2018年12月  №137号 通巻822号
 

  今月のことば

しかし、神に近くあることはわたしによいことである。

わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。

         ~詩篇73:28~

 人間の心の中には、いくつかの特徴があると言われています。その一つに、神に近づくことを恐れることです。何事でも、神と顔を合わせることは、心の中に何か後ろめたさと、不安と、重苦しい思いを作り出すからだそうです。それは、都合の悪い私たちにとって、自由で幸福であるためには、神が遠くの存在であってほしいという思いの表れです。

 

 しかし、身勝手にも人は悩みや大きな出来事に遭遇するとき、初めて神の存在に心を馳せ、神が助けてくれるために近づくことを望みます。しかし、危険が去ると同時に、神の存在から心が離れてしまいます。このような私たちの奇妙さにありつつも、死後は神と仲良くやっていけるという妄想に生きています。そのような奇妙な偽りの妄想の中に、多くの人は生き、死んでいくのです。

 

 神様から信仰が与えられ、歩むキリスト者には、今、現実に生かされている今の中に、神に近づき、共に歩ませてくださいという深い思い、願望があります。それは、神のみ言葉を通し、祈りにおいて、他のキリスト者との交わりにおいて、「神と共に」という思いに導かれ、感謝する特権を持つようにされているからです。この事実に勝る喜びはありません。

 

 このもっとも素晴らしい思いは、キリストの十字架の意味を知り、信じ、受け入れることを決心するキリスト者に与えられる、恩寵です。このキリストを救い主として信じ生きる歩みこそ、唯一の「避け所」「真の避け所」となってくださるのです。

 

 「けれどもわたしはつねにあなたとともにあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。

  あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」。 (詩篇73:23~24)

 

  小閑記

ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人は幸いである。

      ~詩篇146:6~ 

 

 この「さいわい」とはどのようなことでしょうか。人それぞれというようなことではありません。

 

神様が言われる「さいわい」を考えて、2019年の備えをするのも、また意味があると思いませんか。聖書の中では、上る階段、底なしに落ちる階段、解放と平和を求める魂の叫び。深いため息から、救われて永遠の命に至るまでのことを「さいわい」という面を持っていることを教えています。

 

「さいわい」・・・悲しみと罪よりの開放を願い、心から神との平和を願うことです。それは恵みの座にひれ伏し、憐れみと神の子としての資格を受けることです。

 

「さいわい」・・・それはまた、神の訓練のもとに生きることです。日々の人生の激しい戦いに私たちが傷付き、罪の誘惑に打ちのめされ、自分自身の弱さに絶望するとき、私たちは救い主であり、父としての神に近く寄り添い、慰め、励ましのみ手を差し伸べて下さるその恵みは、真の「さいわい」です。

 

「さいわい」・・・心の傷が癒され、全てのことに主イエス・キリストのみ名によって感謝し、新しい思いへと立ち返らされる信仰の喜びのときです。

 

 しかし、真のこの「さいわい」は神のみ国でのことでもあります。

 

 イスラエルよ、あなたはしあわせである。

 だれがあなたのように、 

主に救われた民があるであろうか。

  主はあなたを助ける盾、

あなたの威光のつるぎ、

あなたの敵はあなたにへつらい服し、

あなたは彼らの高きところを踏みすすむであろう。 申命記33:29
 

世田谷通信(182

猫草

この7月、福井まで出かけた。帰省以外で遠出をするのは10年ぶり。「学校の森子どもサミット」という全国大会があり、そこで里山と小学校の総合学習の様子を発表する。先生と児童に同行することになった。

長距離移動は緊張するのだが、児童と一緒だと仕事モードで乗り切れるのが不思議だ。福井駅前ホールでリハーサル、全国から集まった児童や先生方、北海道から鹿児島まで10校だ。それぞれの取組みはその地域ならではの特色を活かした活動で、地方の学校は児童数が少なく、サポートする大人の方が多い。周辺の森林資源が豊か。世田谷でできる取組みとのスケール感の違いが一番印象的だった。北海道の3m積雪の積雪でかまくら体験とか、岡山の木材一本を伐採から製材加工するとか、屋久島の世界遺産で希少種の蝶が食べる草を栽培するとか。すごいなあと思うけれど、なかなか真似できるものではない。

それでも子ども達に森林のことを伝えたいと思って、時間も労力も割いて実践する人たちの存在があってこそ成立している、というのはどの地域にも共通すること。豪雨等の被害を被った地域からも参加があり、たとえ被災地であっても子ども達には楽しい活動をさせたいという大人達の強い願いも感じられた。多くの人の手で支えられている。学校だけではできない取組みが子ども達を守り、育てていることに深く共感できた。

