2017年3 月号 №116 通巻802 号 号)
「つのぶえジャーナル」へようこそ
涙をもって種まく者は、
     喜びの声をもって刈り取る。 詩篇126:5
 

  今月のことば

 「・・・・。愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。・・・。望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。・・・。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」。

      ~ローマ12章9~15節~

 「患難」と言う言葉は、何と重く暗い心にさせることでしょう。福音書には「戦争と戦争のうわさを聞くであろう。・・・民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起こり、また地震があるであろう」(マタイ24:7~8)と記されています。これは、すべての国民に例外なく起きる患難です。多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合い、不法がはびこり、霊的・精神的な不安定な出来事は、不透明さとなり、多くの人の愛が冷えると警告しています。

 光を失い、霧のようなものに覆われ、虚偽が好機をとらえ、どさくさ紛れに利益を得ようとする者が成功するなら、もう暗闇に迷い込み、誰も光の道を見分けることが出来ないとするなら、何と言う「患難」でしょう。理性と知性よりも、「××ファースト」が、真しやかに囁かれ、それが当り前になりつつあることに、怖い感じがします。「第一主義」よりも耳には心地よい響きです。

 私たちは、実はよちよち歩いているのです。だからこそ、敢えて、よちよち歩きの時間、待つ時間、耐える時間が必要なのです。

使徒パウロは私たちに語り掛けています。「患難に耐え・・・」と言った、あの耐える時間は、静かな誠実の時間、あのローマ書のみ言葉に向き合う時間なのです。信じて祈りつつ、神の約束に固執する時間なのです。

「最後まで耐え忍ぶ者」(マタイ10:22)、その人は神の救いに与るのです。

 

   小閑記 

 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい。

   ~コリント第二 5章20節~

 救われるためには、用意されてるキリストによる救いが、私たちに伝達され、届けられなければなりません。私たちの外側に、神様によって用意されている救いがあるということだけでは十分ではありません。私たちはそれを自分のものとして、受け入れなければ何の意味もありません。キリストの十字架の贖いは、私たちの救いのためには十分であることは確かで、キリストの死によって、神と和解したのです。

 しかし、和解を許されている私たちは、まず、自分自身を和解された者にしなければなりません。それは、私たちがキリストの身元に行き、主イエスによって用意された救いを受けなければならない、ということであります。

 

 もし、それをしたくないならば、決して救いの恵みに与れないでしょう。そのような私たちに神様が愛をもってみ言葉を送り、証し人を送って、キリストの身元に来なさいと言われるのです。主イエスは私たちの負債と言う罪と咎の証文を取り、主ご自身の血で、「支払い済み」の印を、神の聖所で押してくださいました。同時に、私たち自身の心に持っている帳簿に「支払い済み」と主イエスに書いていただかなければなりません。そして信仰によって、神様の潔めの恵みをいただかなければなりません。

 失われた人間、罪人として、キリストに行かず、キリストの死は自分自身に責任があると認めない者は、裁かれます。

 私たちはキリストを受け入れる尊い、しかも大切な責任があるのです。この責任をキリスト者は感謝して果たしてまいりましょう。

 

世田谷通信(162

猫草

毎月「つのぶえジャーナル」の校正を手伝っている。かつての誌面ではなく、ホームページ上での掲載という形になって以来のことだ。月に1度、コーナーごとに番号のついたファイルが編集人である父からメールで送られてきて、それをチェックする。つまり更新前の最初の読者というわけだ。この自分の担当原稿を自分で校正しては、他の原稿と比べてなんて違和感のあるコーナー、まるで朝の月のようだと、我ながら白々しさを感じつつ、毎回苦笑している。

今回は、今月の「美しい朝に」さんの原稿に率直に綴られた生活と心情、それを包み隠さず提供してくださる勇気に心が動かされ、原稿の差し替えを申し出た。

「世田谷通信」のきっかけは何か普通の生活を綴った原稿が書けないかという父からの要望に端を発している。最初に書いたものは多摩川の風景スケッチのような文章だった。次男の障害のことが一番の気がかりで、心の大半がそのことで占められていたはずの当時に、なぜその文章が出てきたのかはわからない。以来、折々のことを書いては送り、今回で162回目になる。実は今回のように何度か原稿の差し替えをしている。書いてみても送信しなかった草稿もたくさんある。たいていは感情や物事が整理できず、何かしっくりこないものを感じてのことだ。

私にとってこの原稿はかさぶたのようなものだと思う。薄皮を剥くと血がにじむし、中の液体がこぼれ出てくる。一度決壊すればとめどもなく溢れるかも知れない。それを防ぐ、外界と内面を隔てる半透明の一枚。

大きな怒鳴り声や物音が辛くて、耐えられず、悲鳴をあげることがあるらしい。らしい、というのはその時のことをあまり記憶していないからだ。動悸が激しくなり、呼吸が苦しく、体温が下がり、全身に汗をかいて固まる。しばらくするとふと我に返るのだが、どれぐらいの時間が経過しているのかよくわからない。鬱病、ストレスによるショック症状、乖離、過呼吸、音による過敏。心療内科へ行くとあっさりそんなラベルを貼られる。薬はもらうがいつも症状が出るわけではなく、不穏な気持ちが高まってくると早めに飲んで、家に居るときは横になるか小さくしゃがみ込んで落ち着くのを待つ。

でも寒風の中に梅が咲くように、苦しいばかりではない。大半は通常の生活で、常識人で、仕事もするし家事もできる。外に出れば穏やかに社会常識をもった振る舞いができる。笑顔もあり、美しい、素晴らしいと感じる心もある。

怒鳴られないように、怒りをぶつけられないように、いろんな物事から回避しつつ暮らしていく日常もある。忘れないように、ミスをしないように、たくさんの付箋紙をそこら中に貼って慎重に過ごしている。

そして平衡感覚を保つためにこうして文章を書く。自分を液状にしないための皮膚という名の薄皮。青空の中に白く浮かぶ半月のように、確かにそこにあるけれど、普段はさして害もない。心を保つための文章というかさぶた。

 

 
 

