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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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…キリスト教…
    社会福祉活動のあゆみ(5)
  初代教会の貧しい人々への救済活動(1)

 その動機
 今回は、「新約聖書と初代教会の歩みの先駆け」を考えて見たいと思います。新約は旧約の成就であって、その破壊ではありません。キリスト教はユダヤ教の伝統の下に築かれています。事実、イエスの教えの中に、十戒はもとより、すべて旧約の律法に矛盾するものは何一つ見当たりません。
 イエスは、次のように教えています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。(マタイ5:17~18)
 しかし、貧しい人々への救済については、モーセの律法にある「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたがたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15:11)とは、貧しいユダヤ人に対してであるのか、全ての隣人に対してであるのか、その解釈にはいろいろであったと思います。それは、ユダヤ人の生活態度を見れば、ユダヤ民族相互についての掟であるかのように思われるからです。48085d19.gif キリスト教はユダヤ教の民族主義的な狭量さと律法の排他的独占から解放され、特定の土地、民族、国家との繋がりはなくなりました。地域、民族、国家機構から解放され、四方にその光を射し伸べているのです。キリストが「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:38)と言う時、その隣人とは、キリスト信者であろうとなかろうと全ての人でした。使徒パウロは言っています。
 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれた神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこにはもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者はなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。(ガラテヤ3:26~29)
 キリスト教の教理では、神は私たちの父であり、人間は男も女も、子供も、老人も、障害者も、病人も、僕も、奴隷も、罪人も、悪人も神の子であり、私たちの兄弟であると教えています。父なる神は愛の神であって、「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせくださるからである」(マタイ5:45)。キリストに従う者は、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)とのキリストの新しい掟に従い、不幸な者、弱い者、貧しい者、正しくない者、敵をも愛さなければならないのでした。
 愛し合うとはどういうことでしょうか。神を愛するとか、人を愛するとは、具体的にはどういうことなのでしょうか。聖書には、「世の富みを持ちながら、兄弟が必要なものに事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(Ⅰヨハネ3:17から18)と教えていますように、愛は行動をもって示すものです。神を愛するとは、神の掟を守ることであり、人を愛するとは、その人のために何かをすることなのです。
 最後の審判の時には、「そこで、王は答える 。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことなのである』。」(マタイ25:40)の言葉どおり、不幸な兄弟に対して、私たちが不幸な兄弟の姿を借りた現われたキリストに何をしたかを問うています。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが乾いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイ25:35~36)かどうかなのです。
 一般的に言われることですが、キリスト教は来世の霊魂の救済に重きを置くと言われますが、それは、キリスト教にとって、この世はどうでもよいということにはなりません。そうでないことは、キリスト教の歴史が証明しているところです。この世の不幸を出来る限り軽減させて、地上に神の国を実現しようと努力しているのが、キリスト教の真の姿です。これは初代教会から今に至るまで、代わることのない事実です。
 結果的には背教者になったのですが、ユリアヌスが洗礼を受けたのは、司教たちの説教に啓発されてではなかったと言われています。
 「彼が洗礼に踏み切ったのは、もっと別の人々、ぼろをまとい、裸足で町々を歩きまわって喜捨を集める人々、教会の前に集まる貧民や病者に対して、温かい汁を作り、パンを分けてやる修道僧たちの姿を、日々、アルガラやカイサリアで眺めていたからである。それは、ただ暗い室内で香をたいて呪術にふけるバビロニアの異神信仰にも、厚い一枚岩の下で牛の血を浴びて身を清めるミトラ教にも、星空をいただいて踊り狂う酒神信仰にも、澄明な蒼ざめた空気の中に鋭く球体が音を立てる教理を奉じる宗派にも、いや、ギリシャ、ローマ古来の太陽神の信仰にも、求めることの出来ない、熱っぽい、献身的な、疲れを知らぬ奉仕であり、街頭での活動だった。ユリアヌスは諸国から集まる穀物や羊毛や宝石の商売で賑わう町の通りを歩くたびに、同じ街に、これほど貧しい人々が放り出されているのに驚くのだった。「こんなに多くの貧民や病者がいるのに、キリスト教会以外には、誰一人として、見向きもしない」。ユリアヌスは修道僧たちの手からパンを与えられる盲人や足なえや、三日も食べていない老人たちが、泣き、笑い、叫ぶのを見ながら、そうつぶやいた」(辻 邦生著「背教者ユリアヌス」中央公論)。
 こうした現世の福祉にも、キリスト教が深い関心を寄せる例証として、洗礼者ヨハネの弟子に答えたキリストの言葉を挙げて解説する人もおります。ヨハネは獄中にあって、キリストが真のメシヤであるかどうかを知るために、二人の弟子を遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。イエスはお答えになりました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人が見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイ11:3~5)。
 キリストの語られたものは6つですが、その中の最後の1つだけが、純粋に精神的な問題に関係した言葉であって、その最後の「貧しい人は福音を告げ知らされている」の言葉も、全ての人に述べられるべき福音の真理を、この世の貧しい人に伝えることを怠ることはよくないということは知っているはずの人々に対する非難であったと理解することも出来ます。そして、キリストのあげた他の5つは、全て人間の身体上の苦悩に関したことです。
 イギリスの歴史家レッキー(1838-1903)は、その名著「ヨーロッパ道徳史」で以下のように記していますのでご紹介いたします。
 「最も卑俗の姿における奴隷、剣闘士、野蛮人または幼児における人間の生命と人間の価値に対する、最新周到なこのような保護は、異教の天才たちには、全く未知の事柄であった。それは個々の不滅の霊魂の無限の価値についてのキリスト教の教義によって生まれたものである。これはキリスト教の精神の伝わった全ての社会に著しく目立った、そして優れた特色であった。」異教の天才たちとは、プラトンやアリストテレスのことで、彼らは生まれた子供のうち、丈夫な子供だけ育てたらいいと言ったり、老齢で治る見込みのない人は、治療する必要はないと言ったりしていたからである。
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…キリスト教…
    社会福祉活動のあゆみ(4)
  旧約時代の貧しい人々の救済
 
