2019年8月  №145号 通巻830号
 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・20・・   

       水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

11 名古屋地方とマカルピン・・1・・

 

1887年(明治206月、マカルピン師は南長老教会ミッションの第二の伝道地である名古屋に駐留することとなった。古い伝統と仏教(真宗)の金城湯池と言われた土地柄、しかも切支丹殉教者2000名の地として知られているところであって、キリスト教に対する態度は冷淡であった。ここには、バラ先生の伝道した少数のキリスト者の群があり、講義所を委任されて、それを足掛かりに伝道することとなった。

その年の107日、REマカルピン師はバラ先生の娘アンナ・ヘップバーン・バラ嬢と横浜で結婚した。時にマカルピン師は256ケ月の青年宣教師だった。新家庭のマカルピン夫妻は、伝道困難な愛知県と岐阜県の東美濃地方に伝道した。

この冬、中国の漢口に伝道していたアンニー・E・ランドルフ夫人が健康不良のため、その保養に名古屋に来てマカルピン師夫妻とともに暮らすことになった。夫人は健康が快復するにつれて何か働きを求めるようになり、宣教師として日本の女性のために奉仕すべく塾教育を始めた。彼女の特技は編み物で、中国語をよく知っており、聖書知識と堅い信仰、英語などによって福音への道を拓こうと考えたのである。

初め三人の日本人の女生徒であったが、やがて数もふえて明治22年(1889)には、二部屋まで使用するように発展したので、マカルピン師は隣家に移転しなければならなかった。女子教育の事業はミッションにとっても必要な事業と認められて、これを育成することになり、それが成長して遂に今日の金城学院にまで進展したのである。

名古屋、高知と南長老教会ミッションの宣教師も、この年には14名となった。S・P・フルトン師(Rev samuel peter fulton)がこの年に来日し、やがて岡崎を中心に三河地方の山奥津具地方にまで伝道を進め、マカルピン師は、名古屋、多治見、中津川、坂下などを足場に、更に山奥へと伝道区域を広げて行った。バラ先生の伝道の種は成長し、更に、マカルピン師はこれに水を注いで育てる働きをされたのである。

写真=RE・マカルピン師金婚記念と訪問の市村与一氏(193710月)

引退後のRE・マカルピン師72歳(1934)。

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・19・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

10 高知とマカルピン・・2・・

1887年(明治20410日、マカルピン師にとって、生まれて初めて日本語による洗礼式を20人に施したのである。これは一生涯忘れることはできない、大きな印象であった。

その頃高知では、先生が生徒を引率して時々神社参拝をした。ところがその中に、12名のキリスト者の生徒がいて、神前でお辞儀をすることを拒んだ。そして、ほかの生徒たちにも参拝を拒否するようにすすめた。先生たちは神社参拝の礼を率先して示して、生徒もこれにならうようにすすめたが、生徒たちは「単なる偶像に礼拝することはできない」と聞き入れず、先生たちを冷笑した、ということである。

こうしてキリスト教信仰の影響感化によって生徒たちは、「信仰の自由」と「良心の自由」を目ざめさせたことは、高知伝道の良い成果であった。

 

グリナン、マカルピン師たちの片言まじりの説教でも、高知人にはよく通じたのである。太平洋に向かって開かれた高知の県民性には、新時代への展望とビジョンを持つ進歩性が指導者階級にあった。

明治3年(18708月の神道国教化とともに廃仏毀釈が高知全県下に行われて、あらゆる寺院仏閣が破壊され、その数458ケ寺に及んだ。現存の寺の多くは、その後復興したものである。

革新の気風は県下にみなぎっていたのと、自由民権家の多くの者が、その倫理性をキリスト教に求めてフルベッキ師、タムソン師、ミロル師、ナックス師、アレキサンドル師、バラ師、プライス師、ハートス師などの外国宣教師や植村正久氏、押川方義氏、片岡健吉氏、岡弘毅氏などの来県伝道によって、高知教会は、その設立当初信徒21人であったのが、6ケ月後の1885年(明治1811月には82人、1887年(明治2012月には328人、1890年(明治2212月には556人、1891年(明治2312月には618人と躍進したのである。

 