   『美しい朝に』・・29・・

1月17日

寒いですね。暖房をしていない場所は冷蔵庫のようです。夜中、お腹がすいたときに、何か食べるとうとうとでも、眠れる日が増えてきました。この際は、体重と血糖値は後回しにしました。それから、もう1つ変えたことは、しんどくて、昼間「栄養ドリンク」を飲んでいたのをやめました。まだまだ、すんなりとはいかないと思います。
 今は2日に1回、ベゲタミン+/4ですが、1週間に1回まで、間隔をあけていって、最終的に、ベゲタミンを服用しないで依存症から抜け出して、寝れるようになるためには、遠い道のりです。お祈りありがとうございます。

1月19日

 今日は、鍼治療に行ってきました。先日、鍼治療に行って痛みも緩和され運転免許の更新も行けて、眠れる日が出てきたので、主人が「今週も行くか」と車で連れて行ってくれました。家でも、自律神経のツボを教えていただいて、自分で「お灸」を試しています。25日神経科、26日内科で、21日と27日は主人に予定があり、来週は鍼治療は無理みたいなので、今週行けて良かったです。鍼治療の前日なのに、昨日はよく眠れました。ベゲタミン+/4錠の日でしたが、夜中少し食べたのが良かったと思います。血小板が、4000しかなくITPと診断されて、輸血とステロイドで命拾いした後も、ステロイドを減らしていくときも「甘いものを食べたら血小板も増える」と自分で思い込み、入院中の病院でも血液検査の前日24時に消灯後「お菓子」を食べているところを、看護師さんに見つかり、朝に、みんなに大笑いされたことがありました。

退院してからも、ステロイド0錠に減らすまで、思い込みは続きましたが、身体とは不思議なもので「甘いもの」がステロイドのかわりになると思い込んでいたら、ステロイド0錠で血小板は正常値になりました。お医者さんには、笑われましたが・・・。今度は、ベゲタミンのかわりに、夜中食べていますが、思いこみで、薬の依存から抜け出せたら、だれにでも出来る方法ですね。ただ、増えた体重と血糖値は、また、自分の努力でしか下がりませんので、増えすぎないように、野菜も多く食べる必要があります。食べ過ぎは良くないですね。

1月23日

 昨日は、家族で実家の母をたずねました。母と一緒に楽しいお茶の時間を過ごせて感謝です。母が用意してくれたケーキもおいしかったです。母も、楽しそうにしてましたので良かったです。あとで疲れがでないか心配です。持って行ったおかずが、少しでも役にたって母の食欲が出てくれるとうれしいのですが・・。お祈りいただけたら心強いです。

1月24日

 こんばんは。ジャーナル更新お疲れ様です。スムーズに進んだようで良かったです。楽しみにしています。今日も寒い日でした。少し、写真を写しに出かけましたが花たちも寒そうでした。2月8日が、誕生日なので、主人からのお花を期待して10日ごろに写真をお送りできたらいいなと思っています。お花の少ない時期に、お花のプレゼントはうれしいです。花の写真をカードにして家族やお友達に教会の方にも幸せのおすそ分けできますし、ジャーナルにも写真をお送りできますから、毎年うれしいプレゼントです。母は、おかずをとても喜んでくれていました。寒くて買い物に行かなくても食べるものが、あるのが良かったみたいですし、家族が集まってくれてうれしかったみたいです。みんなで片づけて帰ったので、そんなには疲れなかったみたいです。

明日25日は、神経科の日です。お正月を挟み1か月ぶりに行きます。

あさって26日は内科の日です。寝れるように夜中食べてるので、血糖値は心配です。寝れたり寝れなかったりですが、お祈りいただいて感謝です。

1月25日

大阪は良いお天気でしたが寒かったです。今日は、神経科でした。
眠れていないのがひどいのと、「死にたくなるほど辛い」のと、血糖値が上がるのを覚悟で夜中に食べるのとの症状もあり、「レメロン1錠2錠」に増やしていただきました。だけど、毎日「ベゲタミン0錠」なります。いよいよか・・・と思いましたが、帰って夕方、うとうとできましたので、良かったです。
 「ジャーナル」を読まれている方で、私と同じように苦しまれている方が、感想を送って下さったのですね。長村先生から、「確認の原稿」をお送りくださった時、実は、この文章をそのまま載せていただくのに迷いが、ありました。消したい個所も何か所かありました。確かに、勇気がいりましたが、その勇気で同じような思いをされている方のお役に立てたなら、それが、私が神様に命を助けていただいたお役目なのかもしれません。
 身体の病気は、理解されやすいものですが、1番大変で理解されにくいのが「不眠症」だと感じています。「不眠症」と聞いても、「大変そうだな」と思われないで、「神経科」に行って言って薬を服用していたら、「誤解されそうと思うと」身内にさえ、打ち明けられず、家族も孤独になっていくのだと思います。
 「眠れない」と言っても、意識のある状態で横になっていても、いびきをかいていたら、「良く寝ていたよ」と家族にさえ思われたりします。
1月26日

つのぶえジャーナル届きました。ありがとうございます。写真もお使いいただきありがとうございます。私の体験が、ジャーナルを通じて孤独に戦っておられる方のお役に立てるなら、無駄な体験ではないのだと思います。毎日、弱音だらけですが、多くの方が、お読みいただき、お祈りいただいていることに感謝です。馬場さんともジャーナルを通じて仲良くさせていただけて、こちらこそ、これからも宜しくお願いいたします。
 「愛」のこともお褒め頂き感謝です。馬場さん所のワンちゃんは、16歳なのですね。人間でいうと90才を超えているということは「愛」は、3月で19才ですので、100才超えているかもしれません。だから、「愛」の体調が、悪くなっても「助けて下さい」ではなく、「御心のままに」と祈ります。でも、1日でも一緒に過ごしたいと思います。
 今日は、内科の日でした。お医者さんの前日なのか、昨夜は「レメロン2錠」にして頂いたのに、眠れませんでした。体重は、200gしか増えてはいませんでしたが、血糖値は216に上がっていて、お薬が増えてしまいました。先生にも、「昼おさえてても、夜中食べたらだめですよ。今度は、こちらの薬も減らせるように、食生活を正してください」と、言われてしまいました。
 朝に「寝れた?」と聞かれることがプレッシャーで腹立たしく、イライラするなど、本当に、自分で自分がいやになる薬に、依存したくなくても依存してしまう辛い症状です。今回のように、「依存している薬がなくなる」なんて思いもしませんでした。
 明日は、内科で体重測定と血糖値の検査です。あれだけ夜中に食べていたのだから怒られるのは自業自得ですが、やはり、心配です。お祈りありがとうございます。

