2018年11月  №136号 通巻821号
 

  小閑記

ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人は幸いである。

      ~詩篇146:6~ 

 

 この「さいわい」とはどのようなことでしょうか。人それぞれというようなことではありません。

 

神様が言われる「さいわい」を考えて、2019年の備えをするのも、また意味があると思いませんか。聖書の中では、上る階段、底なしに落ちる階段、解放と平和を求める魂の叫び。深いため息から、救われて永遠の命に至るまでのことを「さいわい」という面を持っていることを教えています。

 

「さいわい」・・・悲しみと罪よりの開放を願い、心から神との平和を願うことです。それは恵みの座にひれ伏し、憐れみと神の子としての資格を受けることです。

 

「さいわい」・・・それはまた、神の訓練のもとに生きることです。日々の人生の激しい戦いに私たちが傷付き、罪の誘惑に打ちのめされ、自分自身の弱さに絶望するとき、私たちは救い主であり、父としての神に近く寄り添い、慰め、励ましのみ手を差し伸べて下さるその恵みは、真の「さいわい」です。

 

「さいわい」・・・心の傷が癒され、全てのことに主イエス・キリストのみ名によって感謝し、新しい思いへと立ち返らされる信仰の喜びのときです。

 

 しかし、真のこの「さいわい」は神のみ国でのことでもあります。

 

 イスラエルよ、あなたはしあわせである。

 だれがあなたのように、 

主に救われた民があるであろうか。

  主はあなたを助ける盾、

あなたの威光のつるぎ、

あなたの敵はあなたにへつらい服し、

あなたは彼らの高きところを踏みすすむであろう。 申命記33:29
 

  小閑記

 

 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は二度と外へ出ることはない。

           ~黙示録3:12~ 

 「柱」という一文字には、人それぞれに重みをもち、その時々に意味を持つ言葉と言えます。

 言うまでもなく、「柱」というものは、支えであり、力であります。「柱」は家をまとめ、強くします。大建築物には「大黒柱」があり、また装飾のためにも用いられます。

 

 この10月号のみ言葉では、単なる建物や生き方にかかわることではありません。神様からの「恵み・恩寵」とも言えるお言葉のことです。イエス様は、勝利を得る者を、「わたしの神の聖所における柱にしよう」と言われます。これは単に、勝利を得る者が神と共にいる家で、上席を得るということばかりでなく、現在、ここで、地上の神の宮で、勝利を得るキリスト者は、「柱」となることを許されるという、深い恵みのお言葉・約束です。

 

 神の民は、聖書によりますと「神の宮」であります。「あなたがたは神の宮であって、神のみ霊が自分のうちに宿っていることを知らないのですか」。と言われているのです。

 

 神の宮が支える力を必要とする場があるとすれば、それはこの地上であります。わたしたちの中の神の家が完全に立っているためには、勝利を得るキリスト者によって支えられなければならないのです。

 

 わたしたちの中に、そういう方がおられるのです。それは「あなた」です。人それぞれの信仰の歩みがあります。人は、わたしはだめだ、信仰心が弱い、と言われる方がおられます。しかし、本当にそうでしょうか。信仰の歩みの中で、神を愛し、讃美しない信仰者はいるでしょうか。「主の祈り」を口にしない人はいるでしょうか。

 

 信仰者の歩みは、その生涯を通して、祈りと隣人への愛ととりなしの祈りを捧げてきた歩みなのです。人からは何の報酬もなく、時には敵意に満ちた非難も受けるでしょう。それでも、祈らされ、祈らずにおれないのが「信仰者」なのです。

 それは、神から賜った「柱」の感謝のしるしだからです。「神の国」は、こうして受け継がれて来たのです。そうして後に来る人へと受け継がれていくのです。

 

 

   「小閑記」

 

 彼は乏しい者をその呼ばれる時に救い、貧しい者と、助けなき者を救う。

         ~詩篇72:12~ 

 

 神の言葉は、高ぶる者、奢る者には厳しく語られ、鞭打つものでありますが、捨て置かれた者、不幸な者には、柔和で励ましに満ちたみ声で語られます。聖書の中にひと言として、自分を小さき者、貧しい者であると認め、知る者には、荒々し言葉は使われていることはありません。

 

 絶えることのない水の清らかな流れの泉のように、恵みと励ましの愛、父なる神の心、また救い主の心は、助けを求める者、迷い出た者と認めるすべての者に、注がれているのです。聖書は、それを証言しています。

