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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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聖霊とその働き   

           エドウィン・H・パーマー著      

鈴木英昭訳

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

 

第2章 聖霊と創造

 

 Ⅰ 創造における三位一体の働き・・1・・

 

 この世界では、三位一体のそれぞれの位格には、他と区別して行われる特別の機能と働きがある。例えば、創造のことを考える時、子や聖霊ではなく、父のことがおもに考えられる。しかし、十字架の上で死んだのは、父や聖霊ではなく、キリストであった。イエスは、十字架の上で自分を父と区別して、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とも、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」とも叫んだ。また、私たちの生涯における聖化と救いの達成のことを考える時、おもに考えるのは、父のことでも、子のことでもなく、聖霊のことである。彼はキリスト者の心のうちに住んでくださる方である。事実、この区別を怠っているため、不安や悩みの時、聖なる慰め主である聖霊の所に行くべきなのに、父やキリストのもとに行く人々がいる。

 しかし同時に、ある意味では、私たちは三つの位格を分けるべきではない。創造者としては、父のことを考えるが、三位一体における基本的、本質的統一性のゆえに、子と聖霊が創造の働きをしたと言うこともできるからである。十字架の上で死んだのは、子であったことは自明の事実であるが、ある意味では父もそこにいたのである。なぜなら、「わたしと父とは一つである」とイエスは言うことができるからである。私たちの心に住んでいるのは聖霊であるということは、まったく聖書的であるが、キリストはキリスト者について、「・・・わたしの父はその人を愛し、またわたしたちはその人の所へ行って、その人と一緒に住むであろう」(ヨハネ14:23)と言うことができた。また、パウロは「キリストが、わたしのうちに生きておられるからのである」(ガラテヤ2:20)と強調することができた。こうした事柄が真理であるのは、三位一体の間には、区別される位格はありながらも、基本的な統一性があるからである。

 

 この問題を考える時、そして特に創造という問題に言及するとき、常にこのバランスをたもたなければならない。すなわち、一方における三位一体とその働きの多様性と、他方における三位一体の間の基本的統一性との間のバランスである。彼らのうちの一つだけが他と関係なく、まったく独自に行為するかのように分離してはならない。それとともに、聖書にしたがって、ある特徴と働きは他の二つと区別しつつも、一つに帰することもできるからである。

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聖霊とその働き   

           エドウィン・H・パーマー著      

鈴木英昭訳

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

 

第2章 聖霊と創造

 

聖霊に関する研究は常に実践的でなければならない。神の啓示は神の深淵な事柄に対する私たちの知識欲を満足させるためのものではなく、その偉大さのゆえに神の栄光を帰し、私たちを霊的に成長させるためのものである。聖霊はそのあらゆる活動面で明確に理解してはじめて、そうした目的が達成されることになる。聖霊がどういうお方であり、何をなすかという点で私たちの考えに混乱があれば、到底御霊に十分栄光を帰し、私たちの内に為される彼の種々の働きを十分経験することは出来ない。それで、これから御霊の働きについて学び始めることにする。

 

 第一に、一つの誤りに陥らないようにしなければならない。どういう誤りかといえば、聖霊の働きを信者の再生と聖化にだけ限定する誤りである。これが起こるのは、狭い意味の救いをこの世で最も重要なことだと考える時、すなわち、人間のことに終始し、その罪、その永遠の運命、キリストによる救いの必要だけを考えるときに起こる。そのような場合の考え方は神中心的であるよりも、おもに人間中心的である。こういう見解を持つと、聖霊を人間の観点から、自己のキリスト者としての経験の点から考え、したがって、御霊の働きをそのような面に当然限定してしまうことになる。

 

 しかしながら、これは聖書のやり方ではない。聖書は神から始まるのであって、人間から始まることをしない。神中心であって人間中心ではない。聖書は神にすべての栄光を帰し、日曜日と日曜日の間も含めて、神を永遠から永遠にかかわる方として記している。神は生活の一分野に制限されず、あらゆるものの上にある主権者―まったくあらゆるものーこの宇宙の主権者である。聖霊の働きはこうしたことと調和すべきであるから、聖化に限定されてはならない。

 

