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「今月のことば」
主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
=イザヤ40:28~29=
2020年の1月1日、私たちは、新型コロナウイルス禍を予見し得たでしょうか。想像を超えた出来事に遭遇し、ある種の大変革など、考えられないことが日々の生活に起こっています。
世界は2020年の東京オリンピック・パラリンピックを心待ちにして迎えていたはずでした。しかし、今、「先の見えない明日」に向かって努力し、支え合い、進んでいます。このような時であればこそ、「今月のことば」のこの聖句は私たちに、勇気と希望の与えるみ言葉と言えるのではないでしょうか。
神にとっては、「日が西に傾いて暮れる」ことはなく、夕闇が夜の近づくことをしらせることもありません。疲れることなく、休む必要もありません。すべての人の眠る時にも目覚めておられ、すべてが闇の中に沈んでも見ておられます。
ダビデは自分自身のことを語ります。
「闇はわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしは言っても、しかし、神についてはこう申しています。
「あなたには、闇も暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには闇も光もことなることはありません。あなたはわが内臓をつくり、わが母は胎内でわたしを組み立てられました」。
神とはこのようなお方です。だれも神の力がどこから来るか知る者はなく、神の年月には終わりはありません。神は高く清い所にのみ住みたまわず、その霊において、悔い改め、ひれふす罪人と共にいてくださるお方です。「弱った者には力を与え、勢いのない者には、強さを増し加えられる」お方です。
神は、わたしたちの兄弟と呼ばれることを恥とせず、苦難によって、わたしたちの救いの長となられたのです。神は、その愛の中に支配なさるすべてを、失った者を全て神の家に招き返すために用いられるのです。
「罪人がひとりでも悔い改めるなら、天に喜びがある」。
このような神が、永遠に、そしていつも、わたしたちの神でおられます。すべて重荷を負う者、苦労している者は、神(主イエス・キリスト)の御もとに行きましょう。そこには確かな魂の憩いがあります。
「今月のことば」
御霊を消してはいけない。
=第一テサロニケ5:19=
「つのぶえジャーナル」をご覧、ご笑読下さり、心より感謝いたします。世界と社会に混乱と不安をもたらした新型コロナウイルス禍から、多くの事柄を神様は私たち一人ひとりが問われたのではないでしょうか。
不安に陥るとき、心の中で、また生活の中で、み霊の火は容易く、また素早く消すことができますし、気づかないうちに、日々の生活の中で消し去ることが如何に多いことでしょう。これほど危険なことはありません。
もし私たちがよく備えをしていなければ、かつて霊的に私たちがどのように清く、熱心であったとしても、生きていながら霊的に死んでいる人々の仲間入りすることを知っていました。
神のみ霊は、私たちをすべての真理に、また私たちについての真実に導くことを約束なさいました。み霊がその光を、私たちの性質の内側を照らされる時、そして、私たちが自己中心で、自らを欺く悪い性質と邪悪な意志、どん欲な思いという罪深い思いを見る時、私たちのこの内なる害悪との戦いを取り上げなければ、私たちのみ霊を消すことになるのです。
内なる信仰の鍛錬と聖潔が止む時、そこでは神のみ霊はその存在は失い、働くことができないのです。すると私たちは自分の愚かさに対する目が暗くなり、心に迷いと不安、ざわめきに襲われるのです。すなわち、信仰者としての自分を見失うのです。
全てのキリスト者の生活のための基礎は、心の奥深いところに「御霊の働きとその恵み」を据えられなければなりません。それによって私たちは罪を罰し、救いの泉へと導いてくださるみ霊に信頼するのです。この信仰を日々据えられなければなりません。私たちは「地の塩、世の光」なりなさいと求められているのです。「キリストは世の光、希望です。命です」。その恵みや、心の灯はともし続けなければなりません。
