2017年7 月号 №120 通巻806 号 号)
「つのぶえジャーナル」へようこそ
涙をもって種まく者は、
     喜びの声をもって刈り取る。 詩篇126:5
 

  今月のことば

 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

      ~詩篇32:2~

 聖書の言葉の表現に、時々戸惑うことがあります。この「その霊に偽りのない人」もその一つでしょうか。では、その人とは具体的にどういう意味があるのでしょうか。少なくとも、私たちが単純であるのを止めてしまったとき。ただ一つの目標だけに目を注がず、ただ一つの可能性だけを見ないとき。私たちの心が神様と富とに分裂するとき。キリストがもはや私たちの唯一の贖い主・救い主でなくなったとき。そのようなときに、私たちの霊は「偽り」ある者となっていると言うのです。

 不義・不信・猜疑・混乱と敬虔・純粋には大きな違いがあります。私たちの働く知的作業は、計算したり評価したり、駆け引きしたりであるとき、「不義を負わされ」ているのではないでしょうか。

 さて、単純なものがあります。それは、「神の愛と恵み」です。「キリストの十字架の救い」です。そこには曖昧さや「ぼかし」はないのです。この単純な救いの提供に、疑いの対応をする私たちは、どうしてなのでしょうか。それは、私たちの思いを、あまりにも超えた恵みの約束だからです。その未熟で疑い深い私たちに必要なものは、「聖霊なる神の助けと導き」です。神の側には救いがある。私たちの側には罪と滅びがある。神の側には光と命がある。私たちの側には滅びと闇だけです。

 神の側に立たせていただけるなら、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、全力をあげて、単純に「偽りのない霊」を請い求めたいと願うこの7月でありたいものです。      
 

   小閑記 

  主に寄り頼むは人に頼るよりも良い。

~詩篇118:8~

 社会の危険な状態は、お互いの信頼の有無と言われています。人と人との絆、友情と信頼は社会の強い支えです。しかし、時として崩れ去る脆いものであるのも事実です。友情、夫婦の絆も、何かの些細な出来事で終わりをもたらすものです。残るものは、不信、批判、そして深い痛手であることが多いのも事実です。その大きな原因が、知らずに強くなる自己中心という、聖書で言う「罪」です。

 人は時に過去を思います。楽しい思いと同時に、自らの不誠実、思い至らない自分。自分をさえ信じられない姿を見ることもあります。夢は、「砂の上に家を建てる」ようなものであるかのように思います。その傷の痛みは時に軽く、時に重く残るのです。

 しかし、神は私たちに、こういうことを教えてくれました。すなわち、神は真実であり約束はたがえず、寄り頼む者を失望させず、危機にある時は、導きの光になってくださる、という事実です。

 人は去り、見捨てても、神は一層近くにいて、暗闇から光へと救い出して下さるのです。

 讃美歌361番

   1 主にありてぞ われは生くる

     われ主に、主われに ありてやすし。

   2 主にありてぞ われ死なばや、

     主にある死こそは いのちなれば。

   3 生くるうれし 死ぬるもよし

     主にあるわが身は さちはひとし。

   4 われ主に、主は われにありて

     天(あめ)こそとこよの わが家となれ。 アーメン 

 

世田谷通信(166

猫草

小学2年生に春の里山を紹介する授業があった。私もスタッフとして参加していたのだが、7歳の子供の屈託のなさは素直すぎて眩しい限り。

春を探すゲームとして、「虫」「黄色の花」「鳥」「ハート型の物」などのキーワードを与え、ビンゴカードのように区切ったマス目に見つけたら記入していく。ハート型の物を探すのに苦心したらしく、ハート型の石、木の穴、雲の形など意外な答えが出てきて面白かった。こちらはカタバミの葉っぱとかナズナの実の部分などを想定していたのだが。

虫を探してみようと言っているのに、子供たちが「いたー」と大騒ぎしたのはカナヘビとムカデ。それ、どっちも虫じゃないし。

植物の匂いを嗅いでみよう、というお題でドクダミ、キュウリ草、ハナニラ、ヨモギなど特徴的なものを用意していたのに、子供たちが嗅いでみたのはタンポポ、松ぼっくり、桜の花びらなど、なんとも形容しがたい。草をちぎって鼻に近づけている子に、どんな匂いがした?と聞くと「草のにおい~」そりゃそうだ。予想の斜め上とはこのことだ。

広場から湧水に降りて、サワガニなどの水生生物をみせる。わき水を触らせると、大喜びで袖まで水につけてしまう子がいる。「服が濡れてるよ」と言うと「大丈夫!だってね、これはお古だから!」と得意そうに返された。汚れてもいい服装でと親が着せたのだろう。でもわざと汚して良いって意味ではないよ。春とは言えまだ肌寒い。一日袖が冷たいだろうに。

