2018年7 月 月号 №130 通巻817号 号
 

   『小閑記』 

  わたしたちが信じるのは、もうあなた方が話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救い主であることが、分かったからである。

           ~ヨハネ4:42~

 

 今はあまり使われない言葉に「芒種(ぼうしゅ)」というのがあります。種まきや田植えなどで農家が忙しくなる頃のことをいうのだそうです。

「つのぶえジャーナル」をお読みの皆様の上に神様のお恵みが豊かに与えられますように、お祈りいたします。

 

 私たちがキリストとの出会いを、少し考えてみようではありませんか。私たちは直接お目にかかることも、そのお声を聴くことなどできません。しかし、他の人々が話してくれたので知り、信じたのです。子供たちの信仰の継承は、両親や親が信じているから信じ、教会学校で教わったから理解するのです。

 では信仰はどうでしょうか。それが役立ち正しいから信じるのです。近くに信仰に生きている人を知ることは有益で、感謝すべきことです。しかし、子供たちや若者が、生涯でもっとも尊い「若き日(時)」にそれを経験できた幸いは宝です。時に拒み、あざけることもありますが、心に刻まれたみ言葉は決して消え去ることはないのです。

 

 キリスト者の務めは明白です。ただ人々をキリストの元に連れて来ることです。そのためには、語り、聞かせ、証ししなければなりません。一度に完成させることは不可能です。「続けること」。伝えることを学ばなければなりません。信じていなければ出来ません。

 

 聖書の中にあるスカルの人々をイエス様のもとへ連れて来たのはその信仰であり、彼らの経験によって、主を救い主として知らしめたのです。私たちが十分に完全でなくてもそれを用いることです。知らない人々に伝え、知らせることです。自分自身が導かれたように導かれることを期待し、信じて待つことです。与えられている救いの恵みを、喜びとして証しすることです。それを見た人は、あなたがそうであったように、キリストを知りたいと思うようになるのです。

 遅過ぎることは決してありません。今がその時なのです。

 

 

   小閑記 

 

 あなたがたの神は言われる。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終わり、その咎はすでにゆるされ、もろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。

          ~イザヤ40:1~2~

 

 神の民の生活環境は、必ずしも明るいものではありません。これを否定する人は、この世も自分をも知ってはいないのです。キリスト者の歩かなければならない道は「細く狭い」と神は言われました。危険への恐れ、取り残される恐れ、他の人々の救いのための責任、あるべき、またありうる恥辱感、その他の多くのことが、キリスト者の信仰をぐらつかせ、恐れさせます。

 

 そのような時にキリスト者も信仰の力を忘れたかのように、嘆きます。「主はわたしを捨てられた。主はわたしを忘れた」と。

 

 しかし、神はそのような時でも、わたしたちを知っておられ、み言葉の中に主の愛に満ちた慰めをお置きになってくださいました。

 

「女がその乳飲み子を忘れ、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。みよ、わたしはたなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある」。

 

わたしたちは服役の期は終わり、そのとがはすでにゆるされ、わたしたちはもろもろの罪のために、二倍の刑罰を主の手から受けたのです。それは、わたしたちによって十分な慰めではないでしょうか。

 

わが手の傷を忘れ、わが十字架、わが血、わが苦しみとわが痛き悲しみを忘れてはならない。否、シオンはわたしの最も大きいよろこびである。

 

この神の恵みと祝福こそ、キリスト者の日々、人生の礎です。

 

   小閑記 

 

 ご自身のみ子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして。み子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。

         ~ローマ8:32~

 

 私たち信仰者が、人生のこまごまとしたことを恐れたり、案じたりするのを見るのは、不思議なことでもあり、また悲しむべきことでありますが、それが信仰の姿であります。

 しかし、まず私たちは、神様は世を造られる前に、恵みによって私たちのことを思いはかられたことを信じており、主なる神様は、そのみ子のお命を私たちのために与えられたことを信じております。

 

私たちはまた、主のみ名による、罪の赦しを得ていること、主は私たちを、「神の子」とせられたことを信じております。しかし、神様が私たちのためにしてくださったすべての大いなることを、いや、その大いなることの中でも最大切なことを信じている事実にもかかわらず、私たちは人生の日ごとの重荷を運び続けているのです。