私たちは勇気をもって声を出しましょう。励まし合い、謙虚な思いでみ霊を消さないように注意し合いましょう。この内なる弱さに打ち勝つために、どこに危険があり、罠があるかを知らせ合いましょう。
今回のコロナ禍は形を変えての長いお付き合いになるのでしょうから、一喜一憂は気持ちが疲れるだけです。神様は専門家、研究者をお用いになり、ウイルスと共存する方法をお示しになります。撲滅・死滅は出来なくても克服は出来ます。私は紫陽花の花で元気を貰います。手洗い、うがい、マスクの違和感がなくなる良い生活習慣は「最強のコロナ対策」なのではないでしょうか。
ひそかなる悪しき思いの一つだに心に抱き、
神の恵みを隔てれば、わが魂は滅びゆくなり。
「今月のことば」
あなたの若い日に、悪しき日の来る前に、あなたの造り主を覚えよ。
=伝道の書12:1=
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
=コへレトの言葉12:1=
世界の各国は新型コロナのウイルス対策に真剣に取り組んでいます。この病禍に日常の「当り前」が恵みであり、生きる術に何を求め、何を見失っていたかを、心に問う時、この試練に立ち向かうことができるのではないでしょうか。元気な若者がこの病禍の感染源と言われ、自己中心な快楽に時を過ごしている大人の世代の意識が問われています。
視点を変えてみましょう。この新型コロナウイルスは、2、3か月の緊急事態の対応で収束するものではないのです。一時的な収束であって撲滅ではないのです。菌は名前を変えてこれからも出現する「菌」なのです。人間が存在する限り「菌」も存在するのです。人間は多くの病を克服してきた歴史でもあります。その努力はこれからも続くでしょう。だからこそ、「支え合う心、励まし合う思い」が力になるのです。5年、10年、否、終末の喜びを迎える日まで、その思いが個々人に、社会が求められているなら、向き合おうではありませんか。
冒頭の聖句は、初めて教会に行き聖書を開き、旧約聖書の創世記から読み進み始めて知る神様からの問いかけとして、多くの人の心に残るみ言葉と言えましょう。それは、若者だけでなく、人それぞれが、「今」を「若い日」に置き換える時、何が与えられ、何を失い、何を探し、何を得たかを最もよく見ることができるのではないでしょうか。一日を終り、次の朝を迎える心の備えをさせるとしたら、幸いな時でしょう。
若い日の年月は美しいものです。それは希望と未来に夢を持たせるからです。未知への憧れ、不安という人生のステージに立ち向かう情熱に満ちています。しかしまた、責任と危険の時でもあります。であるからこそ、この「若い日・青春の日」に、すべての基礎が置かれているとも言えるのです。
若い日を一つの絵画で表すなら、春の朝、自然の最も美しいせせらぎ、雪は溶け緑豊かな山々、小鳥の声が喜びを歌っています。荒れた畑に肥料をまき、土を掘り起こして種を蒔き、成長の時を待つのです。
若い日は、私たち一人一人の人生の春です。その時を無駄にせず、生涯の方向を探り、良い日を待つ時なのです。
人生の夜明けは、若い日だけではないのです。齢を重ねた今、造り主を知るなら「若い日」なのです。
救い主よ。わが心のやさしき間に、主に捧げん。わが心を。
すべてのわが力を、とりて主のものとしたまえ。
主よ、われを取り、今、とりて、若さあふるる心を君のものとしたまえ。
われをなして、わが魂に、きよき愛を満たしたまえ。
「今月のことば」
イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは、「ありません」と答えた。・・・イエスは彼らに言われた、さあ、朝の食事をしなさい」。
=ヨハネ12:5,12=
聖書の記事や出来事には、神の主権と限りない愛が記され、希望へと導く出来事に満ち満ちた記録の書、喜びの書と言えます。その一つ一つから、どれほどイエスはご自分を救い主と信じた者たちを愛してくださったかがわかります。
イエスは墓のそばでマリヤに会い、涙をぬぐっておやりになります。主を知らないと断言したペテロに、特別な言葉をおかけになっています。神の言葉を忘れた弟子たちと共に、長い道を何度も何度も一緒に歩いて聖書を解き明かしてくださいます。
