[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
世田谷通信(200)
猫草
学校には図書室がある。そう法律で決まっているのだ。昭和28年に「学校図書館法」が制定された。その第一条は「この法律は、学校図書館が学校教育において欠くことのできない基礎的な設備であることにかんがみ、その健全な発達を図り、もって学校教育を充実することを目的とする」である。サンフランシスコ平和条約の翌年、まだ戦後の混乱と混沌の中で、学校教育の基礎的な設備として図書室が位置づけられた意味を今一度考えたいところである。偏った情報統制や一部の特権階級しか知識にアクセスできない社会は自らの誤りを正せない。それは戦時中、意図的に歪曲された情報やそれを是とする状況があったからだ。終戦後にその情報操作が白日の下にさらされ、多くの大切なものを失い、辛くも生き残った人たちの歯噛みするような悔しさがあったと思う。戦後すぐにその改善策を教育と図書室に求めた、決意のような思いを感じる条文である。
とはいうものの理想と現実はなかなか折り合いがつかないのも事実ではある。今から15年前、長男が小学校に入学した時、校内を回って、図書室を探した。それは校舎3階にあった。背の高い書棚が並び、電気は消えて鍵がかかっていた。中は暗くてよく見えない。図書室と言うより書庫だった。司書にあたる人は居るが、他の学校と兼務で2ヶ月に1回来るのだという。基本的に無人なので、授業や調べ物の時に先生が鍵を開けて使う場所だった。ん?図書室ってそういうものでしたっけ・・。
疑問を抱きつつ、長男が4年生になったとき、学校から図書ボランティアを募る話があった。最初は朝の読み聞かせ充実と、廃校から大量の寄贈を受けた本の整理などだった。何かできることがあればと参加して、驚いた。蔵書目録がないのである。何年に何を買ったという図書原簿はある。しかし現在どこにどの本がどういう状態で何冊あるかがわからない状態。やっぱりこれは図書室ではなくて倉庫だ、と思った。
その後副校長先生より、中休みや昼休みに毎日子どもたちが利用できるように図書室を開けたいと話があり、図書事務としての勤務が始まった。電算化も進み、蔵書はデータベース化された。数年前より学校にも民営化の流れが来て、給食、警備、主事、司書も外部委託となった。平成26年に「学校図書館法」が改正され、「学校司書」の配置が法律で位置づけられたことも、大きな転換点と言えるだろう。さて、これからの学校図書館とはどんなふうになっていくのだろうか。
まずは学校が再開されるのを、今はただ静かに待つしかない。
:里山農園のチューリップと六条大麦の写真もよければ使ってください。チューリップ写真は縦長だったので横長にトリミングしましたがどうでしょう?
世田谷通信(199)
猫草
萌芽更新という言葉がある。ほうがこうしん、と読む。「ぼうがこうしん」でもいいが、濁ると語感が悪いので、前者にする。何かというと、まだ若い元気な木を伐って、再生させること。こう書くと、どうして元気な木を伐るんだ、かわいそうじゃないか!と急に怒る人がいるのでびっくりする。木は適当な時期に伐った方が良いのだ。木のため、森のため、他の植物やその周辺の生きもの全部のためにも。もちろん、山ごと全部伐って荒れ地にするのではない。その逆で、はげ山にしてしまった反省を踏まえて、ちゃんと木の状態をみて、適切な時期に、1本ずつ慎重に伐る。
確かに、木が切り株だけになると空間がすっぽり空いて、寒々しく見える。樹液があふれるのを、泣いているみたいと擬人化する気持ちも分からなくはない。でも若い木の生命力はすごい。樹液が出るのは元気な証拠、半年もすれば脇からどんどん細い枝が育つ。切り株だったのがあっという間に若枝に覆われる。その細い枝も剪定する。メインの幹とサブを残すのだ。それが適度な大きさに育てば10年から15年周期で伐ると良いと言われている。
