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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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バラ・マカルピン 日本伝道百年史

       水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

20 最後の奉仕・・2・・

 いよいよマカルピン師にも、その宣教師の奉仕を終えて、日本を去られる隠退の時がやって来た。

1932年(昭和7)3月5日、マカルピン師の満70歳の時である。しかしマカルピン師の後継者であるラ-ドナー・モーア夫妻が休暇から日本に帰るまで隠退の日を待つようにとのことで、半年ほど帰米を延ばすことになった。

春から初夏にかけてマカルピン師の隠退と帰米を惜しむ各地の教会での送別会が盛んに開かれた。日本伝道47年、それは決して短い歳月ではなかった。ようやく自転車が日本にも用いられるようになったのが明治の中期、鉄輪の自転車では道の悪い山坂を走ることも出来ず、手押しで坂道を運ぶことは大変な苦労であった。

ベビーオルガンを乳母車に乗せて運び、田舎町の街角で日本の補助伝道者と一緒に路傍伝道を盛んに試みたことも、マカルピン師にとって忘れ難い思い出であろう。高知県、神戸、愛知県、岐阜県、そして朝鮮とその足跡の至る所で、温容なマカルピン師の眼差しに触れ、誠実な交際と親切、そして小さな集会場のための運営と奉仕を続けた47年である。

謙遜は神の下僕として、人の足を洗うことも辞さなかったマカルピン師の影響感化は、今もなおこれを知る人の心に忘れることなく印象付けられている。先頃、筆者は中津川で「自由民権運動とキリスト教」の系譜を調べるため、この町の一自由民権運動家がキリスト教に接していたというので、その人物を知る古老に、そのことをただした時、「黒い服を着た背の高い外国人でカトリックの坊さんのようでした」との答えで、腑に落ちないまま歳月が経過した。たまたま市の名誉市民であったH氏が旧家であり、旧事を語り合っている時、「その民権家は私の縁者です。そこに出入りしていたのはマカルピンさんですよ」との言葉に町の有力者の中にもマカルピン師との繋がりと影響があったことを知ったのである。地に蒔かれた福音の種は私どもの知らない所で、水注ぐ者の手を待っていることを教えられて、自らの怠慢を恥じた。

先輩宣教師方が、どこに福音の種を蒔いたのかも確かめようともせず、実らないのはその宣教の失敗と決め込んで省みようともしない、後継者の牧師、伝道者でなければ幸いである。一生を捧げ、親・子・孫に至るまで、キリストを愛し、日本を愛して主のために力を尽くした先輩宣教師の足跡を辿ることも、また無駄ではなかろう。

この年8月、長崎にあったJA・マカルピン氏も、米国のウエスタン神学校に入学のため帰米された。10月1日、マカルピン師は横浜出帆のノルウエー号で明け方出航した。嵐のために出帆が一日遅れたのである。船は太平洋を渡り、サンフランシスコからパナマ沿岸を下ってパナマ運河を通り、キューバの東端からコロンブスが上陸したサン・サルバドルの記念碑を望み、やがて35日間の長い船旅をニューヨークで終わった。そうしてウエストンセーラムに11月14日、無事に着いたのである。

マカルピン師はそこで3か月ほど滞在し、その後ノースカロライナ州エキソンの伝道所で奉仕し、その教会の会堂を建築し、会員も50人ほどに成長し、定住牧師も与えられるまでになった。

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バラ・マカルピン 日本伝道百年史

       水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

20 最後の奉仕・・1・・

 1930年(昭和5)頃、豊橋教会(現日本基督教団)の牧師館の北側に二階建て35坪で建築した。マカルピン師の祈りと協力によって出来上がった。マカルピン師はその任地先でこうした記念物を残されて教会自立への道を開かれた。

1929年(昭和4)9月1日、マカルピン師の子息JA・マカルピン氏は成長して、オランダ系アメリカ リフォームド教会の短期宣教師となり、長崎の東山学院中学部の英語教師と同ミッションの会計助手として来日された。父マカルピン師にとっては、これはたのもしく力強く感じられたことであろう。この東山学院は長崎市東山手町9にあり、明治19年19月9日に創立されたダッジ・リフォームド・ミッションの設立で、校長はWG・ホキエ氏で、在校生は320名であった。

