2019年9月  №146号 通巻831号
 

   「小閑記」

 

 しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

 

           =ルカ7:50

 

 私たちの日々の中に、親しい人に、家族に「ありがとう」「感謝します」という思いと言葉、意識を豊かに持ち、口に出来たら、その毎日は、暗く憂鬱になるでしょうか。不快に思うでしょうか。笑顔に変わることでしょう。

 

 この聖書のみ言葉は、私たちの一番望むことです。想像してみてください。

イエスご自身(救い主)の口から、「あなたの罪は許された」「あなたの信仰があなたを救ったのです」というお声を聞くことは、たぶん、地上で私たちが経験する、最大の喜びでありましょう。

 

 この喜びをこそ、多くの人は、人が熱心に慕い求めても、祈っても、主イエスへの信頼なくして得られものではないのです。このイエス様に出会うまでのこの女性も、そうであったでしょう。しかし、熱心は無駄ではありません。イエス様は言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのです」と。では、この女性を救った信仰には何があったのでしょうか。お手元の聖書をお開きになり、ルカによる福音書736節から50節を是非お読みになってください。そうして、その時の状況を想像してみてください。

 

 「命がけ」「わき目も振らず」という言葉がありますが、この女性の姿には

必死な思いで、人をかき分け進み、イエス様の足もとに、罪あるままの自分を投げ出したのです。その姿が、イエス様の言われる「あなたの信仰が・・・」というお言葉になったのです。

 

 この女性の姿は分かりやすいですが、自分に置き換える時、「自分を投げ出す」ことほど難しいことはありません。あるいは、祈りの時でも、神様とお二人の時でも、自分を曝け出すことは出来ません。ましてや、多くの人の前での、女性のあのような行動は、勇気ではなく、「罪を許されたい」という思いが、日々の生活の中にあったからこその行動ではないでしょうか。人それぞれに自分の中にある、得体のしれない邪魔者があるからです。でも、イエス様のみ前に進み出ましょう。

 「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」をいただくために。

   

救い主のうれしきみこえ 天よりの平和を敷きひろぐ。

   幸いみちたるその声に かぎりなき生命と喜びあり。

 

   「小閑記」

 

 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられるべきである。

          =ローマ12:2=

 

 生活の知恵として、私たちは多くの習わし、習慣を守ってきました。社会はそのようなもので秩序立てられ、維持されて来たところは沢山あります。「伝統」や「文化」には、深い意味合いがありますが、悪しき「伝統」「文化」のあることもまた事実です。

 人が最も興味を持つもの、最も欲するもの、自分の利欲となるものであれば、それがどんなに罪深く、人や社会に益しないことでも、下品なことでも、地位や富に関係なく、それをやるのが私たち人間の本性なのです。

 「神より生まれたものでなければ、それ以上のことはできない」のです。

 

 しかし、キリスト者は新しい人になったのですから、これよりも出来るはずなのです。聖書は教えます。この世につく者は自己中心である、と。キリスト者は全てのことをする出発点は、神様からいただいたキリストの愛をもっているものからスタートします。その愛とは、決して自分の私利、利得、名誉、あるいは名声を求めず、神のみこころを求めなければなりません。

 旧約の祭司が犠牲をささげるように、自分を神への生ける清い供え物としてささげるべきです。

 

 この感謝と信仰の証しとしての犠牲と奉仕において、たゆまぬ力を持つには、私たちはただ一つ、絶えず心を新たにしていなければなりません。また、世の人々を避けないで、世の習慣や習わしとは違った、違う生き方をしなければなりません。その目的のために、キリスト者として招かれ、救われたのです。その理由のためにこの世にいるのです。

 私たちは、寛容であるべきです。しかし曖昧であるべきではありません。多様さを認めることは大切です。しかし、妥協すべきことを求めてはいけないのです。この自覚が薄れる時、「地の塩、世の光」を失うのです。

 

