2018年7 月 月号 №130 通巻817号 号
「つのぶえジャーナル」へようこそ
涙をもって種まく者は、
     喜びの声をもって刈り取る。 詩篇126:5
 

  『今月のことば』

 なぜなら、キリストの愛が私たちに強く迫っているからである。私たちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

             ~第二コリント~5:14~

 いつの時代でも「愛」という言葉は、その意味することはいろいろでしょうが輝いています。

 聖書から考えてみましょう。

 神の本質は愛です。そしてキリスト教の本質もまた愛です。神がその子供らに、ご自身の持っておられる性質をお与えになりました。

 愛は私たちの心に、信仰と聖霊とによって産みつけられます。それは、私たちがまず神を愛したという意味で、生じたものではありません。私たちを愛して、そのみ子を私たちの罪の贖いとしてくださったのは、神です。

 それは私たちの大きな幸せでした。もし、そういう計画でなかったらば、私たちは決して神より来る愛で愛するということに、到底、達することはなかったでしょう。

 しかし。この美しい宝に目を向けて、受け入れる人は、神を愛することを学ぶのです。愛する者は、神より生まれたのです。

 

 神様から信仰を賜ったキリスト者としての私たちの大きな務めは、この愛を私たちの命の中に、もっと取り入れることです。私たちがキリストの愛にだんだんと深く導かれるのでなければ、聖化への私たちの努力はすべて、白く塗った墓になるでしょう。

 パウロは言いました。この成長への道はゴルゴダを通るものだと。霊において、そこに立つ時、一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだという真理が明白にされました。パウロがそこで見た愛は、パウロを強く捕らえて、その生涯を私たちすべてのために死んでくださった方に、捧げさせたのです。パウロはもはや自分のために生きようとは願わず、私たちのために死んで、また生きた主のために生きりことを願うのです。

 

 神様、願わくばカルバリの丘の上に見出すあなたの愛を、この身にお与え下さい。そうすれば、私たちの生涯は喜びと、奉仕する愛の実を結ぶでしょう。  

 

 

   『小閑記』 

  わたしたちが信じるのは、もうあなた方が話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることが、分かったからである。

           ~ヨハネ4:42~

 

 今はあまり使われない言葉に「芒種(ぼうしゅ)」というのがあります。種まきや田植えなどで農家が忙しくなる頃のことをいうのだそうです。

「つのぶえジャーナル」をお読みの皆様の上に神様のお恵みが豊かに与えられますように、お祈りいたします。

 

 私たちがキリストとの出会いを、少し考えてみようではありませんか。私たちは直接お目にかかることも、そのお声を聴くことなどできません。しかし、他の人々が話してくれたので知り、信じたのです。子供たちの信仰の継承は、両親や親が信じているから信じ、教会学校で教わったから理解するのです。

 では信仰はどうでしょうか。それが役立ち正しいから信じるのです。近くに信仰に生きている人を知ることは有益で、感謝すべきことです。しかし、子供たちや若者が、生涯でもっとも尊い「若き日(時)」にそれを経験できた幸いは宝です。時に拒み、あざけることもありますが、心に刻まれたみ言葉は決して消え去ることはないのです。

 

 キリスト者の務めは明白です。ただ人々をキリストの元に連れて来ることです。そのためには、語り、聞かせ、証ししなければなりません。一度に完成させることは不可能です。「続けること」。伝えることを学ばなければなりません。信じていなければ出来ません。

 

 聖書の中にあるスカルの人々をイエス様のもとへ連れて来たのはその信仰であり、彼らの経験によって、主を救い主として知らしめたのです。私たちが十分に完全でなくてもそれを用いることです。知らない人々に伝え、知らせることです。自分自身が導かれたように導かれることを期待し、信じて待つことです。与えられている救いの恵みを、喜びとして証しすることです。それを見た人は、あなたがそうであったように、キリストを知りたいと思うようになるのです。

 遅過ぎることは決してありません。今がその時なのです。

 

 

『世田谷通信』(178

猫草

買い換えや補修が続く。それはこれまでの生活を見直すきっかけでもある。背より高い両開きで大型冷蔵庫は、目線の高さぐらいの中型に。子どもの成長期を過ぎれば、もうそんなに食べない。買い置きも作り置きもしないのだ。最初はたくさん買ってしまい「入らない・・」と不安に思ったが、今は中身が一度に見渡せる量だけ買うようになった。

古くなったガスレンジは安全性重視のクッキングヒーターに。最初はほんとに加熱されてる?と違和感があったが、消し忘れの心配が無いのがありがたい。料理は炒める煮る揚げる焼く・・とガス同様にできる。焦げつかないし、汚れない。焼き魚の仕上がりなどふっくらしてガスより良い。