 

 旧約聖書に登場するサウロが自分を小さい者と知っている時に、神はその民の上に王としてサウロを立てられました。しかし、彼が自分は偉大な者だと思いあがった時、彼は自らの刃に倒れました。

 

 主は富める者を空しく去らせ、飢えたる者を良きもので満たされます。主は弱った者に力を与え、力なき者に勢いを与え給うのです。「重荷を負うもの我に来たれ」と招いておられます。主は不幸な者を救い、傲慢な者を低くされます。

 天は喜び、地には喜びにあふれるといわれています。

 

 わたしは主が苦しむ者の訴えを助け、 

 貧しい者のために正しいさばきを行われることを知っています。

              詩篇140:12

 

 あなたは苦しんでいる民を救われますが、

 高ぶる者を低くされるのです。

              詩篇18:27

 

   小閑記 

 

 エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。あなたを助けるために天に乗り、威光をもって空を通られる。

          ~申命記33:26~

 

 長い生涯を生きる間には、キリスト者にとっても個々人としてやはり移り変わる事情があります。時には、全てのことが何かの呪縛にかかっていて、人生をひどい苦しみの連続、一連のこととしてしまうかのように、考え込んでしまうことを経験します。

次から次へと息つく間もなく来る困難や苦痛、次から次に発生する台風の凄まじさに慄く時、神様は遠くにおられるかのように思えます。弟子たちが嵐に出会い、恐怖のあまりに叫んだ、「わたしたちは死にそうです」の、無力感に陥ることがあります。

 

 エジプトにいたイスラエルの民のエジプト脱出は、神様のお約束とは言え、荒れ野の40年の苦難の旅路は、想像すらできません。今日でも多くの難民が飢えと病と死の危険の中にあります。

 

 しかし、それにもかかわらず、年月が経ち、約束の地に近づくにつれて、単なる約束ではなく、事実となる時、恵みの奇跡のように見えはじめます。見えざる神の導きの御手が絶えず私たちと共にあったことを悟り、その手は力強い愛の手であることを深く知ります。

 

 モーセがその生涯を終えるにあたって、「神に並ぶものはほかにない」ということが出来たように、確かに、ためらい、迷い、呟くモーセの人生であっても、絶えず神様に尋ね、罪を犯しても許しを請いつつ生きた人生は、「多くの安らぎ」をもたらします。

 聖書をお持ちの方は、いま一度ご自分の人生になぞらえつつ、モーセの生涯をみ言葉と共に読み、お考えになることを、お勧めいたします。私たちが勇気を失い、恐れた時に、神様は私たちを励ましていてくださいます。

 約束の地を目指したモーセの人生は、「神ともにいまし、神に並ぶべきものはほかになし」とほめ称えずにおれませんでした。  

 

   『小閑記』 

  わたしたちが信じるのは、もうあなた方が話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることが、分かったからである。

           ~ヨハネ4:42~

 

 今はあまり使われない言葉に「芒種(ぼうしゅ)」というのがあります。種まきや田植えなどで農家が忙しくなる頃のことをいうのだそうです。

「つのぶえジャーナル」をお読みの皆様の上に神様のお恵みが豊かに与えられますように、お祈りいたします。

 

 私たちがキリストとの出会いを、少し考えてみようではありませんか。私たちは直接お目にかかることも、そのお声を聴くことなどできません。しかし、他の人々が話してくれたので知り、信じたのです。子供たちの信仰の継承は、両親や親が信じているから信じ、教会学校で教わったから理解するのです。

 では信仰はどうでしょうか。それが役立ち正しいから信じるのです。近くに信仰に生きている人を知ることは有益で、感謝すべきことです。しかし、子供たちや若者が、生涯でもっとも尊い「若き日(時)」にそれを経験できた幸いは宝です。時に拒み、あざけることもありますが、心に刻まれたみ言葉は決して消え去ることはないのです。

 

 キリスト者の務めは明白です。ただ人々をキリストの元に連れて来ることです。そのためには、語り、聞かせ、証ししなければなりません。一度に完成させることは不可能です。「続けること」。伝えることを学ばなければなりません。信じていなければ出来ません。

 