伐った枝や幹も無駄にはしない。太い部分はベンチに、中ぐらいの幹は椎茸のホダ木に、細いのは薪にする。もっと細い小枝や葉っぱは一カ所に集めて積み重ねておくとインセクトホテル、虫の宿になる。そこは新たな生きものの隠れ家や住み処になるのだ。
伐った後は地面に光が入る。埋まっていた種子が発芽し、新しい草花が育ち、花や樹液には虫が集まる。その虫を狙う小動物が来る。多様な生きものが増えて、複雑な循環が始まる。朽ち木は様々な菌や虫たちがせっせと分解し、やがて土に還り、土壌を豊かにする。多様な微生物によってふかふかになった土からは思いがけない新しい芽が出る。その絶え間ない繰り返しこそが生物多様性だと思う。
新型ウィルスというが、既知のウィルスはほんのわずかなこと。菌、微生物、ウィルスに関しては、わかっていないことの方が圧倒的に多い。何がきっかけでよくなるか悪くなるか専門家にも予測できないならば、できるだけ多様な可能性を残そう、色々な条件の環境を守ろう。目に見えない小さな生き物が生息できる住処を増やそう。
もちろん不潔で不衛生は論外だが、一方で消毒された環境は脆弱でもある。良いものも悪いものも日和見もすべてなくしたらバランスがとれない。画一的で過剰な反応がいつまで続くのか、次世代の解決策や特効薬が見つかるかもしれない可能性までも知らず知らずのうちに握りつぶしてはいないか。
世田谷通信(198)
猫草
昨年の冬、右腕が腫れ、夜中に痛む。なんだかわからず病院に行くことにする。しかし、そこから5軒もはしごするとは想定外だった。ああでもないこうでもないと検査をされて、紹介状を持って大学病院へたどり着くまで一ヶ月。肩レントゲン3回とMRIって放射線や磁気を浴びすぎじゃないだろうか。毎回初診時はレントゲンをやらないと次の治療に進めない双六みたいなルールがあるそうなのだ。
それにしても大学病院の混雑は想像以上。自動予約受付に自動会計と最新設備はあるのだが、医者が足りていない。4時間待ってやっと予診。書類の入ったクリアファイルを持たされて院内を歩いて居ると「わらしべ長者」を思い出す。でも全然違う。あれは交換するたびに良い物になる話だ。長時間待たされすぎて気持ちがおかしな具合になったようだ。
何はともあれ肩の腱が切れていたことが判明。その影響で上腕に腫れが生じていたという。筋の切れた肩に、本が一杯入った重い袋を持って負荷をかけていたのだから良くなるはずもない。翌日から右肩に湿布とサポーター、ちょっと気をつけたらみるみる腫れが引いた。
その後、動物病院でウサギの健康診断の時に、ついでに獣医さんと雑談した。肩の腱が切れていたが肩自体はそんなに痛くなくて、腕が腫れた原因がわからなかったんです、というと即座に「重力には逆らえません。」と言う。この獣医さん、結論だけ先に言う癖があるのだ。どういう意味ですか?と聞くと、「例えば足首を捻挫して足の甲が腫れるのと一緒です。重力があるから傷より下に症状が出ます。動物の背中に輸液しても、吸収が悪いとお腹や手足に水分がたまります。重力には逆らえません。」と。ああ、そういうことか。ようやく納得。
5つも病院を回ったが、ウサギの爪切り中の獣医さんとの雑談に一番説得力があった。これから自分も不調の時は動物病院で相談しようかとさえ考えてしまう。
世田谷通信(197)
猫草
英語を使わなくなって久しい。いや違う。一度もきちんと英語が話せたことはない。苦手で、克服したい気持ちもあり、でも向き合ってこなかった。授業として英語を学んでいたのは何年前だろう。もう単語も文法も思い出せない。