高知市に関する限り、宣教の働きは日本の牧師、信徒の伝道で十分であった。マカルピン師は、むしろ高知県の郡部の遠く宿毛、中村地方や東部の安芸、田野方面に、北部は山奥の本山、土佐山、樫山地方に伝道した。もちろん、こうした伝道には日本人の信徒が同行して集会を助けた(後日、須崎、幡多郡地方に再度伝道したマカルピン師によって大正年間宿毛教会(現日本キリスト改革派宿毛教会)の会堂が建設された。(当時、主任伝道者今西延幸師)。

写真=JAマカルピン宣教師夫妻按手及び日本伝道出発当時の父子(1935

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・18・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

10 高知とマカルピン・・1・・

 

 浦戸湾の美しい海面をすべるように船は高知港に入った。港には多くのキリスト者が一行を迎えに来ていた。同行者のミロル師は、先年、高知教会(日本基督教団高知教会)の設立式にも聖書朗読の役をしており、この若い宣教師の案内役でもあった。上陸すると旅館の「延命軒」に案内された。発音が、アメリカンに似ているのでマカルピン師は〝アメリカンホテル″と言ってよろこんだ。外人用のベッドも準備されていた。

日曜日、高知教会に出席し山本秀煌牧師、長老片岡健吉氏に会った。礼拝は100名ほどでこの日大人の礼拝者が17人であった。当時、高知教会はまだ会堂もなく、高知市中島町の森武興氏宅を集会所にし、信徒の多くは一家の家長の三十代の者が多く、藩出身の士族で板垣退助の指導する自由党の民権運動家であり、それぞれ一家言を持つ闘士たちであった。教会設立以来一年足らずで、既に100名の会員を有する進展ぶりであった。

マカルピン師はその夜、寒々とした芝居小屋で開かれたキリスト教演説会に出席した。4人の弁士に熱心に聞き入る1000人余りの聴衆に、マカルピン師は驚いた。キリスト教に対するこの熱心な高知人に「鉄は熱いうちに打て」との格言を思い起こすのであった。

幾万という熱烈な仏教徒に対して、たった一軒のクリスチャンホームしかない名古屋と引き比べて、ここは何と大きな違いであろうか。日本伝道に未経験な若い二人の心は決った。こうして南長老教会の第一の伝道地は高知となったのである。

当時の日本に外国人が居住するためには、誰かに雇われていなければならなかった。すなわち「お雇い外国人」として、日本の文明開化に貢献する仕事がその居住の条件であった。

マカルピン師とグリナン師の両名は板垣退助、片岡健吉氏の関係していた男子の高知共立学校(明治1410月設立 明治1510月追手筋に移転)のお雇教師となって英語を教えることになった。これは宣教師として、青年たちと英語を介して接触し、キリスト教入信のいとぐちとなるものであった。このことは結果として、後にこれらの者たちの中から召命を受けて牧師となり、有力な教会の指導者を生むことになった。

写真=豊橋教会におけるRE・マカルピン師送別記念会(1932

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・18・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

9 RE・マカルピンの来日・・2・・

 

横浜に着かれた日は、肌寒いどんよりとした曇り日であった。そこにはバラ先生が若いマカルピン師とグリナン師を出迎えに来ておられ、開港しても桟橋のない横浜港は、はしけで上陸しなければならなかった。初めて人力車に乗ってバラ先生宅に着いたマカルピン師には、人力車は興味のある乗物で、東洋の国日本に着いた感慨を深くしたに違いない。また、まぶたに深く焼き付けられた富士山の雪をいただいた船よりの風景も、一生忘れられない思い出となったである。バラ先生夫妻や二人の令嬢の温かいもてなしに心も和んで、日本での貨幣の計算方法や郵便の出し方、品物の買い方など、早速勉強しなければならない仕事がたくさんあった。

日本の教会とミッションとの合同委員会での協議の結果、名古屋と高知が伝道地として候補に上げられた。数日後、横浜から船で名古屋へ、港から人力車で市中へと、不便な道中であった。広い尾張平野の大きな町であった名古屋には、バラ先生の伝道の成果で名古屋教会(現日本基督教団名古屋教会)が先年建設されたものの、クリスチャンホームは、一、二軒に過ぎなかった。名古屋の伝道計画をあれこれと考えながら、比較的信徒の多かった瀬戸の町もバラ先生や坂野嘉一牧師に案内されて視察した。

 

