2018年7 月 月号 №130 通巻817号 号
 

  今月のことば

 しかし主を待つ望む者は新たな力を得、わしのように翼をかってのぼることができる。歩いても弱ることはない。

       ~イザヤ40:31~

 何時の頃からか、「五月病」と呼ばれる言葉が、当たり前に使われますが、その言葉で何かを納得させる、不思議な言葉です。同じように、病院で医者から何かの病名を聞くと、これも重症でない限り安心するのは、どうしてなのかと思う時があります。

 

 私たちの日々に中に、時として勇気を失い、何事にも疑い深くなると、力を失いますが、信頼と希望は、生活に魂に喜びと勇気が与えられることを誰もが経験しているのではないでしょうか。ですから、「落胆の泥沼」に深く沈んでいても、「希望の目覚め」を待ち望むのです。

 

 私たちが、自分と住んでいる世界とを見る時、すべてのことが暗く、不可能にさえ思えます。しかし、私たちが聖書を開き、読み、考える時、必ず出口が見つかるのです。希望は神様による信仰を失わない者を、その「暗い泥沼」から、本当に不思議ですが、希望と喜びへと導かれているのです。

 

 もし、神に導かれ、希望を示されていても、不平を言い、落胆して生きるなら、それが神様の誉れにはならず、自分たちの幸いにもならず、他の人々を支え、助けることなどできません。聖書の中に「悔い改め」という言葉が出てまいりますが、「涙をぬぐい、顔を洗うこと」こそ、「悔い改め」です。イエスを「救い主」とし、神を父として持つ者にふさわしい「思い」とも言えます。

 

 もう一度、弱りはてたこころの翼をひろげましょう。知らぬ間に再び、若い鷲のように、高く翔り、人生の悲しみを越えて高く、高く走り、強くなり、喜びに溢れて、イエスのみ名によって、神様に感謝する者にされることを強く望む者は、ほんとうなのです。新たな力を得ます。

 

   小閑記 

 

 あなたがたの神は言われる。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終わり、その咎はすでにゆるされ、もろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。

          ~イザヤ40:1~2~

 

 神の民の生活環境は、必ずしも明るいものではありません。これを否定する人は、この世も自分をも知ってはいないのです。キリスト者の歩かなければならない道は「細く狭い」と神は言われました。危険への恐れ、取り残される恐れ、他の人々の救いのための責任、あるべき、またありうる恥辱感、その他の多くのことが、キリスト者の信仰をぐらつかせ、恐れさせます。

 

 そのような時にキリスト者も信仰の力を忘れたかのように、嘆きます。「主はわたしを捨てられた。主はわたしを忘れた」と。

 

 しかし、神はそのような時でも、わたしたちを知っておられ、み言葉の中に主の愛に満ちた慰めをお置きになってくださいました。

 

「女がその乳飲み子を忘れ、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。みよ、わたしはたなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある」。

 

わたしたちは服役の期は終わり、そのとがはすでにゆるされ、わたしたちはもろもろの罪のために、二倍の刑罰を主の手から受けたのです。それは、わたしたちによって十分な慰めではないでしょうか。

 

わが手の傷を忘れ、わが十字架、わが血、わが苦しみとわが痛き悲しみを忘れてはならない。否、シオンはわたしの最も大きいよろこびである。

 

この神の恵みと祝福こそ、キリスト者の日々、人生の礎です。

 

世田谷通信(177

猫草

NIMBY(ニンビー)という言葉がある。No in my Backyardの頭文字をとった造語で、直訳すれば「うちの裏庭以外で」、と言った感じか。廃棄物処理場や火葬場、発電所や飛行場、最近では幼稚園や福祉施設もそれにあたるらしいが、要するに社会生活を送る上で必要不可欠とみんなが思うもの。大切さは重々承知していて、その恩恵にはあずかりたいけど、自分の近所には欲しくない物。総論賛成各論反対というやつだ。

そして今、自分がまさにそういう事態に直面している。5年前にシロアリ駆除、薬の効力が消えて再度散布というタイミング。業者さんに床下にもぐって頂き、点検をお願いした。そして、シロアリはいないが、ただ・・ゴキブリがたくさん・・と言われて鳥肌がたった。だめなのだ、あれだけは。

特にあちらの床下と指さした場所に、あっと思い当たった。裏庭には雨水タンクがあって、わざわざ落葉を集めて作った腐葉土、伐採した雑木が積み上げてある。水と土と木、生きものにはさぞかし快適だろうと思われる環境を作って、これが生物多様性よね、なんて悦に入っていた場所である。

