2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
=ヘブル4:14=
神様は、天におられます。私たちは地上にいます。しかし神様は、その御子をこちらに送って、御子によって、大地とを結び付けられました。そして、もう一度、引き上げられました。その結果、天と地とはキリストのゆえに堅く結び付けられました。この事実と真理はキリスト者の信仰の告白であり土台です。
私たちは地上に居り、いろいろの試みと誘惑に、躓きとなる魅力的な事柄に心奪われたり、時には、私たちの弱さのゆえに揺れ動き信仰の道から遠のくこともあります。だからこそ、信仰をかたく守らなければならないのです。それは、私たち自身の意志や決断によるものではなく、キリストの恵みを信じ「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、すべて彼を信じる者は、失望に終わることがない」(ローマ10:9~11)と約束されたことを知っているからです。
この恵みを常に心に持ち続けるために、聖書を読み、学び、祈り、そうして、教会の礼拝の恵みに与ろうではありませんか。主にある信仰の友との「信仰の交わり」の中に加えられ信仰の共同体の一員として、お互いに支え合おうではありませんか。
そのための今日であり、今月でありたいものです。その時、天にあってかたく守られていることを、御霊は確信させてくださいます。
手紙
読まないで破り捨てるな 引出しにしまい込むな
主からの手紙を開いて読めよ 主からの手紙を開いて読めよ
いつまでも変ることない 愛と真実の満ちた
主からの手紙を開いて読めよ 主からの手紙を開いて読めよ
ためらわないで今すぐに 心をば素直にして
主からの手紙を開いて読めよ 主からの手紙を開いて読めよ
水野源三第二詩集 「主にまかせよ 汝が身を」より
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今月のことば
受けるよりは与える方が、さいわいである。
=使徒行伝20:35=
私たちの心の中に、与えることの方が易しいと思うような気持ちがあるなら、それは大きな誤りと言えます。実は、これほど難しいことはありません。私たちは、何時も与えることが出来るために、十分なお金と方法があれば出来ると考えてきました。しかし、与えることについても大きな過ちを犯し得ることを知りたいものです。
私たちは、何としばしば、必要でないところで与え、必要なところで与えていないことでしょうか。私たちは、少しも必要でないものを与えてこなかったでしょうか。それにまた、私たちは、それを受ける者を喜ばせ、幸福にするかわりに、逆に卑しめるような仕方で、無意識の内に与えることを常としていないでしょうか。もしそうなら、受ける人よりも一段高いところに身をおいて、自分をパトロンのように感じることから来ているとするなら、何と言う思い上りでしょう。
与えると言うことを、私たちがどんなに工夫してやってみても、後になって明らかになるのは、それが「間違い」だったということです。そうなのです。与えると言うことは、いつも悪魔につけ狙われているということです。私たちは、自分の心の中に、自分は役立っている、時には救い主の役を演じているのではないかとさえ思う時、その瞬間に、悪魔が私たちの背後に迫っていることに気付くべきです。
人間がいつも与えることを考えて、受けようとする謙遜さを育てていないと言うこと、それがおそらく人間の罪なのです。私たちは贈与されることが不必要なほどに、自分を豊になっていると思い込んでいないでしょうか。
実は、貧しいのです。私たちは何も持っていないのです。ヨハネの黙示録3章14節から17節には「ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。「アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊になった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」。とあります。
また、真に富むとはどういうことでしょうか。
私たちの心が、神から切り離されている状態を「貧しい心」とした時、私たちは神からの最大の賜物を頂いていない、貧しい者なのです。この貧しさを知り、神からの恵みをいただく時、この恵みを隣り人と分かち合いたいと思う時、謙虚な思いで与えることの幸いを知るでしょう。