さらに移動して落葉溜めで丸々太ったカブトムシの幼虫を見せる。7歳にして「触りたーい!」と目を輝かせる子と「気持ち悪っ」の二派に分かれる。現時点では後者が少数派。高学年になるほど後者比率は高くなる。6年生では大半の女子と一部の男子は「絶対無理!」と悲鳴をあげる。

「虫は苦手」な若い先生も多い。子供の手前、平静を装ってはいるが「ひゃー」と呟きながら手にこわごわ乗せて、結構ですと戻してくる。理科で昆虫を扱う授業はどうしているんだろう。教科書を読んで終わりかも知れない。

雨の翌日で、2カ所遊歩道の真ん中からタケノコが生えていた。転ばないように「タケノコ、気をつけて」と声をかけると、「どこ?」と上を見回している。さすが都会っ子、タケノコは足元、という常識が通用しない。それでも、なかなか楽しそうではある。こうして小学1年から6年まで里山で体験授業を行っている。子供の頃に全く土や虫や植物に触れる経験がないと、大人になって森に来ても癒やされないし、まして懐かしいという感情は持てないだろう。ささやかだが自然に触れる原体験を育んでくれたらと思う。

 

     『美しい朝に』・・33・・

518

今日は、朝から内科でした。レントゲンも心電図も正常でした。血糖値は174151で、ヘモグロビンA1cは6261で少し下がっていました。体重は、200gだけ減っていました。お祈りありがとうございます。

昼は、牛丼を食べて幸せでした。午後から、疲れていましたが良いお天気だったので、美容院へ行きました。「体調は大丈夫?」との気づかいが嬉しくて、心も癒されました。気分も明るくなり、洋服屋さんものぞいたら、やはり「心配してたんよ」と声をかけていただき、お出かけにピッタリな涼しげな服を買えました。

装具になれるまで大変だと思いますが、ご無理なさらないでくださいね。お祈りしています。

5月22日

 午後から、鍼灸院へ行きました。おかげさまで傷みも和らぎました。ITPで入院していた時に主人の「退院したら温泉へ行こう」の約束が、今になりましたが、日帰りで実家の母も一緒に行けるうちに私も母も体調を整えて無事行けるようにしたいです。夕方、娘が作った「ガトーショコラ」を持ってきてくれました。血液検査と体重測定が終わっているので安心して、食べれました。

5月27日

 今日は、購入した車イスで初めて主人と出かけました。行先は、鍼灸院でした。主人も、首と肩が痛くて治療をしていただきました。車イスに座って押してもらうのは、意外と目線が低くて横断歩道の手前で待っている時は、走っている自動車がいつもより近く感じて、こわかったです。道路も、意外と段差があり、身体に振動が感じるものだと知りました。それでも、座ったまま目的地に行けるのは腰や膝が痛い時はありがたいと思いました。
 体調が悪くならなければ、出かけた方が母も私も気持ちも前向きになれると思うので、月末には、予定通り実家の母と主人と一緒に日帰りで温泉に行けそうです。お祈りありがとうございます。

5月30日

 おはようございます。527日に、主人と2人で鍼灸院に行く時、駐車場がなく、傷みがひどくて歩けなかったので車いすを使いました。痛みのひどい時や、自動車の駐車場が使えない時ありがたいです。昨日は、大阪は30度の真夏日でした。

無事、主人と母と私とで温泉に行けました。日帰りで、家を10時に出発して、車で11時30分着。

12時~食事。

13時~温泉「カラスの行水の私が母に付き合って出たのは14時でした」

14時~15時 ドリンクを飲みました。お土産屋さんを見たりしました。

15時 車で出発。16時 帰宅でした。

温泉のおかげか、主人の首や肩の傷みも、私の身体じゅうの傷みも私と母の気持ちも楽になっていました。無理をしても、気持ちを外へ向けることは大切だと思いました。有馬温泉は母の希望です。大浴場は、腰のコルセットも膝のサポーターも外し、杖は持ち込めません。こわごわ滑らないように歩き、身体を洗う所まで頑張りました。そして温まりました。今日は筋肉痛です。お庭の写真も写したので、また整理してお送りしますね。

6月2日

 大阪は、昨夜は、激しい雨と雷でした。でも、今日はすごく良いお天気で暑いです。今日は、歯医者さんの定期検査に行けました。おかげさまで虫歯はありませんでした。6月は、虫歯予防で「歯ブラシ」をいただきました。

長村先生は、昨日は定期検査だったのですね。採血の時、針の跡から血が出てきたら驚きますね。血をサラサラにする薬で、血がとまりにくいのですね。私も、ITPなので、血小板が4000しかなかった時、注射針の跡から、血が噴き出しました。今は、正常値になりましたが、3か月に1度血液内科で再発していないか調べていただく採血は、やはり血がとまっていると「ほっ」とします。来週は、血液内科の検査も眼科の網膜剥離の定期検査もあり、再発していないか不安です。お祈り感謝です。花の写真をお送りします。

