2012年5月号 №58 (通巻745号)
「つのぶえジャーナル」へようこそ
涙をもって種まく者は、
     喜びの声をもって刈り取る。 詩篇126:5
9174912e.jpeg   今月のことば

 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
              =ヘブル4:14= 

神様は、天におられます。私たちは地上にいます。しかし神様は、その御子をこちらに送って、御子によって、大地をいわば結び付けられました。そしてその救いのザイルを、御子は、もう一度ご自身と共に、引き上げられました。そのことが起こって以来、大地は、取り消しようもなく決定的に、天と堅く結びついています。御父の右にいます御子が、救いのサイルを握っておられるということは何と幸いなことでしょう。
 地上の大地がどれほど激しく揺れ動いてもキリストとの救いの・永遠の命のザイルはいささかも損なわれません。確りと結合されているのです。

 私たちに取っての幸いは、私たちを見捨てない唯一の、この大祭司なるイエスは、私たちの弱さを知り、日々に祈ることを教え、この大祭司に全てをお委ねするという思いを、深め、高め、強めて下さると信仰告白させてくださるのです。
 低い地上にあって、私たちが告白する信仰を堅く守ろうではありませんか。疲れはて、こころ弱った時、御霊の助けを求め、み言葉に堅く立たせてくださいと祈ろうではありませんか。

 生きる
神さまの 大きな御手の中で
かたつむりは かたつむりらしく歩み
螢草は 螢草らしく咲き
雨蛙は 雨蛙らしく鳴き

神さまの 大きな御手の中で
私は 私らしく
生きる              水野源三第四詩集 「み国をめざして」より
 
   小閑記
       
わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
               =Ⅱコリント5:7=


この世を通って、神と共に住む家に行くキリスト者の人生の旅は、信仰によって歩くことであります。誰も天国や、神や、キリスト・イエスを見た者はありません。しかし、私たちにも、また「見たことのない方を愛している」と言うこは出来ます。
私たちの信仰は、神のみ言葉に立つ足であります。また、キリストとその十字架を確りと捉える手であり、よき戦いを戦うために剣をとり、あたかも見たかのように、見えざる方に確りとすがる手であります。
もし、キリストを信じることを止めるならば、立つものを失い、確りとつかまるものも無くし、人生の目的をも失うのです。信仰なくしては、神を喜ばせることも不可能であり、信仰なくしては、神の愛を経験することも不可能であります。私たちは、信仰によって歩き、見えるものに頼らないのです。それは、「わたしたちは地上の生涯を信仰によって絶えず貫かねばならない」ということなのです。

パウロもまた、口に言い表せないことを見、また聞いたのです。そして、信じたのです。パウロはその生涯の終点に立った時、喜ばしげに言います。「わたしは信仰を守りとおした」と。
これを言い表せるほど、大いなることはありません。

イエス・キリストとの交わりにあって、私たちが経験しうる全てのことに、神に感謝いたしましょう。また、私たちが信じることを神が許してくださったことに感謝して、死に至るまでみ言葉と信仰によって、私たちを守り支えてくださることを祈り、決して絶やすことのない様に歩みましょう。

                         上河原立雄 

 讃美歌<404>

1 山路こえて ひとりゆけど
  主の手にすがれる 身はやすけし。e89f47c6.jpeg
  
2 松のあらし 谷のながれ
  みつかいの歌も かくやありなん。

3 峯の雪と こころきよく
  雲なきみ空と むねは澄みぬ。
 
4 みちけわしく ゆくてよおし
  こころざすかたに いつか着くらん。

5 されども主よ われいのらじ
  旅路のおわりの ちかかれとは。

6 日もくれなば 石のまくら
  かりねの夢にも み国しのばん。 
   眸6bf0edae.jpeg

雪国の方には申し訳けありませんが、ここ高知には春が来ました。鶯の初音はまだですが楽しみにしています。近くの町からT委員が菜の花を持って、祈祷会に行きましょうと訪ねてくださいました。嬉しいお誘いでした。祈祷会には行けませんでしたが、次の礼拝には、雪よりも白い髪を束ねて、少しお洒落して行くことが出来ました。お声をかけて下さらなければなかなか出かけられないことを、神様はご存知なのですね。感謝です。
                   高知県 I・Kさん

