2017年10 月号 №123 通巻809 号 号)
「つのぶえジャーナル」へようこそ
涙をもって種まく者は、
     喜びの声をもって刈り取る。 詩篇126:5
 

  今月のことば

 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためである。

    ~Ⅱコリント5:21~

 暑い夏の日々の疲れが、秋の気配と共に出てまいります。秋の虫の声を聴きながら、神様の愛に心を向けましょう。皆様の日々の生活の上に神様のお守りが与えられますように、お祈り申し上げます。

 

 イエス様の救いの恵みは、このみ言葉に無限に示されています。イエス様が罪の贖い主としてだけでなく、救い主であられることを、この短いみ言葉ほど余すことなく示されているところは、少ないと言えます。

 イエス様が私たちの代わりに、神の御前に出たという事実を認めることが、どんなに困難に思えるかということは、不思議なことです。イエス様が神の愛を、その苦難と死によって示してくださったことは筋が通り、偉大なことであると私たちは考えます。しかし、イエス様が私たちのために罪人とされ、私たちがイエス様にあって神の義とされるためであるということ、―この事実と真理を多くの人は受け入れないのです。

 イエス・キリストをそのなさったことが、私たちの救いについてであることを知らないならば、それは全く残念であり、人生の最大の損失です。生にも死にも私たちの立つ唯一の基礎・土台は、十字架上のキリストのお姿なのです。主は救い主として、私たちの罪のために死に、私たちの義のために甦ったこと、これこそが私たちの救いの希望の基盤であります。

 これを聖霊の導きによる信仰によって得ようではありませんか。神様から賜った救いの恵みを、日々の、人生の基としようではありませんか。

 季節の恵みも恵みです。しかし、永遠への恵みではありません。虫の声が慰めになっても、真の慰め、希望にはなりません。

 「今月のことば」は、本当の慰めは、神の愛のみであることを、私たちに語りかけています。

 

   小閑記 

  「しかし、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」。

      ~ヨハネ6:9~

 神様は人間の世界の中に、心に二つの驚くべき力、すなわち、祝福と呪いという力をお置きになりました。時にそれは隠されていますが、その流れは時代を超えて、あらゆる人の人生を通じて、国家であろうと、社会であろうと、家族であろうと、流れています。

 私たちが神様からの祝福を受けている時には、常に豊さがそこにあります。今は秋です。稔り豊かに育ち、収穫を待っています。しかし、呪いが私たちの上に来れば、目には見えない虫たちが全ての物の中に、潜り込み、全てを食い尽くした時、私たちの手からすべてのものが消し去られます。十分にあったところが、わずかなもののために破壊されてしまいます。

 夢、幻と消え去る。これが、神様が私たちに語り掛ける人生の姿です。

申命記28章には「もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。もし、あなたがたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福をあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。・・・。(28:1~68)とあります。

 神の祝福を得るためには、何をしたら良いのでしょうか。その答の一部は、このように考えられるのではないでしょうか。

 現在のあなたの持ち場において、正直、勤勉な働き人におなりなさい。自分の持っているもので満足し、他をうらやまぬことです。持っているものを大切にし、できるだけ節約し、助けを求めているところへ届け、感謝して支えることです。すべて物の所有主であられる神が、それをお求めなのです。

 混沌としている今、求められていることは、「主の祈り」です。

 

「プロテスタントの主の祈り」

 天にましますわれらの父よ 願わくばみ名をあがめさせたまえ

 み国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ

 われらの日用の糧を 今日も与えたまえ

 われらに罪を犯す者を われらがゆるすごとく
  われらの罪をも許したまえ

われらをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ

国と力と栄とは 限りなくなんじのものなればなり  アーメン

 

世田谷通信(169

猫草

 

通信制大学で資格を取ることについて書いてみようと思う。私が取りたい資格の場合、必要単位は5教科10単位。自宅でパソコンに向かうだけである。大勢の若い人が居る大学に通う気力もない自分には大きな魅力である。とは言えそんなに簡単でもないなあというのが実感だ。

まず送られてきた分厚いテキストを読んで自分で勉強する。その後2000字のレポート課題をweb上で書いて送信する。手書き郵送でもいい。インターネット上の情報を丸写しするのを避けるためにコピーやペースト機能は一切使えない。不便だが仕方ない。12週間程度で採点されるが、2ヶ月も返事がないこともある。待たされると不安は募る。合格すれば良し、再提出ならまた2000字のレポート提出である。1度で合格する科目もあったが、再提出3回の教科もあった。不備を修正し、指示通りに再提出しても、次は全然違う点を指摘されて再々提出となった。がっかりしつつ、さらに2000字のレポートを書く。顔の見えない採点者から何を求められているのか分からず、手探りで書く。相談できる仲間もいない。このままずっと合格しなかったらどうしよう、と孤独で心が折れそうになる。

