2018年11月  №136号 通巻821号
 

  今月のことば

しかし、神に近くあることはわたしによいことである。

わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。

         ~詩篇73:28~

 人間の心の中には、いくつかの特徴があると言われています。その一つに、神に近づくことを恐れることです。何事でも、神と顔を合わせることは、心の中に何か後ろめたさと、不安と、重苦しい思いを作り出すからだそうです。それは、都合の悪い私たちにとって、自由で幸福であるためには、神が遠くの存在であってほしいという思いの表れです。

 

 しかし、身勝手にも人は悩みや大きな出来事に遭遇するとき、初めて神の存在に心を馳せ、神が助けてくれるために近づくことを望みます。しかし、危険が去ると同時に、神の存在から心が離れてしまいます。このような私たちの奇妙さにありつつも、死後は神と仲良くやっていけるという妄想に生きています。そのような奇妙な偽りの妄想の中に、多くの人は生き、死んでいくのです。

 

 神様から信仰が与えられ、歩むキリスト者には、今、現実に生かされている今の中に、神に近づき、共に歩ませてくださいという深い思い、願望があります。それは、神のみ言葉を通し、祈りにおいて、他のキリスト者との交わりにおいて、「神と共に」という思いに導かれ、感謝する特権を持つようにされているからです。この事実に勝る喜びはありません。

 

 このもっとも素晴らしい思いは、キリストの十字架の意味を知り、信じ、受け入れることを決心するキリスト者に与えられる、恩寵です。このキリストを救い主として信じ生きる歩みこそ、唯一の「避け所」「真の避け所」となってくださるのです。

 

 「けれどもわたしはつねにあなたとともにあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。

  あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」。 (詩篇73:23~24)

 

  今月のことば

 

 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。

        ~Ⅱテモテ4:7~

 パウロは一生の旅の終点に立っておりました。彼は疲れ果てるまで日毎に労し、多くの困難な戦いを経てきました。そうして今、戦いの終わりも日の暮れるにつれて見えてきました。このような確かさ、このような平穏な、信仰の勝利をもって、生涯の終点に立つ特権を得ることは、素晴らしいことです。それはちょうど、上なる空は、明るい金色の雲に覆われている大空の夕陽を見るようだ、と詩人は詠っています。

 

 パウロが最も喜ばしく感じていたことは、生涯の戦いを通じて信仰を守り通したことでありましょう。これは、彼が信仰に「よって」戦わなければならなかったものばかりでなく、信仰の「ために」戦わなければならなかった者の一人でもあったことを知らされたことです。この戦いをしてきた者は、すべての戦いの中で、これが最も困難なものであることを知っています。

 

 神への信仰、キリストへの信仰、天国と死後の命に至る信仰が崩れ始めると、すべては夜の闇となり、逃れる道が見えなくなります。しかし、信仰者はこの道を通らなければならないのです。「わたしが命である」と言われたイエス・キリストへの道です。

 

 しかし、これを安全に、安らかに通り抜けるとは、なんと驚くべきことでしょう。もはや、弱った足がわたしたちを運ぶことができなくなっても、目が真昼の中に暗闇を見つめる時、平和な国、温かい家庭・家族との憩いの時と、そうして永遠の日を見る信仰を持つことは、言い尽くせない大いなることです。

 

 大切なことがあります。それが長い短いという生涯ではなく、自分の旅路の終わりを知り、「喜ぶ」ことのできる信仰が与えられ、持っている今であることを知っていることです。

 

 わたしたちの唯一の拠り所を知り、そこに生き、それを証しすることに尽きることを、パウロは語っています。

 

  「今月のことば」

 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのだから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい。

           ~Ⅱコリント520

 日本人の感覚で理解できないものの一つに「救われる」という宗教としての考え方であると、ある宗教家の著書の中にありました。それは罪に対する意識・認識の相違とありました。罪は犯罪という理解と対神という宗教的理解・神への背信・敵対であるとする聖書の主張にあります。大切なことです。「今月のことば」で、聖書はそれを示す。この真理をご一緒に考えてみましょう。

 

 まず、キリストの救いを得るには、用意されているキリストによる救いが、私たちに伝授されなければなりません。私たちの外側に、用意された救いがあるということだけで十分ではありません。私たちはそれを自分のものとして受け入れなければなりません。キリストの御業、恵みは、私たちの救いのためには十分であるというのは確かであっても、私たちはキリストの死によって、神と和解した者とされる必要があります。しかし、和解を許されるためには、私たちは、まず、自分自身を和解されるようにしなければなりません。それは、私たちがキリストのみ元に行き、主によって用意された救いを受けなければならない、ということです。

