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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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  解説 ウエストミンスター信仰告白 (37)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

第18章 恵みと救いの確信について・・1・・

1 たとえ偽善者や他の再生しない人々が、神の愛顧と救いの状態にあるという偽りの希望や肉的うぬぼれをもって、自分をいたずらに欺くことがあっても(1)、彼らのこのような希望は消え去ってしまう(2)。しかし主イエスを真実に信じ、誠実に愛し、全くよい良心をもってみ前に歩くように努める人々には、自分が恵みの状態にあることを、この世において確実に確信させられ(3)、また神の栄光にあずかる希望をもって喜ぶことができる。この希望は決して彼らを失望に終わらせない(4)

  1 ヨブ8:13,14、ミカ3:11、申命29:19(18)、ヨハネ8:41
  2 マタイ7:22,23
  3 
ヨハネ2:3ヨハネ3:14,18,19,21,24ヨハネ5:13
  4 ロマ5:2,5
一 ここで問題となっているのは、前章「聖徒の堅忍について」の問題のもう一つの面である。すなわち、第17章は客観面であるのに対して、本章は主観面である。そのために「恵みと救いの確実性」と訳さず「恵みと救いの確信」と訳されているが、実を言えば「確信の確実性」とでも言いたいとろである。

従って、まま宗教界にありがちな主観的、妄想的狂信、自分のひとり決めの大言壮語との対比で、このことが告白されている。マタイによる福音書7章22節にあるような実例は、悲しいことながら、あまりにも、たびたび存在する。かと言って救いと恵みの受領が常に本人には何の確信をもたらさないかのように、懐疑的謙卑をもって正しい信仰の常態とするわけにはいかない。もしそうならば、感謝という状態は存在しないことになるであろう。

ハイデルベルク信仰問答が明示するように、キリスト者の道徳の第一位は謙遜であると同時に、このよき業そのものが神への感謝である。わたしたちの信仰は、常に希望と愛との三角形を形づくっている。希望は恥をもたらさない。偽善者の妄想はある場合には、自分自身の心を欺瞞しているにすぎないから単なる虚言で取るに足らない。恐るべきは、本人がそれを真実と思い込んでいる場合である。

単純に人は、その人の真心からの確信であると言う理由だけで、その人の言葉を受け入れる。しかし、神は欺かれない。逆に、その人にその偽りであることを示されるのである。そうして妄信者の確信が打ち砕かれる日が来る。

それに比べて、わたしたちに与えられている希望と感謝とは、実現するものであるから恥は来ないのである。「恵みと救い」そのものにかえて、希望と感謝を受けたということを主観的に確信させられること、すなわち、感謝が自覚的であり得るということ、これは大いなる祝福でなくしてなんであろうか。選民意識、予定の確信というものの正しい姿である。

 

2 この確実性は、誤りをまぬがれない希望に基づいた、ただの推測的なもっともらしく見える信念にすぎないものではない(1)。それは、救いの約束の神的真理(2)、この約束がなされた恵みの内的証拠(3)、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊と共にあかしする子たる身分を与えるみたまの証明(4)の上に打ち建てられた信仰の無謬の確信なのである。このみたまは、わたしたちの嗣業の保証であり、このみたまによってわたしたちはあがないの日のために証印されている(5)

  1 ヘブライ6:11,19
  2 ヘブライ6:17,18
  3 
ペテロ1:4,5,10,11ヨハネ2:3ヨハネ3:14コリント1:12
  4 ロマ8:15,16
  5 エペソ1:13,14、エペソ4:30
コリント1:21,22
二 ここでの確実性は、アッシュアランスではなく、サーテンテイである。本項で告白されていることは、この確信(アッシュアランス)が、単なる人間の主観的臆断または信念と異なることであり、その理由は、それが本来神によって与えられた確信、聖霊のみ業として生じた確信であることを言おうとするものである。

    

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  解説 ウエストミンスター信仰告白 (36)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

第17章 聖徒の堅忍について・・2・・

3 それにもかかわらず、彼らは、サタンとこの世の誘惑、自分のうちに残っている腐敗の優勢さ、また自分を保持する手段を怠ることによって、ひどい罪に陥り(1)、しばらくの間そのうちにとどまることがある(2)。このため彼らは、神の不興をひきおこし(3)、神の聖霊を悲しませ(4)、自分の受けている恵みや慰めをある程度奪われるようになり(5)、心をかたくなにし(6)、良心を傷つけ(7)、他の人々をつまずかせ(8)、また自分に一時的審判をもたらす(9)

  1 マタイ26:70,72,74
  2 詩51(表題)(51:1,2)14(51:16)
  3 イザヤ64:5,7,9(4,6,8)、サムエル下11:27
  4 エペソ4:30
  5 詩51:8,10,12(10,12,14)、黙示2:4、雅5:2-4,6
  6 イザヤ63:17、マルコ6:52、マルコ16:14
  7 詩32:3,4、詩51:8(10)
  8 サムエル下12:14
  9 詩89:31,32(32,33)
コリント11:32

三  わたしたちはここで、絶対的と言うことに対して、それが一時的、または部分的であると言うことを考えなければならない。聖化の教理で、特に学んだようにある。その意味で、ホーリネス派またはメソジスト主義と呼ばれるものの一つの誤った考えを、わたしたちは厳しく排除しなければならない。