10年を過ぎた家も補修の時期なのだろう、最近やたらと外壁業者がピンポーンと売り込みにくる。プロには「そろそろ塗り替え」と見えるらしい。家の周りを点検すると外壁に小さなクラック、モルタルが欠けているのに気がつく。早速ホームセンターで補修モルタルを買ってきて、コーキングガンとヘラで穴を埋める。応急処置だが1kgのモルタルがすぐになくなった。確かにそろそろなんだろうね。

服も2パターンぐらいを着回しているだけなので、着ない服を処分する。ちょっとしたディテールでも、着ない理由があるのだ。小さく切って雑巾にする。

また数年したらさらに見直しが必要なんだろうな、身に余るものを整理して、身の丈にあったスペックへと。最終的に自分のものはトランク1個ぐらいに収まればいいなあと思ったりする。

ふと裏庭をみるとキンモクセイがお隣の壁まで枝を伸ばしている。これはいかんと剪定し、ついでにエゴノキやハナミズキも伐る。調子にのって伐っていたら地面は枝と葉っぱで覆われ歩くスペースすらない。しばらく途方に暮れるが、どうにか運んで30㎝に切りそろえて束ねる。13束までは燃えるゴミに出せる。全部ゴミ出しできるまで相当かかりそうだ。植物の生長はまだまだ旺盛。1020年で衰えを感じる人間や人工物に比べると、植物は生きるスパンが長いんだなあと感心しきり。

 

 

   『美しい朝に』・・45・・

531

 今日で5月も終わります。明日から6月です。大阪は大雨が1日中降り続いています。草木には恵みの雨ですが、洗濯はかわきそうにありません。昨夜電話があり、友達が「絶対無理をしないでね!」と心配してくれたので、とてもうれしかったです。6月5日は血液内科の定期健診の日です。血液検査で数値を検査していただきます。「甘いものを食べると血小板が増える」の思い込みで血液検査の前日の真夜中にも甘いお菓子を食べて血液検査をしていただくと不思議と血小板は増えました。

病は気からで、勝手な思い込みはITPに関しては自然治癒力を後押ししたように思います。また、食べてお腹がふくれると眠りやすいので食べることは不眠症にも効果はあります。

でも、ステロイドと「甘いもの」で血糖値は上昇してしまい血液内科の前には血小板の数値が心配で、内科の前には血糖値を心配すると言うことになります。いくつもの病気をかかえていると本当に大変です。私が病院に行く前に必ず体調を崩すのはいつものことですが、この不安定な気候の変化は、病気をかかえている人や高齢の人は、特に室温の管理と着るものの調節・水分補給と食べるものに気をつけなくてはならないですね。

64

 こんばんは、今日もとても良いお天気で真夏日でした。明日5日は血液内科の診察日です。血小板の数値を調べていただきます。眠れないと思いますがはやめに休もうと思います。

65

 今日は、血液内科の定期健診でした。血小板の数値は、まだ大丈夫でしたが

血小板を攻撃する数値は上がっていて「かぜひき」でも血小板が下がる可能性もあり、注意が必要みたいです。また、知らずに数値が下がっていると命が危険になるので今は、無理をしないようにとのことでした。やはり疲れているみたいです。かなりショックで寝込んでいます。

611

 13日は神経科の予定です。神経科の診察日は2か月続いて車いすでの通院でした。血圧が高くなり頭がふらふらして歩くのがつらかったのです。今日から安静に過ごしたいと思っています。本屋さんのランキングで気になっていた「君たちはどう生きるか」という本を娘夫婦から貸してもらいました。半分くらいまで読みました。漫画なので読みやすいです。主人公は男子学生ですが、大人でも考えさせられる内容です。安静にするには読書は最適です。

 

 

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

 

 『その愛のゆえに』

   =時々の記=

    (147)

518

先日の大雨で我が家の古いトイが壊れてしまい、今日はその修理に来てもらっています。蒸し暑い中、汗だくで励んでいてくれます。申し訳ないとの思いで何もできない私たちは3時に冷たいコーヒーを差し上げることしかできません。このような肉体労働で励んでくださっている方たちには本当に頭が下がります。この蒸し暑さの中、黙々と頑張ってくれているのです。