発表後はバス移動で三方湖近くに宿泊し、翌日は湖の水生調査やシジミ採り体験。ここでも地元の大学院生や研究機関、ボランティア団体のサポートあっての活動である。汽水湖のシジミは環境悪化により激減したので、山から土砂を運び、土留めのヨシを育成し、砂地を人工的に造成して、養殖物を育てて数年になるとのこと。子ども達は無邪気に歓声をあげながら「シジミあったー!」と嬉しそうに活動しているが、それを支える多数の大人達の知恵と汗がある。自分もボランティア側なので、見えない苦労はよく分かる。「あって当たり前」を続けていくためには、環境や生きものを維持する努力が不可欠なのだ。時々の変化を受け入れる力。常に環境は変化するから、それに合わせて柔軟に対応することが、「いつも変わらない」を保つのだ。

福井の山も湖も空も美しかった。変わらず、そこにあって欲しい。

(福井・シジミ採りをした久々子湖(くぐしこ)の写真)

 

   『美しい朝に』・・48・・

9月26日

 今日は神経科の日でした。台風の被害でベランダの屋根が割れて修理のめどがたたないことと台風が接近するのも不安で、眠れない夜がつらくなっていたので、めずらしく先生が眠剤を追加してくださいました。「また、台風きてるしな」と言われました。

 寝る前は2錠・2錠・2錠でしたが、頓服で+1錠にしていただきました。交通事故の後も事故の映像が寝ても覚めても繰り返し頭に現れて、外を一人で歩くことも出来なかった時に先生が処方して下さった「薬」に助けられて、その薬も服用無しで一人で外へ出れるようになりました。ベゲタミンとハルシオンの依存から抜け出れたのも先生のおかげです。しばらく、頓服の助けを借りて体調を整えたいと思います。お祈りしていただきありがとうございます。

 103

 こんにちは。今日は曇っています。雲の間から薄日が差しています。外へ1歩も出れないし、天気も悪く体調の悪い日が続いていました。祝日が続いたのと体調がすぐれないので鍼治療を3週間行っていません。歯医者さんにも行かなくてはいけないのですが、病気のために「麻酔無し」の治療をお願いしなくてはいけなくて、勇気が出ません。

「病は気から」とよく言いますが、病気で気持ちが沈むのか、また、天候や台風の被害のトラウマから病気の症状がひどくなるのかは、自分でもよくわかりません。

「絶対安静に」と言われて「絶対安静に」出来ない時があると思います。交通事故の翌年にITPになり、眼科の先生には内緒ですがPCの仕事を家でしています。ITPのステロイドの後遺症もあり「車いす移動」が安全なのですが意外と「絶対安静に」は、ストレスも多いみたいで体調が許せばⅠ人で出かけるのも気分転換になります。そうなればうれしいのですが・・・。

10月9日

 こんばんは。真夜中にまたメールを書いています。こうしてメールを書く時間を与えられていることが、ありがたいことでした。先程、新聞配達のバイクの音が聞こえました。もう、夜が明けて朝が来るみたいです。

 先日は、久しぶりに眠れないことの焦りと辛さで必要以上に反応してしまい申し訳ありませんでした。

 今まで、うそを書いていたようで申し訳ないのですが、夜にも不定期に1時間くらい「眠れたりもします」と。それは、私にとっての「夜に熟睡出来た」という表現になってしまいました。

 今日も昼から夜中の12時前まで圧縮ファイルの解凍に苦戦していました。10月末までが設定の締め切りで頑張ってパソコンに向かっていた主人の眼が昨日の夕方、うさぎのように真っ赤になっていてお互い無理は出来ないなと身にしみました。なんとか私が設定出来て更新が出来たので、主人の笑顔が見れて「今日も寝れなくてもいいかな」と思いました。

 どんなに動いてもベゲタミン1錠とハルシオン1錠でも私が眠れない時もあるとわかった時期に、息子は「普通は112時間なのに、124時間使えるなんてうらやましいわ」と言いました。寝れなくても気が楽になりました。主人も娘も私が寝れたかどうかは聞きません。実家の母は昔、心配からか朝に「眠れた?」と聞きました。それが辛かったのです。眠れないことを確認してほしくなかったのです。