6月5日

 おはようございます。今朝も、良いお天気で空は快晴です。今週は、忙しい週になりそうです。今日5日(月)は、愛ちゃんの獣医さんです。柴犬の19才ですが、フィラリアの検査に行きます。昔は、フィラリアでよく犬が死にましたが、今は、蚊の出てくる前から、冬前まで毎月の予防の薬があるので、犬の平均寿命も、伸びているみたいです。私は、明日6日(火)は、血液内科です。ITPの検査です。8日(木)は、眼科です。網膜剥離の検査です。
6月7日

 こんにちは。今朝から大阪も雨が降っています。お昼過ぎに、少しだけ雨がやみました。こころなしか気温は低く涼しいように感じます。暑さが続き、しおれていた花も恵みの雨ですね。雨上がりの花も、またいいものだと思いました。傷みや心や身体の病気をかかえている私たちにとっては雨の季節は憂うつです。しかし、街中に、植えてある花にも、稲にも野菜にも人間にとっても、雨はやはり恵みの雨なのですよね。
 「ITPという難病」ですので、大人の場合は子供の場合と違い、急性ではなく、慢性になることがほとんどです。大学病院の系列の病院で緊急入院をして、輸血と、ステロイドを多量投与して、4000しかない血小板を増やさなければ、体内で出血して命はありません。ステロイドを服用して、血が固まる程度の血小板の数(5万くらい)で過ごすことになります。すぐに、ステロイドでも血小板は増えなくなり、新薬を試しながら、副作用がでたら対処療法で、薬を追加して様子を見ます。血小板が1万を切った場合、脳内で出血したら命は保障できません。「でも、脳内出血がおこって運びこまれることが多いのに、その前に、気がつくなんて良かったね」と言われました。「難病」は、原因も治療法もわからないから、「難病」なのです。完治ではなく、かんかい(寛解)です。再発の危険性はあるものの、ステロイドの服用をやめても4000しかなかった血小板は、昨日29万(10万~35万が正常値)ありました。
 この出来事で、多くの方に祈って頂きました。「つのぶえジャーナル」を読んで、祈って下さっている方が多いと長村先生にお聞きしました。本当にありがとうございます。「祈りの力」で助けられました。私の経験が、誰かのお役にたつならば、神様からいただいた「恵み」だと、今は考えています。
 次回、私が家族を支える時まで、力をためておきます。
6月12日

 今週、主人の母が亡くなって、バタバタとしていました。足や腰が痛くても、移動は杖をついて歩いていました。主人は、お葬式の後も、忙しそうです。

朝から、私も登録の手伝いです。今日は自転車を押して鍼灸院へ行ってきました。おかげさまで、鍼灸院のお花も近くの家のお花も写して来ました。治療して頂いたので、傷みも和らぎました。いつも、お祈りありがとうございます。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

 

 その愛のゆえに

   =時々の記=

    (135)

5月20日

 お昼前、少し低いところに作られてあるツバメの巣に目をやると、なんと大きな蛇がその巣に向かっているではありませんか。親ツバメが“助けて助けて。”と大きな声で叫んでいるのです。

私は怖かったのですが、蛇を許せなくて、長い竹の箒で蛇をたたこうとしましたが蛇は屈せずにじっと卵を食べている様子です。なんとひどい蛇。犬たちが弱っているのを知って今までに見たことがない蛇の姿でした。ショッキングな出来事でしたが、仕方ありません。燕はあきらめてまた空へ向かって飛び立っていきました。

夕の散歩ではホトトギスがとても美しく甲高い声で鳴き始めたのに気が付きました。“卯の花の匂う垣根にホトトギスはやも来鳴きて、忍び音漏らす、夏は来ぬ”の歌がぴったりの山郷になってきました。

5月27日

 明日は三週間ぶりに礼拝に行きます。村の行事が目白押しで、忙しく、特に主人はこれから一年間ですが、村の様々な行事の計画実行を任されてこなしていかなければなりません。29日はその最終の引き継ぎの日です。とにかく健康が支えられなければできませんから、それのみを、祈るばかりです。6月の花アジサイがもう、たくさん白い花をつけてこれから紫、青、ピンクへと移り変わって雨の多い6月を楽しませてくれそうです。