1月27日

 おはようございます。今日は、正真正銘「おはようございます」です。昨夜は、おかげさまで、かつてない程深い熟睡が与えられました。感謝です。そして、朝9時に目覚めました。外は、まぶしい程の良いお天気です。昨日は、内科で血糖値が216もあったので「食事を正すように」と言われ、夜中の

「お腹いっぱい食べる」はしませんでした。

「レメロン1錠→2錠」「ハルシオン1錠」「セパゾン2錠」に、ベゲタミンのかけら1/20くらいを服用してベットで、DVDをみていました。途中DVDは消したみたいですが起きたら、部屋の電気は、ついたままでした。本当に、ぐっすり眠れたので、身体の不快な症状は今の所、影をひそめました。お祈り本当にありがとうございます。

ベゲタミンの依存から抜け出すのと血糖値と体重を減らすこと、痛みの緩和のための鍼治療。課題は重なっていても同時並行に進みます。28年もベゲタミンに依存していましたが、完全に、ベゲタミンは0錠で眠れるようになったわけではありませんが、希望が見えてきました。

調剤薬局でも、お薬が残っていないか電話の問い合わせも多いそうです。多くの方が戦っておられるようです。一緒に戦っている方のこと、ご家族のことをお祈りしています。

1月28日

昨夜は、ベゲタミン0錠でうとうと寝れました。お祈りありがとうございます。それで、夢を見ました。30歳までに、交通事故や難病で亡くなった親友2人が何故か死んだと思っていたのに生きていて、話をすることが出来て、すごく懐かしかったです。普通、夢は忘れてしまうものなのに、起きても覚えていました。若くして亡くなった親友の経験より、はるかに軽いですが、私も交通事故にもあい、難病にもなって、少し気持ちが共有できたのかもしれません。世の中には、多くの苦難を抱えて生きておられる方が多いと思います。少しでも苦痛がやわらぎますように、お祈りしています。

1月29日

28日、レメロン2錠・ハルシオン1錠・セパゾン2錠・ベゲタミン0錠で、少しは寝れた気はするのですが、朝に抜けるように身体がだるくて、ふらふらして吐き下しになりました。たった2日、ベゲタミンをやめただけで、離脱症状の辛さに、自信がなくなりました。28年も服用して、依存していたのだから、依存から抜け出すのは、簡単ではないようです。

2月2日

 おはようございます。久しぶりに、午前中にメールしています。大阪は、とても良いお天気です。眩しいくらいの光が、窓から差し込んでいます。

  昨夜は、ベゲタミン0錠・レメロン2錠・ハルシオン1錠・セパゾン1錠で

うとうとと、短い眠りでした。セパゾンが2錠→1錠は、実は、床に落としてしまい予備がないわけではなかったのですがそのまま、セパゾンを1錠にしました。そのせいか、わかりませんが、今日はだるさがましみたいです。

  本当は、セパゾンは、朝・夕食後に出ている薬で、血液内科に入院した時、「寝にくいようなら、寝る前に一緒にしてもいいからね」と言っていただいてから、寝る前に服用していましたが、様子をみて、朝・夕食後に戻してもいいのかもしれないと思いました。偶然の中にも、ヒントはあるのですね。

2月4日

 おはようございます。今朝も、大阪は良いお天気です。ベゲタミン0錠。レメロン2錠。ハルシオン1錠。セパゾン1錠にして3日かが過ぎました。あまり、寝れているとは言えないですし、身体のだるさは辛いです。やはり、ベゲタミンの離脱症状は手ごわいみたいです。どこも出かけなければ、このまま様子をみたいところですが、2月7日には、息子の家に主人と娘と一緒に車で行きます。3月の結婚式もありますし、余り、体調が悪くても困るので、そろそろ、ベゲタミンを足すべきか迷っています。

幼稚園で働いていた時の先輩から、お手紙を頂きました。「お祈りしています」と書いてありました。嬉しかったです。また、体調が良くなって、会える日を楽しみにしています。

2月12日

こんばんは。レメロン2錠。ハルシオン1錠。セパゾン2錠。ベゲタミン0錠で、4日が、過ぎました。ベゲタミンの離脱症状としては、目の傷みや胃の傷みがありますが、熟睡できる日も出てきて、ベゲタミンが、徐々に体から抜けていっているのかもしれません。眠れないと、不安になりますが、今は韓国のファジョンという歴史ドラマがおもしろくて、眠れないことが、辛くないのが感謝です。字幕でなくて、日本語吹き替えにして、眠くなったら、手元で消せるようにしています。

眠れない時、助けられた甘いものは、控え、今は血糖値が、高くなったので、食事の前にも必ず、野菜ジュースを飲むようにしています。胃が痛くない時は、青汁も飲むようにしています。体重も2か月でマイナス1キロをめざし、夜中の夜食は、極力食べないようにしています。糖尿の薬からも卒業したいです。

記録すると、自分が食べたもののカロリーや栄養の偏りなどが参考になり、食べ過ぎ予防になります。

ステロイドの依存から抜け出すのも、本当に辛くて、副作用で血糖値が上がらなければ、0錠にはできなかったと思います。その辛い経験が、ベゲタミンの依存から抜け出す助けになりました。どんなことも「無駄なことはない」のだと思います。まだまだ、先は長いですが、お祈りありがとうございます。

2月13日

 大阪は、今日も寒いです。鳥取の方では大雪だとか、ニュースで知りました。今日は、ベゲタミン0錠で5日過ぎました。眠れたのですが、起きた時のだるさはひどくて、離脱症状との戦いは、続いています。栄養ドリンクは、眠れないと困るので果物のジュースで、だるさと戦っています。お祈り感謝です。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

  その愛のゆえに

   =時々の記=

    (131)

