2019年5月  №142号 通巻827号
 

  今月のことば

 

 わたしは確信する。死の生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

         =ローマ8:38~39=

 

<149>

 1 とこよにわたりていわえ、 主はよみがえりたまいて、

   よみのとびらをうちひらき、 主イエスは死に勝ちましぬ。

 3 死に勝ちたまえるイエスよ、 み名をたたうるわれらを、

   とわにつきぬいのちもて、 主イエスは死に勝ちましぬ。 
                                          アーメン

 

キリストにあって示され、人々の前に現われた復活の朝、完成された救いは、神ご自身のように完全であります。十字架に頼る罪人をとられている愛のみ手は、すべてに勝って強く、誰もそのみ手からキリスト者を奪い取り、引き離すことはなく、出来ないのです。本当に弱き私たちキリスト者は、この救いの恵みによって強くされ、不安なものが安全にされ、悲しむ者が喜びへと確かに導くのであります。

 

嵐が激しさを増すにつれて、錨は砂に深く食い入って、しっかりと船をつないでおくように、この世にあって神の子供は、困難や危険が最も多く激しい時に、救い主に最も近く、依り頼むのです。人は、見えるものに頼り、自分自身に頼る者ですが、主に信頼する者は、その信頼がむなしく、決して恥ずかしめられることはありません。

 

私たちの周囲に、嵐は激しく吠えたけり、悪の力は私たちを追い求め、病気、貧困、辱め、恥辱が私たちの心に、信仰につきまとう時でも、何物も主のみ手にある者を害することはできないのです。神への信頼は闇が光となり、希望となるのです。

 

「心をつくして主に信頼せよ、

    自分の知識にたよってはならない」(箴言3:5)。

 

「主に信頼する者は、動かされることなく、

    とこしえにあるシオンの山のようである。

 山々がエルサレムを囲んでいるように、

    主は今からとこしえにその民を囲まれる」(詩篇125:1~5)。

 

  今月のことば

 

彼らはイエスを引き取った。イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた。

    =ヨハネ19:17~18=

 

ゴルゴタ。驚くべき、きよい丘よ。その名を言う時、深い厳粛な思いの波に飲み込まれ、何とも言えない静かな喜びと心からなる感謝の思いが信仰者一人一人の魂を揺さぶる。

 

幾千万の人々、否、数えきれない人々、長い年月の間、私たち人類はあなた(救いの恵み主)を待ち望み、待望したことか。そうして時の続く限り、人間はあなたの御業を回顧する。日が地上を照らすように、十字架に立つあなたは、私たちの唯一の光であり続ける。

 

ゴルゴタ。そこで私たちは、木にかけられた、神にして人なるお方にお目にかかる。そこで神と人間とが和解のために出会い、罪はその審判と刑罰と死とを受ける。そこで蛇の頭は打ち砕かれ、敵意は滅ぼされ、和解の印を知る(創世記3:15)。

そこで天が開かれ、命の木に至る道が開かれる。そこに恵みのみ座が設けられ、わたしたちは、はばかることなく聖いお方に近づき、憐れみを受け、必要な時に助けをいただく恵みを見い出す。

 

ゴルゴタ。悪しき日の私たちの避難所、闇の中の光、荒れ狂う大海の中の堅い巌、沈みそうな船のための港、魂の碇、墓を通って永遠の命に至る道。

 

ああ、ゴルゴタよ。世はあなたを憎み、あなた無くしても道と港を見いだせると信じている。けれども、私たちは確かに知っている。人間のともした光がすべて消えた時、あなたが世を照らし、信じる者をすべてに永遠に完全な日へと導くことを。     アーメン

 

  今月のことば

 

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。

        =ヨハネ15:9=

 

私たちの願いは、神の思いを知り、神に愛され、神に信頼して生きることです。しかし、私たちの思いは、それとは程遠いものがあります。とうてい不可能なことでもあっても、そうありたいと思える神への熱い思いを願い求めたいものです。

 

この冒頭のみ言葉の中に、父がみ子を愛されているかという説明の中に、どれほど多くのことが含まれているでしょうか。聖書の中には、その具体的な一つ一つが記されています。是非、聖書を丹念にお読みください。「わたしを見たものは神を見たのである。…。わたしを信じたものは御父を信じたのである」という言葉が新約聖書の中にあります。そのことを通して、私たちは神様への思い、神様への信頼が日に日に増し加わるとするなら、信仰の恵みそのものと言えます。