1930年(昭和5)、68歳の夏のこと、マカルピン師に思い掛けない病気が突発したのである。マカルピン師は避暑地でテニスを楽しまれたが、テニスコートで仲間と祈祷礼拝を守り、その奨励中、頭の中で「カチッ」という音がしたかのような感じがして、倒れるような不安を覚えながら手短に話を終わらせて、友人のボールティンさんに終わりの祈りをするように話してからのち、彼の腕によりかかって家に帰ったのだが、左足はしびれを感じ、数週間ベッドに休んで用心した。

自分自身それほど悪いとは思わなかったのに、その左手も思うように動かすことが出来なかったのである。やがて杖の力を借りて歩けるようになったが、当時は左手でタイプライターを打つことも出来ず、全て右手だけで仕事をしなければならなかった。

この年の終わり近く、後にJA・マカルピン氏の良き伴侶となられたミセス・マカルピンこと、ポーリン・H・スミス女史も、11月25日、米国メソジスト教会の宣教師として、長崎活水女学校の教師となるために来日された。同じ長崎の町に、同様なミッションスクールの教師として、将来結ばれるべきお二人が、時を同じくして一つの使命に召されて奉仕されたことも興味あることである。 


バラ・マカルピン 日本伝道百年史

       水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

19 南長老教会ミッションの最盛期・・・3・・・

前記の須崎在任時代のこと、マカルピン師は遠く幡多郡の宿毛町にも伝道されて、最初の会堂建築のために努力された。この宿毛に最初の定住伝道者となった人は大正4年(1915)、神戸神学校を卒業した長尾丁郎(ていろう)氏であるが、夏季伝道に伊達量平教師(現日本キリスト改革派教会隠退教師)も伝道され、当時、町内の竹内明太郎氏(吉田茂元首相の兄)の住宅を一軒借り受けて、7~8名の信徒で集会をしていた。

会堂建築用の土地70余坪を資産として所有していたが、大正13年2月、今西延幸伝道師が赴任して、RE・マカルピン師から2500円の融通を受けて会堂建築を計画した。そして大正14年(1925)の夏、献堂式を執行した。参加者は高知教会の多田 素牧師、田中剛二教師(現日本キリスト改革派神港教会)、橋田利助教師(現日本キリスト教団名古屋桜山教会名誉牧師)、J・H・ブレーデ宣教師で、マカルピン師は夫人の健康がすぐれず御殿場に行かれて欠席されたようである。

マカルピン師は豊橋で前任者パットン婦人宣教師の後を継いで、その晩年を活躍された。マカルピン師は赴任すると、借家を間借りで経営していた旭幼稚園のために、市内前畑町の市電停留所近くの東北裏側に50坪の土地を借りて、建坪50坪の園舎を苦心して建設し幼児教育と伝道のために園長となって尽力された。

そうして「折角立派な園舎が建っても、当局の認可がなかなか下りない。申請を出して度々県庁に足を運び一か年が経っても音沙汰もなく、流石のマカルピン師も怒って、県庁の係に“今日は貴方がたの首を貰いに来た”と言ったという」(日本基督教団豊橋教会60年略史)。残念なことに、この明るい美しい園舎も、昭和20年(1945)の戦災のためにいっさい失ってしまった。


バラ・マカルピン 日本伝道百年史

       水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

19 南長老教会ミッションの最盛期・・・2・・・

1923年(大正12)9月1日午前11時58分、未曽有の東京大地震の発生によって、横浜海岸教会は倒壊しバラ記念会堂も、全て灰儘に帰してしまった。またバラ先生の居住された地も地すべりのため破壊されてしまった。ちょうどその前日の8月31日、マカルピン師は第5女のベントン・マカルピン嬢が軽井沢で同じ南長老教会の宣教師として中国に伝道していたEH・ハミルトン氏と結婚するので、その式典に出席しておられた。ベントンさんは1か年間、南長老教会の短期間宣教師として父君のマカルピン師の下で須崎地方に伝道奉仕をされ、結婚によって任を解かれたのである。