 それをよく守り、勝利を得るキリスト者は幸いです。それは自分自身にとどまらず、人々に指針、道しるべ、良き信号機になるのです。

 神の栄光を現すために、その生涯を生きようとする姿こそ、今、キリスト者と教会は求められているのではないでしょうか。

 

  わが生くるは、ただ君(キリスト・神)ひとりのため

  君をぞわれは最も愛す、われに賜いし君が愛にこたえて。

 

 

  「小閑記」

 

 わたしのした事を何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません。

         =ヨハネ4:29=

 

 私たちは人に知られたくないものを、心に隠し持って生きているとも言えます。それを、日本人は時に、「墓の中まで持って行く」という言葉で言い表すところがあります。

 

 聖書の中に、「律法がなかったら、罪は死んでいた」とあります(ローマ2:1~、7:7~24をご参照ください)。

 

 この冒頭のみ言葉は、サマリヤの霊的にはまだ覆いのかかっていた心の目の女性が、井戸のほとりでイエス様にお目にかかった時のことを、このように叫びました。「わたしのした事を何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい」。

 

その人は昔の預言者でもなく、モーセでもありません。キリストであったのです。ペテロが浜辺で主にお目にかかった時、自分の罪を今までになく、はっきりと見なければなりませんでした。

ペテロは言いました。わたしはつまらない男です。危ない時には逃げ出します。わたしのことは構わないでください。行かせてください。わたしは何の値打ちのあることはできませんよ。イエスよ、わたしから離れてください・・・と。

 

イエス様の愛より発する光に照らされて、自分の罪と不貞、不信仰を見る時、その時でもなお恥と信仰の未熟さとの中にいるのです。

「あなたこそ神のキリストです」と告白し、わたしはあなたを知らないなど、言うはずがないと自負していたペテロ、激しい言葉で知らないというペテロは私たち一人ひとりです。

 

その時こそ、罪人を悔い改めさせるお働きをなさるのが救い主なのです。イエス様が救われるのは、自分が罪人であるとことを認める時です。しかし、信仰が与えられ、キリスト者になったその時から、実はこの「自分の罪人である自覚」は薄れていくのです。

もう救われている自分という間違った自覚、身勝手さに陥りやすいのです。

この自覚の希薄さは「信仰の老化・劣化」そのものであると自戒することを、ひと時も忘れない信仰と日々の歩みをしたいものです。

 

 

   小閑記

 

 わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはやわたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしが肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

                =ガラテヤ2:19~20=

 

 この聖句の先ず語ることは、キリストの救いのみ業は、私たちが自分でやり遂げたかのように、完全に私たちのものであるということであります。神の言葉は、一人の人が全ての者のために死んだので、すべての者はイエスにあって死んだのだという、言い尽くせない大きな慰めを与えるのです。こうして私たちはキリストと共に十字架につけられたのです。

 

 しかし、このように完全に私たちのものであることは、それにも関わらず、私たちの外側にあります。しかしそれは、実はキリストの内にあるのです。私たちのものであるものが、キリストにあって私たちの個人的な所有となるならば、私たちは、自分を全くキリストにささげなければなりません。

 主イエスが私たちのために負ってくださったすべての罪を、主に渡さなければなりません。こうして、私たちもキリストと共に、自らを十字架にかけられなければならないのです。

 

 なおも悪の力は私たちを苦しめ、傷つけ、打ち負かすかもしれません。しかし、私たちを罪み深い欲望の中に生かしめるほどに私たちを支配することはできません。私たちは二重の状態の中に入っています。私たちが死んだと同時に、私たちの中にある罪も死んだのです。

 「あなたは死んだのである。それゆえ死につけられたのである」と聖書は言います。死につけられた者は、キリストと共に、十字架につけたままにしておかねばなりません。私たちの命はもはや罪に従い、その欲望に服従することになるのではありません。

 私たちの命は、キリストにあり、キリストにあってすべての悪と戦い、日ごとに死ぬのです。それはもはや、「わたし」すなわち、私の内にある悪―が命の権威を持ち、私たちの中に生きることを許されているのではなく、キリストが権威のすべてなのです。

