2018年12月  №137号 通巻822号
 

世田谷通信(183

猫草

多摩川上流、奥多摩湖にある小河内ダムに出かけた。なんでそんなところに?と言うと、最近、河川や用水に興味があり、古多摩川と国分寺崖線のボランティアガイドをする準備として知識を深めたかったのである。

さて電車で2時間。青梅を過ぎた辺りから周囲は完全に森林である。傾斜の急な針葉樹林、河川周辺の広葉樹林、混合林。街道添いの民家、谷間にのぞく集落。急峻な山道と渓流をながめつつ、ここ東京だよね?と思う。実は東京都の森林面積は6割。大半が奥多摩周辺にあり、水源涵養林として都心への水供給を支えている。青梅を扇の起点とする広大な扇状地、と地図上では理解していたものの、実際の地形を目にすると納得がいく。

小河内ダムは立派な観光地で、ダムカードも貰えるし、ダムカレーもある。カレーが「湖面」、ご飯が「堤体」を再現し、パスタにニンジンとコーンが刺さったのが「浮き」、サラダは周辺の「森林」を表している一品だった。

普段何気なく蛇口をひねれば出てくる「水道水」も、こんなに苦労してダムを造り、日々管理されて、はるばるとうちまで運ばれてくるのだ。森林保全も水源を守るために大切な仕事なんだとしみじみ思う。

帰路車内で「奥多摩―青梅区間はシカと衝突したため運転を見合わせています」の案内表示が。さっきまで乗っていた折り返し電車である。その後、ぶつかったのはニホンカモシカで、驚いたのか電車の下に潜り込んだので撤去に手間取り、復旧まで1時間以上かかったことが分かった。奥多摩あるあるなんだろうか。

立川から電車で多摩川を越える。もうここは広い川幅、ゆったり流れる、いつも目にする多摩川だ。対岸の南多摩に大きな崖があり露出した地層が車窓から見えた。何万年も前の歴史に少しだけ触れたような気がした。

 

世田谷通信(182

猫草

この7月、福井まで出かけた。帰省以外で遠出をするのは10年ぶり。「学校の森子どもサミット」という全国大会があり、そこで里山と小学校の総合学習の様子を発表する。先生と児童に同行することになった。

長距離移動は緊張するのだが、児童と一緒だと仕事モードで乗り切れるのが不思議だ。福井駅前ホールでリハーサル、全国から集まった児童や先生方、北海道から鹿児島まで10校だ。それぞれの取組みはその地域ならではの特色を活かした活動で、地方の学校は児童数が少なく、サポートする大人の方が多い。周辺の森林資源が豊か。世田谷でできる取組みとのスケール感の違いが一番印象的だった。北海道の3m積雪の積雪でかまくら体験とか、岡山の木材一本を伐採から製材加工するとか、屋久島の世界遺産で希少種の蝶が食べる草を栽培するとか。すごいなあと思うけれど、なかなか真似できるものではない。

それでも子ども達に森林のことを伝えたいと思って、時間も労力も割いて実践する人たちの存在があってこそ成立している、というのはどの地域にも共通すること。豪雨等の被害を被った地域からも参加があり、たとえ被災地であっても子ども達には楽しい活動をさせたいという大人達の強い願いも感じられた。多くの人の手で支えられている。学校だけではできない取組みが子ども達を守り、育てていることに深く共感できた。

発表後はバス移動で三方湖近くに宿泊し、翌日は湖の水生調査やシジミ採り体験。ここでも地元の大学院生や研究機関、ボランティア団体のサポートあっての活動である。汽水湖のシジミは環境悪化により激減したので、山から土砂を運び、土留めのヨシを育成し、砂地を人工的に造成して、養殖物を育てて数年になるとのこと。子ども達は無邪気に歓声をあげながら「シジミあったー!」と嬉しそうに活動しているが、それを支える多数の大人達の知恵と汗がある。自分もボランティア側なので、見えない苦労はよく分かる。「あって当たり前」を続けていくためには、環境や生きものを維持する努力が不可欠なのだ。時々の変化を受け入れる力。常に環境は変化するから、それに合わせて柔軟に対応することが、「いつも変わらない」を保つのだ。

福井の山も湖も空も美しかった。変わらず、そこにあって欲しい。

(福井・シジミ採りをした久々子湖(くぐしこ)の写真)

 

世田谷通信(180

猫草

 