 毎月「つのぶえジャーナル」を見るのが当り前になっていましたが、3月号がお休みになり、何だか気が抜けた日々でした。「つのぶえジャーナル」が知らず知らずの内に信仰生活の中に入っていたことに気付きました。今、こうして4月号を見ることが出来ました。嬉しくてメールしました。3月も終わると言うのにまだまだ寒く、コートを出したり仕舞ったりです。
その後お身体の具合はいかがでしょうか。4月号も無事発行され安堵されていらっしゃると思います。まだ 本調子とはいかない日もあるでしょうか。大阪にいるお友達とは、何時も私に関西弁で、そんな時「ぼちぼちいこか」とお互いに声を掛け合います。焦らず、急がず、頑張りすぎず、マイペースに・・・という意味だと、私は都合のいい解釈をしています。どうか「ぼちぼち」で過ごしてください。
ジャーナルにはいつも背筋を正され、気持ちを引き締められています。
 月日の経つのは速いもので、あの悲しい震災から一年が経ちましたが、日に日に覆いかぶさってくる辛さに耐えかねていらっしゃる方が多いのを、ジャーナルの記事で感じました。大切な家族や街、家、仕事などあらゆるものを奪われ、行く手に希望があるのかと苦しまれていらっしゃるのだと思います。私には阪神淡路の経験がありますので、分かる気がいたします。主がどの人の重荷も共に負い、歩みを強めて下さるようにと祈ります。
                     兵庫県 N・Rさん



   自閉症者のひとりごとd398778f.jpeg
                (58)

3月10日
最近、何か自分に出来る仕事がしたい、と強く思うようになりました。社会や人と繋がっていたいと思うようになり、昨日、心理士と主治医とに仕事の条件などを含めて話ました。週2~3回数時間で、スモールステップでやって行ったらどうか、ということでした。継続は難しいよ、とのこと。作業所や障害者枠の就労のほうが、人付き合いは煩わしくなくていいのではないかと。ボランティアは人との関わりが大変とのこと。自分に何がしたいかよく考えます。自分の長所といっても、出てこないけど単純な手作業がやってみたいと思っています。通い易いところで。
身心共に日替わり定食だから、とドクター.に言われました。段階を踏んでやれたらいいです。今までも、希望と挫折の繰り返しでしたが、その繰り返しがわたしのスタイルと最近思えるようになって来ました。

3月13日
実家に来ました。母から電話が頻繁にかかってきたので・・・。両親は何とか元気そうです。夜、裏の部屋でくつろいでいたら、母がやって来て、ヨーグルトを差し入れてくれました。優しいなぁと感じました。何時もわたしのことを気にかけていてくれるらしいけど、それが微妙に的外れで、それがわたしをイラつかせます。我がままとアスペの両方です。

3月26日
最近、体調も気持ち的にも不安定です。今日も水中毒らしい症状が出てきました。手足が痺れて、頭がぼんやりしています。まずいと思って、塩を食べたり、コンソメスープを飲んだりしました。わたしって、すぐに何でもハマってしまうからなあ・・・。これからは水分を控えなきゃ。幸いにも、塩分を含んだ飴を8個なめて、症状は収まりつつあります。よかった。
もうあんながぶ飲みするのはやめよう。死ぬ可能性があるのだから。依存症のわたしは、何でも依存してしまいます。依存症は治りません。これも理解されない一生続く病です。
ただし、健康な心になりたいと思えば、回復のステップを踏むことができます。それには自助グループが必要になります。そして神様に願うこと。自分の力ではどうにもならないのですから。

3月28日
実はわたしは拡大鏡派です。最近、遠くも近くも見えなくなって。近視の上に老眼が入って。眼鏡を変えたのですが、これが限界です。自動車運転免許のレベルまで達していないのですが。弱視者用PC拡大鏡が破格で手に入るとありがたいのでしょうが。ユニバーサルデザインがあるように、みんなが使いやすいものはないのかなぁ。

