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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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…キリスト教…
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 キリシタンの貧しい人々への救済(2)
 キリスト教の伝来とその展開(2)
 
 ザビエルは、同年9月中旬、豊後へ向かいます。ポルトガル船が豊後に着いたのと、豊後領主大友義鎭(後の宗麟)の招きによるものです。義鎭はザビエルの説教に敬服し、布教の許可を与え、布教活動に好意を示しました。彼の領地豊後府内(現在の大分市)は、キリシタン活動の中心地となりました。
 
 1551年11月、ザビエルは日本を去りました。僅か2年3ヶ月の日本滞在であり、布教の成果は、洗礼を受けた人数としては1000人にも満たず、たいしたことはなかったとも言えます。しかしながら、ザビエルが日本に残したものは偉大でした。それは、何よりも、彼自身が、日本及び日本人に直接接することにより深く理解し、そして限りなく愛したからです。
日本人の礼儀正しさ、知性の高さを高く評価し、従って日本へ遣わされる宣教師は、日本の有識者と議論して、相手を説き伏せるほどの学識があり、その行動においても尊敬されるような人物でなければならないと言っています。それに応えて、かなり優秀な宣教師が日本に派遣され、ザビエルの精神を重視して布教活動に従事したように思われます。
ザビエルが去った後、トルレスを指導者として、山口を中心に各地で布教活動は盛んでした。しかし、1556年、毛利氏の変で大内氏は滅び、山口のキリシタンは以後下火になり、キリシタン活動は豊後府内に移りました。
 
当時、ポルトガル船が度々入港したのは平戸でしたが、それはこれに領地を接して大村領があり、領主大村純忠は、キリシタンの教えに深く感服して、1563年、トルレスより洗礼を受けています。キリシタン大名の最初です。ポルトガル船は、1570年、天然の良港、長崎を発見しました。長崎は、数年にして人口3万人の町となり、住民は全てキリシタンであったと言われています。やがて長崎はキリシタン活動の中心地となりました。キリシタンの布教は、島原半島をはじめ、五島、天草にも広がり領主以下多くの領民も洗礼を受けています。
ザビエルが日本渡航前より、布教の中心地としていた都には、ようやく1560年(永禄3)春、パードレ・ビレラ他3人が将軍足利義輝より布教の許可を得て活動を開始しました。比叡山その他の仏僧の妨害にあって困難であったが、畿内にも活動範囲を広げて行きました。この間、高山図書とその子右近、小西隆佐とその子行長など、キリシタン大名として後に有名になる武将が次々と洗礼を受けました。
1565年、将軍義輝は松永らによって非業の最期を遂げ、同時に、仏僧らの策動によって、都から宣教師は追放されています。信長の天下統一、義輝の弟義昭が1568年(永禄11)将軍職を拝し、翌年、フロイスは信長と将軍より布教の許しを得ていました。信長の積極的なキリシタン保護のもとで、布教活動は最盛期を迎えました。1582年(天正10)、本能寺の変で信長は討たれ、秀吉に代わりましたが、キリシタンに対する政策は変らなかった。1586年、イエズス会の日本準管区長コェーリョは、大坂城で秀吉に謁見、異常なほどの歓待を受けているとの記録が残されています。ところが、翌年の1587年(天正15)、突然、禁教令が出され、長崎は没収され、直轄地となりました。
 
 
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…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(28)
 
 キリシタンの貧しい人々への救済(1)
 キリスト教の伝来とその展開(1)
 
3d77eebf.gif 今月号から、日本に視点を移してみましょう。歴史の流れに沿いつつ、社会福祉活動の歩みを振り返ることで、日本の歴史のある一面を垣間みることになるのではないでしょうか。
 
 日本にキリスト教がもたらされたのは1549年(天文18)でした。ポルトガル人が種子島に漂着したのは1543年と言われていますから、日本と言う国がヨーロッパに紹介されて間もない時期と言えます。日本のキリスト教宣教のきっかけは、聖フランシスコ・ザビエルが日本人アンジロウに出会ったことによると言われています。
 アンジロウに日本におけるキリスト教布教の可能性を聞いて、ザビエルは日本へ渡る決心をしたようです。ポルトガル人のパードレ(神父)・ザビエル及びイルマン(修道士)・フェルナンデス、スペイン人のパードレ・トルレス、インド人のアマドール、中国人のマヌエル、そして日本人アンジロウ(洗礼名パウロ・デ・サンタフェ)ジョアン(フロイスによるとアンジロウの兄弟)及びアントニオの一行8名は、マラッカより日本に直行しました。(フロイス著・柳谷武夫訳「日本史キリシタン伝来のころ」平凡社)
 1549年8月15日(聖母被昇天の大祝日、陰暦7月21日)鹿児島に上陸、アンジロウの家の客となる。やがて領主島津貴久よりキリスト教の布教の許可とささやかな住家を与えられた。鹿児島滞在約1年、布教活動はかならずしも十分な成果をあげ得なかったが、ザビエル一行は、1850年8月、都に向かって鹿児島を出発しました。
 