  貧しい人々の救済
 この回から暫く聖書の箇所から今日で言う「社会福祉」の考え方をご紹介いたします。以下の聖書の箇所は、その一つの例に過ぎませんので、皆様ご自身でも「社会福祉」の考え方に関係のある聖書の箇所を探して下さい。それから、どうか聖句の前後も合わせてお読みいただきたいと思います。
 
 旧約時代における貧しい人々の救済と言えば、それはイスラエル王国からユダヤ王国までと考えることも出来ます。ユダヤ人には、その歴史の極く初期の時代から、貧しい人々、病人、やもめ、孤児、異国人に対する関心と支援は、当時の人々の社会生活や個人生活の一部でした。旧約聖書には、困っている他の人々に対して、支援の手を差し伸べるように期待される領域とその方法、その理由、そして目的が具体的に示されています。貧しい人々への救済に関する規定は、モーセ5書の中に示されていると言えます。そこには、大切なことですが、社会的弱者、貧困者の救済はイスラエル人の義務であるという根本的信仰理念がみられます。義務と定められたことから当然の結果として、社会的弱者や貧困者は救済される権利があると考えられます。これらの規定は、神によって定められたものですから、これに応答・実践する人は、神と真理を実践する人だと信じられていました。
では、その規定とはどのようなものであるかを聖書のみ言葉から見たいと思います。e72062c8.jpg
1 あなたの神、主は、あなたに嗣業として与えた土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はい 
    なくなるが、…。今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい。(申命記15:5~6)
2 あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対  して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。(申命記15:7~8)
3 彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。(申命記15:10~12)
 貧しい人々への救済は、神を喜ばす大切な一つの方法であることが分かります。当時は、現代のように、貧しい人々への救済が制度として確立していたわけではありません。あくまでも、個人的に実行されていたのです。実行しない個人がいても、問題にされなかったかも知れません。しかし、モーセの律法で、これだけは皆が実行しなければならないという最低限度の規定が、次のようになされました。
1 あなたは6年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、7年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。(出エジプト23:10~11)
2 3年目ごとに、その年の収穫の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたの行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう。(申命記14:28~29)
3 7年目ごとに負債を免除しなさい。負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない。(申命記15:1~3)
4 畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。(申命記24:19~22)
5 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ記19:9~10)
6 寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。(申命記24:17)
 