 完聖主義者の誤りは、一つには、この絶対と部分または一時的との区分を、十分に気を付けて考慮しないところから生ずるものではないかと思われる。救いの確かさは、究極的には断続するのではなく、持読するものであり、また完全な姿において実現するのは一定の時の経過をたどった後のことである。地上の生活にあっては、それには消長があり、常に未完成である。

 本項は、主として、この部分的または一時的な、確実性への危惧となる事情に関して、その生じるところを明らかにしている。すなわち、悪魔とか、世とか、また自分自身の中に残っている本質の腐敗とか、さらに、神より教会に命じられている恵みの手段の行使に関する不忠実、不注意といったもの、それらは、すべて罪とその力に関係するもの、被造物とその意志能力に関係するものばかりである。

 つまり、この確実性を一時的また部分的に危惧させるものは、ことごとく被造物とその罪に原因するものである。このことは同時に、この不確実性を全面的また最後的にしのぐことはないことを物語るのである。マルチン・ルターの有名な言葉に「大いに罪を犯せ、しかし、それ以上に信仰を持て」と言うのがある。

 これは十分注意しないと、とんでもない誤解を生む言葉であるが、その真意は、被造物の罪から出る力は、とうてい神の救いのみ業の上に出ることがない、と言う事実を強調しようとしたものである。カルヴィン主義は、実にこうした意味で神とその恵みの絶対性を告白することに外ならない。

 カルヴァンの「キリスト教綱要」1巻の17にある、悪魔論の中にも「悪魔はやはり神の使い、人間の救いのために役立つ被造物」というのがあるが、同様の主旨として味わうべきでことだと思う。

     *******

 この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。

単行本購入希望者は「つのぶえ社」に、ご注文下さい。¥500

465-0065 名古屋市名東区梅森坂4-101-22-207「つのぶえ社」宛

 

 

  解説 ウエストミンスター信仰告白 (35)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

第17章 聖徒の堅忍について・・1・・

1 神がその愛するみ子において受け入れ、みたまによって有効に召命され、きよめられた人々には、恵みの状態から全的にも最後的にも堕落することはあり得ない。かえってその状態に終りまで確実に堅忍し、そして永遠に救われる(1)

  1 ピリピ1:6
ペテロ1:10、ヨハネ10:28,29ヨハネ3:9ペテロ1:5,9
 

一  これはカルヴィン主義の5特質と呼ばれるものの一つである。聖徒である信徒の救いの根拠は、主イエス・キリストの仲保に置かれており、かつ、そのキリストとの結合・一致は、聖霊の働きによるものであるから、客観的に言って絶対的なものであり、部分的に、あるいは一時的には「恵みの状態」から転落し、離反することはあっても、全体的な、また最後的な脱落はありえないのである。

 「堅忍」とは、危険がどれほど深まっても、根本的には持ちこたえる、という意味である。この主張がカルヴィン主義の原理の一環を構成すると言うのは、救いが恵みであり、絶対他存であって、救われる者自身の中にある何物にも依存しないということである。すなわち、救いにおける神中心、神の主権的意志という原理に直結しているからである。

 

2 聖徒のこの堅忍が依拠するのは、彼ら自身の自由意志にではなくて、父なる神の自由・不変の愛から出る選びの聖定の不変性(1)、イエス・キリストのいさおしと執成しの効力(2)、みたまと神の種が彼らのうちに宿ること(3)、および恵みの契約の性質にである(4)。これらすべてから堅忍の確実性と無謬性も生じる(5)

  1 
テモテ2:18,19、エレミヤ31:3
  2 ヘブル10:10,14、ヘブル13:20,21、ヘブル9:12-15、ロマ8:33-39
    ヨハネ17:11,24、ルカ22:32、ヘブル7:25
  3 ヨハネ14:16,17
ヨハネ2:27ヨハネ3:9
  4 エレミヤ32:40
  5 ヨハネ10:28
テサロニケ3:3ヨハネ2:19
 

二  聖徒の堅忍の教理は、救いの確実性はどこからくるかということになると、それが救われる者の側からではないことは言うまでもないのであるが、さて、その確実性にはどの程度の強さがあるかとなると、それは100%のもので、一分一厘の不確かさも含まない確実さであると言うことができよう。三位一体の神の全面的な保証の確実さである。

 それは、父なる神の永遠の聖定に基づき、主イエス・キリストの全き贖いと執り成しにより、聖霊の保証を得ているもの、そして、この三位一体の神と選ばれた民の贖い主なるキリストとの間に立てられた、恵みの契約に基づくところのものである。世にはこれ以上の確実なものはあり得ないのである。

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 この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。

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  解説 ウエストミンスター信仰告白 (34)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

 第16章 よきわざについて・・2・・

4 服従において、この世で可能な最高度に到達する人々でも、義務以上にすること、すなわち神の要求以上にすることはとても及びもつかないだけでなく、義務上しなければならぬ多くのことにさえも達しないほどである(1)

  1 ルカ17:10、ネヘミヤ13:22、ヨブ9:2,3、ガラテヤ5:17
四  ここでの告白は、聖霊によらなければ一歩も歩めないわたしたちは、聖霊によってもなおとうてい命じられているすべてを、なしえないということを常に悟る時、謙遜と熱心な祈りと、また、うむことのない励みとがあたえられるというのである。

 