1924年(大正13)、長い間の宣教師の奉仕と緊張にマカルピン夫人は健康を害し、身体に痛みを感じ、医師もその原因を確かめることができず、これと言う治療法もなかった。しかし夫人は不平も言わず、時々襲う痛みに教会のオルガン演奏や幼稚園への奉仕を休むだけで、家庭で婦人方や少女たちのために、いろいろなクラスを受持って伝道への奉仕を続けられた。

その7月、6女のグレイスさんの家族の招きで中国の上海に旅行されたが、そこで、ひどい発作に襲われて倒れ、同地で9月22日手術し、ようやく10月7日、長崎に戻り、そこで4女のアンナさん一家に歓迎されて留まり、その日はマカルピン師夫妻の結婚37周年のため記念の集いを楽しまれた。しかし、その翌年(1925)も夫人の健康はすぐれず、気候の良い朝鮮に療養のため赴くことになった。

6月、最後の帰米休暇を得て、日本を出発された。翌昭和3年6月に帰任し豊橋に赴任された。また、この年、息子のJA・マカルピン氏がデビットソン大学をめでたく卒業された。


バラ・マカルピン 日本伝道百年史

       水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

19 南長老教会ミッションの最盛期・・・1・・・

その頃、ミッションの宣教師も次第に多くなって日本伝道の最盛期であった。高知市にはWB・マキルエン博士夫妻、JH・ブレーデ夫妻、ミス・A・ダウド女史、ミス・SM・カッ―レル女史、須崎にはRE・マカルピン博士の8名。

徳島市にはCA・ローガン博士夫妻、C・ダービー・フルトン博士夫妻、AP・八ッセル夫妻、CR・ゼンキン氏、ミス・エステル・ランキン女子の八名。

香川県には、丸亀市にJWjハツセル夫妻、IS・マクロイ夫妻、高松市にSM・マクロイ夫妻、HH・マンロー夫妻、JW・モーア博士夫妻、ミス・MJ・アツキンソン女史の11名。

愛知県には岡崎市にPS・バンダク夫妻、JE・カウサー夫妻、ミス・JD・パットン女史、豊橋市にミス・AV・パットン女史、名古屋市にLCM・スマイス博士夫妻、WA・マキルエン夫妻、同金城女学校にミス・LG・カアトランド女史、ミス・EE・ガードナー女史、ミス・マアチン女史、ミス・MF・マアチン女史、ミス・BM・ブラッケニー女史の8名。

岐阜市にWC・ブカナン女史、LW・モーア夫妻の3名。

神戸市にSP・フルトン博士夫妻、HW・マヤス博士夫妻、HC・オスロトム博士夫妻、CR・ゼンキンス夫妻、ミス・RE・バックランド女史、WM・ブカナン博士夫妻、PW・ブカナン氏の12名で、合計52名であった。

ミッションに所属する伝道教会は13カ所、会員数850名、伝道所数28カ所、会員数1005名、合計、教会41、会員1855名(1924年統計)であった。これは1885年(明治18)、R・E・マカルピン師が最初に宣教師として来任以来、39年間のミッション伝道の成果であるが、教会が自給独立すると日本基督教会に直属したため、この数字は常に成長の過程にあるが、特に伝道の困難は地域に開拓の結果育った教会であり、また伝道所の数字である。 

バラ・マカルピン 日本伝道百年史

       水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

18 バラ博士の最期とマカルピン・・・3・・・

 この年、日本基督教会では創立50年記念集会を10月9日神戸市下山手3丁目の神港教会(現日本キリスト改革派神港教会)で開催した。第35回の日本基督教会の決議事項として「内外協力伝道」のため、日本基督教会伝道局と関係諸ミッションの伝道機関を統一して、「協力伝道局」を作ろうというので、関係ミッションと委員を選んで協議することになった。

南長老教会ミッションのマカルピン師は、これに対して強く疑問を感じられた。伝道地における宣教師の自由な働きを制限し、財政などの指導も合同で委員会によって完全に統制をしょうとする協力案には安心できなかったのである。

すでに1909年(明治42)の日本基督教会第23回大会で、ミッションの自主的立場を保持するために、ダッチ リフォームド ミッションと南長老ミッションは、その大会が下した定義の協力関係とは別に「申し合わせ規約」を定めて、それに従ってきた。

