2019年5月  №142号 通巻827号
「つのぶえジャーナル」へようこそ
涙をもって種まく者は、
     喜びの声をもって刈り取る。 詩篇126:5
 

  今月のことば

 

 わたしは確信する。死の生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

         =ローマ8:38~39=

 

<149>

 1 とこよにわたりていわえ、 主はよみがえりたまいて、

   よみのとびらをうちひらき、 主イエスは死に勝ちましぬ。

 3 死に勝ちたまえるイエスよ、 み名をたたうるわれらを、

   とわにつきぬいのちもて、 主イエスは死に勝ちましぬ。 
                                          アーメン

 

キリストにあって示され、人々の前に現われた復活の朝、完成された救いは、神ご自身のように完全であります。十字架に頼る罪人をとられている愛のみ手は、すべてに勝って強く、誰もそのみ手からキリスト者を奪い取り、引き離すことはなく、出来ないのです。本当に弱き私たちキリスト者は、この救いの恵みによって強くされ、不安なものが安全にされ、悲しむ者が喜びへと確かに導くのであります。

 

嵐が激しさを増すにつれて、錨は砂に深く食い入って、しっかりと船をつないでおくように、この世にあって神の子供は、困難や危険が最も多く激しい時に、救い主に最も近く、依り頼むのです。人は、見えるものに頼り、自分自身に頼る者ですが、主に信頼する者は、その信頼がむなしく、決して恥ずかしめられることはありません。

 

私たちの周囲に、嵐は激しく吠えたけり、悪の力は私たちを追い求め、病気、貧困、辱め、恥辱が私たちの心に、信仰につきまとう時でも、何物も主のみ手にある者を害することはできないのです。神への信頼は闇が光となり、希望となるのです。

 

「心をつくして主に信頼せよ、

    自分の知識にたよってはならない」(箴言3:5)。

 

「主に信頼する者は、動かされることなく、

    とこしえにあるシオンの山のようである。

 山々がエルサレムを囲んでいるように、

    主は今からとこしえにその民を囲まれる」(詩篇125:1~5)。

 

   小閑記

 

 わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。

               =マタイ4:19=

 

 多くのキリスト者は、神のために何をしているか、何をしてきたかと考え、それを生涯の重荷と感じてしまうことがあります。

 母親は、毎日毎日、また来る日も来る日も、来る年も来る年も、ある場合にはそのほとんど一生の間、洗濯をしたり、料理をしたりして、一日を終わっても、その働きの評価、結果は数値では見られません。

いろいろの職業があります。事務の仕事は書いたり、帳簿を付けたり、工場で働く人は機械に着き、決まった工程の仕事をし、農家の人は畑や森で働いています。単調で、日常的なその働きが神のために何の結果があるのだろうかと思う時もありましょう。しかし、その一つ一つは小さいものでも欠くことの出来ないものです。「労働は神礼拝」そのものなのです。

 

 冒頭のイエス様が言われたことを、考えてみましょう。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。

 このみ言葉は12弟子に特に適用されたものですが、イエス様に従う全てのキリスト者は、世の中で、どのような地位や職業にあっても、人間を漁る漁師になることは、全く真実です。

 

神の国においての問題は、私たちの性質の問題です。もし私たちが、イエス様のみ旨を第一として生き、働くなら、私たちは、このイエス様に従うのであり、主は私たちを人間をとる漁師にしてくださるのです。これは決して間違いのないことです。ただ、宣教師、牧師、あるいは説教者のみが人々を神のもとに連れてくることが出来ると考えることは、神様のみ旨ではありません。

 むしろ、日々のその為すことにおいて、救い主を証ししていることに感謝を覚えるとき、そこに、ついていく「献身の思い」があるのです。

 

「・・・あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。・・・自分の益ではなく多くの人の益を求めて、・・・」(Ⅰコリント10:31、33)。

 

 

世田谷通信(188

猫草

 

ビブリオバトルなるものが各地で開催されている。バトルと言っても武器で戦うわけではない、簡単に言えば本の紹介合戦である。

一人1冊ずつおすすめの本を持ち寄って、一人5分の持ち時間で紹介をする。その後質問タイムを経て、全員の紹介が終わったら、どの本を一番読みたくなったか投票する。一番になった本を紹介した人が優勝というわけだ。