車いす窓辺に寄りぬ花の雨。

花に風枝しなやかに打ち返す。

湖を巡る水楢(みずなら)芽吹きけり。

ゆっくりと翁の車花吹雪。

弁当を花の下にて食べにけり。    馬場路哉

6月3日

 一日、朝から肌寒さを感じました。梅雨入りをまじかにして、このように晴れた日を大切にしていかねばと考えています。お隣の庭先には大物の洗濯物がどっさり干してありました。私も見習わなければと思いましたが、疲れると明日の礼拝に行けなくなると困るので普段通りの洗濯ものだけにしておきました。夕の散歩ではスイカズラの花を見つけました。とても小さな白い花をつけて、崖から下へとしだれ桜の様にさらさらと咲いているのです。なかなか、気が付かなかったのですが、主人にその花の名前を教えてもらってからは愛くるしくて可愛い花に魅せられている私です。これからの散歩は傘なしで行ける日が少なくなってくることでしょう。

この渓に生まるる気品シャガの花。

囀りも飛び交ふことも激しかり。

新緑や安息日の良く晴れぬ。

花水木吹くや新たな風吹きぬ。

花ずおう葉も揃ひけり庭の雨。   馬場路哉

先日ラジオから流れるアナウンスを聞いていると、最近はカタツムリが見られなくなりました、と。そういえば、カタツムリが見られなくなったなと気が付きました。気候の影響でしょうか。代わりにというか、蜂と出くわすことが多くなり怖くて仕方ありません。

6月10日

 今朝、とても不思議なことがありました。私の古いオルガンで、讃美歌を弾いていたのです。すると、外のドアをトントンとたたく音がいたします。何者だろうと、覚悟して、ドアを開けてみたら、同じ中峰山に住んでいる小学生の女の子がお母さんと立っているのです。何かの用事があるように感じましたので、尋ねてみると、“英語を勉強したい”というのです。わたしに?英語?このような年を取ったおばあさんでも何かの役に立てるのだろうかと不安に思いながら、部屋の中に入っていただいて話を聞きました。上野まで連れて行くには仕事を持っているので時間的に無理だというのです。英語からはずいぶん離れているし、何より体力が保てるか不安ですが、熱心な要求にことわることができず、来週から30分間だけ、テキストを準備してそれにしたがってやっていくことで承諾いたしました。しばらくの間、学校のお話をしてもらったり、好きな科目は何かを尋ねてみたりしていました。すると、さっき、弾いていたオルガンを眺めて、もう一度聞かせてほしいというのです。讃美歌495番です。すこしドキドキしながら、讃美歌をうたいながら一番だけ聞かせてあげますと、その子はとても喜んで、“きれいな音”“どうやったら音が出てくるの”とたずねてくれたのです。“これは、足を踏むことによって風を送りその風の力でよい音を奏でるのだよ”というと、とても不思議そうにしていましたが、満足したようでした。このように小さな子なのになんと感性が研ぎ澄まされた子なんだろうと、こちらの方がまたとてもうれしくなりました。来週から英語の勉強をこちらもシッカリ頑張って少しでもお役にたてたらなと考えています。健康が保たれることを祈りつつ、来週から一緒に勉強することを約束いたしました。少し不安を抱いている私ですが、神様に祈りつつ、できるところまでやってみようと考えています。E テレで心を入れなおして勉強を始めます。

    馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白 (59)

      岡田  稔著

   (元神戸改革派神学校校長)

 

第28章 洗礼について・・・1・・・

1 洗礼は、イエス・キリストによって定められた新約の礼典であって(1)、受洗者をおごそかに見える教会に加入させるためだけでなく(2)、彼にとって、恵みの契約(3)、キリストにつぎ木されること(4)、再生(5)、罪のゆるし(6)、イエス・キリストによって自分を神にささげて新しい命に歩くこと(7)のしるし、また印証となるためである。この礼典は、キリストご自身の指定によって、世の終りまでキリストの教会のうちに継続されなければならない(8)

  1 マタイ28:19
  2 コリント
12:13
  3 ロマ4:11、コロサイ2:11,12(*)  *ロマ4:11をコロサイ2:11,12と比較

  4 ガラテヤ3:27、ロマ6:5
  5 テトス
3:5
  6 マルコ
1:4
  7 ロマ
6:3,4
  8 マタイ
28:19,20

一 この定義を学ぶにあたって、わたしたちは前章で告白されていた「礼典」一般についての教えをよく覚えていなければならない。二つの礼典に共通な基本的な教えを、まずよく理解したうえで、洗礼という一つの特定な礼典について考えるのでなければならない。

 洗礼の第一義的な意味は、見える教会に加入させる(入会式)という点にある。けれどもそれだけではない。自分と神との恵みの契約、キリストとの神秘的結合、再生、罪の赦し(義認と言いかえてもよい)、新しいいのちに歩むためのイエスにあっての聖別(再生また聖化と言いかえてもよい)をも意味している。この最後の点は、さらに感謝と献身の意味を含むものとみてよいが、以上のような事柄の「しるし」であり、また「印証」である。