そんなこんなで、ようやくレポート課題が合格すると最終試験になる。会場受験か、自宅受験が選べる。会場は全国10カ所。会場受験には最終試験問題集を持参する。事前に試験問題が分かっているなら楽勝だろうって?そんなに甘くない。問題集への書き込み一切不可。一文字でも書いてあったら試験終了、2ヶ月は試験が受けられない。1科目に数十個の試験問題が提示されていて、問題番号は当日発表。つまり科目×数十個×1000文字程度の回答を準備し暗記していく必要があるわけだ。web受験の場合、試験問題は当日画面上で表示される。何を参照しても良いが全範囲をきっちり勉強しておくことになる。

悩んだ末、web受験を選んだ。往復の移動時間が面倒だったのだ。当日試験時間にパソコンに向かい、ログインして緊張しながら待つ。試験開始、問題が表示され、回答作成画面にひたすら回答を書き込む。終了時間までに送信ボタンを押せばよい。最終試験はほぼ毎月実施され、不合格なら再受験できる。今のところ4科目受験して合格、残すはあと1科目。

通信教育もなかなか厳しい。内容も大学に通うのと同等かそれ以上に勉強している。さてあともうちょっと。もう一度テキストを復習するとしよう。

 

   『美しい朝に』・・36・・

8月23日

こんにちは。大阪は、昨日からまた暑くなって、しんどくて、よく眠れませんでした。1日中、雨の予報でしたが、朝は快晴で今は、少し雲が広がってきました。もう、「つのぶえジャーナル」9月号のご用意ですか、お疲れ様です。明日の更新・印刷とスムーズに進みますように、お祈りしています。

息子に誕生日プレゼントを送りました。気にいってもらえるといいのですが、今日到着予定です。恩師の残暑見舞いにも、やっとお返事を書きました。色々、心配なこともあり心が落ち着きません。お祈りして頂き心強いです。写真をお送りしますね。

9月1日

 今日から9月ですね。日差しも少し柔らかくなりましたね。昨日は、実家の母のところに行ってきました。友達に送ってもらった服を持って行きました。

友達のセンスが良くて、大きさは、母にちょうどいいみたいでした。色は、紺色で背中の真ん中に、上の布に切れ目が入っていて切れ目の下に、紺で花柄のレースが見え隠れして、これからのお出かけにいいみたいです。

9月6日

昨日も気になることがあり、眠れませんでした。血液内科で、血糖値と中性脂肪が高かったです。血小板は、落ち着いていました。帰ってきて、母の服を買いに行ったので、疲れました。

今日も、神経科です。しんどいです。撮りためてあったお写真をお送りします。

9月12日

この暑い夏も過ぎようとしています。わが家の老犬19歳の愛ちゃんも一日中鳴いていますが、食欲はあります。餌を柔らかくして食べさせています。友たちの猫ちゃんは16歳で、やはりしんどうそうですとお話の中にありました。そんな夏も秋風と共に、食欲の秋になります。太るのが心配な秋です。

9月14日

家の愛ちゃんは19歳の柴犬です。12才歳でも老犬です。柴犬の年齢表でも20歳までしか記載されていません。寝たままでおむつをして起き上がれません。自分1人で、エサも水も飲めないので、何かしてほしいことがあると鳴きます。おむつを替えてもらうと安心して落ち着きます。赤ちゃんみたいですね。主人は、インターネットで犬のマッサージ方法を調べて、「長生きしいや」と朝晩、マッサージをします。その時の愛ちゃんの幸せそうな表情を見て、母が、「愛ちゃん。大切にされてるんやね」と言いました。

 

 

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

 

 その愛のゆえに

   =時々の記=

    (138)

8月21日

来週から三週連続で、村の行事が続きます。村長選挙、村会議員選挙、クリーンキャンペーンなどで、出向かなければなりません。山添村は小さな村ですから、村会議員の選挙となると大変です。中峰山からも一人立候補します。選挙事務所が開設されて気忙しくなります。村長選は二人が出馬するとのこと。73歳の高齢者と41歳の若者との対決です。主人は今年は村の大役を任せられているので、明日から、道路の草刈り、空き缶拾い、事務所の掃除など、毎日駆り出されていきます。超高齢の村ですから、多くの者たちが職場を休んで選挙の応援です。選挙が終わるまで、ちょっぴり騒がしくなりそうです。

