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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(17)
 修道院の貧しい人々への救済(3)
 修道院生活(3)
 
 西方教会の修道院の生活は、東方教会に多くあったような単に恍惚として現世の世界を忘れる神秘的な瞑想生活ではなく、沈黙と勤勉とをもって努力する活動的生活でした。
ベネディクト会の修道者たちは、中世期の前半を通じて教化機関となりました。修道院は、しばしば模範農場であると同時に、宿屋であり、病院であり、学校であり、また、図書館でもあったのです。
修道者たちは、彼らの土地を立派に耕作することによって、周囲の人々に農耕の模範を示し、西ヨーロッパに宿屋のほとんど絶無であった時代に、旅人や巡礼者に宿を与えて歓待しました。飢えた者を養い、修道院の前に運ばれてくる病人を治療し、また薬を必要とf77c7322.jpg
する者には、無料でそれを配布したり、多くの慈善事業を実施したのです。また、その学校において、司祭になる希望の少年と社会に出て活躍しようとする少年を教育しています。修道者は、その時代の学者であったのです。
 
 フックス(1870-?)も修道院について、「風俗の歴史」で次のように書いています。
「修道院は最初の文明の所在地であり、最初の文明の伝播者であった。長い年代にわたって、修道院だけがそうであった。修道院から、初めて職業的手工業が勃興した。2、3の実例を挙げるなら、修道院の中に最初の織物職人があらわれました。更に、修道士は最初のビール醸造人であった。これと同じように、修道院によって、初めて合理的な農業がおこなわれた。そして修道士たちは、付近の住民にそれらを全て教えてやった。彼らは綿を織り、綿を着物にすることを教え、もっと有利な農業を教え、さらに生活水準を高めようとする意気込みを教えた。さらに修道院は自分を維持するために最初の市街を作った。修道院は初めて荒地を開墾して田畑に変え、沼沢を乾かし、堤防を築いた。修道院の堅固な石垣は、最初の堅固な石垣であった。もし捕縛好きの敵がその地方を襲った時は、付近の住民はその砦の後ろに逃げ込んで、自分たちの財産を隠すことが出来た。修道院と教会は、神の城郭であっただけでなく、俗世の敵に対する、最初の一番堅固な要塞であった」。
フックスはまた、修道院は中世文化の発生地であったと次のように描写しています。
「技術及び経済の分野において、修道士と修道院の役割に当てはまるものは、そのまま精神の分野にも当てはまった。修道院こそは、中世科学の一つの所在地であった。そこには最初の医者が住んでいた。人々はそういう医者から、人間や家畜の病気に対して、産婆よりも優れた方法を学んだ。修道院において、人々は、読み書き、計算を学んだ。著述は修道院だけで組織的に行われ、さらに推し進められた。・・・。修道院ではまた、初めてあらゆる文化の最高峰、つまり、様々な美術が発展した。修道院は長い年代にわたって、美術の最高の城郭となり、それに捧げるために、美術だけでなく、おおよそ中世の精神が美術をかりて作り出したもののうちで、一番偉大な美術、一番逞しい美術が作られた」。
 
フックスは、以上のものの生まれた原因は、全て修道院の生活の中に全部そろっていたことになるとだけ言って、その原因について説明はしていません。また彼は修道院が大切な技術的進歩の発生地であったことの説明としては、人間が修道院において初めて、歴史に於けるあらゆる技術の完成の自然な源とも言える労働の集約が出来るかの納得のいく説明はしていません。
また、修道生活の目的は完徳であって、そのために福音的3つの勧告を守り、世間から内的に解放され、これによって強化された力と同志との結合によって、修道士各人が各自の役割を、神の御旨として完全に果たすように努力したので、修道生活の一番重要な土台は、独身制度であるとし、修道士と修道女の独身生活は強制的な経済状態の結果と見ています。
また「修道院は、その有力な起源は貧しい人の団結で、貧しい人は個々ばらばらの場合より、一緒になってもっと暮らしを良くしょうとして、団結したものであった。この組織維持のためには、結婚生活を禁止するということだけが残された道だった」とも説明していますが、これは本末転倒の理論であると私は思っています。
この理論では、修道院は経済的組織として生まれ、その組織維持のために、必然的に独身生活を送らざるを得なかったということになるからです。経済的理由のみで団結した人間の共同生活で、修道院のように幾世紀にわたって続いているものが歴史上にあるだろうかと考えれば、当然のこととして、それ以外の精神的・信仰的理由がなければ成り立ちません。
 
 
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…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(16)
 修道院の貧しい人々への救済(2)
 修道院生活(2)
 
