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「今月のことば」
あなたがたは、地の塩である。
あなたがたは、世の光である。
=マタイ5:13~14=
このみ言葉は、神様の御業がこのような形で、小さく貧しい私たち人間を神の民、信仰者として招き、用いてくださる時、大いなる希望と使命が託されていることを知らされます。
日々の生活に追われ、小さな出来事に翻弄されてしまう私たちを「塩となり、光として」お用い下さるというのです。信じ難いことです。しかし、創世記1章には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』・・・。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。・・・。第一の日」(1:1~5)。とあります。この全能の神が、私たちを「地の塩、世の光」とされるというのです。
この世界は、争いの絶えない歩みです。多くの国民が、民族が、悲惨な悲しみに陥ってきました。そのような今であるからこそ、キリスト者は、神様から託された役割を果たさなければならないのではないでしょうか。
圧倒的な武力の前には本当に個人は無力です。しかし、武力をもって争いを引き起こすのが人間なら、平和や希望もまた人間の手によって作り出そうと信じたいのです。
私たち自身が「地の塩、世の光」ではありません。私たちが神の民、キリスト者として用いられるとき、「・・・であろう」という未来形ではなく、「である」の言う現在形として、日々を考え、祈る存在であるとしたら、何と幸いなことでしょう。
「闇に光が打ち勝つ」ことは、まさに主イエス・キリストの贖いの十字架が示しています。主イエス・キリストは、神の子として、私たちの「地の塩、世の光」そのものです。そのイエスを唯一の救い主と信じる民が、その役割を担っているというのですから、感謝以外にありません。
私たちは、何をすべきでしょうか。「地の塩、世の光」として、何ができるでしょうか。出来ます。与えられている持ち場がその活動の場、働きの時です。家庭や近隣、働きの場そのものが「持ち場」です。キリスト者として生き、神の御心を喜びとし、それを分かち伝える日々が、最も感謝な「時」です。
「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである」(伝送の書11:1)。
全能の主、造られしもの、王なる神をたたえよ。
わが魂よ、主をほめよ、主は救いにて 汝を健やかにしたもう。
聞く者らよ、いざ進みゆきて、宮にもうで われとともに、心たのしく神を拝せん。 アーメン
「今月のことば」
涙をもって種まく者は、
喜びの声をもって刈り取る。
=詩編126・5=
混迷の時代、先の見えない日々に神様は、このみ言葉をもって希望を見出させ、喜びへと導いてくださいます。
神様は私たちをそのみ恵みの内に受け入れてくださったときに与えてくださった心は、何でしょうか。今の同時代の人々に対する責任感と、世の人々をキリストへと導きたいという望みを私たちの心に育て、育んで下さることではないでしょうか。
神様は「混沌とした闇に光あれ」といわれ、光と夜とに分け・・。良かったと言われましたように(創世記1:1~)、今の世にもそれをお望みです。その役割を、土の器、罪の人間(私たち)を用いて為されるとは、信じ難い光栄であり、大役でもあります。
キリスト者は、この大役にたじろぎ、その歩を止めるとしたら、それは、自分の力や熱心で事に当たろうとした結末です。それが不成功であったことを見ると、不遜にも、その心はしばしば心折れ痛み、疑いに満たされてしまいます。特に生真面目な説教者たちや、熱心に教会の活動に、伝道の働きに関わった者が陥る、挫折感には深いものがあります。でも立ち止まってはなりません。
親は子供に夢を託し、愛情を注ぎ努力した結果を、気ままな生活をしている姿を見る時、虚しさを味わうと言います。もしそうなら、神様は私たちに託した役割の結果を見た時、そのようにお思いになるのでしょうか。
期待外れ、期待を裏切ったと、私たちが日常の中で思うのと同じように、神様はお思いになられるでしょうか。
すべての権をお持ちになる方を信じる信仰を告白し、祈りを聞くお約束下さった方を信じると告白し、励んできた者には、時に疑いを抱かせるころもあるでしょう。しかしそれは誤りです。この「涙をもって種まく者には、喜びの声と刈り取りの喜び」を神様は祝福をもって与えるとお答えくださいました。
神様からの収穫は、額に汗し、涙を流すところに収穫があると言うのです。私たちの日々も同じではないでしょうか。そうであるからこそ、今の汗と涙は、喜びの約束でもあるのです。肉体が元気あることは大切です。しかし、もっと大切ものは信仰の心も元気ではないでしょうか!