これを小学校でもやっていたので、参加させて貰うことになった。子ども相手では大人げないので、戦う相手は先生。投票は子ども達だ。

私が紹介しようかなと思う本は「子ぎつねヘレンがのこしたもの」(竹田津実、森の獣医さんの動物日記:偕成社)である。この子ぎつねは北海道の道ばたにじっとしている所を保護され、獣医である著者の所に持ち込まれた。目が見えない、耳も聞こえていないのはすぐに分かった。さらに嗅覚も、どうやら味覚もないことが分かる。味覚がないので、どんなにおなかが空いていても、口に入れられたものが美味しい食べ物だという判断ができない。砂を口に入れられたようなものだ。だから食べ物を受け付けない。ヘレンケラーから名前をもらってヘレンと名付けられた子ぎつねだが、三重苦どころではない状況である。

野生動物の飼育は禁止されている。なので、治療しても野生に戻せない場合、獣医の判断は安楽死である。生きる価値のない命ということだ。しかしこの獣医師と奥さんはこの重い障害を抱えたキツネに向き合い、介護を続ける。常に安楽死との葛藤を抱えながら。

この命を生かすことに意味があるかわからない、それでも最善を尽くす。よい結果が出るかわからない、うまくいかず落胆することの方が多い。一歩の前進より大きな後退を味わう。諦めそうになる、それでも試行錯誤を繰り返す。そこに命があるから。ほんの一握りでも希望があるから。そして、小さいけれど確かな奇跡がいくつも起きる。

子ぎつねヘレンが残したもの、とは何だろう。それはあなたが読んでみてほしい。そんな風にビブリオバトルで紹介してみようかな、と思う。

 

   『美しい朝に』・・54・・

 

「朝の祈り 夜の祈り」

        J・ベイリー著

        新見  宏訳

 

 朝

  全能なる永遠の神よ。

  あなたはわたしの目にかくれていまし、わたしの知識をこえておられます。あなたのお考えはわたしの考えと異なり、あなたの道は、見出すことはできません。

 

  けれども、あなたはわたしのいのちに、み霊を吹きいれ、わたしの心を、あなたを探し求めるようにおつくりになりました。またわたしのたましいを、あなたを愛するように傾け、あなたのうちに平安を見いだすまでは、安らかにいることができないようにしてくださいました。

  わたしのうちに、地上のすべての喜びによってもたらされることのない、飢えと渇きを与えてくださいました。

 

主なる神よ、み名をほめ、あがめます。あなたが、こうしてわたしの内なる人にあなたのみしるしをつけ、わたしが貧しいあわれな自我にとじこもり、あるいは動物的な激情や欲望の支配するものとなることなく、あなたの永遠のみ国の世継ぎとなるように召してくださったからです。

 

わたしの心の扉をたたき、あなたが待っておいでになることを知らせてくださったことを感謝いたします。あなたのみ手は、わたしの生命を守り、たとえつまずき倒れても、なお足もとにとこしえのみ腕が支えてくださることを、たしかに知って感謝いたします。

 

この日、わたしの前に何が待っているかを知っておられるただひとりの主よ、片時もはなれずとどまらせてください。わたしがこの世の中にあり、しかもこの世のものでないように、この世を用い、しかも誤って用いることのないようにしてください。たとえ何かを買っても、それを所有しないものの如く、また、何一つなくとも、いっさいのものを所有る者のようにしてください。あなたがわたしの人生に求められるみ心にそむくことをすることがありませんように、また、あなたのみむねの命じる犠牲を避けることがありませんように、たえず、わたしの心に語りかけ、みちびいてください。

わが主キリストのゆえに。   アーメン

  

 夜

  主よ、あなたの目には、あらゆる人の魂はあらわれて隠すことができません。どうかわたしがきょうなした事、心にいだいた思いを何一つ隠そうとすることがありませんように。他の人にはいつまでも隠さねばならないことでも、いまみ前に告白することができますように。恥のゆえに思いとどまることなく、犯してしまった罪を、いまみ前に、あらたまった恥のゆえに包み隠さすことがありませんように。

 

 主よ、あなたのあわれみは、あなたのつくられたすべてのものに与えられます。わたしはへりくだり、悲しみをもってこの日のもろもろの罪のゆるしをこい求めす。

 わたしが心にいだいた弱い、汚れた思いについて、

性急に、また感情に駆られて語った言葉について、

自制心を失ったことについて、

行動や実例をもって他人の道につまずきをおいたことについて、

機会を与えられても応じなかったことについて、

賜物を感謝しなかったことについて、

 さ迷い歩く足と、決心をひきのばす意志について、

 ・・・について、・・・について、そして、・・・について。

 