それこそ害虫発生の温床です、自ら呼び寄せていますよと言われて、即白旗。撤去である。雑木を小さく切り、燃えるゴミに出す。腐葉土を片付けて防犯砂利を撒く。生物多様性大いに結構、ただしうちの裏庭以外でね、というわけだ。これこそニンビー。苦笑するしかない。

猪熊弦一郎という香川県丸亀の画家がいて、無類の猫好きとして知られている。作品も猫だらけ。家の中も猫まみれだったようで、調度品はぼろぼろ、動物園のような異臭がしたらしい。戦時中は疎開先に猫同伴で顰蹙をかい、その猫が戦時中たいへん貴重だった雌鶏を殺してしまって大問題になったそうだ。それでも猫たちを手放さなかった。それどころかニワトリを狙う猫のデッサンを描いている始末。寛容、いや無頓着。ご近所のため息が聞こえるようだ。

何かを受け入れるためには何かを諦めるしかない。我慢できないなら欲しがってはいけない。それでも人は何度も言う。大いに結構、全面賛成、どんどん推進して。ただし家の裏庭以外でと。

 

成城緑地内の栗の木にシジュウカラが巣を作り、6匹の雛が口を開けています。

写真を送ります。可愛いね。

 

 

   『美しい朝に』・・44・・

4月17日

 今日は、昼から雨の予報です。今年は桜が長く楽しめた春でした。明日18日は、神経科の日です。バタバタした1ヶ月でしたが、手術した身内のお見舞いに行ってきました。ずいぶん、元気になっていて「ホッ」としました。お祈りありがとうございます。

4月24日

 久しぶりの雨の1日です。今日は、教会のお世話になった方が亡くなられたと連絡がありました。小さいころからずっとお声をかけて下さっていたので、

すごくさびしいです。

5月3日

 今日は風も強く曇り空です。昨夜は夜中の3時頃まで眠れませんでしたので

すごい雨音を聞いていました。夜中まで眠れないとお腹がすいて1階に降りて食べてしまいお腹が満たされると眠れるので血液検査が近ずかなければ問題はないのです。

しかし、いよいよ510日が内科の定期健診です。体重測定と血糖値の検査があります。定期検査が近づくと不思議なことにお腹をこわして体調が最悪くなります。気分も最悪で小さなことにもイライラして自分でもおさえようがありません。神経科の先生がおっしゃるには、不眠症がひどくなったわけでも薬が効かないわけでも、交通事故の後遺症によるものでもないそうです。

5月7日

 大阪は1日中大雨です。主人に車で鍼の先生のところに送ってもらいました。

GW明けで鍼の先生のところはいつもより混んでいました。雨の日は痛みが辛いのですが、治療していただくとずいぶん痛みが和らぐ感じがします。母に「母の日」に贈った洋服が届いたようで喜んでもらえました。色も好みの色でサイズもぴったりだったそうです。雨の時期は、紫陽花の季節ですね。    

5月9日

 最近、天候が急に変わりますね。暑くて真夏日のような暑さだと思ったら、急にザーと大雨が降ったりします。明日はいよいよ内科の診察日です。体重と血糖値が心配です。最近、青汁にミルクとカルピスを入れて飲んでいます。青汁もミルクの苦手ですが+カルピスでジュースのようになります。生野菜も苦手なので1日350gの野菜の摂取は、青汁とトマトジュースで摂取しています。

517

 今日は曇り空です。昨日は、神経科の日でした。何故か、身体がだるくて頭がふらついて主人の車で移動は車いすで行きました。血糖値が気になるので夜中に食べられずに寝不足と身体の疲れとストレスで血圧も上がり、身体もしんどかったようです。お腹がふくれると眠くなるけど、食べると血糖値の心配がありそれの兼ね合いが難しいみたいです。

あまりにしんどくて昨夜はクーラーをつけて寝ましたが、夜食を食べなくても久しぶりに熟睡できました。自分の病状のためには、体温調節のためにも室温の調節も大切だと気づかされました。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

 

 その愛のゆえに

   =時々の記=

    (146)

4月17日

予報通り、雨になりました。小さな花たちは雨をもらって、少しうれしいような冷たいような表情をして咲き続けてくれています。珍しいシャガの花が今年はずいぶん早く庭の隅っこに咲き始めて、そのすがすがしさにまるで初夏を思い起こさせられています。

