2020年2月  №151号 通巻836号
 

「今月のことば」

 

イエスはこたえていわれた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたといっしょにおられようか。

 いつまで、あなたがたにがまんができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。

                       =マタイ9:19=

 

信じる私たちにイエスが何度となく、私たちの不信仰について嘆かなければなかったとすれば、恥であり、不名誉であると感じます。もし、私たちが主イエスを信じることが厚ければ、私たちの証しを通して、多くの不幸な人々を主のみ前にお連れし、主はお助けになることが出来たでしょう。しかし、私たちの不信仰のゆえに、神が私たちに助けられること望まれた多くの人々は、助けられることなしに過ぎてしまわねばならないとは・・・。

 

それでも、私たちの上にくだる恥と懲らしめの只中に、一つの大きい慰めがあります。私たちにできないことを、主は、なし給うのです。そして主は、すべてを主のみ前に持って来なさいと、私たちをお招きになります。私たちは父親でしょか、母親でしょうか。どちらにしても、いろいろの仕事をし、不従順な、また無信仰な子供たちを持ち、それを考える親たちは、心配し、嘆き、そして祈るのです。また、このようになったことで、自分を責めることでしょう。

 

そうであるなら、来て、イエスのみ言葉を聞きましょう。「その子をわたしの所に連れてきなさい」との・・・。

救い主が、みもとへ、私たちの持て余す問題を持って来なさい、と言われる時には、素直に、謙虚に主のみ前に置きましょう。そうです。置くべきなのです。

主のみもとに持ってきた重荷を、また持って帰らないようにしなければなりません。多くの人々はそうしてしまいます。しかし、それをしてはなりません。重荷は主のもとに残しておかねばなりません。神は、私たちが祈ることを望まれますが、神の約束されたことを覚え、主の言われたことに、より頼むことを望まれるのです。そうすれば、私たちは重荷から逃れることができます。そして、主に、主こそ尊いお方であるあるという、私たちの信仰を見ていただくことができるのです。主が私たちにそのようにお求めであることを知ることは、何と幸いなことでしょう。

 

 「あなたを呼んでおられるから」

 

 キリストが昼も夜も あなたを呼んでおられるから

   あなたの心を静かにして キリストのみ声を聞けよ

 キリストが愛をこめて あなたを呼んでおられるから

   あなたの心を空(むな)しくして キリストのみ愛を受けよ

 キリストが細き声で あなたを呼んでおられるから

   あなたの心の向きを変えて キリストのみもとへ行けよ

                         水野源三 

 

 「今月のことば」

 

 主の慈しみは世よとこしえに 主を畏れる人の上にあり

  恵みの御業は子らの子に 主の契約を守る人

   命令を心に留めて行う人に及ぶ。

        =詩篇103:17~18=

 

私たちの身体の膝が弱ると、歩むことができず、私たちの心の手が痛むと、働くことは出来ません。

信仰者として大きい問題は<精神的>力の問題です。真実、信仰者らしい生き方をする力、すなわち<歩む>力の問題です。なぜなら、信仰者らしく<語る>ことは、信仰者の大部分の人にとって、さほど難しいことではないが、信仰者らしく生きることは、より難しい日々の熟練がいります。

私たちの内と外にある人間的な強い力が働いて、信仰者の生活をいたずらに口やかましものにさせ、生気のない、弱々しいものにしております。

 

しかし、信仰者が真に信仰者らしい生き方で、神のみ名を崇めることが、神様のみ旨であり、この世に束縛され、邪悪な時代に生きるよりも、もっと生甲斐のある、何かがあることを示すことが神様の御心であります。

 

ではその力をどこに求めたらよいのでしょうか。

知恵があり、学問のある人々は言います。いくらよく食べても、食物が全ての必要な栄養を含まないならば、膝が弱るでしょう。美食をしても、骨や軟骨を作る要素を欠くならば、膝は震えわななくでしょう、と。

 

信仰者がそのことを信仰生活に応用・適用すれば、得るところは沢山あります。信仰の生活が、神様のみ言葉の一面のみを受け入れるのであったなら、信仰者が生きるために必要な力をみ言葉から、得ることはありません。み言葉の戒めと、教えを受け入れない人は、長い間には、永遠の慰め、許しの恵みを受け入れる余裕がなくなるでしょう。