 次の段階は、散在した修道院に内面的な力を秩序に適応させると共に、共通の組織と管理を与えることでした。その重要な役割を果たし、東方教会における修道院生活の1つの形態を確立したのは、大司教聖バシリウス(331~379)でした。「バシリウスにとって、修道院生活とは、禁欲的な奉仕と謙遜、罪の償いなどのような愛と思いやりと言う、完全なキリスト教生活の枠組みを与えるような1つの共同体であった」(D・ノウルズ著「修道院」)。
 彼が自分の指揮下にあった修道者の指導のために書いた規則は、精神的な勧告と聖書の注解でした。ビザンチン帝国のほとんど全ての修道院や、またロシアの後の修道院のほとんどは、西欧の修道士がベネディクトに負うのと同様に、彼の規則を修道精神の基礎にしていました。
 西方教会では、聖ベネディクト(480~54?)が西欧の民族性に最も適合したミサ聖餐を中心にして、「祈り、そして働け」という修道生活を教えました。聖ベネディクトは529年、ローマとナポリの中間にあるモンテ・カッシーノに大きな修道院を建設し、そこの修道士たちを統率するために修道士たちの守るべき戒律を作りました。これはある点では、聖バシリウスの戒律を模範にしたものであったと言われていました。これが10世紀に至るまで、西方の修道院戒律の唯一とされた有名な「ベネディクトの戒律」でした。s-200809231133000.jpg
 それは「経験から生まれ、体験によって案出された普遍的な理想を有し、人間の最も深奥の本性に合致し、その社会的必要性を考慮したものであった。規則の詳細ここに記す余裕はないが、ただそれは、祈りと苦行、単純性と精神性の正方形の上に立ったものであると言えば足りるといわれている」ものであったといわれています。
 ベネディクトの与えた戒律の知恵は、その結んだ果実によって証拠立てられています。ベネディクト会に属する偉大な人々の名は数え尽くすことは出来ないほどです。修道士たちは、生活共同体を作り、終身職である修道院長の指図に服しました。富める者も貧しい者も、身分の貴い者も貧しい者も、誰でも1年の修練期間を経て、修道院に入ることが出来ました。修道士は、清貧、貞潔、従順の3つの誓願を守る根本的な義務があり、その他に、定住の生活、すなわち、一生涯修道院を変えないで、一定の修道院内で生活するという誓願を守ることが要求されていました。 
 これらの規則のうち、特に重要なのは、完全な服従と自己否定の心であり、生活上においては、規則正しい祈祷と黙想及び労働の義務でした。最初は田畑を工作したり、あるいは森林を開墾したり、沼地を乾かしたり、野外の労働のみを奨励しましたが、カシオドス(490~585・ローマの政治家、歴史家。540年頃修道院に入る)が修道者になってから、ローマの文化の保存に努め、文献の収集や写本などの学術上の勤労をも奨励するようになりました。そこから多くの学者、筆記者が輩出し、古代文化の貯蔵所としての役目も果たすようになったのです。これは、後の時代修道院が果たした科学・文化・芸術・歴史の大きな役割となりました。 
 
 
 
…キリスト教…
 社会福祉活動のあゆみ(15)
 修道院の貧しい人々への救済(1)
 修道院生活(1)
 
 プロテスタント教会や信徒にとって理解できない世界の一つに修道院があります。しかし、その役割と働きは後の社会と歴史に大きな影響を及ぼしていますので、軽視することは出来ません。
 一般的には、修道院生活の起源は、原始キリスト教会と言われる時代の信徒の修徳生活であったと言われています。最初の信徒たちは、使徒言行録(4:32~35)にあるように、自分の財産を差し出して、キリストの勧告・教えを守って、貧しく暮らしつつ、祈りと働きの共同生活を営んだことが始まりとするなら、これが修道院生活の前身と言えます。
 キリストは、ご自身、一般の人々に悔い改めを説き、救霊の道を教えましたが、ある人々に対しては特別の方法、清貧と貞潔と従順とを守るように勧告もしています。パウロによれば、独身生活はより優れた生活ではあるが、それは義務ではないとも言っています。
 ee6372a9.jpgⅠコリント7章32節以下には、その理由としてパウロの考えが記されています。
 「思い煩わないで欲しい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」。

 ここから、修道者は結局パウロのこの「ひたすら主に仕える」ことが出来るようにするため、家族の義務のために心が2つに分かれない人々と言うことが出来ます。しかし、教会の教えによっても、また、実際の例からも、修道院生活をしなくても、世間において真にキリスト教的に送ることは出来ます。ただ世の中では、種々の事情のために、これが割合に難しいけれども、その点、修道院生活のため特別の組織と施設を持っている修道院生活では、一層容易にこの理想と目的を達成できると言うことです。
 それは、たとえば独学でも学問や芸術を深く追求する者のために、そのための特に設立されて専門の大学に入って研究するならば、特別の組織と設備があることによって、より一層学問や芸術を習得することが出来るということと同じ理由です。しかし、こういう専門の大学に行く者が皆優秀な学者、或いは芸術家になるとは限りません。それと同じように、たとえ修徳専門の大学ともいうべき修道院に入っても、それだけで皆真の信仰的完成に達するとは限らないのも同様です。

 初代教会の300年の間は、多くの信者が個人的に独身生活や清貧の生活を守っていたけれども、後の修道院生活の形は、3世紀の最後の10年代までは出現していなかったようです。教会が公に認められて、信仰が自由になった時、キリスト教的生活が大衆的になると同時に、平凡・安易なものになってしまいました。
 その結果、もっと自己の全生活を瞑想と祈祷に捧げて、より高い理想を求める信者は、この世から遠く離れてエジプトの砂漠などに隠遁生活をするようになりました。このような隠遁生活を模倣する信者が、最初はシリヤやその他の東方の諸地方に多く現れてきました。しかし、仲間や世間との接触を全く遮断して独りで生活すると言うことは、実際には困難なもので、単純な動機や思い付きの一般信者の力では不可能なものでした。
 そのために、社会的交渉に対する自然の人間的要求から、段々と隠遁者を最初は小さな集団に、それからより大きな共同社会、すなわち、修道院生活へと移行・結集されていきました。また、信仰、人格的な徳に優れた隠遁者の周囲に弟子が集まってきて、自然にそこに共同の生活が生まれたと言うことも考えられます。



