2019年5月  №142号 通巻827号
 

   小閑記

 

 わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。

               =マタイ4:19=

 

 多くのキリスト者は、神のために何をしているか、何をしてきたかと考え、それを生涯の重荷と感じてしまうことがあります。

 母親は、毎日毎日、また来る日も来る日も、来る年も来る年も、ある場合にはそのほとんど一生の間、洗濯をしたり、料理をしたりして、一日を終わっても、その働きの評価、結果は数値では見られません。

いろいろの職業があります。事務の仕事は書いたり、帳簿を付けたり、工場で働く人は機械に着き、決まった工程の仕事をし、農家の人は畑や森で働いています。単調で、日常的なその働きが神のために何の結果があるのだろうかと思う時もありましょう。しかし、その一つ一つは小さいものでも欠くことの出来ないものです。「労働は神礼拝」そのものなのです。

 

 冒頭のイエス様が言われたことを、考えてみましょう。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。

 このみ言葉は12弟子に特に適用されたものですが、イエス様に従う全てのキリスト者は、世の中で、どのような地位や職業にあっても、人間を漁る漁師になることは、全く真実です。

 

神の国においての問題は、私たちの性質の問題です。もし私たちが、イエス様のみ旨を第一として生き、働くなら、私たちは、このイエス様に従うのであり、主は私たちを人間をとる漁師にしてくださるのです。これは決して間違いのないことです。ただ、宣教師、牧師、あるいは説教者のみが人々を神のもとに連れてくることが出来ると考えることは、神様のみ旨ではありません。

 むしろ、日々のその為すことにおいて、救い主を証ししていることに感謝を覚えるとき、そこに、ついていく「献身の思い」があるのです。

 

「・・・あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。・・・自分の益ではなく多くの人の益を求めて、・・・」(Ⅰコリント10:31、33)。

 

 

   小閑記

 

 「わたしに何をしてほしいのか」

       =ルカ18:41=

 

 私たちは日々の生活の中に、たくさんの願いや願望をもって時を過ごして生活しています。誰かに、あなたは私に何をしてくれますかと言われたり、私のしてほしいのはこれこれですが・・・ということはおありですか。買い物に行き、欲しいものが手に入るとささやかでも喜びを得ます。病気の時、お医者さんに癒してほしいと願います。

 

 ところで、思いがけない時にあなたは、イエス様が「わたしに何をしてほしいのか」と問われた時、何をどのように言うことが出来ますか。私自身は戸惑ってしまうでしょう。「わたしをあわれんでください」と言えるでしょうか。イエス様が救い主であると知り、信じている人は、私を憐れんでください。私の罪をお許しください。苦しみや悲しみから救い出してくださいと願うことは出来るでしょう。

 

 イエス様が祈っている私たちのところに来られて「わたしに何をしてほしいのか」とお聞きになったとしたら、私たちの日々祈り求めている事柄を素直にイエス様にお応えできるでしょうか。ありきたりの願いであったり、自己中心の祈りであったりで、真に必要な願いと言えないのではないかと考えるとしたら、このイエス様の問いかけは、私たちには欠くことのできない大切な事柄と言えます。

 

 聖書の中に「また、祈る場合、異邦人のようにくどくどと祈るな。彼らはことば数が多ければ、聞き入れられるものと思っている」と言われています。

 私たちが祈りによって神の前に出る時、自問してみようではありませんか。

私が今、何を望んでいるのか。実際に何が必要なのかを、神様に申し上げているでしょうか。

 

 心疲れている時、心渇いている時と、何もかも手に入っている時の祈りに、どのような違いがあるでしょうか。

 イエス様は、疲れたものは私のところに来て休みなさいと言い、思い悩むなと言い、隣人を愛しなさいと言われました。そうして「神の国と神の義を求めなさい」とお教えくださいました。

 

 この「わたしに何をしてほしいのか」の神様からの問いかけを、本当に大切にしたいものです。

 

 

  小閑記

  弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにした。

               =マタイ21:6=

 

私たちキリスト者が、イエス様がするようにとお命じになったとおりに従うならば、物事の考え方においても、日常の実生活においても、多くのことがもっと簡単になっていたことでありましょう。自分の価値判断やいろいろの事情が優先し、ことを複雑・不透明にすることは多々あります。

