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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(41・最終)
 
 明治維新後のカトリックと社会福祉(5)
 
カトリックの救ハンセン事業(2)
 
テストヴィド神父は1890年の復活祭後の巡回宣教の後に、衰弱が極限に達し、香港の病院に送られて、療養に専念するようにされましたが、しかし、病院へ到着して間もない8月3日に僅か43年の生涯を閉じて召天しました。以来4人のフランス人院長を経て、ドルワール・ド・レゼー神父、その後を代理院長として継いだのが岩下壮一師です。神山復生病院は、クリストア・ロア宣教修道女会の経営となっていきます。
 
熊本では、イギリス聖公会の宣教師として来日したハンナ・リデルが、1895年救ライ施設回春病院を設立しています。熊本の本妙寺は、日蓮宗の熱心な信者であった加藤清正の菩提寺で、清正もハンセン病(性病?)であったと言う伝説もあって、特に多くのハンセン患者が集まっていました。寺院を囲んで周囲にハンセン者集落が出来ていましたが、何の治療もなされず、ただ放置されたままという悲惨な状態であったのです。
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このような状況を見てパリ外国宣教会のコール神父は、ハンセン病院設立の必要性を痛感します。そこで、救ライ事業に携わる修道会をローマに求め、これに応えたのが「マリヤの宣教者フランシスコ会」であったのです。同会は、「御苦難のマリヤ修道女」によって、1877年、インドのオータムンドに設立された宣教修道女会でありました。創立者が、コール神父と同郷というよしみであったかもしれませんが、このような形でハンセン事業が開始されてまいりましたが、その歩みは、差別と偏見と言う悲しく暗い歩みであったことを、歴史の教訓として忘れてはならないことです。
 
今回をもって一つの区切りといたします。神様が聖書を通して示してくださった愛の業のあるべき姿と歴史の流れの中で、人々の営みの中でなされたこと、国家、社会に対して教会の中で、特に修道会(院)の役割を見つめなおす機会となりました。同時に、人々の祈りとこころざしに感動いたしました。このシリーズに取り掛かってから多くのカトリック教会の関係者、信徒の方々から助言や史料を頂きましたが、それを十分に生かし切れなかったことを感謝し、またお詫びいたします。
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…キリスト教…
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 明治維新後のカトリックと社会福祉(4)
 
カトリックの救ハンセン事業
 
禁教令は撤廃されても、日本国内での外国人の行動は必ずしも自由ではありませんでしたが、パリ外国宣教会の宣教師は、文字通り草鞋履きで日本各地を巡回していました。この宣教旅行の途上で、多くのハンセン患者がいることを、そして、人々から全くうち捨てられ悲惨な状態にあることを知り、心を傷めています。ハンセン患者の悲惨を見て、何とか救済の方法がないかと訴える宣教師の手紙が残っています。
資金の目処が立たずに手を出しかねていた中にあって、テストヴィド神父が、ハンセン患者の救済に着手しました(岩下壮一著「救ライ50年苦闘史」)。
 
テストヴィド神父は藤枝教会を拠点にして巡回宣教をしていましたが、たまたま御殿場付近で、ハンセン病の女性が夫に捨てられ、世間に嫌われて水車小屋の片隅のわら屑の中にうずくまっているのを見ました。このような哀れなハンセン患者の救済に対しても深い使徒的な使命を感じて、1886年(明治9)に御殿場の北に一軒の家を借りて、ハンセン患者の病室にすると共に、一角を聖堂として、それを聖フィロメーヌに献げたとあります。ハンセン治療にために、救ライの使徒と呼ばれていたモロカイ島のダミアン神父に手紙を送り、治療薬の入手も依頼していました。
 
1889年(明治22)6月29日に現在の神山復生病院の前身となる病院を神山平石の地に建て、20名の患者を収容しています。わが国の公立ライ病院に先駆すること20年であります。
(写真 タマゴタケ)
 
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 詩をつくり詩を発表する
 
詩をつくり詩を発表する
それもそれが主になったら浅間しいことだs-IMG_0149.jpg
私はこれから詩のことは忘れたがいい
結局そこへ考えがゆくようでは駄目だ
イエスを信じ
ひとりでに
イエスの信仰をとおして出たことばを人に伝えたらいい
それが詩であろう
詩でなかったら人にみせない迄だ    信仰詩集「貧しき信徒」 八木重吉