倒木を抱きながらも山笑ふ。

瀬波立ち渕緑なす宇陀の春。

伊勢近き川緩やかに風光る。

湖のさざ波弾く春日かな。

車椅子夫が押したりイースター。    馬場路哉

この頃の朝5時はもう明るくなり始めていますので、とてもうれしくなります。

昨夕はフクロウが裏山にやってきて“大丈夫かい”と声をかけてくれました。

4月20日

 今日は25度まで気温が上がりました。一気に暑くなってきましたので、ストーブを片付けようか迷っています。まだしばらく朝、夕は寒い日があるかもしれないので、慌てません。私の苦手なのは、蟻んこと蚊です。まだこちらは出てきませんが、そろそろ蚊取り線香の準備が必要になってきますね。お隣のハナミズキが今満開です。主人は三日前に畑仕事をしていて、立ち上がろうとした瞬間、ギクッと腰を痛めました。杖を片手に腰を二つ折りにして今は歩いています。でも歩くことができるので感謝です。

4月30日

 田んぼでは田植えの真っ最中、また新茶の時期が早まってトラックの荷台に一杯乗せて新茶工場へ運ばれていくのに散歩していると出会います。まだ八十八夜になっていないのに、今年はいつもの年よりも早いようです。すっかり緑滴る季節に移り替わりました。

伊賀盆地、澄み渡る灯や春夕。

波立つる浅瀬荒瀬や春の川。

花つくり好む媼や花ミモザ。

新入生、足取り軽く門を入る。

桜見ず、ひたすら郵便配達す。     馬場路哉

5月に明日から入ります。今月は主人の定期精密検査が三重大病院であります。

12年目になります。よくここまで・・・と検査のたびに思います。

5月3日

 昨日、横浜の姉と電話で近況を話し合いました。モモが最後にとても苦しんで息を引き取ったことを伝えましたら、田舎でお隣が離れているからそうやって最後まで家で見てあげられたんだねという。私にとしては当たり前のことと考えていたことが、それはとても都会では考えられないことだというのです。少しでも犬の声が聞こえたり、騒がしいことが起きたりすると、とてもマンションではやっていけないので、動物でも人間でも人の迷惑になるほどの騒がしくになると施設に預けなければならないのだというのです。その話を聞いてびっくりいたしました。お互いにもう70の大台に乗っていますから仕方がありませんね。故障が出てくるのは当たり前ですね。と。

5月8日

先ほどのニュースで沖縄が梅雨入りしたとか。早いですね。まだ5月ですのに梅雨とは。昨日宝塚にお住いのTさんからお電話をいただきました。とても懐かしく楽しくお話しできました。いつもこの5月になると上野緑が丘教会の創設期を思い出します。Tさんご一家とのお交わりはその頃にさかのぼるのです。もうTさんのことを知る方は誰もいなくなった上野緑が丘教会です。

伊賀盆地灯り初むころ春惜しむ。

暮れ残る庭に一株雪柳。

タンポポの咲き満るなり犬の葉か。(モモのお墓の周り。)

春昼や老シスターの話聞く。    馬場路哉

511

5月12日は母の日ですね。いつまでたっても母との思い出は尽きません。昨日、一緒に住んでいる息子から母の日のプレゼントが届きました。割り当てられて仕方がなくのプレゼントなのでしょうが、やはり覚えてもらっていたことに感謝し、うれしくなりました。ささやかなことであってもその気持ちを伝えることは大切ですね。

私は、学生時代にポーリン・マカルピン先生から、母の日がどうしてできたかを教えていただきました。

アメリカの牧師さんがその婦人が毎週信徒のために尽くしているのをねぎらうために一年に一度、5月の第二日曜日だけはゆっくりさせてあげようと、この日を母の日として定めて、家から出ている子供たちを呼び寄せて、母である婦人に家族がそろって感謝の気持ちを伝える日になったと教えていただきました。

その後、マカルピン先生は510番の讃美歌を金城の生徒皆で賛美しましょうと呼び掛けて、200名近くの寮生は故郷の母のことを思い出しながら涙して賛美をしたのを思い出すのです。

この素晴らしい尊いお話はしっかりと私の胸に刻み込まれています。

515

 お祈りに支えられて12年目を迎える今日の検査結果も異常なしと言っていただきました。心から感謝しながら名阪国道を山添村に向かってひたすら帰ってきました。検査はおよそ30分でしたが、それから待つこと3時間半余り。待っている間の緊張感はいつまでたっても嫌な思いになります。やっと名前が呼ばれたのが2時過ぎでした。ドキドキしながら診察室のドアを開けました。今回も異常ありませんよ、と息子よりも若い先生から言っていただき、ほっと胸をなでおろしました。帰りの車の中では、この年も二度の検査はうんざりするね。でも検査をすることによって異常が発見されるのだから、やはり早期発見、早期治療を目指して検査を受け続けることの大切さを痛感いたしました。

