義にお過ごしくださいますようにと心から感謝してお祈りしているものです。

4月5日

 こちらは、桜がまだ開花していませんが、もう雨が降り出しそうなのです。明日、明後日と雨の予報ですから、待ちに待っていた桜見物に出かけようとされている方たちは残念なことでしょう。こちらも入学式が小学校で、明日は中学校です。やはりみなさんにこにこ顔での登校でした。4月は入社式の皆さんも皆、笑顔ですね。難関を突破しての入社でしょうから心弾むことでしょう。

永遠の望み心すイースター。

風の中、リハビリに耐ゆ受難週。

狭き門より入れてふ入学式。

青山を超え伊勢近く春の風。

薄絹をまとふ鈴鹿嶺(すずかね)朝霞。    馬場路哉。

腰の痛み、足の痛みに耐えられながら、尊いご奉仕に心から感謝いたします。

私の方は以前と変化していないということで、また経過観察です。三か月後には瞳孔の検査をするということです。伊賀までの道ですが、名阪を通るのが怖くなりました。主人に送ってもらい、国道沿いにまだ咲きはじめの桜を眺めて行きました。 

日本の四季がしかも最も気候の良い春、秋が短くなってしまったように感じられます。

    馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (57)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第27章 礼典について・・・2・・・

3 正しく用いられる礼典の中で、またはそれによって、表示される恵みは、礼典のうちにあるどのような力によって与えられるのではない。また礼典の効果は、それを執行する者の敬けんあるいは意図によるのでもない(1)。それはただ、みたまの働き(2)、および礼典の使用を権威付ける命令と、ふさわしい陪餐者に対する祝福の約束とを含む礼典制定のみ言葉とによるのである(3)

  1 ロマ2:28,29ペテロ3:21
  2 マタイ3:11コリント
12:13
  3 マタイ26:27,28、マタイ28:19,20

三 ここでは、次の2点が留意されなければならない。

   ローマ・カトリック教会のサクラメンタリズムと呼ばれる誤り(すなわち、礼典の効力は、ローマ・カトリック教会の司祭による執行によって発効するという主張とともに、外的物質そのものに救いの恵みの効力が内在するために、たとえ不信者(動物でも)でも、これにあずかる時には、その効果に浴するとする誤り)。

  礼典の効果を、これを受ける者の側の主観的影響に取ると考える誤り(従って、その効果を、これにあずかる本人の信仰から生じるとする誤り)。

これら二つの誤見を排除して、礼典の効力は、聖霊の働きと、これを制定された神・キリストのみ言葉に根源する、ということの主張である。信仰とは、このように聖霊とみ言葉とによって、信者の側に生じる事柄に他ならない。

 

4 福音のうちにわたしたちの主キリストが命じられた礼典は、ただ二つ、すなわち洗礼と主の晩餐だけである。そのいずれも、合法的に任職されたみ言葉の教役者以外のだれによっても執行されてはならない(1)

  1 マタイ28:19コリント11:20,23コリント4:1、ヘブル5:4

四 ローマ・カトリック教会が7つの礼典を主張するのに対して、わたしたちは2つのみに限定する。結婚式や按手式などには、ある点、礼典的な要素のあることは、否定できないけれども、決して恵みの契約の礼典ではない。礼典はキリストの制定によるもので、特にみ言葉の使役者、すなわち、教師によってのみ執行されるものであり、これは、特に重大な一点である。ローマ・カトリック教会は、一方、彼らの司祭の執行する礼典のみに効力があることを主張しつつ、他方、緊急の場合には、助産婦による授洗を有効と認める。それはサクラメンタリズムの論理からくる自己矛盾である。

 しかし、ではなぜ礼典が教師によってのみ執行されなければならないのだろうか。福音の宣伝(教)は、キリスト者すべての義務であるのに、という疑問に対する答えは、礼典は地上教会(可見教会)に不可欠な事柄であり、可見教会は単に個々の信者の総和ではなく、一つの制度、組織を持つ団体である。公同礼拝の宣教が、教師(または説教免許者)によってのみ正規になされるように、礼典も教師によってなされるべきである。