1月26日

大阪の「美しい朝」さんは「ジャーナル」を読んでいるみなさんを信頼して、ご自分のすべてを出し切っておられるのですね。苦しい中にも、包み隠さずにその思いを出すことができる場所が「ジャーナル」であったならば、とても尊いことです。今、多くの方が精神的に追い込まれていると聞いていますから、そのような方たちが心から信頼して「ジャーナル」にご自分の苦しさ訴えてくださる事は何物にも代えがたい月刊誌としてお役に立つことができるのですら、感謝ですね。こちらは今朝は氷点下4度まで下がりましたが、日中は寒さが久しぶりに和らいで、お日様が土手を照らし、その土手からは黄色いタンポポが花を咲かせていました。春が隣りまで来ているのがうれしい限りです。
 そこ冷えや主の十字架を聞きにける。
 さ緑に川増水す春隣。
 冬耕や田の美しき灰色に。
 朝より声張り上ぐる寒カラス。
 紫と化す雑木山春隣。       馬場路哉
遠くに見える山並みはいつの間にか芽吹き始めて紫色になっています。春って嬉しい季節ですね。でも、我が家の土手にも小さな春がやってきました。フキノトウが土を盛り上げているのです。思わず声を上げてしまいました。今年は念願の沈丁花の苗木を(あか、しろ)を植えました。あのとても良い香りを放ってくれるかなあと楽しみにして春の訪れを待っています。

1月31日

プロパンガスを配給してもらっていますが、雨の中でしたので。雨の中大変ですね。有難うございますとお礼を言いました。すると、雪でなくて本当に良かったですと言われました。そうですよね。普通ならば、この時期に雨ではなく雪になるのでしょう。でも雪にならなくて良かったと、雨でも大変な作業ですのにそのようにプラスに考えることができる人はとても幸いですね。
ガス屋さんのそのひとことがうれしい一日でした。

2月2日

この頃、野生の鳥が少なくなっているというのです。百舌鳥(もず)、雀さえも珍しくなっているというのです。気象の影響なのか、大敵のカラスにやられているのか、よくわかりませんが、鳥の鳴き声が聞こえなくなった山を散歩するのはとても寂しいものです。例年なら、すっかりなくなっている渋柿がまだたくさん木の枝に残っています。南天も赤い実を残しています。
 大根の土より覗く白さかな。
 群雀田に降りもする春隣。
 池浅く眠りをるかや寒の鯉。
 花八手大きく掲ぐ古刹かな。
 教会の雪掻く信徒あから顔。      馬場路哉
2月3日

メールに仕事場まで3000歩、教会まで5000歩歩いて行かれているとのことが記されてありましたね。毎日の犬たちとの散歩で、長村さんが3000歩歩いて仕事場まで行かれることを思い出して、私たちも一度に千歩ほどですが、励まされて歩いています。歩いていると、季節の変化、風の冷たさやぬくもりなど身近に感じられて何よりの運動だと考えています。一歩歩くと一ミリの筋肉がつくといわれています。耳の聞こえなくなった、目の見えなくなった犬たちはただ匂いだけを頼りに散歩をしています。よろよろしながらも散歩に行く時はとてもうれしそうにしっぽを振ります。精一杯生き抜くためにしっかり散歩している姿にです。
 青空に整ひ初むる冬芽かな。
 天地に光るものあり日向ぼこ。
 連山の藍染めとなる初景色。
 西空に頼む明るさ日脚伸ぶ。
 細やかな枝は欅(けやき)の冬木なる。    馬場路哉
教会の心病める友から私が送った手紙に対してのお礼の電話が入りました。とても落ち込んだ様子でした。筋力が弱ってしまい歩くことができないというのです。2月7日

こちらは今朝から雪が冷たい風とともに舞っています。そんな中、庭の梅の木のてっぺんに花が咲いているのです。ぶるぶる震えての開花です。まだ咲き始めたばかりですからこの寒さに驚いていることでしょう。春がすぐそこまで来ているのが感謝な思いになります。お隣の月ヶ瀬では奈良市内から梅をめでに来る方たちと出会いました。この時期はバスも奈良市内から一時間に一度出ているようです。さすがに梅の月ヶ瀬です。
 サクラは吉野の千本桜がとても素晴らしいです。最近は海外から観光にやってくる方がたくさんおられるらしいです。奈良市内ではどこでも観光ガイドとして英語、中国語、韓国語が話せる方がいると聞いています。

日曜日の礼拝ではインフルエンザで休んでいた方があり、私も気を付けないと思っていたら、昨日から喉が焼け付くように痛く、これは風邪だなと今朝早くに診療所へ走りこみました。診療所もとても混んでいるので、しばらく家で待機してください、とのこと。一時間半ほど家で休んでから再度行きました。それからでも待つこと一時間あまり。こんな田舎の小さな診療所でもこの混雑ぶり。先生に診てもらうと、インフルエンザではなく、風邪ですねといっていただきほっといたしました。すぐに変化に対処できるようにお薬は全部飲み干すのではなく、一日分は手元に残しておきます。
 おきつもの名張の山に雪舞へり。
 伊賀盆地囲める山の冬霞。
 谷戸(やど)の灯のちらちらすなり冬の風。
 笠間川透き通るをる淑気かな。      馬場路哉
主人は血液検査を診療所でしていただきましたが、甘いもののとりすぎといわれ、自粛しています。疲れるとつい甘いものに手を出してしまうのです。

    馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (55)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

第26章 聖徒の交わり

1 みたまにより、また信仰によってかしらなるキリストに結合されているすべての聖徒は、イエス・キリストの恵み・苦しみ・死・復活・また栄光において彼との交わりにあずかる(1)。また彼らは、愛において互いに結合されて、相互の賜物と恵みをわかち合い(2)、また内なる人においても外なる人においても共に相互の益に貢献するような彼らの公私の義務の実行を義務付けられる(3)

  1 ヨハネ1:3、エペソ3:16-19、ヨハネ1:16、エペソ2:5,6、ピリピ3:10、ロマ6:5,6テモテ2:12
  2 エペソ4:15,16コリント12:7コリント3:21-23、コロサイ
2:19
  3 テサロニケ5:11,14、ロマ1:11,12,14ヨハネ3:16-18、ガラテヤ
6:10

一 教会と聖徒の交わりは、同一事の両面であるという理解にたって「教会すなわち聖徒の交わり」と使徒信条を読むことが主張されてきた。ローマ・カトリック教会などが、この二つを別のこととして、後者を「聖徒の交通」と訳して、死んだ聖徒との霊的交わりの意味と理解する誤りを排除しようとするもので、本信仰告白では、両者を区別している。しかし、決して別のことと認めているのではなく、教会におけるキリストと信徒との縦の交わりに対して、キリストにある信徒相互の横の交わりを主として意味していると理解するのである。キリスト者の主イエス・キリストとの結合を、聖霊と信仰と表明している点は、ウエストミンスター大・小教理問答の教えを総合調和しているとも言える。この縦の生命的結合こそ相互間の交わりの根源である。主の晩餐の礼典が、やはり「それはイエス・キリストの神秘体の肢としての信徒相互の結合の象徴である」(ベルコフ著・大山忠一訳「改革派神学通論」)とも言っている。 愛と奉仕は、神とキリストへの感謝・献身であるが、実際にはこの相互の建徳と助け合いという形をとるのである。ここに、教会の意義の最も重大な点が存在するのである。