主のために涙もて種まきに出て行き、
損失はわが心を悲しませども、
われらの涙の日の終わる時、
主はよろこび迎えたまわん。
讃美歌536番
1 むくいをのぞまで ひとにあたえよ、
こは主のかしこき みむねならずや。
水の上に落ちて ながれしたねもを、
いずこのきしにか 生いたつもの。
2 あさきこころもて ことをはからず、
みむねのまにまに ひたすらはげめ。
かぜに折られしと 見えし若木の、
おもわぬ木陰に ひともや宿さん。 アーメン
「今月のことば」
わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
=第二 コリント 5:7=
桜の花びら舞う季節から、美しい緑の若葉の季節を迎えることができました。悲惨な戦争は、どうしてこうも繰り返して起こるのでしょう。悲しみからは決して希望は生まれません。国と国との戦争も人と人との諍いも同じであることを体験、経験しているのに繰り返してしまいます。悲しい現実です。
そのような今、この、「今月のことば」が与えられました。祈り、神様のみこころを探しつつ、皆様と共に考えていたいと思います。
この世という荒地、苦難の道を通って生きるのが信仰者と言われる時、恐れ、慄き、たじろいでしまいますが、それでもキリスト者の巡礼の旅は、信仰によって歩むことを、愛と励ましの思いでパウロはしるし、救い主を指し示しておられます。
だれもが天国や再び来られる主イエス様を待ち望んでいます。また、私たちの心、信仰には「見たことのないかたを愛している」者でもあります。
私たちの信仰は、神の御約束の言葉に立つ信仰であり、足であり歩みであります。また、キリストとその十字架をとられて放さない手でもあります。その手と足は、悲しみをもたらす戦いのためのものではなく、悪(サタン)と戦う剣であり、あたかも目の前に立ちはだかる敵に立ち向かう手でもあります。もし、キリスト者が自分の力と知恵に頼り、立ち向かうなら、勝敗は明らかです。しかし、しっかりと見えざる神の力に心を向け、しっかりとそのみ霊の力を頂いて立つなら、勝利以外にありません。
信仰者は、時に思い上がり者であり、自己過信に陥る者でもあります。しっかりと掴まるものもなく、立つ足を失うなら、その人生は目的を失うことであることを、決して忘れてはなりません。私たちは無力であることを認め、信仰に立って歩み、生きることは、「わたしたちは地上の生涯を信仰によって絶えず貫かれなければならいという巡礼の道」でもあります。パウロは心から言いました。「わたしは信仰を守り通した」と。
その告白は、パウロだけのものではありません。私たち一人ひとりのものです。主イエス・キリストとの交わり生きる時、み霊なる神様は、決してその歩みを、お忘れになることはありません。それは神の救いのみわざそのものだからです。
このみわざは主のもの、信仰の賜物は神のみ恵みなのです。 アーメン
「今月のことば」
わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
=ヨハネ11:25=
真実な愛
真実な愛がない心から 出てくる行いを見ないで
真実な愛に満ちた主の その御業を見つめて歩めよ
真実な愛がない心から 出てくる言葉を聞かないで
真実な愛に満ちた主の その御言葉を聞いて歩めよ
真実な愛がない心から 出てくる力に頼らないで
真実な愛に満ちた主の その御力たのみて歩めよ 水野源三
今、一番忘れてはならない出来事はクリスマスと共に、「イースター」です、と言えば、多くの人は不思議に思うことでしょう。しかし、ゴルゴタの丘で十字架の上で処刑された主イエス・キリストは、このイースタ―で約束されたことの成就、復活を信じる人々が待ち望んでいた「よみがえり」を証しされたのです。
イエス様の死と葬りは、弟子たちや救い主と信じて従って生きてきた人々にとっては暗黒であったでしょう。しかし、不安と絶望の中にあっても、イエス様のお約束を待っていた出来事、この「よみがえり」は、言い尽くせない喜びであったことでしょう。
希望の拠り所を失い、消えてしまった墓の中のイエス様を見た者にとっては、立ち尽くし泣き崩れるしかありません。「絶望」とは、「望みを失うこと」です。
大きな死の力は、主イエスをも飲みこんでしまいました。人間の体が土となりはじめていた墓から、生ける人を呼び出されたあのイエス様が死なれたのですから。
3月号の「今月のことば」、べタニヤについて考えましたが、「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」とマルタはイエス様に申しました。今日も、今も、人々はこの叫びを言います。しかし、イエス様はお答えになります。