名古屋地方は仏教、とくに浄土真宗の盛んなところで、特に明治初年以来、文明開化と共に盛んになってきたキリスト教に対しては、激しい反感をもっていた。美濃、尾張地方は、安土、桃山時代、織田信長、豊臣秀吉の生まれた土地であり、信長の切支丹援護政策によって、岐阜、清洲、名古屋にはおおくの信徒が住んでいたが、徳川の天下になって、その幕藩体制と仏教国教政策から、キリスト教禁止による弾圧の迫害が行われ、名古屋の千本松原では三千の教徒が殺された史実があり、キリスト教邪宗観の強い土地柄であった。

さらにもう一つの伝道候補地の高知は、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の行われた地であり、自由民権の運動と共に新時代への政治に目覚めて、キリスト教受容の進取的気風が強く、すでに有力な政治家たちのキリスト教入信によって、教会建設も先年達成したところであって、他の宣教師の勧めもあって1886年(明治191月、高知県視察に赴くことになった。RE・マカルピン師はグリナン師とほかにミロル宣教師夫妻が同行、22日出発、26日火曜日午後高知に着いた(ミロル宣教師Miller Edward Rothesay184319151872年(明治55月に来日、米国長老教会宣教師)。

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・17・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

9 R・Eマカルピン来日・・1・・

こうした事情から1885年(明治18)にバラ先生は、米国の南長老教会外国伝道委員会宛に書簡を送り、日本伝道の急務と宣教師の足りないこと、米国オランダ改革派教会ミッションはその規模からいって、今、宣教師を派遣することは難しく、貴ミッションよりの応援・派遣を願うという依頼の文面であった。

そこで南長老教会は「たまたまセントルイスの、グランドアベニュー長老教会が、亡くなった牧師マクヒーター博士のため、何か適当な記念事業をと考えていたので、外国伝道委員会総主事ヒューストン博士と相談の上、日本伝道の資金を提供することを申し出た。外国伝道委員会は喜んでその申し出を受け納れ、二人の青年を日本に派遣することに決めた。

 

一人はヴァジニア州ブバント出身のグリナン師(Rev Randolph Bryan Grinnan)、もう一人は、アラバマ州マーデイスヒル出身のマカルピン師(Rev Robert  Eugenius  McAlpine)であった。二人の青年は18851110日サンフランシスコを出発し、121日火曜日、横浜に到着した(近藤武一著「米国南長老教会の日本伝道」33頁)。

 

ここでRE・マカルピン師の来歴について記すと、師の両親は、父をオーガスチン・アービン・マカルピンと言い(1820428日生~1910616日没)で、(18471026日結婚)、REマカルピンのお父さんは、お医者さんであったが、ある嵐の日、馬に乗って患者を巡回する内に風邪をひいたのがもとで49歳の時に逝去されてしまった。その時REマカルピン師は男6人、女2人の兄弟姉妹の中の一番下であった(186235日生)。少年時代をアラバマ州のタラデガ(Talladega,Alabama)の学校に学び、後にテネシーのクラークスビルにある南西プレスビテリアン大学に学んだ(1914年に神学博士の学位を得られた)。最後の学びは南カロライナのコロンビア神学校である。18841014日、外国伝道にため召命を受けられて日本への伝道に来日されたのであった。
写真・・・バラ・マカルピン 両宣教師の家族 於横浜(1910年)

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・16・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

8 バラの伝道・・8・・

1883年(明治16)、51819日午後一時から東京の久松座(後の明治座)で、キリスト教大説教会が開催され、バラ先生は「イザヤの予言」と題して話された。金森通倫、コレル師、松山高吉、ノックス師、押川方義、小崎弘道、宮川経輝などが説教者で、この日には会衆二千名ほどで、翌19日には海老名弾正、稲垣 信、横井時雄、フルベッキ師などの説教があり、劇場の二階が落ちはしないかと危ぶまれて、丸太で支柱するほどの盛況で三千人が集まった。

この年、明治16年の初週祈祷会は明治5年横浜の初週祈祷会に始まったリバイバルの如くに信仰復興の機運はキリスト教主義学校や教会にまで起こり、数週間連続の祈祷会は燎原の火の如く上州、神戸、大阪、中国、四国、仙台地方にも伝わって、熱心な信仰者が多く生じたのである。