2 信仰告白をした聖徒らは、神礼拝、またその他彼ら相互の建徳に資するような霊的奉仕の実行(1)、更にまた彼らのそれぞれの能力と必要とに応じて外的な事柄においても互いに助け合うことにおいて、聖なる交誼と交わりとを保たなければならない。この交わりは、神が機会を供えてくださるままに、主イエスのみ名を呼ぶ至る所のすべての人々に広げられなければならない(2)

  1 ヘブル10:24,25、行伝2:42,46、イザヤ2:3コリント11:20
  2 行伝2:44,45ヨハネ3:17コリント8,9章、行伝
11:29,30

二 教派の分立が、この意味の教会の公同性を阻害してはいけない。今日流行のエキュメニスム(合同主義)は、教派主義の一つの弊害を過大視しているようである。主の晩餐の参加資格や転入会の取り扱いについても、この点もう少し寛大が望ましいと思う。しかし、その教派が果たして、基本的信条を受け入ているか、否かは、さらに根本的な問題であろう。

3 聖徒らがキリストともつこの交わりは、どのような意味ででもキリストの神性の本質にあずからせず、またどのような点でもキリストと等しくならせるものではない。そのどちらを主張しても不敬けんであり冒とくである(1)。また聖徒としての彼ら相互の交わりは、おのおのが自分の財産や所有に対してもっている権利すなわち所有権を奪ったり侵害するものではない(2)

  1 コロサイ1:18,19コリント8:6、イザヤ42:8テモテ6:15,16、詩45:8(7)、ヘブル1:8,9(*)
     *45:8(7)をヘブル1:8,9と比較

  2 出エジプト20:15、エペソ4:28、行伝5:4

三 ウエストミンスター信条は全体に積極的告白であるが、ここには、他の少数の例外と共に、否定的な要素が記されている。一つは、キリストとキリスト者との絶対的性質的相違の主張であり、他は、私有財産制の肯定である。キリストは「人の中の最大の人」でなく、キリスト者は「小キリスト」ではない。キリストの神性に信徒が関与するのではない。キリストと神との同質性とキリストの人性とわたしたちの性質との同質性が根元的である。

 私有財産制は、教会の歴史上、決してひと時も否定されなかったことは、使徒行伝5章4節を見るとよく理解できるところである。共産制度や独裁制の行き過ぎに対する聖書的歯止めとしてこの告白文は重要性を持つのではないだろうか。

 

さんびか物語 ・・・36・・・

    (広く愛唱されている50曲)・・・35・・・

           ポーリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美歌352番

 あめなるよろこび

<神様のみ言葉>

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主に働きによるのです」。 

~コリント人への手紙第、3章17~18節~

讃美歌352番、‟あめなるとろこび”の作者チャールズ・ウェスレーはアイザック・ウオッツと肩を並べる最高峰に位する詩人であります。チャールズとこの兄のジョンは、オックスフォード大学で教育を受けていた間、同級生の霊的生活の乏しさに不満を感じ、神様を中心にした「聖なる会」をもうけました。この会のメンバーの厳しいルールやきちんとしたことの弁別によって「メソジスト」というあだ名がつけられました。その後、イギリスを中心に広まったメソジスト運動は、ここから始まったと言ってもよいでしょう。

チャールズは一生の間、父サムエル・ウェスレーと同じように、国教会の聖職としての任務を果たしましたが、同時に、メソジスト運動の創設者であった兄のジョンと一緒に、イギリスの信仰復興のために、大いに活躍いたしました。

チャールズ・ウェスレーにつきましては、この讃美歌62番をご参考になさってください。

チャールズ・ウェスレーは、全部で6500以上の讃美歌を作曲いたしましたが、その中でもクリスマスに歌われる‟あめにはさかえ”(98番)、‟わがたまたましいを愛するイエスよ”(273番)とこの‟あめなるとろこび”(352番)の三つは、最高中の傑作と言われています。

讃美歌‟あめなるとろこび、こよなき愛を”は、1747年にJesaus Show

us Thy Salvation(イエスよ、あなたの救いを私たちに表わし給え)という題のもとに初めて発表されました。

当時のイギリスの道徳的な水準は、今日の世界と同じように低下し乱れていまして、社会的にも、個人的にも、霊的にも下降の道に向かっていました。このような時代に主イエス・キリストとその十字架による救いを中心にしたウェスレー兄弟の伝道によって、多くの人々が神様のみ前に新しく生まれかえさせられました。今日も、このようなリバイバルがあることを信じて、お互いに熱心に祈るべきであると思います。多くの人々に、自分の罪を神様のみ前に認め、悔い改めて救われた者の喜びを味わい知る日が一日も早く来ることを切望いたします。

この讃美歌の曲BEECHER (別名LOVE DIVINE ZUNDEL)は、歌詞の出版の123年後の1870年に発表されたものであります。

作曲者ジョン・ザンデルは、1815年12月10日ドイツのホックドルフに生まれました。彼はまず聖ペテルスブルグ(今のレニンゴラード)で聖アン・ルスラン教会のオルガニストならびに、近衛騎兵連隊の楽長をつとめていました。彼は1847年にニューヨークに移って、30年間アメリカで教会のオルガニストとして素晴らしい奉仕をしていました。彼は主にブルックリンにあるプリマス教会での奉仕でしたが、この教会の牧師は有名なヘンリ・ウォード・ビーチャーでした。ビーチャーは当時の牧師でリンカーン大統領の知人であり、奴隷廃止論者でした。彼の説教とザンデルのオルガンの評判は、あまりにも広まっていたために、大勢の人々が日曜日ごとにプリマス教会に集まってきました。

ビーチャーと聖歌隊の指揮者であったジョンズとザンデルが協力して、1851年に‟テンプルメロデー”という讃美歌集を発表しましたが、ビーチャーは、それでは満足しなかったので、改めて、1855年に‟プリマスコレクション”という讃美歌集を出版しました。ザンデルも協力して彼自身の曲を28ほどここに収めています。その上ザンデルは、自分で讃美歌集を3巻発表しました。この曲BEECHERは1870年に発表した‟クリスチャン ハート ソングス”に収められていたものです。ザンデルは引退してから故郷に帰り、1882年に亡くなりました。