 
…キリスト教…
    社会福祉活動のあゆみ(14)1370c7c3.jpg
  キリスト教公認後の貧しい人々への救済(7)
   中世教会の貧困問題の対策の基本原則(5)
 
 さらに、中世共同体の特異性といわれるもの、また、現代社会との相違点を考える必要があります。13世紀は、近世産業化以前の社会的標準からすれば、比較的安定した社会が存在していたとされています。それは、貧困者の大部分は農民でしたが、彼らは、小さい村落に住み、自分の土地に根を下ろした生活であったため、集団的失業は見られなかったからです。
 貧しいと言えども、一般的には健康な人はもし働く意思さえあれば、自らを扶養することは出来ました。しかし、負傷して農作業が出来なくなったり、長期の病気や老衰によるものであったり、また、世帯主が死亡して、幼少の子供を抱えた未亡人が残されるようなことも当然起こりました。
 このような種類の貧困に対する救済を主とした慈善の弊害、と指摘する人々もおりますが、一体何をもって言うのでしょうか。また、一時的な困窮の状態であるならば、組織的慈善に頼ることなしに、しばしば解決されていました。また、家族的結合あるいは家族的忠誠は強固であって、隣人同士は、しばしばギルドによって結ばれていたからです。
 このような事態を考慮するならば、「自分の家族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています」(Ⅰテモテ5:8)という教えも民衆の意識の中に広まっていたと考えても良いでしょう。
 また中世の農民は、教区司祭の監督の下で生活し、「わたしたちは、働きたくない者は、食べてはならない」(Ⅱテサロニケ3:10)と教えた聖書の戒めも知らされていたに違いありません。当時の農民は、その領主の土地で要求された仕事をしなかった場合には、ただちに執事の棍棒でその義務を思い知らされたであろうし、或いはもっと適切な方法としては、領主裁判所へ正規の手続きで召喚され、厳しい罰金を課せられたりすることによって、その義務を要請されたであろうと思われます。
 それでも、自分の土地で働かなかったならば、その家族は生命の維持が困難な家族の生活扶養の重荷は、第一義的には親戚か隣人に係わってきました。したがって、このような行為は中世農民の社会形成をしていた小さい共同社会全体から、激しい非難攻撃を受けたに違いありません。
 全体的には、農民各人に少なくともその扶養家族を養うに必要な労働をするように強制するきわめて強い社会的圧力があったに違いないのです。すべての事情を考慮してみるならば、国内の村から村への間にある修道院で、無料の食事が得られる可能性が13世紀の社会一般に、道徳的腐敗をもたらすほど影響力が有り得たと推測することは当を得ていないように思われます。
 事実、中世社会の生活の現実の姿に心を留める時には、甚だしい慈善の乱用も比較的無害で、特殊なあの歴史的機構においては、むしろ有益でさえあったと判断されている面もありました。
 アッシュレーを憤慨させた慈善の形式の一つに、恩人の霊魂の安息のための祈りに集まる貧しい村人たちにご馳走をするという習慣がありました。中世紀の一般農民は、生命を維持するに足るだけの生活必需品をいくらか余分に所有しているというだけで、毎日単純な変化のない食事をしていて、厳しく管理されて、潤いのない型にはまった生活を送っていたのです。
 このような事情にあっては、持てる者が持たない貧しい隣人たちを、一年に一度か二度招いて、美味しい食物や飲み物で腹一杯にするように配慮することは、恩人の霊魂のために益がある、すなわち供養になるという宗教上のまた精神上の大きな慰安になったと考えられていたことです。
 もちろん、中世法学者は、このような見解はおそらく取らなかったし、またこうした折々のご馳走は、長期間の貧困の問題に対しては、有効な回答を与えるものではありません。しかし、中世期の人々が、慈善のために大きな遺贈をしようと思うときには、教会か或いは慈善的機関に、それを寄進していたのです。教会や慈善的機関によって貧民救済とその管理は、結局、中世教会の慈善理論に支配されていたので、その弊害、あるいはその欠陥といえば、現代福祉国家の公的扶助にまつわる弊害や欠陥に類似のものであったと想像しても大過ないものです。 
 
  
…キリスト教…
    社会福祉活動のあゆみ(13)
  キリスト教公認後の貧しい人々への救済(6)
   中世教会の貧困問題の対策の基本原則(4)
 