 小さいことと思われることでも、救い主のためにそれがなされる時は、偉大なものとなります。ロバの綱をとってイエス様のもとへ連れてくるだけで、主のみ栄と他の人々の役に立つことができます。渇く者には水を飲ませ、悲しむ者には、そっと声をかけることで、・・・。キリスト者の生活が、キリスト教的生活とこの世的生活の部分に分けられるとする考えがありますが、それは、神様のお命じになったという視点から考えるならば、成り立たないことです。

 

 神様を信じる人々は、神の教会の中におり、どこで生き、どこで働いていようとも、神様のみ前に立ち、常に神の民の役割を神様から担っています。もし、信仰の生活、教会の生活とこの世の生活、社会の生活とに分かれているなら、それは偽善という罠に陥ってしまうでしょう。

 

 今はあまり見られなくなりましたが、教会の礼拝に出る時、身支度して礼拝するのが当り前でした。正装したものですが、最近はそれがそうではなくなりました。普段着、労働着がいけないというのではないですが、無頓着になるならやはり一考すべきではないでしょうか。日々の生活の延長のままの礼拝には、衣服の乱れ、心の乱れに現われるとするならば、心を正す、あるいは信仰を整えることで意味あることと思いますが如何でしょうか・・・。

 

 大切なことは、祈りと感謝をもってイエス様のために働くときの心の、信仰の制服でありましょう。

 主を信じる人として、すべてのことが公の礼拝であり、イエス様のための仕事であるとみなしたいものです。

  誠実なる生活をイエスのためになし、

  わがすべてに主を喜ばせ

  よろこばしき、自由なる心もて

  忠信なる者となるは、わがために、祝福の道とこそなれ。 

 

 

   小閑記

 天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。

            =マタイ13:44=

 

 私たちがあるとき、キリストに出会い、キリストの中に何かを見出すと、この世で得られる最上の清らかな喜び、最大の宝を得ることになります。しかし、多くの人々を躓かせるものは、キリストお一人のために、すべてを捨てなければならないということです。

 

 なぜ、私たちはキリスト者となって、私たちの望み、欲するものを所有し、愛してはならないのでしょうか。多くの人はこの考えを正しいとは認めながらも、去って行ってしまいます。そうしてキリスト教とは、無理な厳しい要求をするものだと思うのです。

 

 もし、あなたもそう思い、そういうご意見なら、お尋ねします。もしも夫なり妻が、多くの男や女と愛を分かち、生活を共にするとすれば、なんとお考えになりますか。それでうまく行くとお考えでしょうか。それは不可能だということはおわかりでしょう。しかもその不可能をキリスト者になろうと思う時に、愚かにもそれを心に持ち続けたいと思うのです。「二人の主人に仕えたいと思うのです」(神と富、信仰の喜びとこの世の喜びを)。

 

 私たちが、他のものをキリストを愛すると同じように、愛そうと思うなら、人生の最も尊い宝であるキリストを所有することは出来ません。

 「わたしよりも父または母を愛するものは、わたしにふさわしくない」「息子よ、娘よ、あなたのこころをわたしに渡しなさい」。

 

 もし、あなたの人生の最大の成功と恵み得ようとするならば、生きるにも、死においても、永遠にあなたを飾る輝きを身に着けたいと望むなら、自分を全くキリストに捧げなければならないのです。この決心を挫殺しても日々求められるのがキリスト者の信仰生活です。諦めないで、追い求めましょう。

 

 私たちを完全に所有する、ただお一人の方として主イエス・キリストを受け入れ、選んだこの賢い選択・決断の行いを、生涯の宝として持ち続けたいものです。
 <バラ先生ご使用の聖餐盃>

 

   小閑記

 あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。

川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。

 あなたが日の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。

               ~イザヤ43:2~

 

 人がこの世を生き抜くことは、若い時に考えるほど、ことに年月を積み重ねるキリスト者にとって、そんなに簡単なものでないことを体験してきました。長く生きれば生きるほど、私たちはますます、人生のさまざまの出来事に巻き込まれ、人生の苦闘の中に入り込みます。

 私たちはこの困難を切り抜けさえしたら、この時期を過ぎさえしたら、もう少し良くなるだろう、楽になるだろう、という考え方をします。しかし、多くの人たちには、まだまだ深い河を渡らなければならなかったり、鉄を鍛える火を新たに通らなければならなかったりすることが多いのも事実です。

 道は終わりまで狭いということを学ぶのもまた人生です。

 

 しかし、それが真実なのです。神様はわたしたちが火の中、水のなかを通る時、共にいてくださり、無事に通らせてくださるというこの約束は、なんと素晴らしいことでしょう。

 もしこのことが最悪の場合、どうしょうもないと思われる時に、最も強く神様との交わりを経験する理由は、神様が私たちの力及ばないところに、共にいてくださるからであります

