2020年2月  №151号 通巻836号
 

   「小閑記」

  

 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、

     わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

             =へブル3:14= 

 

 すべてのキリスト者は、自分の人生が罪深く汚れている時のこと知っております。私たちには取り返しはできません。なされたことは、なされたことで、それをどうすることもできません。もし、私たちがあらゆる努力をしたあげく、最後の望みも絶えた時、目に見えない手が、私たちの目を自分中心からそらせ、罪人を救われるかたの方へと向けさせてくださったとするなら、何と幸いなことでしょう。

 

 美しい春の朝に、小鳥が歌うように、私たちは全く、自由な救いについて歌ったのです。この時、私たちに最初に確信が与えられ、それが一日の日課の、そして最後までしっかりと持ち続けようと奨める大切さを、このみ言葉は教えているのであります。しかし、私たち一人一人の人生は、このことは言いやすいけれども、為しがたいことをも教えてくれます。私たちが実際にある自己、また、罪深い偽りの自己から全く離れて、すべてのものをイエスのみの中に持つこと、これはキリスト教の高峰であって、神の恵みを他にしては、何人も手にすることのできないものであります。

 

 私たちの悪の本質と人間的な理性は、絶えず私たちを汚れた罪深い自己・自分へ引き戻そうとし、知らず知らず、キリストよりも自らのキリスト教により頼む結果となりやすいのです。こうなれば、主を仰ぐべき時に自己を見て、結果としては、疑い、憂い、そうして平和を失うのです。私たちが喜ばしく、善良に、霊的になっている時は、すべて良しと感じます。しかし、心が冷淡で悪意を持つ時、神を疑い、信仰は萎えるのです。これは最初の信仰をしっかり持っている姿ではありません。これはキリストを信じるよりも、自分を信じることにあります。

 主のみが、常に、私たちの救いを全うしてくださるのです。

 

 わが手のわざは、主のおきての求めにかなうまじ。

   わが熱心はためらわず、わが涙は、とこしえに流るるとも、

    罪をあがなうことを得し。主よ、主にのみ救いあり。

 

 「小閑記」

  

 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

          =マタイ7:7~8=

 

 わたしたちは、神様のもとへ、何かを願いに行くときは、誰も開けてくれない閉じられた戸をたたくのでもなく、心を閉ざし憐みの心を持たない者のところに行くのでもありません。

 否、わたしたちは、わたしたちを迎えに使いをよこし、わたしたちに祈ることを教えて、必ず得させると約束してくださった方のところへ行くのです。

 

 多くの人は、祈りは命令されたものであると考えたり、心の内にある不平や不満、時には愚痴に近い思いを口にしたり、無病息災を「願掛け」のようなものと思うのです。時には、宝くじの最高額が当たりますようにとか、受験に合格しますようにと祈る人もおられます。弱いわたしたちのささやかな願いとも言えるでしょう。

 

 しかし、大切なことがあります。それは、わたしたちの無能と神様の全能とを示すためであると考える誤りです。もちろんわたしたち人間は、全能者ではありません。

 「祈り」は、わたしたちが憐れみを受け、助けを必要とする時に助けてくださる恵みを見出すことのできる、全能の神のみ座へ向かって開いている「扉」であります。「祈り」はくびきではありません。「つばさ」です。義務ではなく、「権利」であります。祈りは、弱き人間の権利であります。

 

 わたしたちの周りのすべての戸口が閉ざされている時、生きる希望も力も失ってしまったと思える時、その時こそ、わたしたちは手を合わせて、神様のみ前に出て、わたしたちの必要を求めることのできる「時」なのです。わたしたちは神様に、人生で自分に起きるすべてのことについてお話しすることのできる「時」なのです。

 

 救いのために祈ることから、罪の赦し、日々の仕事のこまごまとしたことまで、神様にとっては、その子供たちがこの世で骨折り、働いていることが何であれ、つまらないから聞いてやれないというものは何一つないのです。

