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「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことはない」とあなたをあわれまれる主は言われる。
=イザヤ書54:10=
この御約束は信仰者一人ひとりにとって、何と心強く、慈しみと憐れみ深く、そうして力強いことでしょう。このみ言葉の契約は永遠の神のように変わることなく、動くことなど微塵も存在いたしません。
このみ言葉は、弱く貧しいキリスト者の信仰に希望を与え、重く圧し掛かっている心の重荷を取り去って余りあるものであります。山が移り、丘が動くのを見ることなどあるものではありません。しかし、もしこういうことが起こったとしても、私たちは山よりも確かな拠り所を持っているのであります。神の約束は、山々よりも安全であります。
この御約束を真実であると信じましょう。私たちには、何よりもそれが必要なのです。人生には、若い人も歳を重ねた人も、その人に応じた力は満ちていますが、しかし時に、不安や疑念や恐怖、あるいは耐えられない迫害(差別や偏見やセクハラ)を経験いたします。また、父や母は手に負えない子供のことで嘆くでしょう。自分の義務やこころ至らなかったことに責任を抱くでしょう。
苦難に合う時、この世には神も望みもないかのように、絶望し悲嘆にくれる時もあるでしょう。
しかし、本当に悲しいことは、信仰者として神に招かれて生き、み言葉に教えられ、祈り心を以って歩んできたキリスト者が、この約束への信仰を失うことです。自らを存在に値しない、無力な無価値な者と思い込み、暗闇の中に閉じ籠る信仰の者の姿です。
しかし、自分がどうであれ、神のみ言葉には、イエス・キリストが、その救いのために十字架にお架かり下さった事実の上に今、自分が今生き、あることを思い、再び知らされる時、自由にされ、勝利者として生かされ、生きていることを主にあって誇れる気がいたします。
主イエス・キリストは、立ちなさい!と失望したキリスト者一人ひとりに、このみ言葉の上にあることを確かめなさい!とはげましてくださっています。ただ主イエス・キリストのみを仰ぎ見て生きましょう。
生ける石にて築かれ、み霊の一致によって合わせられ、
預言者と使徒たちの伝承にもといをおき、信仰堅く、主に頼らん。
涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
=詩編126:5=
この聖句に出会って60余年になりました。その時々の光になり、挫けそうになった時に希望を下さった大切な聖句になり、今はお便りの最初の言葉「つのぶえジャーナル」のタイトル聖句として、今までと同様に、これからも、私の心の支えとして用いることでしょう。
コロナ禍の今ばかりでなく、古の時代から世の終わりの希望の終末の時まで、神様が私たち一人ひとりをそのみ恵みのうちに受け入れ下さった愛に、今も後も、神様の「証し人として」「この救いの恵み」を伝える責任とキリストの十字架の下へ導きたいという望みを、私たちの心の内にかたち作りました。
そこでキリスト者が、このことの不成功を見ると、その心はしばしば病み、疑いで満たされます。特に、熱心で生真面目な信仰者や親たちは、自分の子供が気ままな生活をしているのを見ると、辛く感じてしまいがちです。
しかし、忘れてならないことがあります。それは、全ての権能をお持ちになる方を信ずる信仰を告白し、祈りをお聞きくださると約束下さった方を真実と告白し続ける大切さです。同時に、私たちは自分の不成功の有様を見ることは、最も強い責任感を持つ者を疑い慄かせる迷いへと誘うことです。
この無用な重荷の下で自分を過度に問い詰めているなら、この、「今月のことば」のみ言葉を心に思い浮かべてみませんか。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」(詩編126:5)というこの短いみ言葉を心の中に入れましょう。このみ言葉には、種と涙について語っていますが、神は何時かは良い収穫が、この涙から生じると言われています。
それでは、私たちは、日々、何事においても、涙を注ぎなさいとの言われる神様の涙とは、何でしょうか。怠惰や気まぐれでないことは確かです。そうです。実直な生活と姿勢、苦手であるかもしれない勤勉、細やかな気配り、そうして大胆な神様に生きる信仰の歩みです。「たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」のですから・・・。
主のために涙をもて種まきに出で行き、
損失はわが心を悲しませども、
われらの涙の日の終わる時、
主はよろこび迎えたまわん。
さればわれら、たのしみて、束を取り入るべし。
すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である。」ヨシュアはそのようにした。
=ヨシュア5:15=