<352>

1 あめなるよろこび こよなき愛を

  たずさえくだれる わが君イエスよ

  すくいのめぐみを あらわにしめし

  いやしきこの身に やどらせたまえ。

1節で作者は‟わが君イエスよ、あめなるよろこび、こよなき愛をたずさえて、今一度くだり給うように”と歌っています。原作では、この切なる願いをいくつかの動詞をもって表現していますが、日本語訳では‟くだってください” ‟救いの恵みをあらわに示してください”また、‟いやしいこの身に宿ってください”と歌っています。

なぜ、このようにキリストのおいでになることを願っているのでしょうか。なぜこれが必要なのでしょうか。それは、私たちがほんとうに卑しい者、汚れた者だからです。また、キリストがみ霊なる神様が私たちの心に宿ってくださらないなら、霊的な進歩・発達はできないからであります。パウロはコリント人への手紙第一、6章19節で「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり…」と言い、成長させて下さるのは神なのです」(Ⅰコリント3:7)と言っています。この聖句にも示されていますように、主イエス・キリストへの信仰とみ霊が私たちの心に宿るように絶えず祈ることが大切であります。原作の2節ですが日本語訳では省略されています。この2節で作者は、‟主よ、私たちの悩んでいる心に、あなたの霊を吹き込んでください。どうか私たち一人一人があなたの相続人となり、あなたが約束された安息に入れてください“と歌われています。では、この‟安息”とはどのような安息でしょうか。それは、ヘブライ人への手紙4章11節に記されているような安息を意味するでしょう。すなわち、「私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者がひとりもないようにしようではありませんか」という力強い言葉をもって、ヘブライ人への手紙の著者は、私たちを励ましてくださいます。また、原作の2節の終わりで作者は、今一つの大切なことを歌っています。それは罪を犯そうとする私たちの傾向・性質を取り除いて、私たちのアルファとオメガになってください、ということであります。

このアルファ、オメガは、最初と最後を意味する言葉で、ヨハネの黙示録21章5節~6節には「御座に着いておられる方が言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる』」と言われています。

このアルファでありオメガであられる、まことの神様を己が神とするその人のみが、罪に打ち勝つことができるのであります。神様への信仰を、私たちの生活の‟初めと終わり”にすることは、どんなにか素晴らしいことでしょう。

2 いのちをあたうる 主よ、とどまりて

  われらのこころを とこ宮となし

  あしたにゆうべに いのりをささげ

  たたえのうたをば うたわせたまえ。 

2節(原作は3節)では、いのちを与え給う主を、ほめたたえています。もちろん、ここで意味する‟いのち”は、まことのいのち―永遠のいのち―であります。主イエスご自身のお言葉によりますと「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ10:10)。主イエス・キリストが私たちにとどまりますなら、私たちは豊かにいのちを持つことができます。そして、その豊かに持っている証拠が、神様を心から賛美することができるという事実のうちにみることができます。何と感謝でありましょうか。

3 われらをあらたに つくりきよめて

  さかえにさかえを いや増しくわえ

  みくににのぼりて みまえに伏す日

  みかおのひかりを 映させたまえ。

3節でウェスレーが心から歌っているのは、主が私たちをあらたに造り潔めて下さるということであります。昔、主イエス・キリストがユダヤ人の指導者であったニコデモにお語りになったように「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)。私たちも、あらたに造りきよめていただかなければ、み国に登ことも、神様のみ前に伏す日も迎えることはできません。

この讃美歌で歌っています‟さかえにさかえをいや増しくわえ”とか‟みかおのひかりを映させたまえ”という祝福を体験するためには、まず主イエス・キリストを信じる信仰による、また、神様を父とする新しい出生を経験することであります。

私たちは、お互いにキリストにある救いとみ霊の潔めと力を受けて、神様のみ前に伏すその素晴らしい日を目ざして前進いたしましょう。

 

ビルマ 戦犯者の獄中記 (72) 遠山良作著

―戦犯裁判終わる―・・・2・・・

11月26日 

 この刑務所にはわれわれ刑を受けた者の外に、戦犯容疑者として取調べの中の者、外に証人として残された者も40数名、弁護団、残務処理のために残っている者、日本の逃亡兵等約80名全員は今日出所した。

 戦争、敗戦、刑務所との生活から解放されての出所である。彼らの喜びはいかまかりか。われわれは淋しさを隠して拍手で見送った。少人数ではあったが、最後までわれわれを励まし、支えてくれたことに心から感謝する。これからはどんなことがあろうとも、自分たちの力で幾年続くか分からない異国の牢獄で生きてゆかねばならない。

11月30日

 死刑囚を除いた者、全員雑房に移された。雑房とは木造二階建ての建物である。今までの戦犯容疑者が収容されていたところで、階下に4部屋、二階に4部屋仕切られ、1部屋に約30名位収容できる広さである。私たちは全員2階に入った。床は板張りであるから、コンクリートの独房と違う。また友と枕を並べて語り合うことが出来るからありがたい。それに空がとても広い、四方は塀に囲まれて外部を見ることは出来ないけれども、長い獄房生活者にとっては広い世界を見るようである。

 所内の景色をあきることなくいつまでも、いつまでも眺める。

 誰の顔を見てもホッとしたような喜びの笑顔である。死刑の宣告を受けて独房にいる戦友には本当に申し訳けない思いがする。

 白き雲 囲むがごとく 悠々と 鳶は舞いおる 獄の真昼は

 日もすがら 扉に寄りて 破れたる ただ一枚の 上衣つくろう

 そよ風の 流れゆくそき 黄色なる 木々の葉のひかり ああビルマの秋

 独房(ひとや)より 雑房移りて とまどえり わが目に映る 視野の広さに

12月16日

―絞首刑を執行された3名―

 戦犯裁判が終了したから、9名の死刑囚にも減刑になるのではないかとの希望もむなしく、葵生川(けぶかわ)、岩木、鼻野の3名の死刑が執行された。一人の英兵が10名が使役に出るように指示してきた。私たち10名は絞首台のある地に案内された。そこで太いロープで首を巻かれたままの3名を見た。執行されたばかりの遺体はまだ温かいが顔はむくみ、誰であるかの判別すら困難であるほど変わり果てた姿に止めどなく流れる涙でどうしょうもない。