 今日もまた、わたしたちは生活と仕事、健康の時も病気の時も、すべて祈りの中に、神様に語ることが出来るのです。

 

「そのとき、あなたがたがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12~14)

 

 道を求むる旅人われに、愛と御霊は、なぐさめなり。

 主よ、旅路の終わるまで、わが友、わが守りとなりて導きたまえ。

 

 

 

 

 

   

   

 

 

 

 

  「小閑記」

 

  彼らは嘆きの谷を通っても、そこを泉のある所とします。

  また前の雨は池をもってそこをおおいます。

  彼らは力から力に進み、シオンにおいて神にまみえるでしょう。

           =詩篇84:6~7=

 

 2019年も今月で終わります。人にはそれぞれの歩みがあり、国にもいろいろの出来事を終えて2020年へと向かいます。しかし、振り返って見る時、そこにはあまり差異はありません。

 ほとんどの人は、何かを求めて額に汗し、何かを得るために労苦してきました。そこには、貧困の苦しみ、重い労働環境、病気や悲しい出来事、いじめや差別をほとんどの人のぬぐえない忠実な道連れです。私たちの人生の道は、まことに悲しい道、嘆きの谷です。

 人は、ふと生きる勇気をよくも持っているものだと、驚くことがあります。少なくとも、人生は死をもって終わると信じていると考えることが、奇妙にさえ思います。この世界に生を受けた時から、死をもって終わる日々の歩みと思う考えに、打ちのめされてしまうなら、あまりにも私たちは哀れではないでしょうか。

 

 しかし、聖書が神について、救いについて、恵みについて、死の彼方の国の永遠の命について語るところを信じる人々、その信仰を持つ者には、たといこの世の生活は重荷と涙の伴うものであっても、神とともなる栄光の希望に満たされているのです。そのような未来に確信を持つならば、人生のそのものに意味と目的とが、心に生まれているのですから、今はどうであれ、未来には落胆と絶望の道は通り抜けているのです。

 古の詩人は、「あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝いとこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります」と歌い上げています(詩篇5:12)。

イザヤは、「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである」(イザヤ25:8)と告げ知らせています。

 

 その約束の成就が、神の御子の主イエス・キリストなのです。その誕生を「おめでとうございます」とお祝いするのがクリスマスなのです。 
 

   「小閑記」

 

 しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかのひとがあなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう。

           =ヨハネ21:18=

 

 大切なことがあります。主イエスを信仰によって救い主と受け入れた人は、同時にみ旨のままに私たちを支配する権利を神に差し出したのです。「みこころをなしたまえ」と言って、同時に、この世で自分の欲することを自分のために得るということは、これはキリストが王であられる国においては、出来ないことであります。

 こういうことは自明のことながら、私たちは最も辛い戦いをするのは、このことであります。時々、私たちは、神は冷淡で、無慈悲であると考えさせる原因は、私たちの人生・歩みの見方が、神様のみ旨・目的と異なっている所にあります。

 

 神様は、私たちのために二つに一つの、永遠の救いか、永遠に失われるものかの重要さをご覧になるのです。そして神が、もし地上の利益が私たちを永遠の命から奪うものであることをご覧になれば、私たちの好まない所へお導きになるのです。

 

 神様は、私たちの行く道に「しるし」をつけ、行くべきところへと導かれるのです。それが私たちにとって嘆き、つぶやこうとも、神様はご計画をお変えにはなりません。私たちが神様の御許にいる間は、み心のままに扱われるのです。

 

 常に心よりすることは出来なくても、信仰と忍耐をもって歩むならば、私たちが出会う全ては地上の罪の絆を解き、解く手立てとなり、神様を崇める助けになるのです。

  

  主は汝の魂を解き放ち、汝の心を重荷より、

    やがては解き放ちたまわん。

      弱き心よ、喜び歌え。

 

   「小閑記」

 

  わが魂はもだしてただ神をまつ。

     わが救いは神から来る。  =詩篇62・1=

 