 ダニエルは、獅子の穴で、神様が共におられるという証しを得、燃えさかる火の中を、神の子のように三人の友と共に通りました。このように私たちが神様のみ顔を仰ぎ見て、神様の助けを得る時、人生の最大の重荷を背負う時、それが喜びに変わるのです。神様に心から感謝している時の祈り、讃美の歌声本当に美しいものです。

 

 「憐みの御手もって」

主よ 受け入れる者を

 御民にふさわしき者とするために

  憐みの御手をもって いさめたまえ いさめたまえ

主よ 受け入れる者を

 御心を行う者とするために

  憐みを御手をもって こらしめたまえ こらしめたまえ

主よ 受け入れる者を

 御栄えを顕わす者とするために

  憐みを御手をもって 鞭打ちたまえ 鞭打ちたまえ

       水野源三著 第四詩集「み国をめざして」

 

  小閑記

  

 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。彼らが目をあげると、イエスのほかには、誰も見えなかった。

       ~マタイ17:7~8~

 NHKのテレビの1231日の放送の定番は「ゆく年くる年」で、この開始は、最初はラジオ放送で1927年でした。当時は「除夜の鐘」であったと聞いております。この放送をラジオの前で家族揃って聞き、新年を迎えた記憶のある方もおられることでしょう。

 誰もが、何かの区切りをつけて、新しいスタートとしたいと思うのは、その日々が順風満帆ではなく、重い何かを背負っての歩みであったからなのかもしれません。

 

 冒頭の聖句は、私たちの人生をある出来事で示していると思うのです。

 波が舟を越えて荒れ狂った時、またイエスがゲッセマネで捕らえられた時、弟子たちが恐れたのを理解することは難しいことはありません。けれども、そのすべての中に、キリスト教の深い真理があるのです。

 もしキリスト者が長い間、闇の中をさ迷い、苦しい戦いの中に居続けるなら、不安と絶望、あるいは、信仰を捨ててしまいたくなる思いになるのです。「私はキリスト者であるのだろうか、私は神にある勝利と喜びを経験することなど、ないのではないかと疑いの中に落ち込みます。また、心に喜びがわき、幸いを手にする時、また再び苦しみや試練に出会うのではないかと、先々のことが心配になります。

 

 どうしてこうなるのでしょうか。そのような時こそ、キリスト者はイエス様のほか、何事にもイエス様のほかには、救いはないという信仰に導かれるということを、苦難や恐れから救い出してくださるということへと導きだしてくださることを、このマタイのみ言葉のイエス様の「『起きなさい、恐れることはない』彼らが目をあげると、イエスのほかには、誰も見えなかった」ということの中に示されているのです。

 迷い、さ迷い、疑いの日々、人生であればこそ、イエス様を離れてた、この私たちの上に手を置いてくださるお方のあることを、あらためて覚えたいものです。

 

 

  小閑記

ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人は幸いである。

      ~詩篇146:6~ 

 

 この「さいわい」とはどのようなことでしょうか。人それぞれというようなことではありません。

 

神様が言われる「さいわい」を考えて、2019年の備えをするのも、また意味があると思いませんか。聖書の中では、上る階段、底なしに落ちる階段、解放と平和を求める魂の叫び。深いため息から、救われて永遠の命に至るまでのことを「さいわい」という面を持っていることを教えています。

 

「さいわい」・・・悲しみと罪よりの開放を願い、心から神との平和を願うことです。それは恵みの座にひれ伏し、憐れみと神の子としての資格を受けることです。

 

「さいわい」・・・それはまた、神の訓練のもとに生きることです。日々の人生の激しい戦いに私たちが傷付き、罪の誘惑に打ちのめされ、自分自身の弱さに絶望するとき、私たちは救い主であり、父としての神に近く寄り添い、慰め、励ましのみ手を差し伸べて下さるその恵みは、真の「さいわい」です。

 

「さいわい」・・・心の傷が癒され、全てのことに主イエス・キリストのみ名によって感謝し、新しい思いへと立ち返らされる信仰の喜びのときです。

 

 しかし、真のこの「さいわい」は神のみ国でのことでもあります。

 

 イスラエルよ、あなたはしあわせである。

 だれがあなたのように、 

主に救われた民があるであろうか。

  主はあなたを助ける盾、

あなたの威光のつるぎ、

あなたの敵はあなたにへつらい服し、

あなたは彼らの高きところを踏みすすむであろう。 申命記33:29
 

  小閑記

 