「もし信じるなら、神の栄光を見るであろう」。イエス様はこう言われた直ぐ後で、死んだと思われていたラザロは生きて、家族の群れの中に立ちました。「絶望」から「希望・喜び」変わったのです。今、この主のお約束を信じて待つだけの信仰を持つ者は、すべてのことが、喜びに代わることを信じることでしょう。
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」
このみ言葉の成就こそが「イースター」なのです。
詩人は謳いました。
人みな喜べ、主は生きたもう。
主をたたえよや、救われしもの、主をほめたたえよ。
罪も死も、地獄もそのいきおいにひれ伏す。
「今月のことば」
たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
=マタイ16:26=
このみ言葉は、時代や人種を越えて多くの人の目標を示してきました。救い主イエス様は人を心から愛し、その存在を高く評価します。主は一人の人を全世界と比較します。そして全世界を一人の人の魂の価値より低いとします。人が全世界を得ても、魂を失うならば全て失うことであると言い、高く人の魂を評価さるのです。しかし現実は違いすぎます。差別や貧しさ、いじめ、争い、戦争は社会の世界の現実の姿です。そうしてそれは、私たち一人ひとりの心の姿です。人間の歴史そのものです。
このように大切な宝を授けられている人間とは何でありましょう。他人事としてではなく、私たちは魂をどのように考えているのでしょうか。それをイエス様は私たち個々人に問うています。人は神様がお示しになられたみ言葉を、目先のことに遮られほとんど日常の生活で忘れているのではないでしょうか。しかし、キリスト者はこのみ言葉を認めたいと願っています。
このみ言葉を認めようとしないなら、それは自分自身を認めないのと同じなのです。
主イエス・キリストは、この魂の値打ちを知っておられるお方です。滅びを悲しみ、見過ごすことをなさらないのも主イエス・キリストです。その滅びゆく私に道を示し、確かさの証明として、救いの道を、あの十字架の死をもって証しされたのです。イエス・キリストは私を「失われたまま」にされることを、よしとされず、その道となり、導き手となり、み霊をもって救いへと共に歩んでくださるお方です。
私たちには、真実、心の相談相手は必要です。諦めてはなりません。イエス・キリストの身元にまいりましょう。長い年月、信仰生活をされてきた方であろうと、この主イエス・キリストの愛と救いの確かさは、全世界をもうけても代えられない、「宝」です。救いの恵みを失うならば、全てを奪われても失ってはならないものと信じています。
信仰とは、この「救いの宝」を固く守り続けるために日々自分を振り返り、悔い改めて神様のみ元に立ち返る歩みをさせてくださいと願い続けることなのです。この救いと希望に満ちた神様の御業を隣の方に伝えましょう。
そこには、「きらめきの信仰」があるからです。
「今月のことば」
すると、パリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
=ルカ15:2=
まったく奇妙なことに、イエス様の敵がイエス様を非難したものの一つは真実でありました。主イエスは罪人を受け入れ、罪人らと共に食事をとられたのです。パリサイ人たちにとって、このことを黙っていることは不可能でした。
彼らは善人の中の最善の人が来られた時に、自分らの中に入るだろうと確信していました。しかし、全然反対でした。主イエスはパリサイ人たちが最も軽蔑していた人々と共にいることを好まれたのです。結果は、自分たちが最も良い人々だと考えていた者たちが、イエス様の最も激しい反対者となり、遂に主イエスを殺しました。
イエス様が取税人や罪人たちに背を向けてさえいたならば、主イエスの望まれるままに何を言われようと、なさろうと、生きられようと、かまわなかったことでしょう。しかし、それは主イエスご自身の信念・目的・使命を破ることであり、到底なし得ないことでありました。代わりに、主イエスは罪人の友として、命を捧げられたのたのです。イエス様にとっては、救うことのできる罪人を捨て去ることは、例えば親がその愛する子供の手を振り払って捨て去り、死に追いやる以上に不可能なことなのでした。
人間が、自分の目でまことの罪人であると思う時、それは大きな幸運であります。もしわたしたちが罪人でなければ、救い主の必要はどこにありましょう。もしキリスト者の進歩が、自分の罪を見ることがだんだんと少なくなることになれば、それはパリサイ人と同じになるのです。
大いなる罪人は、大いなる救い主を必要とするのです。
十字架の教えこそ、永遠の知恵、主の死によりて、わが死は贖わる。