 ザビエルは日本に来る前から、「日本へ行けば、第一に国王のいる処へ行き、次に諸大名を訪ねるつもりである」(聖フランシスコ・ザビエル書翰抄上)とイエズス会の創立者イグナチウス・ロヨラ宛の手紙で述べています。先ず都にのぼって、天皇に拝謁し、全国的な布教の許可を得ることが望みでした。途中、山口で領主大内義隆に謁見、領内での布教の許可を得ています。 
 1551年1月半ば、ザビエル一行はようやく京の都に到着しましたが、都はザビエルの期待を全て裏切るものでした。天皇も将軍も名前のみであって、全国に号令する「国王」ではなかったのです。戦禍で荒廃した都に滞在したのは僅か11日で、ザビエル一行は平戸に引き返しました。そこで布教は西の京とも呼ばれ、大内氏のもとで繁栄を誇る山口に定めました。4月末、インド総督の使節として、ザビエル一行は、威儀を整えて大内義隆に謁見、インド総督とゴアの司教から託された親善の書簡と数々の贈物を献上しています。義孝は、大いに感激して領内に布教活動の許可と共に、無住の一寺をも与えています。ザビエルは、以後4ヶ月山口で布教活動を続けています。「その説教の内容は、まず天地創造のことから説き始めて、必ず次の三ケ条をあげて叱咤することであった。第一、日本人は自分たち人間が、天地を創造した神を拝まず、甚だしきは木や石を拝んでいる。第二、人間の自然性に反する男色は最も汚らしく、嫌うべきもので、神の重い罰が下るであろう。第三、日本では平気で行われる幼児殺しと堕胎は、人道に反する重罪である」(片山弥吉「日本キリシタン殉教史」時事通信社)。
 
 
…キリスト教…
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 改革派教会における救貧活動(2)
 
 カルヴィン(1509~64)の場合も、ルターが救いが得られるのは、善行によってではなく、「ただ信仰のみ」によるとしたのに対して、救いを信じることも、これに服従することも、全て神の意志にあると徹底した聖書からの考え方です。救いにふさわしい者になるか、救いを拒む者になるかという重大決定にも、人間の自主的判断の余地は残されていないとしました。
 
 こうした神の主権的予定説の前に、信者はどうして自分の救いの確信が得られるのでしょうか。それは、救いに選ばれた保証は、日毎の自分の実践が神の栄光のためと言う、明白な目的性に裏付けられた勤勉と成果にあるとされているので、信者は実践活動に努力することになりました。そこに隣人への愛の業が含まれるのは当然であります。
 
 カルヴィンはルターと違って、救済活動も説教職と同じく教会に属するものと見なしたのです。16世紀以降、イギリスにおいて、またアメリカにおいて、人道主義運動の先駆者たちはみなルター派以外の、すなわち改革派の清教徒やメソジストや救世軍などに属する福音主義信仰の人々でした。明治以降の日本の救済史においても、実態は全く同様でした。
 プロテスタントの社会事業の研究者はほとんどがルター派以外のプロテスタント教徒であったと生江孝之著「日本基督教社会事業史」で述べています。また、日本基督教社会福祉学会でも繰り返し「キリスト教社会福祉とは何か」ということが問題にされたり、「キリスト教社会福祉」というのはあまり意味がないとか、社会事業自体がキリスト教の堕落であると言われたりもしました。
 カトリック教会では、福祉活動は教会の機能として、全ての信者、そして修道会も教区の司教と連絡を保ち、教区の機能として組織化されています。その活動の目的は、キリストの教え(命令)に従っての隣人への愛の奉仕であり、神への愛の証しです。
 その隣人は、人種、皮膚の色、宗教、国籍、あるいは性を問わず、全ての人であります。したがって、宗教のゆえに、その活動から除外されたり、差別を受けたりすることはありませんし、なってはなりません。 
 
 
…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(26)
 
 改革派教会における救貧活動(1)
 
 今月号も、宗教改革を中心に改革派教会の視点で見てみたいと思います。
 一般的には、社会福祉活動はカトリック教会がその歴史的経緯から、プロテスタントよりはるかに凌駕しているという印象があります。そのような印象は印象として、実際は、プロテスタントの救貧活動も目を見張るほどであると言うのは、何に起因するのでしょうか。
 