大きな病院なので、患者さんの人数も多くて、今日だけで私たちが帰るころで876人の方が来ておられました。多くの方が苦しみを抱えながら、祈るような面持ちで待合室で待っておられます。今日、私の隣に座った方は“どこからきているのですか?”とたずねるので“奈良県の山添村です”と答えると“私は奈良の御杖村です”と。そこで意気投合してしまいました。波多野郵便局がありますね。そこはとても感じがよかったのです、とびっくりするようなお話です。実は主人はそこの郵便局に勤めていました、という話になり検査室でもとても仲良しになることができました。

 裏山からは二日前からホトトギスがとても甲高いきれいな響きでさえずり始めました。“卯の花のにおう垣根のホトトギス早も来鳴きて”のように、卯の花が咲き始めて、ホトトギスが啼き出して、初夏そのものですが、気温が違います。夏の暑さです。明日からは曇り空で、ムシムシ、ジメジメの気候になるとの予報です。梅雨の走りですね。

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

 

解説 ウエストミンスター信仰告白(70)

岡田稔著

(元神戸改革派神学校校長)

第32章 人間の死後の状態について、また死人の復活について

・・・2・・・

3 正しくない者のからだは、キリストの力によって恥辱によみがえらせられる。正しい者のからだは、キリストのみたまによって栄誉によみがえらせられ、キリストご自身のからだに似るものとされる(1)

  1 行伝24:15、ヨハネ5:28,29コリント15:43、ピリピ3:21

 

三  これは前項の補足である。すなわち、復活のとき、生存者と死者とがともに同じ復活の状態に入るのであるが、不義者と義人との区別は決定的であって、生存者も二つに変化し、死者も二つによみがえるのである。一方は復活のキリストに似るのに対して、他方は恥辱によみがえる(または変化する)のである。

<補い>

 信仰告白の文章は、私の註訳ほどに細かく述べていないので、あるいは「終わりの日に生存する者はすべて義人のみである」と受け取る可能性はある。しかし、聖書的根拠が十分ではない。本章の告白は、次のような考え方を否定している。

霊魂が死後復活するまで眠っている、とすること。

霊魂も肉体も最後の審判までは、善人も悪人も同じ運命、または状態の下に置かれているとすること。

死後にも救いに入る機会が備えられていると見ること。

復活は現在のからだとは何の同一性もない全く別なものとすること。

復活は天的な別の被造物だと考えること。

単なる霊魂不滅論や汎神論的な個別性を失って大源に帰一するという見方。

虚無となる。存在性そのものを失うと考えること。

 

さんびか物語  ・・・51・・・

      (広く愛唱されている50曲)・・・最終回・・・

           ポーリン・マカルピン著

          (米国南長老教会婦人宣教師) 

 

讃美530番

 うき世のなげきも

<神様のみ言葉>

「私はいつもあなたを賛美しています。わが神よ。あなたのまことを。イスラエルの聖なる方よ。私は、立琴をもって、あなたにほめ歌を歌います」。

~詩篇716節、22節~

 

この讃美歌は、525番“めぐみふかき、主のほか”と535番の“今日をも送りぬ”と同様に信仰の喜びを歌っている讃美歌であります。

この3つの讃美歌はともに、米国人であるロバート・ローリによって作曲されたものであります。

福音的讃美歌の創作の名人であったロバート・ローリは1826312日、アメリカのフィラデルフィアに生まれ、ルイズバーグ大学を卒業後、バプテスト派の伝道者となりました。その後、1876年(彼50歳)には、6年間、バークネル大学の修辞学の教授となり、その後、再び牧師に返り咲き、プレィンフィルド(ニュージアジー州)のバプテスト教会を彼が亡くなる1899年まで、熱心に牧会を続けました。その間に、彼は多くの讃美歌と日曜学校用の聖歌を作詞作曲し、その編集にも大きな功績を残しています。

ローリは40歳までは聖歌を一つも作っていなかったそうですが、それ以後は多くの讃美歌を作詞作曲しています。その作品は、8冊ほどの讃美歌集に収められて発表されています。