次男は特別支援学校高等部3年生になり、卒業後の進路を考える時期である。障害がある故に大学や専門学校は選択肢にほぼなく企業就労か、作業所、或いは生活介護と言われる福祉施設へと進路を考えていく。企業はさておき、作業所と福祉施設ってほぼ一緒かと最初思っていた。でも違う。自治体によって呼び方は異なるが、いわゆる作業所は自力通所が基本、軽作業が中心で多少なりとも給料が貰える。福祉施設は送迎バスがあり、落ち着いた生活を支援することが目的。じゃあ全然違うかというと、そうでもない。要するに個々の施設によって雰囲気も内容も全然違う。運営する組織のカラーもあるし、集まった利用者どうしの個性に寄るところも大きい。ではどう判断すればいいのか。それは実際に行ってみるしかない。これに尽きる。

それは高校3年生が進路を考えるときと同じである。大学や企業と言っても千差万別なので、パンフレットを取り寄せ、ホームページをチェックし、オープンキャンパスに参加する。企業なら先輩に話を聞いてみたり、インターンシップで職場体験をするなど、色々な手段で情報を集めるだろう。そして最後は結局自分の目で見て判断するしかない。

高等部23年生は実習という形で1週間程度色々な施設に行って、体験学習を行う。3年生になると実習は進路に直結するので、受け入れ側も「来年4月からこの人が来たらどんな感じか」という目でみるし、こちらも「うちの子がここに入ったらどんな感じか」を探ることになる。

方針が決まったら利用希望というのを区に出す。入試や面接があるわけではないので、最終的な行き先は区の会議で決まる。こちらとしてできることは第3希望まで実習した中から施設を絞り込んでおく必要がある。もちろん定員はあるし、既存施設はどこも定員ぎりぎりという状況。新規施設は情報が少ない。どうなることやら、高校3年生。受験生のいる家庭の大変さも2年前に経験したので痛いほどわかるが、今回も先行きの不安と情報不足、不確定要素が多い。どちらも子どものよりよい将来のために最善を尽くすのは一緒だなあと思う。

 

 

世田谷通信(179

猫草

スポーツ観戦などほぼしないのだが、10数年ぶりに野球の試合を観に行った。大きな音も沢山の人も苦手なので、大丈夫かなあパニックにならないかなあと不安だった。駅から球場に向かってどんどん人が増えていく時にはひるんで帰りたくなったけれど、逆走もできず流れのまま緩やかな坂を歩いてたどりついた。

座ってしまえば意外と平気で、音は反響せず空へと消えていく。暮れ方の空の色が刻々と変化するのを綺麗だとか思っているうちに試合が始まる。普段はテレビの野球中継すらあまり見ないので、試合を注視するなんて長男の少年野球以来だ。

そして、当たり前のことをいまさら思う。スポーツって人間がやっていることなんだね。何万人もの観客に注目されながら。テレビ中継だとピッチャーとバッターの攻防の映像が流れるけど、野手もネクストバッターも応援もみんな含めての試合。

緊張感のある好ゲーム。強打者にはピッチャーのギアも確実に上がる。大事な局面では球場の雰囲気が変わる。地鳴りに似た、念に近い波動で席が揺れるように感じる。熱気とはこういうものか。その渦の中心であるマウンドやバッターボックスならその「思い」をどんな風に感じるのだろう。

ユニフォームやグッズをまとって一心に応援している人たちは何を選手やチームに託しているのだろう。高校野球のヒーローがプロになり、結果を残せる者が何人いるのか。華やかで調子の良いときばかりではない。歳を重ねて衰え、長い不調やケガに泣き、移籍や戦力外通告という厳しい現実も突きつけられる。選手の名を連呼し、打てば飛び上がって喜び、チームの戦績に一喜一憂するのは、そうか、浮き沈みのある自分の人生を重ねて共に歩んでいるからなんだね。と、再度当たり前のことに気がつく。

結論としては疲れたけど面白かった。試合後の混雑を避け、早々に帰ったのも正解。たまには良いものだ。こんどは応援グッズも買ってみようか。

 

『世田谷通信』(178

猫草

買い換えや補修が続く。それはこれまでの生活を見直すきっかけでもある。背より高い両開きで大型冷蔵庫は、目線の高さぐらいの中型に。子どもの成長期を過ぎれば、もうそんなに食べない。買い置きも作り置きもしないのだ。最初はたくさん買ってしまい「入らない・・」と不安に思ったが、今は中身が一度に見渡せる量だけ買うようになった。