 信仰によって、私たちは主イエスが全てであると主張しますし、この権利は神より与えられたものです。

 この神からの愛に生きるのがキリスト者なのです。

 

   小閑記

 

 わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。

               =マタイ4:19=

 

 多くのキリスト者は、神のために何をしているか、何をしてきたかと考え、それを生涯の重荷と感じてしまうことがあります。

 母親は、毎日毎日、また来る日も来る日も、来る年も来る年も、ある場合にはそのほとんど一生の間、洗濯をしたり、料理をしたりして、一日を終わっても、その働きの評価、結果は数値では見られません。

いろいろの職業があります。事務の仕事は書いたり、帳簿を付けたり、工場で働く人は機械に着き、決まった工程の仕事をし、農家の人は畑や森で働いています。単調で、日常的なその働きが神のために何の結果があるのだろうかと思う時もありましょう。しかし、その一つ一つは小さいものでも欠くことの出来ないものです。「労働は神礼拝」そのものなのです。

 

 冒頭のイエス様が言われたことを、考えてみましょう。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。

 このみ言葉は12弟子に特に適用されたものですが、イエス様に従う全てのキリスト者は、世の中で、どのような地位や職業にあっても、人間を漁る漁師になることは、全く真実です。

 

神の国においての問題は、私たちの性質の問題です。もし私たちが、イエス様のみ旨を第一として生き、働くなら、私たちは、このイエス様に従うのであり、主は私たちを人間をとる漁師にしてくださるのです。これは決して間違いのないことです。ただ、宣教師、牧師、あるいは説教者のみが人々を神のもとに連れてくることが出来ると考えることは、神様のみ旨ではありません。

 むしろ、日々のその為すことにおいて、救い主を証ししていることに感謝を覚えるとき、そこに、ついていく「献身の思い」があるのです。

 

「・・・あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。・・・自分の益ではなく多くの人の益を求めて、・・・」(Ⅰコリント10:31、33)。

 

 

   小閑記

 

 「わたしに何をしてほしいのか」

       =ルカ18:41=

 

 私たちは日々の生活の中に、たくさんの願いや願望をもって時を過ごして生活しています。誰かに、あなたは私に何をしてくれますかと言われたり、私のしてほしいのはこれこれですが・・・ということはおありですか。買い物に行き、欲しいものが手に入るとささやかでも喜びを得ます。病気の時、お医者さんに癒してほしいと願います。

 

 ところで、思いがけない時にあなたは、イエス様が「わたしに何をしてほしいのか」と問われた時、何をどのように言うことが出来ますか。私自身は戸惑ってしまうでしょう。「わたしをあわれんでください」と言えるでしょうか。イエス様が救い主であると知り、信じている人は、私を憐れんでください。私の罪をお許しください。苦しみや悲しみから救い出してくださいと願うことは出来るでしょう。

 

 イエス様が祈っている私たちのところに来られて「わたしに何をしてほしいのか」とお聞きになったとしたら、私たちの日々祈り求めている事柄を素直にイエス様にお応えできるでしょうか。ありきたりの願いであったり、自己中心の祈りであったりで、真に必要な願いと言えないのではないかと考えるとしたら、このイエス様の問いかけは、私たちには欠くことのできない大切な事柄と言えます。

 

 聖書の中に「また、祈る場合、異邦人のようにくどくどと祈るな。彼らはことば数が多ければ、聞き入れられるものと思っている」と言われています。

 私たちが祈りによって神の前に出る時、自問してみようではありませんか。

私が今、何を望んでいるのか。実際に何が必要なのかを、神様に申し上げているでしょうか。

 

 心疲れている時、心渇いている時と、何もかも手に入っている時の祈りに、どのような違いがあるでしょうか。

 イエス様は、疲れたものは私のところに来て休みなさいと言い、思い悩むなと言い、隣人を愛しなさいと言われました。そうして「神の国と神の義を求めなさい」とお教えくださいました。