 それは、礼典は可見的宣教に他ならないからである。さらに、なぜ、説教免許者は礼典を執行してはならないのであろうか。それは、礼典執行には会員の戒規と言う意味が付随するからである。

 教師といえども個人の資格でなすべき事柄ではなく、教会の役員として公式に行なうべきであるから、小会の委託によってこれをなすのである。

5 旧約の礼典は、それによって表象され表示される霊的な事柄に関しては、実質的に新約の礼典と同一である(1)

  1 コリント10:1-4

 

さんびか物語 ・・・38・・・

    (広く愛唱されている50曲)・・・37・・・

           ポーリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美歌384番

 我こそ十字架のつわものなれ

<神様のみ言葉>

「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人の前で立派な告白をしました」。 

~テモテへの手紙第一、6章12節~

この讃美歌は、主にある戦士として、この世の荒波と思いと惑わしに勇敢に立ち向かう信仰者の姿と勝利の喜びをたたえた歌と言えるものでしょう。

讃美歌384番は、有名なアイザック・ウォッツが原作者です。彼につきましては讃美歌138番、286番をご参照ください。

この讃美歌384番は、説教の後に歌われるものとして書いた一つの作品であります。これは、「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい」(Ⅰコリント16:13)という聖書のみ言葉にもとづいた詩でありまして、ウォッツはこの詩に“聖なる勇気”というタイトルを付けました。

讃美歌384番の曲ARCADIAは、ウォッツの召された36年後に生まれたトーマス・ヘイスティングス(1784・10・15~1872・5・15)によるものです。彼は田舎の医者の息子としてアメリカのコネチカット州ワシントンで生まれ、12歳の頃両親とともに真冬の中を牛が引くソリでニューヨーク州のクリントンに移住しました。

トーマスは厳しい環境の中に育った上に強い近視に加え、生まれつきの白子であったため、独りでよく勉強すると共に強い信仰を持っていました。彼が18歳の頃、村の聖歌隊のリーダーとなり、またこの頃から讃美歌集の編集を始めました。

1823年から32年までニューヨーク州にあるユーティカ市の週刊誌の編集者となりましたが、これが彼に讃美歌による福音宣教のチャンスを与えました。彼は、「キリスト教礼拝には説教と音楽とを同じ程度に必要とする」と考え、礼拝の音楽をよくすればする程、神様に栄光を帰することが出来ると信じていました。こうして彼が書いた讃美歌は600種にのぼり、曲の方は1000曲を越え、ニューヨークに住んでいた40年間に50種類にのぼる讃美歌集を世に送りました。

アメリカ讃美歌史上ロウエル・メイスン、ウイリアム・ブラードリー、トーマス・ヘイスティングスの三人は、最も重要な讃美歌界のパイオニアとして尊敬され、また仰がれるようになりました。

1945年版の讃美歌にはヘイスティングスの歌詞のものが二つあります。それは216番の“ああうるわしきシオンの朝”と葬儀の時に歌われます473番の“とうときわが主よおもいは尽きぬ”であります。また、曲の方では7つあります。その中で一番よく歌われていますのが541番の頌栄“父み子、みたまの”でありましょう。

384番ARCADIAは明治時代からキリスト者の愛唱歌の一つとなってきました。

<384>

 1 我こそ十字架の つわものなれ

   争(いか)でか恥ずべき イエスの御名を。

1節では、十字架の兵士(主イエス・キリスト信じ、主に己れをささげた者)である私たちは、どうしてイエス様のみ名を恥じたり辱しめたりすることができるでしょうか。むしろ、十字架の兵士、信仰の勇者は主イエス・キリストのみ名を崇め、誇りとして、勇敢に信仰の戦いをたたかうべき者であると歌っています。

これに関連して、イエス様の警告を覚えなければなりません。それは、ルカの福音書9章26節の「もしだれでも、わたしとわたしのことばを恥と思うなら、人の子(イエス・キリスト)も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときは、そのような人のことを恥とします」というみ言葉であります。