                        (写真 高さ15mm.位の小さなキノコ)
…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(39)
 
 明治維新後のカトリックと社会福祉(3)
 
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  1874年、九州北部は、大暴風雨の被害を受けました。そのさなか、恐るべき赤痢が流行します。医師のいない浦上に救護の手を差し伸べたのが、ド・ロ神父であり、篤志看護婦として立ち上がったのが、当時26歳の岩永マキ、守山ワイ、深堀ワサの浦上の乙女ら4名でした。青年たちも協力しました。ド・ロ神父は、「男女二名ずつを一組とし、患者の家への案内、新患の発見と隔離と予防措置、消毒などに働かせた」と言います。
 岩永マキら乙女4名は、高木仙右衛門の納屋を借りて合宿して救援活動を続けました。この4名の共同生活にド・ロ神父は起床、祈り、活動、就床という規則を与え、修道生活に準ずるようなものになっていたのです。赤痢が終息すると尾島に天然痘が流行、この救援にド・ロ神父や岩永マキらも行くことになります。
 天然痘もどうにか終息、浦上に戻るマキは、一人の女児を抱いていました。天然痘で両親を失ったのでした。孤児養育と言う新しい使命を課せられ、仙右衛門の納屋は孤児院となりました。
 
 1877年、プワリエ神父は、マキらの女子共同体に修道会としての組織を与え、準修道会「浦上十字会」としました。俗に「女部屋」と呼ばれた女子修道会の誕生です。各地より、乙女たちが浦上十字会へ修練に行き、自分たちの土地に戻って「女部屋」を結成して、孤児救済事業や授産事業、その他、それぞれの土地の必要とされる奉仕活動を行っています。五島の奥浦慈恵院、鯉の浦養育院などが、彼女によって設立されています。
浦上十字会は、1956年に志しを同じくする長崎県下の女子共同体(準修道会)と合同して、「聖卑姉妹会」となりました。さらに、1975年に教会法による正式の女子修道会となり、「お告げのマリア修道会」となり、今日に至っています。
 
横浜のサン・モール会は、1874年、前に述べた孤児院の近くに、外国子女教育サン・モール学校を設立、孤児院も「慈善教育菫女学院」定員40名としています。サン・モール女学院に寄宿舎を設置し、寄宿生の舎費で貧しい子供たちの養育を可能にしようとしています。修道女たちの献身的な働きによって、近隣の誤解も解け、収容児童も増加して行きました。
1876年、そこで建物を新築し、1897年には、収容児童482名との記録があります。1902年には、校舎もさらに完成して、小学校令による認可学校となっています。この学校は、孤児を先ず養女として入籍し、学齢以下の者は里子に出し、学齢に達して寄宿舎に入れて、普通教育より技芸一般を教え、18歳を越えると多くは良縁を求めて嫁がせています。いったん校外に出しても、常に職員を送って指導や相談に応じています。
更に、市外大岡川村に土地を購入して宿舎を建て、夏期には児童を交替で転住させ、田園生活をさせています。同校は1923年(大正12)の関東大震災によって全ての施設を失い、職員や児童も失ったのですが、東京府下、下高井戸へ移転し再建しました。
このように、明治のはじめに設立された児童保護施設として菫女学院と浦上養護院を紹介しましたが、明治30年頃までに、既にカトリックの児童施設が日本の各地に作られていました(日本基督教社会事業史)。

…キリスト教…
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 明治維新後のカトリックと社会福祉(2)
 
 明治初期のカトリックの児童保護事業(2)
 
  「キリシタン復活」の現場にいたプチジャン神父は日本司教に任命され、1867年、ローマに行った機会に、フランスのパリ外国宣教会へも行って、印刷の出来る宣教師を求めています。これに応じたのがド・ロ神父でした。キリシタン達の再教育のためにも、印刷・出版物を必要としていたからです。ド・ロ神父は慈善事業の重要な役割を果たしています。プチジャン司教は、すでに日本において胎児や児童が捨てられているのを見て乳母に預ける等の救済活動をしていました。
 