また悲しみと恐れにこころを閉ざした弟子たちの真ん中に立たれ「安かれ」と言われます。夜が明けたころ、海辺に行かれ、薪を集め、火を燃やして、その友のために食事を用意なさいます。
よみがえり、栄光を受けられた救い主が、そのようなことをなさるのを見るのは、驚くべきことではないでしょうか。これらをイエスの愛として嬉しく、また有り難く感じないで、見過ごすことができるでしょうか。
今は物にあふれ、何の不自由もなく、今を生きている人々もおります。同時に、病と飢えと不安の中にある人々の方が圧倒的に多いのも現実です。霊的な闇や悩みに迷い込むことが、如何に悲惨であるかを知っている人に、私たちキリスト者は何を語り、何をわかり合うかを、今一度、振り返ってみることは決して無駄なことではないでしょう。もし、そのような心が失せ、信仰が小さくなっているとしたら、それはコロナウイルスの禍のように世界は暗い闇になってしまいます。
日常の常識や良心は崩れ去り、大切なものを見失い、与えられていた光と幸いを自らこの世的な損得や幸いを得るために捨て去ってしまったのであるならば、もう一度「あなたの隣人を愛し、支え合いましょう」。
問うてみましょう。今、失いかけているもの、それは、主イエス・キリストと共に、信仰と平和を失い、主イエスの示された救いの道がふさがれていないかどうかを・・・。もし、そのことに気付きたいと思うなら、今一度、主イエスがお語りになり、そして歩人になさったことを、み言葉から、イエスの歩まれたその歩みを、語られた言葉を学び返し、感動し、涙する心と信仰を願い求めるなら、必ずよきもので満たして、力なき者に力を与えくださいます。
小さな善意、心優しい我慢、ほしいと思うマスクやトイレットペーパーの二つを一つにして、他の人にお譲りする心の優しさは「共に喜び、支え合う心と生活」の「共生人」なる人間でありたいと思います。
主イエスよ、われは貧し、
旅人にして、巡礼者なり。
この世の富の欠ける身は、 主こそ、わがたすけなり。
イエスよ、われをあいして
わが道に、われを励まし
ためらうわが歩みを導き、わが力、わがよりどころとなり給え。
「今月のことば」
たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
=マタイ16:26=
私たちが認めなければないことは数多くあります。克服しなければならない事柄もあります。その一つに差別と貧困があります。このどれもが人間の罪、負債として私たちの心に宿しています。
イエスは人間を高く評価します。主は一人の人間と全世界とを比較します。そして、全世界を一人の人間の魂の価値よりも低いとします。人が全世界を得ても、魂を失うならば、全てを失うことであると。
それほど高く人の魂を評価なさるのです。この事実を再確認することは大切です。
このように大切な宝を授けられている人間とは何でありましょう。人は命や魂をどう値踏みしているでしょうか。多くの人は自分たちが魂を持っていることをほとんど忘れているし、ある人々は、魂はないとさえ主張します。魂はあると信じる人々の中の極く小さい群れのみが、この永遠の魂を正しく評価しているのです。数知れぬ人々はその唯一の生命を、魂を粉々に引き裂き、砕き、殺す者の前に引き出されています。サタンと神を恐れぬ人々の世界は、魂を打ち壊す様々なつまらないものと意味のないもので世の中を満たします。欲望は魂を亡きものにします。
人間らしく、自由に生きようではないか…。これがこの世の叫びの合唱です。魂なんか忘れよ。審判なんか恐れるな。今を楽しく自由に自分らしく生きることこそ神の御心だと叫ぶのです。
しかし、永遠を知っておられる主、魂の値打ちを知っておられるのは主イエス・キリストです。「永遠に救われる幸い」「永遠に失われる滅び」を知っておられる主は、私たちの魂について、絶対的に異なるお考えを持っておられる方です。「失われた」というのは「おいでなさい」という言葉の決して聞かれぬところ、「時の刻まれぬところ」「日の沈まぬところ」「朝の明けないところ」で、そこに「失われる」があるのです。