8月24日

この厳しい暑さで、思考力、気力ともにダウンしています。何とかかろうじて、夕食の準備を整えることができほっとしています。毎日のことですが、その同じことの繰り返し、単調な家事をこなすのにもかなり気持ちを込めないとできなくなってしまいました。蓑虫はどこかに大きな巣を作っているのでしょうか、退治しても追い付きません。次々と木の中からあらわれてきます。蓑虫に負けてしまった私です。

9月2日

最近はとても涼しく感じられます。このまま、秋になるのでしょうか?サッカーのワールドカップをかけての試合はとても感激いたしました。若い二人の選手が大活躍してくれました。息子は特に二点目を入れた選手の大ファンです。二点目のゴールが決まったときは家中が大歓声になりました。サッカーでの得点はなかなか決まりませんが、決まったときにはとても絶妙ですからハラハラドキドキの連続です。今まで一度も勝ったことのないオーストラリアに勝利してのロシア行の切符を手にして、サッカーファンを一層熱くさせてくれましたね。

9月4日

先ほどから雨です。久しぶりなので、落ち着きます。今日の夕方の散歩ではピンクのコスモスが咲き始めていました。心和ませてくれました。自然はすでに秋です。夜になると、コオロギが鳴き始め、あまり知られていませんが カマキリも懸命に負けまいと、キリキリとか、カナカナとか、スイツッチョンと合唱し始めました。

爽やかや強く説かれぬ天つ国。

十字架の高く光りて夏の果て。

イエスよりいただく聖霊爽やかに。

秋暑しみずべの風に憩ひける。

灯火親しチボー家の火と五巻目に。  馬場路哉

やんちゃでしたがな可愛いクロが今朝、散歩から帰ってきて、庭で倒れてしまいました。脳梗塞の様でした。いくら自力でf踏ん張ろうとしてもすぐにバタンと倒れてしまいます。このようなことは覚悟はしていましたが、突然の出来事で、うろたえてしまいました。食事ものどに通らずに一日過ごしました。すると夕方、クロが庭でよろよろと動いているのです。目を疑いましたが確かに動いています。

しばらくの間でしょうが、突然今日、天国へ行かなくてとてもほっとしています。

神様にクロが安らかに天国へ行くことができますようにと祈っています。

天上の幸願ふなり天の川。

しもつけの咲く寺跡の礎石の辺。

井戸替えや老杉半ば朽ちにける。

楢枯れの嘆きのありて秋の山。    馬場路哉

9月12日

私はいつもこの年老いた犬がそばにいてくれなくなったらどうしよう、と最近そんなことばかり考えてしまいます。でも飼い主にとても、かわいがられたネコちゃんは幸せだったと思います。きっと喜んで旅だったことでしょう。生き物との共存で教えられることが多くあります。飼い主には絶対服従します。そして何もしゃべらないのですが、“お帰り”とか、“そんなに怒らないで”とかを体全体で表します。人間と違って飼い主やその家族を怒らせるような態度は決してとらないのです。だからとても愛くるしいと思うのです。毎朝、犬たちが生きているかなと持って起きるこの頃です。よろよろ、今にも転びそうな足取りですがしっぽを振って散歩に出かけます。さすがに今朝の大雨には、怖がって一歩も外に出ようとしませんでした。その代わりに昼の散歩をしました。朝の大雨はあっという間に我が家の庭を溢れさせました。どこを歩いたらよいかわからなくなるほどに大雨になりました。近くに川はありませんが、土砂崩れが心配されるほど、防災放送が村内一斉に入りました。“気を付けて待機してください”とのこと。それでも仕事のある人は出かけなければならず、主人は村の代表で、バスで出かけなければならず、この雨の中家にいるのは犬たちと私だけです。

 初秋や十字架仰ぎ教会へ。

声揃へ歌ふ讃美歌秋初め。

三日月に寄り添ふ星の光り初む。

祖父の死やツユクサの濃く目に染みる。

良き色を路上に散らす葛の花。    馬場路哉

  馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(62)

        岡田稔著

     (元神戸改革派神学校校長)

第29章 主の晩餐について・・・1・・・

1 わたしたちの主イエスは、渡される夜、主の晩餐と呼ばれる彼のからだと血との礼典を制定され、彼の教会において世の終りまで守るべきものとされた。それは、彼の死によるご自身の犠牲を不断に記念するため、その犠牲のすべての祝福を真の信者に保証するため、彼らのキリストにある霊的養いと成長のため、彼らがキリストに対して負っているすべての義務を更に履行するため、またキリストの神秘的からだの肢体としての彼らのキリストとの交わり、また彼ら相互の交わりのきずなと保証になるためである(1)