受けるよりは与える方が、さいわいである。
=使徒行伝20:35=
私たちの心の中に、与えることの方が易しいと思うような気持ちがあるなら、それは大きな誤りと言えます。実は、これほど難しいことはありません。私たちは、何時も与えることが出来るために、十分なお金と方法があれば出来ると考えてきました。しかし、与えることについても大きな過ちを犯し得ることを知りたいものです。
私たちは、何としばしば、必要でないところで与え、必要なところで与えていないことでしょうか。私たちは、少しも必要でないものを与えてこなかったでしょうか。それにまた、私たちは、それを受ける者を喜ばせ、幸福にするかわりに、逆に卑しめるような仕方で、無意識の内に与えることを常としていないでしょうか。もしそうなら、受ける人よりも一段高いところに身をおいて、自分をパトロンのように感じることから来ているとするなら、何と言う思い上りでしょう。
与えると言うことを、私たちがどんなに工夫してやってみても、後になって明らかになるのは、それが「間違い」だったということです。そうなのです。与えると言うことは、いつも悪魔につけ狙われているということです。私たちは、自分の心の中に、自分は役立っている、時には救い主の役を演じているのではないかとさえ思う時、その瞬間に、悪魔が私たちの背後に迫っていることに気付くべきです。
人間がいつも与えることを考えて、受けようとする謙遜さを育てていないと言うこと、それがおそらく人間の罪なのです。私たちは贈与されることが不必要なほどに、自分を豊になっていると思い込んでいないでしょうか。
実は、貧しいのです。私たちは何も持っていないのです。ヨハネの黙示録3章14節から17節には「ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。「アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊になった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」。とあります。
また、真に富むとはどういうことでしょうか。
私たちの心が、神から切り離されている状態を「貧しい心」とした時、私たちは神からの最大の賜物を頂いていない、貧しい者なのです。この貧しさを知り、神からの恵みをいただく時、この恵みを隣り人と分かち合いたいと思う時、謙虚な思いで与えることの幸いを知るでしょう。
さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
=ヘブル4:14=
神様は、天におられます。私たちは地上にいます。しかし神様は、その御子をこちらに送って、御子によって、大地をいわば結び付けられました。そしてその救いのザイルを、御子は、もう一度ご自身と共に、引き上げられました。そのことが起こって以来、大地は、取り消しようもなく決定的に、天と堅く結びついています。御父の右にいます御子が、救いのサイルを握っておられるということは何と幸いなことでしょう。
地上の大地がどれほど激しく揺れ動いてもキリストとの救いの・永遠の命のザイルはいささかも損なわれません。確りと結合されているのです。
私たちに取っての幸いは、私たちを見捨てない唯一の、この大祭司なるイエスは、私たちの弱さを知り、日々に祈ることを教え、この大祭司に全てをお委ねするという思いを、深め、高め、強めて下さると信仰告白させてくださるのです。
低い地上にあって、私たちが告白する信仰を堅く守ろうではありませんか。疲れはて、こころ弱った時、御霊の助けを求め、み言葉に堅く立たせてくださいと祈ろうではありませんか。
生きる
神さまの 大きな御手の中で
かたつむりは かたつむりらしく歩み
螢草は 螢草らしく咲き
雨蛙は 雨蛙らしく鳴き
神さまの 大きな御手の中で
私は 私らしく
生きる 水野源三第四詩集 「み国をめざして」より
今月のことば
罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておられるだろうか。
=ローマ6:2=
この世の道徳は、「罪を犯してはならない」と言います。神の聖なる律法も、「罪を犯してはならない」と言います。あらゆる宗教の教条もそのように言います。しかし、甦られた方の証人パウロは、「君たちは罪に対して死んだ」と言います。罪からは命脈が絶たれ、力が奪われ、水路が絶たれたと言うのです。罪の息の根が止まり、その脈拍は途絶えたと言うのです。これがパウロの言う「罪に死んだ」状態なのです。