 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は二度と外へ出ることはない。

           ~黙示録3:12~ 

 「柱」という一文字には、人それぞれに重みをもち、その時々に意味を持つ言葉と言えます。

 言うまでもなく、「柱」というものは、支えであり、力であります。「柱」は家をまとめ、強くします。大建築物には「大黒柱」があり、また装飾のためにも用いられます。

 

 この10月号のみ言葉では、単なる建物や生き方にかかわることではありません。神様からの「恵み・恩寵」とも言えるお言葉のことです。イエス様は、勝利を得る者を、「わたしの神の聖所における柱にしよう」と言われます。これは単に、勝利を得る者が神と共にいる家で、上席を得るということばかりでなく、現在、ここで、地上の神の宮で、勝利を得るキリスト者は、「柱」となることを許されるという、深い恵みのお言葉・約束です。

 

 神の民は、聖書によりますと「神の宮」であります。「あなたがたは神の宮であって、神のみ霊が自分のうちに宿っていることを知らないのですか」。と言われているのです。

 

 神の宮が支える力を必要とする場があるとすれば、それはこの地上であります。わたしたちの中の神の家が完全に立っているためには、勝利を得るキリスト者によって支えられなければならないのです。

 

 わたしたちの中に、そういう方がおられるのです。それは「あなた」です。人それぞれの信仰の歩みがあります。人は、わたしはだめだ、信仰心が弱い、と言われる方がおられます。しかし、本当にそうでしょうか。信仰の歩みの中で、神を愛し、讃美しない信仰者はいるでしょうか。「主の祈り」を口にしない人はいるでしょうか。

 

 信仰者の歩みは、その生涯を通して、祈りと隣人への愛ととりなしの祈りを捧げてきた歩みなのです。人からは何の報酬もなく、時には敵意に満ちた非難も受けるでしょう。それでも、祈らされ、祈らずにおれないのが「信仰者」なのです。

 それは、神から賜った「柱」の感謝のしるしだからです。「神の国」は、こうして受け継がれて来たのです。そうして後に来る人へと受け継がれていくのです。

 

 

   「小閑記」

 

 彼は乏しい者をその呼ばれる時に救い、貧しい者と、助けなき者を救う。

         ~詩篇72:12~ 

 

 神の言葉は、高ぶる者、奢る者には厳しく語られ、鞭打つものでありますが、捨て置かれた者、不幸な者には、柔和で励ましに満ちたみ声で語られます。聖書の中にひと言として、自分を小さき者、貧しい者であると認め、知る者には、荒々し言葉は使われていることはありません。

 

 絶えることのない水の清らかな流れの泉のように、恵みと励ましの愛、父なる神の心、また救い主の心は、助けを求める者、迷い出た者と認めるすべての者に、注がれているのです。聖書は、それを証言しています。

 

 旧約聖書に登場するサウロが自分を小さい者と知っている時に、神はその民の上に王としてサウロを立てられました。しかし、彼が自分は偉大な者だと思いあがった時、彼は自らの刃に倒れました。

 

 主は富める者を空しく去らせ、飢えたる者を良きもので満たされます。主は弱った者に力を与え、力なき者に勢いを与え給うのです。「重荷を負うもの我に来たれ」と招いておられます。主は不幸な者を救い、傲慢な者を低くされます。

 天は喜び、地には喜びにあふれるといわれています。

 

 わたしは主が苦しむ者の訴えを助け、 

 貧しい者のために正しいさばきを行われることを知っています。

              詩篇140:12

 

 あなたは苦しんでいる民を救われますが、

 高ぶる者を低くされるのです。

              詩篇18:27

 

   小閑記 

 

 エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。あなたを助けるために天に乗り、威光をもって空を通られる。

          ~申命記33:26~

 

 長い生涯を生きる間には、キリスト者にとっても個々人としてやはり移り変わる事情があります。時には、全てのことが何かの呪縛にかかっていて、人生をひどい苦しみの連続、一連のこととしてしまうかのように、考え込んでしまうことを経験します。

次から次へと息つく間もなく来る困難や苦痛、次から次に発生する台風の凄まじさに慄く時、神様は遠くにおられるかのように思えます。弟子たちが嵐に出会い、恐怖のあまりに叫んだ、「わたしたちは死にそうです」の、無力感に陥ることがあります。

 

 エジプトにいたイスラエルの民のエジプト脱出は、神様のお約束とは言え、荒れ野の40年の苦難の旅路は、想像すらできません。今日でも多くの難民が飢えと病と死の危険の中にあります。