 不眠症の家族も難病の家族の対応は同じだと思います。ありのままを受け入れてそっとしてくれた方が楽だと思います。辛いと思えば眠れない夜は辛いけど、眠れない夜に、「羊と鋼の森」を最後まで読めそうです。読書の秋ですね。お祈りできない時に、祈って下さることは本当に感謝です。

(このメール文の掲載はK・Aさんの了承を頂いております)  

 

 『その愛のゆえに』

   =時々の記=

    (151

922日

 ようやく晴れ間が出てきましたが、蒸し暑いです。晴れ間も明日一日だけとか。萩の薄紫の花が目に美しく映ります。山の木々はまだ緑が濃く色づき始めてはいませんが、低い土手に咲いている花々はすっかり秋のモードに移り変わっています。

渓谷の、中天にあり、伊賀の月。

村役の改革話す夜長かな。

瀬入れるな小川の棚田稲の秋。

今日の日を声の限りにセミ鳴きぬ。

朝顔の淡きは夢の心地とも。      馬場路哉

928

 今日は総合検診の結果が出ました。近くの公民館でその結果を教えていただき、指導を受けました。今のところは異常なしでしたが、悪玉コレステロールが多いので、食事で脂っこいものを控えるようにと指摘されました。久しぶりにお会いする人たちはみな、苦労を重ねての表情です。皆さん、その苦労の中にあって、笑顔がこぼれていました。若いころに比べると、穏やかになっておられました。

すべてがゆっくりと動いていましたので、とても、落ち着きました。でも一抹の寂しさが残りました。今までのように検診の結果を聞きに来る人が多くはありません。私も、もし待たなければと思い、ジャーナルを持って行きましたが一ページも読み進む時間がなく、あっという間に終わってしまったのです。これが山添村の現実です。

101

 山に来て、幼児緑きれいてふ。

石垣や枝伸ばしたる百日紅。

教会に沸く賛美歌や天たかし

美しき花の移ろふ連田雨。

清らかな水路のありて豊の秋。    馬場路哉

主人たちは、今朝は、早くから、公民館の落ち葉掃除に出かけました。月に一度、高齢の男性たちがボランティアでお掃除をしてくれているのです。いつも必ず来てくださる方がおられないのでどうしたのかと尋ねると、体調を崩して入院されているとのこと。少ない集まりがますます寂しくなってしまったと言って帰ってきました。

さすがに10月です。山の木々はうす紅葉に移ろいでいます。コスモス畑のコスモスには何とも言えない秋色が感じられます。風に揺られているコスモスの委ね方にハッとさせられました。自身の思いや考えをすべて吹きはらってくれる風に任せてゆったりとして見えるのです。

108

 朝から主人はリハビリと言ってウォーキングに出かけました。今日は、汗もかくことなく、最後まで歩き続けられたと、ご機嫌でした。

木漏れ日の金色をなす秋入日。

にわかにも賑やかなりしクツワムシ。

空近く広ごる畑や蕎麦の花。

古寺を囲み梨園広ごりぬ。     馬場路哉

1011

 秋の深まりを感じるようになってきました。お隣のハナミズキが薄赤く紅葉してきました。薄紫の野菊が可憐な花を咲かせている散歩道です。昨日、テレビから知ったことですが、人間は歩くことによって、脳細胞が活性化するというのです。一人で散歩をするのは寂しいですが、気持ちを新たに散歩を続けています。

大型の台風一過虹かかる。

カルバンの本を繙く夜長かな。

秋の滝澄んで響きぬ水源地。

山並みを離れて高し月明し。

朝まだき静けき祈りつづれさせ。  馬場路哉

昨日、年賀状の注文用紙が届きました。一年の過ぎ行く速さにただびっくりです。今年は犬たちとの別れが今もなお、寂しく感じます。なかなか吹っ切れない日を送っている私です。

馬場暁美

「上野緑ヶ丘教会会員」 

 

 

 

  眸(ひとみ)・・92・・

 大学時代は大阪で生活し、今は沖縄に戻って教員として16年目になりました。学生時代の生活はカルチャーショックで関西弁になじめず苦労しました。というより、友達が出来ませんでした。それでも数少ない友達とは今も親しくメール交換しています。驚いたのは、沖縄のニュースがあまりにも政治がらみが多く、好印象で見られていないのがとても悲しかったですね。驚いたのは、沖縄にも四季はあるの?ということでした。言われてみれば私にもよくわからないことでしたので、考えてしまったのを覚えています。日本で一番早い桜の開花、短い梅雨明けと海開き、そうして次々に来る台風で、大阪にいて、奈良や京都に行った時の桜や梅雨の時の過ごし方に感動を覚えました。夕涼みや浴衣に四季って好いなあ~と思いました。