  1 コリント11:23-26コリント10:16,17,21コリント12:13

一 これは、主の晩餐の定義である。その目的・効用を詳記することによって、プロテスタント教会に生じた最初にして最大の論争点に関する改革派教会の教理を明確に告白している。ルターは「パンとともにキリストのからだでもある」と言い、ツイングリーは「単なる記念のみ」であると言うのに対して、カルヴァンは「記念とともにキリストは霊的に臨在する」と言っている。

 ルターは後年、このカルヴァンの表現が、たしかに適切な中庸であることをもたらした―というように、最近刊行の一教理史の本は記している。ここに表明されているところは、まったくカルヴァンの所説に基づく教理である。しかし、ローマ・カトリック教会の教えが直接の論争の相手であるから、以下、主にその誤りを指摘する言葉で満たされている。

 

2 この礼典において、キリストが、生きている者または死んだ者の罪のゆるしのためにみ父にささげられるのではなく、またどのような現実の犠牲がなされるのでもない(1)。それは、キリストが自らご自身をただ一度だけ十字架にささげられたことの記念、またそのため神にささげうるすべての賛美の霊的ささげ物にほかならない(2)。それゆえ、いわゆる教皇主義的ミサ犠牲は、選民のすべての罪のための唯一のなだめの供え物であるキリストのただひとつの犠牲にとって、最もはなはだしく有害である(3)

  1 ヘブル9:22,25,26,28
  2 コリント11:24-26、マタイ
26:26,27
  3 ヘブル7:23,24,27、ヘブル
10:11,12,14,18

二 この項は、ローマ・カトリック教会のミサに対する非難である。ローマ・カトリック教会の宗教を迷信ではないと思い、有害であることに気づかない人は、この一事に注目すべきである。ローマ・カトリック教会の礼拝の中心はミサである。ミサは、主の晩餐の根本的な迷信化である。神父が司祭と呼ばれるのは、ミサを司るからである。ミサは天主に向けて、もう一度キリストのからだを献げる儀式である。そして、その効果は罪人のためのなだめの儀式(旧約時代の神殿のそれと同様)が、実際、そのたびに献げられるというのであり、さらに、それが死人のためにもと主張されているのである。

 宗教改革者が憤りを爆発させたのは、決して誤りではない。その意味で主の十字架と、主の晩餐とが実質的に同一の意義を持つ事柄だと考えてはならない。その意味で主の十字架は一回だけで完全である(へブル9:12)。そして、主の晩餐は、それの永続的記念に過ぎない。主の晩餐でなされる神への供物は、ローマ人への手紙12章以下に言われている「信徒の献身」のことである。

 

3 主イエスは彼の教役者に、この規定において、礼典制定のみ言葉を会衆に宣言し、祈り、パンとぶどう酒の品を祝福し、それによってこれらのものを普通の用から聖なる用に聖別すること、パンを取って裂き、杯をも取り、(彼ら自身もあずかりながら)陪餐者に二品を与えること(1)、しかしその時に列席していない者にはだれにも与えないことを命じられた(2)

  1 マタイ26:26-28、マルコ14:22-24、ルカ22:19,20コリント11:23-26(*)
     *マタイ26:26-28とマルコ14:22-24およびルカ22:19,20を、コリント11:23-26と比較

  2 使徒20:7コリント11:20

三 この項は、主の晩餐の執行の仕方を示している。同時に、誤った気ままな仕方を排除している。特に、ここで二つの誤りが指摘されている。① 教職者だけで、別にこれを守ること。② 私的ミサ、すなわち、病人など欠席者を訪問して、この一部を使用し、ミサにあずからせること、である。 

 

さんびか物語・・・43・・・ 

    (広く愛唱されている50曲)・・・42・・・

           ポーリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

讃美405番

 神ともにまして

<神様のみ言葉>

「主はご自身の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける」。

~詩篇91編4節~

 

世界中の多くの人々に愛唱されている送別の歌を考えてみましょう。それは、送別の歌であると共に、私たちの人生の歌でもあります。

讃美歌405番の作詞者ジェレマイア・E・ランキンは、1828年アメリカのニューハンプシャー州に生まれ、ミドルベリ・カレッジとアンドヴァー神学校で学び、後にこの地方各地の主だった組合教会の教職として活躍していましたが、その後、首都ワシントンの第一組合教会の牧師となり、多くの人々に福音を宣べ伝えていました。その間、詩や散文を書くと共に何巻かの讃美歌集も編集していました。