Bright Jewelsによって、世に広められました。この讃美歌の曲の方は、原作者不明と言われていますが、多分、ローリ自身の手になると多くの人々が認めています。

またPure Goldという聖歌集は、1871年に発表されていますが、これも非常にポピュラーで100万冊ほど売れたそうです。

このように、ローリの福音的聖歌は一時アメリカでさかんに歌われましたが、残念なことに、現在ではあまり知られていません。日本では、明治時代から今日まで愛唱されています。アメリカでも、再び多くの人々がこの讃美歌を、心から歌うことを希望してやみません。

 

 

<530>

 1 うき世の嘆きを  心にとめじ、

   常世のたのしみ  身にこそ満つれ。

   み空にきこゆる  たえなる歌に、

   あわせて我らも  いざほめ歌わん。 

 

1節では“うき世の嘆き”と“常世のたのしみ”とを対照にして歌い上げています。

旧約聖書の詩篇71編20節には「あなた(まことの神)は私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ地の深みから、再び私を引き上げてくださいます」と歌っています。

この、うき世には、多くの苦しみ、悲しみ、嘆きがあります。人々は、その暗い嘆きに打ちひしがれて、ただ暗い心に沈んでいるのですが、作者は、この世の荒波にとどまっているのではなく、詩人が歌っていますように唯一の望みである神様に尋ね求めること勧めています。

神様は、私たち一人一人の信頼の源であられます。

神様は、私たちを、悩みと苦しみから救い出してくださいます。

神様は、私たちの岩であり、堅い砦であり、巌となってくださいます。

私たちにとりまして、まことの救い、望みは、ただ、父なる神様にのみあるのであります。この神様の力と救いを、あなたのものとするためには、“あなたの神”として信じることであります。

唯一の神様に信頼してこの世を歩むとき、あなたの前に立ちはだかる障害も、心の嘆きも、苦しみも、決してあなたを一人にはいたしません。むしろ、打ち勝つことが出来るのであります。

作者が歌っていますように、神様のみ国での楽しみが、あなたの心に満ち満ちてくると言っています。私たちが、心から信じなければならないことは、全てに打ち勝つ神様を認めることであります。

私たちは、“すぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれて”いなければなりません。神様は、私たちひとりひとり に、永遠の都を用意しておられるからであります(へブル11:16)。

この都に心を向ける時、“み空にきこゆるたえなる歌に、あわせて我らも  いざほめ歌わん”という喜びが湧いてきます。

 2 うき世の栄えは  消えなばきえね、

  まことの栄えは、 主にこそあれや。

   闇夜にあうとも  主ともにまして、

   み歌をたまえば  いざほめ歌わん。

 

2節では“うき世の栄えは”と“まことの栄え”とを対照にして歌っています。この世の栄えのむなしさ、はかなさを、預言者イザヤは、神様のみ言葉として当時のイスラエルの人々に語っています。

「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:6~7)。

私たちの人生の旅路は限られたものです。「私たちの齢は70年。健やかであっても80年。しかも、その誇りとするところは苦労とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。それゆえ、私たちに知恵の心を得させてください」。(詩篇90:10~12)と神の人モーセが祈ったように、私たちも、祈るべきであります。

作者が歌っていますように、私たちは、この暗い人生に、主イエスが共にいたもうことを願い求め、「主ともにいます」ことを喜びをもって歌い上げたものであります。神様の恵みを心に受けている人は、この恵みのゆえに、声高らかに歌わずにおれないことでしょう。

それは、詩人が「昼には、主が恵みを施し夜にはその歌が私とともにあります。私のいのち、神への祈りが」(詩篇42:8)と歌っていますように、神様を、ほめたたえる者になりたいものであります。

 3 み空をあおげば  うき世の雲は、

   日に日に消えゆき 霧はた晴れぬ。

   行く手にかがやく とこ世のひかり、

   みとめし我らは  いざほめ歌わん。

 

3節では“うき世の雲と霧”と“とこ世の光り”とを対照にして歌っています。私たちは、心に雲が覆いかぶさり、霧に包まれますと、弱々しく頭を下げてしまいます。神様の救いを得ていない人は、たとえば健康であっても、頭を上に上げて歩いているように見えましても、その本当の姿は、うれいに満ちた心と魂なのであります。

神様に対する信仰をもっていない人々は、下を向きますが、神様を信じる人々は輝くみ空をあおぎ見つつ、人生を歩み続けることができるのです。

あなたも、“まことの光り”を求めてください。主イエス・キリストは、当時の人々ばかりでなく、今も、あなたに語りかけています。「私は世の光です」と言うことを。このキリストのみ言葉を信じて、受け入れる人は、決して闇の中を歩みことはありません。