 プロテスタント教徒の間における、25回(前号)で紹介したルターの提案とは矛盾するような現象はどうして起こっているのでしょうか。その理由は、プロテスタント教徒の多くは、ルターの勧めよりも、聖書の教えに忠実に従ったことであります。2afc16a2.jpg
 「・・・、また、隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ19:19)というキリストの言葉、そして『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』(マタイ25:40)と言う勧めを実行したからでありましょう。
 ヤコブの手紙にも、次のような行いのない信仰の虚しさを語っています。『わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っているという者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いたとき、あなたがたのだれかが、彼らに「安心していきなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、なんの役に立つでしょう。信仰もそれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです』(2:14~17)。
 
 特にこのようなことは、ルター派から分かれたツイングリー(1484~1531)やカルヴィン(1509~64)等のルター派以外の諸教派に見られるところです。ツイングリーは「ルターが福音と律法を峻別し、信仰生活における第一義的なものを福音だけに限定したのに対して、ツイングリーは、福音は神の啓示のすべてでその中に律法をも含むと考えた。それゆえ福音を伝える聖書は、単なる恵みの媒介体ではなく、信者の生活を律する戒律的性格をもおびているものと理解された。ここに福音信仰は、社会的実践から遊離したものではなく、日常生活と結びついて考えられることになった」(半田元夫、今野国雄共著・キリスト教史)とすると、社会的活動としての貧しい人々への救済の実践も当然推進されることになります。 
 
 
s-200907201317000.jpg…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(25)
 
 プロテスタントの貧しい人々への救済のあゆみ(3)
 「宗教改革とルター」(2)
 
ルターは人が義とされるのは、「信仰のみによる」として、教皇の首位権も認めず、ただ聖書のみを権威として認めるという立場でした。ところが、カトリック教会は、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16・18~19)というキリストのペトロに対するこの首位権の約束や、使徒言行録で見られるパウロもペトロの決定を最重要視したことなどに、ペトロの首位性の根拠を見出し、その後継者としてローマ教皇に首位権を認めるのでした。
 聖書の解釈にあっても、トレント公会議の第4会議(1546年)で、救いの真理と道徳の源泉は聖書だけでなく、聖伝の中にも含まれること、信仰は全ての義認の基礎であることが、その義認には神の恩恵だけではなく、これに協力する人間の自由意志が必要であることを明確にしています。
 しかし、これも公会議の宣言を承認しない人には、何の権威もないことです。
 聖書は聖霊によって神の言葉を書き記した書物であって、神の言葉は不変であり、絶対なものであるということを承認しています。また、教会の教えは、トレント公会議でも宣言されている通り、聖伝に基づいて説くとされています。聖伝とは聖霊の助けのもとに、言い伝えと種々の制度によって使徒たちから教会の内に伝えられた神の啓示であるとされています。
 プロテスタントは聖書のみの権威を絶対視して、信仰と生活の基準は全て聖書に基づくとしています。それならば、この聖書の正しい解釈はだれがするのか、となりました。聖書の絶対の権威を認めると言っても、万人がこれを正しく、或いは同じように理解し、解釈するとはかぎらないのではないか。もし、聖書の理解や解釈に異論が出て、論争するような場合に、一体、誰がそれを裁定するのだろうか。しかし、それは聖書の解釈は聖書によってなされること。各教派、教会が告白する信仰基準・教理問答によってなされているのです。
 ルターは、修道院制度を撤廃し、修道院の施与に頼る怠惰な物乞い的生き方を恥辱であると断定しています。「中世には施与は受ける側への効果の如何を問わず、施与者の救いに役立つ善き業と考えられていた。ルターは、善き業によって自分を救うという考えを一掃し、それによって慈善の動機の大部分を取り除いてしまった。したがって、自分の魂の救いではなく、隣人への支援ということだけが弁護可能な理由として残された。そのため慈善は無差別であってはならない。社会的な影響を考慮に入れることの出来ない個人よりは、市町村や教会のような公共体によって管理された方が良い」(ベイトン著・宗教改革史)としていました。
 ルターのこうした精神に影響されたと考えられるのですが、ルーテル教会が国教の地位を占めているノルウェー、スウェーデン、デンマークのスカンジナビア3国は、現在、高福祉の社会保障制度が世界で最も進んだ国になっています。それに反して、カトリック教国が、社会保障制度の点で遅れていることは事実です。
 
…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(24)
 
 プロテスタントの貧しい人々への救済のあゆみ(2)
 「宗教改革とルター」(1)
 