 

 もし、それをしたくないならば、決して救われません。ですから、神様はみ言葉を送り、証し人を送って、キリストに立ち返ることを強く言われるのです。

主イエスは私たちの負債(罪)と咎の証文を取り、主ご自身の血で、「支払い済」の印を、神の聖所で押してくださいました。同時に、私たち自身の心の中に「支払済」(罪赦された者)と主イエスに書いていただかなければなりません。そして信仰によって私たちの心を主に潔めていただかねばなりません。

 失われた私たち罪人としてキリストに行かず、キリストの死には自分の罪の責任があると認めない者、また、信仰によって心をキリストに開かない者は、裁きを免れることはないことを事実として知らされています。

 私たちは、自分自身が救われるか、失われるかを決断しなければなりません。この決断は「今」なのです。

 

  今月のことば

 「さあ、かわいている者は、みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。」

          ~イザヤ55:1~

 今回の西日本豪雨で大雨と川の氾濫、土砂崩れで、多くの被害と人命が失われました。心から、お悔みとお慰めが与えられますようにお祈りいたします。多くの方が「ジャーナル友」として、今のお気持ちをお届けくださいました。このような心の交わりが、この「つのぶえジャーナル」を介して与えられていることを痛感いたしました。その使命を神様からの「召し」と信じ、励んでまいります。どうぞ、『ほっとひととき「みんなのコーナー」』をご覧くださり、祈りに覚えていただければと思います。

 

 人の思いと心とは本当に不思議に思えます。私たちの心の中にある、なやましい不安と、深い心の慟哭を、神様は「飢えと渇き」と呼んでいます。人々にお金や名誉や、権力や快楽を追わしめるものは、この魂の飢えであり、その多くの者が放蕩や恥辱に走るのも、これに由来するといえるでしょう。

 人はこの地上の富をもう少し持っていさいすれば、また、情熱の命ずるままに生きることができたならば、幸いであろうと考える者も多いのです。この間違った人間の価値観、人生観は、私たちの内に深く根を下ろしていて、誘惑する悪魔(サタン)方は、実に多くの人々を永久の不幸へと追いやることが出来ます。

 

 神様は、この私たちの絶望的な道に行くのを見たもう時、心から憐れみをもって私たちを呼び、「帰って来い」と言われるのです。神様には、満腹させる食物があります。渇きを止める飲み物もあります。そしてそれを、「ただでもらえる」と言われます。この招きには誰もが与れるのです。しかし、この招きに来ないのです。

 

 この「今月のことば」の1節に書かれているのは、全てただで頂けるにも関わらず、私たちは買わなければならないというのです。無価値なものを買わなければならないとは、納得しかねます。無料、無代には疑いを持ちます。しかし、ここでは、「無料、無代」ではないのです。それは「来る」という値を払わなければなりません。特に信じられない、「ただであるというものを受け入れる」という値段があるのです。そうして、それを神様からの愛と憐み、恵みであると信じて受け入れる思い(信仰)を言い表す(告白)ことです。

 信仰とは、神様がお与えくださるお約束を信じ、より確かなものとするために生きる、生き方そのものです。

 

  『今月のことば』

 なぜなら、キリストの愛が私たちに強く迫っているからである。私たちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

             ~第二コリント~5:14~

 いつの時代でも「愛」という言葉は、その意味することはいろいろでしょうが輝いています。

 聖書から考えてみましょう。

 神の本質は愛です。そしてキリスト教の本質もまた愛です。神がその子供らに、ご自身の持っておられる性質をお与えになりました。

 愛は私たちの心に、信仰と聖霊とによって産みつけられます。それは、私たちがまず神を愛したという意味で、生じたものではありません。私たちを愛して、そのみ子を私たちの罪の贖いとしてくださったのは、神です。

 それは私たちの大きな幸せでした。もし、そういう計画でなかったらば、私たちは決して神より来る愛で愛するということに、到底、達することはなかったでしょう。

 しかし。この美しい宝に目を向けて、受け入れる人は、神を愛することを学ぶのです。愛する者は、神より生まれたのです。

 

 神様から信仰を賜ったキリスト者としての私たちの大きな務めは、この愛を私たちの命の中に、もっと取り入れることです。私たちがキリストの愛にだんだんと深く導かれるのでなければ、聖化への私たちの努力はすべて、白く塗った墓になるでしょう。