528

朝から曇り空です。今にも雨が降り出しそうな気配です。今朝、私たちがみな家から出ていた瞬間。無残にも、ツバメの雛が大きなカラスに全部やられてしまいました。家に帰ってくると何かひなの羽のようなものが散乱しています。巣を見上げると、一羽も雛が巣の中にいません。朝から大きなカラスが一羽、屋根の上にとまってじっと何かをうかがっているのがわかりましたが、ちょっとお隣へ野菜をいただいたお礼に行っていた隙にです。カラスも生き抜いていくには食べ物がなければならないのでしょうが、生きているツバメの雛を狙うとはひどすぎます。

あまりにも無残で、胸が痛みます。去年は蛇にやられた場所なのです。

茶を刈ると翁機械に乗り続け。

ガードレール小鹿飛び越え山笑ふ。

通学路高く望めば藤かかる。

高きより川辺に見ゆるホオの花。

色あひの苦心若葉の山を描く。     馬場路哉

主の日の礼拝では、一年ぶりに病が回復して礼拝に出てきておられた姉妹が涙を流して再会の喜びを示してくれました。とても感謝でした。

62

 まるで夏を思わせる暑さです。最近の気候はとても激しく急変いたします。温暖化の影響でしょうか。都会の夏はとても暑く感じられることでしょう。暑さ対策と向き合っていくのが毎日の課題となってきます。朝の散歩で、りりしく咲き誇っている野のアザミが暑さで夕方にはしょんぼりしています。

我が家の梅に目をやると、どうも今年は不作です。春先の気候が影響しているのでしょう。夏野菜の玉ねぎも全く収穫できないと農家さんが嘆いておられます。

天候によってうまくできないときには日々の苦労が身に染みることとお察しいたします。

信楽の山の煙りぬ若葉雨。

朝まだきツバメに元気みなぎりぬ。

教会へ向かふ山中藤の花。

咲きそめし紅つつじに黒揚羽。    馬場路哉

明日は草刈りの「出会い」です。足元が危なっかしい老人たちが山の斜面を刈りこんでいくのです。口をそろえて、大変な草刈りやなあ…と言いながらも踏ん張っているのです。けがのないように無事に終えることができますように。

611

 台風と前線の影響でしとしとと雨が降り続き、非常に湿度の高い一日となりました。気温はそれほど上がっていないのにとても蒸し暑く感じられます。名古屋は大雨注意報が出されていますから、仕事場まで出向かれるのはとても大変なこととお察しいたします。サッカーワールドカップが始まりますね。日本は監督の急な入れ替わりなどが影響しているのでしょうか。残念な試合ぶりですね。日本代表の選手たちですから、最後まで戦い抜いてほしいですね。

最近、教会の礼拝には高齢者が新来者としてよく来られます。私もその仲間なのですが、見渡すと、不安げな顔つきの方たちが椅子に座っています。先生もそれを察してか、昨日は高齢者でもできること。それは手を合わせて祈ることだと締めくくっておられました。

朝日受け清々しかな朴の花。

五月晴れ心励まし教会へ。

種まきの説教思ふ植田かな。

現れた未だ弱弱樫若葉。

散歩して翁憩ふや桐の花。   馬場路哉

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(71)(完)

 

岡田稔著

(元神戸改革派神学校校長)

第33章 最後の審判について

1 神は、イエス・キリストにより、義をもってこの世界をさばく日を定められた(1)。すべての権能とさばきとは、み父から彼に与えられている(2)。その日には、背教したみ使たちがさばかれるだけでなく(3)、かつて地上に生きたことのあるすべての人も、彼らの思いと言葉と行いとのために申し開きをし、また善であれ悪であれ彼らがからだで行なったことに応じて報いを受けるために、キリストの法廷に立つ(4)

  1 行伝17:31
  2 ヨハネ
5:22,27
  3 コリント6:3、ユダ6ペテロ
2:4
  4 コリント5:10、伝道12:14、ロマ2:16、ロマ14:10,12、マタイ12:36,37

一 ここでは、次のことが告白されている。

   イエス・キリストは唯一の審判者である。

   世界審判の日が定められていること。

   その審判の基準は「義」であること。

   そのとき、審かれるのは悪魔と悪霊たちと全人間であること。

わたしたちは、かならずキリストの審判のみ座の前で、その身が行ったこと

に従って、神の公平な審判と報いを受けることを心に銘記しなければならない。キリスト(メシヤ)は、救い主であるとともに審判者でもあられる。

 

2 神がこの日を定められた目的は、選民の永遠の救いにおいて神のあわれみの栄光が表わされ、邪悪で不従順な捨てられた者の永遠の刑罰において神の正義の栄光が表わされるためである。というのは、その時に、義人は永遠の命にはいり、主のみ前からくる満ち足りた喜びと慰めとを受けるが、神を知らずイエス・キリストの福音に服さない悪人は、永遠の苦悩に投げこまれ、主のみ前とみ力の栄光とからの永遠の破滅をもって罰せられるからである(1)