 これをひと口で言いかえると、この世の人の一人として、人間中心に生きていたわたしたちが、今やイエス・キリストの贖いに浴して、神のものとして信仰生活に入れられたことの信仰告白であるとともに、そのような信仰を与えられた、神の恵みの手段であり、その聖霊の働きの保証である。これが、二礼典中の一つであるのは、まったくマタイによる福音書28章にある復活の主の成文的なご命令に基づくのである。無教会主義が、洗礼の必要性をコリント人への第一の手紙1章17節などから否認するのは誤っている。

 

2 この礼典において用いられるべき外的な品は、水であり、当事者はそれをもって、合法的にその職に召された福音の教役者によって、父と子と聖霊のみ名において洗礼を授けられなければならない(1)

  1 マタイ3:11、ヨハネ1:33、マタイ28:19,20

二 礼典には、しるしと表象されるものとの二面がある(第7章2項参照)ように、外的要素と霊的恵みとがある。洗礼の外的要素は水であって、液体なら何でもそれに代用してよいのではない。その意味で、洗礼を「水の洗礼」と呼んでいる。また、洗礼において定められていることは、①「合法的にその職に召された福音の教役者によって」施行されなければならないこと。②「父と子と聖霊」という三位一体のみ名において洗礼を授けなければならない、ということである。

 第一の点は、前章の4項で学んだ通りである。第二の点については、マタイによる福音書28章の方は「父と子と聖霊のみ名によって」なされることが正しい。使徒行伝2章38節などで「イエス・キリストの名によって、バプテスマを・・・」となっている場合は、洗礼形式の問題ではなく、「キリストの権威による」という意味であり、キリスト教の洗礼(バプテスマのヨハネの洗礼などとの区別)という意味と思われる。とにかく、マタイによる福音書28章は唯一のこの事柄に関する明言的なみ言葉であるから、教会はこれを根拠として、洗礼が礼典であり、また、その形式についても、そこに言われている限りのことを守るべきである。

 

さんびか物語・・・40・・・ 

    (広く愛唱されている50曲)・・・39・・・

           ポーリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

 

讃美歌399番

 なやむものよ とく立ちて

 

<神様のみ言葉>

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためです」。 

~ヨハネの福音書14章16節~

この讃美歌は、試練の中にあっても神様を仰ぎ見、神様が招いておられることを信じて、神様のみもとに立ちかえることの喜びを歌っているものであります。

讃美歌399番の作詞者トーマス・モーアはアイルランドの詩人で1779年5月28日にダブリンで生まれ、同市のトリニティ・カレッジで教育を受けました。1799年にはロンドンに行って法律を学びました。

1804年バーミューダの裁判所の書記係になりましたが、彼の興味と目的はむしろ文学方面にありましたので、その職務を代理人に任せてイギリスに戻りました。そうして、彼がなくなる1852年までの間に、多くの詩歌と散文とを発表し、それらの中には世界中でしられているThe Last Rose of SummerとかBelieve Me,if all Those Endearing Young Chsrmsなどの曲が含まれていました。

彼は有名な民謡や詩歌の他に、32編の讃美歌を作り、それらを1816年にSacred Songs(1816年)にまとめて出版しました。この歌はその中の一編で、彼の讃美歌としてはもっとも広く歌われ、知られているものの一つです。

原作の第3節はヘイステングスとメイースンのSpiritual Songs(1831年)に編入された時トーマス・ヘイステングスによって取り代えられたものでモーア自身の作ではありません。そうして、ヘイステングスの作の方が原作よりも聖書的であり、伝道的であります。

しかし、原作の第1節から用いられていますその美しい折り返しの部分は、モーアの独特なもので、彼の作った文学的讃美歌の素晴らしいものの一つであります。

讃美歌の作曲者はサミュエル・ウェブですが、讃美歌22番をご参照ください。

この曲CONSOLATORは、ウェブが1792年に出版したCoLLection of Motettsに初めて発表し、その後この曲はトーマス・モーアの作品”悩むものよ“(399番)の曲として、独唱および2重唱の形でトーマス・ヘイステングスおよびロウエス・メイスンのSpiritual Songs(1831年)に発表されました。

日本では、昭和6年版の讃美歌に採録されてから、広く一般に普及しました。

<399>

 1 なやむものよ、 とく立ちて

   めぐみの座にきたれや。

   天のちからにいやしえぬ

   かなしみは地にあらじ。

1節で作者は、この讃美歌の実に意義深い感情に満ちたテーマを紹介くださいました。すなわち、“天の力にいやし得ぬ悲しみは地にあらじ”と歌っています。生けるまことの神様は、全知全能の神様であられます。ですから、私たちの全ての悩みや悲しみを知っておられます。また、ただ知っておられるだけでなく、その悩みの苦しみを癒してくださるみ力をも持っておられるお方であられます。