 このように貧しい寡婦と孤児、そして異邦人に対して、特に関心を払ったようです。異国人というのは、他国からイスラエルに入って来た亡命者のことです。ユダヤ民族の間での貧しい人々への救済に関するいろいろの掟をみますと、土地は神の所有であって、人間は僕、用益権の所有者に過ぎないというのが明白な原則です。ですから、神から命じられたら、その土地の収穫物を割いて、貧しい人々に与えるのはごく当然だという根本理念がありました。
 エゼキエル書47章21~23節には、次のような言葉がありますので、ご紹介しましょう。
 「あなたたちは、この土地を自分たちイスラエルの各部族に分けねばならない。この土地を、あなたたち自身とあなたたちの間に滞在し、あなたたちの間で子をもうけるにいたった外国人に、くじで嗣業として割り当てねばならない。彼らをイスラエルの子らの中で同じ資格のある者として扱わねばならない。あなたたちと共に彼らも嗣業をくじでイスラエの部族の間に割り当てねばならない。外国人には、その滞在している部族の中で嗣業を与えねばならない」と主なる神は言われます。
 
 今日でも、ユダヤ人の教育は幼児から「貧しい人がいたら何かをしてあげよ」という教訓を心に刻むことにあると言われています。ユダヤ人の慈善事業運動がなぜ成功するのでしょうか。その理由は、貧しい人への思いやり、ユダヤ人の存続のための富める者の義務であるという思想・信仰があるからと言えましょう。しかし、他にも理由があります。それは共同体の力、即ち、慈善行為によって、献金することによって、ユダヤ人共同体で一人前の資格が認められることになっているのです。寄付が共同体入会金でもありました。しかし、このように複雑な理由・動機があったとしても、社会的風潮の根源を遡れば、やはりモーセの律法に由来していることは明白です。
 「社会事業の諸根源」と言う書物の中で次のように言っています。
 「一般にユダヤ人は富が重要視されて、物質主義者とみなされた面がある。だからと言ってユダヤ人の富める人々は、彼らの伝統的な価値である貧民救済を忘れてはいない。ユダヤ人にとっての富の蓄積は、富そのもののため、或いは私的な現世的享楽が優先したのではなかった。富には義務が伴っていた。その義務を引き継ぎユダヤ人の間で、果たされているということは、現在、全世界におけるユダヤ人の救済のためにまた、イスラエル建国のために莫大な献金がなされていることによって十分証明される」。
 
0037b56b.jpg…キリスト教…
    社会福祉活動のあゆみ(3)
 
