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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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   今月のことば
 
 17cb049f.jpeg肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安である。
                  =ローマ8:6=

 このみ言葉は、誰にとっても大切であります。神様は私たちに「肉の思い」であるか「霊の思い」であるかを問うています。それは、私たちが、いのちと死を、自分の手の中にもっているということではありません。また、私たちが「肉の思いを懐く」か「霊の思いを懐く」かを、選ぶことが出来るでしょうか。死といのちについての責任をも持ち得るでしょうか。

 パウロは、もしそうでなければ、個人的決断の可能性の前に私たちを立たせはしないでしょう。しかし、一体いつ、私たちは、霊の思いを懐き、いつ肉の思いを懐くのでしょうか。大切なことは、むしろ、霊に基づいて自分の今の肉の思いに気づき、そのことについて悔い改め、神の赦しを必要とする自分に気づいた時、実は霊の思いを懐いているのです。

 その思いは、自分で自分自身を助けるのか、それとも他に私の助けを必要としているか、に気づいているかという点でもあります。私自身が強いか、あるいは神の力と援助を必要としているか、神を救いの主を信じ、認めることが出来るかです。
 
 パウロは「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ6:8)と語ります。たとえ「敬虔な肉」であろうと、精神力豊かな肉であろうとも、すべての肉が歩む道の歩みは、滅びの死の道を歩むのです。
 キリスト以外に、いのちに至る道はないのです。
            
 「狭い門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そこにはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない」(マタイ7:13~14)。

イエス・キリストによって

生かされているのに
生かされていることを知らない人よ
御子イエス・キリストによって
御神に生かされていることを知れよ

愛されているのに
愛されていることを知らない人よ
御子イエス・キリストによって
御神に愛されていることを知れよ

赦されているのに
赦されていることを知らない人よ
御子イエス・キリストによって
御神に赦されていることを知れよ   水野源三

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ee4ad395.jpeg  今月のことば

 「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」。
             =詩篇90:12= 

 私たちには大切なことがあります。過ぎ去ったことを忘れるのではなく、かえって、生き抜いて来たことを覚えておくべきです。思い出したくない思いを抱く時、そこに神の赦しがなければ、過去は忘れたいと思うものです。しかし、今ある自分が、神がお許しくださっての今であると思う心には、喜びがあります。
 幾多の困難や挫折、忘れ得ぬ罪の日々であっても、そこに主の赦しを見る時、絶望はありません。
 人が、だいぶ歳を重ねてから、その歩んできた道を振り返ることは無益ではありません。若者が過ぎ去った年月を思う以上に、歳の進んだ人はもっとはっきりと見るべきです。そして、その人生が、神の祝福と愛に満ちていたことを、伝えるなら、その役割を担うことは、時代の宝です。
 
¬ キリスト者が神によって、おのが日を数えることを教えられる時、その人は知恵を得るのです。長生きすればするほど、感謝にあふれるのは、何と幸いなことでしょう。
 今、生を受けている私たちの今を感謝して過ごしたいものです。
 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」というようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに。そのようにせよ」。(伝道の書12:1~2)。

=若人の祈り=    W・バークレー著

神様、私の生活の中に愛の実をあたえてください。
あなたが私に与えてくださっている全てと、私のためにしてくださっている全てのことを忘れないで、あなたを深く愛するよう助けてください。あなたが私に生命と、その生命を価値あるものとする全てのものを与えてくださったこと、また、イエス様を私の友とし、主とし、救い主として与えてくださったことを、何時も覚えさせてください。
 主イエス・キリストによって祈ります。    アーメン
 
 
神様、私の生活の中に喜びの実を与えてください。
何時も愉快に元気よくいられますように、物事がうまくいかない時でもなお、微笑んでいられますように、何時も物事の明るい面を見、そして最悪の時にもなお、その中に感謝すべきことがあることを、何時も覚えさせてください。
泣き言や不平を言わないように、悲観主義者になったり、けちをつけたりするような者にならないようにさせてください。
そして、自分のしたいことをするのでなく、あなたの望まれることをし、自分のことを考えるのでなく、他の人々のことを考えることに、喜びを見出す者とならせてください。
 主イエス・キリストによって祈ります。    アーメン
           

   今月のことば
  
052f6b13.jpeg御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
       =Ⅰヨハネ5・12=