神に創られた被造物、神に背を向けた罪人、有限な者が、無限者を知ることなど、不可能そのものです。それを可能にしてくださったのは神ご自身の愛と憐みの賜物です。

 

神の愛は、神ご自身の如く偉大であります。この偉大さの中でも最も偉大なこととして、私たちに訴えるのは、父がイエス様を愛したように、イエス様がご自分の者たちを愛してくださるということであります。父がイエス様を愛されたと同じように、私たちもイエス様に愛されるということ―これは私たちの理解を超えることです。

私たちは、イエス様にその命を失わせ、イエス様に反抗し、不従順でした。そしてなお悪いことには、救われた後にさえ不従順なのです。そうであるのに、主イエスは父が主を愛されたように、私たちを愛してくださるのです。

 

イエス様は言われました。「わたしの愛のうちにいなさい」と。この招きの御声に日々、信仰に望みをもって歩む3月でありたいものです。

 

  今月のことば

それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。

         =詩篇27:5=

 

2019年も2月を迎えました。この世界でこれからの出来事や人生のすべての謎を解きうる人はおそらく誰一人としていないでしょう。しかし、だからこそ、主なる神はすべてのことを良くしてくださると信じることで、十分ではないでしょうか。

 

多くの人々にとって、何よりも人生の道に暗い影を投げかけるものは、全ての妨害や不運と言います。迷い、疑問に思いつつ歩む日々、正当に評価されず、不当に扱われる毎日、これもまた本当に辛いものであります。

疑問に思いつつ、このようなことに耐えなければならないのでしょうか。なぜ私の人生は不運に巻き込まれるのでしょうか、と思う時もあります。

 

神様は言われました。「主を恐れることを知っている」あなたは、徐々に、年月を過ぎ去るにつれて、」数多くの「なぜ」に答えを得られたことを知るのであると言い、「不幸な日々が、多くの最善であったこと。もっとも祝福された平和を、神によって良くしてくださったことを、喜びとして見い出す時は、あなたが神の家の奥まった家に進んでいた時であることを」。「不幸な時のゆえに神に感謝することができた時に」。

 

そこに「主は愛する者を懲らしめられる」。そして「へりくだって主の懲らしめを受ける者は、神の御心に近く引き寄せられていること」を信仰者として悟ることが信仰の喜びと言えるからです。

「何時も喜んでいなさい。感謝しなさい」というみ言葉の意味はここにあるからです。

 

 

  今月のことば

すると園丁は答えて言った、「ご主人様、今年も、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」。

          ~ルカ13:8~9~

今年も、「つのぶえジャーナル」をよろしくお願い申し上げます。昨年は多くの方々に、祈り寄付金で支えられて2019年を迎えることができましたことは、神様のお許しと感謝しております。また多くの方々からお便りもいただきました。その一部ですが、「眸」や「ほっとひととき『みんなのコーナー』で紹介させていただきました。この小さな「祈りの輪、交わりの輪」が巣立ち広がっていくことを願いつつ、今年も励んでまいります。どうよろしくお願い申し上げます。

皆様の上に神様の豊かなお守りと祝福が豊かに与えられますように、お祈り申し上げます。            編集子

 

私たちは新年の曙の中に立っています。今年はどのような年になるだろうかと誰しも考えます。キリスト者として心へりくだって、過ぎ去った年月をふり返るとき、神様の愛と恵みが、私たちの命と生活の中に豊かに織り込まれていたかを知らされます。そして心の底から、「主よ、あなたはすべてこのとを良くしてくださいました」との告白が湧いてまいります。

けれども、そのような感謝をささげると同時に、早くも吐いて出る溜息があります。現実は困難が待ち構えていることも事実です。それでもなお、今あるこの日まで、最悪の事態を超える道を備え、防いでくださった「一人の人」が立っておられました。正義の手で斧を打ち下ろされるお方でした。それが「キリスト」(救い主)でした。

園丁は申しました。「来年までそのままに置いてください」と。この園丁の言葉によって、多くの人々が救われるための年月をご主人(神様)に下さるように願い出てくださいました。

この2019年という「この年」を本当に大切にし、信仰と生活の目標にいたしましょう。

讃美歌410

 1 鳴れかし鐘の音、雲とび霜おく 

み空をわたりて、ゆく年送れや

   なれかし鐘のね 雪ふる野をこえ

 古きを送りて 新年(にいどし)をむかえよ。

 2 鳴れかし鐘の音、憂いを追いやり

    恨みをうちすて 和(やわ)らぎ迎えよ。

   なれかし鐘のね 誇りを忘れて   

まことの愛をば よろこび迎えよ。

 3 鳴れかし鐘の音、 欲をばしりぞけ

    平和の千歳を 今しも迎えよ。

   なれかし鐘のね 暗きをはらいて

    ゆたけき心に わが主を迎えよ。  アーメン

 