時代は文明開化の潮流に乗じて、この年11月には鹿鳴館が開館し、政治思想では自由民権運動で国内は沸騰していた時である。

同年1112日、マルチン・ルーテルの四百年記念集会が木挽町の明治記念館で開かれて、バラ先生は、井深梶之助、稲垣 信、フルベッキ師、小崎弘道の人々と説教壇に立たれた。会衆は千五百人であった。日本における青年主体の運動が始まったのもこの年で、教会内で青年会の組織が計画され、ヤングメンの訳語として小崎弘道の発案で「青年」の訳語が生まれたのである。

 

バラ先生の伝道は変わることなく続けられたが、その伝道範囲もますます広くなって、とても改革派教会の宣教師だけでは伝道の責任を果たし得なくなって来た。来日当時の米国オランダ改革派教会の宣教師を記すと次のようである。

 

「宣教師名と夫人名」 来日年月日、備考

シモンズ(18341889) Simmons,Duane B1859.10、神奈川横浜、医師

シモンズ夫人 Simmons,Mrs.D,B1859.10

フルベッキ(18301898)Verbeck Guido Fridolin1859.11.7、長崎、東京

フルベッキ夫人Verbeck Mrs. G,F(Maria) 1859.11.7、長崎、東京

ブラオン(18101880)Broun,Samuel Robbings1859.10、横浜

ブラオン夫人Broun,Mrs.S.R1859.10、横浜

バラ(18321920)Ballagh,James Hamilton1861.11.11、横浜

バラ夫人Ballagh,Mrs.J H(Margaret Kinnear) 1861.11.11、横浜

スタウト(18381912)Staut,Henry1868.2、長崎

スタウト夫人Staut,Mrs.H1868.2、長崎

キダー女史(18381910)Kidder. Mrs.Mary Eddy1869.1、横浜

ウォルフWolff.C.H.H1871、弘前、東奥義塾

ウォルフ夫人Wolff.Mrs.C.H.H1871、弘前、東奥義塾

へゲンバーグ女史Heguembourg,Miss,S,K,M1872、横浜

写真・・・バラ宣教師の尽力によって建設された瀬戸永泉教会会堂

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・15・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

8 バラの伝道・・7・・

 1882年(明治15)、50歳になられた先生は、名古屋から坂野嘉一氏を同伴して徒歩で瀬戸村に伝道、加藤吉太郎方で集会された。瀬戸地方の集会は1888年(明治211020日信徒41名、小児3名で、瀬戸永泉教会(現日本基督教団瀬戸永泉教会)として設立された。

瀬戸伝道で信徒の家に泊られた先生に、「ニワトリを料理して差し上げたところ“私はこの家の時を告げるトケイを食べてしまった”と久しく慨嘆されていた」(伊藤虔三氏談)という逸話が残っている。

この瀬戸伝道を経て先生は、三河路に入り、奥三河の津具村(愛知県)に向かわれた。途中、三国山系戸越峠を越えられるとき「この三つの国を与え給え」と熱心に祈られたとのことである。美濃、信濃、三河を望み見る三国連山に立って、バラ先生の救霊の祈りは熱く燃えたにちがいない。

奥三河、津具村地方の伝道は、後に豊橋、岡崎伝道とともに南長老教会ミッションの伝道地としてSP・フルトン師(18651938・中央神学校校長)によって引き継がれ伝道された。古い洋傘と日焼けした黒服の逞しいバラ先生の僻地伝道の姿は、これら山国の村民や宿場町の人びとに畏敬の念をもって見られていたにちがいない。

荒っぽい、そしてぎこちない日本語を話すバラ先生の言葉の背後には、温かい心と人を動かす熱誠があった。純正な福音の種を、かたくなな日本人の石の心に植え付けるためには、たとえ偶像教徒であってもこれを軽蔑したり、嘲笑する優越感はバラ先生にはなかった。

因習の石を取り除くにも、優しく振舞う外科医のメスのような細心の注意と、相手の心の傷を癒さんとする愛があった。

東奔西走、文字通り疲れを忘れたかのように前人未踏の山地を歩き回り、聖書の信仰を伝えてやまなかった先生によって、日本に正統信仰の土台が築かれたのである。

 <マカルピン家の紋旗>

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・14・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