この2020年、神様の救いのすべての勧告に心と耳とを開いて聞き歩みたいと願う日々でありましょう。私たちの熱心や決意は弱いものです。先き先きの計画は捨てましょう。今日を大切にするなら、新たな力が、弱った手に心に、信仰の喜びの恵みが待っていますから・・・・。

 

いともやさしく、善きわが友、楽しきにいます主よ、来りませ。

疲れし者の求むる憩い、真日照る時の、涼しき陰

嘆ける時に安らぎの 癒しの力もて、来りませ主よ、われらに。

 

 「今月のことば」

 

旅人をもてなすことを忘れてはなりません。 このようにして、ある人びとは、気づかないで御使いたちをもてなした。

          =ヘブル13:2=

 

2020年は、「東京オリンピック、パラリンピック」が各地の会場で行われます。人々の交流、文化の交流は日本だけでなく、世界全体でその輪と人の平和への願いの流れが広がるなら、膨大な費用は掛かっても、その一つ一つの建物ばかりでなく、後世に人々の心に残す賜物の時となるなら、素晴らしいことでしょう。

出会いがあり、触れ合いが生まれるところに、理解と善意・平和と絆があると信じたいと思っています。

 

聖書は、キリスト者に「もてなし」の大切さを教えています。そのためには、相互の愛と尊敬がなければ成り立たないものだからです。人間同志が心とかかわりを開く人は、同時に神の祝福への扉を開くのです。

 

神は人生の掟を、与える者は、また受けるにように定められました。物惜しみをし、暖かくもてなさない人は神の祝福を失い、その日々は、絶えず心の咎めを持っています。

アブラハムが、三人の知らない旅人に扉を開いた日、マムレの樫の木の下でテーブルについたのは大いなる人々でありました。今日、私たちもアブラハムと同じ心を持っているならば、天使や、主ご自身を客人として迎えるかもしれません。けれども、悲しいですが欠けているのは、もてなしの精神であるかもしれません。

今、私たちは何でも「ビジネスチャンス」という言葉に囚われていないでしょうか。すべてのことが事業やお金に飲み込まれてしまい、無償で宿や食事を提供する人の数は、だんだんと少なくなってくるばかりのようです。「もてなしの心」が減退すれば、すべてが減退してしまうと思うのは、思い過ごしでしょうか。

天使と神の祝福は、私たちが宿することを断った人々と共に私たちの戸口を行き過ぎ、取り残されて、日々、不景気や少なすぎる収入のことへの不平を言います。しかし、聖書に書いてあります。「あなたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」と。

 

この新しく迎える2020年を、このことを信じ生きるとしたら、どうでしょうか。

人々のために心の扉を開きましょう。暖かい心を祈り求めましょう。この12月はキリスト者にとっても、全人類にとっても、心から「おもてなし」の日にしようではありませんか。

主イエス様を、アブラハムがあの旅人を迎えた以上に、救い主をお迎えしようではありませんか。

 

 とうとき奉仕に働く日々の

   いかに楽しく、過ぐる早き、業やむる時の来るのはいかに早き。

 すべての忠実なる者、家に帰り、楽しきにいます。

   主のいますところ、常に、僕らは祝さるるなり。

 

 「今月のことば」

 

「そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、『わたしに従ってきなさい』と言われた。」

        =ルカ5:27=

 

今年も残り2か月になりました。新しいカレンダー、予定表入りのシステム手帳の準備をされている人もおられるでしょう。また、過ぎ去ったメモを見て感慨に時を過ごしている方もおられましょう。人それぞれ、新年の備えをされるのが11月と言えます。

 

どうでしょうか。今までの自分の生涯を、イエス様に従うことの許された年月であることを思い返すと、その頃は良い年月であったと心から言うことが出来とするとしたら、なんと素晴らしいことでしょう。

もしそうでなかったと言えば、今までの神様からのお恵みをないがしろにしてきたことになります。「救い主」「良き友」「支えつくしてくださった神」との関わりを見失っていた信仰の歩みであったなら、それは「心の闇」と言えないでしょうか。

信仰の喜びを失った信仰生活、主にある友との交わりのない日々にあることに気づかない日々があったとするなら、何よりの悲しみと言えないでしょうか。自分の弱さ、この世の喜びに心奪われてしまった歩みから、再び「わたしに従いなさい」とお招きくださる主イエスの愛は、遠きにあるのではなく、私のそばに、否、私の心に呼び掛けてくださっています。