  今月のことば

 

 そしてことばは肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみと、まこととに満ちていた。

             ~ヨハネ1:14~

 

全世界にいるキリスト者は、このみ言葉に、あるひとり子を救い主と信じ、その誕生をお祝いしてきましたし、これからも希望の光として、輝き続けるでしょう。

さて、主イエスを知ることへと導かれた人の中で、このヨハネほどイエス様を深く知りえた人は他にいないことでしょう。そのヨハネの信仰の告白ともいうべき証しが、このみ言葉の中に示されています。

ヨハネは言います。ひとり子(キリスト)とその栄光を僅か20数語で私たちに示しました。「父のひとり子としての栄光であって、めぐみと、まこととに満ちていた」と。

ヨハネが神様の栄光を見出すより以前に、たまたま、この神様のご栄光に与った人々がありましたが、それは焼き尽くす火の中においてでした。しかし、神様の栄光はイエス・キリストの中において、私たちに出会われる時には、恵みとまことに満ちている時です。

キリストを離れては、近づき難い神様です。信仰の人モーセは神様に申しました。「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」。しかし主は「あなたはわたしの顔を見ることはできない」と言われました。

この恵みとまこととは、わたしたちが神と共なる命を得るために、キリストから離れては絶対に得ることはできないのです。この事実は、誰もが認めなければならない事実です。

「だれでも真理につく者は、私の声に耳を傾ける」とイエス様は言われます。この事実を、このイエス・キリストの誕生で知る大切な時であり、全世界の人々に示されたメッセージなのです。

 

 

  今月のことば

しかし、神に近くあることはわたしによいことである。

わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。

         ~詩篇73:28~

 人間の心の中には、いくつかの特徴があると言われています。その一つに、神に近づくことを恐れることです。何事でも、神と顔を合わせることは、心の中に何か後ろめたさと、不安と、重苦しい思いを作り出すからだそうです。それは、都合の悪い私たちにとって、自由で幸福であるためには、神が遠くの存在であってほしいという思いの表れです。

 

 しかし、身勝手にも人は悩みや大きな出来事に遭遇するとき、初めて神の存在に心を馳せ、神が助けてくれるために近づくことを望みます。しかし、危険が去ると同時に、神の存在から心が離れてしまいます。このような私たちの奇妙さにありつつも、死後は神と仲良くやっていけるという妄想に生きています。そのような奇妙な偽りの妄想の中に、多くの人は生き、死んでいくのです。

 

 神様から信仰が与えられ、歩むキリスト者には、今、現実に生かされている今の中に、神に近づき、共に歩ませてくださいという深い思い、願望があります。それは、神のみ言葉を通し、祈りにおいて、他のキリスト者との交わりにおいて、「神と共に」という思いに導かれ、感謝する特権を持つようにされているからです。この事実に勝る喜びはありません。

 

 このもっとも素晴らしい思いは、キリストの十字架の意味を知り、信じ、受け入れることを決心するキリスト者に与えられる、恩寵です。このキリストを救い主として信じ生きる歩みこそ、唯一の「避け所」「真の避け所」となってくださるのです。

 

 「けれどもわたしはつねにあなたとともにあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。

  あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」。 (詩篇73:23~24)

 

  今月のことば

 

 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。

        ~Ⅱテモテ4:7~

 パウロは一生の旅の終点に立っておりました。彼は疲れ果てるまで日毎に労し、多くの困難な戦いを経てきました。そうして今、戦いの終わりも日の暮れるにつれて見えてきました。このような確かさ、このような平穏な、信仰の勝利をもって、生涯の終点に立つ特権を得ることは、素晴らしいことです。それはちょうど、上なる空は、明るい金色の雲に覆われている大空の夕陽を見るようだ、と詩人は詠っています。

 

 パウロが最も喜ばしく感じていたことは、生涯の戦いを通じて信仰を守り通したことでありましょう。これは、彼が信仰に「よって」戦わなければならなかったものばかりでなく、信仰の「ために」戦わなければならなかった者の一人でもあったことを知らされたことです。この戦いをしてきた者は、すべての戦いの中で、これが最も困難なものであることを知っています。