 彼はこの世界の創造・摂理・啓示・受肉・贖い・聖化、そして最後の審判の日に至るまでの出来事に過去、現在、未来にわたってかかわるのである。そういうわけで、この学びでは再生や聖化における聖霊の働きだけに限定しない。本書は聖霊の聖化だけの働きを考えているのではなく、聖霊の働き全体について論じるためのものである。


聖霊とその働き   

           エドウィン・H・パーマー著      

鈴木英昭訳

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

 

第1章   聖霊と三位一体

 

Ⅳ 聖霊は父と子から出る***3***

 

 ペンテコステの日に、教会に吹きかけられたのは聖霊であって、父や子ではなかった。そのことは三位一体において、聖霊が父と子から出ていることから理解されよう。この点は次の事実とも符合する。すなわち、三位一体の第二人格は子であるため、彼は地上で肉体をとった御子でなければならなかったし、同じように三位一体の第一位格は父であるため、信者の父であるという点である。

 以上の点は三位一体の他の二つの位格に対する聖霊の関係においてみられる側面である。この関係について、私たちは非常によく理解しているわけではないが、聖霊が明らかにしていることを無視すべきではなく、明らかにされている点に限界はあっても、彼が教会を導いて、ご自分につき、また他の二つの位格との関係について明らかにしてくれたことを喜ばねばならない。彼の啓示にはすべて目的があり、軽視されてよいようなものではないからである。

 この神の御霊が父と子から出るという教理の実際的な効果について言うと、その与えた影響は非常に大きなものであった。1054年に、キリスト教世界はローマ・カトリック教会と東方正教会に分裂した。そのようになった背景には多くの要素があったが、つまずきの石は、東方教会が聖霊は父からのみ出ると信じ、西方教会のトレドの会議(589年)で、聖霊は父「と子」、(filioqueすなわち、子からもという意味で、その相違を象徴する用語となった)から出ると告白した。

 この相違の結果、東方教会は西方教会と分裂し今日では、この東方教会は1億6千万人以上の会員を有している。したがって、この教理は実際的には大きな影響力があって、今から千五百年前に、教会教父たちによって明文化されていなかったら、今日の私たちの教会に大変な問題をもたらしていたかもしれない。それで私たちは、聖霊がこの点に関して私たちに与えてくれた知識に感謝しなければならない。

 このほか、アブラハム・カイパーが鋭く指摘しているように、このfilioqueの否定は不健全な神秘主義を生み出すことになる。私たちの生活における聖霊の働きと、イエスの働きを分離する傾向を生むからである。キリストによる贖いは背後に押しやられ、聖霊の聖化の働きが前面に押し出される。私たちの歩みの中で聖霊の働きがますます強調され、それがキリストと教会と聖書から独立したものになる傾向がある。聖化が義認よりも大きくのしかかってき、御霊との主観的な交わりが、客観的な教会生活より大きく見え、御霊による啓明が御言葉による啓明より大きくなる。アブラハム・カイパーは、御霊が父とともに子から出るのを否定した結果として、この事が東方教会において、ある程度見られると信じている。

 このように、教会会議でなされる長い神学的論議が、ときには多大な影響を及ぼすことがあるのがわかった。会議の決定は、論争があいまいな表現になる責任を問われる危険に陥ることはあるにしても、上から下まで広く浸透する。私たちは聖霊が三位一体においてその立場を明らかにしてくれることに、感謝しなければならないが、単なる知的な知識だけで満足してはならない。むしろ、その知識に基づいて御霊とその働きを経験的に知らなければならない。そのために、この章および次から続く章が書かれたのである。


聖霊とその働き   

           エドウィン・H・パーマー著      

鈴木英昭訳

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

 

第1章   聖霊と三位一体

 

Ⅳ 聖霊は父と子から出る***2***

 

 しかし、御霊は父と子から出、彼らによって息を吹き込まれるけれども、完全な神である。彼が父と子から出るからといって、父と子に劣るわけではない。それは子の場合も、彼が父から生まれるからといって、父と同等ではないというのと同じことである。御霊は「永遠の昔に」息を吹き込まれたという事実に重要な点がある。

 それは子が「永遠の昔に」父から生まれたというのと同じである。御霊が息を吹き込まれていない時は一度もなかった。彼は永遠から父と子とともに存在していた。かれが父と子から出たとか、父と子によって吹きだされたという言い方は、彼が神に劣るということではなく、三位一体の他の位格との間に、永遠から持っている関係を示唆しているに過ぎない。