古くなったガスレンジは安全性重視のクッキングヒーターに。最初はほんとに加熱されてる?と違和感があったが、消し忘れの心配が無いのがありがたい。料理は炒める煮る揚げる焼く・・とガス同様にできる。焦げつかないし、汚れない。焼き魚の仕上がりなどふっくらしてガスより良い。

10年を過ぎた家も補修の時期なのだろう、最近やたらと外壁業者がピンポーンと売り込みにくる。プロには「そろそろ塗り替え」と見えるらしい。家の周りを点検すると外壁に小さなクラック、モルタルが欠けているのに気がつく。早速ホームセンターで補修モルタルを買ってきて、コーキングガンとヘラで穴を埋める。応急処置だが1kgのモルタルがすぐになくなった。確かにそろそろなんだろうね。

服も2パターンぐらいを着回しているだけなので、着ない服を処分する。ちょっとしたディテールでも、着ない理由があるのだ。小さく切って雑巾にする。

また数年したらさらに見直しが必要なんだろうな、身に余るものを整理して、身の丈にあったスペックへと。最終的に自分のものはトランク1個ぐらいに収まればいいなあと思ったりする。

ふと裏庭をみるとキンモクセイがお隣の壁まで枝を伸ばしている。これはいかんと剪定し、ついでにエゴノキやハナミズキも伐る。調子にのって伐っていたら地面は枝と葉っぱで覆われ歩くスペースすらない。しばらく途方に暮れるが、どうにか運んで30㎝に切りそろえて束ねる。13束までは燃えるゴミに出せる。全部ゴミ出しできるまで相当かかりそうだ。植物の生長はまだまだ旺盛。1020年で衰えを感じる人間や人工物に比べると、植物は生きるスパンが長いんだなあと感心しきり。

 

 

世田谷通信(177

猫草

NIMBY(ニンビー)という言葉がある。No in my Backyardの頭文字をとった造語で、直訳すれば「うちの裏庭以外で」、と言った感じか。廃棄物処理場や火葬場、発電所や飛行場、最近では幼稚園や福祉施設もそれにあたるらしいが、要するに社会生活を送る上で必要不可欠とみんなが思うもの。大切さは重々承知していて、その恩恵にはあずかりたいけど、自分の近所には欲しくない物。総論賛成各論反対というやつだ。

そして今、自分がまさにそういう事態に直面している。5年前にシロアリ駆除、薬の効力が消えて再度散布というタイミング。業者さんに床下にもぐって頂き、点検をお願いした。そして、シロアリはいないが、ただ・・ゴキブリがたくさん・・と言われて鳥肌がたった。だめなのだ、あれだけは。

特にあちらの床下と指さした場所に、あっと思い当たった。裏庭には雨水タンクがあって、わざわざ落葉を集めて作った腐葉土、伐採した雑木が積み上げてある。水と土と木、生きものにはさぞかし快適だろうと思われる環境を作って、これが生物多様性よね、なんて悦に入っていた場所である。

それこそ害虫発生の温床です、自ら呼び寄せていますよと言われて、即白旗。撤去である。雑木を小さく切り、燃えるゴミに出す。腐葉土を片付けて防犯砂利を撒く。生物多様性大いに結構、ただしうちの裏庭以外でね、というわけだ。これこそニンビー。苦笑するしかない。

猪熊弦一郎という香川県丸亀の画家がいて、無類の猫好きとして知られている。作品も猫だらけ。家の中も猫まみれだったようで、調度品はぼろぼろ、動物園のような異臭がしたらしい。戦時中は疎開先に猫同伴で顰蹙をかい、その猫が戦時中たいへん貴重だった雌鶏を殺してしまって大問題になったそうだ。それでも猫たちを手放さなかった。それどころかニワトリを狙う猫のデッサンを描いている始末。寛容、いや無頓着。ご近所のため息が聞こえるようだ。

何かを受け入れるためには何かを諦めるしかない。我慢できないなら欲しがってはいけない。それでも人は何度も言う。大いに結構、全面賛成、どんどん推進して。ただし家の裏庭以外でと。

 

成城緑地内の栗の木にシジュウカラが巣を作り、6匹の雛が口を開けています。

写真を送ります。可愛いね。

 

 

世田谷通信(176

猫草

先日「トヨタの森」というトヨタ自動車の社有林を訪問した。里山環境教育の場として様々なプログラムを実施していることに興味を持ったからだ。豊田市の一角45haという広大な敷地内には色々なエリアがある。ムササビやイノシシ、シカ、フクロウ、稀少な昆虫や植物、多様な生きものが暮らしている。