今は生徒に沖縄の四季探しを年に数回採り入れています。どこの島でも秋の星空はきれいですよ。 沖縄県 NOさん

☆ わたしの前の本棚には父が残してくれた農作業の記録をこまめに書いてあるノートが数十冊ある。時々手にして読んでいる。子供のころ農繁期には学校は休みになり、家族総出の野良仕事は、どこの家でも同じである。機械のない時代、人の手がすべてであることがよくわかる。今はビニールハウスで野菜を作り、畑では機械の音が忙しく動いていたかと思えば、その機械は農機具小屋で次の年までお役御免・・・。何もかもがコンピュータで管理されている。ふと自分の生活もこのコンピュータ制御の中に繰り込まれているのではないかと思う。祖父や父は空の様子を見て仕事をしていたのだろうなあ~と思う。まだまだ先ですが、定年後も農作業を続けたいと思っています。 千葉県 AAさん

 先日、仕事の関係で京都市市民防災センターに行って来ました。震度7の体験や 水害の4など体験しました。水が10センチ、20センチ、30センチとビルのドアにかかる水圧体験もしましたが、30センチになると私には開けられませんでした。地震や水害の後だけに貴重な体験でした。訓練でなく自分の身体でいろんなことを知り、改めて西日本豪雨被害が、身近になり、恐怖にも感じ、私に出来る事は祈りしかないと知りました。

神戸の地震でブロック塀のもろさは、脳裏に焼きついていますので。私の住んでいる所に震度7が来ると避難所が目の前でもなかなかたどり着けないのでは、と覚悟しています。被災者達の心が癒え、一歩を踏み出さして下さることを祈っています。 兵庫県 T・Yさん

   運動会シーズンになりましたね。すぐ近くにある保育園では鼓笛の練習が

始まりました。近くの公園で行われます。毎年の風物詩のようになりました。あ~、もうすぐ秋なんだって・・・。今年は暑いけど、園児たちは大丈夫なのかしら。セミの声も真夏とは違ってきたし、夜はコウロギなどの声がするようになりました。今年はずっと家の中で過ごさざるを得なかったので、夏物を着る機会がありませんでした。もう街は秋冬モモードです。去年ちょうどよかったズボンは入るかなぁ、去年より太ったので、サイズがすごく心配です。愛知県 OKさん

   郵便局の帰り道、ふと匂いがしたので、横を見ると、金木犀が花をつけて

いました。もうそんな季節なんだなぁと思いました。でも、入院されている方にはこの香りが届かないのかなあ~思うと悲しい思いになりました。 三重県

 おセンチおばさん

☆  小さな声や力でも、みんなで声を出し合うと何かが生まれると思いました。余りお話しする機会のなかったご近所さんになってしまいましたが、昨年の大雨を機会に、昨晩は怖かったですね、大丈夫でしたか・・・とお声を掛け合うことが出来ました。挨拶のない今まででしたが、お時間がありましたら、お茶でも飲みに来てくださいとお誘いしたら、数日後、お菓子を作ったのでとご持参でご夫妻で来てくださいました。そんなことから、小さな楽しい時間を御一緒するお友達になり、今では順番でご自宅訪問もできるようになり、お邪魔することになりました。若い頃のお話や健康のこと、不便な時の助け合いや、身近なことがお茶のお菓子になるようになりました。災い転じて福となりました。この小さなお茶会の輪を広げていけたらと思うこの頃です。宮城県 NOさん

<身近な出来事を「眸」に投稿してください> 編集子

 

十戒と主の祈り・・5・・1・・

             鈴木英昭著

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

=刻んだ像=

  第二戒①・礼拝する方法

           出エジプト記20:4~6、32:3~6

 第二戒は、「あなたはじぶんのために刻んだ像を造ってはならない」(口語訳)です。そして、この戒めには違反した場合の刑罰と、守った場合の祝福の約束が加えられています。

 ローマ教会とルーテル教会は、第一戒とこの第二戒とを一つにして、第一戒としています。その代わりに第十戒を二つに分けて、第九戒を他人の妻の貪りとし、第十戒を他人の持ち物の貪りとします。それは人為的で不自然ですが、第十戒の時にそのことを学ぶことにします。

 

 第一戒は、すべての他の神々と言われるものを拒否するように命じていますから、主なる神だけが真の神であるということです。第二戒は、第一戒と違って、その真の神を礼拝する方法の戒めです。広い意味としては、自分勝手な方法で神を礼拝してはならないという戒めです。