3月30日
ペダルをこげばととにかく必死になってこぐ。ですが、ペース配分ができないんですね。今日は筋肉痛を覚悟していましたが、大丈夫です。脚の筋肉はわりとあるんですが、腕や握力が全然ないという、子どもの頃からのアンバランスさがいまだにあります。アトピーや筋力のアンバランスさは、アスペには多いそうです。しかし、運動不足には違いない。
今日も頭の中で音楽が鳴っています。就寝中はありませんが、起きているときはほとんどですね。

4月5日
事業所の見学に行くので、整理してみようと思って、履歴書を書きました。職を転々としているので、何年にどこそこになんて書けなくて、悪戦苦闘しました。忘れたものは仕方ないので、適当に書いておきました。
それにしても、疲れました。自分に合わないことばかり、仕事にしてきたんだなぁと思いました。
事業所まで来ました。見学の時刻までまだ時間があったので、近くに喫茶店を見つけて、ほっと一息。久しぶりにヒールを履いているので、腰が痛くて。どんな所なんだろう。とくに職業訓練校のようなところではなく、就労のために必要な健康や自己理解やコミュニケーションなどを身につけるところのようです。精神障害者や発達障害者を対象としています。
わたしはブランクがあるので、通うことからのスタートです。 
                                                 加納さおり


                  

e1f000be.jpeg世田谷通信
(102)
猫 草

夕食の買い物に行くときはだいたい疲れているか急いでいる。或いはその両方であることが多い。そういう状態ではいつにもまして判断力も思考力もない。「本日のお買い得品」の文字につられ、豆腐・・もやし・・とレジかごに入れる。あ、しまった、夕食メニューは!?と思ったとき、タイミングよく置いてあるのが「半分調理されたお惣菜」である。パッケージには「豆腐を加えるだけ!」「もやしだけで!」。あら不思議、すでにカゴには豆腐ともやしがはいってる!毎日こんな調子なのである。
思いかえすと、よし、このメニューを作ろう!と買い物に行くことなんて、誰かの誕生日か来客のときぐらいという有様だったりする。毎日料理をするのは楽しく、面倒で、誤魔化しも含まれる。さらに賞味期限と財布事情など諸般の複雑な要素からできあがっている。家族の食卓に料理を乗せていくのは長期戦なので、段々と言い訳部分が肥大していく傾向にある。反省しきりである。
しかし考えてみると私たちの体は脳以外のすべての細胞が日々新陳代謝している。記憶と学習、思考以外はこれまでに食べたもので構成されているのだ。そう思うと毎日の食事の蓄積って本当に大切だと思う。
だいたい自分が自分であり続けることってすごいなあと改めて思う。どうしてちゃんと皮膚は皮膚に、内臓や髪の毛や歯やそういう精密で的確なものに再構成されるんだろう。しかも本人の状態を引き継ぎつつ。さらには単なるコピー、再生産ではなく緩やかに老化というトッピングも混ぜながら。
ES細胞というのをたくさん集めて培養液に入れていたら「眼」ができたというニュースを読んだ。かなりホラーな話の部類に入る。だれがこの細胞は網膜にこの細胞は水晶体になれという指示をしたのか。そもそも、なぜ「眼」なのか。
日々知識と技術は進歩していく。それでも未知の領域は一向に減ったようにはみえない。
そう、八宝菜も、白菜さえあれば後の7種類はパッケージ化されている手軽さである。そうはいっても材料のキクラゲ一つにもまだ謎は多い。便利と不便、解明と未知、進化と未開、それらは常に自らの中にもある。
  その愛のゆえにd44d1555.jpeg
   =時々の記=
    (73)

3月30日
北風の強き山とて風車建つ
春は馬車に乗ってを読む会に行く
(春は馬車に乗っては、伊賀市出身・上野高校を卒業した横光利一の作品です。横光は、伊賀の文学者で唯一キリスト者になったのです。)
前山の木の芽の息吹色変わる
草の戸や畑に光る犬フグリ        馬場路哉
久しぶりに主人の俳句が出てきました。春ですものね。動き始めないと、大地の生命力にまけてしまいそうです。今朝は、裏の畑を耕して野菜作りの土こなしをしています。