 パウロは言いました。この成長への道はゴルゴダを通るものだと。霊において、そこに立つ時、一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだという真理が明白にされました。パウロがそこで見た愛は、パウロを強く捕らえて、その生涯を私たちすべてのために死んでくださった方に、捧げさせたのです。パウロはもはや自分のために生きようとは願わず、私たちのために死んで、また生きた主のために生きりことを願うのです。

 

 神様、願わくばカルバリの丘の上に見出すあなたの愛を、この身にお与え下さい。そうすれば、私たちの生涯は喜びと、奉仕する愛の実を結ぶでしょう。  

 

 

  今月のことば

 しかし主を待つ望む者は新たな力を得、わしのように翼をかってのぼることができる。歩いても弱ることはない。

       ~イザヤ40:31~

 何時の頃からか、「五月病」と呼ばれる言葉が、当たり前に使われますが、その言葉で何かを納得させる、不思議な言葉です。同じように、病院で医者から何かの病名を聞くと、これも重症でない限り安心するのは、どうしてなのかと思う時があります。

 

 私たちの日々に中に、時として勇気を失い、何事にも疑い深くなると、力を失いますが、信頼と希望は、生活に魂に喜びと勇気が与えられることを誰もが経験しているのではないでしょうか。ですから、「落胆の泥沼」に深く沈んでいても、「希望の目覚め」を待ち望むのです。

 

 私たちが、自分と住んでいる世界とを見る時、すべてのことが暗く、不可能にさえ思えます。しかし、私たちが聖書を開き、読み、考える時、必ず出口が見つかるのです。希望は神様による信仰を失わない者を、その「暗い泥沼」から、本当に不思議ですが、希望と喜びへと導かれているのです。

 

 もし、神に導かれ、希望を示されていても、不平を言い、落胆して生きるなら、それが神様の誉れにはならず、自分たちの幸いにもならず、他の人々を支え、助けることなどできません。聖書の中に「悔い改め」という言葉が出てまいりますが、「涙をぬぐい、顔を洗うこと」こそ、「悔い改め」です。イエスを「救い主」とし、神を父として持つ者にふさわしい「思い」とも言えます。

 

 もう一度、弱りはてたこころの翼をひろげましょう。知らぬ間に再び、若い鷲のように、高く翔り、人生の悲しみを越えて高く、高く走り、強くなり、喜びに溢れて、イエスのみ名によって、神様に感謝する者にされることを強く望む者は、ほんとうなのです。新たな力を得ます。

 

  今月のことば

 朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

         ~マルコ1:35~

 

 私たちの日々の生活の中に、人とのかかわりの最初は、「挨拶」であると言えますが、家族がいてもそれがない日々、一人生活の人の朝に横にいる飼い猫という方もおられます。人それぞれと言えます。

 私の「挨拶」はまずご先祖様のための仏様だとお思いになられる方もおられましょう。ご商売をされている方の最初は、家族との挨拶よりも、神棚に手を合わせるという方もあったり、大会社の社長室にも、立派な神棚のあるのをテレビで見たことがありました。

 クリスチャンの最初のご挨拶は、神様への感謝と今日のお導きを祈り求める生活は、信仰生活の基本であり土台であります。

 神様の戸口と、神様のみ心は、常に、祈る者のために開かれています。私たちの天の父は、私たちの嘆き、私たちの呟き、私たちの祈りを聞いてお疲れになることはありません。けれども特に、祈りにふさわしい時があります。祈りたいと願う者にとって、朝は、一日の中で、もっとも良い時であります。

 

 草の葉も花も、夕べとなり、夜の冷たさが近づくとしぼんでしまいます。けれども、夜が明け、朝になると、たちまち、また開くのです。同じように、私たちの魂は、朝の明け時に開くのです。その時、私たちは祈りに導かれるのです。

 その時に、神様とまみえる者こそ、一日をキリスト者らしく生きるに必要な霊的なお力を求め、そして頂くのです。神様は、私たちの必要なものをお与えくださいます。しかし、私たちの方には、神様がお与えくださるものを受ける用意が出来ていない時が多々あるのも事実であると思います。

 聖書には祈り人のことが記されています。ダビデは朝が彼の祈りのときであると知り、このように言っています。

 「なんじにわれは祈らん、おお神よ、朝になんじ、わが声を聞き、朝に、われ祈りをなんじにささげん」。

 私たちの日々の生活は、祈りを奪い、妨げるものばかりです。その日々に打ち勝つために、「朝の祈り・夜の祈り」を多忙な生活から勝ち取りましょう。

 