コロナ禍の昨今、自粛疲れとか、気の緩みなどの文字が数多く見聞きする時、先の見えない焦燥感が、無力が心に覆ってきます。そのような時、この聖句が与えられました。
ヨシュアはエリコを前にしてただ一人、心細く立っておりました。堅固な城壁は、彼の行く手に立ちふさがっております。これと同じく、キリスト者もまた、解決しなければならない問題、しかも解決できない問題や困難に直面することがあります。
助けを求めて主なる神に祈るヨシュアのような私たちならば、主の軍勢の将から言われた神の御命令の「あなたの足のくつを脱ぎなさい。」というお言葉を、感謝をもって受け止めたいものです。
このお言葉が、私たちにとり何を意味するものかを語るとすれば、私たちはこのように言わなければなりません。あなたの心と魂を素直に神の前に置きなさい。あなたが見、あなたが知り、あなたの心にあるものを何一つ主に隠してはなりません。何か特に取り組んでいることがあり、打ち勝つことの出来るものがあるならば、それを神に打ち明け、また、妨げるものの名を告げなさい。あなたがどこで打ち負かされようとしているのか、どういう点で自分に対し、他人に対して何もできずにいるのか、主に打ち明けなさい。内なるものも、外なる生活も同じように、主の前に明らかにしなさい。そうすることが「くつを脱ぐ」ことなのですとお命じになっています。
このご命令に従うことをキリスト者には信仰の土台であると言われるのです。そうすることで、今、あなたがたは「聖なる所」に立つと言われるのです。
信仰の道は「自分を捨てる決断と勇気の道」でもあります。それは「細く、狭い道」でもあります。しかしその道は、「光への道、救いの道であり、永遠の命への道」でもあります。このヨシュアへの決断を迫ったお言葉は、一見、厳しく困難なお言葉に思いますが、神の愛に満ちたお言葉でもあります。
エリコの堅固な城壁は、ヨシュアの決断によって崩れ去りました。これは歴史的事実でした。
今、求められていることは、「勇気をもって神に信頼し、自分の計りごとに立たない」勇気なのではないでしょうか。
「今月のことば」
「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」
=マルコ14:36=
父よ、あなたがわたしに賜った人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。
=ヨハネ17:24=
神様は世の救い主として馬小屋で産まれた幼子を通して、多くの人々罪の許しと癒しと救いの道とをお示し下さいました。そうして、神様に呪われた罪人が受ける十字架の刑を、「神の子・イエスとして」お受けになられ、死を経験されました。この事実は信じ難いですが、真実として受け止めさせるのが、イースター(復活日)です。
神様が、世の救い主としてイエスに要求されたことに、主が直面なさったとき、主は痛ましいほどの魂の戦いの中に入りました。今、受けなければならない杯は、罪が全人類にもたらした恐怖に満ちており、その苦しみは「この杯をわたしから取りのけてください」と叫ばせるものでした。だがしかし、それに続くみ言葉は「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」は、救い主としての勝利を得られたことを鮮やかに示しています。
イエスが示したことは、あなたのために罪ある者とされたことが、み子なるイエス様にとって計り知れない屈辱です。この屈辱を、ご自身の意志を全く無にして神に委ねることによって勝利を得られました。それによって、人の子は勝利を得られたのでした。
イエスがご自分の思いを神にお委ねされることによって、人の子は栄光を受け、神は主イエスによって救いの業の栄光をお顕わしになられました。
イエスは「父よ」と天に向かって叫ばれました。わたしの命を世の救いのためにささげます。あなたがわたしに賜った人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい、との執り成しのみ言葉は、私たち一人ひとりに、言い表すことの出来ない幸いと感謝の思いにさせることでしょう。「真の希望とは」、眞にこのことであります。
救い主ななる君、われらは君の宴を祝いまつる。
君の死とみ名とをほめまつる。
やがてまた帰り来まして、われらとともに、
子羊の婚礼の宴に来たりませ。
「今月のことば」
神はわたしたちの罪のために、罪を知らなかったお方を罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためである。
=第二コリント5:21=
梅の便りから桜の便りへと変わり、季節の変化を感じさせてくれます。各地で新型コロナワクチンの接種が始まりました。明るいニュースでもあります。同時に梅や桜のお花見気分になり、つい外出したくなりそうですが、今暫く我慢いたしましょう。東北や関東地方には大きな地震が起きました。被災された方々には、心からお見舞い申し上げます。