 教会の全く善意の貧しさからの救済活動を悪用していたからと言って、そのような者は、何時の時代にも必ずいるもので、そのために救貧活動のあらゆる分野に於ける教会の創始者としての、また、開拓者としての苦心や努力を非難・無視することがあってはならないことです。むしろ、このようなことは、制度の罪・欠陥とするのではく、人間の弱さであると認めるべきであります。
 アッシュレーは、その本(英国経済史及び学説)の中で、中世の慈善の実践に関する疑念を指摘していますのでご紹介いたします。
 中世の形態の1つの中で、同情的態度を示した事柄もありました。それは、遺贈によって嫁資のない貧しい娘たちが結婚できるようにするために、持参金を与えたやり方に対してでありました。
 「時に遺贈は貧民の子弟の教育または嫁資のない娘の結婚に向けられたが、これもまた何ら害を生ずることのない慈善の形式であった」とも書いています。
 ゾーダンも「中世のイギリスにおいて、贈与が孤児であるか、あるいは困窮している家庭の娘たちが嫁資として、役立てられていたこと」を認めています。そして、「これらの贈与は、それがなければ資金のない若い二人を、世の中に少なくとも見苦しくないようにして、送り出してやるために意図されたものであって、これらの基金のあるものは、この時代に極めて実質的な社会的寄与をなしていたと推測し得る広く行き渡った証拠がある」と言っています。
 そうであっても、アッシュレーの記述を全体的に見れば、中世の慈悲の効果を非難しています。それは「慈善的遺贈を行う動機が来世に於ける利益の確保にあったことに気付かざるを得ない」とか、また、「このような施与が確かにでたらめであり、堕落させるのであったことは問題にしなければならないほど当然である」とか、その他の指摘がなされています。
 中世の無差別の施しについての従来のこのような評価は、史家・学者によりますと、「資本主義初期の産業社会における一般的な思想傾向に影響されていたからであろう。窮乏の内にいる人がいたら、その人は「刑罰に値する怠惰な奴」であると考えられた。全ての労働者は、この窮乏に対して公的救助が、もし甚だしい恥辱や苦痛を伴わずに与えられたならば、何時までも働かずに怠惰に救助を受けて暮らすのを望むだろうと考えられた」と述べられていました。1dea20e1.jpg
 このような「貧しさ=怠け者」という原則・考え方は今日においてもあります。そのような思想にある人々には、飢えている人に対する最も大切な救済方法は、先ず無条件に空腹を満たしてやることである、と言うような中世の素朴な救貧観は、とうてい受け入れられないものでしょう。
…キリスト教…
    社会福祉活動のあゆみ(12)
  キリスト教公認後の貧しい人々への救済(5)
   中世教会の貧困問題の対策の基本原則(3)
 
 どこの世界・国でも同じですが、中世の西欧の社会の住民は、ほとんどが農民であり、その生活は農作業中心に営まれていましたから、その生活は単純なものであったと想像できます。豊かではありませんが蓄えも少しはありました。
 聖トマスは「余剰」を以下のように規定しました。「物質を生存のための必要物質、生活のため、すなわち、身分相応の生計を営むための必要物質及び余剰物質の3つに分類している。施与は原則として第3の余剰を以ってなさるべし、特別の場合に限り、第2のものを以ってこれをなすことを得。ただし第1のものは原則としてこれを犠牲に供すべからず、というのが一般的取り決めである。a70c0172.jpg
 すなわち、施与は第1においてのみ命令であり、第2の場合には忠言であり、第3の場合には命令・忠言のいずれにもないのみならず、施与をなさざることが命令であるとした。従って、富める者がその余剰から物乞いに与えたならば、それは正義の行為である。なぜならば、物乞いは本来自分のものであるものをただ受けただけであるからである。もし人が自分の必要物を他人に与えたならば、この種の施与は慈悲の行為を構成すると解釈された。それで施与者の側では、尊大に構えるべきではなく、被施与者もまた極度に卑下する必要もなかった」としています。
 ある人々は、中世の教会の慈善に対して、私利の要素があったとする非難に対して、貧しい人々の救済をたとえ利己心から行ったとしても、そのこと自体には何ら非難されるべき点はないのではないかと、積極的に中世の教会の立場を肯定する説を主張する立場もあります。
 すなわち、「自分自身の魂の利益になることを知って、自己の行動を神の意思に一致させる人は、利己的と言われるかもしれないが、もし全ての人が、このような種類の利己主義を実践したら、世の中は上手く行くだろう」と。
善良・公正な行為ならば、利己主義のためにそれを行ったにしても、何が悪いのかと開き直った主張です。そういう人が一人でも多ければ、それだけ世の中は良くなるのではないかと言うのです。
中世の教会の慈善についての最も重要な批判は、道徳的な意味、すなわち、この動機に関することに対してよりも、その実践・結果に関するものでした。その理由は、中世を通して「施し」の内面的価値が重視されたために、施しを受ける者に対する効果そのものは、全く無視されたために、貧しい人々への救済に役立てられた多くの資源が、無差別の慈善のために浪費される結果になったと言う判断からです。そのために、中世の教会の慈善理論は、その結果においても無効であったばかりか、積極的に有害でさえあった救済制度を促進させたとさえ非難されています。
しかし、歴史家・学者は、「施与の理論に関する限りにおいては、中世の教会はそれに帰せられていたその過失から免れることは認めなければならない」。また、「第1に宗教的機関によって、また、宗教的影響のもとに、多くの無差別の施与があったという説明は、決して教会が無差別的施与の教義を教えたことを意味するものではないと言う点も明らかに理解しなければならない」と述べています。 
 
…キリスト教…
    社会福祉活動のあゆみ(11)
  キリスト教公認後の貧しい人々への救済(4)
   中世教会の貧困問題の対策の基本原則(2)
 