 イスラエルの民は、モーセがホレブの山に登り、40日が過ぎても下ってこなかったので、ホレブの山の麓で、アロンの指示に従って、金の子牛を作りました。それを主なる神の像として造りました。「すると彼らは『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った」(出エジプト32:4)のです。アロンはそれを見て、その前に祭壇を築き、「明日は主の祭りを行う」と言いました。

 このアロンの言葉から分かるように、民の意識はこの子牛の像によって主なる神を礼拝すると考えていました。そういうことは、第一戒だけであり、この第二戒がなかったとすれば、イスラエルの民は主なる神に向かって罪を犯したという意識は、生まれないことになります。

 イスラエルの国が、ソロモンの死後、南北に別れますが、北のヤロブアムは、祭りの時に民がエルサレムに上ることを嫌って、金の子牛を二体作らせ、その一つをベテルに置き、もう一つをダンに置いて、「あなたがたはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたがたをエジプトから導き上ったあなたの神である」(列王記上12:28)と言いました。これも同じで、第一戒の違反です。

 このようにアロンもヤロブアムも主なる神を否定したわけではありません。しかし、ソロモンが妻たちのために、高台を築きました。それは明らかに別の神々、偶像の神々を礼拝する場所でした(列王記上12:10)。そして、アハブ王になると、彼は積極的にバアルを礼拝し、第一戒は第二戒に明らかに違反しました。神の裁きがエリヤを通して臨みました。このように、第一戒は偶像

礼拝を禁じる命令であり、第二戒は、主なる神を自分勝手は方法で礼拝することを戒める命令です。第一戒の偶像礼拝は、第二戒の像を作ることと関係します。

 

 第二戒②・神を利用する 

         出エジプト記20:4~6、Ⅰサムエル4:3~11

 刑務所の宗教教誨師をしていた時、教誨師の十数人が年に一度の研修旅行をしましたが、ある年、奈良の少年刑務所を見学に行きました。その折、京都の有名な寺院を訪ねましたが、同行の浄土真宗の僧侶の一人が、立って眺めている私たち三人の牧師に向かって、「われわれはこの仏像を拝んでいるのではないのです。その背後におられる仏に向かって手を合わせているのです」と言いました。

 ローマ教会も似たようなことを教えています。ヴァチカンの聖ペトロ教会に行った人は見られたと思いますが、おびただしい数の彫像と絵画があります。見ていると、人々はペトロ像の足の親指に触れて祈っています。そのためにその指はピカピカに光っていました。ローマ教会も、こうした行為を偶像礼拝とは考えず、聖人や天使を崇敬することは、「神ご自身に賛美と感謝とをささげることになります」(カトリック要理72)と教えています。

 先週はこの第二戒の学びの最初として、神礼拝は、人間が自分勝手な方法で行ってはならないことを学びました。しかし、礼拝に関してはいろいろな面があって、必ずしも100パーセント、神が指示を与えているわけではありませんから、ウエストミンスター信仰告白の16項の最後のところで、わたしたちはこう告白しています。「また、神礼拝と教会政治とに関しては、常に守られるべき御言葉の一般原則にしたがって、自然の光とキリスト教的分別とによって秩序付けられるべき、人間の行為と共同体に共通ないくつかの事情のあることを認める」。神礼拝の場合、例えば、礼拝の時間や長さ、回数、要素の順序などの周辺的な事柄には、相違はあり得るということです。こういうことにまで、聖書は言及していません。

 像を作って、それを拝んではならないのは、神を人間の願いに従わせようとする罪のためです。例えば、イスラエルの民がペリシテ人との戦いで敗れたため、祭司たちに十戒の入ってる契約の箱を戦場に運ばせました(Ⅰサムエル4:3~8)。その箱が戦場についた時、民は歓声を上げました。神が来て戦ってくださると思ったからです。しかし、イスラエルはその戦いに敗北し、契約の箱が奪われました。主なる神がイスラエルのために働かれることを拒否されたのは、民が神の主権的な働きを求めたのではなく、自分たちのために神を利用しようと願ったためでした。

 

 主なる神はイスラエルという民を、お選びになったアブラハムから起こして、御自分の民とし、その歩むべき道を示されました。示されたところに従って、民は神に従わなければならなかったのです。ところが、彼らは、このように契約の箱によって、主を自分たちに従わせようとしたのでした。偶像はこうして利用される性質をもっています。