 そこで、1871年(明治5)、シンガポールの女子修道会サン・モール会に日本に来ることを要請しました。院長メール・セン・マチルドは、パリ本部の承諾を得て、4名の修道女を伴って、同年6月28日に横浜に上陸しました(渋川久子・島田恒子著「信仰と教育―サン・モール修道会東京百年の歩みー」)。
 カトリック修道女として、わが国の土を踏んだ最初の人たちです。彼女らは困難な日本語の勉強に取りかかると同時に、フランス海軍省が日本政府から譲り受けていた土地(山手58番地)に小屋を借り、貧困子女のために仁慈堂(後の菫女学院)を創立します。近代日本の児童保護事業はこれをもって始まりとされています。
 維新後の間もない時代で、外国人であるだけでも珍しいのに、黒い衣服で身を包んだ異様な風体の外人女性が孤児を集めているのは、いろいろな誤解を呼び、想像を越えた苦労をしています。スパイ、侵略、婦女売買などと疑われたということです。
 1873年(明治7)2月24日、キリシタン禁令の高札が撤去されました。岩倉具視を団長とする使節団は、1871年末に欧米に出発しており、欧米各国で浦上キリシタン流刑に対する抗議を受けました。安政の不平等条約改正交渉は、その最初のところで躓いてしまったのです。
 禁令撤去は、岩倉大使が欧州から電報で要請したことに応えたのであって、信教の自由を日本政府が認めたものではなかったのです。しかし、高札を撤去した以上、浦上キリシタンを流刑にする根拠はなくなり、3月14日、太政官令をもって「長崎県下異宗徒帰籍」が命じられ、流刑先からキリシタンは浦上に戻りました。彼らの長い苦難の「旅」は終わったのです。
 彼らの「旅」の間に亡くなった者613名、生まれた子供163名、最後まで信仰を守り通して帰村したのは1092名であったと言われています。そして帰った村は荒れ果てていました。
 

…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(37)s-IMG_0006.jpg
 
 明治維新後のカトリックと社会福祉(1)
 
 明治初期のカトリックの児童保護事業(1)
 
 徳川幕府は1858年(安政5)、諸外国と通商条約を結び、250年にわたる鎖国を解きました。この条約で外国人居留地には、居留民は自分たちの宗教の礼拝堂を建てることが認められることになりました。そこで1859年、パリ外国宣教会のジラール神父は、日本教区長として横浜に上陸し、1862年には横浜に天主堂が建立されました。翌年来日したフユーレ神父は、長崎に大浦天主堂を着工させています。完成させたのは、同年来日したプチジャン神父ですが、教会の献堂式は1865年2月19日に行われ、日本26聖人教会と命名されました。
 
 この他にも、長崎付近の島々、外海地方、平戸、五島地方に多くの信者がいることが分ってきました。世界宗教史の奇跡とさえ言われる「キリシタンの復活」です。この発見された浦上のキリシタンに対して、幕府は依然としてキリシタン禁教令を守り抜く方針であったため、厳しい迫害を加えました。
 
 明治新政府になってもこの方針は変らず、さすがに死刑にするということは国際問題になるので、1868年(明治元)に、浦上の主だったキリシタン114名を長門の萩、備後の福山、石見の津和野に、翌2年には残りの者全員を尾張以西の十万石以上の20藩に流刑に処しました(片岡弥吉著「浦上四番崩れ」)。
 
 彼らは、これを「旅」と呼んでいましたが、苦しく残酷な流刑人の生活が始まったのでした。流刑先の藩によって程度の違いはあれ、厳しい拷問や重労働、そして飢餓や寒さに苦しめられています。在日外交団の抗議、欧米諸国の政府、一般国民からの数々の非難にもめげず、明治新政府は蛮行を断行したのです。浦上キリシタンの辛い苦しい「旅」は1873年(明治6)まで続くのでした。         写真:田上集落のサボテンの 花
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 キリシタンの貧しい人々への救済(9)
 