何かを得るために、何かを犠牲にしなければなりません。しかし、私たちは、主イエス様が支払われた、罪の償いの代価がどれほどであるか計り知ることは不可能です。世の中は、物事の解決・決着をお金で決めてきました。しかし、その額が計り知れないものではありません。決着、双方が納得するから成り立つ事柄です。
では、私たちの罪の償いの額は、如何程でしょうか。支払い可能なものなのでしょうか。聖書は、人の富では「償いきれない、支払いは不可能である」と語っています。その罪の贖いの代価・値がこの「今月のことば」に示されています。それは、父なる神御自身が、私たちの罪の贖いの代価として、その独り子であられるイエス様を「贖い主・救い主」として償わなければならないほどのものなのです。
イエス様は、私たち一人ひとりの代わりに、神のみ前に生贄として、代価として御父の御前に出たというこの事実を、どのように受け入れ、認め、感謝するかを深く、深く思わされます。
イエス様が神の愛を、その苦難と死によって示されことは、神様の救いのご計画そのものであるとしたら、計り知れない救いの恵み、愛であるとしか表現できません。しかも、イエス様は私たちのために罪人とされ、それをもって、私たちがその贖いの死によって神の義を頂く者とされるとは、「神の愛・恩寵」としか言い表せません。しかし、この救いの恵みを、多くの人々は受け入れないのです。どうしてなのでしょうか・・・。到底信じられないことだからです。
この救いの恵みを、誰が語り、伝えるのでしょうか。それは救いの恵みに与っている私たち一人ひとり以外にいないのです。人は笑い、無視され、時に軽蔑の眼差しにさらされるでしょう。
しかし、私たちは「喜びを語り伝えることこそが最善の使命である」と信じる時、証しし、語り続けることを止めることができないのが信仰者の姿なのです。「人の生きる唯一の目的(喜び)は、神の栄光を現わすために、生きるにも死においても、真に喜ぶこと」と知っているからです。
全ての罪人が主を救い主と迎えた時、主は十字架の上からの血潮と死が私たちの罪を負い、私たちの罪のために支払ってくださったことによっていただいた義が私たち一人ひとりの信仰の基礎・生きる意義、目的になっていることを知るのです。
讃美歌515番
1 「十字架の血にて きよめぬれば、
来よとの御声(みこえ)をわれはきけり。
(おりかえし)
主よ、われは いまぞゆく、 十字架の血にて きよめたまえ。
2 よわきわれは みちからをえ、
この身の汚れを みな拭われん。
3 まごころもて せつにいのる、
心にみつるは 主のみめぐみ。
4 ほむべきかな わが主のあい
ああほむべきかな わが主のあい。 アーメン
「今月のことば」
もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
=へブル3:14=
2020年が終り、年が改まり1カ月が過ぎました。2021年に希望を託し、若い人たちは旅たちの備えの時です。日常の生活が始まり、日々を始めた方もおられるでしょう。厳しい状況下にあっても、困難と闘っている方もおられます。神様のお守りとお導きを心から祈らせていただきます。
全てのキリスト者は、その人生、その歩みが罪深く汚れている時のことを知っています。「反省」では取り返しのつかないことも知っています。なされたことは、なされたことで、それをどうすることもできません。しかし、私たちが、あらゆることをなし、もがいたとしても、解決しないという望みが絶れた時、目には見えない手が私たちの方へ向けられ、差し伸べられていたのです。
春の訪れを木々の枝が知り、小さな蕾となってその時を待っています。そのように私たち一人ひとりにも神様は備えて下さっているのです。それは「救い」という備えであり、「許し」という愛の恵みです。私たちは、しかし、この恵みに感動し、信仰の感謝の告白を神のみ前に捧げてきました。この最初に与えられた確信は、時と共に薄れ、弱まったと思う迷いの誘惑に捕らわれるなら、もう一度、この「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである」(へブル3:14)とのみ言葉を心に刻まれていることを、思い出しましょう。
信仰の日々は、言葉としては言いやすくても、その為すことは容易くないこともまた事実です。心の中にある実際の事実は、思いとは裏腹に、罪深く汚れています。だからこそ、神様の御霊の助けを乞い求め、人それぞれが「祈り人になりたい。愛の行為者に生きたい。奉仕がしたい。社会の一員でありたい」と励むのです。これが信仰者の姿です。
私たちの傍らには、キリストがおられます。その確信に生きる時、そこに喜びがあります。
わが手のわざは 主のおきてにかなうまじ。
わが熱心はためらわず、わが涙は、とこしえに流るるとも、
罪を贖うことを得じ。
主よ、主にのみ救いあり。 アーメン
「今月のことば」