 

 この「わたしに何をしてほしいのか」の神様からの問いかけを、本当に大切にしたいものです。

 

 

  小閑記

  弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにした。

               =マタイ21:6=

 

私たちキリスト者が、イエス様がするようにとお命じになったとおりに従うならば、物事の考え方においても、日常の実生活においても、多くのことがもっと簡単になっていたことでありましょう。自分の価値判断やいろいろの事情が優先し、ことを複雑・不透明にすることは多々あります。

 小さいことと思われることでも、救い主のためにそれがなされる時は、偉大なものとなります。ロバの綱をとってイエス様のもとへ連れてくるだけで、主のみ栄と他の人々の役に立つことができます。渇く者には水を飲ませ、悲しむ者には、そっと声をかけることで、・・・。キリスト者の生活が、キリスト教的生活とこの世的生活の部分に分けられるとする考えがありますが、それは、神様のお命じになったという視点から考えるならば、成り立たないことです。

 

 神様を信じる人々は、神の教会の中におり、どこで生き、どこで働いていようとも、神様のみ前に立ち、常に神の民の役割を神様から担っています。もし、信仰の生活、教会の生活とこの世の生活、社会の生活とに分かれているなら、それは偽善という罠に陥ってしまうでしょう。

 

 今はあまり見られなくなりましたが、教会の礼拝に出る時、身支度して礼拝するのが当り前でした。正装したものですが、最近はそれがそうではなくなりました。普段着、労働着がいけないというのではないですが、無頓着になるならやはり一考すべきではないでしょうか。日々の生活の延長のままの礼拝には、衣服の乱れ、心の乱れに現われるとするならば、心を正す、あるいは信仰を整えることで意味あることと思いますが如何でしょうか・・・。

 

 大切なことは、祈りと感謝をもってイエス様のために働くときの心の、信仰の制服でありましょう。

 主を信じる人として、すべてのことが公の礼拝であり、イエス様のための仕事であるとみなしたいものです。

  誠実なる生活をイエスのためになし、

  わがすべてに主を喜ばせ

  よろこばしき、自由なる心もて

  忠信なる者となるは、わがために、祝福の道とこそなれ。 

 

 

   小閑記

 天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。

            =マタイ13:44=

 

 私たちがあるとき、キリストに出会い、キリストの中に何かを見出すと、この世で得られる最上の清らかな喜び、最大の宝を得ることになります。しかし、多くの人々を躓かせるものは、キリストお一人のために、すべてを捨てなければならないということです。

 

 なぜ、私たちはキリスト者となって、私たちの望み、欲するものを所有し、愛してはならないのでしょうか。多くの人はこの考えを正しいとは認めながらも、去って行ってしまいます。そうしてキリスト教とは、無理な厳しい要求をするものだと思うのです。

 

 もし、あなたもそう思い、そういうご意見なら、お尋ねします。もしも夫なり妻が、多くの男や女と愛を分かち、生活を共にするとすれば、なんとお考えになりますか。それでうまく行くとお考えでしょうか。それは不可能だということはおわかりでしょう。しかもその不可能をキリスト者になろうと思う時に、愚かにもそれを心に持ち続けたいと思うのです。「二人の主人に仕えたいと思うのです」(神と富、信仰の喜びとこの世の喜びを)。

 

 私たちが、他のものをキリストを愛すると同じように、愛そうと思うなら、人生の最も尊い宝であるキリストを所有することは出来ません。

 「わたしよりも父または母を愛するものは、わたしにふさわしくない」「息子よ、娘よ、あなたのこころをわたしに渡しなさい」。

 

 もし、あなたの人生の最大の成功と恵み得ようとするならば、生きるにも、死においても、永遠にあなたを飾る輝きを身に着けたいと望むなら、自分を全くキリストに捧げなければならないのです。この決心を挫殺しても日々求められるのがキリスト者の信仰生活です。諦めないで、追い求めましょう。

 