 

私たちは神様は救い主であると信じていますが、私たちの父としての神様を信頼しません。私たちは神様が失われた罪人のために、天国を開いてくださると信じていますが、私たちの日ごとの生活において、神様が助けてくださることを疑つてしまいます。自分と自分の家族はどうなることかと父親は憂い、考えます。何もしてやれなくなったら、子供たちの世話は誰がするのだろうかと母親は0嘆きます。

 

私たちが見たことのない日、また決して見ないであろう日を、私たちは不安と言い、重い荷物と肩に背負っていると思います。私たちのために面倒を見ると神様が約束されたことについて、私たちの方で疑うのです。主は私たちに、なにも心配することはない、すべての心労を主に委ねなさいと言っておられます。

この神様の愛と約束と招きの言葉を、生涯持ち続ける日々でありたいものです。

 

   小閑記 

 あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである。

        ~ルカ21:3~4~

 旧約では神殿が神の家であり、新約では神に従う人々を指します。神殿の献金箱や、そこに入れるささげ物は、神に、何をささげるべきかを示しています。このささげ物によって、神の家を建て、霊によって、神の住居となるのです。

 

 主が弟子たちに献金箱の傍らに立って、有り余る物の中から献金する者や、生活に必要なものまでも、全てささげた婦人を見るように命じられたのは、正しい献げる心を教える目的があったと思われます。

 

 さて、キリスト者は神様にどれくらいの財産を、差し上げるべきでしょうか。

重役聖書にある十一献金でしょうか。それは持ち物ばかりではなく、キリスト者は持っているすべて、キリスト者の全てをささげるべきであります。しかし、これはキリスト者は何物をも所有してはならないということでしょうか。キリスト者は文字通りあの婦人のしたようにしなければならないのでしょうか。体と生活を支えるのに必要なものをささげなければならないのでしょうか。

 

 そうではありません。それは神様のお教えになられたことではありません。しかし、キリスト者は所有者としてではなく、神様の僕として行わなければなりません。キリスト者は自分の所有するすべてを、神様に対して、責任を持つ者として取り扱わなければなりません。自分と他の人々の利益のため、神様のご栄光のために。

 

 支配人は所有者ではありません。キリスト者は、神様より賜る様々な恵みの支配人として任ぜられた者です。支配人=キリスト者は神様から受けたものすべてを差し出さなければなりません。持って生まれた才能、恵みの賜物、地上的な財産、社会的な地位、これらすべてを持って神様に応答し、神様にささげる者は何と幸いなことでしょう。

 それが神様への献身・感謝の告白だからです。
 

   小閑記 

 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とする方を信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

        ~ローマ4:5~ 

人生や日々の生活も信仰生活も、何もかもがうまくいくことなど有り得ないことは誰もが認めるところです。信仰者も例外ではありません。あまり使いたくない言葉ですが「裏目に出る」ことはよくあります。全てのことが落胆の種となる時期があります。心の中に、なす術を見失う時、反省と自分を責めることのみが、全てを覆い尽くす時があります。

 

全てが苦痛で、罪で、偽善であるように思われます。「わたしはかくあると装っていたのではなかったか」と自分の信仰を疑い、破れと汚れに満ちた自分に心うめく時があります。神の御手を見失い、「信仰は弱まり、希望は揺らぎ、光は消えて、魂は闇となりぬ」と詩人は告白します。

確信と自由とを求めて生活していたキリスト者の多くが、このように嘆くのです。

 

このような「信仰の闇夜」の中に踏み込んだとしても、神様の愛と導きは、そのような私たちの心の側にあるのです。神様の御手を待つ思いが与えられていること、残されていることを思い出すことです。

 

たとえすべてのものから見捨てられても、「神様の愛の救いの御手は待っている」のです。「不信心な者を義とする方を信じる」ことに希望と光がそこにあることを、今一度覚える時を祈り待つのです。

 

「目には見えない御神」

雪が解けた道端に 咲いたルリ色の花に

目には見えない御神の 憐れみに触れ 恵みを見る

 

芽吹き始めた梢に さえずる小鳥の声に

目には見えない御神の 憐れみに触れ 恵みを聞く

 