里山農園というのが近所にあり、集まったボランティアの方々と畑を耕したり雑草をとったりしていた。農園オープンから日が浅く、ほとんど初対面。ふと隣の方が半ズボンで、草むらにいるのが気になった。虫刺されや引っかき傷、鎌も使うので危ない。休憩の時、「長いズボンの方が良いですよ~」と声をかけた。よく見たら欧米の方だが、簡単な日本語は理解できるだろうと思っていた。すると「すみません、日本語はわかりません」と英語で言われたと思う。
じゃあ英語で、と思ってみたものの、頭が真っ白になるとはこのこと。脳内のどこにも英語がない。ええと、長ズボンはロングパンツか。虫刺され・・虫はバグ?いやインセクト・・?刺すって英語で何でしたっけ。幼稚園児並の語彙力だ。
そんなわけで英会話はあきらめたが、それでも少しコミュニケーションがとれたのが、サツマイモ料理の話題。あちらは茹でて潰してバターと砂糖と生クリームと混ぜてオーブンで焼いてパイにするという。それは絶対美味しいね、カロリーは相当高そうだが。日本ではどうするの?と聞かれて、煮る、揚げる、蒸す、焼く・・かなあ。そうだジャパニーズスイートポテトと言えば石焼き芋!中でも安納芋は甘くてほくほくで美味しいよ、と言いたかったが英単語がでなかった。でも「これね!」とスマホで石焼き芋の画像を見せたら分かって貰えた。英語力より主婦力。画像は言葉のカベを超える。まあそれでなんとかやっていける。できないことが多くなりすぎて、今更英語力のなさを気にしても仕方ない。図太くなるというのは、若い頃のような「あれもできない、これも足りない」焦燥感がなくなることなのかもしれない。
かつて子どもの頃に周囲の大人を見て「どうして粗野で無知で矛盾だらけなのに図々しく、あんなに偉そうなんだろう?」と思った。そんな存在にならないようにせめて無知の知を自覚して、謙虚でいよう。
世田谷通信(196)
猫草
月一度小学校低学年向けに「お話会」という読み聞かせをしている。放課後、希望者のみなので5~10名程度の少人数だが、お話しを聞きたい子ども達なので、とてもよく聞いてくれて読み手も楽しい時間になっている。
どんな絵本、テーマにしようか、あれこれ考えながら5,6冊を選んでおく。まず表紙をみせて、子ども達と相談しながら読む順番を決めて行く。「知ってるー」「この間先生が読んだー」という本よりは、知らない本のほうが集中できるし、「あのねー、わたし知ってる・・」とネタばらしをされるリスクも少ない。子ども達は新しいお話しを聞くとき、とても真剣で、一生懸命だ。このあとどうなるんだろう?と頭の中がフル回転している感じが伝わってきて、可愛らしい。その気持ちをこわさないように、読むスピードやページをめくるタイミングにも気を遣う。
起承転結のしっかりしている本、言葉のリズムが面白い本、絵や装丁に工夫がある、しかけ絵本など色々あったほうが、その場の雰囲気に合わせやすい気がする。
季節や行事に合わせた本も効果的。1月なら、お正月、おもち、お年玉、カルタ、雪などの絵本を並べてみてもいい。低学年なので集中して話が聞けるのはせいぜい10分。1,2冊読んだら、3冊目は探し絵やクイズのような遊び要素をいれたり、写真絵本を眺める時間があってもいい。4冊目になるともういいや~、という空気になってくるので、表紙とあらすじだけ紹介して、また今度ねと終わりにする。
2,3年生に読書感想文用の本を紹介する場合は、冒険、笑い話、怖い話、動物が出てくる話、など幾つかのジャンル別に数冊ずつ用意する。「表紙のすぐ裏に数行のあらすじや作者からのメッセージが書いてある場合も多いです、面白そうだなと思ったら本文を数ページ読んでみてくださいと伝える。」ちなみにこの表紙の裏、カバーの折り返し部分は「そで」と呼ぶらしい。