 この「御子を持つ者」というみ言葉は、大まかな言い方ですが、しかし、持っているものは極めて大切なことです。「神の御子を持たない者」とは誰であり、どのような状態なのでしょうか。
「羊飼いの声を聞いて、他の者の声を聞かない者。神に呼びかえられ、召し出される者」。「神のみ言葉を聞き、そのもとに身と魂と霊をもって立つ者」。言い換えますと、聖書を読み、み言葉に聞く者です。
 それはちょうど命を保つために食するように、聖書を食べるように読む者。神のみ言葉が命の養いとなっている者。そのような人は、「御子を持つ者」と言えます。
 キリストに従うために単純・謙遜に三位一体の神のみ名によって洗礼を受けた者として生きる決心を、日々に覚える者となるなら、私たちの生き方は、目的に沿いたいと思うでしょう。
 「私は神の御子を持っている。それゆえに私も生きる」という信仰を持ち、告白し続ける人生でありたいものです。右に揺れ、左に曲がろうとも、この一点に戻る日々でありたいと願っていたいものです。

その日その時

友の声さえも悲しく
聞こえるその日その時に
父なる御神の御声は
わが心に強くひびく

友の愛さえもむなしく
思えるその日その時に
父なる御神の御愛は
わが心に深くしみる

何もかも信じられぬと
悩むその日その時に
父なる御神の御旨は
わが心に強く迫る       詩 水野源三
0d05a447.jpeg   今月のことば
  
 「そのとき、祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、策略をもってイエスを捕えて殺そうと相談した」。
        =マタイ26:3~4=

 世界のクリスチャンにとって、心から感謝と神の愛の深さを味わい知る日は、「イースター」と呼んでいます。今年は3月31日でした。イエス様にとってこの喜びの日の前には、受難の日々がありました。

 イエス・キリストは、宗教や敬虔な生活について何も知らず万人周知の無神論者たちから攻撃されたのではなくて、そうすることで「自分たちは神に仕えているのだと思う」(ヨハネ16:2)者たちからの攻撃を受けたのです。それは、とても衝撃的な事実でありました。宗教家としての祭司の服装をした者たちが、主イエスの受難に際しての迫害の扇動者でした。

 策略・陰謀は、聖書を手に持ち、日ごと祈りをってい過ごしている者たちによってなされました。単なる、裏切りではありません。憎しみそのものと言うべきものでした。これは、私たちの姿でもあります。日々、背信的な生活や態度を行っていても宗教的に正当化するという危険の中にいるのではないかと、真剣に自問すべきことを示されます。

 キリスト者ばかりでなく、人は「正義・愛国」という魔物に取り込まれた時、熱心になり、熱中し争い、正義の名のもとに拳を握り締めようとするのです。熱心・熱中することは、時に最高に危険な時でもあります。

 キリスト者を迫害したサウロという人物は、その時だけの人ではなく、何時の時代でも教会への警告でもあります。「愛国無罪」という言葉がニュースにありましたが、表に裏にある人間の醜い姿を経験します。

 キリストの受難とよみがえりの時を、改めて、自分に問い掛ける時としたいものです。


いつでも誰にも

いつでも誰にも
偽りを言わない主よ
偽りが満ちたこの世に
真実の愛をば満たしたまえ

いつでも誰にも
偽りを言わない主よ
偽りを計る心を
真実の道へ導きたまえ

いつでも誰にも
偽りを言わない主よ
偽りを言う唇に
真実の言葉を与えたまえ    詩 水野源三

   今月のことば

9e9951a0.jpeg 「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、値なしにそれを受けるがよい」
      =黙示録22・17=

 私たちは疑い深い者です。「ただより怖いものはない」という言葉があります。なかなか行けない一流といわれるレストランの入り口に、「今日の食事代は無料です。ご自由にお召し上がり下さい」という案内を見たとき、人は疑います。料金を要求しない食事に、人は警戒するでしょう。人は、無料を疑い、それ相当の代金を支払うことに安心を感じるのです。
 
 人は、無代で何かを貰ったり贈ってくれたりすると、それほどでもないものと思うのです。なぜかと言えば、誰でも、貴重なものは自分の手元に取っておいて、人にくれるものは、安価か、せいぜい傷物か屑物にすぎないと思っているからです。

 しかし、キリストは、そのような私たちの疑い深さとは無関係に、ここで「かわいている者」に対して、普通の水ではなく、「いのちの水」を無償で下さるというのです。疑い深い私たちには、信じがたい招きに対して、素直に受け取れないものを心に持っています。何がしかの代価を払うなら、「いのちの水」を求めるでしょう。