 

 神への信仰、キリストへの信仰、天国と死後の命に至る信仰が崩れ始めると、すべては夜の闇となり、逃れる道が見えなくなります。しかし、信仰者はこの道を通らなければならないのです。「わたしが命である」と言われたイエス・キリストへの道です。

 

 しかし、これを安全に、安らかに通り抜けるとは、なんと驚くべきことでしょう。もはや、弱った足がわたしたちを運ぶことができなくなっても、目が真昼の中に暗闇を見つめる時、平和な国、温かい家庭・家族との憩いの時と、そうして永遠の日を見る信仰を持つことは、言い尽くせない大いなることです。

 

 大切なことがあります。それが長い短いという生涯ではなく、自分の旅路の終わりを知り、「喜ぶ」ことのできる信仰が与えられ、持っている今であることを知っていることです。

 

 わたしたちの唯一の拠り所を知り、そこに生き、それを証しすることに尽きることを、パウロは語っています。

 

  「今月のことば」

 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのだから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい。

           ~Ⅱコリント520

 日本人の感覚で理解できないものの一つに「救われる」という宗教としての考え方であると、ある宗教家の著書の中にありました。それは罪に対する意識・認識の相違とありました。罪は犯罪という理解と対神という宗教的理解・神への背信・敵対であるとする聖書の主張にあります。大切なことです。「今月のことば」で、聖書はそれを示す。この真理をご一緒に考えてみましょう。

 

 まず、キリストの救いを得るには、用意されているキリストによる救いが、私たちに伝授されなければなりません。私たちの外側に、用意された救いがあるということだけで十分ではありません。私たちはそれを自分のものとして受け入れなければなりません。キリストの御業、恵みは、私たちの救いのためには十分であるというのは確かであっても、私たちはキリストの死によって、神と和解した者とされる必要があります。しかし、和解を許されるためには、私たちは、まず、自分自身を和解されるようにしなければなりません。それは、私たちがキリストのみ元に行き、主によって用意された救いを受けなければならない、ということです。

 

 もし、それをしたくないならば、決して救われません。ですから、神様はみ言葉を送り、証し人を送って、キリストに立ち返ることを強く言われるのです。

主イエスは私たちの負債(罪)と咎の証文を取り、主ご自身の血で、「支払い済」の印を、神の聖所で押してくださいました。同時に、私たち自身の心の中に「支払済」(罪赦された者)と主イエスに書いていただかなければなりません。そして信仰によって私たちの心を主に潔めていただかねばなりません。

 失われた私たち罪人としてキリストに行かず、キリストの死には自分の罪の責任があると認めない者、また、信仰によって心をキリストに開かない者は、裁きを免れることはないことを事実として知らされています。

 私たちは、自分自身が救われるか、失われるかを決断しなければなりません。この決断は「今」なのです。

 

  今月のことば

 「さあ、かわいている者は、みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。」

          ~イザヤ55:1~

 今回の西日本豪雨で大雨と川の氾濫、土砂崩れで、多くの被害と人命が失われました。心から、お悔みとお慰めが与えられますようにお祈りいたします。多くの方が「ジャーナル友」として、今のお気持ちをお届けくださいました。このような心の交わりが、この「つのぶえジャーナル」を介して与えられていることを痛感いたしました。その使命を神様からの「召し」と信じ、励んでまいります。どうぞ、『ほっとひととき「みんなのコーナー」』をご覧くださり、祈りに覚えていただければと思います。

 

 人の思いと心とは本当に不思議に思えます。私たちの心の中にある、なやましい不安と、深い心の慟哭を、神様は「飢えと渇き」と呼んでいます。人々にお金や名誉や、権力や快楽を追わしめるものは、この魂の飢えであり、その多くの者が放蕩や恥辱に走るのも、これに由来するといえるでしょう。

 人はこの地上の富をもう少し持っていさいすれば、また、情熱の命ずるままに生きることができたならば、幸いであろうと考える者も多いのです。この間違った人間の価値観、人生観は、私たちの内に深く根を下ろしていて、誘惑する悪魔(サタン)方は、実に多くの人々を永久の不幸へと追いやることが出来ます。

 

 神様は、この私たちの絶望的な道に行くのを見たもう時、心から憐れみをもって私たちを呼び、「帰って来い」と言われるのです。神様には、満腹させる食物があります。渇きを止める飲み物もあります。そしてそれを、「ただでもらえる」と言われます。この招きには誰もが与れるのです。しかし、この招きに来ないのです。