 ここでは、教会史ではなく著作集から「宗教改革とルター」について見たいと思います。
 ここではルターはなぜカトリック教会から決別することになったのかについて見たいと思います。ルターはもともとローマ教会から離れるつもりはなかったと思えます。彼は忠実な教皇主義者であって、宗教改革運動の発端となった彼の「95ケ条」もルターのローマ教会に対する忠誠心から書かれたものであったことも事実です。
 また彼の宗教改革案に対する当時のローマ教会の対応が、いま少し慎重で寛大なものであったら、このような結果にならなかったかも知れないとの論もあるほどです。
 しかしながら、ルターのその後の行動やその信仰の立場を見れば、彼は当然カトリック教会に留まることは出来なかったことがわかります。彼は、1525年6月には、福音主義信仰をいだいて、1523年4月、女子修道会を脱出した9人の修道女の一人カタリナ・フォン・ボラと結婚しています。これはカトリック教会の司祭である者ならば、終身独身を守るという義務の放棄であります。しかし彼の教義からすれば、これは当然の帰結でした。
d6926d2a.jpg すなわち、救いは特殊な修行や善行の積み重ねやカリスマ的儀式によって得られるものではないとすれば、修道院生活や信徒司牧の権能を有する司祭職の意味もなくなるだろうからです。
 「事実、彼は修道院の廃止を主張しているのである。町にある托鉢修道院は、男の子や女の子ための、良い学校とするがよい。そのほかの修道院は、もし町が必要としているなら、多くの住宅とすることが出来るだろう」(ルター著作集)と勧告しています。
 ルターは、またローマ教会の伝統的教えであり、またその後の公会議でも承認された7つの秘跡のうち、ただ聖書に示されているもの以外はすべて廃止しました。
 ヒルティーは、この7つの秘跡のうち、結婚についての彼の考えを述べています。「そもそも聖礼典、すなわち人間の神聖視される行為がもしあるとすれば、結婚は全てこれらのものの中でも第1の、もっとも重要なものです。臨終の人の額に注がれる一滴の油が、あるいは全く幼い、意識もない幼児の頭に注がれる一滴の水が、あるいは儀式でキリストのものと宣言されたパンと葡萄酒を飲むことが、一体何故に、多くの世代の幸福と不幸を決定する行為よりも、重要で神聖だということになるのでしょうか。結婚から聖礼典としての性格を奪い、これを単なる1つの法律的関係にしてしまった点で、宗教改革は過ちを犯してしまった。そういう結婚には、教会の祝福も神聖な性格を与えることが出来ません」(ヒルティー著作集「人間教育」)。
 
…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(23)
 
 プロテスタントの貧しい人々への救済のあゆみ(1)
 共同基金の規定
 
 プロテスタントの貧しい人々への救済の基本原理を理解するためには、「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマ3・28)というプロテスタント神学を念頭に置く必要があるでしょう。従来のキリスト教では、慈善の行為は信徒の義務であり、それは価値のある善き業とされていました。ルター(1483~1546)は、パウロが「ローマの信徒への手紙」の中に、旧約聖書の「ハバクク書」から引用して「しかし、神に従う人は信仰によって生きる」(2・4)という言葉に強く打たれ、ここに救いの確信を得たと言われています。すなわち、人間は善行を積み、その功徳によって救われるのではなく、ただ神の恩寵を信じることによってのみ義とされるという信仰の立場に立ちます。
 ルターから見ると、当時の個人的なキリスト教の慈善は、ただ神を喜ばす善き業として、与える側の宗教的満足の手段であるに過ぎないように思われていました。それでルターは、1520年に公にした「キリスト教会の改善に関してドイツのキリスト者貴族に与える書」で、キリスト教界のあらゆるところから、全ての物乞い・商売が除かれるということは、実際に最も大きな必要の一つであると宣言しました。
 「実際、だれもキリスト者の名の下に物乞い行為をなすべきでない。もし私たちが勇気と真剣さとをそのことに示すなら、そのための制度が容易に作られることだろう。すなわち、全ての都市は、その町の貧しい人々を世話するが、他の地方の如何なる物乞いをも、それが巡礼者であっても、あるいは托鉢修道会に属するものであっても、彼らが望むようにどのように喜ばれようとも、世話しないことである。たしかに、全ての都市は、その町の貧しい人々を扶養することが出来るはずだ。・・・そこで、全ての貧民を知ると共に、その貧民にとって必要であるに違いないものを、市の参事会員かあるいは主任司祭かに報告する管理人か、または後見人がここにいなければならない」(ルター著作集第一集・第2巻)と説いています。
 ルターは自分のこうした考えを実行に移すために、1523年「共同募金の規定」を著して、次のように訴えました。
 「物乞いは厳重に禁止すべきであり、老齢、虚弱の者以外は働かなければならない。その教区に属さない物乞いは留まることを許さない。正直に手工業、あたは農場に従事する貧困な戸主には、もし他に何らかの援助も求めることが出来なければ、無利息で共同基金から資金を貸与すべきである。
 45a1dd9c.jpgまた、もしこの補助金を事実返済することができない時は、返済の必要がなく、与えられるべきである。基金の収入は教会領地の収入、自由寄付、またもし必要があれば、居住市民への課税及び旅職人に対する少額の人頭税からなる。その管理は選出された10名の委員に任せなければならない」。その10名の選出については、「それで、神の恵みにより、真のキリスト教信仰における協力のもとに、教会全体から例外なく適任である10名の共同基金後見人、あるいは執事が選ばれなければならない。すなわち、それは2人の貴族、市参事会から2人、市の市民から3人、農民から3人である。
 こうして選ばれた10名は、直ちにこの管理と後見の責任を神の共同の福祉のために、喜んで引き受け、また負わなければならない。善きキリスト教的良心をもって、個人的な好意、妬み、利益、恐れ、またはその他の相応しくない口実などに関らず最善を尽くし、この今書き記されている私たちの規定の内容、管理、収入と支出を忠実にまた安全に処理する責任があり、義務がある」と(ルター著作集・第一集・第5巻)。
 