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・12・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

8 バラの伝道・・4・・

 明治初年、横浜でバラ先生と交際していた高木こう氏の談を「幕末明治耶蘇教史研究」に、小沢三郎氏が掲載されている。それによると、

「バラさんの事をお話しましょう。やはり明治5年ころでしょうか。海岸教会の隣りのところに洋館の二階建てがありました。これがバラさんの家です。バラ夫妻と二人の娘アンナさん(REマカルピン夫人)、キャリーさん(F・ハーレル夫人)、それから女中一人くらい、コック一人くらいいたと思います。相当広い庭のある立派な家でした。

バラさんとは、その後アメリカへお帰りになる時まで交際していました。バラさんはとてもよい人で、私の太田村の家へよく訪ねて来てくれました。

「まだみんな生きているか」と言ってはいって来ます。

誰も気持ちよく「みんなこうやって生きていますよ」。「そりゃよろしい、よろしい」とバラ先生は喜ぶのです。…中略

バラさんは丈夫な、丈の高い、黒い頭髪の、ふとった人で、病気したことなど聞きません。保ケ谷、戸塚、箱根、三島等を歩いて伝道していました。日本食なども、ときにはいただいたようですが、私服を着たのを拝見したことはありません。…(中略)

バラさんの説教はわかりませんでした。よい日本語の先生につかなかったからでしょう。バラさんの祈祷はわかりませんでした。ただ熱心なことだけはわかりました。」

また大森の佐藤哲氏の談話と前記小沢三郎氏の著にバラ先生のことを記して、

「バラさんは、誰にでも差別をつけるようなことはありません。困っている人のことはずいぶんよく世話をしました。

三島方面の人でバラさんの世話になった人は相当あります。三島から若い娘をかなり連れて来て、フェリスに紹介したり、困っている人を給食生にしたりしていました。他人が困っている時は、おのれを忘れて飛び出す人です。いつか宗教大会の会長ドクター・ローレンスという人が来て、お話がありました。ある牧師が通弁したのですが、“あまり雄弁なので、とても私にはできません”と言って引き退ってしまいました。その時バラさんが飛び出して通弁したのです。ところが日本語がよくわかりませんから、身振りでやっと通弁しました。

その時バラさんの妹さんがいて、後になって「日本語のできる人がたくさんいるのに、なぜジェームスは飛び出したのでしょう」と言っていましたが、自分を忘れて困った人のために飛び出すバラさんの性質がよく現れています」(同著262頁)とある。

当時、日本に於ける米国ダッチリフォームド教会ミッションの伝道区域は、南北に分かれて北ミッションは、東京、横浜、長野県、岩手県、青森県に伝道し、南ミッションは長崎を中心に九州に伝道した。従って、北ミッションのバラ先生の伝道区域は盛岡市、岩手県一ノ関、野辺地、宮古、青森、新潟、横浜付近、千葉県、静岡県、富士山麓一帯の三島、神山、御殿場、箱根、伊豆地方の柏久保、湯河原に及び、長野県は上田を中心に松本、諏訪、坂下、飯田に達し、愛知県は名古屋、瀬戸、岡崎、豊橋、津具村にまで至っている。バラ先生の伝道行脚は日本の道路幹線である中山道沿線にまで進められた。

 

「キリスト教百話」

問23 聖書には、キリストは復活された後、天に昇ったと記されていますが、これはどういうことですか。

答・・1・・

 確かに、聖書には、「復活後のイエスが、その後弟子たちの上に聖霊がくだることを告げられた後、弟子たちがみているうちに天に上げられ、雲に覆われて、弟子たちの目から見えなくなった」と記してあります。(使徒言行録1:8)。「天」という表現が地球の上方のことだとすると、キリストは空中の彼方からの引っ張り寄せる力を受けて上方へ昇ったということになりますが、こういうことがあり得るかと問われた場合、その問いが科学的実証をもとめてのことであるとすると、あり得ないとしか言えません。

 しかし、聖書記者は、新聞記事を書くように見たこと聞いたことを書いたのではありません。早い話が「トンビが天上高く舞い上がった」とか、「隕石が天から降って来た」という場合の「天」は物理的空間を表す語として理解できます。しかし「天地」という場合の「天」は必ずしも上空のことを言うのではなく、また「地」が必ずしも大地をさすわけでもなく、むしろ「地上を超えた世界」とか「天の下にある世界」というように、即物的でないいささか抽象的な意味合いをもった言葉として用いられることがあるわけです。