 聖書の中にあるスカルの人々をイエス様のもとへ連れて来たのはその信仰であり、彼らの経験によって、主を救い主として知らしめたのです。私たちが十分に完全でなくてもそれを用いることです。知らない人々に伝え、知らせることです。自分自身が導かれたように導かれることを期待し、信じて待つことです。与えられている救いの恵みを、喜びとして証しすることです。それを見た人は、あなたがそうであったように、キリストを知りたいと思うようになるのです。

 遅過ぎることは決してありません。今がその時なのです。

 

 

   小閑記 

 

 あなたがたの神は言われる。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終わり、その咎はすでにゆるされ、もろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。

          ~イザヤ40:1~2~

 

 神の民の生活環境は、必ずしも明るいものではありません。これを否定する人は、この世も自分をも知ってはいないのです。キリスト者の歩かなければならない道は「細く狭い」と神は言われました。危険への恐れ、取り残される恐れ、他の人々の救いのための責任、あるべき、またありうる恥辱感、その他の多くのことが、キリスト者の信仰をぐらつかせ、恐れさせます。

 

 そのような時にキリスト者も信仰の力を忘れたかのように、嘆きます。「主はわたしを捨てられた。主はわたしを忘れた」と。

 

 しかし、神はそのような時でも、わたしたちを知っておられ、み言葉の中に主の愛に満ちた慰めをお置きになってくださいました。

 

「女がその乳飲み子を忘れ、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。みよ、わたしはたなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある」。

 

わたしたちは服役の期は終わり、そのとがはすでにゆるされ、わたしたちはもろもろの罪のために、二倍の刑罰を主の手から受けたのです。それは、わたしたちによって十分な慰めではないでしょうか。

 

わが手の傷を忘れ、わが十字架、わが血、わが苦しみとわが痛き悲しみを忘れてはならない。否、シオンはわたしの最も大きいよろこびである。

 

この神の恵みと祝福こそ、キリスト者の日々、人生の礎です。

 

   小閑記 

 

 ご自身のみ子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして。み子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。

         ~ローマ8:32~

 

 私たち信仰者が、人生のこまごまとしたことを恐れたり、案じたりするのを見るのは、不思議なことでもあり、また悲しむべきことでありますが、それが信仰の姿であります。

 しかし、まず私たちは、神様は世を造られる前に、恵みによって私たちのことを思いはかられたことを信じており、主なる神様は、そのみ子のお命を私たちのために与えられたことを信じております。

 

私たちはまた、主のみ名による、罪の赦しを得ていること、主は私たちを、「神の子」とせられたことを信じております。しかし、神様が私たちのためにしてくださったすべての大いなることを、いや、その大いなることの中でも最大切なことを信じている事実にもかかわらず、私たちは人生の日ごとの重荷を運び続けているのです。

 

私たちは神様は救い主であると信じていますが、私たちの父としての神様を信頼しません。私たちは神様が失われた罪人のために、天国を開いてくださると信じていますが、私たちの日ごとの生活において、神様が助けてくださることを疑つてしまいます。自分と自分の家族はどうなることかと父親は憂い、考えます。何もしてやれなくなったら、子供たちの世話は誰がするのだろうかと母親は0嘆きます。

 

私たちが見たことのない日、また決して見ないであろう日を、私たちは不安と言い、重い荷物と肩に背負っていると思います。私たちのために面倒を見ると神様が約束されたことについて、私たちの方で疑うのです。主は私たちに、なにも心配することはない、すべての心労を主に委ねなさいと言っておられます。

この神様の愛と約束と招きの言葉を、生涯持ち続ける日々でありたいものです。

 

   小閑記 

 あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである。

        ~ルカ21:3~4~

 旧約では神殿が神の家であり、新約では神に従う人々を指します。神殿の献金箱や、そこに入れるささげ物は、神に、何をささげるべきかを示しています。このささげ物によって、神の家を建て、霊によって、神の住居となるのです。

 

 主が弟子たちに献金箱の傍らに立って、有り余る物の中から献金する者や、生活に必要なものまでも、全てささげた婦人を見るように命じられたのは、正しい献げる心を教える目的があったと思われます。

 

 さて、キリスト者は神様にどれくらいの財産を、差し上げるべきでしょうか。

重役聖書にある十一献金でしょうか。それは持ち物ばかりではなく、キリスト者は持っているすべて、キリスト者の全てをささげるべきであります。しかし、これはキリスト者は何物をも所有してはならないということでしょうか。キリスト者は文字通りあの婦人のしたようにしなければならないのでしょうか。体と生活を支えるのに必要なものをささげなければならないのでしょうか。