否、むしろ十字架の兵士は使徒パウロのように「私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ローマ1:16)と告白するものであります。イエス様とそのみ言葉とを恥とすることなどできません。あなたもこの十字架の勇敢な兵士となってください。

 2 わが主の軍(いくさ)の さきがけして

   血の海こえゆき 友は勝ちぬ。

2節では“わが主の戦の先がけとして、血の海を越えて信仰の勝利”を獲得した殉教者のことを歌っています。

まことの信仰の戦いは、いのちがけのものであります。私たちの主イエス・キリストは私たちの罪のために十字架につけられて血を流して、ご自分の死をもって私たちを贖ってくださいました。私たちは この主の弟子として罪の世、闇の世にあって光を放ち、地の塩として歩みますなら、光を嫌う者から迫害を受けうけるのは、当然ではないでしょうか。イエス様は「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:10)と力づけてくださっています。

私たちも初代の使徒たちのように「使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら・・・」(使徒5:41)と言うように、  主のために受ける迫害は光栄あるものとして喜ぶ者となりたいものであります。

 3 いかでか我のみ 花の床に

   うましき夢路を たどるべきか。

3節では、キリスト者は誰でも、ただのんびりと夢路をたどるような生活をしてはいけないことが強調されています。信仰生活はどこまでも悪との戦いですから、たえず目をさましているべきです。 

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っています」(Ⅰペテロ5:8)というみ言葉に耳を傾けていただきたいものです。

 4 み旗をかざして いざ戦わん

   なびかぬ仇なき この御旗を。

4節ですが、この日本語の翻訳は5節と共に素晴らしいものと言えます。それは、原作で作詞者は主にこの世では信仰の戦いを中心にして歌っているからです。また、この世での私たちの罪との戦いの武器として、神様より勇気と助けとを乞い願うと共に、み言葉に支えられつつ、どのような苦労、どのような苦しみにも耐え忍んで、戦い抜く信仰者の姿を歌い上げています。この姿こそ神様からの恵みのしるしと言えるものと信じます。

日本語の訳では、分かり易いたとえをもって、この世での戦いを、イエス様のみ旗のもとで戦っている者ですから、あらゆる仇にも打ち勝つことができ、勝利は決定していると歌うのです。私たちもキリストのみ旗のもとに立って信仰の戦いを戦い抜くものになりたいと思います。

 5 栄えにさかゆる わが主イエスよ

   世を統べ治むる 勝ちはちかし。

5節では、キリストの再臨について歌っています。イエス様ご自身が語っておられます。「そのとき人の子(イエス)が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。・・・すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます」(マタイ24:30~31)。

では、その時とは、いつであろうか。その日は‘近い’のです。その日、その時のいつかは誰一人わかっていません。しかし、近いのですから、また、確実ですから「目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないのです」(マタイ24:36,42)と言われていますように、選びの民、信仰の勝利者としてみ前に立ち得る者とあなたもなってください。

 

ビルマ 戦犯者の獄中記(74) 遠山良作著

昭和23年1月2日

 ―ビルマ管理下の刑務所生活―

 ここラングーン中央刑務所に監禁されている囚人の待遇は、社会的地位、財産の多寡等によって、ABCに区分されている。英国植民地時代の名残かも知れない。Aクラスは最高の取り扱いを受け、当番もつけられ差し入れも自由である。この一人にボヤナイ大佐(日本軍当時の首相バアモー博士の娘婿)が政治犯で監禁されていた。

 Bクラスの食事は白米で毎日魚又は肉類が支給される。

 監禁されている囚人の90%以上はCクラスで主に強盗犯である。彼らに一日2回支給される食事は赤黒い玄米飯で、外部では牛や豚に食わせる最悪の米である。副食物として週に1回(金曜日)だけ親指大の豚肉が1片支給される他は毎日豆と野菜汁のみである。

 われわれ戦犯者はCクラスであった。食べたことのない玄米飯と豆と野菜汁の食事のため、胃腸障害を起こし、体に不調を訴える者が出だした。当局に待遇の改善を申し出たが、所長の権限外のこととして拒否された。こんな食事でも食べなければ死んでしまうのが獄生活である。こんな生活が数か月続いた。