 ロープを解いて用意された棺に死体をおさめて、トラックに乗せてラングーン郊外になる日本人墓地に運んだ。用意されて来た薪を積み重ね、その上に死体を乗せて、荼毘(だび)にする。いやな臭いの黒煙はあたり一面に立ち上こめて、彼らの魂があたかも天に昇って行くようである。

 英兵の指揮するインド兵10名が要所で銃を構えて監視している。彼らは戦友の遺骨を拾うことを許さない。しかし我が子の帰りを待っている御遺族のことを思うとなんとか遺骨なりとも御届けしなければならない。薪をくべるふりをしては監視兵の隙を見て少しずつ拾って持ち帰ることが出来た。

 「ああむごい」と首に巻かれし ロ-プ解く 刑死の君は 未だ温し

 体温の 残る刑死の 戦友を 抱けばむやみ 涙流れて

 識別の かなわぬまでの 貌(かお)となり 絞首刑受けし 友の死骸(なきがら)

 刑死せし 君の亡骸 荼毘にふす 黒き煙の 立ち込む中を

 死刑囚 戦友の遺骨(ほね)を盗むごと 広いてひそかに ポケットに蔵う

 処刑されし友 遺骨を葬りて 古き板切れ しるしに立てぬ

   

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・51・・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・6・・

答・・18 わたしたちが「死」を恐れるのは、死によって自分が失われ、自分がなくなってしまうと思うからです。死んでも失われない何かに継がれることが信じられれば、その失われない何かに託して死ぬことが出来るかもしれません。太平洋戦争において、若い学徒たちは戦場に駆り出され、自分の死を「悠久の大義に生きる」ことに位置付けて死んでいきました。「悠久」とは「変わりなく続く」ことであり、「大義」とは「究極の関係に生かすもの」のことと言ってよいでしょう。

 とにかく、そういうものに継がれることを信じることが出来なければ、自分の死はそれっきりで無に帰するしかないし、それではたまらないと思ったからでしょう。彼らだけでなく人はすべて死に対するなんらかの意義付けをしなくては死にきれないのではないかと思います。ただ、その場合、そのようにして意義付けをする自分が、どれほど確かな存在であるかという問題は依然として残ります。

 話が一足飛びにイエス・キリストの場合に移りますが、キリストは、十字架につけられて死ぬ直前「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。「わが神」というのは、自分にとって究極の存在であり、自分を超えて自分を位置づけ、意義あらしめるものです。そういう神から見捨てられるということは、自分というものの存在の一切の基盤を奪われることであり、耐え難いことです。

 「悠久の大義」についても、それが虚構であり幻想でしかないと分かったからなら、死ぬにも死ねないということになるでしょう。一人相撲を取っているに過ぎないことが分かることも、辛く耐え難いことですが、究極の拠り所としている相手から見捨てられるということは、絶望以外の何ものでもありません。親しい関係にあった人から見捨てられるようなことがあれば「どうして?」と問いかけます。それに対して答がなかったらどんなに辛いことでしょう。しかし、わたしたちは生まれて以来「わが神」と言えるような、神様との親しい関係の中に生きて来ていません。ですから、「神に見捨てられた」という関係の断絶事態は、体験のしようもありません。

 旧約聖書に中には、「死んだ」ことを「眠りについた」という表現で言い表していることがしばしばあります。考えてみれば、眠りから覚めるのが生きている証拠でありますから、眠ったまま覚めないことは死んだことになるわけです。そういう意味において「永眠」とは良く言ったものだと思います。では死んだあとはどうなるかというと、これについて何かを述べていることはほとんどないようです。それは当然のことです。ただし死後のことについての信仰や希望を語っている人はいます。

 例えば詩編23編の記者は次のように言っています。

 「主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいて下さる」。この人は、死後どうなって行くであろうかなどの推測はしていません。また、ヨブは次のように告白しています(ヨブ記19:25~26)。

 「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう」。

 ヨブの場合も、死後の自分がどうなるかについての詳細は語っておりません。ただ確実なこととして言っていることは、自分が死んだ後も、仰ぎ見ることができる神様は生きておられるということであって、これは信仰によってのことです。

 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」とヘブライ人への手紙の著者が述べているのは、以上のような人たちのことを総括してのことでありまして、死後の状況についての説明はしていません(11:23)。そういうことから言って、「死んだらどうなりますか」という問いに対しては、「神様がずっとついていてくださいます」という信仰に基づく答えをすれば良いし、それに尽きると思います。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

<2017年3月のラジオ放送予定>  

  3月 5日 田口博之   (日本基督教団名古屋教会牧師)

    12日 田口博之   (日本基督教団名古屋教会牧師)

    19日 高橋 潤   (日本基督教団中京教会牧師)

    26日 高橋 潤   (日本基督教団中京教会牧師)

         (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

第77課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・24・・・

B キリスト者の市民的義務・・・10・・・ 

       13:1~7・・・9・・・

「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・1・・

 「だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの仕事に携わっているのである」。(5~6節)

 パウロはここで為政者への服従と言うことが、国家によって市民に課せられている義務ばかりでなく、それが宗教的な義務である、すなわち、神への良心的服従の一部であるということを教えています。私たちが合法的な為政者の命令に服従しなければならないのは、そうしなくてはならないばかりでなく、そうすべき義務があるからなのです。

 私たちが従うのは怒りを逃れるためばかりでえなく、すなわち、刑罰を恐れるためのみでなく、神への良心的な献身の問題であるからなのです。このことは私たちは違反に対して逮捕されたりする可能性や危険性があるときにのみでなく、そのような可能性にない時でも、常に遵法市民であるべきことを意味しています。私たちは結果に対する恐れではなく、それを容易に破ることができる場合でも、法律に従わなければならないのです。

 このことは神のみ言葉に教えられているところであって、為政者に対するキリスト者の義務の崇高な理念なのです。このことが真剣に考えられて、キリスト者は常に遵法行為の模範でなくてはならないのです。例えば、所得税申告などにおいても、正確かつ誠実でなくてはならないのです。それは不正直に対する罰があるからではなく、所得税をごまかすことは、実は神に対して罪を犯すとだからです。

 

 神のみ言葉は、私たちが公正であり正当であると信じる国法のみでなく、たとい不公正であり不当であると考える法律をも、それが法律である限りは、従うべきことを要求しています。個々のキリスト者は国家の法律の中から、どれに従うべきか、どれには従うべきではないかを選び決定する権威は、与えられていないのです。