 

移り行くこの世、不幸や不安、悲しみの中にある私たちに「わたしに従ってきなさい」と語りかける主の愛は、今も私たちの傍らにあるのです。私たちが誤った時、主はすべてを許し、信仰の戦いに敗れた時、癒し、励まし、支えてくださったのは、誰でしょうか。「主イエス・キリスト」ではなかったでしょうか。

主はすべてを理解し、弱り切った心に力を与え、暗闇の中に光となってくださったのは、「主イエス・キリスト」のみです。レビという名の収税人は、イエス様に従いました。

 

われはイエスと共に歩まん。

 主の導きは、たしかなれば、

  サタンの力、われを打つ時、

   主のみ傷はわがよりどころなり。

 

主のみあとにしたがいて

 われ安らかに道をたどらん。イエスとともに常に歩まん。

 

 

 「今月のことば」

 

 まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、

みまえに近づこうではないか。

 

           =ヘブル10:22=

 

 大雨や氾濫に遭われた方々や多くの支援活動に参加されている人々に、神様のお守りと健康をお祈りいたします。一日も早い復興のために活動されておられる自治体職員の方々のおられることを知る時、謙虚にそのお働きに尊敬の思いで、祈らせていただきます。残暑は健康を蝕みます。ご自愛ください。

 

 身近にいろいろのことが起こる時、時として不安になったり、不公平や理不尽な思いを持つものです。そのような時こそ、自らを振り返って見ることは大切です。

 

 「まごころを持って」「神に近づく」という二つの言葉は、なんと尊いお言葉でしょう。驕り高ぶる心や振る舞い、卑屈な思いに陥る日々に、この二つの言葉は、より良くもせず、より悪くもせず、ありのままの姿で神のみ前に行くことへと導いてくれます。

 

 神のみ前に、性質、心、思いを、そして自分のあるがままの内なる生活、外なる生活を置くことでもあります。もし、私たちが自分の見る一部を、または自分で「した」と知っていることを隠したり、見逃がしたりしようとすれば、もはや、私たちは「まごころ」を持ってはおりません。偽り者であり、不誠実であります。そして救いの道は、キリストにあっては閉ざされていなくても、私たちには閉ざされるのです。

 

 また、私たちキリスト者が使う言葉に「心からの真実・・・」という言葉をよく口にいたしますが、本当にそうであるかを、今一度、自分に吟味させます。

 日々の生活に「真理の帯を腰にしめ」、罪人に着せられる「義の衣」も、真理の帯で締められていなければ、脱げ落ちてしまいます。「あるがままに」、神のみもとに行くことを許されるのは、神の愛のゆえに、やさしいことだと考える者は、自分をまだ知っていないのです。「まごころをもって神に近づくことが出来るように、神の助けを祈りましょう。

 

 「今月のことば」

 

 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。

       =Ⅱコリント5:1=

 

世界の各国の民族の歴史的行事には、その宗教の名は別にして、それぞれの名称は異なっても共通した思いで行われているものがあります。それは亡くなった者に思いをはせる心のひと時であります。記念日という国家行事であったり、個人では、日本では命日と言われる日を大切にしています。

 

聖書の言葉には、私たちの身体を何時かは取り壊されるべき家、幕屋、天幕にたとえています。それによって神様は、内なる真の人は、まったく独立したものであり、住むべき地上の家はなくなっても存在することが出来るのだ、と教えています。

 

確かに、どんなに美しい建物が土の中に埋められなければならないことは、悲しいことであります。しかし、落胆する理由はありません。なぜなら、神様は、私たちのために、新しい家を建てる備えをしてくださったので、誰もその変化を悔やまなくてよいのです。

パウロはこのことについては、何の疑いも持っておりませんでした。そしてこの深い確信は、パウロが常に勇気を持っていた原因であり、自らの身体を脱け出して、天より賜る住家を着て、主のもとに住むことを望んでいたのです。

「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。・・・・。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださるのは、神です」(Ⅱコリント5:2~5)。

 

最も美しい、最も深いキリスト信者の姿は、天国に行き、神と共の住み、救い主にお目にかかることであります。神は信じる者に天国を約束してくださったのですから、キリスト者は一人ひとり、毎日をこの確信を持って、日々を歩むことです。希望は確かな喜びになり、信仰の悩みに打ち克たしめる勇気へと導いてくださいます。