 社会福祉の基本的な考え方の重要性
 
 不似合いな言葉ですが、社会福祉の根底に「雅」を求めてみました。日本の未来の社会福祉の中に、この「雅」は大切だと思っています。
 さて、1つの行動・活動にはいろいろの理由、思想があります。社会福祉の実践の動機についても同様で、それを考えてみたいと思います。特にキリスト教の社会福祉実践の動機は、どこにあるのでしょうか。また、社会問題の性質が異なれば、問題解決の方法も異なるのは当然です。この相違は問題処理に当たる動機、福祉実践の動機になるといえます。この動機を形成する思想や時代精神、また個人の価値観等を、難しく言えば『社会福祉の基本的理念』と言うこともできます。
 日本の社会福祉に関する報告に、以下のような指摘がありましたので参考として紹介いたします。
 「19世紀の後半、近代国家としての日本の出現と共に、社会保障の面を包含して数多くの西洋の制度が、急激に取り入れられたのである。特に社会保障の面についての受け入れの事実は、外国の法文をただ翻訳して出来上がっただけのこの国の法律に、きわめて良く反映している。しかもその法律は基本的理念の理解なしに、いきなり採用されたものなのである」(1948年・アメリカ・社会保険制度への勧告)。
 また、次のような発表もありました。「日本の社会事業を明治以来ずっと考えますと、皇室は仁慈の御精神で社会事業の御奨励に一貫しておられる。それから民間の社会事業家は人道主義に基づいて、いわゆる、志士仁人に堕していた傾向が多い。何かそういうことをしなければ社会が治まらない、という目的主義というか、こういう考えから来ております」。
 
 このように、日本政府の社会事業実践の基本は、明治以来、功利主義、今日の経済第一主義であったように思えます。明治政府としては貧しさの救済よりも貧しさを防ぐことを先決問題と考え、そのために、生活維持も出来ない人々に、貯蓄を奨励したりしていたのです。これは、今日でも日本人の節約感覚以上に生活防衛行動として生きております。
 貧しい人々の救済の国家責任とか、救済を受ける人々の権利とかは、第二次世界大戦以降のことになりました。日本国憲法第25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とありますが、この精神が、日本人一般の人々の意識の中に生かされていくためには長い時間と啓蒙が求められます。
 
 新約聖書のガラテヤ人への手紙の中に「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。…」(2:16~17)とありますが、ある学者は、その著書「社会福祉と社会変化」の中で次のように述べています。
 「ソーシャル・ワーカーは、人間に対する確固たる尊敬の念を持つべきこと、しかもそれは、相手が単に尊敬に値するからではない。社会事業の対象者の多くは尊敬に値するとばかりいえない場合、彼らが人間であるという、まさにそのことの故に、尊敬しなければならないということである。ソーシャル・ワークの精神の基本は、最終的にはこのこと、すなわち人間の尊厳と価値を認めることに尽きるのである。次にそれは、倫理観による。人は神の創造による人間であるという宗教的認識・信念によるものであるということに基礎を置くものである。ソーシャル・ワークの精神はユダヤーキリスト教徒の精神的土壌に深く根差している」。
 この様に、各人の価値観からこの仕事に従事していると思う時、健全な正しい理解は当然必要であり、持つべきであります。また、社会福祉従事者には、一人一人の動機があると思いますが、その人の考え方(思想・宗教)に深い係わりが出てきます。例えば、仏教について言えば、慈悲であり、キリスト教にあっては、隣人愛といえるでしょう。その意味するところは異なっているとしても、それらは実践によって示されなければ口先、言葉だけになるでしょう。
 この実践は、宗教を信じている人には義務ではないのです。体制や制度や法律からではなく、見捨てられて誰からも顧みられない子供たちがそこにいるから児童養護施設を建て、保護を必要とする老人がいるから老人ホーム施設を建て、病気の人がいるから病院を建てるのです。その意味で、社会福祉の歴史は、宗教に基ずく動機は最も大きいと言えます。
 キリストに従う者にとっては、愛の行為は喜びと感謝の証として守り実践されなければならいことであり、その愛の勧めはその歴史の中で変わらないものです。しかし、実践の方法、また手段は時代によって、国の経済力、意識・教育によって同じでないことは当然と言えます。
 
…キリスト教…
      社会福祉活動のあゆみ(2)
 