日本基督教会の主流派の人々はミッションの伝道事業も、全て同教会の主体性の下に統一しようとする強い考えがあった。そして、その指導下に入ったのは北長老教会ミッションとジャーマン リフォームド ミッションであった。南長老ミッションの伝道への熱心と成果は、強い改革派信仰と長老政治の長所を生かして、聖書的に行動することにあった。従って、この統制的協力案に加わらず「申し合わせ規約」という点にとどまり一線を劃したマカルピン師の姿勢は、やがてこの日本基督教会の協力伝道局設置の決議案も進展を見ずに消え去ってしまった。

バラ・マカルピン 日本伝道百年史

       水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

18 バラ博士の最期とマカルピン・・・2・・・

 1917年(大正6)、マカルピン師に忙しい仕事が起こってきた。この1月10日、金城女学校の校長であったチャーロット・タムソン女史が帰米中結婚したとの知らせがあったので、マカルピン師は学校に移転して勤務をとるということになった。そのため11歳半のゼームス・マカルピン君は母親の手元から離れて、4月、神戸のカナデアンスクールに入学することになった。校務の運営のため、授業のためにマカルピン夫妻は天手古舞の忙しさに追われたが、マカルピン夫人は夫を勇気づけ励まして、この困難を切り抜けることが出来た。

そうして9月17日、LCM・スマイス宣教師が校長に就任してマカルピン師夫妻は、はじめて重荷を下ろすことが出来た。

この頃、第一次世界大戦は終わって、帝政ロシアに革命が起きた。翌大正7年(1918)には、ドイツも革命で皇帝は退位し共和制を宣言し、日本国内も不景気で米騒動が発生するという世相であった。伝道の働きは連日のように忙しく、9月16日には津島第三中学で毎週バイブルクラスを開いて有志の生徒に聖書、英語、讃美歌指導を開くことになった。偶像の町津島に福音を宣べ伝えるために、こうした方法も、また大切なことであった。

1919年(大正8)6月、前記のバラ先生の健康のために休暇帰国し、バラ先生の最後を看取り、1920年(大正9)10月15日、再び日本に帰り、翌大正10年夏、ミッションの都合で高知県の須崎町に移ることになった。高知県の西南部の須崎、久礼、窪川、中村、宿毛と交通不便な、また危険の多い道路を自転車や徒歩で通って伝道した。


バラ・マカルピン 日本伝道百年史

       水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

18 バラ博士の最期とマカルピン・・・1・・・

 興味深い明治時代が終り、大正時代となって、バラ先生の健康も次第に衰え1918年(大正7)1月、先生の伝道地長野、諏訪、伊那、飯田は日本基督教会に移譲された。先生は1919年(大正86月、娘婿のRE・マカルピン師に伴われて、帰米のため横浜港から数百人の友人、知己の見送りを受けて名残惜しく日本を去られた。日本伝道58年、誠に信仰の勇者の面影である。

 翌年の19201月29日、米国バージニア州リッチモンド市ゲナパークで、RE・マカルピン師の手厚い看護の下、遂に天に召されました。時に88歳、墓地はゼームス川を見下ろすハリウッドにある。

 

マカルピン師の活動は、1911年に休暇帰米を終えて1913年(大正2)2月米国より名古屋に帰られたが、同地方を中心に変わらぬ伝道奉仕を続けられた。同年9月17日には金城教会幼稚園を設置するために努力された。マカルピン師は幼児よりのキリスト教教育の必要性を痛感されて、中津川教会(現日本キリスト改革派中津川教会)にあっても渡辺 有歯科医師を中心にキリスト教幼稚園の建設をされ、岐阜県下に於けるキリスト教幼児教育の先鞭をつけられた。翌1914年(大正3)には、その日本に於ける宣教及びその他の業績によってテネシーのか-クスビルにあるサウスウエスタン・プレスビテリアン大学から神学博士の学位を受けられた

この年の7月28日、オーストリアは後退し暗殺事件からセルビアの開戦し、第一次世界大戦が起こった。このため米国も日本も軍需景気となり、日本のキリスト教会も順調は発展をした時期であった

翌年(1915年)の夏、マカルピン師は軽井沢のミッション会議で金城女学校の理事を継続され、1916年の朝鮮伝道団の代表に選ばれた。

 