インタープリターの方は野鳥に詳しい方。丁寧に、広い森を案内してくださった。里山の管理手法を比較実験しているのが興味深かった。下草刈りで整備したエリアと、放置したエリアを道の左右に設ける。来訪者は左右を眺めてその環境の差を比較できる。正解はなく、一長一短、試行錯誤していくプロセスが見られるのだ。

朽ち木を根元で伐らず高さ1mぐらい残すと樹皮が自然に剥がれ、木の洞が沢山できて、色んなキノコが生える。そういう場所を好む昆虫の住み処になる。

フクロウの止まり木にするために1本横枝を残し、他の枝を払って広場を作る。伐った枝は一カ所に集め地面に伏せる。そこにフクロウの餌となるネズミや昆虫が集まる。フクロウの狩り場をつくってやるわけだ。

水辺も全部刈らず、まだらに残す。それによって、水草の根元に集まる生きものが住み、それを狙う上位の生きものも来る。

業者さんは仕事なので請けたエリアは全部草を刈るし、雑草は抜き、落葉を集め、丸坊主に枝を伐る。それも都会で車や人の多い場所では必要な管理である。トヨタの森はそういう人間優先の感覚ではなく、色んな生きものがちょっとずつ住めるような仕掛けがたくさんあった。「あえて残す」というのがキーワードになっているように思った。希少種や目立つ生きものだけではなく、目立たず地味で、ありふれた、名すら無い生きものにも、隅っこで生きられる隙間を作ってあげること。

生物多様性ってこういうことかな。ちょっと腑に落ちた。

 

世田谷通信(175

猫草

図書室では毎年数百冊の本を購入・寄贈で受け入れする。でも棚の数は有限で場所も増えない。ということは同じ数の本を廃棄しなければ置けないのである。新しい本の受け入れは気分が浮き立つが、資料的に古い本、人気がなく読まれなくなった本のラベルを剥がして、分解し廃棄する作業は精神的に疲れる。本を捨てるのは本好きには辛いのだ。

そんなことがあって、気分が落ち込んでいた反動からか、1冊の古書を買ってしまった。市川崑・和田夏十著「成城町271番地」白樺書房、昭和36年初版本である。市川崑と言えば有名な映画監督、成城町271番地は現在の成城2丁目辺りと見当がつく。表紙が破れ状態がよくないこともあり、値段は安い。

家に帰って見返しをみて、おや、と思った。著者献呈本である。大河ドラマにも出演している俳優さん宛て。破れた表紙に俳優名の千社札シールが貼ってある。裏表紙には最初に買い取った古書店名もある。六本木の俳優座劇場前にあったその書店は既に閉店。市川崑監督と俳優との交流を示すもので、映画好きには興味深いものだろう。回りまわって、芸能に全く詳しくない私の手元に来てしまって申し訳ない限り。

本の内容は、40代の市川崑監督が映画会社の意向と予算とスケジュールの中で苦心している様子が綴られている。世間の評判を気にかけ、自分のスタイルを模索し、映画評論家と激論し、映画とは何か散々小難しく悩んでいる様子が面白い。後半は監督の奥様であり、脚本家でもある和田夏十さんの日常が綴られている。こちらはわかりやすく率直な文章。家族のお弁当を作り、庭仕事をする合間に、台所の机で脚本を書いている様子がうかがえる。お庭に紫苑を植えたが枯れてしまったともある。現在、紫苑は環境省レッドリストにも載っている絶滅危惧種になってしまった。花屋でよくみかける紫の小さな菊は宿根アスターという名前らしい。昭和36年にはありふれた花も平成30年にはもう手に入らない。大量生産の本を大量消費している現実があり、50年以上前の古書から読み解く現在もある。

 

世田谷通信(174)

 猫草

長男に「何かやってみようと思ったらネットで調べる。ホームページがしっかりしていたら、信用できると思うし、連絡してみようかな~と思うよ。」と言われた。仕方なく活動するボランティア団体のホームページは作ってみた。でもやはり放置・・ダメな管理人である。せめて春までに一度更新しよう。

今どき一番手軽な情報源はインターネットで、大抵の情報はネットに落ちている。嘘も過去も主観も悪意もごちゃ混ぜ。そのカオスから一粒の情報を拾ってくるのには自己責任と慎重さが必要になる。短い罵倒、石つぶてのような中傷、悪意ある言葉を目にすることもままある。そういう言葉の刃や誤解が怖くて、自分は情報発信にとても消極的だ。ツイッターもインスタグラムもブログもやらない。ラインに誘われても全て「煩わしい」から断っている。