コロナ禍は、全世界に、全国に拡大し、多くの人の命がそのために失われました。この猛威に人々は立ち向かっています。欠くことのできない仕事に従事されている人々、それは医療従事者ばかりではありません。公共の電気、ガス、水道、家庭などから出されるごみの収集の人々、通勤や通学の足である交通機関、また、教育や保育に関わる人々、そうして今、日常生活に欠かせないコンビニやスーパーマーケットでお働きの方々。農業や漁業関係者、行政や政治に関わっているいる人々、警察や消防の方々など、数え上げれば際限がありません。その一つ一つの職業は欠かせない(エッセンシャルワーカー)と信じています。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
=マタイ5:7=
コロナで始まった異常な2021年も終わります。2022年がどのような年になるのでしょうか。平和で穏やかな日々、家族、そうして社会や国と国との関係であってほしと人々は願っています。それは神様がくださるものであると同時に、憐れみと平和の神様に私たち一人ひとりが、熱心に祈り求めることでもあります。その思いを持ち続ける1年でありたいものです。
神様はそのために、私たち一人ひとりを用いて、悩める人々と共に悩み、長い間、悲しんでいる人々の涙を拭い去って、ほほえみを返し、励げまし、また、分かち合うことに喜びを感じているという、大切な「愛」に富む人へと、成長させていただくことを信じつつ、「祈りと大切な感謝と喜びを、日々の祈りの課題」としようではありませんか。
そのためには、何よりもまず、私たち一人ひとりが、日々の信仰生活で、祈りが課題・重荷となることなく、心の豊かさの財産であると共に、それは周りの人々にとって「宝」になると信じようではありませんか。
冷淡の心、周りに無関心な心、辛辣な批判の嵐の社会よりも、思いやりと憐み深い人に出会う時、私たちは、その日一日が祝福された思いになれます。
イエス様との出会いは、その出会いのお手本です。
私たちが親切な心を持って生きようと、イエス様に学ぶ日々は、私たちが、その人生を終える時まで、信仰に生きた喜びの涙を流す信仰者でありたいと思います。その生き方は、確実に人びとに、神様の恵みを分かち合えた証しになるでしょう。
人びとから受けた憐れの愛は、不思議にも隣り人へと伝わっています。それは、感謝の思いを伝えたいという思いに変えられた証だからです。
イエス様に癒された大勢の病み人が、感謝の思いを隠し通せず、町に出て大勢の人々に分かち伝えた姿が福音書に記されています。
この2022年が、イエス様との霊的交わりを深め、愛を頂き、隣りの人にお伝えする歩みでありたいと思います。
そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いた。
=ルカ24:45=
世界で一番読まれてきた読み物は、聖書であると言われ、これからも変わらないことでしょう。聖書のみ言葉は、他の全てのことば(文学)とはことなるからです。それが神のみ言葉であるからというばかりでなく、神ご自身がみ言葉によって、み言葉への扉を開いて下さったからです。そうして、それで、私たちの悟りに新しい光を下さるのでなければ、誰も、神のみ言葉の内容を見出すことが出来ないからでもあります。
聖書を信じず、この世的な目で読む人々は、ただばかばかしいと思い、失望し、腹を立てる人もいるでしょう。しかし、神の恵みによって聖霊が心を、目が開かれると、私たちがみ言葉の中に、生命のみ霊の法則を見出し、死んだ者に命を与えられることを知ります。罪のあった人が自由にされ、神につくものと変えられます。暗く虚しい思いは軽くなり、破れた心は癒され、すべてが謎であったところに、今や私たちは主の道を見ることで、希望を見出すのです。
では、もし神が聖書の中に命のみ霊に通じる扉をお閉じになれば、どれほど長く時間をかけて読んでも、光は射さず、解決も、恵みも、慰めも見いだすことは出来ません。福音書に記されている、あのエマオへ向かって行った弟子たちのように、私たちは心重く、全てはあの十字架の出来事は過去となり、もはや現在ではないことを思い悩んで歩くしかありません(是非、新約聖書ルカ24・13~35をお読みください)。しかし、ご自身のみ言葉への鍵をお持ちになる神が、私たちに開いてくださるとき、私たちは光を見出し、イエス・キリストのみ顔の栄光を見るのです。
私たちは、日々、み霊によって聖書の扉をお開きくださいと、祈らなければならないことをお互いに、たびたび注意し合っても、し過ぎることはありません。この励ました大切です。そうすることによって、初めて私たちは生と死とを貫く道を見出すことになるからです。クリスマスは「まことの光」の存在を告げ知らせる「しるし」げ知らせる。