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらなければ、父のみもとに行くことはできない」。
=ヨハネ14:6=
2021年をお迎えになられた皆様の上に、神様が下さるお守りと祝福多い年になりますように、また、このコロナ禍が収束され平安が与えられますように、お祈りいたします。このために懸命に尽力されている政治・行政にかかわる人々、大病院、専門病院ばかりでなく、多くの個人病院で私たちの健康を支えておられ、医療に献身的に関わっている方々、家族のために心をお砕きのお一人、お一人が「支え人」になられている皆様の心と健康が守られますように、お祈りいたします。
このような先の見通せない時であるからこそ、このみ言葉を通して考えてみたく思いました。
この「彼」とは、弟子のトマスであり、そうして私たちでもあります。その時のトマスは、このみ言葉の道は深くは知りません。あらゆるものがトマスには、縺れた糸であり、事の全てが不明瞭に見えていたのです。彼の生涯はきっと堅実さを追い求め、大切にして生きる人間だったと思います。だからこそ、真面目に迷うのでしょう。
トマスにはイエス様がどこに行かれるのか、自分はどこに行こうとしているのか、分かりません。その思いの乱れ、縺れるのは、トマス一人ではありません。他の弟子たちもかも知れません。私たちはたびたび疑問を持ちますが、それは日常の単なる迷いかもしれませんが、事が人生の歩み、生き方の迷いに立ち向かう時、「真理・真実」に出会いたいと心から願うでしょう。それが救いの道、天国への道に進んでいるか否かは、誰もが探し求めるものです。まことの信仰の道を求める方もおられるでしょう。自分の信仰を振り返る方もおられるでしょう。その問いかけに、はっきりとした道を知り、切り開くことの出来る人は、どんなにか幸福であろうかと思います。
真剣に迷い、自問することは大切です。「求めなさい、探しなさい」とイエス様は言われました。そうして「耳のあるものは聞きなさい」とも言われています。
イエス様はお答えになりました。光と解決をお示しくださいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらなければ、父のみもとに行くことはできない」と。
私たちにとって真に必要なものは、このイエス様のお招きに真摯に応え、受け入れることです。
2021年、この神様の招きのみ言葉に、教会に行くことに、そうして、それを大切にする日々でありたいと思います。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげる」(詩編37:5)。
道にして、真理、命にいます主よ、
その道を知り、真理をはなれず、命を得させたまえ。
そのよろこびを、とこしえにあふれしめたまえ。 アーメン
「今月のことば」
ところが、わたしたち信じる者は、安息に入ることができる。それは・・・と言われているとおりである。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
=へブル4:3、9=
2020年も残りわずかになりました。コロナ禍の中で多くの人は先の見えない中にあっても日々を過ごし、2021年を迎えようとしています。人は先が見えない中にある時、不安の中に決して留まってはいません。何かを探し、見いだそうとします。人は意外とたくましい存在ではないでしょうか。
ここに一つの希望の道があります。それはキリスト(救い主)に行く道を見出すチャンスの道であります。そこに光があり、希望があると気づくとき、あえて避けるでしょうか。今年もクリスマスがすべての人に訪れます。イエスの誕生は、希望であり、光の訪れを照らす喜びの時です。
イエスという一人の幼子は、単なる幼子ではありません。救い主としての役割を背負ってお生まれになった幼子なのです。人の心を絶望に追いやる不安、罪と良心の呵責、荒海の中を彷徨う人生という小船に、真の私たちの希望の灯台なのです。
この幼子に出会い、キリストとして知る時、そこに魂の安らぎと、神のみ子なる幼子に信頼する時、永遠の信頼へと導かれるのです。全世界のキリスト者が、この幼子の誕生を心からお祝いするのは、そこに永遠の安らぎ・安息があることを信じているからです。
幼子を救いの約束のしるしとして信じ、受け入れた者にとって、信仰によって神から頂いた安らぎは、信じる者のみが持ち得るものなのです。その恵みは、神の愛によって示されています。何時も、今も招かれています。
お近くの教会のクリスマス礼拝にお出かけください。心から、賛美歌を歌いましょう。2021年をこの2020年の今年のクリスマス礼拝から始めようではありませんか!
「しかり、彼らはその労苦から解かれて休み、そのわざは彼らに付いていく」(黙示録14:13)。
み座の前に、夜の星のごとく、現れたつのはだれか。
こがねの冠をいただき 栄えに輝く群はだれぞ。
天の王を声高くほむる 歌声を聞けや、ハレルヤ!