8 バラの伝道・・6・・

 名古屋地方の伝道は、坂野嘉一氏談によると「植村正久氏の発起にして、ダッチリフォームドミッション其説を容れ、1878年(明治11)春、植村氏は山本秀煌氏と共に手を下し、数年の後、余(坂野嘉一氏)之を受け継ぎ、その後石原 量、南小柿洲吾、細川 瀏、笹倉弥吉の諸氏代る代る牧会の任に当たられ、以て今日に至れり、其の教会設立(筆者註明治1753日)当時は岡崎、水野、津具地方の信徒合わせて33名、名古屋在住信徒の数は実に12名に過ぎざりき」(福音新報202号)とあり、また植村正久氏の談によると「その年(明治11年)10月頃に、此の名古屋の土地に伝道に赴いたが、どうも一向に伝道の事は出来なかった。幾ら説いても聞いて呉れる人はない。困りました。そうして此所に殆ど10ケ月居りました所、故障が起こりまして、東京に帰った」(明治26年名古屋に於ける日本全国基督教信徒福音同盟会員席上談)とあり、すでに、その頃、名古屋にはタムソン宣教師から受洗した(明治2年)判事の鈴木甲次郎(宮津藩士)が伝道に協力し、また、バラ先生の同地方伝道による求道者も多くあったと思われる。

それは植村正久氏がバラ先生所属のダッジリフォームドミッションの諒解の下に、名古屋に伝道したことによっても理解されるところであり、岡崎、水野(瀬戸近傍)、津具地方は、その後もバラ先生の伝道地域として巡回されたところである。奥三河から伊那谷の天竜川をさかのぼってよく伝道されたとも聞いた。

明治141月には、名古屋でバラ先生から受洗した林 ため、林 栄吉があり、続いて同月、岡崎で正村 基、石橋重則、河西 晋の3名がバラ先生から受洗した。(海岸教会会員名簿より)。この年、三島で20余名の洗礼者がバラ先生によって与えられた。先の名古屋地方伝道もバラ先生から受洗した坂野嘉一教師の出身地有松町に始まり、同じバラ門下の植村、山本両教師によって伝道されたことも決して理由のないことではなかった。

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・13・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

8 バラの伝道・・5・・

 1876年(明治9)、信州上田教会の建設を見てから、この中山道の信州伝道はバラ先生にとって、パウロの如く「しばしば旅行して河の難、盗賊の難、同族の難、異邦人の難、市中の難、荒野の難、海上の難、偽兄弟の難にあい、労し、苦しみ、しばしば眠らず、飢え乾き、しばしば断食し、凍え、裸なりき」(Ⅱコリント11章26~27)とあるように、文字通りワラジがけ伝道の不便な旅には嵐あり、野宿ありの苦労であった。

それは1880年(明治13)頃、中山道の和田峠に嶮を越えて下諏訪宿に辿り着いた先生は途中、木陰で祈っては休み、聖書を読んでは力を与えられて、宿場に入ると路傍伝道をして人々に語り掛け、旅宿を集会場にして求道者を得、やがて上諏訪の地に講義所が開かれるに至った。

日本キリスト改革派上諏訪湖畔教会の飯田幸之助牧師の談によると、

「当時、バラ宣教師は和田峠を駕籠で来たり、甲州路から馬で来たりした。家庭集会や路傍伝道に努め、おぼつかない日本語で、相手のだれかれなく語りかけ、病者にはぶどう酒を贈るなどして、生血と誤解された逸話が残っている。1909年(明治42)位までの間、伝道拠点として或る家に、また他の家庭集会に、路傍伝道にと、しばしば来たりて活動された。後、上諏訪町の発展とともに集会は上諏訪に移り、教会が設立された。・・・。聖餐式にあずかった時、バラ宣教師ゆかりの聖杯でぶどう酒を飲んだ記憶がある。それは普通、仏壇に使う飯を盛る陶器であった。バラ宣教師がぶどう酒を飲むに都合がよいというわけで仏具とも知らずに買い求めてきたとか」。