当時、日本基督教会は朝鮮に伝道して、大正4年7月、京城で朝鮮中会建設式を行った。南長老教会ミッションも朝鮮伝道に関心をもち、この年の春、マカルピン師は3週間の予定で同地に旅行した。の旅行はマカルピン師にとっても興味深い、また有益なものであった。ミッションの支部や教会訪問、日本人の官吏やその他の人々との会合での談合、そして日本人やその他の集会での説教と、時は短く過ごされて行った。 


バラ・マカルピン 日本伝道百年史

       水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 17 バラ先生来朝50年記念会・・・6・・・

 バラ先生は「福音時報社」からの祝辞の書簡に対して返書を認め、50年間の感想と将来への希望を述べられた。その文面は、

「前略、只、言いたいことは、日本に於いて、福音宣教の業に従事することを私に許して下さった天の父の御恩寵に対し、深い感謝をささげます。思うに宣教師として神に召されることは世界における最大の特権です。そして、私の特に感謝したいことは、私がこのような伝道の都合の良い国、このような有望な国民の中に来たことであります。

私は過ぐる歳月の間、主の成就し給いし全てのことを追跡することは出来ません。また、私と内外の同労者に対する主の限りない恩恵を記すことは出来ません。それは、神が私たちが渇望し、また、考えるすべてに勝って、はるかに大いなることをなし給う力であり、また、なそうと志し給うからであります。私の熱望する三つのことは、

1 全国民があらゆる種類の偶像礼拝から、只一人の活ける真の神の礼拝に悔い改めること。

2 階級の如何を問わず、すべての人の心にイエス・キリストが人類の至上の王者、また、救い主として崇められるようになること。

3 この国土に於ける、また、すべての国に於けるキリスト教徒全体の調和、一致、清潔。

これが、愛する日本の前途に対して私の熱望するところであります」。

 

バラ先生の信仰は、神第一主義の、神の御栄光のためのみに仕え、栄を聖名に帰しまつるという改革派信仰に徹して伝道され、力の限り神を愛し、思いの限り隣人を愛して変わるところがなかった。先生によって助けを得た多くの者があったが、一面、先生の愛の心を利用して自分のためにした者もあった。しかし、それは神の審判れるところとして、先生は意に介していなかったのである。

「機をうるも得ざるも、御言葉を宣べ伝えよ」(Ⅱテモテ4:2)の聖言を、そのまま実行した方であった。バラ先生の文書伝道について忘れてならないことは、明治7年のこと、米国宣教師の名で「廟祝問答」と言う漢文から日本語訳のほんがずいぶん広く読まれたものである。その内容は、廟宇の堂守とキリスト教の伝道師が、偶像崇拝と真の神信仰とを問答体で語り合いキリストの十字架の福音を示した書物であるが、実際は奥野昌綱によって訳させてバラ先生が出版されたものと思われる。

バラ・マカルピン 日本伝道百年史

        水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

17 バラ先生来朝50年記念会・・・5・・・

 続いて稲垣 信、タムソン、グリーン、ソオバル、デイリング諸氏の話があり、最後にバラ先生は「私、今日、神様だけに祈ることを、祈ります。日本の兄弟、親切尽くすから、話すことが出来ぬ。一つの事を言えば、色々、私の事、皆さん言うたが本当でない。神様のこと言うべきだ。私、ただ、神様の手伝いになった。信者、私を熱心に励ました。宣教師の兄弟姉妹感化した。私、伝道する力がない。日本の伝道は日本のキリスト者がやった。奥野さんや小川さんやブラオンさんの学校にいた青年が自分で伝道に行った。・・・。

祈りのこと、稲垣兄言ったが、一緒に祈った。英国教師ペエソンは教会は説教場でない。祈り場だと言った。石造の会堂は日本で第一のリバイバルのあったところ。篠原敬之助、親切な愛のある青年、私のところに来て、一時、貸してくれと言う。何にするかと聞くと、祈り会を開くというので貸した。旧正月元旦、祈り会を開く。私も一緒に行った。イザヤ書第32章13,14,15を読んだ。小川さんが祈った。三カ月続いてもやめぬ。3月10日、9人受洗した」と回顧を語られ、それから英語で神の聖霊によって一致すべきこと、祈りの力あることなどを話された(福音時報・明治44年11月16日号)。