  今月のことば

 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代わりにへびをあたえるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなた方は悪いものであっても、自分の子供には、よい贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊をくださらないことがあろうか。

          ~ルカ11:11~13~  

 飢えて食べ物を求める子供に、パンや魚の代わりに、石やへびを与える父親は、人間よりも悪魔に近い者です。平和を求めて叫ぶ子供たちへ手渡す、美しい平和という包み紙の中身が武器と争いで、無慈悲にも手渡しているのが、今、現実に起こっている世界です。戦争を作り出すための武器商人が、平和をもたらすでしょうか。

 

 イエス様は、それをお求めではありません。無力と諦め、不完全という言葉の中に私たちは逃げ込みます。しかし、イエス様は私たちが悪い者ながら、子供らに良い贈り物をするという大切なことを、ここでお教えになっています。イエス様は、悪い者から、善い方へと導くために、このみ言葉下さったことに、希望と慰めがあります。

 「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊をくださらないことがあろうか」。

 

 イエス様のこのみ言葉に注意してみましょう。聖霊は私たちの求めうる最大の贈り物です。この素晴らしい宝を持つ人は、あらゆる、必要なものへの鍵を与えられるのです。神様のみ霊は、すべての真理へ導き、心にキリストを示し、争いと苦難に光を与える保証です。

 私たちは弱く、小さな者です。そのような者に、神様は平和を祈り求めることをお教えくださるのです。平和のための武器ではなく、平和のための愛の祈りこそ、大切であると信じます。

 

「平和」

 住む国も

 話す言葉も

 考えることも

 それぞれ異なる

 何十億の人々が

 父なる神さまの

 みもとに立ち返るように

 朝に祈る 夕に祈る

     水野源三「み国をめざして」詩集

 

  今月のことば

 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。

          ~ピリピ3:12~

 人の喜びは、何かを求めて真摯に捜し、求め続けている時です。それを聖書は、私たちに教え示しています。それを「キリスト・イエスによって捕らえられ」と言うみ言葉で示しています。単なる心の開放とか願望の実現とかではなく、「キリスト(救い主)に捕らえられている、救いの中にある今を感じられることは、人生最大の喜びである」と言うのが、私たちに提供されている神様からの招きの言葉であります。その招きを知ることは、神様に捕らえられ、主イエス・キリストを追い求めている姿とも言えます。

 

 信仰によって救われるということは、信仰の目的に達したということではありません。それは目的に達する道を見出したということであります。私たちは救われるために、救われたのです。栄冠を求めて日々訓練・鍛錬・練習に励んでいるアスリートのあの汗の美しい輝きは、最高の冠です。神様が下さる信仰の冠はそれ以上のものです。

 

 こうも言えます。私たちが、危険から逃れている、また、全く悪より離れているという意味で「完全な者ではない」と言うことです。だから、追い求めているのです。私たちがキリストを仰ぎ見ると、キリストは全て完全です。私自身を見ると全てが不完全です。それゆえに、キリストにあこがれ、苦しんでいてもキリストからの栄冠を得ようとするのです。その時のゆがんだ顔、苦痛の汗、涙の滴は、追い求めている者の栄えある冠なのです。

 励まし合い、支え合い、祈り合って生きましょう。

 

  今月のことば

 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

      ~マタイ7:7~

 2018年も2月を迎えました。若い方々は受験という大きな扉に向かって果敢に挑戦する姿は、その経験をすでに終えた者は眩しい輝きに見えます。失敗を恐れず何かを追い求め、何かを捜し、何かを求め続けることを、生涯の友とする人生、日々は素晴らしいことです。

 

私たちが神様のもとへ、何かを願いに行く時は、誰も開けてくれない扉をたたくことではありません。心狭い者のところへ物乞いに行くのでもありません。私たちを迎えるために使いをよこされ、私たちに祈ることを教え、必ず得させると約束してくださった方のところに行くのです。

 

祈りを命令されたものであり、神様が私たちに負わせた重い義務であるかのように思うとき、祈り心はしぼんでしまうでしょう。私たちの無能と神様の全能とを示すことを捜し求めるなら、疲れ果ててしまうでしょう。

 

 そうではありません。祈りは、私たちが憐れみを受け、助けを必要とするときに助けてくださる恵みを見出すことのできる「時」なのです。神様のみ前にある扉を開いていただく、とても大切なことなのです。「義務」ではなく、「権利」であります。

 