 

キリスト者の記念日は、主にお目にかかる先取りの日なのです。人びとは今は無き(亡き)者を思うこともありますが、大切なことは日々神様を、神様の思いをお迎えし、再会を喜び、その恵みを独り占めにすることではなく、多くの人に伝え続ける日にしたいと願う記念の日にしたいものです。

 

 

 「今月のことば」

 

彼女は「どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落穂を拾い集めさせてください」と言いました。そして彼女は朝早くきて、今まで働いて、少しのあいだも休みませんでした。

             =ルツ2:7=

 

ルツの物語は、時代こそ違っていても私たちに多くのことを教え、考えさせてくれます。どうぞ、もしお手元に聖書をお持ちなら、旧約聖書のルツ記をお読みください。今日的な問題への答えとして示唆に富んだ何かを得ることでしょう。

 

ルツという婦人から敢えて二つのことを考えてみたいと思いました。

一つの立派なことは、彼女は自分のことを忘れ、年老いた姑に愛と尊敬をもって忠実に仕えたことです。姑を愛して、自分の生まれ故郷を離れて、知らない人々の中で暮らしました。この点で、異教徒であるルツは、キリスト者の名を負う者よりも、広い心と、素直な性質の持ち主でした。

何時の時代でも、若い人は老人を軽蔑したり、無視する傾向にあります、神様から示されている十戒の第4戒は「父と母とを敬いなさい」「白髪の人を尊敬しなさい」「やもめを大切にしなさい」など、聖書の中には、たくさん示されていますが、それは、そうでなかったということの証しです。

ある者は自分の両親を忘れてしまうこともあります。きれいな老人施設、高額な費用を支払う子供はいても、ほとんど訪ねてくることのない現実に、親子の絆・愛情の希薄さを感じ、自分の気持ちを見ると言われていました。

老人たちに対して真実な心を持ち、何時でも助ける心を持ち合わせる人になりたい者です。老人ばかりでないことは明白です。

 

もう一つのルツの素晴らしさは、他の人が放置していた、麦の穂を、忍耐強く、一つ一つ拾う心にあります。豊かさとは何でしょうか。ルツの行為は、自分と年老いた姑の生活を支えました。今日的でないとか、女性差別とか言われる人もおられますが、旧約聖書の箴言31章10節から31節には、「有能な妻」という小見出しで書かれているところがあります。

ルツの行為が、称賛されるのは、その置かれていた過酷さ、労働の厳しさを残酷なまでに示しています。これは男女を超えた今日的な出来事でもあるからです。

夜明けから夕方遅くまで、背を曲げ、一つ一つの麦の穂に手を伸ばして休むことなく、今日の糧のために拾い集める姿は、子供を養い育てる母親の姿でもありましょう。落穂拾いで得る糧は僅かです。そうしなければ生きられなかったのです。

自分の身の回りを振り返って見ませんか。

テレビコマーシャルに「助け合い」は「助け愛」とありました。

ジャン・フランソア・ミレ(18141875)の名画の一つと言われています「落穂ひろい」は、ミレのその当時の農村風景ですが、ルツの姿を重ね合わせさせるものがあります。

 

 

 

 「今月のことば」

 

 ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます。

           =ルカ14:22=

 

このみ言葉は、招待を受けた者への教訓と言われている箇所の一部ですが、ある客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったと記されています。

 

今日ばかりでなく、いつの時代でも世界は争いと悲惨な出来事を繰り返してきました。希望のない、暗く、侘しいものと思う人も多いことでしょう。平和を願うと言いつつ、その歩みは争いへと突き進んできました。人がいる限り、尊厳を願い、求めつつも、反面、そこでも「XXXハラスメント」という言葉で言われていることが身近に起きています。

学者や専門家はその解決のために原因を探り、答えを求めています。それは決して無駄でありません。

 

しかし、このような現実に対して、神は警告し続けています。神に敵対する

サタンは、力ある者を言葉巧みに誘い込みます。パンと富と名誉の罠を用いて、神のみ子イエス様を誘惑さえしたのです(マタイ4111)。

しかし、イエス様はお答えになりました。

「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」。

「あなたの神である主を試してはならない」。

「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。と。

 

神より離れ、神なき知識には、そのサタンの力を打ち破ることはできません。暗闇と困難に追い込まれ、希望なき明日を、ただ迎えるとしたならば、何と虚しいことでしょう。

 