“神ともにまして”の讃美歌はランキンが第一組合教会の伝道集会のために1882年に書いたものであります。

この歌は、誰かから頼まれたとか、他の事情に促されて書いたのでもありません。ランキンにとってはGoodbyeの言葉に興味を持ち、この言葉の語源が“

God be with you”(神があなたと共にいましたもうように)であることに、深い考えを持ち、これをヒントに讃美歌を書くことを思いたって、丹念に作ったものである、と作者自身が語っています。

これが、ワシントンの教会で歌われ、後にGospel Bellsに収められて、一般に紹介されました。その後、この送別の讃美歌は広く全世界で愛唱されるようになったのであります。

405番の曲RANKINの方も、同じように広く知られ歌われています。

作曲は、ウイリアム・G・トウマ(1833~1896)で、南北戦争の時の士官でありましたが、その後、学校教師および新聞記者となりました。1882年ランキン博士が讃美歌の1節を書いたとき、その歌詞を二人の作曲者に送り作曲を依頼しました。その一人は、有名な作曲家で、いま一人が素人作曲者トウマでした。二人の作品が送られてきたとき、ランキン博士は無名の作曲家トウマの曲を採用し、更に、自分の教会の有名なオルガニストであったJ・W・ビショッフに意見を求めました。ビショッフが、その曲に少し手を加えて完成したのが、賛美歌405番であります。

トウマは、他にも幾つかの作品を残しましたが、それはほとんど顧みられず、このRANKINという曲だけが、ランキンの名歌と共に、愛唱されるようになったのです。ランキンも、“神ともにまして”の言葉と曲とが余りにもぴったりしているので、この曲のおかげで、この讃美歌は、素晴らしい人気であった、と語っています。

では、讃美歌405番の1節と、折り返しに目を向けましょう。

<405>                                                   1 かみともにまして ゆく道をまもり、

    あめの御糧もて ちからをあたえませ。

    (おりかえし)

    また会う日まで、 また会う日まで、

    かみのまもり 汝が身を離れざれ。

1節では、この讃美歌の中心の言葉をもってはじまります。“神ともにまし

てゆく道をまもり”とは、何と素晴らしい言葉でしょう。愛する友に贈る言葉でこれほどの深い心のこもった言葉があるでしょうか。“また会う日まで、神様がいつもあなたと共にいましたもうように”とも歌っています。

私たちは、なぜこの言葉に心が打たれるのでしょうか。それは、私たち一人

ひとりはみんな弱い者だからであります。人生の道を歩む時、誰一人として、一寸先を見ることなど出来ません。明日はどのように成り、何が起きるかなど少しも分かりません。このような私たちに、神様が共にいたもうならと考えます時、それは素晴らしいことであります。神様が共にいたまい、信仰を持って行くべき道を歩む時、そこには安心と希望が共にあります。それは、神様に守られているがゆえに、全てを神様に委ねまつることが出来るからであります。そればかりではありません。神様は、信じる者には豊かな心の糧をお与え下さり、力も与えられるからであります。

旧約聖書の出エジプト記16章以下に記されていますように、神様は天から

マナを降らせ、40年の間イスラエル人を養ってくださいました。このイスラエル人と同じように神様を求める人にも、その必要に応じて神様は豊かに恵みをお与えくださいます。

  2 荒野をゆくときも あらし吹く時も、

   ゆくてをしめして、 たえずみちびきませ。

2節には、私たちすべての者が、人生の旅路で経験する、悩みと苦しみなど

について、歌っています。その歩みは、荒野を行く時もあり、嵐の吹く時

あり、また、まったくの行き詰まりの時もあります。このような時にこそ私たちは、まことの救い主を尋ね求めるべきであります。暗黒と絶望の淵にある私たちに、その行く手をしめしてくださり、導いてくださるお方こそ主イエス・キリストであります。私たちばかりでなく、全人類の罪を贖うために、悩みと十字架の道を歩まれたお方こそ、主イエス・キリストでありました。またキリストは、私たちの全て悩みと苦しみを知り、それを共に背負ってくださるお方でもあります。このいつくしみ深きキリストと共に人生の旅路を歩む者は、本当に幸いな者であります。

   3 御門に入る日まで、 いつくしみひろき、

     みつばさのかげに たえずはぐくみませ。

 3節では、旧約聖書の美しい言葉をもって、神様の計り知ることの出来ない愛を歌っています。それは、初めにも記しました詩篇91編であります。“主は、ご自分の羽であなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける”と詩人は歌っています。