 しかし、「共同基金の規定」の提案は、残念ながら実際には余り成功ではなかったのでした。「原則は非常に立派であったけれども、実際の運用にあたってはそれの僅かしか実現しなかった」(アリス・サロモン著・社会福祉事業入門)と、「共同基金の規定」の目的は達成されなかったことを説明しています。
 市の議会は、それまで自分たちで扱ってきた多くのことを、共同基金の管理委員会に委ねることを渋ったし、そして選帝侯の承認なしには実行できないと主張したからでした。ただ、フランス、オーストリア、スカンジナビア諸国の各都市には、ルターの提案に類した計画を発展させ、困窮者、病人、身体障害者及び孤児に対する救済基金の徴収と配分の責任を負うようになった都市もありました。しかしながら、貧しい人々の救済管理の主要な役割をえんじていたのは依然として教会当局でした。
…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(22)
 
 修道院の貧しい人々への救済(8)s-IMG_0003.jpg
 修道会と貧しい人々への救済(2)
 
 これに対して、修道士たちは専門社会事業家になることを目的にしていたのではない。貧しい人々の申し立ての正当性が証明されるまでは、扶養しないことにしたら、慈善は行われないことになるのではないか、と反論しています。貧しい人々の人格を尊重して、その発言を信頼するところに、貧しい人々への救済事業が可能になったのです。
 また当時の社会機構をよく観察してみるならば、修道院の門前で与えられる一椀の食事が、中世の社会全体に道徳的腐敗や堕落を流すなどということがあったとは考えられないことです。また中世の無差別の施与についての殆んど全ての議論は、初期産業社会における一般的な思想傾向になっていた先入観に影響されていたと思えます。
 すなわち、もし人が窮乏していたら、その人は刑罰に値する怠惰な者であると考えられていました。さらに労働者は、もしその窮乏に際して、恥辱や労苦なしに、公的あるいは私的救済が与えられたならば、無意味に日を送ってしまい、その救済を受け続ける怠惰な性向の持ち主になると考えられていました。
 
 このような考えに支配されていた人々には、飢えている人に対する最も親切な方法は、まず食べさせることである、という単純素朴な中世の見解は、一種の型破りに見られたのでしょう。そして従来の優れた救貧史の多くが、このような社会的思潮が広く受け入れられていた19世紀後半に書かれたものであって、日本の救貧史も、これらの文献によった考え方に立っていたために、深く反省・内省することなしに、ただ受け売りしているところがありました。
 