もし私たちが魂を失うならば、全てが失われるのです。私たちの進むべき道は、「悔い改めて、全き救いを与え、生命の永遠の光の中に連れていってくださる主イエス・キリストに、全てを捧げ、生きる決心をすることです。
すべての快楽と共に虚しき世よ去れ、
その喜びをわが目より取りされ。
この都こそその誘惑の宝にて、
もはやわが魂はたのしまじ。
この世よ、そのたぐいまれなる恵みを探し求めよ。
「今月のことば」
イエスはこたえていわれた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたといっしょにおられようか。
いつまで、あなたがたにがまんができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。
=マタイ9:19=
信じる私たちにイエスが何度となく、私たちの不信仰について嘆かなければなかったとすれば、恥であり、不名誉であると感じます。もし、私たちが主イエスを信じることが厚ければ、私たちの証しを通して、多くの不幸な人々を主のみ前にお連れし、主はお助けになることが出来たでしょう。しかし、私たちの不信仰のゆえに、神が私たちに助けられること望まれた多くの人々は、助けられることなしに過ぎてしまわねばならないとは・・・。
それでも、私たちの上にくだる恥と懲らしめの只中に、一つの大きい慰めがあります。私たちにできないことを、主は、なし給うのです。そして主は、すべてを主のみ前に持って来なさいと、私たちをお招きになります。私たちは父親でしょか、母親でしょうか。どちらにしても、いろいろの仕事をし、不従順な、また無信仰な子供たちを持ち、それを考える親たちは、心配し、嘆き、そして祈るのです。また、このようになったことで、自分を責めることでしょう。
そうであるなら、来て、イエスのみ言葉を聞きましょう。「その子をわたしの所に連れてきなさい」との・・・。
救い主が、みもとへ、私たちの持て余す問題を持って来なさい、と言われる時には、素直に、謙虚に主のみ前に置きましょう。そうです。置くべきなのです。
主のみもとに持ってきた重荷を、また持って帰らないようにしなければなりません。多くの人々はそうしてしまいます。しかし、それをしてはなりません。重荷は主のもとに残しておかねばなりません。神は、私たちが祈ることを望まれますが、神の約束されたことを覚え、主の言われたことに、より頼むことを望まれるのです。そうすれば、私たちは重荷から逃れることができます。そして、主に、主こそ尊いお方であるあるという、私たちの信仰を見ていただくことができるのです。主が私たちにそのようにお求めであることを知ることは、何と幸いなことでしょう。
「あなたを呼んでおられるから」
キリストが昼も夜も あなたを呼んでおられるから
あなたの心を静かにして キリストのみ声を聞けよ
キリストが愛をこめて あなたを呼んでおられるから
あなたの心を空(むな)しくして キリストのみ愛を受けよ
キリストが細き声で あなたを呼んでおられるから
あなたの心の向きを変えて キリストのみもとへ行けよ
水野源三
「今月のことば」
主の慈しみは世よとこしえに 主を畏れる人の上にあり
恵みの御業は子らの子に 主の契約を守る人
命令を心に留めて行う人に及ぶ。
=詩篇103:17~18=
私たちの身体の膝が弱ると、歩むことができず、私たちの心の手が痛むと、働くことは出来ません。
信仰者として大きい問題は<精神的>力の問題です。真実、信仰者らしい生き方をする力、すなわち<歩む>力の問題です。なぜなら、信仰者らしく<語る>ことは、信仰者の大部分の人にとって、さほど難しいことではないが、信仰者らしく生きることは、より難しい日々の熟練がいります。
私たちの内と外にある人間的な強い力が働いて、信仰者の生活をいたずらに口やかましものにさせ、生気のない、弱々しいものにしております。
しかし、信仰者が真に信仰者らしい生き方で、神のみ名を崇めることが、神様のみ旨であり、この世に束縛され、邪悪な時代に生きるよりも、もっと生甲斐のある、何かがあることを示すことが神様の御心であります。
ではその力をどこに求めたらよいのでしょうか。
知恵があり、学問のある人々は言います。いくらよく食べても、食物が全ての必要な栄養を含まないならば、膝が弱るでしょう。美食をしても、骨や軟骨を作る要素を欠くならば、膝は震えわななくでしょう、と。