4月5日
4月3日は、日本中が春の嵐に見舞われ大変でしたね。こちらも、約20メートル前後の風と、激しい雨で、あちこちの木が倒れたり、トタン屋根が吹き飛ばされたりと大変でした。何か、今年も、異常気象ですっきりとした春がやってきてくれません。今も、きつい風が吹き荒れています。
微笑める遺影に春の近づきぬ
忍耐の日々を過ごさん受難週
点々と草の青める河川敷
鶯を近くに聞くや竹を切る        馬場路哉
昨日は、久し振りに、主人と二人で、鍬を持って畑を耕しました。フーフー言いながらです。何を植えるかは、まだ決まっていませんが、せっかく畑があるのだから、少しでも自分の家で取れた野菜を口にできたらいいなという思いからです。
父は、農業が大好きで、小さい頃は、畑で、麦ふみをさせられたり、麦を鎌で刈り取ったりと、そんな思い出がイースターを前によみがえってきました。
                                                                                               馬場暁美
                                                             (上野緑ヶ丘教会員)


cb4cdfb9.jpeg                  キリスト者の生活綱要  (32)              
                                               ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                               吉岡  繁訳

  第4章 来るべき世への希望

  4 天と比較したら、地とは何か
  1  われわれが、この世の生を罪深く愛することを止めれば、それだけより良い世界への望みが増すことになる。実に、異教徒にとって最大の祝福は、生まれてこなかったことであり、次善の道は直ちに死ぬことである。
 神とまことの宗教についての知識がなければ、彼らはこの世の生に、不幸と悲惨のほかに何を見るのだろうか。近親の子の誕生を悲しんで涙し、葬儀を厳粛に祝ったスキト人の行為のどこに、不合理なところがあるのだろうか。
 しかし、彼らの習慣がどうであれ、役に立たなかった。というのは、キリストへのまことの信仰がないため、それ自体では祝福にも望ましいことでもないものが、どうしたら熱心な者たちの益になり得るかと言うことを、理解しなかったからである。そのため、異教徒たちの見解は絶望に終わるだけであった。

  2  したがって、信者が目標としなければならないことは、死ぬべきこの世の生を考えて見た時、それは現実に悲惨のほか何物でもないというように理解することである。そうしてこそ、人々は勤勉に、ますます快活かつ進んで、次に来る永遠の生を考えるようになるからである。
 天と地を比較する時、われわれは、この世の生を忘れることができるばかりでなく、それを蔑み、謗りさえするであろう。もし、天がわれわれの祖国であるなら、この地は流刑の場所でなくて、何であろう。またこの世の生は異国の旅でなくて、何であろう。もし、この世を去ることが、まことの生に入ることを意味するなら、この世は墓以外の何であろう。
 この罪の地上に住むことは、死の中に埋没すること以外の何であろう。
 身体から解放されることが、完全な自由を意味するなら、この身体は牢獄以外の何であろう。神の臨在を喜ぶことが、幸福の頂点であるならば、それがなければ悲惨である。なぜなら、この世を出て行くまでは、われわれは、「主から離れている」からである。
 それで、地上の生が天上のそれと比較されるなら、それは確かに軽いものと見られ、不首尾と見なされるべきである。

  3  しかし、罪に服従させられることがない限り、この世の生は憎悪されたりしてはならない。また、その憎悪ですら、生そのものに向けられるべきではない。われわれが非常に疲れ、この世の生を軽蔑するようになり、その終わることを願うようになっても、主がよいとされない限り、その中に留まるよう心がけなければならない。
 言いかえれば、われわれは疲れても、苛立ったり、忍耐を欠いたりしてはならない。この世の生は、主がわれわれを置いた場所であり、主に呼び出されるまで、そこに留まらなければならないからである。
 パウロは、彼が望んだよりも長く、肉体の束縛の中に閉じ込められている運命を悲しんで、実にその解放を熱烈に願った。そして同時に、彼は、神の御心のうちに安んじ、この世に留まるにも去るにも、いずれの備えも出来ていると言う。
 彼は、生きるにしても死ぬにしても、神の御名を崇めなければならないことを認め、神の栄光のために、何が最も都合がよいかを決めるのは、主のなさることであると告白している。