パウロがそのように言うのは、唯一つの理由があるからです。すなわち、イエスの十字架での死の働きにおいてのみのことです。イエスの十字架は、この世の罪が深く関っています。あそこでは、私たちの罪を背負われた方として、私たちに代わって、全ての憐れな私たち(罪人)に代わって死なれたのです。
イエスは、私たちの罪を、墓の中に携えて行かれました。パウロは言います。「わたしたちはキリストと十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)。或いは、「わたしたちは彼と共に埋められた」(ローマ6:4)と。
私たちは真剣に考えなければならないことがあります。それは、イエス・キリストの死は、私たちの永遠の命のための死であることです。古いアダムの死であり、神のみ前に存続できない人間、罪の中に生き続け、神のいのちに死んでいた私たちが、キリストの十字架の死によって、神に生きる者、神と共に生きることが出来る道になられたと言う事実についてです。
罪の中に生きてきた自分、そこが滅びの罪の世であることを考えずに生きてきた今までから、キリストを知り、救いを知り、永遠の命を知る生き方が許されているのですから、大胆に頂こうではありませんか。
罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておられるだろうか。
この世の道徳は、「罪を犯してはならない」と言います。神の聖なる律法も、「罪を犯してはならない」と言います。あらゆる宗教の教条もそのように言います。しかし、甦られた方の証人パウロは、「君たちは罪に対して死んだ」と言います。罪からは命脈が絶たれ、力が奪われ、水路が絶たれたと言うのです。罪の息の根が止まり、その脈拍は途絶えたと言うのです。これがパウロの言う「罪に死んだ」状態なのです。
パウロがそのように言うのは、唯一つの理由があるからです。すなわち、イエスの十字架での死の働きにおいてのみのことです。イエスの十字架は、この世の罪が深く関っています。あそこでは、私たちの罪を背負われた方として、私たちに代わって、全ての憐れな私たち(罪人)に代わって死なれたのです。
イエスは、私たちの罪を、墓の中に携えて行かれました。パウロは言います。「わたしたちはキリストと十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)。或いは、「わたしたちは彼と共に埋められた」(ローマ6:4)と。
私たちは真剣に考えなければならないことがあります。それは、イエス・キリストの死は、私たちの永遠の命のための死であることです。古いアダムの死であり、神のみ前に存続できない人間、罪の中に生き続け、神のいのちに死んでいた私たちが、キリストの十字架の死によって、神に生きる者、神と共に生きることが出来る道になられたと言う事実についてです。
罪の中に生きてきた自分、そこが滅びの罪の世であることを考えずに生きてきた今までから、キリストを知り、救いを知り、永遠の命を知る生き方が許されているのですから、大胆に頂こうではありませんか。
今月のことば
お詫びとお知らせ
私事で申し訳ございませんが、1月中旬から体調が悪くなり、2月1日、胆石が胆管に詰まり、胆汁が溜まり危険状態になり、愛知医大病院に緊急搬送入院になりました。16日に一時退院になりましたが、2月28日に心臓の血管狭窄手術のため再入院、3月12日には再々入院で胆嚢摘出手術を受ける予定になりました。不十分なままで「つのぶえジャーナル」をお届けするよりも3月号をお休みして4月号からお届けさせて頂きたくお知らせいたします。3月中は体力回復に当りたいと思っています。
20012年2月21日
名古屋市名東区梅森坂西2-616-E号
「つのぶえジャーナル」編集・発行人
長村 秀勝
お詫びとお知らせ
私事で申し訳ございませんが、1月中旬から体調が悪くなり、2月1日、胆石が胆管に詰まり、胆汁が溜まり危険状態になり、愛知医大病院に緊急搬送入院になりました。16日に一時退院になりましたが、2月28日に心臓の血管狭窄手術のため再入院、3月12日には再々入院で胆嚢摘出手術を受ける予定になりました。不十分なままで「つのぶえジャーナル」をお届けするよりも3月号をお休みして4月号からお届けさせて頂きたくお知らせいたします。3月中は体力回復に当りたいと思っています。
20012年2月21日
名古屋市名東区梅森坂西2-616-E号