 ある日、ビルマ政府の司法大臣がこの刑務所を視察に来たことがあった。彼はわれわれに要望事項の有無を問うた。われわれは「是非全員をBクラス待遇に改善されたし」の旨を要求した。彼は直ぐその日から准将以上をBクラスにすることを許可してくれた(その後漸次全員がBクラスになった)

 ビルマ当局は所長以下、日本人に対して実に友好的であった。所内にある二百坪くらいの畑の耕作を許可し、そこで収穫した野菜は自由に使用することを認めてくれた。灼けつくような炎天下で作業する一般囚人は裸足で帽子すら被ることは許されないが、われわれには靴、帽子、半ズボン等支給してくれた。

所内での行動も自由で、幾つかある棟から棟を通過する出入り口には看守がいて用件のある者以外は通ることは許されないが、われわれのみ検査もなく自由に出入りすることが出来た。一般囚人の起居している房は一部屋に40人位入っているが、50人足らずのわれわれには4部屋与えられている。

 作業は木工班、事務室勤務、農作業(自分たちの副食にするため)、炊事班(自炊のため)に分かれているがすべての作業場に監視員はいない。すべて自分たちで計画し作業するのである。

 このような寛大なビルマ当局の好意に報いるべく、時には2時間の昼休みすら返上して働いた。彼らには奇異の目でわれわれの行動を見つめ、信頼の度を深めた獄の生活である。

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・53・・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・7・・

答・・20 わたくしが幼稚園児であった時です。先生が部屋の中に入ってきた時、紙くずが床一面に散らかっていました。先生は厳しい顔つきで「こんなこと誰がやったのです?」とみんなを睨みつけました。誰も何も言いません。沈黙の時間が流れました。すると一人の園児が身をかがめて紙くずを拾い始めました。「あなたがやったの?」と先生が問いました。彼は一言も答えず、黙々と紙くずを片付けました。「しょうがない子ね。今度やったら承知しないわよ」と言って、彼を叱りつけました。

 わたくしは、やったのは彼でないことは知っていました。彼がそんなことをするような子ではないことを知っていたからです。恐らく先生も彼がやったのではないことを知っていたと思います。しかし、なされた結果については厳しく咎めなければなりません。そうでなければ、先生が平素から注意していることが、どうでもよくなってしまいます。だから厳しく咎めたのだと思います。わたくしは、その時、彼にちょっとした嫉妬心を抱きました。

 わたくしも一緒に片付けに加わっていたらちょっとカッコよかったなと思いました。しかし、わたくしは見ているだけで何もしませんでした。ほかの連中も皆そうです。しかも、紙くずを蒔き散らした子に「やめろ」ときつく制止する子はいなかったのです。更に悪いことには、その子が紙くずを蒔き散らすのをはしゃぎ立てた子もいれば、黙ってみていた子もいたのでした。そういうことから言えば、全員がられて当然だったと言えます。が、実際には紙くずを万座の中で一人かがんで拾い集めた子に、集中的なお叱りが下ったのでした。

 キリストは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちのやっていることがわかっていないのですから」と言って、自分を十字架につけて殺す側にいるすべての人のために、神からの赦しを求められました。本来、許しを求めなければならない側の人間の無頓着さを担って、自分の命をかけられたのです。

 罪に対するものは何であっても赦しはありません。罰せられて初めて赦しが成り立つのです。その意味では、キリストが十字架の上で父である神から見捨てられたのは、すべての人が受けるべき神からの遺棄という罰を、代わって担われたということが出来ます。キリストによって代罰、代苦ということが成し遂げられたことによって今やすべての人が神に赦された者として、キリストが神の子であられたと同じように、神の子として遇されるという恩恵に与かることができるに至っているのです。

 この事実を贖罪と言い、このことによって得られたことが「神との和解」と言われていることであります。ですから、このことを信じている者はすべて「天の父なる神様」と言って、まるで子が親に向かって言うように語りかけることが出来る者とされているのでありまして、これが「神なき世界」からの解放であり、救いであります。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