 キリスト者はすべての法律に従うべきであって、彼にとって不公平であり不当と見做されるものにも、従わなければならないのです。いずれの国においても、一部の人々や一つの階層の人々にとって不公平と思われるような法律があります。しかし、その理由でそれらを無視する権威はだれにもないのです。反対する人々は、それらを取り消すために、合法的な運動をする権利はあるけれども、それらが国法である限り、キリスト者の義務として従わなければならないのです。

 J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

   ほっとひととき『みんなのコーナー』

 ☆ 石油タンクの火災で驚きました。現場からは少し離れていますが、家の近くには沢山の備蓄タンクがありますから、怖いです。この恐怖は全国各地にある石油施設の近くに住む人も同じですよね。主人はこの関連の会社に勤めていますから、複雑な気持ちです。・・・。 和歌山県 W・Uさん

 ☆ 川岸を犬と散歩していたら、つくしやタンポポを見つけました。草花には春がもうすぐなのですね。何だかうれしくなり、メールしちゃいました。 鹿児島県 K・Kさん     

 ☆ 雪国の人が春を感じるものに、「雪形」と「雪解け水」があります。雪深い我が家からも、毎日、この「雪形」の変化を眺めて春の訪れ感じております。小川のせせらぎにはまだ少し時間がかかりそうです。(雪形・・・山肌にできる残雪のことで、農作業の歳時記でもありました)  長野県 T・Kさん

 ☆  朝ゴミ出しに行ったとき、団地の敷地で白梅が咲いていました。こんなところに梅が植わっているなんて今まで気付かなかった。寒さは厳しいけど、春は来ているのですね。そういえば、小鳥たちも動き出していました。ベランダの鉢植えにも蕾がありました。 東京都 O・Kさん 

 =編集子=

 「つのぶえジャーナル」2月号の「美しい朝に」の感想が数多く来ていましたので、ご紹介いたします。

Δあの2月号は、今の娘の姿ですが、想像できていない母親でした。娘に申し訳ない気持ちです。

Δ製薬会社や掛かり付けの医者に怒りを感じます。何の説明もなく飲み続けていた私の身体や気持ち、どうしてくれるの!!

Δこれって、薬害じゃん・・・。

Δ「美しい朝」さんの勇気、すごいです。

Δ家族にも理解されないって本当に悲しいよね。でも伝えようがないですね。

Δアルコール依存症や過食・拒食の人もきっと同じ苦しみにあるのでしょう。何もできないですが、もう少し理解することにします。

Δご家族いや周りの人を気遣い元気に振舞っていたのですね。その気持ち、分かるなあ・・・。

Δ私は不眠症で退職して10数年になります。病院には行っていますが、あまり変わりません。周囲の目が気になるのと、妻や子供のために時給の高いコンビニで夜勤しています。家では家事洗濯は私の役目です。辛いです。

Δクリスチャンは我慢強く、弱音は言わないと思い込んでいて、自分を隠していましたが、「美しい朝」さんは、自分のことを告白されていて、これからは、自分のことを隠さず家族に、夫に言おうと思いました。

Δ「美しい朝」さんの所を読みましたが、私は主治医に相談しないで自分で断薬し、失敗して後遺症が残り苦しんでいます。辛いです。

Δ心の病でお風呂に入れませんし、下着も替えなくても平気です。家族から臭い、臭いと言われていますし、分かっていますが入れないのです。臭いの強い香水を匂うところに振りかけています。ですから嫌われますが、どうにもできないのです。

Δ主人は脳こうそくの後遺症でリハビリに励んでいますが、最近は投やり気分になっていましたが、友達が「美しい朝に」のコピーを送ってくれまして、読んでいるうちに頬に涙が流れていました。ぽつりと「諦めたらお終いなんだ・・・」と独り言を言っていました。うれしい一言でしたので、初めてメールしました。これから読むことにします。

ΔK・Aさんの「美しい朝に」を読みました。同じではありませんが、頑張らないでほしいです。失敗も挫折もあります。落ち込むこともあります。それは生きているからです。決して、弱さとか根性がないとか、いろいろ考えないでださい。それが自然な人間だと小生は思うのです。自分らしく生きてほしいと思いました。 

Δジャーナル」を読み「美しい朝に」で 同じように考えている人がいる。ベゲタミンですか、我が家の冷蔵庫にも入っています。主人の薬で私も過去に飲んでいました。私も癌の手術から5年目、ほかに難病も持っています。こちらは、進行が遅く、生活に支障が出ない限り、手術しないと難病指定にはなりません。でも五十肩でさえびびることもあります。それと、旦那を置いて私が先に天国に行けない。この躁鬱の暴れ恐竜を置いては、世間様に申し訳かない・・・。暴れ出したら入院させないとと色々考えてしまいます。これでいいのかな・・・?

**このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております** 編集子

 
 

  『ありがとうございます』

 「緑のまきば」を書いてくださいました、吉岡 繁先生が召されたとの連絡を受け、神様の身元へ行かれたのだと思うと同時に、心の整理に時間がかかりました。夫人から、先日、お電話をいただきました。先生のお書きになった「緑のまきば」を、親しい方やお孫さんにお渡ししたいので、とのお申し出でした。

ご不便な日々に関わらずお元気なお声で安心いたしました。

 「緑のまきば」が、このような形で用いられ、また、多くの方に読んでいただけることは、吉岡先生ご自身の願いでもあると思います。改革派教会の信徒ばかりでなく、若い牧師にも、良き指針となることを願っておられました。「つのぶえ」時代には、毎月きちんと原稿をお送りいただくとともに、私信も同封くださいまし。本当に励まされました。これは、岡田 稔先生の「解説 ウエストミンスター信仰告白」の出版の時も同じでした。学者でありつつ、牧者の姿を学ばせていただきました。私は本当に良き師に出会い、導かれたとしみじみ感謝しております。今日、このようにみ言葉を多くの方にお届けさせていただくための姿勢を、多くの方々のお祈りと共に、この良き師の励ましには、感謝しかありません。

3月号を皆様にお届けできることを感謝したします。

2017年1月16日から2017年2月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者

小河 清様 藤掛朔生様 藤掛久子様 和田順一様 和田貴美子様 斉藤 進様 

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

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緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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