 そういう言葉の使い方から言うと、聖書の言うところの「天」というのは「神のおられるところ」であるのです。

 

ですから、キリストの昇天ということを、テレビの映像に現れるような視覚的なこととして捕えたり理解したりしようとするのでなく、むしろそういう表現をもって言い表そうとしている意味内容に即して考える方が、事柄の正しい受け止め方であるといってよろしいでしょう。

 キリストの誕生を「降誕」と言いますが、それはキリストの誕生が、神の子が神の世界から地上の人間世界へと下ったことであったからです。そうすることが神の御心でありましたから、キリストの誕生の時、地上の反応よりも、先ず天の側に賛美の歌が奏でられたという聖書の記事の意味することであったわけです(ルカ福音書2:13~14)。

 そういうことから言って、キリストの昇天は、地上の人となって来られた神の子が、今やその使命を終えたことによって、もといた場所へと戻られたことであったわけで、まことに当然のことであったわけです。その使命というのが、地に朽ち果てるしかない人間を、天に繋ぐために、それを阻んでいる罪の赦しを得させるためにご自分の命を捨てられたことによって全うされ、罪を告発する者にとどめをさす働きを貫遂されたのですから、神はイエスを陰府から復活させ、そして昇天という凱旋を行われたわけです。全地が暗くなるような神の子の十字架上の死という悲痛な出来事を通しての神の側の満足は、御子の昇天においてなされたと言えます。

 篠田 潔

(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)

 

<2018年11月のラジオ放送予定> 

11月 4日 高木 総平(岐阜済美学院宗教総主事・中部学院大学宗教主事)

   11日 高木 総平(岐阜済美学院宗教総主事・中部学院大学宗教主事)

   18日 志村  真(中部学院大学短期大学部宗教主事)

25日 西島麻里子(済美高等学校宗教主事)

      (放送開始1952年10月)

CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ

 

 

第86課 キリスト者生活の実践的義務

=12:1~15:13=・・・39・・・

E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・

       ・・・6・・・

 「それなのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのです」(14:10)。この章において、パウロは「神」と「キリスト」とを交互交換的に用いているのは、彼がキリストを神として受け入れているからです。「もし人が私たちの兄弟であるならば、また、神が彼を受け入れておられるのであれば、そして、彼が神の御意思を行なおうという真摯な願望から行動しているのであれば、たとい私たちが誤っていると思うことを彼が正しいと考えているとしても、私たちは彼を非難して裁くべきではない。また彼が不必要な事柄で良心を悩ませているにしても、私たちは彼を軽蔑してはならないのである。ここの箇所の前半は迷いつつあるユダヤ人キリスト者について述べているのであり、後半は異邦人改宗者について語っているのであり、そして最後の部分は、両者に関して語られているのである。私たちはみなキリストの裁きの座の前に立たねばならないのであり、キリストは唯一の究極的な裁き主であるから、私たちはキリストの大権を僣取して、キリストが受け入れられた人を裁こうとしてはならないのである」(C・ホッジ)。

 

「すなわち、『主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神に賛美をささげるであろう』」(14:11)。

これはイザヤ書45:23の引用であるが、イザヤ書の言葉のそのままではなく、パウロは少しく形を変えている。しかし、意味は変わっていない。このことは聖霊がイザヤ書とローマ書の双方の真の著者であるという事実によって説明できるのである。著者は自分自身の著書から引用するとき、彼が適当であると考えるどのような変更をもする自由がある。このようなことは他人の著書から引用する場合にはできないことである。

 ローマ書1411節はイザヤ書4523節と同様に、聖霊がその真の著者であるから、真に霊感を受けているのである。「わたしは生きている」はイザヤ書45:23にある「わたしは自分をさして誓った」という言葉の正しい意味を示している。

 「パウロは明らかに、キリストの権威を認めることは神への服従と同じであると考えており、旧約のエホバの普遍的な支配について述べていることを、躊躇なく贖い主キリストの主権性を宣言しているのである。従って、パウロの評価においては、キリストは神そのものであったのである」(ホッジ)。 

J.G.ヴォス著

    玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)

 

 

   『ほっとひととき「みんなのコーナー」』

☆ 彼岸花が近くの空き地に咲き出しました。年甲斐もなく秋を感じ感傷的になります。薄紅色や深紅の色が茶色の空地を生き返らせます。枯葉もまた趣があります。秋のひと時、ふと物思いに浸っていました。 滋賀県 K・Kさん