5 わたしたちは、自分の最良のよきわざをもってしても、神のみ手から罪のゆるしまたは永遠の命を功績として得ることはできない。その理由は、そのよきわざと来たるべき栄光の間に大きな不釣合があり、またわたしたちと神との間には無限の距離があって、わたしたちはよきわざによって神を益することも前の罪の負債を神に償うこともできず(1)、かえって、なし得るすべてをなした時にも自分の義務をなしたにすぎず、無益なしもべだからであり(2)、またそれが善であるのは、それがみたまから出ているからであって(3)、わたしたちによってなされる以上それは汚れており、多くの弱さや不完全さがまじっていて、神の審判のきびしさに耐えられないからである(4)

  1 ロマ3:20、ロマ4:2,4,6、エペソ2:8,9、テトス3:5-7、ロマ8:18
    詩16:2、ヨブ22:2,3、ヨブ35:7,8
  2 ルカ17:10
  3 ガラテヤ5:22,23
  4 イザヤ64:5(6)、ガラテヤ5:17、ロマ7:15,18、詩143:2、詩130:3
五  ここでは、クリスチャンのなす善(よきわざ)の限界が告白されている。わたしたちは聖霊の恩恵的助けによってさえも、決して救いを買い取るほどの善をなしえる者ではないこと。また、クリスチャンの善行は、一方、聖霊のみ業であるが、同時に人間の業でもある。そして、人間はどこまでも汚れ、腐敗した人間性より解放されないから、その業も地上では、やはり完全な善ではありえないのである。

 アウグスチヌスが言ったように、善人もまた腐敗している。このことを考える時、キリストのみ業がいかに独自なものであり、その意義がいかに高価なものであり、実にわたしたちの罪の贖いとしての値を十分に備えたものであったかを知るのである。メイチェン博士が死の床で、親友マーレー教授に向かって「キリストの積極的服従に感謝する」と言った言葉を私は幾度か思い返して味わうのである。

 わたしたちの善が何万何億と集積されても、ひとりの魂をさえ救いえないことは、詩編49編の作者がうたったところである。しかし、ただひとりの神の子イエス・キリストの血とその罪なき三十数年の生涯は、実にわたしたち全人 類の大罪を一切贖ってもなお、余りのあるほどのものなのである。

 

6 しかも、それにもかかわらず、信者自身は、キリストによって受け入れられているので、そのよきわざもまたキリストにおいて受け入れられる(1)。それは、そのよきわざが、この世で神のみ前に全く非難され責められるべき点がないものであるかのようではなくて(2)、神がそれをみ子において見られ、誠実なものを、多くの弱点や不完全さを伴ってはいるが、受け入れて、それに報いることをよしとされるからである(3)

  1 エペソ1:6
ペテロ2:5、出エジプト28:38創世4:4、ヘブル11:4(*)
    *創世4:4をヘブル11:4と比較
  2 ヨブ9:20、詩143:2
  3 ヘブル13:20,21
コリント8:12、ヘブル6:10、マタイ25:21,23

六  これは前項の反面を述べたものであって、よき業は未回心者のものとしては、救いに役に立たないばかりか、神の審判に耐えられない汚れたものであるが、信者にとっては、その人格、性質同様、赦され、受け入れられるものとされ、従って、善行にふさわしい報いをも頂くものと認められるのである。

7 再生しない人々がする行為は、事柄としては、たといそれが神の命じておられる事柄であり、自分にも他人にも有益であるとしても(1)、それでもなお、信仰によってきよめられた心から出ておらず(2)、み言葉に従って、正しい態度からも(3)、また神の栄光という正しい目的のためにもなされていない(4)。それゆえその行為は、罪深いものであり、神を喜ばせることも、神から恵みを受けるにふさわしくすることもできない(5)。それでもなお、彼らがこの行為を怠ることは、一層罪深く、神を怒らせることである(6)

  1 列王下10:30,31、列王上21:27,29、ピリピ1:15,16,18
  2 創世4:5、ヘブル11:4,6(*)    *創世4:5をヘブル11:4と比較、ヘブル11:6
  3 
コリント13:3、イザヤ1:12
  4 マタイ6:2,5,16
  5 ハガイ2:14、テトス1:15、アモス5:21,22、ホセア1:4、ロマ9:16、テトス3:5
  6 詩14:4、詩36:3(4)、ヨブ21:14,15、マタイ25:41-43,45、マタイ23:23

七  ところがそれとは全く逆に、未再生の人の業は、行為自体としてはどれほど立派でも神の不興を買う。この両項の告白は文章としては、とても一般人に認容され難い逆説的とも言えるものであるが、予定論と罪人の本性・人格とそれが産み出す行為との不可分的関係とを前提にして判断すると、当然こうした厳しい割り切り方がなされることになろう。

 全ての恵みと善を神に帰す信仰は当然こういう告白をアーメンと言わざるを得ないところに至るまで忍耐ある思索を深めなければならないだろう。

     *******

 この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。

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 解説 ウエストミンスター信仰告白 (33)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

 第16章 よきわざについて・・1・・

1 よきわざとは、神がそのきよいみ言葉において命じられたものだけであって(1)、人間がみ言葉の保証なしに、盲目的熱心から、または何か良い意図を口実にして案出するものではない(2)