ダビデ王も「主は私の羊飼い。・・・私はわざわいを恐れません。あなた(主)が私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが、私の慰めです」(詩篇23:1、4)と歌っています。またイエス様は「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」と山上の垂訓でお教えになられました(マタイ5:4)。

悩みの中にある人は、自分の悩みの中に閉じこもり沈んでしまうのではなく、いち早くその悩みを解決してくださる神様の恵みのみ座に行くことですと歌っています。

では、恵みのみ座は何を意味するのでしょうか。これは、旧約聖書に記されています「贖罪所」のことであり、神様はこのところでイスラエル人の指導者であったモーセと会見なされ、彼らに、神様に従うための命令をことごとく語られたところです(出エジプト25:22)。

この恵みのみ座について作詞者ヒユー・ストウェルも讃美歌315番で非常に美しく歌っていますので、どうぞご参考になさってください。

 

<315>

1 うき世のあらなみ のがれてやすらう

   しずけきみなとは めぐみのみ座なり。

 2 いともかぐわしき よろこびのあぶら

   かしらに受けまし めぐみのみざにて。

 3 住家をへだつる  主にある御民も

   ともにこそあわめ めぐみのみざにて。

 4 せつなるいのりに 天(あめ)戸ひらけて、

   かがやくみさかえ 御座のうえに見ゆ。

悩める者は、神様のいまし給う恵みのみ座に祈りをもって近づきます時に、慰められいやされるのであります。

 2 さちなき身のなぐさめや

   くやめる身ののぞみや。

   天のちからにいやしえぬ

   かなしみは地にあらじ。

2節では、慰め主なる主イエス・キリストにある、偉大な特徴について歌っています。日本語訳では、それが“さちなき身のなぐさめ”と“くやめる身ののぞみ”の二つの言葉に示されています。原文の方では、その他に、”キリストは悩める者に喜びあり、迷っている者の光である“と歌っています。

キリストは実に喜びのない者の慰め、希望なき者のまことの望みであります。ここで知らなければならないことは、自分の心の乏しい状態ではないでしょうか。本当の喜びを知りたいと思いますなら、キリストに立ち帰らなければなりません。本当に慰めを頂きたいと願いますなら、神と人の前に犯した己が罪を心から悔いて、キリストにより頼む他にありません。

 3 見よ、いのちのましみずの

   み座より湧きいずるを。

   天のちからにいやしえぬ

   かなしみは地にあらじ。

3節での“いのちのましみずの、み座より湧きいずる”はヨハネの黙示録22章1、2節を背景にして書かれたものでしょう。

そこには「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と子羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、12種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした」と記されています。

私たちは、この“いのちのましみずの、み座より湧きいずるを”“見よ”と言う作詞者の呼びかけに、耳を傾けなければなりません。そのためには、神様のみ言葉である聖書を通して、神様の恵みをいただき、恵みのみ座まで引き上げられて、パラダイスにあるいのちのましみずを飲むことに励みたいものです。

その聖く汚れのない水の源は、神と子羊のみ座です。つまり、私たちの全ての祝福と恵みは、父なく神と救い主なるキリストから流れ出てくるものであります。この事実を決して忘れてはなりません。

同時に川の両岸にあるいのちの木から実を食べることもできます。それも、エデンの園の木の実のようにではなく、この木は、永遠のいのちの実を実らすものです。また、その葉は諸国の民をいやし、いこわすものでもあります。

罪の公害のために悩まされている私たちにとりまして、この聖い水と木の実は、どんなにありがたく大切でしょうか。どうぞ、神様のお選びになられる民としてあなたも、いち早くその恵みのみ座に立ち帰ってくださいますように、おすすめいたします。
 

ビルマ 戦犯者の獄中記(76) 遠山良作著

 ―結核で入院―・・・2・・・

 独立したばかりのビルマ政府に不満を持つ共産党やカレン族は武力に訴え、国は内乱状態であり、経済的にも極めて深刻である。現在の政府は、外国から輸入する薬などあろうはずがない。友はなんとか私のために薬を入手しようと尽力してくれた。久米大佐(戦犯者)の友人であるビルマ財界の富豪ネザミ氏に薬の差し入れを依頼した。彼は最も高価な朝鮮人参、ビタミン剤、ブドウ糖の注射液等沢山差し入れてくれた。

 その上彼は、きたない牢獄の病院まで毎日5日間、入手困難とも思われるブドウ、リンゴを持って見舞いに来てくれた。嬉しくて涙で布団を濡らした。何の価値もない私のために尽くしてくれる友らのために報いなければならない。全ての人を愛さなければならないと思う感謝の病院生活である。