信仰者がそのことを信仰生活に応用・適用すれば、得るところは沢山あります。信仰の生活が、神様のみ言葉の一面のみを受け入れるのであったなら、信仰者が生きるために必要な力をみ言葉から、得ることはありません。み言葉の戒めと、教えを受け入れない人は、長い間には、永遠の慰め、許しの恵みを受け入れる余裕がなくなるでしょう。
この2020年、神様の救いのすべての勧告に心と耳とを開いて聞き歩みたいと願う日々でありましょう。私たちの熱心や決意は弱いものです。先き先きの計画は捨てましょう。今日を大切にするなら、新たな力が、弱った手に心に、信仰の喜びの恵みが待っていますから・・・・。
いともやさしく、善きわが友、楽しきにいます主よ、来りませ。
疲れし者の求むる憩い、真日照る時の、涼しき陰
嘆ける時に安らぎの 癒しの力もて、来りませ主よ、われらに。
「今月のことば」
=ヘブル13:2=
2020年は、「東京オリンピック、パラリンピック」が各地の会場で行われます。人々の交流、文化の交流は日本だけでなく、世界全体でその輪と人の平和への願いの流れが広がるなら、膨大な費用は掛かっても、その一つ一つの建物ばかりでなく、後世に人々の心に残す賜物の時となるなら、素晴らしいことでしょう。
出会いがあり、触れ合いが生まれるところに、理解と善意・平和と絆があると信じたいと思っています。
聖書は、キリスト者に「もてなし」の大切さを教えています。そのためには、相互の愛と尊敬がなければ成り立たないものだからです。人間同志が心とかかわりを開く人は、同時に神の祝福への扉を開くのです。
神は人生の掟を、与える者は、また受けるにように定められました。物惜しみをし、暖かくもてなさない人は神の祝福を失い、その日々は、絶えず心の咎めを持っています。
アブラハムが、三人の知らない旅人に扉を開いた日、マムレの樫の木の下でテーブルについたのは大いなる人々でありました。今日、私たちもアブラハムと同じ心を持っているならば、天使や、主ご自身を客人として迎えるかもしれません。けれども、悲しいですが欠けているのは、もてなしの精神であるかもしれません。
今、私たちは何でも「ビジネスチャンス」という言葉に囚われていないでしょうか。すべてのことが事業やお金に飲み込まれてしまい、無償で宿や食事を提供する人の数は、だんだんと少なくなってくるばかりのようです。「もてなしの心」が減退すれば、すべてが減退してしまうと思うのは、思い過ごしでしょうか。
天使と神の祝福は、私たちが宿することを断った人々と共に私たちの戸口を行き過ぎ、取り残されて、日々、不景気や少なすぎる収入のことへの不平を言います。しかし、聖書に書いてあります。「あなたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」と。
この新しく迎える2020年を、このことを信じ生きるとしたら、どうでしょうか。
人々のために心の扉を開きましょう。暖かい心を祈り求めましょう。この12月はキリスト者にとっても、全人類にとっても、心から「おもてなし」の日にしようではありませんか。
主イエス様を、アブラハムがあの旅人を迎えた以上に、救い主をお迎えしようではありませんか。
とうとき奉仕に働く日々の
いかに楽しく、過ぐる早き、業やむる時の来るのはいかに早き。
すべての忠実なる者、家に帰り、楽しきにいます。
主のいますところ、常に、僕らは祝さるるなり。
「今月のことば」
「そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、『わたしに従ってきなさい』と言われた。」
=ルカ5:27=
今年も残り2か月になりました。新しいカレンダー、予定表入りのシステム手帳の準備をされている人もおられるでしょう。また、過ぎ去ったメモを見て感慨に時を過ごしている方もおられましょう。人それぞれ、新年の備えをされるのが11月と言えます。
どうでしょうか。今までの自分の生涯を、イエス様に従うことの許された年月であることを思い返すと、その頃は良い年月であったと心から言うことが出来とするとしたら、なんと素晴らしいことでしょう。