 

 そうではありません。それは神様のお教えになられたことではありません。しかし、キリスト者は所有者としてではなく、神様の僕として行わなければなりません。キリスト者は自分の所有するすべてを、神様に対して、責任を持つ者として取り扱わなければなりません。自分と他の人々の利益のため、神様のご栄光のために。

 

 支配人は所有者ではありません。キリスト者は、神様より賜る様々な恵みの支配人として任ぜられた者です。支配人=キリスト者は神様から受けたものすべてを差し出さなければなりません。持って生まれた才能、恵みの賜物、地上的な財産、社会的な地位、これらすべてを持って神様に応答し、神様にささげる者は何と幸いなことでしょう。

 それが神様への献身・感謝の告白だからです。
 

   小閑記 

 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とする方を信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

        ~ローマ4:5~ 

人生や日々の生活も信仰生活も、何もかもがうまくいくことなど有り得ないことは誰もが認めるところです。信仰者も例外ではありません。あまり使いたくない言葉ですが「裏目に出る」ことはよくあります。全てのことが落胆の種となる時期があります。心の中に、なす術を見失う時、反省と自分を責めることのみが、全てを覆い尽くす時があります。

 

全てが苦痛で、罪で、偽善であるように思われます。「わたしはかくあると装っていたのではなかったか」と自分の信仰を疑い、破れと汚れに満ちた自分に心うめく時があります。神の御手を見失い、「信仰は弱まり、希望は揺らぎ、光は消えて、魂は闇となりぬ」と詩人は告白します。

確信と自由とを求めて生活していたキリスト者の多くが、このように嘆くのです。

 

このような「信仰の闇夜」の中に踏み込んだとしても、神様の愛と導きは、そのような私たちの心の側にあるのです。神様の御手を待つ思いが与えられていること、残されていることを思い出すことです。

 

たとえすべてのものから見捨てられても、「神様の愛の救いの御手は待っている」のです。「不信心な者を義とする方を信じる」ことに希望と光がそこにあることを、今一度覚える時を祈り待つのです。

 

「目には見えない御神」

雪が解けた道端に 咲いたルリ色の花に

目には見えない御神の 憐れみに触れ 恵みを見る

 

芽吹き始めた梢に さえずる小鳥の声に

目には見えない御神の 憐れみに触れ 恵みを聞く

 

与えられた賜物を 分け合うその優しさに

目には見えない御神の 憐れみに触れ 恵みを知る

 

              水野源三 第四詩集より

 

 

   小閑記 

 そして、わたしたちの主また救い主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。

           ~第二ペテロ3:18~

 キリスト者の願いは、成長することです。それは富み栄えることでないことは明らかです。神様から求められている成長は、神様から生み出されたのですから、霊的成長であることは明白です。ですから、私たち信仰が与えられている者は、日々の生活の中にそれが現れてこなければなりません。信仰の思いも、善き働き、業においても成長しなければなりません。善き業において貧しければ、信仰も貧しいと気付くべきです。

 

 キリスト者が最も用心しなければならないことは、キリスト者としての霊的成長を阻み、止めてしまう生き方に無意識に、あるいは怠惰と惰性の生き方に陥ってしまうことです。喜びのない聖書知識を蓄える時、人はそれを信仰の成長と思い込み、「傲慢」という重い病に罹ってしまうという危険もあります。「何時も目を覚ましていなさい」「謙遜でありなさい」というお言葉は、信仰者にとって、心すべきことです。

 「ますます豊かになりなさい」とは、霊的に謙虚でありなさいということでもありましょう。

 

 「知識」において「ますます豊かになりなさい」とは、どういうことでしょうか。今から後の時代は、AIの活用は生活を豊かにするでしょう。人間の知識よりもAI の情報量の方が多くなることは確かです。しかし、神様がお求めになっている「知識」は「己に死ぬ知識」「己を虚しくする知恵と信仰の霊的知識」のことです。そのお手本は、私たちの主イエス・キリストです。このキリストを見失った「知識や知恵」は、自分の性質を見せつけ、心の深いところの堕落、汚れ、醜さを見ることは出来ません。偽り、装うのです。

 

 「謙虚に心低くする知識の人」こそ、霊的成長であるのですから、それを乞い求めたいものです。 

 

 