 聖書は「すべての者を愛せよ」と教えているが、人を愛することの難しさを痛感する。同室にいる悪臭プンプンする病院では、何でも勝手に持ってゆく。コップがないからといってわたしのコップを無断で使用する。つい腹が立つ。誰でも優しい心の持ち主にならなければならないと思いつつも優しい人間になりきることの出来ない弱さを知らしめられる。

 人間はどうにもならなくなると救いを神に求める。かつて私も、死刑になるかも知れないと思ったとき「神様助けて下さい」と願ったが、死刑を免れると神様など何処にいるのかさえ忘れ、聖書を読むことも怠って来たことに気付いた。

 聖書を再び読み始める。直ぐに疲れてしまい、小さな文字がぼんやりとして読めなくなってしまう。しばらくしてまた読む。今度は熱が高くなって苦しくなる。友は疲れるから聖書など読むなと注意してくれる。友の来る足音がすると聖書を布団に隠す。

 友を裏切っているような気がするが、少しずつでも毎日聖書を読まずにはいられない。「労する者、重荷を負う者は我に来れ、我休ません」。この聖書の言葉は私を励ましてくれました。理解できない多くの箇所があるけれども何べんも繰り返して読む聖書は私の心の支えでもあった。

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・55・・・

問21 キリスト教でいう「救い」とはどういうことでしょうか。・・9・・

答・・14 では「永眠」というのは本当に永遠の眠りであって、朝起きるように、時が来れば再び眠りから覚めるかどうか、ということが問題になりそうです。この点、わたしたちが子供のころから仏教説話で聞かされてきた内容は、三途の川を渡ること、しかも渡し賃が要ることを始めとして、飽きないくらい多様な世界が死後段階的に展開されるというものでありました。勧善懲悪を教えることに現実性がありました。

 こういう説話をどう受け止めるかは別として、この説話では死んだら永眠とはならないわけです。生きていた時のツケは四十九日までに、遺族が代わってきちんと始末しなければならないとされています。仏教の門外漢であるわたくしには誤解があるかも知れませんが、見た所ではそんな感じがします。即身成仏ということも言われていますから、成仏ということは有り得るわけです。

 こういうことに比べると、キリスト教では、成仏とか成神とかは有りません。死んだ人にも等しく神の支配の下で、神と共にある、ということです。そして、そのことは、イエス・キリストを信じている者に示されていることである、ということです。

 ただし、ここで明らかにしておきたいことは「××に成る」ということはないにしても、キリストを信じる者は、現に今生きているこのままで「神の子とされている」ということがあります。「神の子とされている」というのは、本来神の子ではなく、神の子と呼ばれるには全くふさわしくない者が、神の側の一方的な意志によって(それが恵みというものですが)「あなたをわたしの子とした」と宣言されたことによって成り立っていることなのです。

 これはわたしたち人間の側の精進潔斎修行努力の結果与えられた身分ではなく、わたしたちが神の子として遇されるためにしなくてならないことの一切をキリストが引き受けて下さったことによって実現されている事実です。

 神は永遠の方で、神を信じる者は、この永遠であられる方に受け入れられているのですから、この地上という空間と時間の制約のある世界に住みながら、すでに永遠の世界に繋がれているのです。ですから、死んで改めて神と共にいるようになる、ということではありません。死ねばこの世にはいなくなりますが、神と共の生きるということは、生きている時から変わりなく続いているのです。

 さきに「死んだらどうなるか」と問われる方があったことを述べました。ここでこの問いに答えるなら「どうかなるというものではありません。今がそうであるように、死んでからも神様と共にいることに変わりはありません。そして、神様が計画されていることを、わたしにされるでしょう。そしてそのことがなによりも一番良いことだと信じています」と答えたらよい、と考えています。

 篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

第79課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・28・・・

B キリスト者の市民的義務・・・14・・・ 

       13:5~7・・・13・

「為政者に対するキリスト者の正しい態度」・・5・・

 国家権威への忠誠を内容とする制定された宣誓書が、国家の憲法に述べられたり、意味されている非キリスト教的原則の受け入れを含んでいるかどうかとかを確認することはキリスト者の義務です。もし、国家権威への忠誠の宣誓が明確に、もしくは必然的な含意によって、反キリスト教的・無神論的、或いは世俗主義的原則を支持することを要求しているならば、そのときはキリスト者は忠誠の宣誓を拒否しなくてはなりません。

 

 国家権威への有罪的な忠誠の宣誓や、政府や反キリスト教的・無神論的主義諸原則に反対して、キリストこそ、すべての国家の上に権威を持っておられることを証言することは、キリスト教会の義務です。教会がその教会会議において、政府に対して忠誠を誓うことが、キリストへの忠誠を損なうこととなったり、政府の有罪的な諸原則を支持することにキリスト者を巻き込むことになるという決定を下すならば、教会はその会員に対して、そのような忠誠の宣誓を拒否することを要求しなくてはなりません。