与えられた賜物を 分け合うその優しさに

目には見えない御神の 憐れみに触れ 恵みを知る

 

              水野源三 第四詩集より

 

 

   小閑記 

 そして、わたしたちの主また救い主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。

           ~第二ペテロ3:18~

 キリスト者の願いは、成長することです。それは富み栄えることでないことは明らかです。神様から求められている成長は、神様から生み出されたのですから、霊的成長であることは明白です。ですから、私たち信仰が与えられている者は、日々の生活の中にそれが現れてこなければなりません。信仰の思いも、善き働き、業においても成長しなければなりません。善き業において貧しければ、信仰も貧しいと気付くべきです。

 

 キリスト者が最も用心しなければならないことは、キリスト者としての霊的成長を阻み、止めてしまう生き方に無意識に、あるいは怠惰と惰性の生き方に陥ってしまうことです。喜びのない聖書知識を蓄える時、人はそれを信仰の成長と思い込み、「傲慢」という重い病に罹ってしまうという危険もあります。「何時も目を覚ましていなさい」「謙遜でありなさい」というお言葉は、信仰者にとって、心すべきことです。

 「ますます豊かになりなさい」とは、霊的に謙虚でありなさいということでもありましょう。

 

 「知識」において「ますます豊かになりなさい」とは、どういうことでしょうか。今から後の時代は、AIの活用は生活を豊かにするでしょう。人間の知識よりもAI の情報量の方が多くなることは確かです。しかし、神様がお求めになっている「知識」は「己に死ぬ知識」「己を虚しくする知恵と信仰の霊的知識」のことです。そのお手本は、私たちの主イエス・キリストです。このキリストを見失った「知識や知恵」は、自分の性質を見せつけ、心の深いところの堕落、汚れ、醜さを見ることは出来ません。偽り、装うのです。

 

 「謙虚に心低くする知識の人」こそ、霊的成長であるのですから、それを乞い求めたいものです。 

 

 

   小閑記 

 悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要であれば、人の徳を高めるに役立つようなことばを語っている者の益になるようにしなさい。

      ~エペソ4:29~

 新しい年を迎えました。皆様に神様の祝福が豊かに与えられますようにお祈りいたします。

 「言葉」を話す能力は、神様から頂いた大きな賜物と言えます。「言葉」によって、私たちはお互いを理解し、思いを表現し、心の中にあることを語れます。また「言葉」によって、慰め合い、励まし合い、お互いの重荷を取り除き、闇の中に光をもたらし、助け合って共に歩む道を見出すこともできます。

 音楽も、心に感動を与えます。しかし、音は一瞬にして消えてしまいます。唇から出る「言葉」も消えてしまいますが、心に残る「言葉」は、時を経てより一層の輝きを増します。

 キリストの愛は「言葉」(聖書)に示され、信仰の宝として、一日を、一年を、そうして一生涯を支配するなら、この「み言葉」に信頼する歩みを祈り求めましょう。

 

 しかし、私たちの口から出る言葉が、聖書から離れ、自分の汚れと欲から出るなら、その結果は、明らかです。偽りのニュースとか、ヘイトスピーチは、社会を混乱させ、人に争いと憎しみをもたらし、凶器ともなります。

 聖書は、舌は火である、不義の世界である、それは全身を汚し、生きることすら破壊するものであると語ります(ヤコブの手紙)。100の素晴らしい言葉を語っても、1つの言葉ですべてを破壊することを、恐れをもって知るべきです。

 

 キリスト者の間で交わされる話の多くを聞く時、虚しい言葉、思慮のない言葉、悪い言葉、うわさ話が少ないとは言えません。であるからこそ、神様は私たちに注意せよ!と呼びかけています。この呼びかけのみ声こそ、今、私たちに必要な「神の言葉」として、日々大切にしたいものです。

 