 親鳥が、その大きな翼を広げて、ひな鳥をいつくしみ、全ての害から守る様に神様はその広きみ翼をもって、神様を愛する者の上を覆われ、たえず私たちを育んでくださるのであります。

 また3節で作者は、天国のことをも歌っています。すべて者に終わりがあるように、私たちの人生にも、”限り”があります。これほど確かなことはありません。大切なことは、この旅路の終着点です。それは、私たちが永遠のみ国、天国に行き着くか否か、ということであります。これは、特に重大な問題であります。この世で永遠のみ国に導いてくださるお方が、いるでしょうか。そのような資格のある方はいるでしょうか。その答えは、“いません”です。では、救い主、導き手はいないのでしょうか。いらっしゃいます。

 神様は、私たちに主イエス・キリストをお与えくださいました。この神の独り子なるキリストが、私たちの頼るべき、導き手、救い主なるお方であります。キリストは、天の門を、私たちのために、お開きになる目的をもって、この世に下りたまい、十字架の上で罪の贖いとなられ、死なれ、甦り、再び天にお昇りになられた唯一の救い主であります。

 この救い主なるキリストのみが、あなたの天国への正しい導き手であられます。愛する友と別れる時、私たちもランキンのように“また会う日まで、神様がたえずあなたを、お守りになるように”と祈りたいものであります。あなたの友と再び天国で会える日を楽しみに、信仰生活を続けましょう。また、キリストへの信仰のない友や、肉親のために祈り、喜んでキリストを受け入れるように、あなたも励んでください。

 

ビルマ 戦犯者の獄中記(79)最終回 遠山良作著

 ―私のあゆみ―

 今日も一人ヒマラヤの中庭をぐるぐると歩き廻る

 うぬぼれの心が頭をもたげる

 隣人を愛そうとしても愛がない

 それでもなお主にすがりついている私の姿はどうしようもない

 明日もまたこの中庭を私は歩くことだろう

 だが青葉の陰から主のまなざしを見る

 主のみ恵みはなんと大いなることか

「註」私は昭和28年4月10日に刑期を満了し釈放されました。

 

=あとがき=

 昭和13年に応召、中国大陸に従軍、太平洋戦争が勃発するや南下ビルマ戦線に祖国の勝利を信じて戦った。物量を誇る連合軍の前に日本軍は無条件降伏をした。私はこの敗戦をビルマで迎えた。よもやと思っていた私は、国際法上の違反者であるとの一方的な英軍事法廷で裁かれ、戦犯者の烙印を押され牢獄での身となった。

 薄暗い独房での生活は、孤独と悲哀の涙はややもすれば生きる希望さえ失わんとした。このころ一冊の聖書が送られて来た。その聖書は私に生きる目的を教えてくれたのみならず、牢獄もキリストの恵みであると信ずる者になった。

 あれから40年の歳月は流れ、世の人々は戦犯という言葉さえ忘れ、遠い過去の歴史として忘れ去られようとしている。

 いま日本は経済大国として繁栄し、世界をわが物顔で闊歩している日本人の姿を見ると、戦勝に酔った当時の傲慢な日本人の姿を思い出す。この繁栄の背後には、祖国の勝利を信じて死んで逝った幾百万の英霊と、祖国の再建と繁栄を願いつつ戦犯の汚名のもとに異国の刑場に消えて逝った多くの戦友の姿を忘れることはできない。

 敗戦によって焦土と化した焼け跡の中に呆然と立ち、なすことを知らなかったみすぼらしい日本人の姿を今思い出してほしい。・・・。戦争とは常人を狂人のような悪意と憎しみにもかえる悪魔の働きをもする。・・・。

1985年(完)

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・58・・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・1・・

「復活」という言葉は、それ自体に、そういう言葉を語る人にも聞く人にも、何らかの先入観を抱かせるようです。例えば「敗者復活戦」とか「あの人をもういっぺん復活させよう」などと言うことがありますが、その場合の復活は、一度退けられた者にもう一度生かすチャンスを提供することを意味しますが、命が断たれた上での復活ではありません。また「復活なんてことがあり得るか」と言う人には、復活と言うことを、完全に死んだ人の蘇生として受け止めておられるから、そういう批判をされるわけです。

 そのほかにも、復活ということについてはいろいろな理解の仕方や批判があって、そのどれもがもっともなことと言えますが、ただし、聖書が語っているのは、復活の一般論ではなく、神が、神の力をもって、イエスを死人の中から甦らせたこととしての復活であります。