バラ先生が、今日のように聖杯用具のない時代に、格好の杯代用品のものを(仏具用に造られたとしても)探して用いられた、その苦心は想像するだに興味深いことである。筆者は、日本基督教団諏訪教会を訪ね、ありし日の聖杯並びに洗礼の水鉢を見せてもらった。20数個の杯は、全く聖餐に用いるに格好のものであった。洗礼水鉢は雑器のように保存されていたが、それは鍋島焼柿右衛門の立派な手描きの美しい菓子鉢だった。その逸品は現在では入手しがたい品として大切に保管されるよう、吉田勇牧師にお話して辞去した。

諏訪教会にはバラ先生による受洗者の記録はなかったが、同市内の日本基督教団上諏訪教会(ホーリネス系)の西川博彬(ひろよし)牧師を訪れて、同教会の役員で旧日本基督上諏訪教会員であった呉服商長瀬太郎氏の祖父唐沢源治郎氏が明治14年伊那谷(坂下)でバラ先生から受洗したとの話をお聞きした。すでに明治13年頃、諏訪から伊那谷の伊奈町(現伊那市)、飯田を経て神坂峠を越え、馬籠宿中津川宿を経由、瀬戸、名古屋のコースを取られ伝道旅行されたようである。

北信州の上田、長野、南信州の松本、諏訪、坂下(伊那)、飯田などの教会は成長して、明治末期には、それぞれ主任者が定住して伝道した。

  ダッチリフォームドミッション(東京中会内)伝道地(明治4411月調))

四 谷 東京市四谷区大番42   稲垣   信 (教 師)

長 野 長野県県町76      木村  熊二 (教 師)

松 本 松本市仲町        杉本 栄太郎 (伝道師)

坂 下 長野県上伊那郡伊那町   小口久左エ門 (伝道師)

飯 田 長野県下伊那飯田町    内山  成生 (伝道師)

諏 訪 長野県諏訪町横町     西山  知義 (主任者)

三 島 静岡県三島町       三浦   徹 (教 師)

柏久保 静岡県田方郡北狩野字久保 栗原 喜久治 (伝道師)

御殿場 静岡県御殿場二枚橋    園部 丑之助 (教 師)

 

以上がダッチリフォームドミッションの伝道地として伝道の成果を見たところで、バラ先生やその他の宣教師による働きの果実であると見てよいであろう。また名古屋地方の伝道もバラ先生が横浜から東海道経由で来られ伝道された(名古屋の東海道線開通は明治22年)。

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・12・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

8 バラの伝道・・4・・

 明治初年、横浜でバラ先生と交際していた高木こう氏の談を「幕末明治耶蘇教史研究」に、小沢三郎氏が掲載されている。それによると、

「バラさんの事をお話しましょう。やはり明治5年ころでしょうか。海岸教会の隣りのところに洋館の二階建てがありました。これがバラさんの家です。バラ夫妻と二人の娘アンナさん(REマカルピン夫人)、キャリーさん(F・ハーレル夫人)、それから女中一人くらい、コック一人くらいいたと思います。相当広い庭のある立派な家でした。

バラさんとは、その後アメリカへお帰りになる時まで交際していました。バラさんはとてもよい人で、私の太田村の家へよく訪ねて来てくれました。

「まだみんな生きているか」と言ってはいって来ます。

誰も気持ちよく「みんなこうやって生きていますよ」。「そりゃよろしい、よろしい」とバラ先生は喜ぶのです。…中略

バラさんは丈夫な、丈の高い、黒い頭髪の、ふとった人で、病気したことなど聞きません。保ケ谷、戸塚、箱根、三島等を歩いて伝道していました。日本食なども、ときにはいただいたようですが、私服を着たのを拝見したことはありません。…(中略)

バラさんの説教はわかりませんでした。よい日本語の先生につかなかったからでしょう。バラさんの祈祷はわかりませんでした。ただ熱心なことだけはわかりました。」

また大森の佐藤哲氏の談話と前記小沢三郎氏の著にバラ先生のことを記して、

「バラさんは、誰にでも差別をつけるようなことはありません。困っている人のことはずいぶんよく世話をしました。

三島方面の人でバラさんの世話になった人は相当あります。三島から若い娘をかなり連れて来て、フェリスに紹介したり、困っている人を給食生にしたりしていました。他人が困っている時は、おのれを忘れて飛び出す人です。いつか宗教大会の会長ドクター・ローレンスという人が来て、お話がありました。ある牧師が通弁したのですが、“あまり雄弁なので、とても私にはできません”と言って引き退ってしまいました。その時バラさんが飛び出して通弁したのです。ところが日本語がよくわかりませんから、身振りでやっと通弁しました。