  1 マタイ25:31-46、ロマ2:5,6、ロマ9:22,23、マタイ25:21、行伝3:19テサロニケ1:7-10

二 神が歴史の終わりの日に、審判を行うことを、よしとされる目的は、すべての歴史的事件が、常にそれのみを最高の目標としているところの神の栄光の顕現のためである。そして、この栄光は、二重の方向において示される。すなわち、あわれみ(愛)と正義とである。

 二重予定は今やここに、その真の意義を啓示するのである。天国と地獄は、相互に、それが天国であり、それが地獄であることを他との対比で明示するであろう。

3 キリストは、すべての者に罪を犯すことを思いとどまらせるためにも、逆境にある信者の大いなる慰めのためにも、わたしたちに審判の日のあることを確実に信じさせることを欲する(1)と同時に、その日を人に知らせずにおかれる。それは、彼らはいつ主がこられるかを知らないから、一切の肉的な安心を振り捨て、常に目をさまし、いつも備えして、「来たりませ、主イエスよ。すみやかに来たりませ」と言うためである。アーメン(2)

  1 ペテロ3:11,14コリント5:10,11テサロニケ1:5-7、ルカ21:27,28、ロマ8:23-25
  2 マタイ24:36,42-44、マルコ13:35-37、ルカ12:35,36、黙示22:20

 

三 聖書を通して示されている顕著な事実は、審判の日への警告と、それがいつであるかは不明だということである。これは、一見矛盾のように見えるが、決してそうではない。この二重の教示は、また、二重の目的を持っている。一方は、万人に対する目的であって、一般恩恵的な罪予防であり、他方は、信者に対する目的であって、忍耐と慰めに役立つものである。すなわち、わたしたち信者にとって、主の来臨への期待は、約束の成就の時として、今の苦しみに耐える秘訣となり、「わたしたちは、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている」(Ⅱコリント5:8)との希望になる。

 また「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」(Ⅰヨハネ2:17)ことを知って、宝を地に積む愚に落ちず、天の都を望み、地にあっては旅人であることを自覚させるのである。

 本告白は再臨の予兆について黙している。特に千年王国について言及していない。改革派神学においてアミレ(無千年王国主義)と呼ばれる立場が根強いのはこのような事実によるのかも知れない。しかし、大切なのは、教会が聖書から一定の教説を正統として確立していない場合、各自の研究と良心の自由に任しておくことが、教会の一致の上で大切である。信条とか信仰告白は教会的一致・コンセンサスを見出しえない限り成文化しないし、してはならないものであろう。

 また世界情勢上一時的な事柄は、信条とは別な宣言として発表するのが適当であって、信条は、歴史的作品ではあるが、地上的な恒久性を確信するに止めるのが正しいと思う。そういう配慮から、前兆の問題や千年王国期のことを省いたのではないだろうか。予定論においても、堕落前予定説と堕落後予定説などにはふれていないのも同じ理由からであろうと思う。

 (完)

 

『十戒と主の祈り』・・1・・

             鈴木英昭著

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

はじめに

 人はだれを信じ、どのように生きるべきか、ということについては、多くの人々が語ってきた大きなテーマです。そして、それは神御自身が聖書によって語ってくださっていることですが、わたしたちがその答えにたどり着いてみると、多くの回り道をしていることが分かります。それでも神を信じる生活が始まると、何事にも成長があるように、信仰生活にも幼児期から、成人へと成長が始まります。そして、やがて落ち着いた老齢期を迎えることができるのも、聖書の言葉によって、神が光を与えて歩む道を照らし、聖霊も聖書の言葉をもって臨んでくださり、歩む力を与えてくださるからです。

 

 神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題を捉えて初めて、それが可能になります。その意味で、人生の指針と言われる「十戒」と「主の祈り」を、倫理的な状況の変化していくなかで、どのように適用したら良いかを新たな視点から教えられたいと思います。

 

 30数年の牧会生活が終わろうとしている時期に、2002年7月から2004年9月にかけて、毎週の水曜日の夜の聖書研究と祈祷会で、十数名の熱心な教会員と信仰を求めておられる方とともに、この学びをし、祈りを共にすることが出来たことを、懐かしく思いながら、感謝しております。

 

 このような信仰生活の手引書は、これまで多くの方々による良書が存在するわけですが、この機会に一冊にまとめるように励ましていただいたこともあって、つのぶえ社の長村秀勝兄の御厚意により、パソコンから取り出して、二つの奨励を一つにまとめさせていただきました。

 