バラ先生が海岸教会教師を辞された時、会員は285人で、その内、伝道者になったのが23人あった。この祝会には日本最初のバラ先生よりの受洗者矢野元隆の娘と孫からも祝電が来ていた。

 

バラ・マカルピン 日本伝道百年史

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

17 バラ先生来庁50年記念会・・・4・・・

次に日本メソジスト教会総会を代表して監督本多中庸一氏の挨拶

私は日本メソジスト教会総会を代表して居る者でありますが、バラ先生と私との関係があまりに親しいから、外交的の言葉を述べて満足することは出来ません。先生の弟子の一人としてお話しする。

私が初めて横浜に来たのは明治三年であった。その年の末か翌年の初めにバラ先生の御世話になった。しかしヤソ教を聞くためではなかった。当時の日本の青年は、無学文盲なものが多かった。侍の子弟が僅かに学問をしたのであるが、明治の初年には、戦争しか知らなかった。余りに早くおさまったので不平があった。

その不平が妙な方に廻って、これは外国人が来たからであると、攘夷の精神が盛んになった。今でこそぺルリの来朝を徳とするが、当時は誰もそんなことは思わなかった。それで英語を学ぶというのも攘夷の精神から来たものである。学んでしまえば彼等に用はないという意気込みであった。

バラ先生の弟子のうちには戦争に負けた方の青年が多かった。鬱憤が満ちている。聖書などもいやいや読んだものである。そんな有様であったからバラ先生の心配は一通りではなかったであろう。お手伝いの小川義綏氏にも随分困られたことであろう。押川方義、植村正久など共に思い思いなことを言って随分扱いにくかったであろう。私はこの立派な会堂よりもあの小さな石の会堂の方が懐かしい。ここでバラ先生を困らせたこともあり、また、誉められたこともある。その当時、今日の様な盛大な祝会が催されようとは誰も想像しなかったことである。

バラ先生には伝道の精神が満ちていた。私はその言葉に感動しなかったことはなかった。その精神には感服した。その熱涙に感服した。我々を武士として待遇せられた。明治5年頃、弾正台からバラ先生の弟子を召捕りに来たが、時の県令陸奥宗光氏に説得されて帰ったようなこともある。

その時、バラ先生は「君達には危険がある。しかし捕らえてもこのために国に不満の心を抱いてはいけない。キリストの弟子は国に服従せねばならぬ。米国に逃げることもできるが、それはキリストの精神ではない。国法に従って何処へも流刑に処せられる覚悟をせよ」と言われた。これを聞いた私は、バラ博士が真にこの国のために来たことを知って、攘夷の念はなくなってしまった。むしろ居てもらわなければならぬように感じた。・・・・」(続く) 

バラ・マカルピン 日本伝道百年史  

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

17 バラ先生来庁50年記念会・・・3・・・

 

 また自分が伝道しただけでなく、青年の信者にも伝道することを鼓吹されました。日本基督教教会またその他で伝道する先輩の中には、バラ先生に感化された者は少なくない。初めて教会の出来たのは明治5年3月で、今から約150年前である。

当時11しかなかった教会は、本年10月の大会に報告されたところによると、独立教会67、伝道協会123、申し合わせミッション伝道教会及び講義所42、中会7、会員21,219人、按手礼を受けた教師132人、伝道者90人、献金118,500円、受洗者1947人で、北は北海道から南は台湾及び満州、朝鮮等にも伝道しているのであります。

明治5年3月、11人の青年が集まって、バラ博士のもとで日本基督公会なるものを組織したが、このように進歩したのであります。天国は実に芥子種のように、また、パン種のようであります。そして50年間、神の国の発展する有様をも目撃することは、バラ博士にとって愉快なことでありましょう。自ら蒔いた種の成長する様を見るのは嬉しいものであります。

私は日本基督教会大会を代表して、また明治5、6年頃、この裏の石の会堂で聖書の講義を聴き、教えを受けた弟子の一人として、神の祝福のバラ博士の上に豊かならんことを祈り、長く神のため、教会のため、日本のために尽くされますよう祈るものであります」。(前月号の続き・井深梶之介挨拶)  

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
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定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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