 もし、この世ですべての扉が私たちに閉じられていたとしても、この世のすべての自由と力が奪い取られ、失っても、私たちには奪い去られない「祈り求め、捜し続ける」恵みの「祈り」があるのです。信仰の先人たちは、私たちは神様に、人生で自分に起こるすべてのことについてお話しすることが出来ると教えてくれます。救いのために祈ることから、罪の赦し、日々の仕事や家族のこと、健康のこと、そうして大切な隣り人のことを、神様に祈り、その答えを捜し求めることを、お許しくださっています。

 

「神に生きる」。それは、私たちの生活や仕事、健康や病気であっても、すべて、祈りの中で、神様に語り、希望と喜びを持って歩む「祈りの日々」でもあります。それは、誰にも等しく与えられている恵みです。 

 

  今月のことば

 8日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。

        ~ルカ2:21~

 私たちは誰一人例外なく、新しい2018年を迎えました。しかし、誰一人この年に何が起こるか予測する人はおりません。明白なことは一つあります。それは、私たちが受けた遺産は、罪と悲しみ、病いと死とであることを知っていることです。また、自分の身に逆らうものの多くは、この遺産のもたらすものでもあります。これもまた事実です。

 今年も私たちは、日々、霊的な面でも、肉体的でも頼りなく気落ちし、病いを負うでしょう。これもまた事実です。

 

 私たちはこの事実・現実を無視したり、無いかのように思うべきではありません。むしろ直視すべきです。しかし、そこには大切なことがあります。それは「主にあって」と言う「最善・大いなる希望」に「あって」ということであります。

 神様は、私たちに、あるものに信頼する権利をお与えくださいました。それは、「イエスのみ名を用いる」ことをお許しくださったことです。神様は、そのお許しと約束のゆえに、その「み名のゆえに」結ばれた祝福を果たしてくださいます。その約束の中には、光と希望に満ちた未来がありました。この「み名」の中に、私たちの罪の許しがありました。この「み名」によって求める必要を、お教えくださいました。

 「であろう~」ではなく、「ました」なのです。この約束に生きるとき、言い得ない勇気が与えられます。

 若い皆さん、キリストを捜し、知ってください。人生をあきらめないでください。一人ではないのです。キリストに聞いてください。あなたの隣に誰かはいるのです。

 仕事が人生などと言わないでください。家庭や家族があります。もっともっと輝く働きや日々があります。

 もう長く生きた、疲れたと諦めないでください。最後の最後まで、あなたはあなたらしく歩み、終わろうではありませんか。「主にあって」!!

 

  今月のことば

 しかし、わたしは考えた、「わたしはいたずらに働き、益もなく、むなしく力を費やした。しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、わが報いはわが神と共にある」と。

       ~イザヤ49:4~

 人は考える葦であるという言葉があります。ことの善悪は別として、何かの行動を起こすとき、「考える」ものです。考えなしに生きることは不可能です。しかし、この「考えること」が問題です。考える可能性を創造主が私たちにお与え下さったのには理由があります。しかし、正直に言えば、考えるということは、私たちの生きる道に障害物になることもあります。

実際に、考えないと同時に、考え過ぎるということもあります。そのために私たちの髪の毛を白髪にしてしまうこともあるでしょう。それは、考えるということは思い煩うということでもあるからです。「わたしは考えた、『わたしはいたずらに働き、益もなく、むなしく力を費やした』」と告白したこの神の人イザヤの魂の上にも、「問い」という病が、広がっているのです。ここでその姿を現しているのは、「思考という誘惑」です。私たちに、自分に課せられた職務を、過剰に疑わしく、見込みのないものと思わせる誘惑です。

 その結果、人は、結局一切は無益だということが分かったと思い、あらゆる仕事に、全く適していないと思って、途中で放棄したくなるのです。

 「思考という誘惑」が姿を現すのは、人が、自分が間違いなしの無能力者であると思い込むことです。しかし、それに対して神は「腕組みをして、思い深げに問うのはやめなさい。新鮮な気持ちで仕事に就きなさい」と言われます。そうして「もしそれを私が喜んでするなら、私は報いられる。たとえそれを喜んでできなくても、その職務は、私に命じられている、ということなのです。

 2017年を振り返る時、「費やすことができた」とするなら、なんと素晴らしいことでしょう。

 「正しきは主と共にあり、わが報いはわが神と共にある」、という神の約束を信じ2018年を迎えたいものです。

 

 

 

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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
217ff6fb.jpg 








「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
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おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
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