 どうか、日がたつにつれて、み霊がいよいよわたしの魂を支配し、これらの罪と、ほかのあらゆる罪とに打ち勝たせてください。

 

 聖なる父よ、すべて、わたしの親しい人びとと、ことに・・・、ことに・・・とを、あなたの愛のみ守りに委ねます。わたしが運命を共にするすべての人びとを祝福し、彼らにあなたの臨在と力とを十分に知らせてください。

 危険にさらされている者や落胆している者すべてと、こよいともにいてください。痛む魂の内に、悩む家庭の中に、苦しむ病床のかたわらにいて、あなたの平和の賜物をお与えください。   アーメン  

 

 『その愛のゆえに』

   =時々の記=

    (157)

315

 奈良の東大寺のお水取りが終わると、関西に春がやってくるといわれています。甲子園の選抜高校野球も春を運んできます。仲良しのお散歩友達との時間が毎日少しずつ長くなってきています。始めは5分ほどでしたが、今は10分程に伸びてきています。坂道を3往復するので息が切れてきますが、体はポカポカしてきますから、とても気持ちがよいのです。歩きながら苦労したことを話し合って、励ましあっています。歩いていると、黄色のラッパ水仙がもう咲き始めました。黄色というのはとてもインパクトが強くて、春を感じさせてくれる色ですね。

木片の風蘭つりぬ店の春。

神野山(こうのやま)明るき池にぬなは生ふ。(山添村の標高が600メートルほどある山です)     馬場路哉

320

 暖かい一日となりました。お変わりありませんか?私は体調を崩して上野まで診てもらいに行きました。多くの人たちが待っていて、午後3時に入ったのに待つこと2時間あまり。丁寧に血液検査をしてくださいまして、その結果もすぐに教えていただいて、今のところはさほど心配する必要はないとのこと。ほっとして帰ってきましたが、どうも寒気が取れません。熱を測ってみると37,6度ありました。静かにして休みました。

 おもむろに梅の花散り春惜しむ。

しもつけの針のごとくに芽吹きをり。

風力の発電並び春はやて。

麦青しモクモクファーム近づきて。

裏道におきの如なる落ち椿。    馬場路哉

324日 

今朝は熱が下がっていたのでいつものように台所に立つことができました。もう何が起きても不思議ではない年齢ですから、覚悟はしています。そして診察室の前では神様もう少し生かしてください、とお祈りしてしまいました。主治医の先生曰はく。肝機能が弱っているようなので薬で治す必要があるとのこと。お薬手帳に何やらたくさんの名前が張られました。

光たる畦とはなりぬ春の泥。

穏やかや葛城、金剛春霞。

遥かなる吉野の嶺に春の雪。

黄梅の星のようにて散ってをり。

石垣の馬酔木の白き夜明けなる。    馬場路哉

329

 いよいよ、主人も後期高齢者です。役場からその書類が届きました。13年前の大病から今まで支えられて、生かされてきましたことに心から感謝いたします。大病でしたから、3か月が節目でした。ハラハラドキドキしながらの検査結果を待ちました。半年後に再発。放射線治療による影響で骨がもろくなったのでしょう。退院してきた途端、骨折です。三重大学病院での入院病棟があまりにも急なことで空きがなく、自宅でギブスをはめないまま車いすを使うことができずに不便な生活を強いられての3か月。

13年たった今。主治医の先生は転勤され、また病院はリニューアルされましたが、当時を思い出すこの頃です。神様の憐れみと恵みによってここまで生かされたことに改めて感謝した一日でした。

誕生の今年も梅の満開に。(主人は3月29日が誕生日です)

骨折の癒えて媼の耕しぬ。

荒畑にて摘みにけるフキノトウ。

高台に望みぬ伊賀の春ともし。

さえずりの一声山の朝餉かな。    馬場路哉

我が家では息子が新元号がどのようなものに改まるかと話しかけてきます。

中国からの古典からのはずだとか、スマホを見ながらその日を楽しみにしているようです。お散歩友達はまだ同じ平成でよいと言い張ります。10人10色と言いますが、いろんな考えを皆持っているのですね。

46

 春爛漫の一日です。こちらは桜も満開になりました。薄いピンクの花びらが愛らしくて見入ってしまいます。桜の命は短いのですが、だからこそ一層今のうちに満喫しておかないとという気持ちになります。