「つのぶえジャーナル」編集・発行人
長村 秀勝
今月のことば
かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。
=ヨハネ黙示録22:17=
私たちは疑い深い者です。「価なしに」といわれるとかえって疑います。代価を払ってといわれると、その値段が気になります。この命が地球よりも重いといわれても、実感が伴わなければ、単なる言葉になってしまうことを知っています。価のないものは、値打ちのないものになるのです。もし誰かが無代価で何かをくれたり贈られたりすると、それは元々何も貴重なものではないのだと、信じ込んでしまいます。
なぜなら、誰でも、貴重なものは自分の手元に取っておいて、人にくれるのは、せいぜい傷物か屑物にすぎないと思ってきたからです。
しかし、キリストは、そのような私たちの疑い深いこととは無関係に、ここで「かわいている者」に対して、「いのちの水」を無償で与えるというのです。疑い深い私たちは、代価を払って「いのちの水」を得なさいと言う申し出なら、納得するでしょう。「無償のいのちの水」と「有償のいのちの水」を人は比較するのです。そうして、有償を信じるのです。
しかしその水は「いのちの水」ではないのです。キリストの「いのちの水」は、有償です。神の子キリストというお方が、ご自身の命を代償として支払ってくださった「いのちの水」を、支払い能力のない者のために、憐れみによって、愛によって与えてくださる「有償のいのちの水」です。それを受けよと提供されているのです。
疑って拒否するか、感謝して受け取るかの決断は、あなた次第なのです。
=ヨハネ黙示録22:17=
私たちは疑い深い者です。「価なしに」といわれるとかえって疑います。代価を払ってといわれると、その値段が気になります。この命が地球よりも重いといわれても、実感が伴わなければ、単なる言葉になってしまうことを知っています。価のないものは、値打ちのないものになるのです。もし誰かが無代価で何かをくれたり贈られたりすると、それは元々何も貴重なものではないのだと、信じ込んでしまいます。
なぜなら、誰でも、貴重なものは自分の手元に取っておいて、人にくれるのは、せいぜい傷物か屑物にすぎないと思ってきたからです。
しかし、キリストは、そのような私たちの疑い深いこととは無関係に、ここで「かわいている者」に対して、「いのちの水」を無償で与えるというのです。疑い深い私たちは、代価を払って「いのちの水」を得なさいと言う申し出なら、納得するでしょう。「無償のいのちの水」と「有償のいのちの水」を人は比較するのです。そうして、有償を信じるのです。
しかしその水は「いのちの水」ではないのです。キリストの「いのちの水」は、有償です。神の子キリストというお方が、ご自身の命を代償として支払ってくださった「いのちの水」を、支払い能力のない者のために、憐れみによって、愛によって与えてくださる「有償のいのちの水」です。それを受けよと提供されているのです。
疑って拒否するか、感謝して受け取るかの決断は、あなた次第なのです。
今月のことば
もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
(ヘブル3:14)
2012年を迎えた皆様の上に、神様の愛と憐れみの恵みが豊に備えられますようにお祈りいたします。
私たちは、不安と絶望を持ってこの新年を迎えるでしょうか。それとも、そうではなく、年の始めに何かの「確信と期待」をもって望みましょう。そうして、1月31日、この日をもって一月を終わる時、その「確信と期待」はどうだったでしょうか。
私たちは、自分の弱さや無能力からスタートするのではなく、神の力と神の助けに望みをおいて始めたと思います。
この「確信と期待」が自分自身に置いたのではなく、神の側に置く時、「キリストにあずかる者」となっているのです。それは、私たちが自分自身に全面的に信頼しうる者ではなくて、貧しく無力な者としての自分として、神に向けたからです。
キリストは、常に変ることなく私たちの救い主になって下さるお方です。この事実から2012年を考え、2012年2月を考えようではありませんか。「最後までしっかりと持ち続ける」者は、最初の確信、すなわち、「キリストにあずかる者」となるという思いです。迷い、挫け、彷徨う日々であっても、私たちがどうであっても、「キリストにあずかる者」という「確信と期待」を、日々、覚えようではありませんか。
今日一日が始まる