 そうは言うものの、この復活ということが理解しがたく信じられないのは事実です。先に述べましたように、イエスが復活されたことは、復活のイエスに出会った人たちがほかの人たちにそのことを話しても誰も信じなかった、と言います。またパウロがアテネで人々の求めに応じて彼らにとって新しい教えとして興味を抱いて聞いていた話の中で、ことがキリストの復活に及ぶと「ある者はあざ笑い、ある者は『そういう話はいずれまた聞かせてもらおう』と言ってその場を立ち去った」といいます(使徒言行録17:32)。アテネといえば知者の集まる所として自負していた町ですから、復活のことは、彼らの理性や知性によって一笑に付されたわけです。

 ことほどさように、復活ということは「聞いても分からない」という性質のことです。それは、わたしたちが何かについて「分かる」というのは、わたしたちに分解・総合する力があってのことです。「分かる」と言えるのは、わたしたちが、その対象となっている物事を把握する主体となっているからです。ただ、そうは言っても、この主体には限界がありました。自分を超えたものについては、分かりようがありません。死後のことなどそうです。

 死後のことについていろいろ分かっているかのように言う人がおりますが、どうしてわかったと言えるのか、疑問です。クリスチャンはキリストの復活を信じていますが、この「信じる」ということも、わたしたちの中に「信じる能力」があってのことではありません。ことはキリストの復活に限りませんが、こういうことを「信じられるか」と問われたら、「信じられません」というのが正直なわたしたちの事実です。しかし、そういっている自分が逆転するのもまた事実です。

篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2017年10月のラジオ放送予定>  

  10月 1日 金原信義 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)   

      8日 金原信義 (日本キリスト改革派豊明教会牧師)

     15日 金 起泰 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)

     22日 金 起泰 (日本キリスト改革派長久手教会牧師)

     29日 相馬伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)

        (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

 

 「ローマ人への手紙研究」

第80課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・31・・・

C キリスト者の社会的義務

 「社会において果たすべき義務」 13:8~10

 「互いに愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである」(13:8)。

 パウロがここで、決して果たし切ることが出来ない義務である愛の場合を例外として、その他のすべての社会的義務は、これを果たすことがキリスト者の義務であること教えています。

 

 この箇所をキリスト者は借金をしてはならないとか、何物も借りてはならないことを教えていると考える人たちがいます。しかし、このような考え方は、ここの箇所の意味を正しく把握していません。ここで命じられているのは、借りは返さなくてはならないということです。私たちは借りを放置しておいてはならないのです。もちろん、私たちは将来返済できる確かな見通し無しに、借財をするべきではありません。それは他の箇所において認められています。

 「ここでの命令は、すべての負い目、租税、その他、何であれ、すべて負うているものは返しなさい。しかし、愛の義務だけは依然として返されないまま、残っていることを覚えていなさいと言うことです」(C・ホッジ)。

 たとえ、お金や奉仕などのすべての負い目を返したとしても、依然として隣人に対する愛の義務だけは残っているのです。

 

 「隣人に対する愛の義務」  13:9、10

 「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する」(13:9)。ここの言葉と8節で言われたことを確認すると同時に、私たちの隣人に対する愛とは、彼らに対する単なる善意ということに留まらないで、隣人に対する私たちの行為の中に表れてくるものであることを教えています。

 もちろん、これらの戒めは、単に「~するな」という消極的な意味にのみ解釈されるべきではありません。積極的に理解されて、反対の徳の実践を求めていることを銘記すべきです。他人に害を与えないばかりか、善を図らなければならないのです。

 「愛は隣り人に害を加えることではありません。だから、愛は律法を完成さるのである」(13:10)。「愛はその対象となるものの幸福を喜ぶものであるから、自分の愛するものを害したりすることから私たちを守り、結果的に、私たちを導いて、すべての律法の要求するところを果たせるのです。何故ならば、律法は友人の最善の益とならないようなことは何も要求していないからです。だから、パウロは自分を愛すると同じような真摯な愛をもって隣人を愛する者は、律法を完成すると言うのです。自分が同じ環境の下に置かれたときに、してもらいと思うことを、隣人に対して行う者は、律法を全うするのです。だから、律法全体は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という一つの律法に置いて理解されるのです」(C・ホッジ)。

 ここで言われている律法というのは、隣人に対する律法、すなわち、第5戒以下を指しています。律法には、神に対する直接的な義務を教える1~4戒がありますが、ここではそれらは論じられていません。隣人愛がキリスト教のすべてであるとする考えは誤りです。十戒の第一の石の板には神への愛、すなわち、直接的な神への義務が記されていることを忘れてはなりません。