その時バラさんの妹さんがいて、後になって「日本語のできる人がたくさんいるのに、なぜジェームスは飛び出したのでしょう」と言っていましたが、自分を忘れて困った人のために飛び出すバラさんの性質がよく現れています」(同著262頁)とある。

当時、日本に於ける米国ダッチリフォームド教会ミッションの伝道区域は、南北に分かれて北ミッションは、東京、横浜、長野県、岩手県、青森県に伝道し、南ミッションは長崎を中心に九州に伝道した。従って、北ミッションのバラ先生の伝道区域は盛岡市、岩手県一ノ関、野辺地、宮古、青森、新潟、横浜付近、千葉県、静岡県、富士山麓一帯の三島、神山、御殿場、箱根、伊豆地方の柏久保、湯河原に及び、長野県は上田を中心に松本、諏訪、坂下、飯田に達し、愛知県は名古屋、瀬戸、岡崎、豊橋、津具村にまで至っている。バラ先生の伝道行脚は日本の道路幹線である中山道沿線にまで進められた。

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・11・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

8 バラの伝道・・3・・

 次に御殿場と三島の中間、神山宿の伝道は、明治12年(1879)から土屋喜平氏(海岸教会名簿には喜八)宅を中心にされたようで、毎月1、2回、三島から伊藤伝道師が出張して伝道した。明治128月、バラ先生より、土屋喜平、太田直平、平沢 淑、沢田敬太郎、甲田正方、甲田つね、甲田はまの7名、明治13312日、三島伊藤伝道師宅で太田鉄五郎、太田こう、太田いと、太田むら、土屋ふで、勝俣惣作、勝俣くら子、太田重吉がバラ先生より受洗、明治1344日には小飼正作、高橋元平、土屋賢吾が同じく受洗した(横浜海岸教会名簿には小飼莊助、高橋元平、土屋謙吾とある)。

これによって、神山、三島地方に伝道が進展したことを示している。明治133月には神山講義所の会堂が建った。これは米国オランダ改革派教会ミッションよりの借入金120円で建設されたものであった。

御殿場教会史によると、その年の夏に県下に旱魃(かんばつ)があって、村民は雨乞いの祭りを氏神神社で行い、これに参加しない村民は、村八分にして、今後交際しないと申し合わせをした。ところが信徒の土屋喜平氏、太田直平氏は、この申し合わせに従わず、「祭りは無益な偶像であり、これに従うは大罪であると告白して、自分たちは天地の造主なる神に、朝夕祈っている。真の神をすてて、偶像の神を拝む罪を犯すことはしない」と語ったので、とうとう村から除け者にされ交際を絶たれてしまった。

しかし、これに耐えていたところ、しばらくして村民から交際を求めてくるようになり、また、後に村長になり、あるいは村会議員として村民から信頼され、教会の長老としてもよい奉仕を続けられたということである。明治175月には、会堂を丘の上に移築し、その二階にはバラ先生夫妻が避暑に来て住まわれた。

富士山麓の御殿場に福音が伝えられたのもバラ先生によってである。それは明治153月で、8月にはバラ先生、フルベッキ博士、奥村昌綱、三浦徹氏などを講師にしてキリスト教大演説会が持たれた。明治179月、村井いと子がバラ先生より受洗し御殿場の初穂となった。他に勝又米吉、八左京門の2名がバラ先生より受洗し、10余名の求道者が与えられた。

御殿場講義所は明治2556日、御殿場劇場の出火で類焼してしまったが、その夏、避暑に来た宣教師たちによって、教会の信徒と戸別訪問して、伝道用パンフレットを配布したという。

バラ先生の伝道について、園部丑之助氏のおもしろい話があるので記してみよう。

「バラ先生の日本語は難解であるが、その熱烈さには皆が敬服した。博士の着用している服はツギハギだらけ、雨傘は、よくもこんなに使い古したものだと思うものを平気で使用して居られた。(…中略)。博士は福音を説くだけでなく、忠実に行わんとして、日本人と同じようにワラジばきで伝道旅行をされた。駿河、伊豆地方だけでなく信州各地をも受け持っていた。