わが部屋にわが心に 静に近づきたもう
主イエス様の足音で 今日一日が始まる
わが耳にわが心に ひそやかに語りたもう
主イエス様のみ言葉で 今日一日が始まる
わが足をわが心を やさしく導きたもう
主イエス様のみ心で 今日一日が始まる
水野源三第二詩集「主にまかせよ 汝が身を」より
もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
(ヘブル3:14)
2012年を迎えた皆様の上に、神様の愛と憐れみの恵みが豊に備えられますようにお祈りいたします。
私たちは、不安と絶望を持ってこの新年を迎えるでしょうか。それとも、そうではなく、年の始めに何かの「確信と期待」をもって望みましょう。そうして、1月31日、この日をもって一月を終わる時、その「確信と期待」はどうだったでしょうか。
私たちは、自分の弱さや無能力からスタートするのではなく、神の力と神の助けに望みをおいて始めたと思います。
この「確信と期待」が自分自身に置いたのではなく、神の側に置く時、「キリストにあずかる者」となっているのです。それは、私たちが自分自身に全面的に信頼しうる者ではなくて、貧しく無力な者としての自分として、神に向けたからです。
キリストは、常に変ることなく私たちの救い主になって下さるお方です。この事実から2012年を考え、2012年2月を考えようではありませんか。「最後までしっかりと持ち続ける」者は、最初の確信、すなわち、「キリストにあずかる者」となるという思いです。迷い、挫け、彷徨う日々であっても、私たちがどうであっても、「キリストにあずかる者」という「確信と期待」を、日々、覚えようではありませんか。
今日一日が始まる
わが部屋にわが心に 静に近づきたもう
わが耳にわが心に ひそやかに語りたもう
主イエス様のみ言葉で 今日一日が始まる
わが足をわが心を やさしく導きたもう
主イエス様のみ心で 今日一日が始まる
水野源三第二詩集「主にまかせよ 汝が身を」より
今月のことば
「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」。
=ルカ1:48=
多くの人は「クリスマス」という言葉を知っています。その時だけは戦火は止み戦場が静けさを取り戻したそうです。本当に不思議な時です。イエスの誕生も不思議です。
人の子を9ヶ月胎内に宿して産むことを許されたマリヤの言動も不思議です。そうしてそのもたらす出来事も不思議です。疑いもなく世界の出来事でただ一度だけのことが起こりました。このマリヤ以外、誰一人マリヤのような体験はしていません。マリヤは、言葉は適切でないと思われる人もおられましょうが、神様のある目的の実現のための道具となり、神様の目的の器となり、担い手となりました。
マリヤはどんなに悩んだでしょうか。こんな神の力と栄光を宿すということなど考えられないことです。この女性は特別な人ではなかったでしょう。普通の未婚の女性です。この女性が「女の中で祝福されたかた」(1:41)人であり、「恵まれた女」(1:28)と呼ばれるのです。この女性は、世界を救い、死と悪魔に対しての勝利は、この人の母胎にゆだねられたのですから。
私たちをなお不思議へと導きます。「なぜ神様の摂理は、他の女性ではなくこの人を選んだのでしょう。なぜこのマリヤが神様の目的を担う者であったのでしょう。誰が許されたのでしょう」。
彼女に何か特別な長所を捜し求めたとするなら、一つのことを見つけ出すでしょう。それは「卑しさ」という途方もないものです。「卑しさ」は人の一番嫌うものです。
彼女のあることの何かが、また彼女の何かが、彼女を「選ばれた者」にしたのは、何かがあったからではなく、彼女には「無いところの何かが」彼女を「選ばれた者」にしたのでした。
それは「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」という事実のみが不思議に対する答なのです。

プレゼント
すばらしいすばらしい
プレゼントはいらない
美しい美しい
カードもいらない
おいしいおいしい
ケーキもいらない
神さまからの
愛のこもった
プレゼントがあるから 水野源三「み国をめざして」第四詩集より
「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」。
=ルカ1:48=
多くの人は「クリスマス」という言葉を知っています。その時だけは戦火は止み戦場が静けさを取り戻したそうです。本当に不思議な時です。イエスの誕生も不思議です。