「今月のことば」
種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。
=ルカ8:5=
私たちの信仰生活は、幸いにも、種まき人の業によって(伝道・宣教)によって、み言葉に接し、心に信じるという思いが芽生え、育ち、信仰者という名誉ある呼び名を頂く幸いを手にしています。しかし、私たちの全存在の底の底までご存知であられるお方、そのお方は言われました。
私たちは人々が踏み歩く道端のようで、種を全て鳥が食べてしまうか、または、わずかにある岩の上の土壌の種のようで、すべての種は枯れてしまうか、あるいは、いばらの茂った畑地のような暗闇の中でもがくか、あるいは、よき地にあって種は芽を出して育ち、実を結ぶかと言われるのです。そのようなある種の緊張感の中で歩める幸いを、心の中でかみしめたいとも思います。
多くの人はいろいろの形で、直接、間接、み言葉に聞き、接することは可能です。しかし、私たちの周りには、キリスト者はわずかです。種をまく者(伝道者、信者)が少ないためか、きちんと整えられた畑のままにしておいて、種をまいても、手入れを忘れてれしまっていないだろうか、また、まく種に力があっても、何らかの要因で、実を結ぶ神のみ言葉が実を結んでいないとするなら、これは、種まき人の方の責任というべきかもしれません。
しかし、私たちが負うべき責任は、種をまき続けなければならないのです。大海の中の一粒かもしれません。砂漠のような生き物のいないかのような、育たない地であるかもしれません。しかし、大海にも生きものがいますし、砂漠にも生き物はいます。私たち自身もどうでしたが、神様の救いの恵み、十字架の意味を知るまでは、欲望と快楽を生甲斐とし、信仰など無用という人もおられましょうし、私でもありました。でも、諦めて、伝えることを中止してはいけないのです。
私たち自身が、大海にまかれた種、砂漠の種、不信仰と欲望の日々の生活にまかれた渇いた地、心の砂漠だったのです。しかし誰かが語り、伝えていた言葉が心の片すみにあり、長い時間の中で育ち、信仰者・キリスト者という尊い名前を頂いているとするなら、何と幸いなことでしょう。人の目には見えない恵みの川のほとりに植えられた一本の柳の木であり、「・・・疲れ、夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどであり・・・、老いてしまった」者であっても、救いのみ手を求める方がいる限り、その手に希望の種をまきましょう。
私たちキリスト者の目の前には、日本に、世界に、そして家族に、種がまかれる時を待っている人々・大地があるのです。勇気をもって、希望をもって、「一人の種まき人」になろうではありませんか。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。
われらの救いの岩なる 君のみ名をたたえん、地の果てまで、
キリストこそ、隅のかしら石、教会はこの上に建てられぬ。
岩の上なるシオンを、風も雨も、火も、あわれにも打ちてむなし。
「今月のことば」
「こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣人に対して、真実を語りなさい。わしたちは、お互いに肢体なのであるから。」
=エペソ4:25=
台風9号、10号は今まで経験したことのないもの、という言葉におどろきました。そうして今それが去り、そのようなことが無かったかのような平常の生活に戻っています。「日常の平穏な生活」は、感謝なことですが、コロナ禍の影響で、あらゆる生活が見直され始めてもいます。
さて、キリスト者が真実・真理を語るのは、当然のことと考えますが、そうではないのです。キリスト者もまた、あらゆる種類の罪に誘惑され、偽りを言う誘惑は、確かに多くのキリスト者の心に潜んでいると言えます。もし私たちが語る、言葉を「真実という秤にかけるとすれば」、不真実と偽りとが、どんなに多く、また日々の信仰生活や日常生活に囚われているかが分かります。
しかし最も悪いことは、私たちの偽りを言うことが罪であると悟ることが、大変困難であるように見えることであります。私たちは約束しますが、これを守りません。信用という言葉を使いつつ裏切り、裏切られて生きています。「都合の良い断り方」を身に着け、世の中を渡る術を身に着けることを「処世術」と言うようです。「あまり几帳面に考えるより、そんなに気にかける必要はないよ」という言葉と思いに日々毒されてしまっています。世の中ってそういうもの・・・と自分を正当化さえしています。
それは、世の中だけではありません。「今月のことば」は、私たち一人一人に問いかけています。それは、教会も例外では決してありません。
「裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」という言葉を思い出しました。
悪しき心の 罪に傾けば、偽りの罠、罪にひかるるなり。
悪しき思いの心あれば、サタンはわれらを縛るなり。
地獄のひとことは、その呪いの力を、
いざないもてアダムに投げしごとく、
ひとりの人によりて人類は 罪の下に打ち倒されぬ。