   小閑記 

 悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要であれば、人の徳を高めるに役立つようなことばを語っている者の益になるようにしなさい。

      ~エペソ4:29~

 新しい年を迎えました。皆様に神様の祝福が豊かに与えられますようにお祈りいたします。

 「言葉」を話す能力は、神様から頂いた大きな賜物と言えます。「言葉」によって、私たちはお互いを理解し、思いを表現し、心の中にあることを語れます。また「言葉」によって、慰め合い、励まし合い、お互いの重荷を取り除き、闇の中に光をもたらし、助け合って共に歩む道を見出すこともできます。

 音楽も、心に感動を与えます。しかし、音は一瞬にして消えてしまいます。唇から出る「言葉」も消えてしまいますが、心に残る「言葉」は、時を経てより一層の輝きを増します。

 キリストの愛は「言葉」(聖書)に示され、信仰の宝として、一日を、一年を、そうして一生涯を支配するなら、この「み言葉」に信頼する歩みを祈り求めましょう。

 

 しかし、私たちの口から出る言葉が、聖書から離れ、自分の汚れと欲から出るなら、その結果は、明らかです。偽りのニュースとか、ヘイトスピーチは、社会を混乱させ、人に争いと憎しみをもたらし、凶器ともなります。

 聖書は、舌は火である、不義の世界である、それは全身を汚し、生きることすら破壊するものであると語ります(ヤコブの手紙)。100の素晴らしい言葉を語っても、1つの言葉ですべてを破壊することを、恐れをもって知るべきです。

 

 キリスト者の間で交わされる話の多くを聞く時、虚しい言葉、思慮のない言葉、悪い言葉、うわさ話が少ないとは言えません。であるからこそ、神様は私たちに注意せよ!と呼びかけています。この呼びかけのみ声こそ、今、私たちに必要な「神の言葉」として、日々大切にしたいものです。

 

   小閑記 

 それだから、神の安息に入るべき約束が、まだ存続しているにもかかわらず、万一にも、はいりそこなう者を、あなた方の中から出すことがないように、注意しようではないか。

            ~ヘブル4:1~

 今年の残りも、この月のみになりました。時は変わり、人は変わっても変わらないものに心を向けて、主の2018年を迎える備えをしましょう。

 神様のお言葉の中には、二つの強い対照の上に築かれているように見えても、不思議な調和があります。

 一方において、数々の言葉は、完全な救いと、開かれた扉、そして神様めさまが私たち一人、一人を守ってくださるという、確かな約束があります。この神に様から誰も私たちを引き離すことは出来ず、何物も、主イエス・キリストにある神の愛から奪い取ることはできません。

 しかし、聖書の他の個所では、私たちの危険は大きいとも教えています。もし私たちが目的に達したいと願うならば、気を配り、祈り、戦い、魂をきよめ、恐れおののいて救いのために労し、成長すること願い求めなければならないということです。

 この二つは似ても似つかぬもののですが、ともに真実です。それは、前者は神様に関することであり、後者は私たちに関することだからです。動かせぬもの、確実なもの、決して失敗せぬものは、私たちの救い主であり、父であられる神の内にあります。神と共にあれば、私たちは常に安全ですが、自分たちのことは常に恐れおののいていなければなりません。

 常に危険が潜むのは、私たちの心、内側にあります。

「あなたがたの父の許しがなければ、一羽のすずめも地に落ちることはない」。そして、「あなた方は、多くのすずめよりも、まさった者である」。

 このように、私たちは神の内にある時、安全であることができます。

 「しかし、恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい」。

 自分の弱さを恐れ、神にあることの幸いを知り、そこに生きようではありませんか。
HOMENext ≫
ブログ内検索
カウンター
★ごあんない★
毎月第一日更新
お便り・ご感想はこちらへ
お便り・ご感想くださる方は下記のメールフォームか住所へお願いいたします。お便りは「つのぶえジャーナル」の管理人のみ閲覧になっています。*印は必須です。入力ください。
〒465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207
緑を大切に!
お気持ち一つで!
守ろう自然、育てよう支援の輪を!
書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
217ff6fb.jpg 








「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

b997b4d0.jpg
 









「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
 a0528a6b.jpg









「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
4008bd9e.jpg
われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

0eb70a0b.jpg








さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

Copyright © [   つのぶえジャーナル ] All rights reserved.
Special Template : シンプルなブログテンプレートなら - Design up blog
Special Thanks :
Commercial message :