自分のことはさておき、学校図書室でもIT化が進行中である。これまでの紙のカード記入から、バーコードによる読み取りにシステムが変わった。どんな感じになるだろう?と正直不安があったが、大人の懸念を払拭するかのように図書委員さん達はやる気まんまんである。これまで中休みや昼休みの当番に来なかった子達も忘れずに来る。当番でもないのにやってきて、隙あらばバーコードでピッとやりたがる子もいる。貸出し返却手続きとしては、以前より煩雑になったのに、嬉しくて仕方がない様子である。空いた時間には静かに本を読んでいたのに、むやみに本の検索をしては「おお~!」と喜んでいる。子どもたちばかりでなく、若い先生もそうなのだ。無邪気すぎてちょっと引き気味な気持ちになる。そんなに画面上に展開する世界を信用していいのか。初期パソコンで何の前触れもなく爆弾マークが出てフリーズ、全データが消える煮え湯を飲まされた世代と、インターネットがある世界に生まれた世代とのギャップかなあと思う。

矛盾を抱えつつ便利は便利、一人で暇だとついグーグルホームに話しかけてしまう。私が「OKグーグル、何か歌って」と言うと「デハ、イキマス!・・・ウ~タ~♪」だと。馬鹿にしてるのか。うーん、やはりこいつを信用できない。

 

世田谷通信(173)

猫草

昨年末、高校時代の同級生と偶然再会した。卒業以来30数年ぶり。近所の集会所で「世田谷の歴史と緑」みたいな講演会を聴きに行ったら「講師の先生」が同級生だったのだ。なぜ分かったかと言うと彼が「世田谷の花はサギソウ、私の高校校歌にも出てきます・・。」と一節を口ずさんだのだ。それで「おや?もしかして同窓。」と思いあたったのだから歌の力、恐るべし。

講演後、旧姓を名乗ったら向こうは覚えていた。そして立て続けに当時の先生や級友の名前を言われた。「うわー、懐かしい!」とその場は話を合わせたが、実は全然思い出せない。そもそも覚えていない。トンチンカンな状況になるのが目に見えているので同窓会にこれまで出たことがない。学生時代、新しいクラス全員の名前と顔を一致させるのにどれほど苦労したことか。教室を間違えてしばらく気がつかず座っていた事すらある。クラスと集合写真を確認してから登校し、1年かけて覚えた頃にまたクラス替え。いつも相手に「分かってないことがバレませんように」と願いつつ話していた。再会した方とは、あろうことか同じ部活、中学・高校が一緒だったそうな。私は卒業アルバムを見ても感慨はなく、きれいさっぱり他人事である。

動植物やその他の暗記はすぐにできるのだが、人名と顔は極端に苦手。そんなわけで今の小学校800人を超える児童が在籍しているのだが、名前を覚えているのは一人だけ。その子は図書室の隣のクラスで、授業中しょっちゅう図書室で本を読んでいるからだ。もちろんそんな勝手が許される訳ではない。でも彼は少し集団になじみにくく、感情のコントロールが難しいのだ。それゆえ先生公認で図書室をクールダウンの場にしている。放置ではなく、私も「新しい本入ったよ、面白いよ」と声をかけるし、先生方や支援員の人もいる。

全ての児童が教室で一斉授業に適応できるわけではない。保健室やカウンセリングルームや少人数教室、図書室などいろんな場所が受け皿になって、その子にとって心地よい場所で見守ればいいのだと思う。かく言う私も毎年ほぼ見知らぬ40人とクラスメイトという集団にされて1日の大半の行動を共にし、芽生えたことにされる「絆」「友情」がひどく苦痛だった。できれば私も図書室で過ごしたかった。

小学生の彼が図書室の棚の間で好きな本に熱中して過ごしているのを、ちょっと羨ましく、また微笑ましく眺めている。

*写真は「サギソウ」

 