 しかし、「いのちの水」の代価は、私たちには支払い不能の高価なのです。支払うことの出来る私たちの「いのち」なら、「安価ないのち」でもあることでしょう。しかし、私のいのちは「キリストの十字架の死」という代価を神ご自身が支払うほどの「いのち」なのです。

 その支払いは、神の憐れみ、愛がそうさせたのです。神のまったくの、一方的な憐れみが「代金無料」の案内になったのです。信じられない愛ですね。
 
 今すぐに今すぐに

主イエス様が村にこられたから
主イエス様が村にこられたから
愛と恵みに満ちたみもとへ
家にこもり日々悩む者よ
今すぐに今すぐに行けよ

主イエス様が呼んでおられるから
主イエス様が呼んでおられるから
愛と恵みに満ちたみもとへ
心せわしく働く者よ
今すぐに今すぐに行けよ

主イエス様が待っておられるから
主イエス様が待っておられるから
愛と恵みに満ちたみもとへ
病に苦しむ友をつれて
今すぐに今すぐに行けよ      詩 水野源三
   今月のことば

『主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれると、あなたは思うか。見よ、従うことは犠牲にまさる』。
    =Ⅰサムエル15:22=

 「あなたは思うのか」との問い掛けに、私たちは『何を』思うでしょうか。そして、そのような自分の「思い」によって、私たちは過ちを犯し、思い違いをし、錯覚を起こしてきたことでしょう。私たちの、このつまらない『思う』がときに取り返しのつかない致命的なものになることを、気付いてはいないのです。

 私たちは、父の元を離れて、異郷で自分の永遠の相続財産を浪費しながら、失った権利を、神への僅かな献金で買い戻せるなどと『思う』なら、愚かなことです。『・・・しかし、神は、様々な犠牲的祭儀や献金箱をめぐっての様々な『思い』で行動するなら、神は、改めて、「あなたはどう思うのか」「あなたは本当に真剣に」神の御心を、思っているのかと問い、そのような思いで、神の心を和らげることが出来、レンズ豆の煮物と引きかえに、譲り渡された永遠の嗣業を、取り戻せると「思う」なら、それは大きな思い違いです。

 私たちが日々「思う」ことは、「神を愛し、自分を愛するように、あなたの隣り人を愛すること」。「十字架の血のしたたり」で支払われたことを「思う」ことです。十字架に服する従順よりも、犠牲の方が勝っているなどと「思う」ことを悔い改め、愚かさを日々『思う』歩みでありたいと願うものです。

66b1b877.jpeg  我が魂よ忘れたのか

わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
あわれみ深い主イエスに
はじめてお会いしたあの日を

わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
取るに足らぬ我を見つめ
わが名呼びたるあの御声を

わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
悲しみに冷えた心が
喜びに燃えたあの時を

わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
他では得られない まことの
愛と安らぎのある御もとを
           水野源三著・第3詩集「今あるは神の恵み」
   今月のことば
 
71c2fedb.jpeg主は聖なる者の集いにおいて恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって大いなる恐るべき者です。
                 =詩篇9:7=
 
 「集い」には、それぞれの雰囲気があります。それは、そこに集う人によって作られますし、その会の目的・趣旨によって決まるものです。今では、都会では、異業種間の交流、また趣味などの場合もあります。
 詩篇の詩人は「聖なる者の集い」は恐るべきものと言います。それは、その主催者にある方が、普通の集まりと根本的に違うということでしょう。人の集いには、人間の目的を持って集いますし、たとえその集う趣旨がどうであれ、決して「聖なるもの」とはいえません。
 
 教会は、主の主催によって集う所です。言い換えると、神のご支配の中にあって集い、集えるところです。しかし、そうであるにもかかわらず、なぜ私たちが神のそのような強さ、憐れみの招きに与っているのに、子供のようになれないのでしょうか。神のみ手が短じか過ぎるかのような、また、気持ちはどうしてなのかという思いになるときもあります。言葉では、神様への信頼を口にしながら・・・。
 
 謙虚に自分を振り返ってみる時、「神への信頼」の不十分・不徹底さ、無気力や、無感動という罪がそうさせているのです。しかし、このみ言葉の中に希望があります。「主は聖なる者の集いにおいて恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって大いなる恐るべき者です」と示されています。
 私たち一人一人の人間は、自分が信仰において弱いことを知る場合にも、「聖なる者の集い」の中で、この崩壊している信仰が新たに立て直してもらうことが出来るということであります。
 今年、この「主は聖なる者の集いに」集い続けましょう。そのような日々の一年でありますようにお祈りいたします。
   今月のことば