 中世社会では、人はなぜ慈善を行わなければならないかを、聖書に根拠を求めました。この聖書に書かれているキリスト教の行為を吟味してみると、中世キリスト教信仰では、明らかに利他主義ではなく表現は十分ではありませんが、信仰に立つ利己主義の要素があります。この利己主義は名誉や地位を満たす自己中心主義ではありません。
 熱心に寄付したりするように推奨されるのは、その行為が神を喜ばすことであり、天国の報いを受けるに値することであるとの保証を持っていたからです。中世において、慈善の目的のために基金を募る場合に、「天に宝を積むために」という信仰的利己主義の要素が、明らかに基金募金の理由として強調されたのです。
 しかし、ここに中世の慈善に対する全ての批判の中心点があり、また、道徳的根拠からも、中世の救済行為には真の利他心が欠けていたといわれるところです。その原点が、コンスタンチヌス皇帝時代の「司祭・修道院への義務免除の特典」にありました。このことに付いては、改めて「修道院の歩みを考える」ところで、ご紹介したいと思います。
 S・クゥイーンも、その著書「西洋社会事業史」で、この点を指摘して、「この教義は疑いもなく自己犠牲及び救助の精神を刺激する手段としては有効・適切なものであったが、本質的には、商業的事業にまで堕落したように見えることがしばしばである。また一方には職業的施与者があった。彼らも元来、施しは被施与者に対して多くの効果があるとは考えなかったが、彼らは主として自己の魂の救済に高徳があるものと考えられていたように思われる」と述べています。71648ecb.jpg
 これに対する当時のカトリック教会の弁明は、聖書の意味する寄付・施しは、正義の行為であり、それはまた愛の行為であって、感傷的な衝動の行為とは理解されていないと言うのです。人間の義務は神を愛し、また神がそれを求めているので、その隣人を愛することでもある。隣人を愛するとは、どういうことであるのか。それは、その人のために祈り、その人の救霊のために尽くし、霊的、物的に助け合うことである。物的に助け合うということは、貧しい人を助け、病人を見舞い、孤児や老人を保護し、社会福祉施設に協力し、社会の繁栄と平和に寄与するように努めることである。隣人は、特に貧民は、時として個人的に好ましくない者、あるいは嫌いな者であるかもしれない。それにもかかわらず、キリストのために尊敬され、困窮の際には、援助されなければならないのである。聖書には、すべての人を愛さなければならないと次のように命じられている。
「あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人のも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあるだろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟だけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:43~48)。  
ここに慈善は義務であり、命令であると説かれていると主張しています。
アッシュレーも、中世の慈善は中世の人々にとって守るべき義務であったことを認めて、「もしも一人の人が彼の必要である以上に所有していたなら、彼はその余剰を貧乏人に与える義務があった。なぜなら自然法によれば、彼はそれに対して何ら私的権利を持たず、ただ神の管理人にすぎなかったからである。そしてキリスト教の教師にとって、かくのごとき法制は最早単なる哲学的推論ではなかった。実際的戒律というはなはだ重要なものとなってきて、守るべき義務及び次の世界において罰を課せれられるべき罪悪と指摘している」とする中世の聖書理解とキリスト教信仰に立つものであったとしています。
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    社会福祉活動のあゆみ(10
  キリスト教公認後の貧しい人々への救済(3)
   中世教会の貧困問題の対策の基本原則(1)
 
 初代教会、信徒はお互いに支え合う(一般には原始共産制と呼ばれている)生活をしていたことは、既に考えてきました。それは、後々まで生かされて、教父たちの中には、力強い言葉で、慈善は正義の行為であって、慈悲の行為ではないと宣言する人たちもいました。
 聖アンブロシウスは、富者の施しは、厳密に正義の点から見て、貧しい人に返すべきものであると「あなたが貧しい人に施しをしているのは、あなた自身の所有物を施しているのではありません。貧しい人が権利として所有しているものを、貧しい人に戻しているに過ぎません。なぜなら、万人が使うために一人一人に与えられてものを、あなたは自分だけで使うために取ってしまったのです。…。このようにあなたは、気前よく与えているのではなく、あなたの借金を支払っているに過ぎないのです」(沈黙への旅)と書いています。
 キリスト教徒は、自分の利益の10分の1は、貧しい人々に施すべきであるとも主張されていました。中世の人々の貧困に対しする態度は、自発的な貧困・困窮それ自体は善である禁欲主義の一形態で、神に受け入れられる状態であるという教会の教義によって影響を受けていました。しかし、時として、貧困一般についての中世の態度に及ぼしたこういう教義の影響を誇る傾向がありました。けれども、実際には、中世の人々は神聖な貧困と卑しい非自発的な欠乏とを区別して、後者が高い道徳的価値を生むものではないと思っていました。
 何時の時代でも同じですが、中世の神学者たちは、非自発的な貧困の状態は、盗みや偽誓への強い誘惑を起こさせるものであると指摘しています。また、貧しい人々を3つの範疇に分けて考えられました。
 第1には、貧しく生まれ、しかも神の愛のために、その貧困に喜んで耐えている者。
 第2は、キリストに倣うために、全所有物をなげうって貧しい人々の仲間に加わっている者。この2種の貧困は、自発的貧困と呼ばれていました。
 第3の貧困は、飽くなき貪欲に満ちた者たちで、この種の貧困は必然的あるいは非自発的貧困と呼ばれていました。
 中世には、現代社会のように法律や制度によって、人が困窮に陥ることを阻止するような考えはありませんでした。むしろ、貧困そのものに貧困阻止の力があるとする信仰に立っていました。それは、貧困は、悪徳であって、法的に処遇するものとは考えなかったのです。
 この点では、中世教会法の基本的な考え方とイギリス救済法との間には、明らかに相違がありました。例えば1909年の「イギリス救貧法および失業に関する王立委員会」の多数派報告書に窮乏の全ての事例は、市民的性格の欠如を前提にしています。
 このような考え方の風土に立つ限り、貧困の状態は社会的な汚辱であるばかりでなく、明確な法的無能力を意味することは当然で、それにも関わらずイギリス貧困法における作業場テストや劣等処遇の考え方は、中世社会には存在しなかったことです。
 