過疎の村光放つは花ミモザ。

ま輝く朝の空に初ツバメ。

おぼろ月永久の命はあると聞く。

水色を着るリハビリに春日濃し。

オキツモの名張の川の桜かな。   馬場路哉

今を大切に生きている桜の花に感謝しながら散歩しています。

48

 統一選挙が終わり、選挙カーが鳴り響かなくなり、とても静かになりました。

奈良県は古い県ですから、やはり高齢者でも自民党が圧勝いたしました。

主人は久しぶりにリハビリを兼ねてウォーキング仲間と山添村を散策に出かけました。気分転換、というか、リフレッシュを兼ねているようです。子供と同じで、前の日から持ち物を準備してうれしそうに出かけました。少し風がきついので大変でしょうが。

父の里笠取山に風光る。(主人の父は大山田村からきてくれました。)

麦青し信楽の山麓なる。

つくばひの一寸光るは薄氷。

暁の薄紅に冴え返る。    馬場路哉

昨日は第一週でしたので、主の日の礼拝に出て、聖餐の礼典にあずかることができました。イエス様の流された血潮、裂かれた肉を葡萄酒とパンをもって思いを新たにいたしました。心から感謝しました。

418

 卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きて”の歌詞にあるように、初夏の陽気です。まだホトトギスの鳴き声は聞こえませんが、でも、気温は高くなり、空を見上げると雲一つない青空です。寒いといっていた昨日までとは一変です。

これでは高齢者や弱い方たちは、とても気候になじむことができませんね。

四季があり、ゆっくり移り変わっていた日本の気候が変わりつつあり、激しく、急変です。

主人に上野でお花を買ってきてもらいました。なんとアジサイの花の鉢植えです。我が家の庭のアジサイはまだ新芽を出し始めたばかりですのに、店先には満開のアジサイの鉢植えが並んでいるのですね。少し早いアジサイの花ですが、うれしいです。大切に育てて、また庭に植え替えて楽しみます。犬たちがいなくなった我が家はお花が大事なお友達となっています。

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

 

  眸(ひとみ)・・98・・

 

☆ 保育園で働いてもう30年近くなりました。卒園した園児も今は父になり母になって子供を連れてきます。もうそろそろ退職をと考えながら、新しい園児の名前を一生懸命覚えようと頑張って?います。だんだんと足腰が痛くなってきました。 千葉県 T・Mさん

 

☆  3月号の「世田谷通信さん」の名刺の投稿に触発されて、営業用ではない、「マイ名刺」を作ってみました。裏にはメモ書きできるようにして、趣味なども書き添えてみました。少し恥ずかしい気もしましたが、名前よりも裏メモが好評で、ああら~私と同じ趣味だったのねと、一層親しくなりました。住所なしで、メールアドレスだけにしました。悪用防止のためと適当な距離感を保つためにしましたので・・・。「世田谷通信さん」を利用しましたのでお礼と報告です。  福岡県  AAさん

 

 動物の性格は飼い主に似るとよく言われますが、太り気味の私にだんだん似てきました。皆さんとお話しするのが好きな私の性格か、捨てられていた子犬の「ミミ」も、最初はとても警戒心が強く、臆病でしたが、今はご近所さんに可愛がられています。道端に咲く草花の匂いを嗅いではくしゃみしています。花粉症?かなあ・・・。犬にもアレルギー対策の方法ってあるのでしょうか。わたしは違いますから、ここだけは似てほしくはありません。 群馬県 NRさん

 

☆  わたしの家は三代続いている魚屋です。今は魚だけではなく野菜やインスタント食品も置いています。それはこの地域は高齢者が多く、日常の生活に少しでもお役に立てるならと考えて始めたのが今から20年近く前のことです。今ではそれが重宝がられています。山間の田舎町での小さなお店ですが、買い物に来られた方が遠慮なく世間話ができるようにと、主人のアイデアで店先に腰を掛けられる長椅子を置きました。暖かくなるとにぎやかになるのですよ。わたしもそのお仲間の一人にさせてもらっています。ここは高齢者の孤立化など、わたしのところにはありません。わたしはまだまだ60代ですが・・・。 京都府 OSさん  

 

☆ 看護師の試験に合格して希望していた町の病院で働いて3年目になりました。子供のころからの希望は町の病院で働くことでした。祖父母や両親、家族みんながお世話になっていたからです。まだまだ未熟ですが、卒業した学校の先生から研修の案内をいただいて、できるだけ参加してきました。大病院と違い広い知識が求められるからとの院長先生のご理解でそうさせてもらっています。