世田谷通信(172

猫草

里山の竹林で何本か竹が枯れていた。10mぐらいの高さでぐんにゃり折れ曲がっているのもある。放置すると危ないので伐ることになる。せっかくの機会なのでやらせてもらった。これまで一人で竹を伐ったことはなかったのだ。まず、どちらの方向に倒せば良いかを考える。なにしろ高低差20mの急斜面。国分寺崖線の中でも最も傾斜が急な場所なのだ。竹の向きや切った後の移動、他の竹との位置関係で倒す方向を決めたら、そちらに竹切り用のノコギリで切り込みを入れる。受け口というのだそうだ。幹の半分ぐらいまで切れたら、受けの少し上の位置で反対から切る。これが追い口。こうすると最初に切った受け口がつぶれて倒したい方向にちゃんと行ってくれる。ところが最初の12本はできたのだが、直径20cmはある竹は固い。だんだん腕が疲れてきて、受け口が斜めになり、追いとの高さも合わない。こうなるとやっかいだ。ベテランのみなさんに「もう危ないからどいて」と言われ、かえってご迷惑になる始末。

やってみたい気持ちはあっても、技術や知識、それに腕力、体力がないと危ない。ボランティア活動は一度事故があると活動自体が縮小されたりするので、本当に注意が必要だと思う。別のボランティアグループで、鉈が滑って自分の親指を切り、救急車を呼ぶ事故があったと聞く。斜面で転んで複雑骨折した方もいる。そもそも高齢者が多いので丸太みたいに重い物は運べないし、杭打ちとか浚渫とか、パワーの要る作業ができない。

そうなると若い人たちに参加してもらいたいわけだが、定期的にとなると難しい。イベントの日だけ一緒にササを刈ったり、竹コップを作ったり、外来植物を除去したりといった気軽な里山体験は結構人が集まる。農大の先生に森林を案内してもらって森林療法体験をするのは人気のプログラムだ。小学生だってやり方を教えれば一生懸命落葉かきをやってくれる。でもボランティアグループに入会するのは人間関係が面倒くさそう、毎回出るのは忙しいから無理、組織なんて勘弁してよ、なのだ。高齢者ばかりで世代間ギャップもあるだろう。それなら今は自然の中で汗を流して、楽しかった思い出を重ねてもらおう。将来的に時間ができたときに、じゃあボランティアでもやってみようか、という気持ちになるのを気長に待ってみましょう。それまで自分にできることは、ベテラン勢からいろんなノウハウを受け継いで、できるだけ蓄積し、途切れさせないこと。さて、教えてくれる人たちがいるうちに、竹もまた切らせてもらおう。

 

世田谷通信(171

猫草

普段は半径2kmぐらいのエリアで暮らしているのだが、たまに出かけると世田谷の住宅街にもいろんな風景があるなあと思う。例えば世田谷に深沢という場所があり大邸宅が多いのだが、コンクリートの壁に囲まれて、塀の上には防犯カメラ、要塞のような威圧感がすごい。うっかり野球のボールをとりに入ったら瞬間的にレーザーで焼かれそう。あくまでイメージですけれど。どなたが住んでいるのやら。

しかし成城界隈のお屋敷は低い生け垣と庭の木々に包まれて洒落た家屋がのぞくのが昔からのスタイルである。昭和の初めに成城学園が移転し、小田急線が開通し、住宅開発が始まったときに、敷地内の樹木をできるだけ残すことと、生け垣が推奨されたらしい。また和風住宅には松、洋風住宅にはヒマラヤ杉を植えていたようだ。

そんな街並の一角、崖沿いの高台に一軒の住宅がある。時々前を通っては、なんだか素敵な建物だなあ、庭は荒れ放題で誰も住んでいないようだけど・・、と気になっていた。それが今年文化財として修復が済み、一般公開されたのである。さっそく中をのぞいてみると、ステンドグラスが玄関ドアの周囲にはめ込まれ、光を柔らかく通している。床は寄せ木細工、壁はクリーム色の卵漆喰。窓は分銅による上げ下げ窓、テラスには綺麗な模様の古いタイルが少し残っている。

応接間にはマホガニーの手すりのついた階段と大きなステンドグラスもある。2階は居住スペース。特別保護区の森を借景にできるテラスもある。2階には 和室もあるが、障子の外に狭い縁側を設け、外観はあくまで洋館である。和魂洋才という言葉があるが、日本の職人さんが丁寧に洋風建築を作った心意気が感じられる。昭和の初めに実業家が建てて、戦後進駐軍にしばらく接収され、その後画家の家だったとのこと。成城にも数少ない貴重な洋風の近代建築である。

華美ではないが、質素でもない、実用的だが機能一辺倒でもない、これが住む人のセンスだなあ。としみじみしながら帰宅する。さて、あんなお屋敷とは比べる気もおきないが、我が家も年末年始に向けて、玄関周りの掃除と生け垣の手入れをしなくては。

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

      d6b7b262.jpg
教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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