 現代福祉国家の公的扶助制度においては、無差別・平等の原則に基づいて、しかも生活困窮者の基本的人権の保証ということで、その生活扶助が行われています。この制度は、生活困窮者の生活維持のために有効な制度となっています。
 中世の組織的な救貧制度のなかった時代に、修道院の門前に於ける貧しい人々に対する無差別の施与も、貧しい人々の生活維持には役立っていたのです。これを無効であったと非難する根拠はどこにあるでしょうか。
 無差別の施与が貧困者を自立生活に至らせることが出来なかったでしょうか。貧困を除去出来なかったのでしょうか。もしそうであるならば、現代福祉国家の公的扶助制度も、その効果の面から見れば、中世の無差別の施与と余り変わりませんから、無効であると言わなければならないでしょう。
 19世紀までの自由放任主義の時代における救貧行政の目的は、救貧制度の必要性を減少させ、終局的にはそれをなくすることでした。社会事業の目的は、社会事業をなくすることである、と言われていた時代でした。
 日本においては、また「全国民のために、揺り篭から墓場まで」の社会保障制度を成立させているイギリスにおいても、公的扶助の受給者は、減少する傾向は現われていません。そのための国家の支出も、年々増大するばかりです。現時点でも、公的扶助制度の必要性になくなる将来を見通すことは出来ないのです。むしろ、福祉国家においても、永久に必要不可欠の制度であること理解されるべきです。
 だからと言って、公的扶助制度が無効・有害な社会制度であると主張する人もいることを知っておくことも大切です。
 
 中世の修道院の行った貧しい人々への救済に対する非難の弁明を考察してきましたが、日本における社会福祉研究者の中にも、中世カトリック教会の、また修道院の慈善事業に対する否定的先入観をもって論ずる人も少なくありません。同時に、修道院の行った数多くの施与は、貧しい人々の自立更生のために工夫することに十分な考慮を払うこと、また、貧しい人々の発生を防止するための社会的制度を整えるために、余り関心を示さなかったことも認めなければなりません。
 これは、本来の修道院設立の目的からみて理解されなければならない一面です。
…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(21)
 修道院の貧しい人々への救済(7)
 修道会と貧しい人々への救済(1)
 
 社会福祉的、教育的活動に従事する修道会、特に女子修道会は、近代カトリック教会史の花園に咲き香っている花とレオンス・グランメーゾン(1868~1927)はその情景を説明しています。
 「個人主義的利己心によって社会の悲惨はますます深刻になった今日、それを覆うための公共救済医療事業は単に物質的であり、しかも非常に高価であって、やたら社会の負担を重くするに過ぎず、またそこでは貧民の人格は忘れられ、人情は氷のように冷ややかである。この時に当ってカトリック教会は、社会の悲惨に赴くこと、あたかも咲き匂う花園へ飛来する群蜂のように、純潔、謙遜にして、人に隠れて献身的生活を営む無数の童貞女を送ったのである」。5c6b363b.jpg
 自分の罪過の報いに苦悩し、あるいは社会の不正、生活の無情に泣く身寄りなく寄る辺のない老人を世話する「貧者の小さき姉妹会」(1839年創立)があり、不治の疾病の悪臭をも意に介さないで看護をする「カルワリオの婦人会」(1843年)と称する未亡人会がありました。
 
 また、労働者の家庭的不幸、すなわち、母親の不在、児童の放任、貧困、失業、疾病を特に救済する「聖母被昇天の姉妹会」(1853年)、結核に罹った若い女性を献身的に看護する「扶助者のマリアの姉妹会」(1854年)の仕事もありました。そして、社会の最も悲惨な境遇に沈んだ売春婦の更生を目的とし、その魂の指導・救済のために働く「善牧者の姉妹会」(1835年)などがありました。これらはカトリック修道会の活動の一部分に過ぎないものです。
 
 カトリックの修道会のこのような愛・徳と自己犠牲による貧しい人々、被災者、病人、老人、要扶養児童、無宿者、犯罪者に対する救済保護の活動は、教会を愛する者も、憎むも者も、全て心ある人の認めざるを得ない事実でありました。今日の社会福祉の範疇に入る活動の内で、修道会の経営・従事していないものは一つもないといっていいでしょう。勿論、日本においても同様でした。しかもその多くは、修道会が先鞭をつけたものでした。
 修道会の社会福祉活動は、多くの社会的困窮を減少させ、挫折した人々に更生・希望を与え、ある者を危険から遠ざけるなど、社会的にも重要な意義を持っていました。これらの活動によって、直接・間接に巨額の国家負担の出費を節約させたのも事実です。
 しかしながら、中世期に於ける修道院の門前で行う無差別の施与は、むしろ職業的・恒久的物乞い階級の増加を促進するものであったと非難される面もありました。すなわち無差別の施与は、その結果において無効であったばかりでなく、有害でさえあり、受ける者を道徳的に堕落させたと非難されました。
…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(20)
 修道院の貧しい人々への救済(6)
 修道院生活(6)
 
 この托鉢修道会の創設者は、イタリアの聖フランシスコ(1182~1226)とスペインの聖ドミニコ(1170~1221)の二人の仕事であったと言われています。聖フランシスコは、アッシジの富豪な商人の息子でした。フランシスコは正規の教育を受けず、華やかな青春の生活を送り、放蕩にふけっていました。ある時、心の声が彼にマタイによる福音書の次の語句に注目させたと言われています。
 行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である(マタイ10:7~10)。c500fd11.jpg
 