人の子を9ヶ月胎内に宿して産むことを許されたマリヤの言動も不思議です。そうしてそのもたらす出来事も不思議です。疑いもなく世界の出来事でただ一度だけのことが起こりました。このマリヤ以外、誰一人マリヤのような体験はしていません。マリヤは、言葉は適切でないと思われる人もおられましょうが、神様のある目的の実現のための道具となり、神様の目的の器となり、担い手となりました。
マリヤはどんなに悩んだでしょうか。こんな神の力と栄光を宿すということなど考えられないことです。この女性は特別な人ではなかったでしょう。普通の未婚の女性です。この女性が「女の中で祝福されたかた」(1:41)人であり、「恵まれた女」(1:28)と呼ばれるのです。この女性は、世界を救い、死と悪魔に対しての勝利は、この人の母胎にゆだねられたのですから。
私たちをなお不思議へと導きます。「なぜ神様の摂理は、他の女性ではなくこの人を選んだのでしょう。なぜこのマリヤが神様の目的を担う者であったのでしょう。誰が許されたのでしょう」。
彼女に何か特別な長所を捜し求めたとするなら、一つのことを見つけ出すでしょう。それは「卑しさ」という途方もないものです。「卑しさ」は人の一番嫌うものです。
彼女のあることの何かが、また彼女の何かが、彼女を「選ばれた者」にしたのは、何かがあったからではなく、彼女には「無いところの何かが」彼女を「選ばれた者」にしたのでした。
それは「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」という事実のみが不思議に対する答なのです。
プレゼント
すばらしいすばらしい
プレゼントはいらない
美しい美しい
カードもいらない
おいしいおいしい
ケーキもいらない
神さまからの
愛のこもった
プレゼントがあるから 水野源三「み国をめざして」第四詩集より
まことにわたしは、その事のそのとおりであることを知っている。しかし人はどうして神の前に正しくありえようか。よし彼と争おうとしても、千に一つも答えることができない。
=ヨブ記9:2~3=
キリスト者であるなら、一度ならず繰り返し「ヨブ記」を読まれたことでしょう。人間ヨブは、たったの一日で、自分の全財産と子供たちを失った人です。皮膚は腫れ物で覆われ、灰の中に座っている人。敬虔な友人たちや、腹立たしい慰め手たちや、そのような命を終りにすることを勧め求める妻などに囲まれている人です。
また、自分の言葉では言い表せない苦しみを、長さ、広さ、深さを用いて探求し、長い時間を用いて友人たちと激しい議論を戦わせる人。天に向って様々な問いを神に発している人です。
このヨブに神は、不思議な静けさ、様々な問いが自分の魂の祝福になっていることを記しているのもヨブ記です。
ヨブの結論に感動します。「よく分っている。人はどうして神の前に正しくありえようか。よし彼と争おうとしても、千に一つも答えることはできない」という告白です。
人には人生の成熟期というものがあって、そこでは私たちは、この「よく分っている」という言葉は、性急には語れません。それは、人は何ほどのことをも知っていないかを「知って」いるからです。
ヨブの告白(結論)は「わたしは知ります。あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。・・・。わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。
私たちの信仰が、「よく分りました」と言えるならば、何と幸いなことでしょう。わたしは道を知らないが、あなたはそれをよくご存知であることを告白する時、魂に平安が与えられ、静まることでしょう。
ヨブ記は、私たちにいろいろのことを考えさせる書と言えます。
今月のことば
<あなたがたは>・・・神を信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
(エペソ1:13~14)
キリスト者の信仰生活は、祈り、讃美する。ほめたたえ、捧げ物をする。説教を聞き、献金をし、聖餐にあずかり、聖書研究の集まりに出席し、聖書日課を読み、食前のお祈りをする、というのが一般的です。しかし、このような宗教的規律?の日々にあっても喜びがなく、平安がないとするなら、キリスト者を取り巻く人々の目にどのように映るでしょうか。その生活を見て、共に祈ろう、そのような信仰(宗教)生活に憧れるでしょうか。