  1 ミカ6:8、ロマ12:2、ヘブル13:21
  2 マタイ15:9、イザヤ29:13
ペテロ1:18、ロマ10:2、ヨハネ16:2、サムエル上15:21-23
一 ここでは「神ひとりのほかによい者はいない」(マルコ10:18)、「あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る」(ヤコブ1:17)の原理が言われている。よい木でなければよい実を結ばないのであるから、そして、人間の性質は全的に腐敗しているから、良心的行為だとか、善意の行為などと言ったところで、それは、まったき善行(よきわざ)ではないのである。ルターはが「聖書に禁じられていなければ行ってもよい」と考えるのに対して、改革派教会では「聖書に命じられていないことはいけない」と言うのである。

 それは、わたしたちを万事控え目にさせるためではない。「しないことの罪」を考えると消極策は、むしろより多くの罪を犯すことである。この告白が言おうとするところは、人間が「聖書」なしに、自立的に行動することの危険を戒めているのである。聖書が信仰と生活の唯一無謬の規準なのであって、いいかげんな自己流に、この方がよいなどと主張することは、自分のみでなく、他人をも滅びの子とすることである。よく聖書の真意をたしかめ、その命令に従うようにしなければならない。

 もちろん、不明瞭だからと捨てておくことはいけない。また、かならずしも明言されていないが、含まれている事柄がたくさんあるから、健全な推理をもって、原理を実際に適用することにも忠実・勤勉でなくてはならない。

 

2 神の戒めに服従してなされるこれらのよきわざは、真の生きた信仰の結実またあかしである(1)。それによって信者は、自分の感謝を表わし(2)、確信を強め(3)、兄弟の徳をたて(4)、福音の告白を飾り(5)、敵の口を封じ(6)、また神の栄光をあらわす(7)。信者はよきわざをするようにキリスト・イエスにあって造られた神の作品であって(8)、きよきに至る実を結んで、終極である永遠の命をもつようになるのである(9)

  1 ヤコブ2:18,22
  2 詩116:12,13
ペテロ2:9
  3 
ヨハネ2:3,5ペテロ1:5-10
  4 
コリント9:2、マタイ5:16
  5 テトス2:5,9-12
テモテ6:1
  6 
ペテロ2:15
  7 
ペテロ2:12、ピリピ1:11、ヨハネ15:8
  8 エペソ2:10
  9 ロマ6:22

二 ここでは、聖書のいたるところで教えられている善行(よきわざ)の意義が列記されている。ヤコブの手紙2章13節、ペテロの第一の手紙2章9節、ヨハネの第一の手紙2章3節、ペテロの第の手紙1章5節、テトスへの手紙2章5節、ローマ人への手紙6章22節などは是非お読みいただきたいところである。これらの聖句で言おうとしている根本的な意味は、善行が救いの恵みから生じ、それは自分の心情のみでなく、他の者の信仰的まなこにも、恵みを証しするものであり、第二原因として神の救いのみ業の一端を構成すると言うことであって、功績的な意義、すなわち、この善行が救われることの原因や条件となるのではないということである。


3 彼らがよきわざをする能力は、全然自分自身によるものではなくて、全くキリストのみたまからのものである(1)。そして彼らがよきわざをすることができるためには、すでに受けている恵みのほかに、彼らのうちに働いて、み心のままに願いを起こさせ実現に至らせる同じみたまの実際の作用が必要である(2)。しかし、みたまの特別な活動がなければ、何の義務も果たす責任がないかのように、ここで怠惰になってしまってはならない。むしろ彼らは、自分の中にある神の恵みをかき立てることに勤勉でなければならない(3)

  1 ヨハネ15:4-6(*)、エゼキエル36:26,27
      *ヨハネ15:4,5が正しい。
  2 ピリピ2:13、ピリピ4:13
コリント3:5
  3 ピリピ2:12、ヘブル6:11,12
ペテロ1:3,5,10,11
    イザヤ64:6(7)
テモテ1:6、使徒26:6,7、ユダ20,21

三 ここでわたしたちは、「ただ恵みのみ」の教えと「祈り深い努力の必要」との有神論的事情を深く考えなければならない。「ただ恵みのみ」が、無責任な「果報は寝て待て」的な心境と同じものではなく、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7)のすすめと深い関係にあることを知らなければならない。

 この二つは、アルミニアン的協力関係ではない。第一原因と第二原因との関係である。祈りは手段であるが、人間が自分の発意で神にさそいをかけるのではなく、神がわたしたちのうちにこのような手段をとらせ、それを通して目的を達成されるのである。

 祈りを、第二原因として祈らせれるは神である。救いの恵みは奇跡である。祈りは奇跡である。そして祈りを通して救われる神の恵みは、まさに全知全能の神のなされる奇跡ある。そして有神論という事実を前提とするとき、このことこそ実に有神論的な事実なのである。

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 解説 ウエストミンスター信仰告白 (32)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

第15章 命に至る悔い改めについて・・3・・

5 人は、一般的な悔改めで満足すべきでなくて、自分の個々の罪を個別的に悔い改めるように努力することが、各人の義務である(1)

  1 詩19:14(13)、ルカ19:8
テモテ1:13,15

五 罪とは、原罪、すなわち性質の腐敗と現行罪とを含むものであるから、悔い改めもまた両者を含む悔い改めでなければならないのである。ここで特殊な罪をそれぞれに反省するとき、原罪を除外して、現行罪を具体的に反省するように、との意味にもとれるが、原罪が洗礼ですでに赦されたというような考えは誤っている。