☆ 皆さんのところは被害はありませんでしたか。私の地域は収穫前のリンゴに被害が出ました。家は山に近く、土砂崩れが心配でしたが無事でした。台風や大雨では、いつも子供たちが心配してくれて、同じ地域にある老人施設に入ることにしました。幼馴染のいるところなので嬉しいです。これからも、この「つのぶえジャーナル」のお世話にならせてください。 長野県 B・Hさん

☆ 台風、大雨、床上浸水・・・。この数か月は最悪でした。疲れがだんだんと足腰にたまり、今は夫婦でマッサージ機のお世話の日々です。紅葉なんてどうでもいいと思っていましたが、見慣れた山は秋の色一色になりました。お疲れ様とでもいうように暖かく包んでくれます。・・・。山口 NKさん    

☆ 台風の連続で私の住むところは道が土砂で通れなくなりましたが、今は何とか通れます。電気も水道もプロパンもと心配になりましたが。その様なもののない母の生活を思い出し、その当時の人は今でいう「活の知恵」あったように思いました。主人は器用に庭に煮炊きの出来る場所を作ってくれましたので、庭に落ちている小枝などが使えますので、もうプロパンの心配はいりません。山からの水も沸かして飲んでいます。灯りは早めに寝ることにしていたので、何とかなりました。今は電気も復旧しましたが、昔の人の生活を思い出し、今からは台風の備えも変えようと思っています。子供にランプと油の注文のお願いをしました。ロウソクよりは明るいと思いましたので。折れた木の枝も燃料用にと蓄えることにしました。手抜きや便利は知恵を生かす場を奪いますね。発想の転換ですよね。母の時代の人は強し、私は弱し・・・ですが。 愛媛県 SDさん

**********

   まだまだ余震があり、落ち着きません。遠くに見える山には雪が積もっています。この冬の暖房用タンクは修理が間に合わないので、薪ストーブにしようと、主人は毎日、薪切りの日々で筋肉痛です。子供の頃は家の真ん中にあったストーブが母の料理の主役の場でした。ふとそんな懐かしさを記憶しています。これから長い雪とのお付き合いになります。熊は冬眠しても、人間はそうはいかないのですから、我慢ですね。

   また、飛んで行ったブルーシートのやり直しです。これでまた修理が未定になりました。疲れていた気持ちに追い打ちの24号台風で、もういらいらする気持ちにもなれません。・・・。

   また25号です。それで最後にしてほしいですが24号と同じコースとか。今年のリンゴの収穫は例年の30%、落下したリンゴを拾い来年に備えなければならないのですが、そんな気持ちになるには今少し時間がかかりそうです。

   一車線しかない生活道路ですが、それが不通になり2か月になりました。村の職員さんが遠回りして訪ねてくれました。必要な物は届けますから言ってください、の言葉に涙が出ました。こうして何とかメールできるのがわたしの慰めです。

*このコーナーの記事は、すべて投稿者から掲載許可をいただいております。 編集子

 

  『ありがとうございます』

 「世田谷通信」さんから、数枚の写真が送られてきましたので、それを掲載させていただきました。皆様の中にも写真を趣味にされている方がおられましたら、お送りください。「つのぶえジャーナル」で使わせていただきます。

 

 2018年9月16日から2018年10月15日までの「つのぶえジャーナル」事業への寄付者の報告です。感謝いたします。

西尾牧夫様 佐藤のり様 加納さおり様  

 

*寄付金口座…郵振替口座番号 00800-1-45937 つのぶえ社 

また、お便り下さる方やお友達への紹介はこのメール アドレスをご利用ください。多くの方々の「ジャーナル友」が与えられるように願っています。

    osamura@kind.ocn.ne.jp 

*「つのぶえジャーナル」はこれをご利用ください。

http://tunobue.blog.shinobi.jp      

(米国南長老教会文書伝道事業)刊行責任者

   つのぶえ社代表   長村秀勝

ブログ内検索
カウンター
★ごあんない★
毎月第一日更新
お便り・ご感想はこちらへ
お便り・ご感想くださる方は下記のメールフォームか住所へお願いいたします。お便りは「つのぶえジャーナル」の管理人のみ閲覧になっています。*印は必須です。入力ください。
〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
217ff6fb.jpg 








「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

b997b4d0.jpg
 









「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
 a0528a6b.jpg









「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
4008bd9e.jpg
われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

0eb70a0b.jpg








さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

Copyright © [   つのぶえジャーナル ] All rights reserved.
Special Template : シンプルなブログテンプレートなら - Design up blog
Special Thanks :
Commercial message :