なかなか新しい本に手が出ず、いつも同じシリーズの本や図鑑、迷路、クイズの本ばかり借りてしまう子どもが多い。長い本を紹介するときは全部読めないので、冒頭のみ紹介することもある。「『その森の奥で男の子が見たものは・・』はい、この続きは自分でね。」と、わざとキリの悪いところで本を閉じると「えー!うそでしょう、おしまい?」「めっちゃ気になる~」と手が伸びる事が多い。
読書スタンプラリーや本の福袋、クロスワードパズル、たくさん読んだ子には特製しおりプレゼントなど色々な工夫で本と出会えるきっかけができるようにしていきたい。
世田谷通信 (195)
猫草
これが掲載される頃はもう師走、雑木林は落葉で一杯の季節だろう。10月末は紅葉もまだ、しかし地面をみるとドングリやギンナン、クリがたくさん落ちている。秋から冬への支度が始まっていると同時に、枝ごとざっくり折れている木々が目立つのは、各地に大きな被害をもたらした台風の影響だ。
ドングリといっても、雑木林をみると色々な種類がある。コナラは網目模様の帽子で可愛らしい、あの帽子は殻斗(かくと)と呼ぶらしい。マテバシイはもっと縦長。本来は九州以南の自生とのことだが、世田谷の雑木林にあるのは薪炭用に植林された名残りとか。生でも食べられるよ、まあまあ美味しいよ、と70代の方は教えてくださるが、食べたことはない。
クヌギは丸くて大きくよく目立つ。帽子がイソギンチャクの触手のような鱗片状。ナラでもカシでもまとめて「ドングリ!」と呼ぶ子ども達も、これは別格で「クヌギ」と言っている。樹液もよく出て昆虫も集まる、雑木林の中のクヌギはなんだか存在感がある。
艶々の小さい実がたくさん落ちている・・と思うとシラカシ。カシ類の殻斗は縞模様なので区別がつく。街路樹や庭木、学校の中にもよく見かける。常緑だからか、いや結構大きくなるし剪定も必要なのに。
このあたりのドングリの仲間はこれぐらいかなと思っていたらスダジイがあった。葉っぱを見上げると裏が光って金色にみえる。殻斗に覆われて熟すと中から出てくるタイプ。栗みたいな味らしい。封筒に入れて電子レンジにかけるのよ、と教わった。ドングリの仲間は重力散布、地面に落ちてころころ転がった先で芽を出すのだ。
秋には色々な実が熟す。赤い実をつけるムクノキにはどちらが先に由来するのかわからないムクドリが来ている。ハゼノキは川の近くに真っ黒なリースのような実をたくさんつけている。シャリンバイは鳥に食べて貰えるように赤から紫、そして深い黒へと変化をみせる。
雑木林と川添いを移動して帰宅すると、靴や服のあちこちに種子が付いている。ヤブジラミだ。5mmほどの小さなラグビーボール状、その表面全体に微細な突起がついている。このタイプの種子の鋭い先端はちゃんと返しがついていて、隙間に入り込んで、とれない。この形状で超小型発信器を作ったらスパイ用品で売れないかと思うほどに精巧。できるだけ遠くへ移動し、勢力拡大したい。種子の知恵と工夫は見習うべき戦略に満ちている。
世田谷通信(194)
猫草
高齢の学校ウサギを預かっていることを書いた。しかし夏の暑さに耐えられず、8月に息をひきとった。
その日は午前中から気温30℃を超す暑い日だった。獣医さんに連れて行くと「顔色が悪いですね」と言われた。ウサギの顔色って何?と思ったが、確かにいつも薄ピンクの鼻周辺は青ざめている。温かかった足先も冷えている。心肺機能が弱っているのだ。
それでも流動食をシリンジ1本分平らげ、頭を上げておかわりを要求した。「動物病院はおいしいものが貰える場所なの?」と獣医さんと笑った。診察が終わり、いつもは「まだ大丈夫、次の診察まで頑張ろう」と声をかけてくださる獣医さんが、「今日、職員室に挨拶に行ってきたらどうですか?」と言った。その時、ああ、もう長くない、と思った。