もしそうでなかったと言えば、今までの神様からのお恵みをないがしろにしてきたことになります。「救い主」「良き友」「支えつくしてくださった神」との関わりを見失っていた信仰の歩みであったなら、それは「心の闇」と言えないでしょうか。
信仰の喜びを失った信仰生活、主にある友との交わりのない日々にあることに気づかない日々があったとするなら、何よりの悲しみと言えないでしょうか。自分の弱さ、この世の喜びに心奪われてしまった歩みから、再び「わたしに従いなさい」とお招きくださる主イエスの愛は、遠きにあるのではなく、私のそばに、否、私の心に呼び掛けてくださっています。
移り行くこの世、不幸や不安、悲しみの中にある私たちに「わたしに従ってきなさい」と語りかける主の愛は、今も私たちの傍らにあるのです。私たちが誤った時、主はすべてを許し、信仰の戦いに敗れた時、癒し、励まし、支えてくださったのは、誰でしょうか。「主イエス・キリスト」ではなかったでしょうか。
主はすべてを理解し、弱り切った心に力を与え、暗闇の中に光となってくださったのは、「主イエス・キリスト」のみです。レビという名の収税人は、イエス様に従いました。
われはイエスと共に歩まん。
主の導きは、たしかなれば、
サタンの力、われを打つ時、
主のみあとにしたがいて
われ安らかに道をたどらん。イエスとともに常に歩まん。
「今月のことば」
まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、
みまえに近づこうではないか。
=ヘブル10:22=
大雨や氾濫に遭われた方々や多くの支援活動に参加されている人々に、神様のお守りと健康をお祈りいたします。一日も早い復興のために活動されておられる自治体職員の方々のおられることを知る時、謙虚にそのお働きに尊敬の思いで、祈らせていただきます。残暑は健康を蝕みます。ご自愛ください。
身近にいろいろのことが起こる時、時として不安になったり、不公平や理不尽な思いを持つものです。そのような時こそ、自らを振り返って見ることは大切です。
「まごころを持って」「神に近づく」という二つの言葉は、なんと尊いお言葉でしょう。驕り高ぶる心や振る舞い、卑屈な思いに陥る日々に、この二つの言葉は、より良くもせず、より悪くもせず、ありのままの姿で神のみ前に行くことへと導いてくれます。
神のみ前に、性質、心、思いを、そして自分のあるがままの内なる生活、外なる生活を置くことでもあります。もし、私たちが自分の見る一部を、または自分で「した」と知っていることを隠したり、見逃がしたりしようとすれば、もはや、私たちは「まごころ」を持ってはおりません。偽り者であり、不誠実であります。そして救いの道は、キリストにあっては閉ざされていなくても、私たちには閉ざされるのです。
また、私たちキリスト者が使う言葉に「心からの真実・・・」という言葉をよく口にいたしますが、本当にそうであるかを、今一度、自分に吟味させます。
日々の生活に「真理の帯を腰にしめ」、罪人に着せられる「義の衣」も、真理の帯で締められていなければ、脱げ落ちてしまいます。「あるがままに」、神のみもとに行くことを許されるのは、神の愛のゆえに、やさしいことだと考える者は、自分をまだ知っていないのです。「まごころをもって神に近づくことが出来るように、神の助けを祈りましょう。
「今月のことば」
わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
=Ⅱコリント5:1=
世界の各国の民族の歴史的行事には、その宗教の名は別にして、それぞれの名称は異なっても共通した思いで行われているものがあります。それは亡くなった者に思いをはせる心のひと時であります。記念日という国家行事であったり、個人では、日本では命日と言われる日を大切にしています。
聖書の言葉には、私たちの身体を何時かは取り壊されるべき家、幕屋、天幕にたとえています。それによって神様は、内なる真の人は、まったく独立したものであり、住むべき地上の家はなくなっても存在することが出来るのだ、と教えています。
確かに、どんなに美しい建物が土の中に埋められなければならないことは、悲しいことであります。しかし、落胆する理由はありません。なぜなら、神様は、私たちのために、新しい家を建てる備えをしてくださったので、誰もその変化を悔やまなくてよいのです。