  4  それゆえ、「生きるのも死ぬのも主のため」と言うのが、ふさわしいことならば、われわれの生死の限界を神のよしとなさる御定めに委ねよう。同時に、やがて来る不死と比べて、この世の生(の空しさ)を軽蔑しつつ、死を熱心に望み、絶えず瞑想しよう。そして罪への隷属にあるからには、神がよいとされる時に、何時でもこの世の生を去ることを望むようにしよう。
Ⅱコリント5:6、ローマ7:24、ピリピ1:20、ローマ14:7~8。
          (つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。

『旧・新約婦人物語』(32)85c9aa78.jpeg
 エルサレムのマリヤ
   =使徒行伝12:1~12=

新約聖書には、マリヤという名前の婦人が6人も登場いたします。その内の4人については、既に学びました。ここではエルサレムの都に住んでいたマリヤについて、学びましょう。
このマリヤは、一人息子のマルコをもつ、やもめ(未亡人)です。しかし、聖書を見ますと、この婦人は非常にいろいろな点で恵まれていた人のようです。その恵みの第一は、愛する息子のマルコが、まことに真面目な青年であったことです。このマルコは、「マルコによる福音書」を書いたほど、信仰深い人で、初代キリスト教会の主だった使徒でパウロ、バルナバ、ペテロなどの手助けをした、若い教師でした。
ペテロの第一の手紙5章13節によりますと「あなたがたと共に選ばれてバビロンにある教会、ならびに、わたしの子マルコから、あなたがたによろしく」とあります。この言葉を見ても、ペテロとマルコのあたたかい親子のような関係がわかります。マルコのような良き息子を与えられたことは、母として、本当に大きな恵みと言えましょう。
もう一つの彼女が頂いていた恵みは、彼女に沢山の財産が与えられていたことです。使徒行伝12章12節によりますと、彼女は大きな家を持ち、13節では、その家には門があり、ロダという女中の門番がいたとあります。その当時、エルサレムには門のある家は、なかなか見当たりませんし、地位や財産のある人たちだけが、門のある家に住んでいたようです。このことから考えてみましても、マリヤの地位や彼女の家庭の経済状態が分ります。しかし、これらの恵みの内、彼女に対する一番優れた恵みは、彼女の信仰の深さ、確かさでした。マリヤが何時クリスチャンになったかは、よく分りませんが、アブラハム・カイパー博士の書かれましたところでは、彼女がそれまでに相当長い信仰生活を送っていたに違いない、とございます。
とにかく、マリヤは実に信仰深い婦人であったと同時に、また非常に勇気に富んだ人でありました。当時は、キリスト教会がひどく世の中から迫害を受けていた時です。その時の王、暴君ヘロデは、政策上、キリスト教会に迫害の手を伸ばして、イエスの弟子ヤコブを殺したことが、ユダヤ人の群衆の意にかなったと見てとりました。それでヘロデは、更に、ペテロも捕らえ、獄に閉じ込め、過ぎ越しの祭の後で彼を殺し、人気を得ようと思いました。 
彼は4人組の兵卒4組で、かわるがわる厳重に牢獄を監視させました。人間的な立場から考えますと、ペテロをこのような危地より救い出すなど、とうてい人のなし得るところではなく、不可能なことでした。それにもかかわらず、教会ではペテロの救いのために熱心な祈りを神に捧げていたのです。
暴君ヘロデ王が、いよいよペテロを牢獄から引き出そうとした、その夜のことでした。マリヤの家では、大勢の信者たちが集まって、熱心な祈祷会をペテロのために、ひそかに開いていたのです。集まる会堂もなく、狂暴な王の厳しい迫害の危険な立場にある教会のために、自分の家を開放し、提供していることが公けになれば、マリヤも死刑は免れません。それほどの危険をおかし、全てを承知の上で、教会のために祈祷会を自分の家で開くことは、大変な決断と勇気が、更に神様のみ摂理に対する深い信仰が必要とすることは、言うまでもないことであります。ここにマリヤの崇高な信仰から出る勇敢な行為が、何ものも恐れず、実行となって現われたのでありましょう。