 社会福祉とは
   社会福祉の基本的な考え方
 
 「同情」という言葉があります。広辞苑には、「他人の感情、特に苦悩、不幸などをその身になって共に感じること」とありました。そこには、欠けてはいけない言葉あります。それは、尊敬・優しさでしょう。キリスト者の方ならそこからいろいろの聖句を連想なさることでしょう。
昨今、私たちの生活の中に、一般的になった社会福祉の用語、内容について、具体的に説明を必要としないほど、理解されているようですが、社会福祉を多くの人が納得するように、概念規定をすることは、不可能といえましょう。それは、社会福祉には、法的な定義、行政的な定義、社会福祉研究者個々人による定義などがあることからも、推察できるところです。
 しかし、社会福祉とは何かとか、社会福祉の概念規定を徹底的にどこまでも明確にしなければ一歩も前進できないものであるかのように考えてはならないでしょう。社会福祉は、その前身は、宗教用語的な施与、慈善、博愛または救貧というような用語で呼ばれていた救助活動が、時代の要請や時代の思潮、または時の政府の施政方針によって、一つの社会制度として組織的な活動に発展してきたものです。
 また、20世紀になるまでは、一般に慈善事業と呼ばれていました。それが20世紀になって、第一次世界大戦後、社会事業と一般に呼ばれるようになったのです。ですから、社会福祉という用語が用いられるようになったのは、20世紀後半からであるともいえます。
 社会福祉小六法として一冊にまとめられているものを見たり、手にした方はお分かりですが、社会福祉といわれるものの中には、児童福祉、老人福祉、母子福祉、障害者福祉等の具体的な分野が含まれていますが、それらは年々適用範囲を広げて、国や地方公共団体または福祉法人、私人によって実施・実践されています。
 反面、何時の時代でも、何処の国でも同様ですが、貧しい人々や社会福祉の対象者となる不治の病人、障害児、精神障害者、差別されている人々、劣悪な民族とされたユダヤ人や少数民族等は生きる価値が無い者として見捨てられ、何百万人もの人々が殺された歴史がありました。この生きる価値が無い者として見捨てられ、殺されるような人々を、社会福祉の対象者として、どうして支援・保護するのでしょうか。それは、この世に生を受けた者は、人間である限り生きる権利があるということ、即ち、人間の生命の尊厳を無条件に認めるからです。
 社会福祉実践の動機となりますと、一元的ではありません。個人によって、また国によって、時代によっても一様ではないのです。しかし、社会福祉が実践されている活動の圧倒的に大きな部分は、個人的救助です。社会福祉の福祉とは、辞書では、幸福、福利、繁栄と説明されています。福利、繁栄を幸福と同義語と理解してもよいでしょう。幸福は、個人個人によって千差万別です。Aさんにとっての幸福は必ずしもBさんにとっても幸福とは限りません。
 もしも、こうした個人個人によってそれぞれ異なる個人的幸福を、社会が目標にすれば、そのような社会は解体するしかないでしょう。また社会が社会の構成員と幸福とが結び付かない、個人の尊厳を重視しないで、社会全体の幸福を目標にしたならば、全体主義あるいは独裁主義の社会になるでしょう。このように、社会や個人が社会福祉に対する目的・理想は、単なる幸福ではなく、人々が幸福であるために不可欠の基本的必要物である、と理解することは大切です。
 ニコラス・レッシャーと言う学者はその著書「福祉―社会問題の哲学的展望」の中で、この福祉を次のように紹介しています。
『福祉は人間の安寧(well-being)の基本的条件と関係があり、人間の安寧は多くの次元を持ったものであるので、人間の福祉の構成要素は複数である。それらの構成要素の中で、最も顕著なものは、身体的福祉(健康)、物理的福祉(経済)、精神的あるいは心理的福祉(精神的あるいは知能的健康の状態)である。身体的健康、物理的資源及び精神的あるいは心理的安寧は福祉の基本的要素である』。
では、レッシャーの指摘している主要な三つの福祉を妨害するものは何でしょうか。身体的福祉(健康)を損なうものは病気であり、物理的福祉(経済)を損なうものは貧困であり、精神的あるいは心理的福祉(精神的あるいは知能的健康の状態)を損なうもの、そして、その人の持って生まれた性格的なものもあるかもしれませんが、社会的要因がもたらす非行あるいは犯罪であると言える場合もあるのではないでしょうか。
申命記15:11には「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」とあります。
この聖書のみ言葉が示すように国家・社会・地域に、生活に苦しむ人に対してなす行為が、神の愛に押し出されて、謙虚に手を大きく広げることがキリスト教社会福祉の原点でありましょう。それでは、なぜ手を大きく広げるのでしょうか。それは、まず、神が私たちを愛してくださったことにあります。そして、それが、神の命令(文化命令・役割)であるということが、旧新約聖書を通しての基本思想(信仰)だからなのです。
 この、「…キリスト教…社会福祉活動のあゆみ」は2000年4月号から連載を始めたものですが、以前から、本にまとめるか再掲載してほしいという要望がありましたので、「つのぶえジャーナル」一号から再掲載いたします。
 