 私たちを完全に所有する、ただお一人の方として主イエス・キリストを受け入れ、選んだこの賢い選択・決断の行いを、生涯の宝として持ち続けたいものです。
 <バラ先生ご使用の聖餐盃>

 

   小閑記

 あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。

川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。

 あなたが日の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。

               ~イザヤ43:2~

 

 人がこの世を生き抜くことは、若い時に考えるほど、ことに年月を積み重ねるキリスト者にとって、そんなに簡単なものでないことを体験してきました。長く生きれば生きるほど、私たちはますます、人生のさまざまの出来事に巻き込まれ、人生の苦闘の中に入り込みます。

 私たちはこの困難を切り抜けさえしたら、この時期を過ぎさえしたら、もう少し良くなるだろう、楽になるだろう、という考え方をします。しかし、多くの人たちには、まだまだ深い河を渡らなければならなかったり、鉄を鍛える火を新たに通らなければならなかったりすることが多いのも事実です。

 道は終わりまで狭いということを学ぶのもまた人生です。

 

 しかし、それが真実なのです。神様はわたしたちが火の中、水のなかを通る時、共にいてくださり、無事に通らせてくださるというこの約束は、なんと素晴らしいことでしょう。

 もしこのことが最悪の場合、どうしょうもないと思われる時に、最も強く神様との交わりを経験する理由は、神様が私たちの力及ばないところに、共にいてくださるからであります

 ダニエルは、獅子の穴で、神様が共におられるという証しを得、燃えさかる火の中を、神の子のように三人の友と共に通りました。このように私たちが神様のみ顔を仰ぎ見て、神様の助けを得る時、人生の最大の重荷を背負う時、それが喜びに変わるのです。神様に心から感謝している時の祈り、讃美の歌声本当に美しいものです。

 

 「憐みの御手もって」

主よ 受け入れる者を

 御民にふさわしき者とするために

  憐みの御手をもって いさめたまえ いさめたまえ

主よ 受け入れる者を

 御心を行う者とするために

  憐みを御手をもって こらしめたまえ こらしめたまえ

主よ 受け入れる者を

 御栄えを顕わす者とするために

  憐みを御手をもって 鞭打ちたまえ 鞭打ちたまえ

       水野源三著 第四詩集「み国をめざして」

 

  小閑記

  

 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。彼らが目をあげると、イエスのほかには、誰も見えなかった。

       ~マタイ17:7~8~

 NHKのテレビの1231日の放送の定番は「ゆく年くる年」で、この開始は、最初はラジオ放送で1927年でした。当時は「除夜の鐘」であったと聞いております。この放送をラジオの前で家族揃って聞き、新年を迎えた記憶のある方もおられることでしょう。

 誰もが、何かの区切りをつけて、新しいスタートとしたいと思うのは、その日々が順風満帆ではなく、重い何かを背負っての歩みであったからなのかもしれません。

 

 冒頭の聖句は、私たちの人生をある出来事で示していると思うのです。

 波が舟を越えて荒れ狂った時、またイエスがゲッセマネで捕らえられた時、弟子たちが恐れたのを理解することは難しいことはありません。けれども、そのすべての中に、キリスト教の深い真理があるのです。

 もしキリスト者が長い間、闇の中をさ迷い、苦しい戦いの中に居続けるなら、不安と絶望、あるいは、信仰を捨ててしまいたくなる思いになるのです。「私はキリスト者であるのだろうか、私は神にある勝利と喜びを経験することなど、ないのではないかと疑いの中に落ち込みます。また、心に喜びがわき、幸いを手にする時、また再び苦しみや試練に出会うのではないかと、先々のことが心配になります。

 

 どうしてこうなるのでしょうか。そのような時こそ、キリスト者はイエス様のほか、何事にもイエス様のほかには、救いはないという信仰に導かれるということを、苦難や恐れから救い出してくださるということへと導きだしてくださることを、このマタイのみ言葉のイエス様の「『起きなさい、恐れることはない』彼らが目をあげると、イエスのほかには、誰も見えなかった」ということの中に示されているのです。