この私の病院は、午後からは在宅の方々のところに出かけることにしていて、緊急の場合に備えて院長先生は大きな病院と連絡を密にしています。ですから、勉強はおろそかにできないと思っています。XXXちゃん、元気だね。大きくなったね、の言葉に毎日励まされています。地域医療は、私のようなものでもお役に立てるのが誇りです。 広島県 T・Mさん

       

<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子

 

十戒と主の祈り

             鈴木英昭著

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

=主の名=

  第三戒③・誓い

       創世記31:43~54、マタイ5:37

 「主の名をみだりに唱えてはならない」という第三戒に関して、ウエストミンスター大教理問答の問113は、誓いについて教えています。この点について第三戒を考え、聖書が教えていることを学んでおきましょう。

 普通、誓いには、自分が真実を語っていることを主張する意味で誓う誓いと、何かを約束するためにする誓いの二つがあります。前者は自分の証言が神の名にかけて真実であると誓います。証言を受け入れてもらえないとき、あるいは相手や人々に受け入れようとする意志が初めからないとき、神様に証人となっていただいて誓うために、「そこまで言うのなら」ということで、何らかの前進が見られるときがあります。これを「主張としての誓約」(assertory oath)と言います。そして、後者のように約束としての誓いをする場合、例えば、洗礼式での誓約や、教会役員の任職式・就職式での誓約のように、その職務をこれから果たすことを誓う場合を「約束としての誓約」(promissory oath)と言います。

 

 創世記の31章に記されている有名な実例として、ラバンとヤコブとの間の誓いがあります。ヤコブがハランに滞在していた20年の間に、伯父ラバンはヤコブの結婚相手となる自分の娘のこと、ヤコブの財産となる羊のことで、ヤコブと結んていた約束を破りました。そういう意味で、ヤコブにはラバンに対する不信感があったわけですが、自分の妻の父親であること、父の下に滞在していた間に、妻たちを与えられ、子供たちが与えられ、多くの羊や家畜が増えて財産を持つことができたことを思うと、約束の度々の不履行に悩まされはしたものの、耐えてきたのでしょう。ヤコブ自身が兄エサウを騙して、父の祝福を兄から奪ったことも、ラバンに対して忍耐を可能にしたのかもしれません。

 

 ラバンは自分の守り神の偶像を、ヤコブが盗んでいないのを認めると(事実は彼の妻ラケルが盗んでいて、ラクダの鞍の下に隠し、その上に座っていた)、ヤコブとの間に互いの不可侵と、ヤコブがラバンの娘である妻たちを苦しめないためのことを約束させています。これが約束の誓いの実例で、平和を得るための一つの手段となっています。

 

 前者の真実を誓約することに関して、主イエスが山上の説教の中で、「一切誓いを立ててはならない」と言われたことが誤解されて、誓いをすることそれ自体を拒否する人々がいます。この主イエスの言葉と同じことを、主の兄弟ヤコブもその手紙の512節で、こう述べています。「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません」。これについては、次回で学びますが、なぜこのように語る必要があったかが分かると、よく理解できます。主イエスは誓いをすべて禁じたのではなく、誓いは、特に教会において、「然りは然り」、「否は否」(5:37)とはっきりするように言われたのです。平和や秩序はこうして保たれるからです。

 

第三戒④・世俗の誓約

       創世記31:43~54

 前回は、山上の説教やヤコブの手紙に教えられている「誓ってはならない」という、誓いに消極的な教えは、誓いそのものを否定しているのではなく、「然り、然り、否、否とせよ」ということで、不誠実な誓いを禁じていることを学びました。というのは、天や地やエルサレムなどを指して誓ったことは、果たす義務はないというようなことが教えられていたからです。

 今回は、キリスト者とキリスト者でない人々との間の「誓い」について考えてみます。16世紀のアナバプテストのなかに、そして、現在でもルター派などの敬虔主義の流れの中に、あるいは長老派のなかにさえも、この世で誓約が求められるために、政治に関わることや、公務員になることに消極的なキリスト者がいます。

 

 しかし、どの国でも、国民は憲法に従う義務があり、同時に憲法が保障する権利を与えられています。その憲法の内容が誤っていて良心的に従うことができないなら別ですが、そうでなければ公共の益となることには市民として従うことを誓約しています。