30ed6b94.jpg「恐れるな。わたしは初めであり、終わりであり、また、生きている者である」。
            =黙示録1:17~18=

 12月と言う月は、自分を振り返り、歩んできた日々に心を向けさせます。特に12月31日は、この一年の歩んできた日々の積み重ねの思いを感じさせます。
 大きさに無関係に、建物でも、その土台がどのようになっているかを見ることは出来ません。私たちの歩みも、決して安定したものではありません。挫折や失敗、失望や悲しみの土台の上で営まれてきました。
 その土台も、年々の重みで支えられなくなっているとするなら、新しい年を迎えるこの12月はいろいろな意味で大切にしたいものです。

 その土台を神に置き、み言葉を支え柱とし、希望をこの神に見出す人生かどうかを、もう一度、確認してみようではありませんか。山を越え、谷を渡り、荒地を通り、暗いトンネルを抜けて進むその先頭に、この「恐れるな。わたしは初めであり、終わりであり、また、生きている者である」。お方を仰ぎ見るなら、どれほどの荒涼とした人生の大地も、底知れぬ孤独と不安の今夜の寂しさも、かならず、朝へと導かれます。過ぎ去った日々には、死んだような日もあり、空虚な日もあったとしても、それが私の初めであり、終わりであって、神様の初めではなく、終わりでもないのなら、神様をしっかりと土台に据えた日の備えを目指す12月なら、なんと素晴らしいことでしょう。
 主イエスの御手をわが上にいただき、恵みと赦しをもってお支え下さることを感謝し、隣人に、この社会に、世界にまことの光を証しする2013年を迎える備えとしたいものです。
   今月のことば

50da1798.jpeg あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。
     =Ⅱコリント13:5=


 私たちの信仰は、実際に、吟味する必要があります。それは、腐敗したり、弱ったり、空虚になったりすることがあるからです。また、世的なものによって肥大化したり、肉的なものに熱狂したりすることもあり得ます。世の中には、沢山の死んでしまったかのような信仰があるかと思えば、人間的な精力過剰な信仰もあります。
 ことに心に持ち続ける悲しみや逆の享楽は、人々にとってばかりでなく、信仰者にとっても、罠になり得ます。ですから、私たちは、このパウロのみ言葉が、真実、点検が必要であると勧めているのです。

 「自分を吟味するがよい」というみ言葉は、私たちの手探りで考え、熟慮することを求めてはいません。それでは、真の自己吟味・点検にはならないのです。パウロは、その手段・方法は、神のみ言葉にあり、聖書にあると言います。神のみ言葉は、日ごとの私たちの鏡になります。それによって「自分の心」を神の鏡で検証するのです。

 自己検証は、自分に甘いものです。いろいろの理由をつけたがります。すなわち、自己弁護するのです。それでは、真の点検・修理はできません。み言葉は、単なる言葉ではありません。神から頂く命です。神という命のぶどうに木に枝としてつながっているかどうかを、吟味させます。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしを離れては、あなたがた何一つできないからである。」(ヨハネ15:5)

 主イエスにならって 
自らの言葉でなく  神のみ言葉のみを語りし 主イエスにならって
自らの意見のみを語ることなく み言葉のみを語らせ給え

自らの心でなく   神のみ心のみを行いし 主イエスにならって
自らの利益のみを求めることなく み心のみを行わせ給え

自らの栄えではなく 神のみ栄えのみを求めし 主イエスにならって
自らの誉れのみを求めることなく み栄えのみを求めさせ給え
            水野源三著「主にまかせよ 汝が身を」より


e19395b5.jpeg    今月のことば

「主は、貧しい者の叫びをお忘れにならない」。  
       =詩篇9:12=

人には武器が必要です。貧しい者も、武器は持っています。子供も武器を持ち武装しています、しかし、その武器は、人に危害を加える武器ではありません。その武器とは「泣き叫ぶ」ことです。危険や苦しみに対して、警報を伝えるための、いわば非常信号機を持っています。その警報音は、世の人々には届き難くても、天にいます父は、鋭い耳を持っておられますので届くのです。母親が夜、小さな子供の泣き声を聞くよりも、もっとよく聞かれるのです。神様が持っておられるみ手をもって、支え、守って下さるのです。
 しかし、私たちは、そのお守りを、そのお支えを手にするためにどれほどの時間が必要なのかを考えてしまいます。そのようなことは、私には起こらないのではないかと、疑ってしまいます。