「今月のことば」は、私たちに希望を約束しています。「まだ席があります」とイエス様はお招きくださっています。

神様は、私たち一人ひとりに「まだ席があります」と言われている今があるのです。私たちから主のみ霊を取り去ってはなりません。この命のみ霊・み言葉・約束は、命のみ言葉、希望の光として働いておられます。

 

この「まだ席のある」、この「席」はこれから先も・・・、と言うことではありません。「今」という時です。私たちは、罪の赦しと、神との平和を願う思いをもっているなら、日々、神のみ前に進み出ましょう。

 

自分の罪を、神への背信を認め、悔い改めへの歩みを始めるなら、絶望する何の理由もありません。しかし、その席に着く時間は今なのです。「まだ」は何時までもではありません。何時か着く席はなくなります。そのことを忘れてはならないのです。

 

  今月のことば

 

それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを船に乗り込ませ、向こう岸のベッサイダへ先におやりになった。

           =マルコ6:45=

 

ニュースでは元号の変更に伴う経済効果が云々されています。その前はその名称が万葉集からであることで、本の売れ行きが話題になりました。動機はどうであれ、関心を持って古典に心を向けるなら、これも感謝なことではないかと思いました。

 

イエス様の奇跡によって、食料の問題を解決した人々は、イエス様を王にしようと望みました。弟子たちもまた、前途に明るい未来を見たのでした。弟子たちや民衆には、イエス様に従うことは、経済的にも引き合うことを、人々がわかってくれる日は近いかと思われたのです。飢えや乾きを解決することは、とても大切なことであることは事実です。

 

しかし、イエス様に対するこのような関心事から、人々を救わなければなりませんでした。そこで弟子たちを嵐の夜の闇の中へと送り出したのです。

 

ある時代、どこの国でもキリスト教会の役員になることは、社会的信頼の証であり、経済的な利益があるという考えを信者が持ち始めると、危険は近いのです。「きよくあることはすべてに有益である」と言うことは真実です。しかし、もし、経済的利得が、キリスト教的徳の報酬であると考えるならば、それは大きな間違いをしています。そしてもし、神の祝福をそのようなものと誤解するなら、イエス様は今でも、その愛する者たちを、その最も好ましくない道へと送り出すことがお出来になるのです。

 

イエス様は、困難と貧困の中に人々が苦労しているのを見ることを好まれません。またキリスト者であることで、物質や富を所有するよりも、口では言えないほどに、はるかに偉大であることを教えたいと望まれます。

 

苦しく貧しい時代は、多くの悲劇や争いを生み出しました。そのために、知恵を出し合い、支え合い、抜け出す努力もまた私たちは行って来たのも事実です。同時に、信仰をいただいた者は、信仰と忍耐と祈りと希望を得ているのです。失うことよりも与えることを学び、支え合い励まし合うことを望み、日々の生活の中でそれを体現することを学ぶのです。

嵐の中で弟子たちは何を見たでしょうか。イエス様が舟に乗って来られ、海が静かになった時、イエス様とは何者なのかを改めて知ったのです。

冒頭の聖句は、630節から52節の一部分です。お手元に聖書をお持ちなら、この個所を是非お読みいただきたいと願っています。

「神の国は飲食ではなく、義と平和と、聖霊における喜びである」からです。

 

  今月のことば

 

 わたしは確信する。死の生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

         =ローマ8:38~39=

 

<149>

 1 とこよにわたりていわえ、 主はよみがえりたまいて、

   よみのとびらをうちひらき、 主イエスは死に勝ちましぬ。

 3 死に勝ちたまえるイエスよ、 み名をたたうるわれらを、

   とわにつきぬいのちもて、 主イエスは死に勝ちましぬ。 
                                          アーメン

 

キリストにあって示され、人々の前に現われた復活の朝、完成された救いは、神ご自身のように完全であります。十字架に頼る罪人をとられている愛のみ手は、すべてに勝って強く、誰もそのみ手からキリスト者を奪い取り、引き離すことはなく、出来ないのです。本当に弱き私たちキリスト者は、この救いの恵みによって強くされ、不安なものが安全にされ、悲しむ者が喜びへと確かに導くのであります。

 