 彼はこの言葉に従って、富も名誉も捨てて華やかな遊び仲間とも別れて、清貧を自分の伴侶とし、ハンセン病や社会から見捨てられた人々に奉仕することを始めました。彼の熱心なそして誠実な態度は、たちまちにして彼に従う弟子たちを見出しました。彼には修道会を設立する意図はなく、ただ使徒的貧困に生き、キリストの命令に従い、筋肉労働によって、もしこれが不可能な場合には物乞いによって生計を得るような僅かな伝道者を持ちたいと望んでいました。
 
 その熱心、献身、そして自ら身をもって示す実例によって、世界を改革する原始キリスト教的伝道機関を創立しようと願っていたのですが、教皇の勧告によって、初志を諦めて、修道会の設立に同意したのでした。彼は、最初は哲学や科学を全然尊重しない人物でした。全ては弱者、病人、貧者の実際的救済、人間の道徳的・宗教的革新が、彼にとってはキリスト教の初めであり、終わりであったのでした。布教活動のために教育を重んじるようになったのはドミニコ会に負う所があったと言われています。
 
881fd1f7.jpg 聖ドミニコは、聖フランシスコと違って、司祭であり、大神学者でした。彼はオスマ市の大学で神学を研鑽して司祭になり、後に南フランスに行って、アルビ派(12、13世紀に南フランスのアルビ付近で栄えたキリスト教異端、霊肉二元論をとる。肉を悪と考えるためにキリストの復活を信じず、また婚姻を否定した。1165年以降教会により排斥された)と称する異端の間で10年間働いていました。その間、その地方でアルビ派に改宗のために活動していたシトー会の修道士たちが、巨大な資材を所有していることから、異端者たちの嘲笑を受けている事実を目撃しました。
 彼は異端者を説得するには、清貧、謙遜等の徳行をもってしなければならないと考え、信者の寄進によってのみその生活の糧を得る托鉢修道会を組織しました。この修道会は1217年1月に教皇ホノリウス三世によって「説教者修道会」として認可を受けました。これがドミニコ修道会です。フランシスコ会は、主として都市のスラム街で働き、ドミニコ会は、これと同時に、教育のある人々や上流階級に福音を伝えて今日もなお続いております。
 フランシスコ会、ドミニコ会の組織にならって、新しい修道会がその後現われるようになりました。使徒的目的と使命を果たすために、おそらくもっとも完成されて組織を持ったものとして、1534年に創立されたイエズス会を挙げる人もおります。なお、16世紀以後、いわゆるオルド、すなわち、教会法による本質的な古い修道会の他に、多少、戒律の緩和された組織を持った新修道会が現われました。これをコングレガチオと言います。
 
 これらの新しい種類の修道会は、ますます活動的になって、それぞれの創立の目的に応じて、直接の布教事業、慈善事業、教育事業、あるいは医療事業、更生事業などに献身するようになって行きました。
 ことに女子修道会は、16世紀までは、ほとんど純粋な信仰的な組織の修道会のみであったのに、時代とともに次第にコングレガチオの形で、数え切れないほど新しい修道会が、至るところに出現するようになったのです。その数と多様性は、今なお続いていると言われています。
 
…キリスト教…
d66c240a.jpg 社会福祉活動のあゆみ(19)
 修道院の貧しい人々への救済(5)
 修道院生活(5)
 
 ベネディクトの戒律は、修道会の制度をより良くしました。極端な形の克己を廃し、修道士たちに共同生活を営ませ、日常の筋肉労働に従事するように要求していました。しかし、ベネディクトの制度には、おのずからその限界がありました。修道士たちは、定住の誓願を守って、修道院内は世間からまったく離れて生活し、もっぱら、自分自身の魂の救済のみを目的としました。
 
 13世紀の初めになって、托鉢修道者の出現によって、修道生活の新しい概念が生まれました。すなわち、托鉢修道者は、従来よりももっと直接に使徒的活動を行うことを志した活動でした。これまでの清貧は、全ての修道会会則の一部をなしていたものですが、それは個人として守るべきもので、団体はあずかり知らないものであったのです。そのために、各修道士は清貧であっても、修道院自体は、徴税、寄付、献金によって、また修道院が経営する地域に根差した一次産業によって得る収入によって、巨万の富を有することは珍しくなかったのです。
 