<2017年5月のラジオ放送予定>  

  5月 7日 横山良樹   (日本基督教団半田教会牧師)

    14日 横山良樹   (日本基督教団半田教会牧師)

    21日 西村 清   (中部教区巡回牧師)

    28日 西村 清   (中部教区巡回牧師)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

第78課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・26・・・

B キリスト者の市民的義務・・・12・・・ 

       13:1~7・・・11・

「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・3・・

 「だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの仕事に携わっているのである」。(5~7節)

 「彼らは神に仕える者として、もっぱらこの勤めに携わっているのである」(6節)。

 ここで国家及び為政者たちは正当な機能を忠実に果たすことにおいて、神に仕えるのです。国家は彼ら為政者たちのためにあるのではなく、また政府も国家のためにあるのではありません。両者とも神のために存在するのです。この事は肝に銘じておく必要があります。

 数多くの全体主義国家においては、官僚たちは極度に傲慢で尊大になってしまっており、その結果、小役人でさえもが傲慢かつ尊大な態度をとり、あたかも彼らが一般の人々に対して大きな恩恵を与えて、生存させてやっていると考えているかのようです。

これらの全体主義国家においては、役人たちは、国家は国民のためよりも彼らのために存在すると考えやすいのです。彼らは公共のために奉仕しようと努める代わりに、公共が彼らを支え、彼らに奉仕するために存在すると錯覚してしまうのです。このような考え方は完全に誤っています。

政府と役人は人々の利益のために存在するのです。彼らは神の僕であって、人のために存在するものです。このことは民主主義国においてのみでなく、いかなる政体の国についても真理でなければなりません。パウロがこの書を書いたとき、ローマ帝国は決して民主主義の国ではありませんでした。しかし、それにもかかわらず、為政者たちは民の利益のために働く神の僕であると、パウロは述べています。

為政者たちが神に仕えるという自覚を持っていない無信仰の人たちであったとしても、神のみ心においては、彼らは人間社会における神の御目的のいくつかを達成させる神の僕であると考えられるのです。非キリスト教国家の非キリスト者の為政者に対する時でも、キリスト者は神のこの観点から事柄を見なければなりません。

キリスト者は、為政者たちは悪を抑制するために存在させられているのですから、非キリスト者役人たちでも、その不信仰にもかかわらず、神によって神の御目的達成のために用いられているのであると考えるべきです。キリスト者は政府を政府そのものとしてではなく、人間社会における神の御目的達成の手段と言う観点から、聖書が見ているように政府を見なければならないのです。

「あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果たしなさい。すなわち、貢を納むべき者は貢を納め、税を納むべき者は税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい」(7節)。

為政者たちは人間社会の利益のために神に立てられているのですから、私たちは当然、彼らに対して義務を果たさなければなりません。このことはただ法律を守るというだけに留まるものではなく、もっと積極的に、経済的にも、また私たちの影響感化によってでも、彼らを支え、支持してゆかねばなりません。

ここでの「貢」とは不動産などに対する税を指し、「税」とはいわゆる「税金」のことです。また「恐れ」と「敬い」とは、程度の違いはあっても、「恐れ」は目上の者に対する特有の尊敬を表し、「敬い」は同等の者に対する適切な敬意を表す言葉です。 

J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

 

    ほっとひととき『みんなのコーナー』

 ☆ 病弱のわが子の保育園入園式には私たち夫婦と看護師さんも来てくださいました。ほんとに病院で育った娘・・・。体も小さくて、見ている私たちはハラハラでしたが、本人は嬉しそうでした。やっとここまで育ちました。神様のお守りと皆様の温かいご支援でこの日を迎えることができました。これから何が起こるかわかりませんが、心から感謝いたします。 鹿児島県 M・Nさん 

 ☆ 桜も終わりよい季節になりましたが、主人の体調は良くありません。この時期の健康管理には注意しているつもりですが、本当に難しいです。主人は高血圧で昨年も入院でしたから、どうぞ皆様もくれぐれもご自愛ください。 静岡県 T・Tさん