 御霊は父からだけ出ているのではなく、父と子の両者から出ている点も注意しなければならない。彼が父から出ていることは、ヨハネ福音書15章26節から明らかであるが、子からも出ている。それほど明瞭ではない。しかし、イエスが御霊を世につかわすと語っている個所や、弟子たちに向かって、息を吹き付ける個所から推論される(ヨハネ15:16,16:7,20:22)というのは、たまたま一度のことであっても、それが永遠の息吹を暗示するからである。三位一体の関係の中で、子が所有している権威を反映しているからである。さらに、御霊は「父の御霊」と呼ばれるだけでなく、「御子の御霊」(ガラテヤ4:6)、「キリストの御霊」(ローマ8:9)、「イエス・キリストの御霊」(ピリピ1:10)と呼ばれている。

 御霊の持っている他の二つの位格に対するこの関係が、三位一体の第一あるいは、あるいは第二の位格でなく第三位格であるとされる理由を説明してくれる。父は子を生むので、第一であり、子は父から生まれれるので第二であり、聖霊は父と子から出るので第三の位格である。

 三位一体の同じ順序が歴史においても現れている。はじめの二つの位格が順に歴史の前面に押し出されたのちに、初めて聖霊が著しい働きをする。創造からキリストの時まで、世界でより顕著な働きをしたのは父であり、創造において中心的な栄光を受け、旧約聖書のイスラエルがおもに関係があったのは父であった。キリストが来ると、父はそれほど目立った立場にはなく、聖霊もまた十分にその働きを現わしておらず、キリストがより大きな役割を果たした。

 しかし受肉の後、キリストは天に昇り、三位一体の第三位格が他に比べて多く登場する。三つの位格にはこうした明確な秩序があったため、それは歴史にも現れる。このように三位一体がみられるのと同じ秩序で、各位格が歴史に登場する。


聖霊とその働き   

           エドウィン・H・パーマー著      

鈴木英昭訳

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

 

第1章   聖霊と三位一体

 

Ⅳ 聖霊は父と子から出る***1***

 

 三位一体の三つの位格のうちにも、はっきりした関係と秩序がある。三つの位格がともに同じ神であるからと言って、まったく同じであると考えてはならない。それぞれが固有の性質と相互の関係を持っているからである。例えば、第一位格と第二位格の間には、父と子との関係がある。永遠から父は子を生んだのであって、聖霊が子を生んだのではなかった。

 同じように、聖霊と他の位格との間にも、不変の関係がある。すなわち、聖霊は父と子から永遠の昔に出るから、という関係である。神の御霊が出るとはどういう意味か。これを説明することは難しい。聖書が説明なしにその用語を使っているので、私たちはそれを繰り返して用いるだけである。しかし大切なことは、キリストのように、聖霊が父から生まれたとも、キリストから生まれたとも、聖書は語っていないことである。そうでなければ、教会教父たちがほのめかしたように、聖霊はキリストの兄弟か父の孫になっていたかもしれない。

 しかし、聖書は注意深くこの「生まれた」という用語を聖霊に用いなかった。アタナシウス信条が正しく記しているように、彼は「作られることも創造されることも、生まれることもなく、出ている」のである。この「出る」という言葉はヨハネ福音書15章26節で、イエスによって用いられている。「わたしが父からあなたがたにつかわそうとしている助け主、父から「出る」真理の御霊が来る時、彼はわたしについて証しするであろう」。

 御霊という名は、三位一体の三つの位格の関係について、もう一つのヒントを与える。「父」はその名によって、子との関係を表し、「子」は父との関係を表現しているように、「御霊」という名も他の二つの位格との関係を表明している。つまり、彼は「息を吹き込まれる」者ということであり、これが「御霊」という名の本来の意味である。


聖霊とその働き   

           エドウィン・H・パーマー著      

鈴木英昭訳

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

 

第1章   聖霊と三位一体

 

Ⅲ 聖霊は父と子から区別された神としての位格を持つ

 