 人にはそれぞれの環境や年齢の差異はあっても、ふと自分を振り返る時が訪れるといわれます。

 この冒頭の聖句は、それを私たちに考えさせる大切なみ言葉であり、時でもあります。

 

 ダビデは、その生涯の夕暮れを迎え、過ぎ去った時のことを振りかえって立っています。

 ダビデは何の屈託もない羊飼いの少年として、丘の上や花の咲いている野で、動物に囲まれて遊んでいた日々を思い浮かべます。また王位に就くまでの困難な狭き道をも思い浮かべています。自分が低く下り、高く上がるのを見、またすべてのことを、人生の真のはかりにかけてみて、幸福はどこにあるかを究めなければならなかった時のことを見て、結局は長い道を経て、神の中よりほかになかったことを、知り、知らされ、それを結論としてます。

 

 自分の幸福は、富にも貧にも、名誉にも不名誉にも、病にも健康にもなく、ただ神にのみあるという教訓を学ぶには、多くの時間と失敗と手間のかかったことを知ろうとしています。多くの人は生涯をかけて、この世に幸福を追いかけて暮らします。

 魂はこの歌を昼も夜も聞きます。「もしわたしがあそこまでやり、あれだけのものを得ていたなら、幸福だっただろう」と。

 しかし、一人として、神を見いだすまでは幸福にはなれないのが真実であります。ダビデは羊飼いであった時よりも、王となってから嘆き悲しみ、涙することが多くありました。富む者は貧しい者よりも心配も多いのが世の常であります。財産を増やす者は、悲しみも増やします。

 

 しかし、己が生涯を喜んで神の救いの手と父なる神の手に委ねる者は、命の川から命の水を飲み、平和を与える宝を見いだすのです。人生の真の平和と喜びを得たいと真に願う者は、先ず神を見出さねばならならないと、この冒頭のこのみ言葉は語っています。

        

「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」(箴言16:9)。

 

   「小閑記」

 

 しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

 

           =ルカ7:50

 

 私たちの日々の中に、親しい人に、家族に「ありがとう」「感謝します」という思いと言葉、意識を豊かに持ち、口に出来たら、その毎日は、暗く憂鬱になるでしょうか。不快に思うでしょうか。笑顔に変わることでしょう。

 

 この聖書のみ言葉は、私たちの一番望むことです。想像してみてください。

イエスご自身(救い主)の口から、「あなたの罪は許された」「あなたの信仰があなたを救ったのです」というお声を聞くことは、たぶん、地上で私たちが経験する、最大の喜びでありましょう。

 

 この喜びをこそ、多くの人は、人が熱心に慕い求めても、祈っても、主イエスへの信頼なくして得られものではないのです。このイエス様に出会うまでのこの女性も、そうであったでしょう。しかし、熱心は無駄ではありません。イエス様は言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのです」と。では、この女性を救った信仰には何があったのでしょうか。お手元の聖書をお開きになり、ルカによる福音書736節から50節を是非お読みになってください。そうして、その時の状況を想像してみてください。

 

 「命がけ」「わき目も振らず」という言葉がありますが、この女性の姿には

必死な思いで、人をかき分け進み、イエス様の足もとに、罪あるままの自分を投げ出したのです。その姿が、イエス様の言われる「あなたの信仰が・・・」というお言葉になったのです。

 

 この女性の姿は分かりやすいですが、自分に置き換える時、「自分を投げ出す」ことほど難しいことはありません。あるいは、祈りの時でも、神様とお二人の時でも、自分を曝け出すことは出来ません。ましてや、多くの人の前での、女性のあのような行動は、勇気ではなく、「罪を許されたい」という思いが、日々の生活の中にあったからこその行動ではないでしょうか。人それぞれに自分の中にある、得体のしれない邪魔者があるからです。でも、イエス様のみ前に進み出ましょう。

 「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」をいただくために。

   

救い主のうれしきみこえ 天よりの平和を敷きひろぐ。

   幸いみちたるその声に かぎりなき生命と喜びあり。

 

   「小閑記」

 