主のみたま、われらの夜を破り、真理の光をもて、
雲を払い給うまで、われらの知識、知恵、視力すべて、
深み闇に包まれてよこたわるなり。
み霊のみぞ、われらの神に勝ち取る、
われらの内によき働きを為したまえ。
みなわたしを捨てて行った。どうか、彼らが、そのために責められることがないように。
=Ⅱテモテ4・16=
パウロのように真理を愛し、人々の救いのために生きた人、気高いキリスト者が、彼の味方に捨てられるようなことは、あり得ないだろうと考えられがちですが、彼もまた、彼が一番必要とする時に、彼らが離れ去るのを見なければなりませんでした。重い暗い人間模様です。しかし、信じ合うことは大切です。年をとり、ひとり放っておかれ、すべての人に忘れられ孤独の中に座っている自分の姿を・・・。キリスト者として、また良き友として、長い間の夫婦でも、ある時、人生の夕べとなり、相い別れる時は来ます。
パウロは言いました。「みなわたしを捨てて行った」。みなな・・・。パウロの使徒として生きた年月の中には、言い知れない悲しみや苦難も数多くあったことでしょう(どうぞパウロ書簡の末章をご参読されることをお勧めいたします)。
しかし、パウロから学ばなければならない大きなことは、彼がこれらすべてのことを、信仰者として許しの心で真実に対峙していることであります。「どうか、彼らが、そのために責められることがないように」と言います。このように言える人は何と幸いな人でしょう。私たちがすべての人を赦すことは、神様のみ心であり、愛の証であることを学んできました。その主イエス・キリストから人は去って行きました。
「わたしはあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた主を、どんなに不幸に合い、悲しみに打ちのめされても、「主イエス・キリスト」を真の友として愛し、信頼する信仰の姿で、日々を真剣に生きたいものです。
信仰の詩人は言います。
わたしは、ゲッセマネを思い起こします。ユダがどの様に主を裏切ったかを、ペテロがどのように主を知らないと言ったかを。
弟子たちはみな主を捨てて逃げ去ったかを。主がむち打たれたことを。いばらの冠を、かれらが主につばきをしたことを。また葦で主の首をたたいたことを。
主の手と足を釘で刺したことを。主の十字架の苦しみを。主の渇きを。主が「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたことを。
主イエス・キリストの愛こそ、パウロの祈りの言葉です。
「今月のことば」
競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。
=Ⅱテモテ2:5=
「2020東京オリンピック・パラリンピック」の大会も2021年になりましたが、世界の各地から選手や関係者が集い、コロナ禍という異常な事態の中に開催され、終了しました。選手たちは今、何を思っているのでしょうか。多くのドラマが産まれ、感動や人との出会いを、思い浮かべていることでしょうか。この大会に参加するには、それぞれの国で参加を目指していた多くのアスリートがいます。同時にその試合のために準備された多くの関係者のあることを忘れることは出来ません。
国内の聖火リレーに参加された人々にもドラマがあり、数多くのボランティアの全面的な協力で成り立った「2020東京オリンピック・パラリンピック」でした。開会式の選手宣誓や役員の宣誓がありました。大会の理想と共に、私たちは一つの言葉に気づきました。それは「規則にのっとり」という言葉です。これは、オリンピックに限ることではなく、何事にも共通する「理念・理想」であることです。
競技とは、規定に従って行うことで、そこで賞を得るのですが、参加された選手や役員や審判の人々がそれに忠実である限り、全ての人には、「感謝の賞」を心にいただいたと思います。
試合には勝者と敗者に分かれますが、如何に素晴らしい記録を残しても、不正をしたり、誤りを犯す者は反則として除かれます。
キリスト者は、この点に於いては、キリストより厳しい事柄が求められています。信仰者としてこの信仰の戦いに参加する者、信仰者としての栄冠を得たいと望むなら、「信仰生活の戦い人」にならなければなりません。
主の大義のために、主のみ名のために、主の栄光のためであります。
ウエストミンスター大教理問答の問1 人のおもな最高の目的は、何ですか。 答 人のおもな最高の目的は、神の栄光をあらわし、神を永遠に十分に喜ぶことです、告白されています。
この目的・基準を心から愛し、喜び、従うために、自ら励むことなのであると、信じます。
心を見られる審判者は自己中心の競技者全ての名前を探りあてます。その戦いが外見上霊的に見えても、決して栄冠は得られません。