 聖霊の人格とその神性を信じていながら、三位一体の統一性を極端に強調したため、神には三つの区別される位格のあることを否定する人々が、教会の歴史にはいた。三世紀には、彼らは父を創造の時に現れた神、子をそれ以後の歴史の神、そして、最後に出現する神が聖霊であるとしてた。彼らの見解によると、神は同時に三つの位格としては存在せず、ある時は父と呼ばれ、別の時には子と呼ばれ、また違った時には聖霊と呼ばれたのであると言う。そうでなければ、父が初めに子に変わり、さらに後に聖霊に変わったと言う。

 

 こうしたものも聖書の啓示から離れた考えである。神には三つの区別された位格があり、同じ神の単なる違った現れ方ではないことを、はっきり指摘している聖書の個所が幾つもある。例えば、イエスが洗礼を受けた時、父の声が天から響いて、「あなたはわたしの愛する子、私の心にかなった者である」と言い、それと同時に、聖霊ははとのようにイエスの上に下った。この三位一体が同時に現れたのであるから、神を単一のかたと解釈することは出来ない。同じことはイエスの次の言葉についても言える。「わたしは父にお願いしょう。そうすれば、彼はあなたがたに別の助け主を与えて下さるであろう」(ヨハネ14:16)。同様に使徒行伝2章33節は、次のように三位格の相違をはっきりと言い表している。「神の右に引き上げられて、彼(すなわちキリスト)は父から約束の聖霊を受けた」。

 

 一つの位格だけでなく三つの位格を持っていることは、確かに祝福である。この三位格は豊かな三位一体をなしている。なぜかと言えば、私たちを愛して育てて下さる父がおるだけでなく、私たちの救いを獲得し、とりなしてくださるキリストもおり、私たちの内に住み、救いを私たちのいのちに適用する聖霊がおってくださるからである。 

 


聖霊とその働き   

           エドウィン・H・パーマー著      

鈴木英昭訳

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

第1章   聖霊と三位一体

 

Ⅱ 聖霊は神としての人格を持つ

 聖霊は人格を持っていても、造られた者としての人格であって、彼自身は神ではないと考えている人々がいる。そういう人々は、御霊が非人格的な「それ」ではないが、父に劣るものと考えている。しかし、聖書は聖霊に人格的性質のあることだけでなく、父としての性質のあることも語る。そうした神としての属性は、聖霊が神であることを示している。

 聖書によると、神の御霊は全能である。彼は創造においてその役割を果たし(創世記1:2)、摂理において(詩編104:30)、超自然的なイエスの受胎において(ルカ1:34)、再生と個々のキリスト者に霊的賜物を付与する点で、その役割を果たしている。

 彼はまた全知、すなわち、すべてを知っている。イザヤの問いはそのことを告げている。だれが彼を導き、正義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか」(4-:13)。「御霊はすべてのものを決め、神の深みまで極める」(Ⅰコリント2:10)と書いた時、パウロは、私たちに同じことを信じさせようとした。

 さらに、聖霊は偏在、つまりどこにでもおるという特質を持っておられる。詩編の記者は、「わたしたどこへ行って、あなたの御霊を離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたの御前を逃れましょうか」(詩編139:7)と雄弁に尋ねている。そして天に昇っても、シ・オールに下っても、海に中に逃れても、夜の闇のなかに隠れても、御霊の前から逃れることができない、と語っている。御霊はどこにでもおられる。新約聖書によると、御霊は信者のうちに住みキリスト者の数がどんなに多くなっても、各人のうちにおられなくなるようなことはない。

 へブル人への手紙9章14節は「永遠の御霊によって、ご自身を傷のない者として神にささげられた」キリストのことを記して、聖霊に永遠という神の性質のあることを述べている。

御霊が神であることを証明するもう一つの例として、旧約と新約に時々、「御霊は言われた」というのと、「主は言われた」という言葉が交換できる内容で使われていることがあげられている。 

最後に、聖霊の名が父と子の名と一緒によって結び合わされて使われている箇所がある。例えば、キリストの大命令(マタイ28:19)や使徒の祝祷(Ⅱコリント13:14)は御霊を他の二位格と同等レベルに置いている。このことは御霊が神であるとみなされている証拠である。このように密接に結び合わされた表現は、被造物の名を神の名と共にするようなことでもあれば、非常に不条理なことである。