 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられるべきである。

          =ローマ12:2=

 

 生活の知恵として、私たちは多くの習わし、習慣を守ってきました。社会はそのようなもので秩序立てられ、維持されて来たところは沢山あります。「伝統」や「文化」には、深い意味合いがありますが、悪しき「伝統」「文化」のあることもまた事実です。

 人が最も興味を持つもの、最も欲するもの、自分の利欲となるものであれば、それがどんなに罪深く、人や社会に益しないことでも、下品なことでも、地位や富に関係なく、それをやるのが私たち人間の本性なのです。

 「神より生まれたものでなければ、それ以上のことはできない」のです。

 

 しかし、キリスト者は新しい人になったのですから、これよりも出来るはずなのです。聖書は教えます。この世につく者は自己中心である、と。キリスト者は全てのことをする出発点は、神様からいただいたキリストの愛をもっているものからスタートします。その愛とは、決して自分の私利、利得、名誉、あるいは名声を求めず、神のみこころを求めなければなりません。

 旧約の祭司が犠牲をささげるように、自分を神への生ける清い供え物としてささげるべきです。

 

 この感謝と信仰の証しとしての犠牲と奉仕において、たゆまぬ力を持つには、私たちはただ一つ、絶えず心を新たにしていなければなりません。また、世の人々を避けないで、世の習慣や習わしとは違った、違う生き方をしなければなりません。その目的のために、キリスト者として招かれ、救われたのです。その理由のためにこの世にいるのです。

 私たちは、寛容であるべきです。しかし曖昧であるべきではありません。多様さを認めることは大切です。しかし、妥協すべきことを求めてはいけないのです。この自覚が薄れる時、「地の塩、世の光」を失うのです。

 

 それをよく守り、勝利を得るキリスト者は幸いです。それは自分自身にとどまらず、人々に指針、道しるべ、良き信号機になるのです。

 神の栄光を現すために、その生涯を生きようとする姿こそ、今、キリスト者と教会は求められているのではないでしょうか。

 

  わが生くるは、ただ君(キリスト・神)ひとりのため

  君をぞわれは最も愛す、われに賜いし君が愛にこたえて。

 

 

  「小閑記」

 

 わたしのした事を何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません。

         =ヨハネ4:29=

 

 私たちは人に知られたくないものを、心に隠し持って生きているとも言えます。それを、日本人は時に、「墓の中まで持って行く」という言葉で言い表すところがあります。

 

 聖書の中に、「律法がなかったら、罪は死んでいた」とあります(ローマ2:1~、7:7~24をご参照ください)。

 

 この冒頭のみ言葉は、サマリヤの霊的にはまだ覆いのかかっていた心の目の女性が、井戸のほとりでイエス様にお目にかかった時のことを、このように叫びました。「わたしのした事を何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい」。

 

その人は昔の預言者でもなく、モーセでもありません。キリストであったのです。ペテロが浜辺で主にお目にかかった時、自分の罪を今までになく、はっきりと見なければなりませんでした。

ペテロは言いました。わたしはつまらない男です。危ない時には逃げ出します。わたしのことは構わないでください。行かせてください。わたしは何の値打ちのあることはできませんよ。イエスよ、わたしから離れてください・・・と。

 

イエス様の愛より発する光に照らされて、自分の罪と不貞、不信仰を見る時、その時でもなお恥と信仰の未熟さとの中にいるのです。

「あなたこそ神のキリストです」と告白し、わたしはあなたを知らないなど、言うはずがないと自負していたペテロ、激しい言葉で知らないというペテロは私たち一人ひとりです。

 

その時こそ、罪人を悔い改めさせるお働きをなさるのが救い主なのです。イエス様が救われるのは、自分が罪人であるとことを認める時です。しかし、信仰が与えられ、キリスト者になったその時から、実はこの「自分の罪人である自覚」は薄れていくのです。

もう救われている自分という間違った自覚、身勝手さに陥りやすいのです。

この自覚の希薄さは「信仰の老化・劣化」そのものであると自戒することを、ひと時も忘れない信仰と日々の歩みをしたいものです。

 