さて、彼らの熱心な祈りが続けられています時、神は彼らの祈りに答えられました。神は牢獄からペテロを救い出し、家の外、街頭にまで彼を導き出してくださったのです。路傍に立つ自分を見た時、ペテロはその時初めて、神様が自分をお救いくださったのだと悟りました。彼は大急ぎでマリヤの家に走り行き、彼女の門を叩きました。この時のマリヤを初め、そこにいたクリスチャンたちの驚きと喜びは、どんなであったでしょう。
その場の有様が、聖書には絵のように描写しています。ここに、わたしたちは祈りの力の偉大さの実例を見ることが出来るのです。心を合わせてわたしたちが祈ります時、人の思いや考えを越えて、神様は人の目に不可能な壁を突き破りたまいます。
あなたの教会の中にも、マリヤのように、全てを捧げて喜んで教会の集まりのために、自分の家を開放しておられる方があると思います。もちろん、集まりを持つ家には、掃除もしなくてはならないでしょう。畳が傷むかもしれません。後片づけの苦労もありましょう。隣り近所の人たちから、冷たい目で見られるかもしれません。しかし、日本にも自宅を開放しておられるクリスチャンの方が沢山おられます。
このことは本当に感謝でございます。このような家庭こそ、無神論者の多い、真暗闇の世の中に、真理の光を輝かす灯台とまりましょう。エルサレムのマリヤの家庭は、このような家でありました。あなたのご家庭が、このようになれば、あなたにとって、それは大変大きな素晴らしい恵みとなることでしょうし、大きな喜びとなりましょう。

                                                            ポーリン・マカルピン著
                          (つのぶえ社出版)この文章の掲載は「つのぶえ社」の許可を得ております。

 ビルマ
  戦犯者の獄中記  (15)  遠山良作 著s-P4060163.jpg

昭和21年

6月18日
四時頃である。激しく降った雨が少し小降りになった。棟の入口付近にあわただしい靴の足音がした。
「何かあったか」と誰かの叫ぶような声がする。
「上野大尉が連れて行かれた」と西の方から返事が返って来る。
物静かな上野大尉は、誰ともあまり会話がなかったので、事件の詳細な内容は、よく解らない。ただ英人の搭乗員が死んだ事件である。
明朝は、ビルマで初めての戦犯者として、断頭台の露と消えて逝かれる。私たち独房にいる者はみな泣いた。降り続く雨、悲しみの涙は冷たい鉄格子を濡らすのである。

君が代の 弥栄寿ぎて 散る君の 心や神に 通ひこそすれ
朝露と なりて消えぬる 君なれど 勲をわれ等 永久に忘れじ

6月20日
-ラングーン捕虜収容所の事件の判決-
 上野大尉を断頭台に送った翌日である。ラングーン捕虜収容所事件の判決があった。
第5回目の裁判である。判決は、
 陸軍軍医中尉  大西明男  死刑
 陸軍軍医大尉  田住元三  無期
 陸軍主計曹長  上野 清  3年
 陸軍上等兵   上野桂月 15年
   
連合軍の捕虜を収容中に虐待し、病人に対して充分な治療をしなかったため、死に至らしめた。また、食事も充分に与えなかった等の罪状である。
人間の死は避けることは出来ない。戦場で医薬品の不足していることは、当時としてはやむ得ないことである。死亡した原因が軍医が充分な医薬品を与えず死に至らしめたと言う責任者である。6人目の死刑囚として、大西軍医もこの独房の人になった。

この文章の転載はご子息の許可を得ております。
 s-P4050157.jpg あなたに聖書を
 
 前にもお話ししたことですが、「自分探し」というので、今、主として若者が、今まで知らなかったいろんな所へ出かけて行き、また今まで知らなかったいろんな人と出会う中で、自分というものを知ろうとしています。それはそれなりの効果があって、無駄には終わらないでしょうが、どこまで捉えられたら自分探しが出来たことになるか、決め手はありません。
 ところが、この「自分探し」ということは、現在の若者に限らず、昔から全ての人が求めてきたことでありまして、ソクラテスが「汝自身を知れ」と言った言葉によって代表される永遠の課題であります。それは、何によって、また、どうすれば自分というものを捉えることが出来るかについては、人間の側で「これです」と決定的なことは言えないからであります。
 そういうことを踏まえた上で、聖書の中から示される一つのことを言いますと、イエス・キリストの弟子のペテロが、イエスに向って「あなたは生ける神の子キリストです」と言ったということが書いてあります。これは、イエスという人物を、生きている神の子であり、キリスト、すなわち救い主と見た、また信じたという告白であります。が、同時に、これは、自分という者を、神の子の前に立っている自分として、また救い主の前にある自分として知らされたということであります。
 こういう自分についての理解は、それ以前のペテロにはありませんでした。それまでのペテロにあったものは、この世の中の人間関係の中での自分と救い主との関係など全くなかった自分でありました。
 ところが、イエスとの出会いによって、ペテロは、自分が神の子との関係にある自分であることと、同時にその自分は、救い主に出合うことが出来た自分であることを知らされたのでした。「目から鱗」と言えるような、新しいペテロの誕生でした。そういう意味で、聖書は「自分探し」についての、全く新しい方向を示してくれるイエス・キリストを紹介する書物でありますから、あなたも聖書によって自分を新しく捉えていただきたいと願っています。
  