このような言葉は適切ではないのですが、「死せる正統主義」であるなら、今一度省みることは大切です。
パウロが私たちに紹介する世界は、それとは何と違うことでしょう。「あなたがたは神を信じた結果」の世界は、新しい世界の始まりです。人は「聖霊の証印を押され」「神の国をつぐ」保証を受けるといいます。聖霊は、私たちの生活・意思の中に深く関り、変化をもたらし始めるのでした。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂を生きかえらせ、み名のためにわたしを正しい道にみちびかれ。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇23:1~4)。
この証印・保証は、ただ人は信じることによって、宗教的規律ではなく、そうせざるを得ない者へと新たにされるとしたら、なんと幸いなことでしょう。喜びの宗教的規律になるのではないでしょうか。その日々の歩みは、周りの方々に大きな変化をもたらすことでしょう。
我が魂よ忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
あわれみ深い主イエスに
はじめてお会いしたあの日を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
取るに足らぬ我を見つめ
わが名呼びたるあの御声を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
悲しみに冷えた心が
喜びに燃えたあの時を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
他では得られない まことの
愛と安らぎのある御もとを 水野源三著・第3詩集「今あるは神の恵み」
富井悠夫著 「日の上からの知恵」 伝道者の書講解
ご希望の方は、お近くのキリスト教書店でお求めください 定価1300円+税
<あなたがたは>・・・神を信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
(エペソ1:13~14)
キリスト者の信仰生活は、祈り、讃美する。ほめたたえ、捧げ物をする。説教を聞き、献金をし、聖餐にあずかり、聖書研究の集まりに出席し、聖書日課を読み、食前のお祈りをする、というのが一般的です。しかし、このような宗教的規律?の日々にあっても喜びがなく、平安がないとするなら、キリスト者を取り巻く人々の目にどのように映るでしょうか。その生活を見て、共に祈ろう、そのような信仰(宗教)生活に憧れるでしょうか。
このような言葉は適切ではないのですが、「死せる正統主義」であるなら、今一度省みることは大切です。
パウロが私たちに紹介する世界は、それとは何と違うことでしょう。「あなたがたは神を信じた結果」の世界は、新しい世界の始まりです。人は「聖霊の証印を押され」「神の国をつぐ」保証を受けるといいます。聖霊は、私たちの生活・意思の中に深く関り、変化をもたらし始めるのでした。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂を生きかえらせ、み名のためにわたしを正しい道にみちびかれ。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇23:1~4)。
この証印・保証は、ただ人は信じることによって、宗教的規律ではなく、そうせざるを得ない者へと新たにされるとしたら、なんと幸いなことでしょう。喜びの宗教的規律になるのではないでしょうか。その日々の歩みは、周りの方々に大きな変化をもたらすことでしょう。
我が魂よ忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
あわれみ深い主イエスに
はじめてお会いしたあの日を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
取るに足らぬ我を見つめ
わが名呼びたるあの御声を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
悲しみに冷えた心が
喜びに燃えたあの時を
わが魂よ 忘れたのか
わが魂よ 忘れたのか
他では得られない まことの
愛と安らぎのある御もとを 水野源三著・第3詩集「今あるは神の恵み」
富井悠夫著 「日の上からの知恵」 伝道者の書講解