 

   小閑記

 

 わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはやわたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしが肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

                =ガラテヤ2:19~20=

 

 この聖句の先ず語ることは、キリストの救いのみ業は、私たちが自分でやり遂げたかのように、完全に私たちのものであるということであります。神の言葉は、一人の人が全ての者のために死んだので、すべての者はイエスにあって死んだのだという、言い尽くせない大きな慰めを与えるのです。こうして私たちはキリストと共に十字架につけられたのです。

 

 しかし、このように完全に私たちのものであることは、それにも関わらず、私たちの外側にあります。しかしそれは、実はキリストの内にあるのです。私たちのものであるものが、キリストにあって私たちの個人的な所有となるならば、私たちは、自分を全くキリストにささげなければなりません。

 主イエスが私たちのために負ってくださったすべての罪を、主に渡さなければなりません。こうして、私たちもキリストと共に、自らを十字架にかけられなければならないのです。

 

 なおも悪の力は私たちを苦しめ、傷つけ、打ち負かすかもしれません。しかし、私たちを罪み深い欲望の中に生かしめるほどに私たちを支配することはできません。私たちは二重の状態の中に入っています。私たちが死んだと同時に、私たちの中にある罪も死んだのです。

 「あなたは死んだのである。それゆえ死につけられたのである」と聖書は言います。死につけられた者は、キリストと共に、十字架につけたままにしておかねばなりません。私たちの命はもはや罪に従い、その欲望に服従することになるのではありません。

 私たちの命は、キリストにあり、キリストにあってすべての悪と戦い、日ごとに死ぬのです。それはもはや、「わたし」すなわち、私の内にある悪―が命の権威を持ち、私たちの中に生きることを許されているのではなく、キリストが権威のすべてなのです。

 信仰によって、私たちは主イエスが全てであると主張しますし、この権利は神より与えられたものです。

 この神からの愛に生きるのがキリスト者なのです。

 

   小閑記

 

 わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。

               =マタイ4:19=

 

 多くのキリスト者は、神のために何をしているか、何をしてきたかと考え、それを生涯の重荷と感じてしまうことがあります。

 母親は、毎日毎日、また来る日も来る日も、来る年も来る年も、ある場合にはそのほとんど一生の間、洗濯をしたり、料理をしたりして、一日を終わっても、その働きの評価、結果は数値では見られません。

いろいろの職業があります。事務の仕事は書いたり、帳簿を付けたり、工場で働く人は機械に着き、決まった工程の仕事をし、農家の人は畑や森で働いています。単調で、日常的なその働きが神のために何の結果があるのだろうかと思う時もありましょう。しかし、その一つ一つは小さいものでも欠くことの出来ないものです。「労働は神礼拝」そのものなのです。

 

 冒頭のイエス様が言われたことを、考えてみましょう。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。

 このみ言葉は12弟子に特に適用されたものですが、イエス様に従う全てのキリスト者は、世の中で、どのような地位や職業にあっても、人間を漁る漁師になることは、全く真実です。

 

神の国においての問題は、私たちの性質の問題です。もし私たちが、イエス様のみ旨を第一として生き、働くなら、私たちは、このイエス様に従うのであり、主は私たちを人間をとる漁師にしてくださるのです。これは決して間違いのないことです。ただ、宣教師、牧師、あるいは説教者のみが人々を神のもとに連れてくることが出来ると考えることは、神様のみ旨ではありません。

 むしろ、日々のその為すことにおいて、救い主を証ししていることに感謝を覚えるとき、そこに、ついていく「献身の思い」があるのです。

 

「・・・あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。・・・自分の益ではなく多くの人の益を求めて、・・・」(Ⅰコリント10:31、33)。

 

 

   小閑記

 

 「わたしに何をしてほしいのか」

       =ルカ18:41=

 