キリシタン慈善事業の意義
 
迫害下にあっても、最後までキリシタンの慈善事業は続けられていました。海老沢有道は、名著「切支丹社会活動及び南蛮医学」(1944年)において、「キリシタン社会事業は寧ろ迫害下にその進化を発揮したものと言い得ると思う」と述べています。先に述べたミゼリコルジヂャの組は迫害下にあっても困窮者や孤児の救済に当っています。1630年代、表面上日本のキリスト教会が消滅するまで、キリシタンの慈善事業は継続しています。
 海老沢有道は、更にキリシタンの慈善事業の意義について次のように述べています。「精神的のみならず、物質的に肉体的に救いを求めている人々に、キリシタン教会が組織的社会事業を開始したことは非常な歓喜を持って迎えられたことは繰り返しのべるまでもない。我々はまず第一に乱世に喘ぐ民を、多くの犠牲を払い、あらゆる障害、妨害を越えて彼らに救いの手を差し伸べた社会的意義と功績を認めねばならない」。
 更に付け加えるならば、キリシタン慈善事業の担い手が、一般の信徒であったということです。献身的なパードレやイルマンの指導があり、外国からの援助に依存する面が多かったことは確かですが、それにもまして、一般信徒―かつては平信徒と言われた―から高名なキリシタン大名、名も無き庶民に至るまで、慈善事業に寄進し、自発的に救済活動に参加していました。
 例えば、府内病院開設に当って領主大友義鎮は、田地を提供したが、更に毎年一定額の寄進を申し出ています。大坂、堺では、小西隆佐、行長父子がハンセン病院を建て、その経営に財政的援助を行っています。
 細川ガラシャは、数名の捨て子を邸内に引き取って養育していました。また長崎のミゼリコジャの中心人物は、ジュスチノと呼ばれる金細工商人で、彼の妻ジュスタは、12人の婦人で奉仕団を組織し、養老院を設立して、その世話に当っていたということです。信徒が自発的・積極的な慈善事業へ参加していたという点で、明治以降のカトリックの社会事業と大きく異なっているのではなかったかと思われます。
 明治以降にあって中心となるのは修道会です。キリシタン時代に見られるこの信徒の自発性に、200数十年間パードレもイルマンもいない迫害の中にあって、潜伏キリシタンが生き生きとその信仰を守り続けることができた一つの理由があるように思われてなりません。
 
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 社会福祉活動のあゆみ(35)
キリシタンの貧しい人々への救済(8)
ミゼリコルジャの組
 
 長崎は、1880年大村氏よりイエズス会に寄進されました。それでキリシタンの諸活動の中心となって行きました。イエズス会の日本準管区の首座もここに置かれておりました。領主大村純忠がキリシタン大名の最初で、彼はバルトロメヨと称していました。「ドン・ベルトラメウ領地に於いては、病院の世話やキリシタンの教化についても、また、奴隷を付近海上にある多数の海賊の手より救出することについても、大いに熱心を持って進んでいいる。またミゼリコルジャの家を建て、その所に寡婦、孤児及び貧民のために寄付金を集め、またライ患者のために病院を建てた」(村上真次郎訳「耶蘇会の日本年報」拓文堂)。
 長崎のミゼリコルジャの組は、1570年頃の創立のようですが、組織的な事業に発展するのは80年代です。1585年には100人の会員がおり、4年後120人に増えています。ミゼリコルジャの会員は、人々の寄付を集めるだけでなく、自らも多額の寄進を行い、私生活も模範的でした。特に街頭に見捨てられ、人々から嫌われたハンセン病人に奉仕していました。病院には、遠方からも集まって来て、キリシタンは慈悲深いという評判を得ていました。
 1587年、秀吉の禁教令によって天主堂が破壊された時も、ミゼリコルジャの天主堂は、善い働きを成しているからというので、唯一破壊を免れています。
 都におけるフランシスコ会の天主堂は、1594年(文録3年6月)竣工。その翌年には聖アンタ病院が建設され、貧困な患者50名を収容していました。聖アンナ病院はすぐに満員となったので、ハンセン病院として聖ホセ病院を建設、収容人員は70名と推定されています。病院建設後間もなく迫害に合い、患者は外出も許されず、米も欠乏するというあり様になりました。
 26聖殉教者の中に、病院の医師や看護人、雑務に当っていた者が5名含まれていることからも、病院の受けた痛手は想像されるところです。それでも残った者の努力で病院は維持され、秀吉の死後、フランシスコ会は各地に教会と共に病院、それも主としてハンセン病院を設立しています。
 フランシスコ会の創立者アッシジの聖フランシスコ自らハンセン病患者の看護をした伝統に従い、救ハンセン事業は特に力を入れていたようです。フランシスコ会の修道院のあるところ、殆んど全てにハンセン病院が付設されています。
 