 それは聖化論で明らかにしたとおりである。わたしたちは漠然とした「悔い改め」ではなく、常に自己の性質の腐敗と腐敗した行為とをよく反省・点検することによって、深く悔い改めなければならない。もちろん自己の性質が自己の反省で改変されるわけではない。また原罪が残っている限り、わたしたちの行為が純正となることは不可能である。けれども、神がわたしたちに悔い改めを求めておられる以上、それはわたしたちの義務なのである。

6 各人は、自分の罪のゆるしを祈りつつ、神に対しそれを私的に告白すべきであり(1)、その上その罪を捨てることによってあわれみを得る(2)。だから自分の兄弟やキリストの教会をつまずかせた者は、自分の罪を私的または公的に告白し、またそれを悲しむことにより、被害者に対して自分の悔改めを進んで表明すべきである(3)。これによって被害者は、彼と和解し、愛において彼を受けるべきである(4)

  1 詩51:4,5,7,9,14(6,7,9,11,16)、詩32:5,6
  2 箴28:13
ヨハネ1:9
  3 ヤコブ5:16、ルカ17:3,4、ヨシュア7:19、詩51
  4 
コリント2:8

六 ここでは、神に対する懺悔のみでなく、公的私的な人間の間での悪事に対する形に現れた過去の懺悔の必要と、それによる和解がすすめられている。特に教会の秩序にための正規の手続きを遵守しなければならない(戒規、訓練規定の忠実な実施の重要性)。

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 解説 ウエストミンスター信仰告白 (31)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

 

第15章 命に至る悔い改めについて・・2・・

 3 罪のための償いまたは罪のゆるしの原因は、キリストにある神の自由な恵みの行為であるから(1)、悔改めが、何かそのようなものであるかのように信頼されてはならないが(2)、それはすべての罪人にとって必要なものであって、だれも悔い改めないならば、ゆるしを期待することはできない(3)

  1 ホセア14:2,4(3,5)、ロマ3:24、エペソ1:7
  2 エゼキエル36:31,32、エゼキエル16:61-63
  3 ルカ13:3,5、行伝17:30,31


三 ここでは三つの誤解が否定されている。1、悔い改めを罪の償いの手段と見る誤解。2、悔い改めたから赦してもらえるという誤解。3、もう赦されているから、悔い改める必要はないという誤解である。


4 永久刑罰に価しないほど小さな罪がないように(1)、真に悔い改めている者にも永久刑罰をきたらせることができるほど大きな罪はない(2)

  1 ロマ6:23、 ロマ5:12、マタイ12:36
  2 イザヤ55:7、ロマ8:1、イザヤ1:16,18
 

四 神は義なるお方であられるために、わずかな罪をも見逃さないとともに、恵み深いお方でもあられるために、悔い改めた者を赦してくださるから、決して罪に定めたまわないのである。

 もちろん、まことの悔い改めが罪を取り消してくださる(罪を赦してくださる)理由となるものではない。罪の赦しの理由は、キリストの贖罪ととりなしによるのであり、それに基づいて、わたしたち信ずる者に無償に提供されている恵みなのである。まことの悔い改めは、この恵みに浴した者であるわたしたちが、神のわたしたちに対する、そのあわれみの確信に立脚して、自己の罪と汚れを自覚し、悲しみ、憎むとともに、神の性質と律法とに従おうとする、こころざしを起こすことに外ならない。だから、すでにこの悔い改めに生きるわたしたちが、悔い改めたにもかかわらず、なおも罪に定められるというわけではないのである。 

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 この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。

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 解説 ウエストミンスター信仰告白 (30)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

 

第15章 命に至る悔い改めについて

 1 命に至る悔改めとは、福音的恵みであって(1)、その教理はキリストヘの信仰の教理と同様に、すべての福音の教役者によって説教されるべきである(2)
  1 ゼカリヤ12:10、行伝11:18
  2 ルカ24:47、マルコ1:15、行伝20:21

一 信者がこの世で受ける救いの恵みを、客観的超経験的面と主観的経験的面とに大別すると義認、子とすること、聖化などは前者に属し、信仰と悔い改めなどは後者に分類される。信仰と悔い改めは、まったくこのことの表裏をなす深い関係にある。信仰に「救いに至る」という形容詞がつくように、悔い改めにも「命に至る」という形容詞がつけられている(使徒11:18)。

 コリント人への第二の手紙7章10節に「・・・救いを得させる悔い改め」とあるから、ここで、命に至るというのは、まったくその意味であることがわかる。信者の生活は一面信仰生活であるとともに、同時に悔い改めの生活でもある。クリスチャンのことを信者と呼ぶなら、悔い改める者(回心者)と呼んでも差し支えないはずである。

 カルヴァンは「キリスト教綱要」三巻で、この点をよく述べている。ローマ・カトリック教会の改俊が、まったく非福音的思想であるのに対して、わたしたちは聖書的な意味での悔い改めを宣教しなければならない。信仰のみを説いて、悔い改めることは、義認を説いて聖化を忘れる場合と同様に、アンチノミアニズム(反律法主義)に陥る。

 改革派教会の宣言はこの点に言及している。ルター派が、たびたび反律法主義への危険を感じさせるのに対して、改革派は常にこの点を強調してきた。カルヴァンが「十字架を負うこと」とか「自己否定、自己嫌悪」を力説したことは有名である(ハイパア・カルヴィニズムと呼ばれている反律法主義もある)。

