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問30 「キリスト教を信じたら、どんな良いことがあるのでしょうか」
答・・8・・
問題は、持つと持たざるとに関わりなく、また、そういうことに支配されないでいることができる揺るぎない平安、または絶対的な平安をどのようにして得ることが出来るか、という点にあります。多くの先哲と呼ばれた人たちが問題として考えたことの一つはこのことでありました。「揺るぎない平安」は何によって得られ、保証されるか、という問題であります。
言うまでもなく、それは人間の中から生み出せるものではありません。人間は絶対者ではありませんし、多くの限界を抱えている存在であるからです。
この点については、パウロは「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、ものが有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と言っています。
これを聞くと、この人は様々な境遇に鍛えられた生活の達人であるかのように思えますが、そうではありません。それに続けて彼は「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしはすべてが可能です」と言っています(ピリピ4;11以下)。
この文面から受け止められることは、第一に、この人は極めて自由に生きておられる人である、ということです。そしてそれは、いわゆる百戦錬磨によって自分が獲得した境地という性質のものではなく、授かった秘訣であるということと、その秘訣とは「わたしを強めて下さるお方」がおられることによって得られているものである、ということであります。
そのお方とは言うまでもなくイエス・キリストのことであります。平安というのは、人間をこの自由に生かす根拠でもあります。ご利益という言葉を敢えて使うならば、キリストを信じることによって得られるものは、この平安とそれに根差した自由であるということが出来ます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元中部日本放送「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」