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神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し・・・。
=創世記1:27=
聖書を初めて開いて出会う最初の箇所が創世記です。そうして、これも非常に驚く言葉がこの1章27節と思われる方も多いと思います。しかし、この言葉で、私たちに、「神は私たち人間を神と向き合う者として、神への対向者として創られた」ということを知ります。
神は、私たちに語りかけることが出来るように、また私たちが神に答えることが出来るように、私たちを「神に向けて」創られていることを知らされます。私たちには、生来、神を讃美することが出来るように、神が私たちを創られたことを感謝出来る者、神に栄光を帰することが出来る者であることをここで知ります。
神は、私たちに言葉を与え、そうすることで、私たちとこの地球と宇宙について懐いておらるみ旨、ご計画を明らかにされます。また、神は私たちを対話の中に入れてくださると言うことは、どう言うことなのでしょうか。それは、私たち人間は祈ることが出来る、またそのようにすることが許されているということです。これは、全被造物の中で、私たち人間のみの特権であり、特典でもあります。それは、そのように創造されたからです。
美しい緑と花を咲かせる木々、優れた知能を発揮する動物でも、言葉をもって祈り、讃美することは出来ません。それはそのように創造されなかったからです。この特権、特典である祈りにおいて、永遠の創造者であり私たちの御父であられる方の中にとどまることを許されている時こそ、私たちは「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し」と言うことの幸いを知るのです。
さて、そのような私たちの現実は、祈りを失い、霊的な関係を失い、神との断絶の中にあることを、改めて知らなければなりません。私たちのこの姿は、朝は動物のように寝足りて寝床から起き、しっかりとした足取りで生活し、夜は寝床に入って五分と経たずに寝入ってしまう。ただそれだけの繰り返しの人生は、幸いと言えるでしょうか。それは、神の似姿とは遠くかけ離れた姿です。
神の似姿に生きる幸いを、本当の生き方にしたいものです。
=庭のブラックべりー=
今月のことば
兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
(ガラテヤ5:13)
自由という言葉は、とても魅惑的です。地上の大きな財産の一つと言えるほどのものです。しかし、ここで使徒パウロは、「自由は、それが健全なものである限りにおいてだけ、高貴な宝なのだ」と言います。ですから、全ての自由が良いのではないのです。健全な自由があると同時に、病んだ自由もあるのです。
私たちが、与えまた愛するためにそれを用いる限りにおいてだけ、健全なものであり続けると、私たちに語りかけています。
パウロは、「兄弟たちよ」と呼びかけています。すなわち、キリストを救い主と信じる私たちに語りかけています。そうして、またその自由の用い方について、私たちが誤用する危険のあることを予め注意しています。それは、自由の名のもとに、人は多くの過ちを犯し、人々を悲しませ、傷つけてきたことは何と多いことでしょう。
そのためにパウロは、自由はそれを私たちの奉仕に対して、自由として用いる限りの自由としたのです。この自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えるために、用いると言う制限を示しています。人は、自分の自由(罪の心)のために、人と争い、支配し、人の自由を奪ってきたのです。
私たちは、外側からの攻撃には心備えはいたしますが、危険なのは、内部からの、内なる自分の敵なのです。
私たちを真に自由にするのは、キリストにあってのときです。キリストのみが、私たちの心の敵に気付かせ、勝利の道を示してくださるのです。
砕いて砕いて砕きたまえ
御神のうちに生きているのに 自分ひとりで生きていると
思い続ける心を 砕いて砕いて砕きたまえ
御神に深く愛されているのに 共に生きる人を真実に
愛せられない心を 砕いて砕いて砕きたまえ
御神に罪を赦されているのに 人の小さな過ちさえも
赦せられない心を 砕いて砕いて砕きたまえ
水野源三著・第4詩集「み国をめざして」
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円