   小閑記 

 それだから、神の安息に入るべき約束が、まだ存続しているにもかかわらず、万一にも、はいりそこなう者を、あなた方の中から出すことがないように、注意しようではないか。

            ~ヘブル4:1~

 今年の残りも、この月のみになりました。時は変わり、人は変わっても変わらないものに心を向けて、主の2018年を迎える備えをしましょう。

 神様のお言葉の中には、二つの強い対照の上に築かれているように見えても、不思議な調和があります。

 一方において、数々の言葉は、完全な救いと、開かれた扉、そして神様めさまが私たち一人、一人を守ってくださるという、確かな約束があります。この神に様から誰も私たちを引き離すことは出来ず、何物も、主イエス・キリストにある神の愛から奪い取ることはできません。

 しかし、聖書の他の個所では、私たちの危険は大きいとも教えています。もし私たちが目的に達したいと願うならば、気を配り、祈り、戦い、魂をきよめ、恐れおののいて救いのために労し、成長すること願い求めなければならないということです。

 この二つは似ても似つかぬもののですが、ともに真実です。それは、前者は神様に関することであり、後者は私たちに関することだからです。動かせぬもの、確実なもの、決して失敗せぬものは、私たちの救い主であり、父であられる神の内にあります。神と共にあれば、私たちは常に安全ですが、自分たちのことは常に恐れおののいていなければなりません。

 常に危険が潜むのは、私たちの心、内側にあります。

「あなたがたの父の許しがなければ、一羽のすずめも地に落ちることはない」。そして、「あなた方は、多くのすずめよりも、まさった者である」。

 このように、私たちは神の内にある時、安全であることができます。

 「しかし、恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい」。

 自分の弱さを恐れ、神にあることの幸いを知り、そこに生きようではありませんか。
 

   小閑記 

  わが魂よ、お前の平安に帰るがよい。主は豊かにおまえをあしらわれたからである。

            ~詩篇116:7~

 私たちの心の平安は本当にもろいものです。大きな出来事に出会うこと以上に、身近に起こる日常の些細な出来事に、心が小さくなるものです。その原因は、人間の未熟さ、不完全さにあるかのように思われますが、実は聖書は、サタン(悪魔)が地上から、人の心から平安を取り去るために、あらゆる手段を尽くす、と言います。サタンは神の聖徒を苦しめることに楽しみを見出し、サタンが面倒を起こすことが出来る時に、サタンの持つ矢は鋭く、毒を持っているその矢で攻撃してくるのです。

 サタンの攻撃には微塵の憐みもなく徹底的です。巧みに、攻撃を受ける者の自分の弱点・気質に取り入り、短気で怒りやすい者は、キリスト者であっても、舵のない船のようにさ迷うのです。

 

 真剣に神による平安を失いたくないと願う人は、よくよく注意しなければなりません。

 魂の平静を失わせるものに、「失敗の生活」があります。この世で身を立てたいと定めた目的を達成しない時、また幸福を与えるだろうと考えたことが、損失、恥辱、不名誉などをもたらした時、そういう時にキリスト者でも神への信頼が弱められます。

 

 冒頭の詩篇の作者は、こういうことの中に巻き込まれたのです。しかし今や、作者はすべてのことを異なる角度から私たちに見せます。

 「主は豊かにおまえをあしらわれたからである」と。そして、自分の魂に神による平安に帰るように命じるのです。

 この勧めは、目先のことではありません。自分の生涯の回復なのです。「主は豊かにあしらわれる」のです。この神による愛の「あしらい」に生きようではありませんか!

 

 

 

   小閑記 

  「しかし、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」。

      ~ヨハネ6:9~

 神様は人間の世界の中に、心に二つの驚くべき力、すなわち、祝福と呪いという力をお置きになりました。時にそれは隠されていますが、その流れは時代を超えて、あらゆる人の人生を通じて、国家であろうと、社会であろうと、家族であろうと、流れています。

 私たちが神様からの祝福を受けている時には、常に豊さがそこにあります。今は秋です。稔り豊かに育ち、収穫を待っています。しかし、呪いが私たちの上に来れば、目には見えない虫たちが全ての物の中に、潜り込み、全てを食い尽くした時、私たちの手からすべてのものが消し去られます。十分にあったところが、わずかなもののために破壊されてしまいます。

 夢、幻と消え去る。これが、神様が私たちに語り掛ける人生の姿です。

申命記28章には「もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。もし、あなたがたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福をあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。・・・。(28:1~68)とあります。