 
…キリスト教…
    社会福祉活動のあゆみ(9)
  キリスト教公認後の貧しい人々への救済(2)
 
 教会の公認と社会福祉施設(2)
 
コンスタンティヌス皇帝のキリスト教への改宗については、いろいろ考えられますが、彼の生母ヘレン(250~330)は熱心なカトリックであったし、父クロルス(250~306)もキリスト教徒に対して終始寛容政策を採っていましたから、そうした環境から、彼の改宗は何時の間にかキリスト教徒になっていたと理解する方が事実に近いと思われます。
コンスタンティヌス皇帝の治世になって、キリスト教への迫害は中止され、教会は公然と自由に慈善事業を行うことが出来るようになりました。皇帝は、325年にニケア公会議を招集して、三位一体の問題に関してエジプトで起こっていた面倒な議論に究極的決断案が下されるようにした。この公会議は、「寛容な皇帝の招請に応じて集まった出席者は、司祭だけでも318人、さらにあらゆる階級、あらゆる教派にわたる聖職者までを合わせると2048人に達した」と言う文献がありますような大規模なものでした。8a6bdd5b.jpg
そして約2ヶ月間にわたる会議が続けられ、公会議の下す無謬の決定に対し、カトリック世界は異口同音に服従した、とギボン(1737~1794)の「ローマ帝国衰史」で語っています。コンスタンティヌス皇帝は全会議に出席したが、議事進行的な発言はしなかったと言う。このときの議論の中心は、キリストは本当の神性を持ち、まさに神自身と全く同質であるというアタナシウス(295~373)の説が5人を除いた全員の賛成を得て採択され、キリストは神とは似ているが神と同じではない、すなわち、その本性は神の本性とは異質のものであるというアリウス(?~336)の説が異端とされたことでした。そしてアリウスとその共鳴者は帝国からの追放が決定されたのです。
 
余り知られていないことですが、ニケア公会議では宗教・教理の事柄ばかりでなく、「各都市に、異国人、障害者、貧者のための家を建てよ。そこにクセノドキウムの名称を与える」との決議もされたと記されています。それにしたがったクセノドキウムは、聖書の「旅をしていたときに宿をかし…」(マタイ25:35)の言葉に従って設けられて旅人や異国人にための宿屋でしたが、信徒の増加に伴い、また時代の要求に応じて、単に宿屋としての役割を果たすだけでなく、救済の必要があるあらゆる種類の人々、すなわち、孤児、寡婦、老人、病人、そして貧しい人々を収容・保護する施設になったのです。
「この施設は普通いずれかの教会に、或いは後に至って修道院に所属しており、主要な交通路に位置していた」のです。後の救済院(Almshouse)の前身です。この混合収容保護施設から遺棄児童を収容する施設を分離したのを、ブレフォトロフィウと言っていました。これは未婚の母親などによって、その恥を隠すために遺棄された新生児を収容して養育する今日の育児院に当るものでした。また、乳児期を過ぎて乳を失った児童を収容して養育するオルファノトロフィウムも設立されました。これはブレフォトロフィウムを補足する施設でもあったのです。中世期を通じて、また、その後16世紀に至るまで、欧中米の児童の施設擁護は、全てカトリック教会と修道院によって行われていたと言っても過言ではありません。
老人ホームもローマ帝国の全土に設立されました。これはゲロントコニウムと呼ばれました。これもクセノドキウムから分化したもので、この分化は、比較的裕福で平和がかなり長く続いた東ヨーロッパで早く行われ、内乱外患であった西ヨーロッパでは遅れています。このクセノドキウムからやはり分離、独立したのが、病人のための施設のノソコミウムもコンスタンティヌス大帝の時に既に設けられていました。
助祭と女執事、そして敬虔な婦人たちが献身的に病人やその居宅を訪問し、奉仕することは教会の設立当初から行われていた活動でしたが、病人を一軒の家に集めて看護する施設が現れたのはこのノソコミウムをもって最初とされています。
4世紀にローマの一婦人ファビオラ(?~400)は、償いの行為として最初の一般病院をローマに設立しました。この婦人の手によって着手された慈善は、世界に広められていき、放置と遺棄という最悪の苦痛が緩和されることになったのです。もう一つの病院が、その後まもなく聖パムアシチウスによって建てられ、有名なもう一つの病院が、カイザリアで聖バシリウス(331~379)によって建てられました。彼はおそらく最初のハンセン病患者のための療養所を同じくカイザリアで設立しています。
 
 
…キリスト教…
    社会福祉活動のあゆみ(8)
  キリスト教公認後の貧しい人々への救済(1)
 
 教会の公認と社会福祉施設
 社会福祉の救済活動の形態の1つに「施設」「収容」があります。この原形がこの時代から誕生していたのでした。それが、今日までに至っています。しかし、将来の福祉のあり方は、「ノーマリゼーション」へと大きな転換期を迎えたと言えます。その流れは、ここ20余年前に広まった考え方です。その前段としてこれから数回、中世の社会福祉をリポートさせていただきます。