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 社会福祉活動のあゆみ(34)
 
 キリシタンの貧しい人々への救済(7)
 キリシタンの慈善の動機(3)
 
 豊後の育児院と府内病院(2)
 
 豊後府内病院が建設されたのは1557年で、アルメイダが育児院の児童に医療を施し、それを聞いて大人の病人も集まって来たことによってなされたものと思われます。教会のあった跡地に大木で建物を建て、二区に区分し、一つは負傷及び簡単な治療のできる病人のために、もう一つは、当地に多数いたハンセン病患者のためであったという。
 この病院は、近代西洋医術を施したわが国最初のハンセン病施設でもありました。1557年2月頃(弘治3年正月)より診療が始められ、評判を聞いて多数の患者が集まり、たちまち増築に迫られています。1559年(永禄2)、相当大きな内科病棟が増設され、聖母御訪問の祝日の前日(7月1日)竣工、開院しました。旧来のハンセン病棟はそのままで、内外科共用の病舎は外科病棟とした模様で、この病舎に接して職員の住宅があり、その家屋の周囲にはベランダがあり、病人はそこで治療を受けたと言う。キリシタンは人肉を食うとか、生血を吸うという悪宣伝に対して、外科手術を公開して行うことで対処していたことがうかがえます 
 アルメイダはイルマンとしての修業中の身であり、多数の患者を一人で診ることは難しく、内科病棟は、漢方医であるキリシタンの日本人医師が診療・投薬に当っていた。南蛮外科、特に外科手術はわが国では殆んど知られておらず、その高い水準に当時の人々は驚き、この評判は、京都、関東までにも響いたという(ジリング著「日本に於ける阿蘇会の学校制度」東洋堂)。
 
 これに対して、アルメイダが内科は漢方医に任せているのも興味深いことで、漢方の有効性を高く評価したからではないだろうか、と言われています。一般の書物からですが、明治以降の西洋医学導入に当たり、漢方を見捨てたわが国の現代医学の状況と考え合わせるとアルメイダの先見性は高く評価できる、とありました。
 更に、アルメイダは、自ら治療に当っただけでなく、医師の養成もしていて、その内容は不明ですが、1558年には、臨床教授を始めている、ともありました。ベランダでの手術は臨床教授にも役に立っていたのでしょうか。1661年、アルメイダは病院より手を引きます。イエズス会士の医療事業禁止令がその前に日本に達していたからであると思われます。
 府内病院は、アルメイダの医師養成の結果、南蛮医術をそれ以後も施すことができたのです。この病院事業の事務や病人の収容、救護、看護等の雑務を助けるために、「ミゼリコルヂャの組」が有志の男子信徒により組織されます。山口の信徒組織にならったものでしょうが、組織的になったのは、府内のこのミゼリコルヂャの組です。この組には、12名の専任者がおり、二人ずつ毎年病院の世話に当っていました。そうして、二人ずつ交代で病院の経営に専念していたようです。
 病院の経営は、原則として無料でありましたから全て寄進をあおがねばならなかったのです。従って、他の10人は、寄付を集める仕事と貧しい人々への救済など、多方面の仕事をしています。府内病院は、日本人医師や看護人、そしてミゼリコツヂャの組や一般信徒にさせられて経営は維持されたようです。しかしながら、キリシタン活動の中心が長崎に移り、豊後地方の戦乱などのため、次第に衰微していきます。巡回宣教師ヴァリニアーノの第1回日本訪問の頃(1579~82)は、ハンセン病院のみではなかったかと推察されます。
…キリスト教…
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 キリシタンの貧しい人々への救済(6)
 キリシタンの慈善の動機(2)
 
 豊後の育児院と府内病院(1)
 