 1999年12月に86歳の高齢の母でしたが、山形の第一聖書バプテスト教会で受洗と、信仰生活の恵みに満ちに導いてくださっておられる主に感謝し、母へ贈ることにさせていただきました。

 主の2004年クリスマス

                  鈴木英昭

 

=わたしは主=

  まえがき①・神の真実

           出エジプト記20:2、申命記6:20~25

 これからしばらくの間、十戒を学ぶことにします。出エジプトの出来事も十戒もイスラエルの民の起った三千数百年も昔に関するものですが、神の命令として受け止める人は実に幸いです。オランダ改革派教会(自由派)の神学大学のJ・ドウマ教授によると『十戒』―キリスト者生活のための手引き―という大著を参考に、十戒を私たちの実生活と関連を持ちながら学ぶことにします。また大小教理問答にも、十戒のことが教えられています。

 この申命記6章20~25節には、律法を次の世代に教えるにあたって、モーセは彼らに指示を与えています。その中から3つのことを覚えておきましょう。

 第一は、神が自分たちをエジプトから導き出してくださるにあたって、「大きな恐ろしいしるしと奇跡を行って」(22)下さったことが語られています。私たちがよく知っているように、主なる神は、十の不思議な業をなさいました。主の働きがなければ、イスラエルは決してエジプトを出ることはできませんでした。したがって、自分たちに「主を畏れ敬うようにしてくださった」(24)ことを思って、神の戒めを守れるようにしてくださったことを思うようにと語られます。事実、主なる神はそのようにしてくださいました。それを語り伝えていくのです。

 第二に、十戒のまえがきにの言葉にありますように、主なる神が、イスラエルを「奴隷の家から導き出してくださいました」。そのことがこの21、23節で繰り返して語られています。エジプトからの解放です。しかし、ここで注意しなければならないことは、奴隷であったのはイスラエルの民だけではありませんでした。また、ヤコブやヨセフは、その時代に奴隷ではありませんでしたが、彼らは死んだらカナンの地に葬られることを命じました。

 理由は神の契約への信仰のためでした。「わたしは主、あなたの神、あなたを奴隷の家から導き出した神である」という「まえがき」の言葉は、自由になったイスラエルに中心があるのではなく、導き出した「神」に中心がおかれます。虐げられていた民の救いが中心ではなく、アブラハムをはじめ先祖と契約を結ばれた神の真実さが中心となっているからです。

 第三に、それでは、契約を真実に守られる神が、こうして十戒に代表される律法をお与えになったことは、どんな意味をもつのでしょうか。それは、真実な神との契約の中に歩むとき、神の民はそこに自由を見出すことができます。

 律法がないことが自由なのではありません。罪人である私たちはそう思いやすいのです。しかし、魚は水の中にいることに自由があり、鳥は空中にいることに自由があります。同じように、神の契約により救い出された信仰者は、契約のゆえに与えられた律法に従って歩むとき、そこに自由を得ることができるのです(ヤコブ1:25)。

 *この連載は「つのぶえ社」の許可を得ています*

 

『バラ・マカルピン 日本伝道百年史』・・8・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)

7 バラよりの受洗者・・2・・

 バラ先生よりの受洗者を表記すると、次の表のようになる。

横浜海岸教会関係

    バラ師授洗者表

  自1874年(明治7年)

  至1903年(明治36年)

年代    男  女  計    備  考

1874   32  24  56  星野光多 山本秀煌

(明治7年)          下岡蓮杖 川藤鉄弥 受洗

1875   35  18  53  坂野嘉一 受洗

(明治9年) 19  21  40

1877   9   8  17

(明治10年)

1878   4   1  5  バラ師海岸教会仮牧師辞任

(明治11年)          休暇帰米  

1880   7   5  12

(明治13年)

1881  23    6  29  内2名 名古屋にて受洗

(明治14)           内4名 岡崎にて受洗

1882   4   10  14

(明治15年)

1883   1      1  名古屋にて受洗

(明治16年)

1884   1   1  2  静岡にて1名 三島にて1名受洗

(明治17年)          

1885       1  1

(明治18年)

1886   1   1  2  横須賀にて受洗

(明治19年)

1889   1   1  2  内1名三島にて受洗

(明治22年)

1894   6      6

(明治27年)  

1903   9   1  10

(明治36年)

合計   152  98 250 

 

 本表は横浜海岸教会の会員名簿にのせられたバラ先生関係の名前であるが、先生はほかにも地方伝道されて洗礼を授けられ、入信した者もかなりの人数に達するであろう。

 