 西暦306年、ローマ帝国の副帝に任ぜられ、競争相手を順次破って、324年、帝国の単独支配者になったコンスタンチィヌス(273から337)は、死の直前にエウセビウス(263~339)から洗礼を受けキリスト教徒になりました。皇帝はイタリア征服後5ヶ月してから313年6月のミラノ勅令で、信教の自由を認めました。
コンスタンチィヌス、リキニウス両皇帝の共同声明の形で布告された勅令は以下のようになっています。
「…。われわれはキリスト教徒に対してもあらゆる宗旨の者に対しても、各人が望む宗教に自由を与える。…。すなわち、キリスト教の儀式・礼拝にせよ、あるいは各人が最適と感じている礼拝にせよ、それに帰依した如何なる人々に対してもその許可をこばむものではない。…。」15fb443c.jpg
この内容から明らかなようにカトリック教会が公認されたのです。しかし、キリスト教がローマ帝国の唯一の国教とされたのは、テオドシウス(346~395)の392年でした。コンスタンティヌス皇帝がキリスト教に改宗したその理由については、多くの見解がありました。ある人々は、それは政策的見地からで、キリスト教徒の支持を得る目的であったとし、キリスト教徒の力によって衰微しつつあったローマ帝国の機構を強化しようする政治家的な功利的やり方と言う見解です。しかし、この見解はどうも本当とは思えません。その当時のキリスト教徒はいまだ特に西方では少数派であったし、当時、教会は弱体であって、アタナシウス派とかアリウス派とかに分裂し、抗争していたからです。
コンスタンティヌス皇帝の改宗の動機は、彼の夥しい宗教に関する書簡や布告から最もよく知ることができ、それらの資料によると、「西暦313年から、彼は自分を外敵に対して勝利を与え、最高主権者になるように神が選んで下さった神の奉公人であるとみなしていたようである。そして自分が、その保護を託されている帝国と自らの繁栄は、もしその神への礼拝が適切に行われたならば、増大させられるであろうし、もしそれを怠るならば、神の怒りを招いて、危険になるだろうと信じていたのである」と言われています。
こうした信念は、彼のその後の行動でいろいろ示されています。教会に多額の寄付を惜しみなくするとか、司祭に国家的義務、すなわち経済的義務や軍役の義務免除の特典を与えるとかをしています。彼の制定した法律にもキリスト教の影響が認められます。教会への遺贈を法律で認めるとか、教会で行われている農奴や奴隷の解放に、全面的な効果を与えるとかでした。また、日曜日を教会の慣行に従って、公の休日としました。
コンスタンティヌス皇帝のキリスト教への改宗については、いろいろ考えられますが、彼の生母ヘレン(250~330)は熱心なカトリックであったし、父クロルス(250~306)もキリスト教徒に対して終始寛容政策を採っていましたから、そうした環境から、彼の改宗は何時の間にかキリスト教徒になっていたと理解する方が事実に近いと思われます。

コンスタンティヌス皇帝の治世になって、キリスト教への迫害は中止され、教会は公然と自由に慈善事業を行うことが出来るようになりました。皇帝は、325年にニケア公会議を招集して、三位一体の問題に関してエジプトで起こっていた面倒な議論に究極的決断案が下されるようにしたこの公会議は、「寛容な皇帝の招請に応じて集まった出席者は、司祭だけでも318人、さらにあらゆる階級、あらゆる教派にわたる聖職者までを合わせると2048人に達した」と言う文献がありますような大規模なものでした。

そして約2ヶ月間にわたる会議が続けられ、公会議の下す無謬の決定に対し、カトリック世界は異口同音に服従した、とギボン(1737~1794)の「ローマ帝国衰史」で語っています。コンスタンティヌス皇帝は全会議に出席したが、議事進行的な発言はしなかったと言う。この時の議論の中心は、キリストは本当の神性を持ち、まさに神自身と全く同質であるというアタナシウス(295~373)の説が5人を除いた全員の賛成を得て採択され、キリストは神とは似ているが神と同じではない、すなわち、その本性は神の本性とは異質のものであるというアリウス(?~336)の説が異端とされたことでした。そしてアリウスとその共鳴者は帝国からの追放が決定されたのです。
 
余り知られていないことですが、ニケア公会議では宗教・教理の事柄ばかりでなく、「各都市に、異国人、障害者、貧者のための家を建てよ。そこにクセノドキウムの名称を与える」との決議もされたと記されています。それにしたがったクセノドキウムは、聖書の「旅をしていたときに宿をかし…」(マタイ25:35)の言葉に従って設けられて旅人や異国人にための宿屋でしたが、信徒の増加に伴い、また時代の要求に応じて、単に宿屋としての役割を果たすだけでなく、救済の必要があるあらゆる種類の人々、すなわち、孤児、寡婦、老人、病人、そして貧しい人々を収容・保護する施設になったのです。
「この施設は普通いずれかの教会に、或いは後に至って修道院に所属しており、主要な交通路に位置していた」のです。後の救済院(Almshouse)の前身です。この混合収容保護施設から遺棄児童を収容する施設を分離したのを、ブレフォトロフィウム(Brephotrphium)と言っていました。これは未婚の母親などによって、その恥を隠すために遺棄された新生児を収容して養育する今日の育児院に当るものでした。また、乳児期を過ぎて乳を失った児童を収容して養育するオルファノトロフィウム(Orphanotrophium)も設立されました。
これはブレフォトロフィウムを補足する施設でもあったのです。中世期を通じて、また、その後16世紀に至るまで、欧中米の児童の施設擁護は、全てカトリック教会と修道院によって行われていたと言っても過言ではありません。
 
…キリスト教…
    社会福祉活動のあゆみ(7)
  初代教会の貧しい人々への救済活動(3)
 
 助祭職(執事職)の制定の事情とその役割(2)
 