聖霊が神であるという事実は、私たちにとって重要なことである。なぜなら、もし神でなければ、創造という美しい働き、聖書の霊感という権威の働き、人間の思いを照らす働きもできなかったことになるからである。また、堕落した私たちを再び生まれさせ、私たちの内に住み、きよめることもできなかったはずである。私たちは彼が有限な存在者でなく、神であることを当然感謝しなければならない。


聖霊とその働き

           エドウィン・H・パーマー著      

鈴木英昭訳

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

第1章   聖霊と三位一体

 

Ⅰ 聖霊は人格を持つ ・・2・・

 御霊が人格を所有していることを明らかにするのに、第二の点として聖書は、彼を他の人格と並置する。例えば、私たちは父と子が人格を持っているのを知っているので、イエスが「父と子と聖霊のみ名によって」(マタイ28:19)弟子たちに洗礼を授けるように語るとき、聖霊も人格のある方であると言ってわけである。初代教会に指示を与えるよう権威を与えられたヤコブは、初代教会に対してこう書いている。

 「次の必要事項のほかは、どんな負担もあなたがたに負わせたいことが、聖霊と私たちにとって、ふさわしいように思われる」(使徒行伝15:25)。

 彼は聖霊が、自分や使徒たちと同じ思いと見解を持っている人格のある方だと、非常にはっきりと考えていることになる。

 また、イエスが「御霊の力を帯びて」(ルカ4:14)、荒野から戻ったということは、御霊が非人格的な力にすぎないものであれば、意味のない余分な説明になる。御霊の代わりに力という言葉に変えて読んでみたら、そのことがわかる。

 御霊が人格のある方であることを、おおいに感謝しなければならない!彼には人格があるから、私たちに罪を自覚させ、神の導き、私たちの内に住み、罪と戦う力を与え、聖書を霊感し、聖書を理解できるように私たちの心を照らし、私たちを導いて神のみこころを知らせ、祈り導き、牧師と長老と執事を教会の役員として召すことができるのである。

 聖霊が人格のある方であるからこそ、私たちは彼に好ましくない態度をとることになる。彼に反抗し、悲しませ、軽んじ、冒涜する。こうしたことは彼には不快なことであり、私たち自身には間違いなく害となる。御霊の人格を決して否定することをせず、彼を信じ、人格を持つゆえに、私たちに及ぶその祝福を経験するようにしよう。


聖霊とその働き

           エドウィン・H・パーマー著      

鈴木英昭訳 

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

   目 次

   はじめに

第1章      聖霊と三位一体

第2章      聖霊と創造

第3章      聖霊と一般恩寵 

第4章      聖霊と啓示

第5章      聖霊と照明

第6章      聖霊とイエス・キリスト

第7章      聖霊と再生

第8章      聖霊と聖化

第9章      聖霊と異言

第10章   聖霊と導き

第11章   聖霊と神の子

第12章   聖霊と祈り

第13章   聖霊と教会

第14章   聖霊とその象徴

第15章   聖霊と赦されざる罪

第16章   聖霊と人間の責任

 

       訳者あとがき

 

第1章   聖霊と三位一体

 

本書において、聖霊の種々の働きのことをおもに考察したいと思っている。それにはまず、聖霊とはどういうお方か、ということを考える必要があるので、この第1章では、聖霊と三位一体のことをとりあげることにする。

 それでは、この御霊について、4つの事柄を述べることから始めよう。

Ⅰ 聖霊は人格を持つ ・・1・・

 クリスチャンであるなら、聖霊を人格のあるかたとして信じている。これがクリスチャンであることの一つの証拠である。教会の初期から今日の近代主義にいたるまで、人々はなんらかの形で、聖霊の人格を否定してきた。キリスト教の説教者や神学者と言われている多くの人々が、御霊を「彼」と言わず、「それ」という言及の仕方をする。彼らの考えによると、聖霊は非人格な影響とか力とかエネルギーであって、三位一体の第三位格ではない。そうした見解であれば、私たちの救いの大きな祝福の幾つかが奪われることになる。それだけではなく、そうした見解は非聖書的である。

 聖書は御霊が人格を持っていることを、いろいろと明らかにしている。

 まず第一に、彼には知性と感情のあることを示している。こうしたものは人格のある者の固有の性質であって、人格のいない物体にはこうした性質はないが、神の御霊には明らかにある。パウロが次のように書くとき、御霊が知性を持っていることを前提にしていることが分かる。「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめる。というのは、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも神の御霊以外には、知るものはない」(Ⅰコリント2:10,11)。