「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことなく、いのちの光を持っているのです」と、ヨハネの福音書8章12節に記されているとおりであります。

今の罪の世には、“まことの光”などありません。あるのは罪によって汚れた闇の世だけであります。このような世界に私たちは生きているのであります。

この世になくてならない大切な光を、私たちは求めなければなりません。主イエス・キリストをあなたも、まことの光として、求めてください。この光に満たされて、神様を讃美し、永遠のみ国への旅路を力強く歩み続けてください。

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 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・7   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)

6 横浜公会の創立・・・2・・

 

このように諜者監視の中に、バラ先生夫妻は、何とかして小児たちにも福音を伝えたい、との熱心から日曜学校のさんびか出版を思い立って、今日の「主、われを愛す」(Jesus  lovos  meI this know 461番)の日本訳をされたが、これもまた、1872年(明治5)9月5日付で、諜者が詳明にその訳文を報告している。それによると、

エスワレオ愛シマス サウ聖書中シマス

彼レニ子供中、信スレハ属ス

ハイエ愛ス、ハイエ愛ス ハイエ愛ス サウ聖書申ス

 

エスワガタメニ 天ノ御門ヒラキ

ワガツミユルシ ソノチニヨレリ ハイエス等、

 

エス愛スイツモ ワレヨワヒトモ

ワガ病気助ケニ 御座ヨリ下リ ハイエス等

 

と言ったものあった。

 

当時、米国婦人一致伝道協会から派遣された婦人宣教師のミセス・メリー・ブライン、ミス・ジュリアン・エヌ・クロスビー、ミセス・ルイゼ・エッチ・ピアソンの3名が、ブラウン宣教師宅を中心に日本婦女英学校を開いて、横浜の混血児の世話と教育に当った。バラ先生はじめ他の宣教師たちにとっても、この混血児問題は非常に心の痛む問題であった。

日本婦人と外人との間に生まれた子供は、特に正式結婚の許されない当時のこととて、その多くは私生児として、また、いまわしい存在として蔑視され、罪悪視されていただけに、バラ先生たちは日本の婦人の立場に痛く同情されて、この問題の解決を米本国に訴えられた。その結果が前記の婦人宣教師たちの来日となったのである。この社会事業に感激した学者の中村敬宇は、自らその生徒募集の案内を執筆し、これがわが国最初の生徒募集案内となったのである。

       (ドクトルヘボン伝 高谷道男著)

 

このような人種問題にも、いち早く解決と救助の手をのべたのも初代の宣教師たちの仕事であった。 

 

1873年(明治6)2月24日、明治政府は外交上、切支丹禁制の高札を撤去することになり、この時点で諜者は全く姿を消すことになったが、日本基督公会の初代の信徒の中に、3名の諜者がいたことは驚きであった。

バラ先生の人柄を知り資料も、諜者によって政府に報告されたものによって明らかにされたが、2月6日の記録によると「小川義綏の親類である富田屋卯助という者が急病で死んだが、バラはこの者の病中からアメリカの医者を招いて、ねんごろに介抱し、死亡した後も死人の前へ来て頭をさすり、親族の者たちへ、ねんごろに説諭を加えて、キリスト教の話をした。その親切は形けのものとは思われず、見る者で感銘せぬ者はなかった」と、日頃偏見をもってキリスト教宣教師を監視していた諜者も、バラ先生の深い愛情に心を打たれたものであった。

このように初代の宣教師たちの国境を越えた隣人愛が、頑迷な日本人の心をとらえ、キリスト教へと回心する動機となったことは確かであろう。

井深梶之助牧師の談に「十数名の英語を教授する傍ら、言語に未熟ながらも、燃ゆるばかりの熱心を以って聖書を説明し、且つ、声涙共に下るといふべき熱誠を以って彼等の為に祈りつつ伝道せらるる事が無かったならば、明治五年(1872)三月に日本最初の基督教会は建設せらるることは、恐らくなかったであろう」と述べ、さらにバラ先生が残された教訓の4つをあげて、

一 熱誠なる祈祷 心を熱くして主に事へ、祈祷を常にせよとは同教師不断の教訓であった。毎年初週の祈祷会を日本に始めたのも同氏の努力に依ると思ふ。・・・その熱誠な祈祷に感激して遂に信仰に導かれた人は決して少数ではないと思う。