 J.G.ヴォス著

    玉木  鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

  

    ほっとひととき『みんなのコーナー』

☆ 誰が植えたのか、それとも風が種を運んできたのか分かりませんが、車の通らない旧農道の両側に今年も私が勝手に命名したコスモス街道が出来ました。朝夕の散歩道、誰も知らない散歩道を楽しんでいます。遠くには国道があり沢山の車が行き来していますが、気づく人などいないでしょう。秋の恵みがここにもありました。 徳島県 BDさん

☆  残暑お見舞い申し上げます。こちらはもう秋です。虫達は冬眠の準備をしています。蔦も黄色くなって来ています。8月にアキアカネが降りて来ています。ナツアカネと少しだけですが赤さが違い赤トンボは両方を差します。今年は、秋が短くなって冬が長くなりそうです。また どか雪が多くなるのではと心配しています。気が早いでしょうか? 主人が今また躁になり、夜遅くまで遊んで帰って来て今も寝ています。金曜日に薬を増やしてもらいましたが、効果が出るのには少し日にちがかかります。私は、薬を飲んだか確認しないといけないし、いくら使ったかを聞きます。先生と一万円までと約束しています。株も禁止です。主人にとって窮屈かもしれません~が守れないなら 入院です。先生も出来れば自宅療法でとお金がかかるからそうしましょうとなりました。お祈りください。岩手 KCさん

☆  今夏もまるで地獄の様な蒸し暑さだったから 秋で涼しいのが嬉しいと知人も話していました。アクティブに出掛けるのが好きな友と異なり、毎日の育児の喧騒から逃れたいだけの私自身は、夜、ベランダで虫の音を聞くことで 自分を取り戻す時間を持っています。気付けば、好きな曲をゆっくり聞く間も無く、幼児番組とみんなの唄の繰り返しでした。
 
皆さんも、もしご近所で虫の音など季節を感じられる場所が有りましたら、身体の疲れも和らぐかもしれません。町の暮らしは便利ですが、「猫草」さんのような里山体験で、忘れていた人間らしさを取り戻してストレス社会に向かう力を皆さん養われると良いですね。奈良県 NRさん

☆  私は8年目から「美しい朝」さんと同じ病気でして、薬の変化や気持ちの動揺など、本当によくわかるし、いつも涙が出る思いで読んでいます。本当に挫けそうになります。家族に迷惑ばかりの自分を責めては、お医者さんや家族に叱られています。今生きていることに感謝したいですね。・・・。 岡山県 OKさん

 ☆  主人の運転で久し振りにドライブ・・・。~われは湖の子 さすらいの旅にしあればしみじみと昇る狭霧や さざなみの 志賀の都よ いざさらば~と若き日を思い出したのか歌っていました。美味しい料理や秋の風情よりも、主人の顔は年老いてはいますが一番素敵でした。満ち足りた秋の一泊二日になりました。 兵庫県 T・Kさん

*********

Δ 私は小学生の頃、普通サイズのウサギを飼っていました。現在は、白と黒の猫を2匹飼っています。生き物を飼うという事は、とても勉強になります。お年寄りの方が、朝晩犬と散歩している様子を見ると心が和みます。可愛いだけではなく、心を癒してもらったり、私にとっても皆さんにとっても大切な存在なのですね。

Δ 4歳の娘のポケットがカサカサ音がしています。園の帰りに虫好きな娘は、虫を拾ってはポケットに入れて帰ります。虫嫌いの私は毎日恐る恐るポケットチェック・・・、今日は虫ではなく、枯葉でした。新聞紙の上に一枚一枚取り出して娘ときれいね~と お話していました。娘の瞳はきらきら輝いていました。・・・。

*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております* 編集子

 

 

 

  『ありがとうございます』

萩が咲いています。田舎(兵庫県)では,稲刈りも終わったようです。今年は台風が直撃し被害が日本だけでなくあちこちで凄いですね。アメリカは、平地や海抜が低いのでしょうかね?東南アジアは台風が生まれるから仕方ないですね。どうも出来ないのが現実で世の終わりでしょうか?

今回の台風も日本縦断でした。秋を運んでくれるとは言え、もう十分です。やはり稔の秋がいいですね・・・と寄付金と共にお便りいただきました。

2017年8月16日から2017年9月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。

諸江一之様 稲田喜水様 佐藤のり様 加納さおり様 吉岡道子様 馬場暁美様 和田順一様 和田貴美子様 

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(http://tunobue.blog.shinobi.jp(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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