 

 指名であれ、選挙であれ、採用であれ、キリスト者が公職に就こうとする場合、教会がその教会会議において正規の手続きを経て、その場合、主への正当な服従以上のものを約束することにはならないし、また間接的にも直接的にも国家政府の非キリスト教的原則を受容することにならないと決定した場合のみ、国家政府への忠誠の宣誓を正当にすることができます。

 

 選挙において、キリスト者は政府に関する聖書的原則に従っている人々だけに指示を与え、投票すべきです。もしキリスト者自身が選挙によって公職に就くことを求めるのであれば、自分自身がキリスト教的原則に堅く立脚した政治活動をすることを、支持を求める人々に明確に表明しなければならないのです。

J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

    ほっとひととき『みんなのコーナー』

 ☆ 主人とアジサイ公園に行っていました。その時に見つけた野生種のアジサイです。とても味わいがあり送りますね。愛知県 O・Kさん

 ☆  初夏を迎え、様々な不具合を身体に覚えても清々しい気候がアウトドアに呼んでくれている様です。最近は子育て事情は昔と一変しており、出産補助金や予防接種の補助があり、とても驚きました。また子育て支援も充実していて、各児童館や保育園、幼稚園センターなどで、多くの場所が提供され事業が展開されています。昔は近くの数少ない公園か、スーパーのキッズコーナー、良くても図書館で助けられたことを友達に伝えると、それはそれで驚かれます。育児しやすくなっても以前の不便さを知らないとそれが当たり前、普通になっているのですね。いろいろ状況により変化があっても仕方ありませんですね。
 主の導きにより人生が開かれている感謝を忘れないことこそ大切にしていきたいものです。今月の発行もお疲れ様です。奈良県 NRさん

 ☆ 「つのぶえ」そして「つのぶえジャーナル」を合わさると40年以上のお付き合いになりました。親しい友も召され、寂しさもありますが、毎月送られてくるのこの今の「つのぶえジャーナル」が信仰の友・絆になっています。ありがたいことです。80を超えましたが、まだまだ読むことができますので毎月楽しみに待っています。この「ほっとひととき『みんなのコーナー』」はいろいろの方の信仰の姿を知ることが出来て励まされます。過疎地、コンビニもありません。小さな畑で野菜物を作っています。誰かが声をかけてくれて、魚やお肉や牛乳はまとめて買って冷蔵庫です。助け合えば何とかなりますよ。高齢者の過疎地もいいものです。 徳島県 TMさん

 ☆ 私たち人間て身勝手な存在なのですね。あの独特の蛙の鳴き声は、若い時にはうるさく感じましたが、農薬が使われるようになってから、急に静かになり、時には不気味は静寂で、ここにも自然破壊が・・・と思えた時がありました。しかし、今は賑やかです。自然の営み、生き物とのかかわりを感じています。 群馬県 R・Oさん

*********

 Δ 母が寝たきりになって6年になりました。自分で介護しなければ・・・と思うと、つい言葉がきつくなってしまったとき、お隣の人が声をかけて下さり、一緒に時を過ごしてくれるようになりました。今はホームヘルパーさんの助けをいただき、私も母も笑顔が多くなりました。もう抱え込むのはやめました。 

Δ 運転の出来ない私ですから母の様子を見に行くのは一日仕事になりますが、待っていてくれるので、出かけて行きます。地域の人たちにお会いすると、心配しなくてもいいのよ、幼馴染のSちゃんだもの、お互いさまよ。あんたこそ元気でね!に胸が熱くなります。

Δ このままでは、子供たちを不幸にすると考えシングルになって7年目になりました。二人の子供たちも大きくなりましたが、不安定な収入、ふと再婚を考えてしまう心の迷いの今。子供にとってシングルになって良かったのかと悩む。答えなんかわからない。さあ、深夜勤務だから出かけなければ・・・。またメールします。今までもめちゃしてますね。

*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております* 編集子

 

 

    『ありがとうございます』

 沖縄は梅雨明けですが、名古屋は今少し先の様です。紫陽花の花便りが送られて来ますと、梅雨の真っ直中を感じます。庭に咲きました、アジサイ公園やお寺に見物に行きました、というものですが、そんな中に、アジサイを見ると亡き母のこと、失った友人のことが思い出されます、というお便りもあります。雨にうたれた寂し気な花に人それぞれの思いがあることを思わされます。そんな思いにさせる梅雨の時期、皆様のご健康をお祈りいたします。

2017年5月16日から2017年6月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。

三木朝子様 藤井和夫様 岡田千歳様 佐藤のり様 島田祥子様 匿名1名

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

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緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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