「今月のことば」
主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である。
主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、
これをめぐり囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。
=申命記32:9~10=
真夏の太陽の恵みを受けて多くの命の糧が育ち、実を結ぼうとしています。同時に世界の各地では新型コロナウイルス禍の影響下にあって、先の見えない不安と焦り、諦めの刹那的な快楽に逃れようとしています。しかし、それは虚しいことです。
「今月のことば」は、主を信じ、神のみ手の業に信頼し、神の愛に生きるようにと私たちに、確かさを約束してくださっていることをお示しくださっているみ言葉です。
主なる神様は愛する民(信仰者)のために、特別な愛を持っておられます。聖書の神は、私たちを、その御血で贖われ、希望なくさまよい、神を知らずに歩んでいた欲望の荒れ野で私たちを見いだし、死から救われた幼子を母が抱くよりも優しく、恵みのみ国へと抱き、帰ってくださいました。「まぶたが目をおおって危険を防ぐように」、神はその愛する者をその心でお守りくださいます。
神を信じる人々は神の子供らです。神の誉れ、神の讃美です。キリストの日に、主はそのすべての聖徒たちによって栄光のご自身を現わし、すべての信じる人々によって、不思議なご自身をお現わしになります。その日は、神様によるその民にとっても大いなる日であります。神以外で最も偉大とされるものは、救われた人間であります。その他のあらゆるものは神によって造られたものでありますが、キリスト者は神より生まれた者であります。子供が両親の一部であるように、新しく生まれた人は神の一部なのであります。
主の民は主の嗣業であります。鷲がその雛を覆うように、主は羽根を広げて、私たちをその翼に乗せて、また覆って守り、御国へと運ばれるお方です。
この神を知り、信じ、お委ねする日々こそ、困難に生きる私たちの希望であり、光なのではないでしょうか!
<讃美歌 286>
1 かみはわがちから、わがたかきやぐら、
くるしめるときの ちかきたすけなり。
3 かみのみやこには しずかにながるる
きよき河ありて み民をうるおす。
5 かみのみもとべは つねにやすらけく、
くるしみなやみも 消えてあとぞなき。 アーメン
「今月のことば」
キリストは御子として、神の家を治めるために忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇りとを最後までしっかり持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。
=へブル3:6=
これからの天気予報で気になるのが、異常な暑さの数字です。真夏の太陽は容赦なく私たちの生活に、健康に、そして思いもしない新型コロナウイルス禍で疲れ果てた心に襲いかかるかのような暑い日々が続いています。
「つのぶえジャーナル」をご覧くださるお一人、お一人が、神様のお守りを頂きお過ごしになられますように、お祈りいたします。
「今月のことば」の中には、いろいろのことがありますが、その中でも記憶しておくべき二つのことがあります。
その一つは、神様の愛とご計画によって救いの恵みの中にある一人、一人は、「神の家」であるということです。不思議なことですが、真実です。それは、神はその一人、一人の信仰者の民の中にお住みになるというのです。神は天にいますように、み言葉のも中にいますように、神は救われた私たち罪人の中にも、住まれるというのです。
「あなたがたは神の宮であって、神のみ霊が自分のうちに宿っていることを知らないのですか」「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、皆の者が一つになるためであります」という事実の中に示されています。キリスト者に、霊的孤独などあってはいけません。心から「主にある霊的交わり」に感謝したいものです。
神のご存在は、近づきがたい光の中に住みたもう主、すべての天を所有したもう主は、イエスのみ名を信じる人々と共に住みたもうお方なのです。
同時に、覚えなければならないことは「望みの確信と誇りとを最後までしっかりと持ち続けるなら」であります。この信仰と熱心を祈り求めるならば、神様の方からは離れ去ることは、絶対にあり得ないということです。
わたしたちが信仰を捨て、神に頼ることをやめるならば、もはやわたしたちは神の宮ではありません。もし、わたしたちが主より離れるならば、主もまた、わたしたちから離れます。もし、キリスト者は決して神から離れ去ることはないという、誤った思いで自分を思う者は、このことをしっかりと心に留めなければなりません。わたしたちは 、主から離れ、自由に振る舞いたくなる信仰弱い存在であることを決して忘れてはいけないことを、このみ言葉は教えています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」