 修道院の多くが「祈りと労働」をきわめて調和的に重視したにも拘らず修道院の発展と拡大と言う思いが、また、修道院の多くが、その当時の有力な俗人貴族たちによって設立されたり、修道士自身が貴族出身であったり、司祭にしても修道士にしても、基本的にはラテン語の知識が必要なことから、知的な階層の出身者が多くおりました。
 そのためかどうかは別にして、修道院の発展と拡大のために、多くの労働修士(助修士)や近隣の農民(年季奉公人・賃金農業労働者)、また、賦役労働(領主の直営地の仕事が週3~4日、自分の土地で働くのは日曜日を除く2~3日)によって維持されていたこともヨーロッパの修道院研究によって最近知られるようになって来ました。
 
 発展と拡大は、今日的表現を用いるならば、親会社の支店・営業所化のようになり、親会社は修道院領主として、全ての権益をその手に入れることとなってきました。この修道院領主の存在を軽視しては修道院の姿に近付くことは出来ないと言われています。
 このような背景にあって、新しい托鉢修道会は、修道院・団体にも同じく清貧を守らせようとした運動でした。彼らは個人としても団体としても、何一つ所有せず、ただ信徒の献品によって生命を維持するのです。しかし、決して富を呪うものではなかったのです。無一物であるから、人に憎まれる理由もなく、羨望の的となることもありませんでした。それだけに民衆の人気を得、たちまちにして驚くべき勢力を築いていったのでした。
 
 この托鉢修道会の創設者は、イタリアの聖フランシスコ(1182~1226)とスペインの聖ドミニコ(1170~1221)の二人の仕事であったと言われています。聖フランシスコは、アッシジの富豪な商人の息子でした。フランシスコは正規の教育を受けず、華やかな青春の生活を送り、放蕩にふけっていました。ある時、心の声が彼にマタイによる福音書の次の語句に注目させたと言われています。
 行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である(マタイ10:7~10)。
 
 
…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(18)

 修道院の貧しい人々への救済(4)

 修道院生活(4)
 
 ここで修道院を、一般学的な視点から見てみましょう。
 ロバート・オーエン(1771~1858)はイギリスの空想的社会主義者、協同組合運動の創始者として知られている人です。彼は、北ウエールズのニュータウンにうまれ、小手工業者の子供として産業革命の暗黒面を体験しました。後にマンチェスターの紡績工場の支配人として、労働者の生活改善、世界最初の幼児学校の設置、共済店舗の創設に尽力、私財を投じてアメリカのインディアナ州に共産社会を建設したが失敗し帰国しました。
 次いで、労働時間による労働貨幣によって生産物を交換する施設を作ったのですが、これもまた失敗しました。晩年は精神更生運動に没頭し、困窮の内にその生涯を終えました。 0ab0559a.jpg
 
しかし、彼の社会思想はサン・シモン、フリエと共に現代社会主義思想の先駆けとして高く評価されています。彼は、私有財産のない、誰もが一様に働き、一様に分配し、一様に暮らすという主義によって、理想主義、すなわち「ニュー・ハーモニー平等社会」を1825年北米インディアナ州に創設しました。家屋も別々にせず、共同の建物に共同の台所を有する組織であったようです。この理想を発表して新天地の開拓に従事したとき、当時の人々は驚喜し、明日にも理想の社会が出来ると思ったと言うのです。
 
しかし、この計画は実施してわずか4年で行き詰まり、彼は1829年本国に帰りました。その失敗の原因の内には、資金の欠乏とか、販路の不足とか、外的条件もありました。しかし、その根本的なものは、組合員の自律心や自制心の弱かったことを学ばなければならないでしょう。
レッキーは、オーエンのこの運動そのものを、その団体がある種の明確な宗教上の教義や強烈な宗教的熱意によって団結させられているのでなければ、地域社会への奉仕に、個人の抱負や関心や精力の大きな犠牲をともなう産業社会の中で、それを維持することは、ほとんど不可能であることで注目すべき例だと指摘しています。

 ある人は、修道士や修道女は貧しい人であるので、一緒になってもっと良い暮らしをしようと団結した、とも言われていますが、これも歴史の事実に照らして見るなら真実でないこともまた確かです。
この世の富みと地位を捨てて貧しい人になったと言うのなら別です。聖ベネディクトはイタリアの貴族の出であったし、聖フランシスコは裕福な商人の息子でしたし、聖ドミニコは大学で学んだ王族だったのです。イエズス会の創立者聖イグナチウス・ロヨラは城主の息子であったのです。
女子修道会では、志願者は一定の持参金が要求されましたから、貧しい人の入会はむしろ難しかったのではなかったかと思われます。また、貴族や豪族の娘が莫大な持参金を持って入会したりしたために、そこから弊害が生じたりしたことは歴史が示しているところです。 
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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