 ☆ 一度、訪れたいと思っていた美馬市(徳島県)の「うだつの町並み」に心奪われてしまいました。「藍」の集積地として繁栄した藍商人たちの家の勢いを誇った「うだつ」。隣家との延焼を防ぐのと富と繁栄をあらわしている心意気を感じました。楽しい一人旅でした。 兵庫県 Y・Kさん

 ☆ 花の季節になりましたが、私には花粉症と神経痛の季節で、毎日、お花見気分にはなれません。手提げにはポケットティッシュがたくさん入っていて、小銭の財布を取り出すのに、ついイライラしてしまします。徳島県 K・Mさん

 ☆ 桜がここ2日位で咲いてしまいました。我が家は空豆の花がいっぱいです。今年初めてこんにゃくを芋から作り美味しいと思いました。沢山出来たのでご近所にも配り喜んでもらえました。もう一度、作らないといけないのです。何種類かの作り方があることも知り、次回は母の作り方でしてみようと思っています。今日から雨が続くみたいですが気が重いです。引きこもり生活が続いているので天候なんて関係無いように思われますが雨だと身体が重いのでしんどいのです。掃除、洗濯・・・・。ああ嫌だ!! 奈良県 T・Mさん

☆ 春爛漫の日和となりました。でもまだ桜は花開いてくれません。固いつぼみがほのかにピンク色を出していますから、今週末には花を開かせてくれることでしょう。夕方の散歩では、白木蓮が満開に咲き誇って目が釘付けになりました。田んぼにはピンクのれんげ、すかんぽ、紫のスミレがあちこちに咲き出して楽しませてくれています。春はお花がいっぱいですね。野の花を見ているととても励まされ、気持ちまでが明るくなってきます。 宮崎県 T・Pさん

*********

 Δ こんにちは。いつも「ジャーナル」読んで、励ましをいただいております。今日は晴れで嬉しいです。でも、長く寝たので体のあちこちが痛くなります。私はシェーグレン症候群(膠原病と橋本病の3つの病気がありま)で、今はあごが腫れてはずかしいです。一人で生活していますので、恥ずかしいのですが、部屋は汚れ放題になってしまいます。何日も続く痛みで、何もできないのです。「美しい朝」さんや、「世田谷通信」さんの言葉に慰められました。今言われているセルフ・ネグレクトではないのですよ。できないのです。

Δ 主人が仕事の疲れで鬱病になり、在宅治療中です。あんなに仕事が楽しいと言っていた主人、気の毒です。定年まで数年あります。子供たちもそれぞれ自立しましたので、早目の退職でもいいのよと言っています。

Δ 持病になってしまった股関節の痛み辛いです。車椅子生活にならないように安静にしながら、動いています。今は、50肩(60肩?)で寝返りで痛みを感じ目が覚めます。朝方ならいいですが 夜中ならそれから眠れず大変です。痛い所があるだけで 滅入ってしまいます。・・・。

Δ 中3の娘がまた友達の家に泊りに行きました。夜勤の多い生活で、申し訳けないが精いっぱいだ~。わたしの中3時代とおんなじだ・・・。母親になんてなれないよ~。母親知らないんだから。今仕事中・・・。時間があったのでまたメールしちゃったよ。返事待ってるね・・・。

*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております* 編集子

 

  

  『ありがとうございます』

あちこちの団地のベランダに鯉のぼりが5月の風を待つように右に左に泳いでいます。古い団には色とりどりの洗濯物、新しい高層マンションは鯉のぼり・・・。不思議な感じがいたします。数年前までは1~2クラスの小学校が急に生徒数が増えてクラス編成が急務とか。街の様子も学習塾と開業医と手造りのパン屋さん、コンビニが多くなります。人はいても人とのつながりのない地域が出現します。バス停の人の顔は時間帯で決まります。動いているようで固定しているのを感じます。これが名古屋市名東区にある「つのぶえ社」の今です。

2017年3月16日から2017年4月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者

佐藤のり様 西口義昭様 馬場暁美様 宇佐神正武様   様 

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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