明治7年(1874)の受洗者からは、次の者が輩出している。

山本秀煌  牧師 キリスト教史学者、明治学院神学部教授

星野光多  牧師

下岡蓮杖  わが国写真技術の元祖、牛乳屋の元祖、ペルリ黒船の最初の発見者 

川藤鉄弥  肥前大村の藩士、牧師、バプテスト教会最初の日本人牧師となる。

バラ先生は日本基督公会の設立に、最も努力された人であった。長老制度に

則り、教派偏重によらない日本の独立自治の教会を建設しようとしたことには、多くの苦心配慮があった。

 「我輩の公会は宗派に属せず、唯主耶蘇キリストの名に依りて建てる所なれば、単に聖書を標準とし、是を信じ是を勉る者は皆是キリストの僕、我等の兄弟なれば、会中の各員全世界の信者を同視して一家の親愛を尽くすべし、是故に此の会を基督公会と称す」(第二条例公会基礎)と公同教会の具現を期したものであった。

 しかしながら1873年(明治6)2月、切支丹禁札の撤去によって、英・米から教派による宣教師の来日が盛んになり、無教派的日本基督公会は苦慮に立たされるようになった。時に1874年(明治7)4月19日、神戸公会が設立。続いて5月24日、大阪公会が設立されて無教派的公会主義に希望が与えられたが、翌1875年(明治8)3月、神戸公会は公会の一致と合同は親睦・交諠にとどめ、政治的な一致はこれを非とするとの意思表示をした。

 これに驚いた横浜・東京の両公会は、3月7日、バラ先生と奥野昌綱の二名を代員として神戸に派遣し、阪神の代表デビスと新島 襄の二名と会合、協議したところ、阪神の二公会は組合派のアメリカンボードより援助されて設立したものであり、個々公会の独立主義を主張して、政治上の合同を否としたことによって、当時存在した日本の四公会(東京、横浜、大阪、神戸)の一致合同は、個々に破綻をきたしたのであった。これは、バラ先生にとって大きな苦杯であったと思われる。

 阪神の公会派が明治7年10月の東京、横浜公会との会合で、公会条例案に賛成してその無教派主義の合同一致は、可能と見えたのに、突如変貌して無教派主義に走った背後には、明治7年11月末に米国から帰った新島 襄の意見が、阪神側を説得したもののようで、「組合派合衆政治は外国教派との提携によって日本教会の進展を期すべし」、との考えが強く押し出された結果と思われる。

 その後日本のキリスト教は、教義の共通した教派が分立するの愚を悟って、改革派ミッション、スコットランド長老派ミッション、日本長老派教会の三者 によって、1877年(明治10)10月3日横浜海岸教会で、日本基督一致教会を組織した(参加教会は日本基督公会4、長老教会5の計9、信徒623)

 1875年(明治8)7月10日、横浜海岸教会の建築が成り、この日献堂式が行われた。これはバラ先生の手による、日本での最初の日本人教会で総費用1万ドルの立派な会堂であった。その献金の内訳は、

 1 ハワイの基督者及び英人商人      1000ドル

 1 米国公使 タウンゼント・ハリス氏   1000ドル

1 ロバート・ブライン氏(ハリスの後任)  500ドル

 1 バラ先生の米国講演及び貯金      2500ドル

 1 隣接家屋の家賃貯金          4500ドル

 1 寄付金利子               500ドル

    計                10000ドル

 1 米国リフォームド教会寄付、教会堂窓色硝子

 1 教会の鐘 ガラット・カワンホーヘン氏寄付

 1 その他 什器、教会用品、オルガン(パイプ)などが内外人より寄付された(この会堂はまた外国人のユニオン・チャーチとしても使用された)。

 教務は進展して、その後、再び会衆は会堂に溢れるようになった。

*月刊「つのぶえ」からの転載で、「つのぶえ社」から許可を得ています*

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・67・・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・10・・

 許されるはずはないと思っている者にとって、許しの宣告に接することは、「ほっとする」ことであります。死ですべてが終わりだとしか思えない者にとって、その終わりをも包み込む新しい世界が突如ぽかっと目の前に展開されること、「これはこれは」とばかりに驚くことであるに違いありません。しかし、この「ほっとする」ことや、「たまげる」ことを経験した者は、それ以前の自分の状況にこだわることがない歩みを踏み出すことができるものとなることは当然のことと言えます。これは、今までの自分から解放されて自由になるということと言えます。

 この「自由を得ている者」が「ユ―モア」をもって人生を生きることができる人だと思います。それはユーモアというものは、いつもその状況を超え、それに縛られていない人の中にあるのであり、それは復活のキリストに出会った人が得ている境地であると思います。