篠田 潔

(参照聖句・マタイ16:13~20)
(電話によるメッセージより・日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
5月
   6日 中根汎信 (日本キリスト改革派那加教会牧師)
  13日 中根汎信 (日本キリスト改革派那加教会牧師)
  20日 辻 幸宏 (日本キリスト改革派大垣教会牧師)
  27日 辻 幸宏 (日本キリスト改革派大垣教会牧師)

「キリストへの時間」放送予定
       (放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
 「ローマ人への手紙」研究 (89)
 第54課 異邦人の召命とユダヤ人の拒否s-P4020125.jpg
       9章1~11章36節(続)
F 神のユダヤ人拒否は最終的なものではない。何故なら、彼らの多くの者がキリストへ立ち帰るからである。
       11章11~36節 (2)

 ローマ書の解釈上最も難解な箇所の一つに来ています。すなわち、11:11~36は未来におけるユダヤ人の(多数、または大部分、或いは全員)キリストへの回心を述べているのかと言う点です。表面的にだけ見るならば。このことは容易に肯定的に答えることが出来るように見えます。しかし、問題は決して単純ではありません。著名な正統的聖書学者たちの間にも、全く正反対の結論が出ているのです。
 この箇所を取り上げるにあたって、まず始めに学者の間でも互いに見解を異にしている箇所であることを念頭において置くべきです。そして、この箇所が論争の的になっているその性格を正しく把握して、次に決定的な証拠によって確実な論証が可能である部分を除いて、決定的な断定を下さないで進んで行くことが必要でしょう。

 この問題を入念に学ぼうと願う人々は、次の書物を読むことが望ましい。

 1 William Hendriksen「イスラエルと聖書」(Israel and The Bible)
   本書はローマ書11:26の綿密な研究を入れています。著者は「全てのイスラエルが救われる」という言葉は、各時代を通じて、選ばれたユダヤ人が救われることを述べているものであり、「全てのイスラエル」は、11:5の「残された者」と同意である、と主張しています。

 2 Charles Hodge「ローマ書注解」
   ホッジ博士の結論は、「未来において、ユダヤ人があまねくキリストに回心し、全てのイスラエルが救われる」としています。

 3 Louid DeCaro「今日のイスラエル:預言の成就か?」
   著者の見解は、今日のイスラエルはその不信仰の故に、旧約の預言の成就ではなく、「イスラエルの残された者」の霊的覚醒と救いについての聖書における約束であると見る。イスラエルの約束された救いとは、政治的または領土的なものではなく、霊的なものであり、イスラエルの中に悔い改めて、信仰を持ってキリストに立ち帰る人々の希望なのである。本書は近東における現代の紛争問題を聖書的な見地から考えるのに大いに啓発的です。

                                          J.G.ヴォス著
                  玉木  鎮訳
                (日本キリスト改革派引退教師)
                          この文章の転載は訳者の許可を得ております。
  祈 りs-P4020121.jpg