二 聖書の愛読 バラ氏は祈りの人であったばかりでなく、聖書の愛読者であった。この一事に就いても、同氏の感化を受けた人の多数あることを知る。

三 直接伝道の急務 バラ氏は思想の人ではなく、活動の人であった。遠き将来の計を立てるという様な人ではなく、機を得るも得さるも一心不乱に伝道を志した人であった。「我若し福音を宣べ伝へずは禍なるかな」とは、実に同氏の所感であった。横浜海岸教会の主任を日本の牧師に譲って後には、或は神奈川県下に、或は伊豆地方に、或は信州地方に随分困難な直接伝道に従事て、伝道者の範を示した。

四 深厚なる友誼同情 バラ氏の病院又は不幸なる人に対する同情、又は信仰を離れんとする信者に対する友誼親切に至っては実に敬服すべきものがあった。

固よりバラ氏にも短所はあったであろう。或は熱心の余り思慮を欠いて判断を誤り、又は人を誤解した場合もあろう。或は雅量(がりょう)に於いて欠くところもあったろう。然し、人誰か過ちなからんである。たとえバラ氏に幾分の瑕瑾(かきん)ありとするかも其の長所は之をつぐのいえて餘りありと断言するを躊躇せぬ。

     (大正十一年十二月福音新報)

 

月刊「つのぶえ」からの転載で、つのぶえ社から許可を得ています。

 

「あなたに聖書を」

「キリスト教百話」・・・66・・・

問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。

答・・9・・

 注意したいと思いますことは「イエス様に出会った」と言う人は、皆喜びに満たされた顔つきでおられることです。人生の終末期においても、感謝や賛美の言葉を発せられることです。キリストの復活を信じることを、幻想に取りつかれているとの評を受けることであっても一向に差し支えないことであると私は思っています。逆に「幻想でないと分かったら、あなたの人生の実はどうなりますか」と問われることになりはしないでしょうか。

 椎名麟三の作品の一つに「美しい女」というのがあります。その女というのは、作品中の男の主人公の生活の場面にひょいひょいと現れる、というのです。例えば、何かのことで気が滅入っていて、屋台の店に首を突っ込んで杯を傾けている時に、ふと見ると「美しい女」がそこにいて、自分の方を見ているのに気付く、するとその途端にその女の姿がすっと消えてしまうというのです。

 そのようなことは、ほかの人には全然気付かれていないが、自分には何となく心が楽しくなるようなことである、というようなことが筋書きの作品ではなかったかと記憶しています。この「美しい女」とは誰のことかと言いますと、この作者の作風から推して、「復活のキリスト」であるといえるように思えます。それというのも、椎名麟三の人生を支えていたものが復活のキリストであったといわれているからです。

 復活されたキリストが、弟子たちに現れて最初に言われたのは「シャローム」という言葉でした。これは、日本語では「こんにちは」に相当する日常の挨拶語ですが、ヘブル語では「平安であるように」とか「平和であるように」とかいう意味の言葉です。それは、キリストの弟子たちが、キリストの弟子であることが知られることによって捕らえられたり処刑されたりすることを恐れていた時に、また、先生であるイエスが捕らえられた時、自分たちも一緒に捕らえられることを恐れて逃げてしまった自分たちであったため、その先生には大きな負い目を覚えていた時に、キリストの方から「平安があるように」との声をかけられたことでしたから、これは、本当に大きな平安を得、喜びを得たことであったに違いありません。この後の弟子たちの全行動は、この復活のキリストとの出会いに拠ってなされるものとなりました。

   篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年6月のラジオ放送予定>  

6月 3日 沖崎  学 (金城学院高等学校宗教主事)

  10日 沖崎  学 (金城学院高等学校宗教主事)

17日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)

24日 後藤田典子 (金城学院中学校宗教主事)

       (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

毎週日曜日朝6時30分~45分放送

 

第84課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・39・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・1・・・

 「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受け入れて下さっていたのであるから」(3節)。

「ここでは、この問題について、キリスト者相互においてはなさねばならない寛容と忍耐とが教えられている。強い者は弱い人々を迷信的であるとか、程度が低いとか言って、軽蔑すべきではなく、また、弱い者も自らの躊躇や周到さを見過ごす強い人々を裁いたり、咎めたりしてはならない」(ホッジ)。

教会には、二種の人々がいます。一つは、信仰において強く正しい人々であり、他は信仰において弱く、誤っている人々です。しかし、それらの両方ともが存在していて、パウロは相互の寛容を命じているのです。