 迷い、さ迷い、疑いの日々、人生であればこそ、イエス様を離れてた、この私たちの上に手を置いてくださるお方のあることを、あらためて覚えたいものです。

 

 

  小閑記

ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人は幸いである。

      ~詩篇146:6~ 

 

 この「さいわい」とはどのようなことでしょうか。人それぞれというようなことではありません。

 

神様が言われる「さいわい」を考えて、2019年の備えをするのも、また意味があると思いませんか。聖書の中では、上る階段、底なしに落ちる階段、解放と平和を求める魂の叫び。深いため息から、救われて永遠の命に至るまでのことを「さいわい」という面を持っていることを教えています。

 

「さいわい」・・・悲しみと罪よりの開放を願い、心から神との平和を願うことです。それは恵みの座にひれ伏し、憐れみと神の子としての資格を受けることです。

 

「さいわい」・・・それはまた、神の訓練のもとに生きることです。日々の人生の激しい戦いに私たちが傷付き、罪の誘惑に打ちのめされ、自分自身の弱さに絶望するとき、私たちは救い主であり、父としての神に近く寄り添い、慰め、励ましのみ手を差し伸べて下さるその恵みは、真の「さいわい」です。

 

「さいわい」・・・心の傷が癒され、全てのことに主イエス・キリストのみ名によって感謝し、新しい思いへと立ち返らされる信仰の喜びのときです。

 

 しかし、真のこの「さいわい」は神のみ国でのことでもあります。

 

 イスラエルよ、あなたはしあわせである。

 だれがあなたのように、 

主に救われた民があるであろうか。

  主はあなたを助ける盾、

あなたの威光のつるぎ、

あなたの敵はあなたにへつらい服し、

あなたは彼らの高きところを踏みすすむであろう。 申命記33:29
 

  小閑記

 

 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は二度と外へ出ることはない。

           ~黙示録3:12~ 

 「柱」という一文字には、人それぞれに重みをもち、その時々に意味を持つ言葉と言えます。

 言うまでもなく、「柱」というものは、支えであり、力であります。「柱」は家をまとめ、強くします。大建築物には「大黒柱」があり、また装飾のためにも用いられます。

 

 この10月号のみ言葉では、単なる建物や生き方にかかわることではありません。神様からの「恵み・恩寵」とも言えるお言葉のことです。イエス様は、勝利を得る者を、「わたしの神の聖所における柱にしよう」と言われます。これは単に、勝利を得る者が神と共にいる家で、上席を得るということばかりでなく、現在、ここで、地上の神の宮で、勝利を得るキリスト者は、「柱」となることを許されるという、深い恵みのお言葉・約束です。

 

 神の民は、聖書によりますと「神の宮」であります。「あなたがたは神の宮であって、神のみ霊が自分のうちに宿っていることを知らないのですか」。と言われているのです。

 

 神の宮が支える力を必要とする場があるとすれば、それはこの地上であります。わたしたちの中の神の家が完全に立っているためには、勝利を得るキリスト者によって支えられなければならないのです。

 

 わたしたちの中に、そういう方がおられるのです。それは「あなた」です。人それぞれの信仰の歩みがあります。人は、わたしはだめだ、信仰心が弱い、と言われる方がおられます。しかし、本当にそうでしょうか。信仰の歩みの中で、神を愛し、讃美しない信仰者はいるでしょうか。「主の祈り」を口にしない人はいるでしょうか。

 

 信仰者の歩みは、その生涯を通して、祈りと隣人への愛ととりなしの祈りを捧げてきた歩みなのです。人からは何の報酬もなく、時には敵意に満ちた非難も受けるでしょう。それでも、祈らされ、祈らずにおれないのが「信仰者」なのです。

 それは、神から賜った「柱」の感謝のしるしだからです。「神の国」は、こうして受け継がれて来たのです。そうして後に来る人へと受け継がれていくのです。

 

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青木一益
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上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
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電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
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東京大学大学院学際情報学府博士課程
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