豊後府内は、近代医学史にとって重要な土地であり、わが国における西洋近代医学の発祥の地でもあると言われています。それをもたらしたマイケル・ルイス・アルメイダは、社会事業史における重要な人物なのですが、来日前の彼の経歴はあまり知られていませんでした。
 1546年、ポルトガル王より外科医の免許を得ており、来日した1555年の時は30歳であったという。しかし、それ以前の52年に来日したとの節もありますが、もし来日したとするなら貿易商人としてであったと思います。もしそうなら、インドシナ地方において名の知られた貿易商であったアルメイダが、その巨万の富を整理してイエズス会入会志願者として再来日ということになります。
 聖フランシスコ・ザビエル以来、日本へ来たイエズス会士の心を痛めていたことは、胎児殺しと堕胎であったという。ザビエルの説教でも必ずそのことを非難し続けていたことからその悲惨な事実は確かであった。豊後に来たアルメイダもその資財を提供して、育児院を1555年に開設しています。殺したり捨てたりする児童を育児院に連れてくるようにとの命令を出すように、領主(大友義鎭)に請願しています。義鎭は、そのことに大いに喜び賛同し、田地を与えています。アルメイダは、育児院に乳母を雇い、二頭の乳牛を飼い、幼児が欠乏のため死なないようにしたという。悲しい現実ですが、当時の戦乱の社会にあって、堕胎、胎児殺し、棄て児は普通のこととして行われており、その救済が急務であったのです。
 ザビエルが山口を去った後、パードレは子供をさらい、その血を吸い、肉を食うという流言が広まったことからも、残った宣教師や信徒が児童の救済に当っていることは確かでした。この孤児救済が、他の地方でも行われていたためそのような流言の根拠になったと考えられます。
 
 
…キリスト教…
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 キリシタンの貧しい人々への救済(5)
 キリシタンの慈善の動機(1)
 
 事を始めるには、いろいろの理由、目的があります。その出来事を後の研究者は考えます。しかし、至極単純な理由の中に目的があることのも一理ありとも言えるものがあります。
 
 キリスト教の教えからすれば、キリシタンの慈善は当然といえるものが、もっと直接的な動機であるときもあるようです。それは、キリシタンになるのはお寺にお布施をしなくても済むからだといった悪口に対して、キリシタンの心意気を示すという単純な動機からでもあった、と言うのです。
 そこで、もっとも普通に行われたのに、近親者の追善供養がありました。追善供養は古くから仏教的風習として行われてきたのですが、これは、お寺や仏僧へのお布施であったのに対して、キリシタンは貧しい人々への施与としたのです。追善供養だけでなく、この施与はキリスト教暦の重要な祝日や四旬節などにもされるようになり、キリシタン独特の慣習となっている(海老沢有道著「キリシタンの社会活動及び南蛮医学」)。
 キリシタンの慈善は方便で、貧しい人々に施してキリシタンにし、最終的には民衆を引き付けて国を奪おうとするのだといった反キリシタン宣伝も当時からありました。利を求めない無償の行為を理解できない人間は、これまた何時の時代でもいるものです。
 それには、反証を挙げることができます。イエズス会の伝道方針は主として上から下であったことを考え合わせると、病人や貧しい人々を教会に集めることは施与の妨げともなったのです。その伝道方針は現代の考え方から見て適切であったか否かは別として、当時、ヨーロッパにおいても、「支配者の宗教、その地に行われる」(1555年、アウグスブルグの和議)のが原則であったことを、プロテスタント教会も記憶していなければならないと思います。
また、後に述べる府内病院においては、患者の治療中に受洗させず、健康回復後、引き続き教理の勉強を終えて後、はじめて洗礼を授けキリシタンとしていることから見て、患者や貧しい人々に対する深い配慮を学ぶ時、救済を受ける方便としてキリシタンになることを極力避けていることが分かります。
ザビエルによってキリスト教布教の根拠地となった山口では、1553年(天文22)信徒たちが自発的に天主堂の門前に喜捨箱を置いて献金を集め、施与をし、また毎月1回貧しい人々に配米するために、米を入れる櫃を設けたと言われています。翌年、山口は悲惨な飢饉の年となり、配米は多くの農民や貧しい人々の命綱となったと記されています。この年、一人のキリシタンが救貧事業のために土地を寄付し、救貧院ともいうべきものの建設のために募金がなされています。山口救貧院の詳細は知られていませんが、信徒の自発的に慈善事業を組織したことは注目されるところです。そうして、山口の大内氏は毛利氏に滅ぼされキリシタンの中心地は以後豊後へ移っていきます。歴史の流れと表裏をなしています。
…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(31)
 