パウロはこのことについては、何の疑いも持っておりませんでした。そしてこの深い確信は、パウロが常に勇気を持っていた原因であり、自らの身体を脱け出して、天より賜る住家を着て、主のもとに住むことを望んでいたのです。
「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。・・・・。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださるのは、神です」(Ⅱコリント5:2~5)。
最も美しい、最も深いキリスト信者の姿は、天国に行き、神と共の住み、救い主にお目にかかることであります。神は信じる者に天国を約束してくださったのですから、キリスト者は一人ひとり、毎日をこの確信を持って、日々を歩むことです。希望は確かな喜びになり、信仰の悩みに打ち克たしめる勇気へと導いてくださいます。
キリスト者の記念日は、主にお目にかかる先取りの日なのです。人びとは今は無き(亡き)者を思うこともありますが、大切なことは日々神様を、神様の思いをお迎えし、再会を喜び、その恵みを独り占めにすることではなく、多くの人に伝え続ける日にしたいと願う記念の日にしたいものです。
「今月のことば」
彼女は「どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落穂を拾い集めさせてください」と言いました。そして彼女は朝早くきて、今まで働いて、少しのあいだも休みませんでした。
=ルツ2:7=
ルツの物語は、時代こそ違っていても私たちに多くのことを教え、考えさせてくれます。どうぞ、もしお手元に聖書をお持ちなら、旧約聖書のルツ記をお読みください。今日的な問題への答えとして示唆に富んだ何かを得ることでしょう。
ルツという婦人から敢えて二つのことを考えてみたいと思いました。
一つの立派なことは、彼女は自分のことを忘れ、年老いた姑に愛と尊敬をもって忠実に仕えたことです。姑を愛して、自分の生まれ故郷を離れて、知らない人々の中で暮らしました。この点で、異教徒であるルツは、キリスト者の名を負う者よりも、広い心と、素直な性質の持ち主でした。
何時の時代でも、若い人は老人を軽蔑したり、無視する傾向にあります、神様から示されている十戒の第4戒は「父と母とを敬いなさい」「白髪の人を尊敬しなさい」「やもめを大切にしなさい」など、聖書の中には、たくさん示されていますが、それは、そうでなかったということの証しです。
ある者は自分の両親を忘れてしまうこともあります。きれいな老人施設、高額な費用を支払う子供はいても、ほとんど訪ねてくることのない現実に、親子の絆・愛情の希薄さを感じ、自分の気持ちを見ると言われていました。
老人たちに対して真実な心を持ち、何時でも助ける心を持ち合わせる人になりたい者です。老人ばかりでないことは明白です。
もう一つのルツの素晴らしさは、他の人が放置していた、麦の穂を、忍耐強く、一つ一つ拾う心にあります。豊かさとは何でしょうか。ルツの行為は、自分と年老いた姑の生活を支えました。今日的でないとか、女性差別とか言われる人もおられますが、旧約聖書の箴言31章10節から31節には、「有能な妻」という小見出しで書かれているところがあります。
ルツの行為が、称賛されるのは、その置かれていた過酷さ、労働の厳しさを残酷なまでに示しています。これは男女を超えた今日的な出来事でもあるからです。
夜明けから夕方遅くまで、背を曲げ、一つ一つの麦の穂に手を伸ばして休むことなく、今日の糧のために拾い集める姿は、子供を養い育てる母親の姿でもありましょう。落穂拾いで得る糧は僅かです。そうしなければ生きられなかったのです。
自分の身の回りを振り返って見ませんか。
テレビコマーシャルに「助け合い」は「助け愛」とありました。
ジャン・フランソア・ミレ(1814~1875)の名画の一つと言われています「落穂ひろい」は、ミレのその当時の農村風景ですが、ルツの姿を重ね合わせさせるものがあります。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」