 例えば、公共料金を支払ったり、選挙の投票に参加したりするのは、誓約を果たしている一つの姿です。病院に入院して、手術を受ける時、「誓約書」のようなものを書くように求められて、それに従うのも同じです。

 教会において、私たちキリスト者は神を証人として誓いますが、この世で世俗的な事柄について誓約するとき、相手が聖書の神を信じていないために、その相手とは誓約できないことを考える必要はありません。聖書にはこうした場合にも誓約がなされなければならないことが幾つか記されているからです。

 例えば、読んでいただきましたヤコブとラバンの誓約は、それぞれの神を指してなされていて、同じ神ではありません。ラバンが偽りの神の名によって誓約していますから、そうした罪はありません。しかし、誓約したことの内容を守る責任は両者にあり、こうした誓約はこの世において必要なことです。

 キリスト者は世のものではありませんが、世に生きています。世から出て行くことはできません(Ⅰコリント5:10)。教会では不品行者とは共存できませんが、この世で不品行者や偶像礼拝者と共存することを避けることができません。

 大祭司カイアファが主イエスに向かって、「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と答えを要求した時、イエスは、「それはあなたが言ったことです。…」とお答えになり、御自分が審判者であるメシアであることを断言なさいました。ですから異教徒の前でも誓約することは必要ですし、それは義務です。 

 

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・18・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

9 RE・マカルピンの来日・・2・・

 

横浜に着かれた日は、肌寒いどんよりとした曇り日であった。そこにはバラ先生が若いマカルピン師とグリナン師を出迎えに来ておられ、開港しても桟橋のない横浜港は、はしけで上陸しなければならなかった。初めて人力車に乗ってバラ先生宅に着いたマカルピン師には、人力車は興味のある乗物で、東洋の国日本に着いた感慨を深くしたに違いない。また、まぶたに深く焼き付けられた富士山の雪をいただいた船よりの風景も、一生忘れられない思い出となったである。バラ先生夫妻や二人の令嬢の温かいもてなしに心も和んで、日本での貨幣の計算方法や郵便の出し方、品物の買い方など、早速勉強しなければならない仕事がたくさんあった。

日本の教会とミッションとの合同委員会での協議の結果、名古屋と高知が伝道地として候補に上げられた。数日後、横浜から船で名古屋へ、港から人力車で市中へと、不便な道中であった。広い尾張平野の大きな町であった名古屋には、バラ先生の伝道の成果で名古屋教会(現日本基督教団名古屋教会)が先年建設されたものの、クリスチャンホームは、一、二軒に過ぎなかった。名古屋の伝道計画をあれこれと考えながら、比較的信徒の多かった瀬戸の町もバラ先生や坂野嘉一牧師に案内されて視察した。

 

名古屋地方は仏教、とくに浄土真宗の盛んなところで、特に明治初年以来、文明開化と共に盛んになってきたキリスト教に対しては、激しい反感をもっていた。美濃、尾張地方は、安土、桃山時代、織田信長、豊臣秀吉の生まれた土地であり、信長の切支丹援護政策によって、岐阜、清洲、名古屋にはおおくの信徒が住んでいたが、徳川の天下になって、その幕藩体制と仏教国教政策から、キリスト教禁止による弾圧の迫害が行われ、名古屋の千本松原では三千の教徒が殺された史実があり、キリスト教邪宗観の強い土地柄であった。

さらにもう一つの伝道候補地の高知は、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の行われた地であり、自由民権の運動と共に新時代への政治に目覚めて、キリスト教受容の進取的気風が強く、すでに有力な政治家たちのキリスト教入信によって、教会建設も先年達成したところであって、他の宣教師の勧めもあって1886年(明治191月、高知県視察に赴くことになった。RE・マカルピン師はグリナン師とほかにミロル宣教師夫妻が同行、22日出発、26日火曜日午後高知に着いた(ミロル宣教師Miller Edward Rothesay184319151872年(明治55月に来日、米国長老教会宣教師)。

 

「キリスト教百話」

問25 キリストの再臨では「最後の審判」があることが信じられているのですが、それはどういうことですか。

答・・1・・

 前に聖書の中にあるキリストが語られた「タラントンのたとえ」の話を紹介しましたが、あの話に出てくる主人がもしあなただったら、あなたはどうするでしょうか。つまり、自分が遠方へ出かけるので、留守をあずける使用人に対してそれぞれ、五億、二億、一億という風にカネを預けておいて、相当期間を置いて帰宅した場合、その清算を求めないでしょうか。もちろんその金額が百円や千円単位のものであれば、預けるとかあずけられるなどということはたいして問題にはなりません。