先述した「ユーモア」についてですが、日本語の辞書には「人を傷つけない上品な洒落」という説明がされていました。大正から昭和初期には「ユーモア小説」と銘打った作品が多く発表されていました。日本語で言うなら「滑稽小説」とでも言うことになりましょうが、十辺舎一九による「東海道中膝栗毛」などは、その部類に属する江戸時代からのものと言えましょう。

「ユーモア」というのは、もともとは体液、特に人間の体液のことを言うのでありますが、その体液の結果である気質や気分を意味している言葉であるそうです。しかし、その気分が単に生理的や感覚的なものにとどまらないで、人間存在の全体的な状態としての気分をあらわす言葉の一つとされています。

いささか難解な話になりましたが、これまで述べてきた「復活」ということに即して言いますと、イエスの復活のことを告げている記事には、実にユーモアが溢れていると言えるように思います。それは、復活したイエスを、弟子たちが亡霊を見ているように恐れおののいたのに対して、イエスは手や足を見せて亡霊ではないことを示すと共に、「ここに何か食べるものがあるか」と言い、差し出された焼き魚の一切れを弟子たちの前で食べた、ということにあります(ルカによる福音書24:36~43)。

弟子たちにとっては、イエスは十字架につけられて死んだ、というのが事実です。ですから、イエスが現れたのは、亡霊としてのイエスとしか思えません。イエスは手足を見せました(十字架に釘づけされた跡がある、ということで、正真正銘のイエスであることを示されたことでしょう)。

亡霊の現れ方はいろいろあるようですが、足を出して見せる亡霊などは極めてユニークです。しかも焼き魚を食べる亡霊なんて言うのは、古今東西聞いたことがありません。第一、亡霊が焼き魚を食べる必要など全くないのです。そういう観点からすると、復活のイエスは自分が自分であることを知らせるために、ずいぶん苦労されたなあ、と思います。食べなくてもよい魚をむしゃむしゃ食べるなんて、まあなんて楽しい方かと思いますが、如何でしょうか。

   篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年7月のラジオ放送予定>  

7月 1日 楠本 茂貴 (名古屋学院名古屋高校聖書科教諭)

8日 大藪 博康 (名古屋学院名古屋高校宗教部長)

15日 葛井 義憲 (名古屋学院大学名誉教授)

22日 柳川真太郎 (名古屋学院大学キリスト教センター職員・伝道師) 

  29日 黒柳 志仁 (名古屋学院大学国際文化学部准教授)

     (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 
 

第84課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・37・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・2・・・

 「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受け入れて下さっていたのであるから」(3節)。

「他人の僕を裁くあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである」(4a.

神は、その信仰において 正しく強いキリスト者が、その信仰において未熟であり、したがって臆病であるキリスト信者を裁くことを命じてはおられないのです。要するに、弱いキリスト者もキリスト者であり、したがって、キリストのものなのです。キリストこそ裁きの座に立つべき唯一の存在なのです。

 

パウロの時代もそうであったように、現代にあっても、教会の中には、自称「裁き主」が多くいるのです。そうして彼らは兄弟姉妹のキリスト者たちの意見や躊躇や迷いや行動について、裁きを下そうとするのです。そうして現代においては、弱い人々を強く裁くことだけでなく、その反対の状況をも見るのです。ですから、弱い者が強い者を裁くのです。キリスト教の筋道さえもよく知らない者が、傲慢にも長い信仰生活をしてきた人々を、その謙虚さに乗じて裁くのです。ある特定の事柄について躊躇している人々が、多くの強い人々によって寛容をもって、その未熟さを受け入れられていることによって満足しないばかりか、彼らの未熟な主張に全教会が従うことを要求するのです。そして、その線に従って不断に宣伝を続けて、教会の平和をかき乱そうとするのです。強い者であれ弱い者であれ、彼らすべてがパウロの問いかけに注目しなければなりません。

「他人の僕をさばくあなたが一体、何者であるか」(4節)。

 

「彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである」(4節b)。

神は弱いキリスト者をその弱い信仰と誤れる信仰にもかかわらず、救うことがおできになるのである。ここには、キリスト者兄弟に対する相互の寛容をもつべき理由が述べられています。ある人がたとい信仰においてどんなに弱いとしても、彼がキリスト信者であれば、私たちはその人を非キリスト者や部外者のような取扱ってはならないのです。

「兄弟たちは相互に責任を持つのではなく、また、教会に対して責任があるのでもないのです。神こそ良心の主なのである。神に対して応えなくてはならないのだ。神の前に彼らは立つのか倒れるのかなのである」(ホッジ)。

J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師

 