私は最初ワラジばきで四里の道を毎週神山伝道に通ったが、どうしても自転車を使用したいと思ったので、その旨をバラ先生に申し出た。すると先生は「パウロは自転車で伝道しましたか?」と仰せられた。これには参ったが、私もすかざさず、「でも先生は汽車に乗って伝道されるでしょう」と言った。もう東海道線はその頃は通っていた。それには先生も閉口された。私は自分の謝金を割いて、自転車を購った。そのために毎週の神山伝道が、どれだけ楽になったかわからない。

そのあとバラ先生が説教に来られた。「ソノベよ、わたしは横浜から歩いて来たよ」

私はその言葉を聞いたとき愕然とした。パウロ先生の伝道の苦心にあやかるため、往年のように、20数里の道を歩いてきて来てくださったのである。バラ先生とは、そういう先生である」。

           (御殿場教会八十八年の歩み23頁)

 

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・10・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)

8 バラの伝道・・2・・

ここでちょっと日本人の国内伝道について記してみよう。

日本人の最初の伝道は、小川義綏、奥野昌綱氏などが明治6年10月に、上総、八王子、川越街道を凡そ20日に亘って伝道、聴集延八百人位あったということである(植村正久とその時代第三巻1頁)。

また横浜海岸教会のバラ先生の影響は大きく、明治7年夏7月には同教会有志の献金70円で青年学生8名が選ばれて近県に伝道した。東海道静岡方面には篠崎桂之助、押川方義、上総、房州方面には本多洋一、雨宮信成、江頭信太郎、野州日光方面には吉田信好、井深梶之介が向かった。他に別動隊として箱根宿に熊野雄七が赴いた。

バラ先生の伊豆地方の伝道について小出正吾氏の談によると

「当時外国人は居留地から20里以外への旅行を許されておりませんでしたが、箱根湖畔は範囲内でございました。日本橋から勘定いたしますと26里になるのですが、神奈川から勘定してくると、すれすれ20里以内に入りますから、許可なしに避暑に来ることができました。暑さを避けつつ其の寓居で伝道集会を行う。

明治7年(1874)夏の事でございましたが、その際、三島神社の神宮内海某と商人安井某とがわざわざ箱根をもぼって聴聞したと伝えられていますが、三島の住人で初めて新教の説教を聞いたのは、恐らく両氏であったと思われます。

此の伝道の結果、一ケ月余にして箱根町の白井三四郎、山中宿の津田政右衛門などがバラ博士から洗礼を受けて信徒となった(…中略)。

明治8年(9月)、バラ博士は青年伝道者伊藤藤吉と共に三島に下り伝馬松葉屋に投宿し同家で伝道集会を開こうとしたが、館主が承諾しなかったので、三島神社前のキリシタン禁制高札に提灯をかけて路傍説教を行なった。高札はすでに、明治6年撤去を命じられていたが、地方によってはその様に未だ残存しているところが多かったのである。

当時としては珍しいこの辻説教は全町を動かし、おびただしい群衆が集まった挙句の果ては問答となり、遂にはケンケンゴウゴウ外人打つべし、殺すべしなどと叫んで石が飛ぶ騒ぎとなった、と言う(バラ先生と伊豆伝道 5、6頁)。

幸い桔梗屋市兵衛こと、小出市兵衛は、バラ先生と伊藤伝道師を家の裏二階に三日間かくまってのち、早朝のまだ暗い内に二人を箱根へ送り返した、と言うことである。これが機縁となってバラ先生は三島での伝道には、市兵衛宅に宿泊され、明治1614日、三島教会が建設された時、この小出市兵衛氏も先生から受洗したと言う。

三島神社前の路傍伝道中、バラ先生に砂や石を投げたという青年沢田慶太郎も、箱根でバラ先生の私立小学校の教師となった後、入信して伝道師となり、明治18325日御殿場教会の主任者となった。

芦ノ湖畔、箱根を源流としてバラ先生の伝道地を辿ってみると、箱根より三島に向かう途中の山中部落で、明治10年頃バラ先生、伊藤藤吉伝道師によって伝道がなされた。この山中宿の津田政右衛門は、先に箱根でバラ先生から受洗した信徒であり、この宿の「津田大作氏が明治11年にバラ先生から受洗、横浜海岸教会員となり、自宅を開放して集会した」(御殿場教会史)。

 

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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