嵐が激しさを増すにつれて、錨は砂に深く食い入って、しっかりと船をつないでおくように、この世にあって神の子供は、困難や危険が最も多く激しい時に、救い主に最も近く、依り頼むのです。人は、見えるものに頼り、自分自身に頼る者ですが、主に信頼する者は、その信頼がむなしく、決して恥ずかしめられることはありません。

 

私たちの周囲に、嵐は激しく吠えたけり、悪の力は私たちを追い求め、病気、貧困、辱め、恥辱が私たちの心に、信仰につきまとう時でも、何物も主のみ手にある者を害することはできないのです。神への信頼は闇が光となり、希望となるのです。

 

「心をつくして主に信頼せよ、

    自分の知識にたよってはならない」(箴言3:5)。

 

「主に信頼する者は、動かされることなく、

    とこしえにあるシオンの山のようである。

 山々がエルサレムを囲んでいるように、

    主は今からとこしえにその民を囲まれる」(詩篇125:1~5)。

 

  今月のことば

 

彼らはイエスを引き取った。イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた。

    =ヨハネ19:17~18=

 

ゴルゴタ。驚くべき、きよい丘よ。その名を言う時、深い厳粛な思いの波に飲み込まれ、何とも言えない静かな喜びと心からなる感謝の思いが信仰者一人一人の魂を揺さぶる。

 

幾千万の人々、否、数えきれない人々、長い年月の間、私たち人類はあなた(救いの恵み主)を待ち望み、待望したことか。そうして時の続く限り、人間はあなたの御業を回顧する。日が地上を照らすように、十字架に立つあなたは、私たちの唯一の光であり続ける。

 

ゴルゴタ。そこで私たちは、木にかけられた、神にして人なるお方にお目にかかる。そこで神と人間とが和解のために出会い、罪はその審判と刑罰と死とを受ける。そこで蛇の頭は打ち砕かれ、敵意は滅ぼされ、和解の印を知る(創世記3:15)。

そこで天が開かれ、命の木に至る道が開かれる。そこに恵みのみ座が設けられ、わたしたちは、はばかることなく聖いお方に近づき、憐れみを受け、必要な時に助けをいただく恵みを見い出す。

 

ゴルゴタ。悪しき日の私たちの避難所、闇の中の光、荒れ狂う大海の中の堅い巌、沈みそうな船のための港、魂の碇、墓を通って永遠の命に至る道。

 

ああ、ゴルゴタよ。世はあなたを憎み、あなた無くしても道と港を見いだせると信じている。けれども、私たちは確かに知っている。人間のともした光がすべて消えた時、あなたが世を照らし、信じる者をすべてに永遠に完全な日へと導くことを。     アーメン

 

  今月のことば

 

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。

        =ヨハネ15:9=

 

私たちの願いは、神の思いを知り、神に愛され、神に信頼して生きることです。しかし、私たちの思いは、それとは程遠いものがあります。とうてい不可能なことでもあっても、そうありたいと思える神への熱い思いを願い求めたいものです。

 

この冒頭のみ言葉の中に、父がみ子を愛されているかという説明の中に、どれほど多くのことが含まれているでしょうか。聖書の中には、その具体的な一つ一つが記されています。是非、聖書を丹念にお読みください。「わたしを見たものは神を見たのである。…。わたしを信じたものは御父を信じたのである」という言葉が新約聖書の中にあります。そのことを通して、私たちは神様への思い、神様への信頼が日に日に増し加わるとするなら、信仰の恵みそのものと言えます。

神に創られた被造物、神に背を向けた罪人、有限な者が、無限者を知ることなど、不可能そのものです。それを可能にしてくださったのは神ご自身の愛と憐みの賜物です。

 

神の愛は、神ご自身の如く偉大であります。この偉大さの中でも最も偉大なこととして、私たちに訴えるのは、父がイエス様を愛したように、イエス様がご自分の者たちを愛してくださるということであります。父がイエス様を愛されたと同じように、私たちもイエス様に愛されるということ―これは私たちの理解を超えることです。

私たちは、イエス様にその命を失わせ、イエス様に反抗し、不従順でした。そしてなお悪いことには、救われた後にさえ不従順なのです。そうであるのに、主イエスは父が主を愛されたように、私たちを愛してくださるのです。

 

イエス様は言われました。「わたしの愛のうちにいなさい」と。この招きの御声に日々、信仰に望みをもって歩む3月でありたいものです。

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 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
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定価 2000円 

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エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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