 

2 これによって罪人は、自分の罪を神のきよい性質と正しい律法に反するものとして、その危険さばかりでなく、そのけがらわしさやいとわしさをも見また感じ、そして後悔している者へのキリストにある神のあわれみを悟って、自分の罪を悲しみ憎んで全くそれを捨てて神に立ち帰り(1)、神の戒めのすべての道において神と共に歩むように目ざし努力するのである(2)

  1 エゼキエル18:30,31、エゼキエル36:31、イザヤ30:22、詩51:4(6)
    エレミヤ31:18,19、ヨエル2:12,13、アモス5:15、詩119:128
コリント7:11
  2 詩119:6,59,106、ルカ1:6、列王下23:25
 

二 これは、悔い改めとは何であるかを、よく述べられているところである。その出発点と立脚点と目的を明示している。聖化されていない自己への嫌悪とキリストの赦しと助けへの信頼と、神の律法に従って、神とともに歩もうとするこころざし、この三つの関係が命に至る悔い改めの生活を形成するのである。そのうちに一つでも欠けると、この命に至る悔い改めは成立しない。

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 この文章は月刊「つのぶえ」紙に1951年(昭和26)10月号から1954年(昭和29)12月号まで書き綴ったものを単行本にしたものです。「つのぶえジャーナル」掲載には、つのぶえ社から許可を得ています。「ウエストミンスター信仰告白」は日本基督改革派教会出版委員会編を使用。

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 解説 ウエストミンスター信仰告白 (29)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

 第14章 救拯的信仰について・・・2・・・

 2 この信仰によって、キリスト者は、み言葉において語られる神ご自身の権威のために、そこに啓示されてあるすべての事柄を真実であると信じ(1)、そのそれぞれの個々の章句が含んでいる事柄に応じて異なって行動する。すなわち命令には従い(2)、威嚇にはおののき(3)、この世の命と後の世の命への約束は信じる(4)。しかし救拯的信仰のおもな行為は、義認と聖化と永遠の命のため、恵みの契約に基づいて、ただキリストのみを認め、受けいれ、寄り頼むことである(5)

  1 ヨハネ4:42
テサロニケ2:13ヨハネ5:10、行伝24:14
  2 ロマ16:26
  3 イザヤ66:2
  4 ヘブル11:13
テモテ4:8
  5 ヨハネ1:12、行伝16:31、ガラテヤ2:20、行伝15:11
二 この一項は特に重要である。改革派教会で言う信仰の意味、み言葉の意味がここによく説明されているからである。たとえば、へブル人への手紙4章12節の「神の言は生きていて・・・」を、どのように理解するかであるが、アウグスチヌスは「福音」と解釈し、ルターは、「律法」と解釈したが、カルヴァンは「聖書」と解釈したが、カルヴァンによると、信仰は聖書(神の言葉)によって生じるが、それは「福音」に       限るのである。しかし、いったん信仰が生じると、この信仰は一切のみ言葉を真理として、これに従うようになる。第4章「創造について」の二項にあるように旧約の時代から、すでに福音は存在していたのである。また信仰は、神への服従であるとも解釈されている(ローマ1:5)。

カルヴァン的理解が、このウエストミンスター信仰告白が採用している見解であり、その意味の神の言葉と信仰との関係はへブル人への手紙が、最もよく示しているところである。この信仰の一番大切な任務は、キリストを救い主として受け入れることであって、「・・・。わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか(へブル4:14)といわれているとおりである。

 

 3 この信仰は、程度に強弱の相違があって(1)、しばしば、またいろいろと攻めこまれたり、弱くされることもあるが、勝利を得(2)、多くの場合、わたしたちの信仰の創始者でありまた完成者である(3)。キリストによって、全き確信に至るまで成長するものである(4)

 1 ヘブル5:13,14、ロマ4:19,20、マタイ6:30、マタイ8:10
 2 ルカ22:31,32、エペソ6:16
ヨハネ5:4,5
 3 ヘブル12:2
三 この項は第13章「聖化について」の三項とまったく表裏の関係にある。聖化と信仰とは、結局、信仰と悔い改めの関係に置き換えてもよい問題であり、常に並行するものである。従って、救いの確かさと信仰の確かさとは、ともに手を携えて進行して行くものである。

ルカによる福音書11章1~13節に、イエスが弟子たちに教えた祈りが記されている。まず主の祈りを教えた後で、イエスは友人関係を例として、求める側の必要からくる熱意を、また、父子関係を例として、与える側の親心を述べて「どうして聖霊を下さらないことがあろうか」と言われている。

この二つの例話は、祈りの内容(何を祈るべきか)ではなく、どのような心がまえで祈るべきかを、示されたのである。つまり、熱心と期待をもって祈れと言われているのである。父はかならず私たちの必要を満たしてくださる方、と言う信仰をもって祈るべきであるが、その信仰を生む聖霊をくださる方であることを期待して、主の祈りを祈れと教えられたのである。救拯的信仰とは、このような信仰のことではないだろうか。

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 解説 ウエストミンスター信仰告白 (28)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

 第14章 救拯的信仰について・・・1・・・

 