 

 この「今月のことば」の1節に書かれているのは、全てただで頂けるにも関わらず、私たちは買わなければならないというのです。無価値なものを買わなければならないとは、納得しかねます。無料、無代には疑いを持ちます。しかし、ここでは、「無料、無代」ではないのです。それは「来る」という値を払わなければなりません。特に信じられない、「ただであるというものを受け入れる」という値段があるのです。そうして、それを神様からの愛と憐み、恵みであると信じて受け入れる思い(信仰)を言い表す(告白)ことです。

 信仰とは、神様がお与えくださるお約束を信じ、より確かなものとするために生きる、生き方そのものです。

 

  『今月のことば』

 なぜなら、キリストの愛が私たちに強く迫っているからである。私たちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

             ~第二コリント~5:14~

 いつの時代でも「愛」という言葉は、その意味することはいろいろでしょうが輝いています。

 聖書から考えてみましょう。

 神の本質は愛です。そしてキリスト教の本質もまた愛です。神がその子供らに、ご自身の持っておられる性質をお与えになりました。

 愛は私たちの心に、信仰と聖霊とによって産みつけられます。それは、私たちがまず神を愛したという意味で、生じたものではありません。私たちを愛して、そのみ子を私たちの罪の贖いとしてくださったのは、神です。

 それは私たちの大きな幸せでした。もし、そういう計画でなかったらば、私たちは決して神より来る愛で愛するということに、到底、達することはなかったでしょう。

 しかし。この美しい宝に目を向けて、受け入れる人は、神を愛することを学ぶのです。愛する者は、神より生まれたのです。

 

 神様から信仰を賜ったキリスト者としての私たちの大きな務めは、この愛を私たちの命の中に、もっと取り入れることです。私たちがキリストの愛にだんだんと深く導かれるのでなければ、聖化への私たちの努力はすべて、白く塗った墓になるでしょう。

 パウロは言いました。この成長への道はゴルゴダを通るものだと。霊において、そこに立つ時、一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだという真理が明白にされました。パウロがそこで見た愛は、パウロを強く捕らえて、その生涯を私たちすべてのために死んでくださった方に、捧げさせたのです。パウロはもはや自分のために生きようとは願わず、私たちのために死んで、また生きた主のために生きりことを願うのです。

 

 神様、願わくばカルバリの丘の上に見出すあなたの愛を、この身にお与え下さい。そうすれば、私たちの生涯は喜びと、奉仕する愛の実を結ぶでしょう。  

 

 

  今月のことば

 しかし主を待つ望む者は新たな力を得、わしのように翼をかってのぼることができる。歩いても弱ることはない。

       ~イザヤ40:31~

 何時の頃からか、「五月病」と呼ばれる言葉が、当たり前に使われますが、その言葉で何かを納得させる、不思議な言葉です。同じように、病院で医者から何かの病名を聞くと、これも重症でない限り安心するのは、どうしてなのかと思う時があります。

 

 私たちの日々に中に、時として勇気を失い、何事にも疑い深くなると、力を失いますが、信頼と希望は、生活に魂に喜びと勇気が与えられることを誰もが経験しているのではないでしょうか。ですから、「落胆の泥沼」に深く沈んでいても、「希望の目覚め」を待ち望むのです。

 

 私たちが、自分と住んでいる世界とを見る時、すべてのことが暗く、不可能にさえ思えます。しかし、私たちが聖書を開き、読み、考える時、必ず出口が見つかるのです。希望は神様による信仰を失わない者を、その「暗い泥沼」から、本当に不思議ですが、希望と喜びへと導かれているのです。

 

 もし、神に導かれ、希望を示されていても、不平を言い、落胆して生きるなら、それが神様の誉れにはならず、自分たちの幸いにもならず、他の人々を支え、助けることなどできません。聖書の中に「悔い改め」という言葉が出てまいりますが、「涙をぬぐい、顔を洗うこと」こそ、「悔い改め」です。イエスを「救い主」とし、神を父として持つ者にふさわしい「思い」とも言えます。

 

 もう一度、弱りはてたこころの翼をひろげましょう。知らぬ間に再び、若い鷲のように、高く翔り、人生の悲しみを越えて高く、高く走り、強くなり、喜びに溢れて、イエスのみ名によって、神様に感謝する者にされることを強く望む者は、ほんとうなのです。新たな力を得ます。

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日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
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東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

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 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
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電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
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ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
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本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
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