…キリスト教…
      社会福祉活動のあゆみ(1)
 
 はじめに
 つい最近まで日本人の倫理観の中に「人様に迷惑をかけない」生き方がありました。それが、犯罪抑止になったり、隣り近所の「和」の基本であったりしました。同時に、貧しくても「人様に迷惑をかけない」ために努力し、お世話になることを「恥」と思っていた社会に「社会福祉」という思想も言葉も育ちにくいものがありました。
 日本国憲法に、人の生きる権利と人権が尊重・保障されてから今日にいたっても「人様にお世話になることを恥と思う」ことは、最近まであまり変わりませんでした。しかし、高齢化社会に伴い、その意識に大きな変化が現れてきつつあります。
 聖書をはじめて読んだ福祉活動に関わっている学生が、私に「新約聖書のいろいろの記事は社会福祉事業の基本が記されていますね」と言うのでした。それは、どこですか? と聞きますと、聖餐式の配餐、5000人、4000人に食べ物を与えた出来事、癒しと看病、かえりみられない人々への対応、共同出資と共同生活、献金など、次々と例を挙げて熱く語りました。また、日本のキリスト教会は、社会福祉をどの様に捉えているのだろうか? と質問を受けました。彼は福祉の勉強に北欧やヨーロッパの施設を廻るうちに福祉事業が日本のように個人の篤志家によって成り立っているのではなく、ある明確な動機と位置付けが教会にあることに気付いたのでした。もう十数年も前のことでした。
 しかし、社会福祉事業が村おこし、町おこし、雇用対策事業になったり、大企業の収益事業化しつつある今日、神が、聖書を通して示すメッセージを『社会福祉事業』と言う今日的な視点で考えてみることも大切ではないかと思い「聖書に教えられる社会福祉事業と歴史の中で実践された活動を『歩み』として考えて見たいと思います。皆様のご批判、ご意見をいただきたいと思います。
 
 聖書の中に、人々への愛、支援、救済など、いろいろの具体的活動を今日的表現にすれば『社会福祉』と言うことができるでしょう。
 社会福祉は、歴史的には、自立困難な貧しい人々に対する救援と奉仕ということから始まった活動と言えます。例えば、西暦2000年の歴史のうちで1500年の間は、貧しい人々に対する救済と奉仕の活動は、キリスト教会がほとんど独占していたものであり、その活動は、今日に至ってもまだ続いていると言えます。
 16世紀になって公的に貧しい人々への扶助制度が現れましたが、この働きかけもキリスト教からの刺激によって起こりました。ギリシャの文明においても、貧しい人々への救済は無視されていました。キリスト教はユダヤ教の土台の上に築かれていますが、旧約聖書にも貧しい人々への救済の規定があって、ユダヤ人は、それを生活指針にしていたことが分かります。しかし、それは、ユダヤ人同胞の間が中心でした。
 キリスト教では、貧しい人々への救済は、人種、国籍・国境を越えて普遍化していきました。プロテスタント教会の教派によっては、重要な機能とされるようになりました。
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 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
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本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
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「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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