1 選ばれた者が、それによって、自分の魂が救われるように信じることができる信仰の恵みは(1)、彼らの心の中で働くキリストのみたまのみわざであって(2)、通常、み言葉の宣教によって生み出されるものであり(3)、み言葉の宣教と礼典の執行と祈りとによって増進され、強化される(4)

  1 ヘブル10:39
  2 
コリント4:13、エペソ1:17-19、エペソ2:8
  3 ローマ10:14,17
  4 
ペトロ2:2、行伝20:32、ローマ4:11、ルカ17:5、ローマ1:16,17
 

一 信仰という言葉には広い意味と狭い意味とがあるが、信仰によって義とされる、というときの信仰を、特に「救拯的信仰」つまり「救いの信仰」と呼んでいる。この意味の信仰は、新生の直接的な実である。

 第10章で、学んだ「有効召命」によって自覚させられた「新しいわたし」の「わたしを呼ばれた神の招きのみ声」への答えとも言える。だからこれは自分から「信じようとする意志」ではなく、キリストのみ霊の「信じさせる」み業である。

 同時に、この信仰は単にひそかなみ霊の働きによってだけ生じるのではなく、「み言葉の宣教」、すなわち、外的召命、つまり福音を聞くことによって生じるのである。これはローマ人への手紙10章14節で言われていることからも明らかである。

 み言葉(それは福音と律法から成る)が、恵みの手段としてキリストに用いられるときに、み霊の働きによって生じた有効召命と協働して、ここに「信仰」と呼ばれる状態が存在するようになるのである。この信仰は「からし種一粒ほど」のものから「大いなる信仰」と呼ばれるものまで、強弱の差があり、「信仰に始まり信仰に至らせる」(ローマ1:17)とある通り、信仰生活とは、この信仰の向上強化の道程であり、その増進は、み言葉と礼典と祈りを通常の外的手段として与えられるものである。

これら三つのものが、「恵みの手段」と呼ばれるものであり、厳密にはみ言葉のみがそれに当たるが、礼典もまたみ言葉とともに用いられて、その効力をあらわすのであり、祈りだけでなく、苦難もある意味では、恵みの手段のうちに数えられる。

また教会というもの全体をも、そのように考えることもできなくはない。しかし、一般には、み言葉と礼典を通常の外的な恵みの手段と呼ぶのである。

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 解説 ウエストミンスター信仰告白 (27)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

 第13章 聖化について

 1 有効に召命され、再生された者たちは、自身のうちに創造された新しい心と新しい霊を持っているので、み言葉と彼らに内住するみたまで(1)、キリストの死と復活の力によって、実質的に人格的に、さらに聖とされる(2)。罪の全身にわたる支配が破壊され(3)、そのいろいろな欲情は段々に弱められ、殺されていくし(4)、また彼らは、それなしには、だれも主を見ることができないところの真の聖潔の実践にむかって(5)、すべての救いの恵みに段々生かされ強くされていく(6)

  1 ヨハネ17:17、エペソ5:26
テサロニケ2:13
  2 
コリント6:11、行伝20:32、ピリピ3:10、ロマ6:5,6
  3 ロマ6:6,14
  4 ガラテヤ5:24、ロマ8:13
  5 
コリント7:1、ヘブライ12:14
  6 コロサイ1:11、エペソ3:16-1

一 聖化の恵みは、要するに腐敗している性質(原罪)の聖化のことである。それは具体的には、悔い改めという形を通して戦いとられる、わたしたちの罪ある性質の滅殺であり、十字架を負うこととカルヴァンが言うところのものである。古い自分の肉的性質を克服させる聖霊のちからある働きに外ならない。主を見ることは最上の祝福であるが、それは自己否定と相関的に与えられるものである。

 この聖化は、新生によって創造された新しい心と精神の成長であり、活動であって、キリストの死と復活との結合(洗礼はこのことのしるしである)によって与えられるものであり、み言葉を手段とし、み霊の活動によって生じる事柄である。

 聖化は、キリスト者の善行によって与えられるのではなく、聖化によって善行が生まれてくるものなのである。また、どこまでも聖霊の活動であるけれども、同時にみ言葉を手段として与えるという限り、わたしたちのみ言葉への聴従を必要とするが、み霊の働きは密かなふだんの活動であるから、目に見える事柄ではない。

 

 2 この聖化は、全人に行きわたるけれども(1)、この世にある間は未完成である。どの部分にもなお腐敗の残部が残っている(2)。そこから、絶え間のない和解できぬ戦いが生じ、肉の欲がみたまに反し、み霊もまた肉に反するのである(3)
  1 
テサロニケ5:23
  2 
ヨハネ1:10、ロマ7:18,23、ピリピ3:12
  3 ガラテヤ5:17
ペテロ2:11
二 堕落が全的腐敗であるように、聖化も全的聖化であって、人間を構成するすべての部分に及ぶのであるが、同時に地上の生活での完全聖化はありえない。だから、クリスチャン生活のあるところ、常に霊と肉との戦いは絶えないのである。従って、悔い改めの必要も絶えないはずである。そこには進歩はあっても休戦はないし、あってはならない。

 ただ一つ注意したいことは、ペテロの第二の手紙1章4節に「神の性質にあずかる」という句があるので、聖化とは、神性を分与されること、または人性が神性に変化することだと誤解する人々のあることである。人間性は罪がなくても被造物であって、神性とはまったく異性(質)的なものである。