 私たちは日々の生活の中に、たくさんの願いや願望をもって時を過ごして生活しています。誰かに、あなたは私に何をしてくれますかと言われたり、私のしてほしいのはこれこれですが・・・ということはおありですか。買い物に行き、欲しいものが手に入るとささやかでも喜びを得ます。病気の時、お医者さんに癒してほしいと願います。

 

 ところで、思いがけない時にあなたは、イエス様が「わたしに何をしてほしいのか」と問われた時、何をどのように言うことが出来ますか。私自身は戸惑ってしまうでしょう。「わたしをあわれんでください」と言えるでしょうか。イエス様が救い主であると知り、信じている人は、私を憐れんでください。私の罪をお許しください。苦しみや悲しみから救い出してくださいと願うことは出来るでしょう。

 

 イエス様が祈っている私たちのところに来られて「わたしに何をしてほしいのか」とお聞きになったとしたら、私たちの日々祈り求めている事柄を素直にイエス様にお応えできるでしょうか。ありきたりの願いであったり、自己中心の祈りであったりで、真に必要な願いと言えないのではないかと考えるとしたら、このイエス様の問いかけは、私たちには欠くことのできない大切な事柄と言えます。

 

 聖書の中に「また、祈る場合、異邦人のようにくどくどと祈るな。彼らはことば数が多ければ、聞き入れられるものと思っている」と言われています。

 私たちが祈りによって神の前に出る時、自問してみようではありませんか。

私が今、何を望んでいるのか。実際に何が必要なのかを、神様に申し上げているでしょうか。

 

 心疲れている時、心渇いている時と、何もかも手に入っている時の祈りに、どのような違いがあるでしょうか。

 イエス様は、疲れたものは私のところに来て休みなさいと言い、思い悩むなと言い、隣人を愛しなさいと言われました。そうして「神の国と神の義を求めなさい」とお教えくださいました。

 

 この「わたしに何をしてほしいのか」の神様からの問いかけを、本当に大切にしたいものです。

 

 

  小閑記

  弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにした。

               =マタイ21:6=

 

私たちキリスト者が、イエス様がするようにとお命じになったとおりに従うならば、物事の考え方においても、日常の実生活においても、多くのことがもっと簡単になっていたことでありましょう。自分の価値判断やいろいろの事情が優先し、ことを複雑・不透明にすることは多々あります。

 小さいことと思われることでも、救い主のためにそれがなされる時は、偉大なものとなります。ロバの綱をとってイエス様のもとへ連れてくるだけで、主のみ栄と他の人々の役に立つことができます。渇く者には水を飲ませ、悲しむ者には、そっと声をかけることで、・・・。キリスト者の生活が、キリスト教的生活とこの世的生活の部分に分けられるとする考えがありますが、それは、神様のお命じになったという視点から考えるならば、成り立たないことです。

 

 神様を信じる人々は、神の教会の中におり、どこで生き、どこで働いていようとも、神様のみ前に立ち、常に神の民の役割を神様から担っています。もし、信仰の生活、教会の生活とこの世の生活、社会の生活とに分かれているなら、それは偽善という罠に陥ってしまうでしょう。

 

 今はあまり見られなくなりましたが、教会の礼拝に出る時、身支度して礼拝するのが当り前でした。正装したものですが、最近はそれがそうではなくなりました。普段着、労働着がいけないというのではないですが、無頓着になるならやはり一考すべきではないでしょうか。日々の生活の延長のままの礼拝には、衣服の乱れ、心の乱れに現われるとするならば、心を正す、あるいは信仰を整えることで意味あることと思いますが如何でしょうか・・・。

 

 大切なことは、祈りと感謝をもってイエス様のために働くときの心の、信仰の制服でありましょう。

 主を信じる人として、すべてのことが公の礼拝であり、イエス様のための仕事であるとみなしたいものです。

  誠実なる生活をイエスのためになし、

  わがすべてに主を喜ばせ

  よろこばしき、自由なる心もて

  忠信なる者となるは、わがために、祝福の道とこそなれ。 

 

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城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
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