♡ 「つのぶえジャーナル」を毎月楽しみに待っている一人でごさいます。4月号の「眸」の中に、岐阜県のS・Sさんのお友達との楽しい旅行のお便りがありました。毎日お忙しくされている皆さん方の、ひと時のくつろいだお姿や弾む会話を想像しながら、私も楽しませて頂きました。私も気まま旅が大好きです。と言っても実際には出かけられません。車椅子の生活ですから。それでも、若い頃はよく各駅停車で1泊2日を年に何度もいたしました。今ではカメラなのでしょうが、私の場合は、スケッチです。気に入ったお店や街並み、車窓から見た風景などを描いたスケッチブックが沢山あります。旅の記憶は時間が経つても色あせません。
もう一度訪ねたいと思う気持ちとそっとして置きたい気持ちを楽しんでいます。
                静岡県 気まぐれおばさん   
 
♡ 世界のクリスチャンにとって最高の喜びの日は、イースター。昨年は体調を崩していましたので嬉しい、礼拝の日になりました。このイエス様の十字架上での苦しみと、三日目に復活された事実は、誠に、地上にあって、試練に見舞われている者を励まし、真の希望を、お与えいただけますことに、心はら感謝するものです。ともに、お祝いできる幸いを嬉しく思います。礼拝後には墓地礼拝があります。開拓伝道に労してくださった信仰の先輩の方々のお子さんたちご家族とお孫さんがこられていました。まだまだ風は冷たいでしたが、本当に恵まれた時でした。
                埼玉県 T・Tさん


       ******************
憲法第25条(国民の生存権と国の保障義務) すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 「みんなでわいわい・ご意見コーナー」s-P4040148.jpg

 二度目の春を迎えました。新緑がとても美しい季節になりました。あの悪夢のような出来事で生活ばかりでなく、美しい自然もそうではなくなってしまいました。そこに棲む鳥や生き物にも計り知れない汚染の被害を受けてしまっています。
その被害の影響は長い年月、これから繰り返される世代のなかで、どのように出てくるのでしょうか。山から流れ出た清流、そこに棲む魚に異変は出ないのでしょうか。そんなことを考えながら見慣れてきた山々や緑を見ています。
                     茨城県 E・Kさん

日本一の規模を誇る弘前公園の桜の満開は、まだですがやっと青森にも春が来ました。ガイドブックを調べてみましたら1715年に津軽藩士が25本のカスミザクラなどを京都から取り寄せ、城内に植えたのが始まりと紹介されていました。地元にいながら、花見には出かけましたが、こうして調べたことはありませんでした。まだまだ知らないことが沢山あることを知りましたので、これからの散歩が楽しみです。
                    青森県 S・Tさん
s-P4040130.jpg 『ありがとうございます』

阪神地区の方々に春を告げるものに、春の選抜高校野球があります。それが終わると神戸や西宮地域は桜一色になり、そうして新緑に移り変わると言われています。私のいる名古屋も同様ですが、最近、個人の庭木に木蓮の多いのに気づきました。花や緑の少ないときに咲く「春つげの木」ですから目立つのかもしれませんが、きれいです。お花屋さんの店先とは違った季節を感じさせてくれます。
今月号の花束は結婚記念日のご主人からの贈物だそうで、このようなお花は一番嬉しいプレゼントですね。
メールをくださる方が多くなり、嬉しいかぎりです。どうぞ、お友達などにこのメールアドレスをご紹介ください。大歓迎です。
電子メール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。
     
『つのぶえジャーナル』のための寄付者
岸上とし子様 宇佐神正武様 古屋愛実様 匿名2名様

 郵便振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社

 『クリスチャン音楽家を支える会』への寄付者
宇佐神正武様 匿名1名様
便振替口座番号 00870-2-92464 クリスチャン音楽家を支える会
2012年3月16日から2012年4月15日‘まで
****************************
アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった(創世記4:20~21)。

ブログ内検索
カウンター
★ごあんない★
毎月第一日更新
お便り・ご感想はこちらへ
お便り・ご感想くださる方は下記のメールフォームか住所へお願いいたします。お便りは「つのぶえジャーナル」の管理人のみ閲覧になっています。*印は必須です。入力ください。
〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
217ff6fb.jpg 








「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

b997b4d0.jpg
 









「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
 a0528a6b.jpg









「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
4008bd9e.jpg
われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

0eb70a0b.jpg








さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

Copyright © [   つのぶえジャーナル ] All rights reserved.
Special Template : シンプルなブログテンプレートなら - Design up blog
Special Thanks :
Commercial message :