心して戦い祈れ、
戦いは決して止まない。
日ごとに雄々しく戦い、
主にのみ助けを求めよ。
すると長老のひとりが、わたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。
=黙示録5:5=
私たちはこれまでの世界をどのように見るかは、とても大切なことです。日々の生活も大切です。しかし、私たちの世界は多くの矛盾と困難に直面しています。一人の人として、またキリスト者として、避けることなく直視することは、次の光につながると信じます。
天候の異常、コロナの蔓延は世界的です。それがもたらす問題は深刻です。また国と国との争いもあります。隣り同士の国と国との諍いもあります。このように世界は争いや貧しさや苦悩と、絶望、涙と悲しみに満ちています。この惨めともいえる現実を負の遺産として、次の世代に先送りしていてはいけないのではないでしょうか。
しかしこの暗闇の中に、もう一つの世界から、もっと良い時代が備えられているとの叫びの声が、この「今月のことば」のみ言葉です。
貧しい子供として来られ、その貧しさで私たちを富ませ、天と地の全ての権威をもってお帰りになられた方が、私たちに、「泣くな」と言われます。必要な時になるまで、夜であるために、今は封印されているものが、やがて、昼と命へと解かれるのです。被造物の深いつぶやきと苦難の涙は、神の子供たちが信仰の目的地に達した時に、それは消え去ると、み言葉は教えています。
あのクリスマスの夜、あの星が照らしてから、天の霊たちが讃美の歌を、ベツレヘムの野で捧げて迎えられたお方によって、世界も、そうして私たちが救いの主として来られた方によって、死と死の国の鍵(審判・救い)は天の御国へと救い出すために来られたと聖書は語っています。
希望は主にのみあることが、感謝と勝利と言う恵みを、このみ言葉は示しています。
「私と共に歩まれる主よ」 水野源三
私と共に歩まれる主よ
あなたの愛と真実を
私のものとして
今日も明日も歩ませてください
私と共に歩まれる主よ
あなたの怒りと憂いを
私のものとして
今日も明日も歩ませてください
私と共に歩まれる主よ
あなたの叫びと祈りを
私のものとして
今日も明日も歩ませてください
あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。
近くおられるうちに呼び求めよ。
=イザヤ55:6=
このイザヤ書を通しての神様のお招きの言葉は、なんと勇気づけられることでしょう。同時に、この招きのお声を聞き過ごし、この世の富や名誉の誘惑や楽しみに心を奪われ閉ざすことの多いことを、思い知らされます。
同時に、神様の愛と忍耐の恵みの時の続く限り、私たちは主にお会いすることは出来ます。キリストによって、神がお開き下さった扉は、すべての者に開かれております。また、誰も神以外、他の者が扉を開けることは出来ませんし、誰もその扉を閉じることも出来ません。主が死と、黄泉の国の扉の鍵を持ち、主のなる神のみが、開き、そして閉じられることを、ここに、すべての者に宣言なさっています。
また、主は扉を閉じる時が来るとも語られました。この警告と招きは何にも勝って大切な事実であると、聖書を通して語っています。
「主にお会いすることのできるうちに」お会いし、お会いいたしましょう。その場所は、地上では教会です。私たちには意思があり、時があり、自由があり、それを持っていることを誇りに思って生きてきました。しかし、神の御招きに与らない限り、誰も自分の罪を認め、悔い改め、告白することは出来ません。反省ではなく、「悔い改め」とは、神様が下さるお導きの実だからです。
人が、天国へ行きたいと願う者は、神様がお招きくださっている時を逃すことなく、受け入れなければなりません。それが、何時、何処であるかは分かりませんが、その機会を提供しているのは、教会の礼拝の時です。教会の扉は何時も開かれています。自由に入り、出ることは出来ます。しかし、そこにとどまり、信仰を頂くために、時を待たなければなりません。それは今であるか、先の先であるかは、私たちには隠されています。その時をお決めになるのは神様です。
ですから希望を持って待つことが出来るのです。
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「キリストの香り」 水野源三
朝の霧に包まれて
ひそかに香る野バラのごとく キリストの香りを 香をいつまでも香らせてください
誰もが足を止める 淡紅色の野バラのごとく キリストの香りを 香をいつまでも香らせてください
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」