 聖化とは、罪性がきよめられることであって、罪なき本来の人間性に回復されることでなければならない。聖化が、主イエスのかたちに似せられるというのは、どこまでも無罪なイエスの人性に近づけられることであって、神の子と同性質のものとされるという意味ではない。

 

3 この戦いにおいて、残っている腐敗が、一時、大いに優勢になることもあるが(1)、それでもキリストの聖化のみたまからくる継続的な力の補給によって、再生の側が勝利を得る(2)。それで聖徒たちは、恵みに成長し(3)、神をおそれて聖潔を完成して行く(4)

  1 ロマ7:23
  2 ロマ6:14
ヨハネ5:4、エペソ4:15,16
  3 
ペテロ3:18コリント3:18
  4 
コリント7:1
三 この聖化の増進はかならずしも、一定の速度に従って進展するのではなく、場合によっては、一時的に停滞または後退を示すかも知れない。黙示録の繰辺法的注解(アウグスチヌスの考えたもので、歴史的直線的に終末に至る物語と見ないで、教会史の中で幾度も出現する現象として受け取る)に従う人たちは、個人としても教会としても、このような一進一退的な波乱のある戦況がクリスチャン生活の本来の姿であることを示すものと考える。

 旧約の歴史に現れるイスラエルの荒野の生活や、カナン入国後の状況などは、実にこうした信者の生活の姿を具体的に絵画的に教示するものである。旧約の歴史で描かれている戦争は、実にこのような霊と肉との戦いの図に外ならないとも言えよう。

 しかし、最後は神のはじめられた業がついに勝利するのである。一度救いに選ばれた者は決して恵みより落ちることはない。聖化は根本において、選ばれた神の意志の実現であるから、神を畏れて聖潔が成就するように祈り、(コリント7:1)畏れおののきつつ自己の救いの成就することを祈り(ピリピ2:12)、信者自身の意思の力によるのではなく、自己の祈りと努力を自由意志的第二原因として用いることにより、神ご自身がわたしたちのうちに完成してくださるみ業なのである。

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 解説 ウエストミンスター信仰告白 (26)

   岡田  稔著

  (元神戸改革派神学校校長)

 第12章 子とすることについて

 義とされるすべての者を、神はそのひとり子イエス・キリストにあって、また彼のゆえに、子とする恵みにもあずかるものとされる(1)。それによって、彼らは神の子の数に入れられ、その自由と特権を受け(2)、神のみ名をその上にしるされ(3)、子たる身分を授ける霊を受け(4)、大胆に恵みのみ座に近付き(5)、アバ父と呼ぶことができるようにされ(6)、あわれみをこうむり(7)、守られ(8)、備えられ(9)、親から受けるように神から懲らしめられ(10)、しかし決して捨てられず(11)、それどころか、あがないの日のために証印され(12)、永遠の救いの相続人として(13)、いろいろな約束を受けつぐ(14)

  1 エペソ1:5、ガラテヤ4:4,5(*)   *エペソ1:5が正しい(ガラテヤ4:4,5は2の証拠聖句)
  2 ロマ8:17、ヨハネ1:12(**)   **ガラテヤ4:4,5、ロマ8:17、ヨハネ1:12が正しい
  3 エレミヤ14:9
コリント6:18、黙示3:12
  4 ロマ8:15
  5 エペソ3:12、ロマ5:2
  6 ガラテヤ4:6
  7 詩103:13
  8 箴14:26
  9 マタイ6:30,32
ペテロ5:7
  10 ヘブル12:6
  11 哀3:31
  12 エペソ4:30
  13 
ペテロ1:3,4、ヘブル1:14
  14 ヘブル6:12

一 有効召命にあずかった信者が、この世で受ける祝福を、義認と子とすることと聖化の三つに区別することは、ウエストミンスター信仰基準の採用しているところであるが、近代の改革派教理学者たちは、かならずしもそれを最良のものとは考えていない。すなわち、子とする恵みを義認の一部として取り扱う人々が多いようである。

 義認は罪の赦しと、原義の回復の両面を含むなら、義認の積極的な面は子とすることに他ならないと考えられている。また、他の教理学者によると、子とすることとは、天国の世嗣とされることであるから、義認が罪責に対する救いであるように、子とすることとは罪悲惨よりの救い-に当たると考えられる。

 堕落が神との関係と世界との関係の3つの面についての変化を意味したように、救いもまた対神的に義とされ、対自的に聖とされ、対世界的に神の国に入れられることに当たるとすれば、子とされることとはこの第三の面に当たるものと考えてよい。

 すなわち、子とされることによって、わたしたちが受けるものは、幸福と呼ばれるべきものであって、義認が国家的法廷的な性質の事柄であり、聖化が教会的、あるいは個人的な事柄であるのに対して、子とされるとは、家庭的、社会的、国家的ともいうべき性質を持っている。救いの祝福は一つのものであるが、極めて全般にわたる事柄であるので、その恵みを各方面から考察するとき、このように三つの別な恵みとして数えることができるのである。

(補記)

 米国南長老教会には、百年前からこの「子とする恵み」を強調する教理学者があった。私は「フルトン校長の生涯と神学思想」という中央神学校同窓会編著の中にこのことについて少し詳しい紹介を書いたので、参照されたい。

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 共著者・編者
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電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
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東京大学大学院学際情報学府博士課程
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東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
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東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
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発 売 つのぶえ社
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本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
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