 ここでパウロは聖霊が所有する知識のことを語るが、影響や力はこうした知識を持つことがなく、人格のあるものだけが持つものである。聖書はまた、意志という人格的性質を持つものとして御霊を描いている。パウロ、シラスおよびテモテがビテニアに行こうとした時、「イエスの御霊がこれを許さなかった」(使徒16:7)と書いている。コリント人への第一の手紙12章1節では、聖霊が多くの賜物をキリスト者に与えてくださったと、語る中で「聖霊は思いのままに」そうされると述べている。感情については、御霊を悲しませることが、エペソ人への手紙4章30節で言われ、それゆえに、「神の聖霊を悲しませてはいけない」という命令が私たちに与えてられる。


聖霊とその働き

           エドウィン・H・パーマー著      

鈴木英昭訳

        (元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)

 はじめに

 クリスチャンにとって、聖霊という主題以上に重要なものはほとんど無い、と言ってもよいであろう。クリスチャンの霊的生活が始められ、そして継続されていくという、この両面とも、神の永遠の御霊の働きかけがなければあり得ないからである。聖霊と私たちの霊的生活との関係は、創造主とこの世界との関係にも比べることができる。

 創造主である神がおられなければ、この世界は決して誕生することはなかった。また神の継続的な保持の働きがなければ、クリスチャンとして新しく生まれることはなかったであろうし、御霊の絶えざるきよめる力の影響を受けることがなければ、クリスチャンの霊的生活はもとの霊的死の状態に逆戻りすることになるであろう。それだけではない。本書の目次を一瞥すれば分かるように、聖霊は、再生や聖化以外にも、信仰生活の多くの重要な面で、欠かすことのできないお方である。

 しかし、教会の歴史を見るとき、聖霊に関する教理はしばしば軽視されてきた。例えば、キリストの神性、三位一体、恵み、贖い、そして礼典といったような主題については、長期にわたって   論争がなされた。しかし、聖霊についてなされた論争は、それに比べてはるかに少ないのである。組織神学者たちは、御霊についての教理を三位一体の一部で扱い、個人の霊的との生活との関連でごく短く取り上げているが、それ以外の面では無視してしまうことがよくある。キリストへの関心は聖霊への関心より高い。クリスマスへの関心はペンテコステへのそれよりも高い。使徒信条ではキリストに関する項目が6つあるのに聖霊については一項目である。この事実は教会の関心の度合いをよく物語っている。聖霊のことを「知られざる神」と呼んだ人がいるくらいである。

聖書研究を大いに促進させたのは、宗教改革時の教会である。ローマ・カトリック教会の教えに反対して、宗教改革者たちは、聖書の正しい解釈に必要なのは教会ではなく、人間の心を照らす聖霊であることを強調した。また、ミサにおいてキリストの犠牲を人に適用するのは、聖職者でなければならないとするローマ教会の教えに対して、ルターとカルヴァンは、キリストの犠牲を私たちの生活に適用するのに、聖霊の働きの必要なことを主張した。しかし、聖霊の教理を強調することが特に必要になったのは、主権的恵みという聖書の教理が、カルヴァンによって再発見されたからである。というのは、カルヴァンは、人間の全的堕落と無条件的選びを強調したからである。つまり、神がその選びを主権的に実行なさるなら、選民の生活のうちに聖霊が力強く働かなければならないということになるからである。

聖霊研究では、これまで最も徹底してなされたものが二つある。その一つはイングランドの神学者ジョン・オーエンが17世紀に書いたものと、もう一つは19世紀のオランダの政治家であり神学者であるアブラハム・カイパーによるものである。この両者とも改革派の遺産を受け継いでいる。しかし、これらが共に分量が多く、非常に詳しく書かれた書物であるため、時間をかけてそれらを読む人はきわめて少ない。

近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかし、その学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。これに加えて、なかには聖霊の聖書的教理から逸脱するものも現れてきている。

したがって、この主題の重要なこと、それにもかかわらず比較的軽視されていること、学びがあまり歓迎されていないこと、クリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から、本書は書かれている。

                  エドウィン・H・パーマー

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 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
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スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
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「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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