   『ほっとひととき『みんなのコーナー』

☆  入院生活16年目になる者です。学生時代の友人から「つのぶえジャーナル」を紹介されて読み始めて9ケ月ですが、私の生活の中に、喜び、希望、感謝など全くありませんでした。自分の病気を恨んでいましたから、まったく無縁でしたが、「ジャーナル」全体から伝わってくるものに心惹かれるようになりました。幸い、インターネットで読ませていただけるので、うれしく思います。そうしてこのようにメールも送らせていただきました。自分でも驚いております。 兵庫県 K・Sさん

☆  つのぶえジャーナルをありがとうございます。鳥の雛が一斉に口をあけている写真に、思わずワァッと声を上げてしまいました。実は、屋根の隙間に鳥が巣を作ったらしく、雛の鳴き声が聞こえていたのですが、その声が34日前から急に大きくなりました。気になり外に出て眺めていましたら、虫をくわえた鳥が高い電線にとまり、辺りを見回しては低い電線に下りてくるのです。私が物陰に隠れると、人の気配がなくなったのを見て、さっと屋根の隙間に入っていくのです。鳥たち、偉いなぁ。ふと見回すと、飛んでる、飛んでる! あっちでもこっちでも・・・鳥たちがとびかっています。子育て真っ最中なのですね。お向かい家では、ご主人が赤く色づいたベリーの実を収穫しながら、「上の方は届かないからね」と、そのままに…。高い所の実を 毎日鳥がついばみに来ています。鳥の名前を知らなくて残念です。
 
もうすぐ梅雨入りですね。お身体どうぞ大事になさって下さいませ。 
 静岡県 HTさん

☆  希望校でないと言って、登校を渋っていた娘が先生の親切な声でやっと行くようになりました。友だちもできたようで、中学生の時より明るくなった感じがしています。親の役割も変わっていると思うと嬉しいような寂しいような気がしています。下の妹も中学一年生ですが、お姉ちゃんからいろいろ学習しているようです。東京都  B・Hさん

☆  梅雨入りになりました。農道の草が活きいきと伸び始めます。会社の休みを活用して、除草剤は使わず、草刈り機で根気よくやります。パソコンに向き合う毎日の私には新鮮です。通勤の道でもあり子供たちの道でもありますから、当然なのかもしれませんね。 限られた時間ですから、虫たちの方には気持は向いていますね…。「ジャーナル」は、時間を見つけて繰り返しPCで見るのが、わたしの一つの楽しみになっています。  福井県 M・Kさん 

☆  高校生時代の友と前々から行きたいと思っていました奥入瀬の旅をしてまいりました。大自然を体感のできる奥入瀬渓流に沿った遊歩道、渓流のすぐそばまで行くことができ、冷たくもあり、まろやかに肌を包む渓流の水に触れることもできました。幸いにも晴れていましたので、少し汗ばみました。6月は少し冷たい感じでしたが、これは夏の日の楽しみと思いました。でも何よりの美味しいご馳走でした。心が満たされました。 東京都  K・Hさん 

 

**********

    私は精神障碍者で、病院の入院生活も20年以上になります。退院の見込みはありません。ここにいる人はみな同じです。このように「ジャーナル」さんに手紙を差し上げることのできる者は、ほとんどおりません。朝から晩まで、テレビを見て、時間が来たら食事をし、薬を飲み寝るだけの生活ですが、私には、毎月送られてくる「ジャーナル」はただ一つの外との窓口です。また「美しい朝に」さんの病気との戦いは、私の友であり、励ましになります。しかし、つい何でこんな病気になったんだろう…と考えてしまいます。

*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子

 

 

 

  『ありがとうございます』

本格的な梅雨入りになりました。皆様にはお変わりございませんか。「つのぶえジャーナル」を用いた、広い意味での文書伝道は皆様のご利用と尊い寄付金で運営しております。しかし、現実は厳しいものがあります。支援者あっての事業であることをご理解くださり、この「つのぶえジャーナル」を育てていただきたくお願いいたします。

「日本伝道百年史」のバラ・マカルピン師の文書伝道事業として、今、この形でその志を受け継いでいる唯一のものとなりました。「すべてに時があり」のみ言葉にあります通り、終わりはありますが、神様の「時」にお任せして、神様がお許し下さる限り歩んでまいります。どうぞ、よろしく、この「つのぶえジャーナル」の活動を、ご支援いただけますなら感謝です。

2018年5月16日から2018年6月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。

村田和子様 西口義昭様 佐藤のり様 加納さおり様 馬場暁美様 匿名1名

*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

また、お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

*「つのぶえジャーナル」(http://tunobue.blog.shinobi.jp(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

 

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緑を大切に!
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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