 問題になるのは仇おろそかにはされないであろうと信じて、それを失ったら大損害を被るほどの大金を預けた場合のことです。帰宅したあなたは、必ずその清算を求めるでしょう。もし、あなたが帰宅後直ちに清算を求めなくても、預けられていた側からは、進んで清算結果を報告するでしょう。それが信頼に答える当然の姿勢です。いずれにしても清算をしないままで放っておきはしないでしょう。仮にもその相手から何の応答もないままで過ぎることがあったら「あれはどうなったか」と問いかけ、その結果、預けたことが何の意味も効用もなかったとすれば「もう君はわたしにとって無用な人間だから、どこへなりと勝手に出て行ってくれ」ということになりはしないでしょうか。

 

 以上の話は「もし・・・」という前提での話ではありますが、その前提は、あなたがことがらをうやむやにしないできちんと処理される方であると信じてのことであります。

 それで、もし、この前提が成り立つとすれば、一つはわたしたちの人生という実に貴重なものを神様から預かっている者としては「あなたの人生はどうであったか」と問われる時が来、そういう場に立たされるのは避けがたいことであると思われるのではないでしょうか。そして、そうであればこそ、この信頼と委託に答えるために人生を生かしたいと、願うのではないでしょうか。

 

 もし、あなたが、以上のようにではなく、事のけじめなどどうでもよいというふうに振舞っておられるなら、使用人もまたかなりいい加減にしか生きないでしょう。主人も使用人も、それっきりで終わりです。最後の審判なんかあり得ないし、問題とも思っていないでしょう。

 以上のことから言って、最後の審判ということは、わたしたちが、自分の人生というものをかけがえのない貴重なものとして、わたしたちの主である神様から、信頼されて、預けられていると信じ受け止めている者において、その人生の展望の中に入ってくる、必然的な視野というべきものであると言うことが出来ると思うのであります。

  篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・

元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

 

第89課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・43・・・

F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。

                  ・・・14:13~23・・・

 「それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい」(1416)。

 これは多分、強いキリスト信者に対して言われた言葉でしょう。そして良い事というのは強い信者たちの肉を食べる自由を指していると考えられます。だから、ここの意味は「それ自体は良い事であるあなたの自由を、悪とすることの機会としてしまい、自分の上にそしりをもたらす結果とならないようにしなさい」ということです。

 

 「神の国は飲食ではなく、義と、平安と、霊における喜びである」(1417)。

「これは抑制・忍耐・寛容を勧める新しい理由である。自由の行動を抑制しても、そこには、いかなる義務の原則も犠牲にされてはならないし、宗教にとって必須なものは何一つ無視してはならない。何故ならば、宗教は外に現われた行為にあるのではなく、聖霊の内的な恵みにあるからである。ある肉を控えることは罪を犯すことにはならない。だから、他人の益のために食べないことが必要であれば、私たちは食べないようにするべきである」(ホッジ)。

 

 旧約の儀式律法の下では、外的なものが強調されている。しかし、キリスト教は違うのである。神の国―その民の上に及ぶ神のご支配―は飲食のような外的なものにあるのではない。それは、み霊による義、平和、喜びのような霊的なものに存するのである。「これらの言葉はその聖書的な意味で解釈されなければならない。ここでパウロは、キリスト教の道徳性に存するとか、公正で平和を愛する明るい人が真のキリスト信者であるなどとは決して言っているのではない。そのように考えることは、このローマ書全体の論旨と矛盾するものである。義と平和と喜びとは、聖霊が生み出したものである。義は私たちを神の御前に立つことを得させるものである。何故ならば、それは神の律法の要求を満たすものであるからである。

 それは客観的と主観的の両面において、信仰による義である。平和とは神と人間、理性と良心、私たちの心と兄弟たちとの間の一致である。そして喜びとは、救いの喜びである。聖霊との交わりの中にある者だけが経験できる喜びなのである(ホッジ)。

   J・G・ヴォス著   

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

 

   『ほっとひととき「みんなのコーナー」』

 

☆ 田んぼの畦道には土筆がたくさん出ています。子供のころは母の味付けで食卓に出たものですが、私はあまり好きではなく、私の料理からは消えてしましましたが、ご近所の方が持ってきてくださいましたのでいただきました。あの独特の味に母を思い出しましたが、やはり苦手は変わりません。主人はお酒に合うとかで食べていますが・・・。 宮城県 A・Mさん