 

 しかし、それにもかかわらず、年月が経ち、約束の地に近づくにつれて、単なる約束ではなく、事実となる時、恵みの奇跡のように見えはじめます。見えざる神の導きの御手が絶えず私たちと共にあったことを悟り、その手は力強い愛の手であることを深く知ります。

 

 モーセがその生涯を終えるにあたって、「神に並ぶものはほかにない」ということが出来たように、確かに、ためらい、迷い、呟くモーセの人生であっても、絶えず神様に尋ね、罪を犯しても許しを請いつつ生きた人生は、「多くの安らぎ」をもたらします。

 聖書をお持ちの方は、いま一度ご自分の人生になぞらえつつ、モーセの生涯をみ言葉と共に読み、お考えになることを、お勧めいたします。私たちが勇気を失い、恐れた時に、神様は私たちを励ましていてくださいます。

 約束の地を目指したモーセの人生は、「神ともにいまし、神に並ぶべきものはほかになし」とほめ称えずにおれませんでした。  

 

   『小閑記』 

  わたしたちが信じるのは、もうあなた方が話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることが、分かったからである。

           ~ヨハネ4:42~

 

 今はあまり使われない言葉に「芒種(ぼうしゅ)」というのがあります。種まきや田植えなどで農家が忙しくなる頃のことをいうのだそうです。

「つのぶえジャーナル」をお読みの皆様の上に神様のお恵みが豊かに与えられますように、お祈りいたします。

 

 私たちがキリストとの出会いを、少し考えてみようではありませんか。私たちは直接お目にかかることも、そのお声を聴くことなどできません。しかし、他の人々が話してくれたので知り、信じたのです。子供たちの信仰の継承は、両親や親が信じているから信じ、教会学校で教わったから理解するのです。

 では信仰はどうでしょうか。それが役立ち正しいから信じるのです。近くに信仰に生きている人を知ることは有益で、感謝すべきことです。しかし、子供たちや若者が、生涯でもっとも尊い「若き日(時)」にそれを経験できた幸いは宝です。時に拒み、あざけることもありますが、心に刻まれたみ言葉は決して消え去ることはないのです。

 

 キリスト者の務めは明白です。ただ人々をキリストの元に連れて来ることです。そのためには、語り、聞かせ、証ししなければなりません。一度に完成させることは不可能です。「続けること」。伝えることを学ばなければなりません。信じていなければ出来ません。

 

 聖書の中にあるスカルの人々をイエス様のもとへ連れて来たのはその信仰であり、彼らの経験によって、主を救い主として知らしめたのです。私たちが十分に完全でなくてもそれを用いることです。知らない人々に伝え、知らせることです。自分自身が導かれたように導かれることを期待し、信じて待つことです。与えられている救いの恵みを、喜びとして証しすることです。それを見た人は、あなたがそうであったように、キリストを知りたいと思うようになるのです。

 遅過ぎることは決してありません。今がその時なのです。

 

 

   小閑記 

 

 あなたがたの神は言われる。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終わり、その咎はすでにゆるされ、もろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。

          ~イザヤ40:1~2~

 

 神の民の生活環境は、必ずしも明るいものではありません。これを否定する人は、この世も自分をも知ってはいないのです。キリスト者の歩かなければならない道は「細く狭い」と神は言われました。危険への恐れ、取り残される恐れ、他の人々の救いのための責任、あるべき、またありうる恥辱感、その他の多くのことが、キリスト者の信仰をぐらつかせ、恐れさせます。

 

 そのような時にキリスト者も信仰の力を忘れたかのように、嘆きます。「主はわたしを捨てられた。主はわたしを忘れた」と。

 

 しかし、神はそのような時でも、わたしたちを知っておられ、み言葉の中に主の愛に満ちた慰めをお置きになってくださいました。

 

「女がその乳飲み子を忘れ、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。みよ、わたしはたなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある」。

 

わたしたちは服役の期は終わり、そのとがはすでにゆるされ、わたしたちはもろもろの罪のために、二倍の刑罰を主の手から受けたのです。それは、わたしたちによって十分な慰めではないでしょうか。

 

わが手の傷を忘れ、わが十字架、わが血、わが苦しみとわが痛き悲しみを忘れてはならない。否、シオンはわたしの最も大きいよろこびである。

 

この神の恵みと祝福こそ、キリスト者の日々、人生の礎です。

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東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
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富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
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電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
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東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
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東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
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発 売 つのぶえ社
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