 

「神は彼を受け入れて下ったのであるから」。すなわち、神は弱い兄弟たちをも、その弱い信仰にもかかわらず受け入れて下さったのである。寛容の勧めは強い人々にも弱い人々にも適用されているのです。「恐らくユダヤ人改宗者たちは異邦人キリスト者たちを軽蔑し、異邦人キリスト者たちはユダヤ人キリスト者たちを裁こうとしていたと考えられる。パウロはそれらの双方に対して警告をしているのである。しかし、第1節や文脈から考えると、異邦人たちが主として対象にされていると考えられる」(ホッジ)。

 

現代の教会において、肉を食べるという特定の問題は重要ではありません。しかし、ここでパウロが述べている原則はすべての時代に有効でしょう。それ自体は良くも悪くもない問題―すなわち、聖書によって要求も禁止もされていない事柄―についての種々の見解は、キリスト信者の交わりを破壊するものであってはなりません。

現代に実例を挙げることは容易です。礼拝時刻が何時であるべきか、家庭礼拝における聖書朗読の計画などはその例です。主の晩餐の執行の回数などもそうです。このような例は幾つも挙げられます。このような事柄は正しいか正しくないかの明確な決定点を含んではいないから、キリスト教会の統一性や交わりを破壊する要因とならせてはなりません。

強い者は弱い者を軽蔑してはならないし、弱い者は強い者を裁いてはならないのです。

 J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師

 

    ほっとひととき『みんなのコーナー』

 先月、眼の手術をしました。まだまだ、通院があるので大変だけど~疲れます。介護の仕事ですから休めません。職場の皆さんもお互い様よ、と言ってくれる言葉に支えられて働いています。シングルですから・・・。 山口県 K・Kさん

☆  体の不調が続き入院していましが、今は感謝なことに退院して、体力に見合ったウオーキングが出来るまでになりました。お馴染みの手作りのパン屋さんにも行けるようになりました。 これから天候もよくなるでしょうから、焦らずに日々を送ります。近況報告です。 静岡県 T・Yさん

☆  私たちはスポーツが好きで、夫婦でテニスをしていました。でも最近はコートに行く機会が少なくなりました。今は女子サッカーの試合をテレビの前で夫婦で見ています。今朝もアジアカップを見ていました。食事の時やお茶の時の話題は試合の感想になるのです。敗けると口数が少なくなります。75歳の夫婦です。 東京都  B・Hさん

☆  私の処は、お茶処で、周りは茶畑です。忙しく茶摘みをされている様子を見ています。私は今は手を痛めて引退しましたが、70歳まで現役でした。それでも子供たちのために主人と楽しみながらお茶は作っています。お茶の消費は減って、高級茶を外国向けに作っていますが、販路拡大なのと、より良いお茶を求めて、皆さん励んでいま。実際には良いことなのかもしれません。そんなことを思って外を眺めています。 京都府 M・Kさん 

☆  小学生の娘二人は、体験学習とかで学校がお借りしている水田に田植えに行ってきました。普段、土に触れることの少ない子供たちには、あの土の感触と泥まみれになれたことの喜びようは、なかなか治まらず、夕食時間でも大盛り上がりでした。娘たちも楽しい一日となり、爆睡で寝ぞうの悪いこと、悪いこと・・・。先生方や農家の方には本当に感謝な思いでいっぱいです。 東京都 L・Hさん 

*このコーナーは、すべて投稿者から掲載の許可をいただいております。 

編集子

 

  『ありがとうございます』

 2018年も6月になりました。これから本格的な梅雨入りになります。体調管理が求められます。新しい環境でお過ごしの方もおられるでしょうが、心身の疲れを覚えるときでもあります。近くにある保育園の子供たちの登園時の、行きたくないよう!ママア~と泣き叫ぶ声が聞こえ始める時です。子育ての大変さを体験するお母さんやお父さん、頑張れ!!と応援したくなります。「新」とは「辛抱」の「辛」のことなのだろう、と思うこの頃です。

「さんびか物語」の連載も今月号で終了いたしました。7月号からは「十戒と主の祈り」を連載いたします。ご期待ください。

2018年4月16日から2018年5月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。

伊藤和夫様 山添静香様 岡田千歳様様 佐藤のり様 山中こずえ様 加納さおり様 匿名2名

   郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

  お便り下さる方はこのメール アドレス   osamura@kind.ocn.ne.jp をご利用ください。

 「つのぶえジャーナル」(http://tunobue.blog.shinobi.jp(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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