 

☆ 暖かくなりましたね。桜も花芽も少しずつ大きくなって来ました。さくらんぼの花ももう終わりになりましたね。伊豆の下田市では、桜は、終わったとか・・・。私は、種まきやジャガイモは植えました。我が家のシンビジュームも次から次に咲いています。近隣の方々にあげています。喜ばれています。沢山咲かすと来年咲かないから少し咲くといいのですが、今年は沢山花がついています。鬱の息子も最近は調子よくなりました。私達は、相変わらずぐうたらです。お祈り感謝します。 和歌山県 T・Mさん  

 

☆ 私たちに最初に子供が与えられた時、庭に木を植えることにしました。まだまだ寒い春先でしたが、お花屋さんの店先に可憐な小さな苗木があり、買い求めました。この木は成長するときれいな花を付けますよと言われたのが「雪柳」でした。3年目に二人目が与えられたので、お世話になっているあのお花屋さんに行き、同じ「雪柳」を買いました。今その二本の「雪柳」は私たちのもとを離れて、それぞれの家庭を持っています。庭には「雪柳」がありました。この季節になると、子供たちや孫たちを思い出させてくれる「雪柳」になりました。庭の「雪柳」はまだまだ元気です。白い清楚なレースのカーテンが春を告げる風に揺れています。 福井県 YYさん       

 

☆ 桜の花を見ると思い出すことがあります。と言ってもわたしはまだ30代ですが、祖父母のころから続いているそうですが、お隣りのKさんご家族と一緒に私の家の庭にある桜の下で持ち寄り料理のお花見をすることです。子供のころから毎日顔を合わせ、声をかけてくださっているKさんご家族ですし、私たち子どもは同じ学校で一緒に登校していているのに、その日だけは特別の日になるのです。そんな習慣は私たちの地域のあちこちにあるのが不思議です。ある人は、昔は土葬だったので、その習慣ではないですかと言うのです。そう思えば、何だか心のふるさとという感じがしました。

今は会社の人たちとお花見で騒いでいますが、私のふるさとが懐かしいです。心が疲れているのかなあ~。 埼玉県 TFさん 

**********

     汚染物質のために避難指定地区にされていたのですが、そのお花見バスツアーに参加された友から、やはりふる里は良いなあ~と参加された皆さんは、笑顔で話し合っていましたとのメールが来ました。主人とうれしい気持ちで読みました。テレビでも見ることができましたが、あの満開の桜の下を大勢の人がお弁当をひろげていた時を思い出しました。来年は、皆さん、制限もなく花見のできるようになってほしいと願っています。

     母がお世話になっている施設で、先日、お花見会がありました。日頃顔を合わせることのない家族同士ですから、最初は言葉を交わすこともありませんが、時間が経つと共に職員さんたちのお手伝いをするようになり始めてからは、自然にお話しすることができました。皆さん、同じお気持ちで親が施設のお世話になっているのですから、理解し合えるところが多く、わたしたちにも良い経験になりました。

     我慢して来た人生に、最近疲れを感じます。生き生きと自分を外に向けてこなかったことに、自分に腹が立つのです。後悔と言う言葉は、我慢のしすぎなんだと思えて、地域の集まりに出かけて、週二回のボランテア活動を始めました。不得意と思っていた人との会話も、出来るようになりました。外に出られない方のゴミ出しボラで、終わった後は、お仲間とお茶飲み会です。運動にも良いですね。最近の日記の内容も明るくなりましたし食事も美味しいです。

*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子

   

 

   『ありがとうございます』

これからの秋田は日本の農村風景になります。周りの山々に抱かれ、茅葺の民家、階段状に作られた棚田の風景が秋田の自然の恵み豊かな山村に変わります。寒い、雪の季節から解き放たれた喜びが、そこにあります。桜よりも緑鮮やかな山々が、今年の恵みを約束してくれているのです。

教会には車で1時間はかかりますが、礼拝を守り神様に感謝して、農作業ですと、メールをくださいました。

 

 2019年3月16日から2019年4月15日までのイースター記念感謝献金者、「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。

 

村田和子様 神崎道夫様 馬場暁美様 岡田千歳様 佐藤のり様 加納さおり様 井上三郎様 匿名2名様 

 

*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの方々の「ジャーナル友」が与えられるように願っています。

    osamura@kind.ocn.ne.jp 

*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。

http://tunobue.blog.shinobi.jp      

(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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