 キリシタンの貧しい人々への救済(4)
 キリスト教の伝来とその展開(4)
 
 キリシタン禁教をほぼ完成させたのは、1639年の「鎖国令」ですが、その契機となったのが、島原の乱(1637~38、寛永14~15)です。島原半島は、もともとキリシタンが多く、一揆側で原城に籠城した35,000人の多くがキリシタンであったかもしれないが、外国人のパードレばかりでなく日本人教師も加わっていなかったかもしれない、と言われています。
 これに対して、オランダ船に依頼して、原城に大砲を打ち込んでもらっている(レオン・パジェス著・吉田小五郎訳「日本切支丹宗門史(下)。したがって、島原の乱をキリシタンやパードレの策謀とか外国の介入というのは全く当たらない、と言えます。キリシタンは邪宗門とする幕府側の一方的言い掛かりに過ぎないのです。
 1549年、聖フランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリスト教は、少なくとも日本歴史の表面から消えることになります。キリシタン史は、壮絶な殉教死として知られており、注目されてきましたed809c07.jpg
 信者数の推移を見ても、1570年は20万人が、1605年は3万人、79年は10万人、そして秀吉の禁教令の出た1587年は20万人、1605年には75万人と極端に増えています(海老沢有道著「切支丹の社会活動及南蛮医学」)。禁教令、そして殉教者が出て飛躍的に増やしているのであり注目に値します。
 キリシタンは、自己の救済のために信心の業に励んだだけでなく、文化、教育、そして慈善救済、医療など多方面にわたって活動しています。キリシタンの社会的活動は壮絶な殉教に隠れがちですが、戦国末期から徳川政権の確立までの混乱期に果たした役割は、計り知れないものがありました。特に慈善、救済、医療といった面では、当時の仏教界が宗教的生命、倫理的教化力は低調、喪失していただけに、キリシタンの諸活動は際立っています。
 仏教が業報輪廻の因果応報思想によって目前の困窮者の悲惨に対して無感覚であったのに対してキリシタンは放置し得なかったのです。
 
 
…キリスト教…
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 キリシタンの貧しい人々への救済(3)
 キリスト教の伝来とその展開(3)
 
 この禁教令は、パードレの国外追放と武士のキリシタン信仰の禁止であったので、以後、イエズス会は表立った布教活動は極力押さえることになりました。しかし、都の南蛮寺も破壊されるが洗礼を受ける者は急速に増えてさえいます。また、それまで日本の布教はイエズス会が独占していたのが、1593年、フランシスコ会のペトロ・バウチスタがフイリピン(スペイン領)の使節として来日、秀吉の許しを得て布教活動を活発に始めます。さらに、アウグスチヌス会、ドミニコ会も日本布教に加わります。禁教令は撤廃されてはいなかったが、キリシタンの活動はその中心地長崎でも、京畿方面でも活発になっていきました。
 1596年(慶長元)、サン・フェリッペ号事件が起こりました。乗組員の不用意な発言に秀吉は激怒し、キリシタン弾圧に乗り出し、その見せしめとして行ったのが、翌1597年(慶長2)2月5日、長崎で日本26聖殉教者の処刑でした。また、マルチンス司教をはじめ、外国人宣教師や日本人も国外へ追放されました。しかしながら、その後は、秀吉そしてその後を継いだ徳川家康も禁教令はそのままにしておきながら、キリシタンは黙認されていました。
 秀吉、家康の禁教令が不徹底だったのは、ポルトガル、スペインとの外国貿易が必要だったからです。新たに、オランダ(1609)、イギリス(1613)が日本との貿易に加わると、その必要がなくなりました。1614年、伴天連追放令が出され、パードレや日本人キリシタンは長崎に集められ、国外追放となり、天主堂はほとんど全て破壊されました。1623年、三代将軍家光によってキリシタン弾圧は全国的に徹底するようになりました。
厳しい弾圧の中でも死を覚悟して日本に潜入し、キリシタンの中で活動していたパードレも、1643年、マンショ小西の殉教を最後に途絶えました。
 
 
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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