 助祭職の制定の事情については、使徒言行録が物語っています。
 「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の配分のことで仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、12人は弟子をすべて呼び集めていった。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの仲から、霊と知恵に満ちた評判の良い7人を選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」。一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステパノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンテイオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」。(使徒言行録6:1~6)
 このエルサレムで始められた助祭の任命の慣行は、当時の、全ての教会に普及していったのです。ここで言う使徒時代の助祭には、女も任命されていて、教会の奉仕者と呼ばれていました。パウロのローマの信徒への手紙16章1~2節には「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フィベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です」と記されています。
 また、テモテへの手紙1 3章11節でも「婦人の奉仕者たちも同じように品位ある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません」と述べています。
 時には寡婦が、教会の奉仕者に採用された例も見られます。教会は病人と身体障害者に心を配り、この世話を助祭に任せたのですが、病人や身体障害者が女性の場合は、寡婦が訪問したのです。そのうちに、やがて寡婦の階級は女性執事の階級に、その地位を譲るようになります。それでは、助祭の任務や組織はどうなっていたのでしょうか。各助祭には、それぞれ担当地区が定められていて、その地区内の貧しい人々の救済に当っていました。「最初の世紀における助祭の第一の任務は、その名(Diaconus)が示すように、福音伝道でも典礼もなく、社会的活動でした。愛の奉仕の教役者でした。司教は助祭を教団の大きさと必要に釣り合った数だけ選んだ」ことが知られています(A.アマン「初代キリスト教徒の日常生活」)。
 68b57f45.jpg例えば、236年に教皇の位に就いたファビアヌス(236~250年在位)は、ローマ市の当時の14区に助祭を配置し、最初の助祭が7人であったことを記念して、2区を1教区として1教区に1人、即ち7人の主任助祭を任命しました。助祭の第一の任務は、教区内のまずしいひとを探すことでした。そしてその人々を訪問し、それからその人々の必要とするものを提供することでした。助祭はマトリクラ(Matricula)と称する会員名簿を備えて、貧しい人の名前を記入し、また各人に配分された品物も、この名簿に記入していました。したがって、この名簿は会計簿の役目も果たし、この名簿によって無駄な援助を防止し、怠惰な者は受付けないことにしていました。また、新たに加わった貧しい人には、必ず紹介状を要求しました。3世紀にわたる教会の迫害時代には、この身元を明らかにするということは、必要やむをえない処置であったようです。
 時の政治権力者や政府当局のスパイ制度の結果、見知らぬ者をむやみに受け入れることは、教会の破滅をもたらす危険なことであったからである、と歴史家は説明しています。この助祭職は、イギリスの16世紀、アメリカの植民地時代の貧民監督官の制度、日本の戦前の方面委員制度から戦後の民生委員制度となった制度の萌芽として認めることができるでしょう。また、ソーシャル・ケースワークで、今日、重要視される「記録」ということもマトリクラですでに実施されていたことも分かります。
 
 
…キリスト教…
    社会福祉活動のあゆみ(6)        
  初代教会の貧しい人々への救済活動(2)          
 
 助祭職(執事職)の制定の事情とその役割
 
 教会史という学問がありますが、プロテスタント教会に属する人にとって、カトリック教会の歴史はプロテスタント教会を学ぶ機会ほど多くありません。今月号からカトリック教会の歴史の流れに沿って進展して行く福祉活動を皆様と共に見て行きたいと思います。したがって、職責・用語もカトリック教会の呼称を用いさせていただきますのでご了解下さい。0037b56b.jpg 
 初代教会では、その当初は信者の数は比較的少なく、彼らは一方では新たに発見された信仰に対する熱心により、また他方、外部からの迫害によって、団結させられて行きました。初代教会の信者の生活は、大家族的な性格をおびていて、使徒言行録2章によれば、一緒に食事をしていた習慣が記されています。
 事の起こりは宗教的な行事でありまして、毎日一緒に集まることによって、共同体の結合をますます強固にしていったのでした。初代教会の信者を一つの共同体として結び付けていたもう一つの絆は、財産の共有であったとも言えます。
 「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだという者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」(使徒言行録4:32~35)。
 しかし、アナニアとサフィラの事件(使徒言行録5:1~11)は、使徒たちは聖霊によって召された者たちであるから、彼らを欺くことは、神を欺くことであり、その罪は重いということを教えています。また、初代教会のこの共産(共有)制度は、強制的なものではなく、教会の発展につれて、信者の数が増加し、言語を異にする数多くの民族を抱え込むようになりました。同時に、不当に共同体に寄り掛かる者も現れてきて、共同体の運営は困難になり、結局、長続きしなかったのでした。
 財産の共有には、各自は自分の生活費は自分で働いて得るべきであるということ、また、自分の能力に応じて共同体の維持に貢献すべきであるという基本的な理念がありました。使徒パウロは、テサロニケの信徒に「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところ
によると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれたものとして命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(テサロニケの信徒への手紙2 3:10~12)と忠告しています。
 教会の創立当初は、使徒たちが直接生活に困っている信徒の世話もしていましたが、しかし、信徒の数が増加して、使徒たちだけでは手が回らなくなったということもあって、また、パウロが指摘しているように、不心得者も出てきて教会も組織的に貧しい人々の救済に当らなければならないと考えるようになりました。その現われが、その後の助祭職(執事職)の制度であります。
 
 
 
 
 
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書籍紹介
    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
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定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
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