 そんな時、心の中にもっともらしい、別の救済者、すなわち、自己救済への思いが湧いてきます。忍耐して待つ間に、神様から差し延べられた、救いのみ手であるかのように近づいてくるのです。頑張りなさい!良い考えが浮かんで来るかもしれませんよ!と言う囁きの声でもあります。
 私たちに必要なのは、忍耐して、与えられることを信じて待つことです。

 しかし、私たちは身勝手です。自分の時間でことを判断します。聖書は、「すべての業には時がある」(伝道の書3:1)ことを語っていますが、それは、私たちの時ではなく、あくまでも「神様の時」であることを知る時、神様は、恵みとして「長い時間でも希望をもって耐え抜く信仰」を下さいます。
    今月のことば
  
御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
          =Ⅰヨハネ5:12=
 
c82f9f42.jpeg 私たちは、このみ言葉によって、誰が御子を持ち、誰が御子を持っていないかと言うことがわかるようです。また、それを告白しなければならないとすれば、何によって出来るのかでしょうか。別の言葉で言えば、誰が神の民で、誰が神の民ではないか、ということでもあります。また、誰が教会の一員であり、誰がそうでないかと言うのかを考えることも出来ます。その判断は、聖書の中に示されています。
 「羊飼いの声を聞いて他の者の声は聞かない者」「神に呼びかけられ、召し出される者。み言葉に聞き、そのもとに身と魂と霊をもって立つ者。聖書を読む者。それを命を保つ食べ物として読む者。神のみ言葉が命の養いに欠くことのできないものとしている者」。
 このような人は、神に属し、神の民と言えるのです。
 
 そして、三位一体の神の御名によって洗礼を受けた者。キリストに従いたいと切に願う者。それを単なる形式として軽んじない者。そのような人は、「御子を持ち」御子の教会の一員です。聖餐の招きに与り、キリストの肉としてのパンを口に入れ、キリストが私たちの贖い主として流された血の杯を飲む者は、御子を持つ者と見做されて、罪の許しと永遠の命を受ける者として生きる者と告白することが許されるとしたら、何と幸いなことでしょう。
<538>
1 過ぎゆくこの世 朽ちゆくわが身
  何をかたのまん 十字架にすがる。
2 ながくもとめし 罪のゆるしを
  したしく主より きくぞ嬉しき。
3 古きわが身は  十字架に死にて
  あらたに生くる 身とぞなりける。
4 時もたからも  この身も霊も
  みな主のものと みまえに献げん。
5 主にある我は  よろこびあふれ
  代々みさかえは 主にとぞ歌わん。  アーメン
  71b62c6a.jpeg 今月のことば

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それなのに、おまえたちは応じようとしなかった。
             =マタイ23:37=
 
 私たちの心の鍵は自分の手にあります。救い主は、扉の外に立って、叩いておられます。扉を開けるのも、そのまま閉めておくのも、責任は私たちにあります。扉を叩く者は、内側からハイと言う返事を待っておられます。そのお方は、無理やりにその扉を壊してお入りにはなりません。そういうことは決してなさいません。
 私たちは自分の未来を選ぶ特権を持っています。天国へ無理やり引きずり込まれることはありません。もし無理に天国に入れられたとすれば、それはもはや天国とは言えないでしょう。

 もしも、私たちが、いくらかでも本気になって全能の神様に、救いを得ようとしないならば、しかも高慢にも「否」と答えるならば、永遠の滅び、死というものを手にするでしょう。この「滅び・死」は私たちの扉を打ち壊し、入るのです。そうして、審きの座に引き出します。心の扉の鍵を開かなかった責任は、「死」と言う代価を支払うのです。

 しかし、私たちが、もう一度、救い主に扉を開いた者にでも、まだ主イエスの入られるのを拒んでいるたくさんの扉のある部屋を持っているのです。本当に、主イエス・キリストが扉を叩かれるのを聞いた時に、すべての扉を開ける者でありたいものです。主にあって賢い者とは、扉を開け、新しい人(自分)にされることを信じ、神と共に生かされることを喜びを持って待ち望む者です。
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    8858e3b6.jpg
エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
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