 神の祝福を得るためには、何をしたら良いのでしょうか。その答の一部は、このように考えられるのではないでしょうか。

 現在のあなたの持ち場において、正直、勤勉な働き人におなりなさい。自分の持っているもので満足し、他をうらやまぬことです。持っているものを大切にし、できるだけ節約し、助けを求めているところへ届け、感謝して支えることです。すべて物の所有主であられる神が、それをお求めなのです。

 混沌としている今、求められていることは、「主の祈り」です。

 

「プロテスタントの主の祈り」

 天にましますわれらの父よ 願わくばみ名をあがめさせたまえ

 み国を来たらせたまえ みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ

 われらの日用の糧を 今日も与えたまえ

 われらに罪を犯す者を われらがゆるすごとく
  われらの罪をも許したまえ

われらをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ

国と力と栄とは 限りなくなんじのものなればなり  アーメン

   小閑記 

 

 しかし、働きはなくても、不信心なものを義とする方を信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

           ~ローマ4:5~

 人には立派にその信仰生活をされている方が数多くおられます。しかし、それは完璧・完全という意味でのものではありません。生きているのですから、数多くの落胆や苦悩、なすべきことの失敗や落ち度も多々あります。自分を責めこともあります。

 自分の心を素直に、正直に見つめ、向き合う時、時にすべてが偽善であるかのように思えることもあります。「わたしはかくあると装っていたのではないか」と心は呻くことも事実です。内なる心は、破れと汚れに思えることもあります。

「わたしは幼子が父のもとに行くように、神のもとに行っていた。もはや、私は救われているとあえて信じることはしない。神を父と呼ぶことが出来ない。私は養子の心を失った。神の霊は、わたしが神の子であると言うことをわたしの霊は証してはいない。・・・」

 確信と、自由とをもってキリスト者の生活をしていた多くの者が、このように嘆くのです。

 

 もしこのような「信仰の暗闇」に入り込んでしまったとき、忘れてならないことがあります。それは、神が約束してくださっている「神の子としての権利」の有ることを・・・。適切な言葉ではありませんが「罪深い者の権利」です。キリスト者は罪深い人以上に悪い者にはなれません。すべてのものが見捨てても、この「権利」を持っているのです。

 それは、不信心な者を義とするお方を信じていること、この事実に立ち、打ち砕かれ、心折れても、この「権利」によって救われていることを・・・。 

 

   小閑記 

 わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

           ~ガラテヤ2:19~20~

 キリスト者の生きる姿勢を示す言葉に「献身」と言うのがあります。一般的には牧師を志すときに、この「献身」に者を付けて「献身者」と言われています。

 この聖句がまず語ることは、キリストの救いのみ業は、私たちが自分でやり遂げたかのように、信じ難いことですが、実際は違いますが、完全に私たちのものであるということであります。神の言葉は、一人の人がすべての者のために死んだので、すべての者はキリストにあって死んだという、言い尽くせない大きな慰めを与えられているのです。こうして私たちはキリストと共に十字架につけられたのであります。

 

しかし、このように完全に私たちのものであるのに、それにもかかわらず、私たちの外側にあります。それはキリストの内にあることだからです。私たちのものであるものが、キリストにあって私たちの所有となるならば、私たちは自分を全くキリストに捧げなければなりません。本当に信じ難いことですが、自分の罪と汚れを主に渡す信仰に立たなければなりません。

 

 現実にキリスト者の日々は、なおも悪の力が私たちを苦しめ、傷つけ、打ち負かすのです。しかし、私たちは悪の奴隷ではないのです。罪み深く、不完全な信仰者でも私たちの支配者は救いの神、愛と許しの神なのです。肉のこの世界に生きていても、支配者は神なのです。

 聖書の中に「あなたは死んだのである。それゆえ死につけられたのである」と言われています。奇妙な言い方ですが、死につけられた者は、キリストと共にあり、キリストにあって生きる者にされた者として、生きることを許され、生きるようにされているのです。

 すなわち「献身者」として生きる権利を神様から与えられていることに感謝なのです。

 

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書籍紹介
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 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
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森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「あとがき」より
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「十戒と主の祈り」
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 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
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キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
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讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
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