そのまま学校に行き、夏休み中に出勤している先生方と修学旅行前に登校していた6年生にウサギを会わせた。痩せて、かぼそく呼吸する状態に涙ぐむ子もいたが、みんなそっと体をなでて「ありがとう、よく頑張ったね、さよならだね」と声をかけてくれた。6年生は12歳、ウサギと同じ年なのだ。
一人の子に「お薬をあげてみますか?」と聞くと「はい、やってみたいです」と言うのでシリンジで少し薬を飲ませた。先生が2cmほどの小さな葉っぱを「食べるかな?」と差し出すと、ゆっくりゆっくり咀嚼して飲み込んだ。それが最後に食べた固形物だった。その日の夕方、眠るように静かに呼吸が止まった。
預かってから約半年、獣医さんとどう治療するか相談した。そして「最期の日までお腹いっぱい食べて、痛いところも苦しいことも無いようにして、できればみんなで看取りましょう」と言ったとおりになった。
獣医さんに電話で報告すると、「最後に学校ウサギとしての仕事をしてさすがですね。長い間お疲れさまと伝えてください」と言われた。
折しも東京で今年初の真夏日を観測した日だった。
看取るために引き取った。別れが前提なのに、空虚さがつのる。寂しさが、それまで存在していた場所を通り抜けていく。小さな命だが、多くの人に愛された。さようなら。安らかに。
元気なころの写真です。
「追記」
世田谷と言っても我が家は幸いにも、特に被害はなかったけど、各地の被害が甚大です。多摩川が浸水した辺りは元々河川敷です。バスで通るたびに、そこ、昔の堤防の下なんだけど・・って思ってた。多摩川が氾濫するなんて想定外と言っているけれど、それはごく最近の話だけで、もともと大変な暴れ川。関東平野は多摩川の扇状地だ。日本は山国、平野と言われるところは扇状地と埋め立て地。そのわずかな平地(空地)に農地と集落が出来ていた。それが今の日本の成り立ち。近年、下水、上水、雨水、河川、ダム、諸々のインフラの想定する数値がもう限界にきている。分かってる。それでもなんとかやっていかなくてはいけない。日本で人の住める平らな場所は扇状地か沿岸部の埋め立て地しかないんだもの。
二次災害、感染症の被害が拡大しませんように。気温が低いのは辛い部分もあるけど、暑かったらもっと悪化している・・。
これからは毎年の事になると思う。でも抜本的な対策はとれない。本当に治山治水は難しい。
世田谷通信(193)
猫草
直径30センチほどの小さな睡蓮鉢に4匹のメダカが泳いでいる。水草が茂ってよく見えないが、長生きしているところをみると、ちょうどよい密度なのではないかと思う。ちらっと見える姿は、丸々太っている。お向かいの家にもおそろいで買った同じ睡蓮鉢があるのだが、あちらは満員電車なみの過密さ。メダカのサイズも小さいように見える。
多頭飼育の崩壊現場は辛すぎて直視できない。ニュースなどで取り上げられるたびに目を背けてしまう。自分が人混みは苦手だし、ある程度の広さ、自分で自由にできる空間がないと文字通り息が詰まる。
うちのウサギ達は小型犬用のケージ2個とウサギケージ2個をくっつけて自由に移動できるようにしている。奥はトイレスペース、センター2室はそれぞれの寝場所、手前がリビングダイニングという感じで使い分けているらしい。3LDK、贅沢なものだ。
先日、上野にある国際こども図書館に行った。その昔は帝国図書館だったという。ルネサンス風建築の堂々たる文化財級の本館とアーチを描く新館からなる優美な建物だ。コレクションは児童書だけで40万冊。ゆったりした棚に高い天井、精巧な彫刻の施された柱、そこに並ぶ完璧な分類の児童書の数々。ため息しかでない。ホコリをかぶっていたり、奥に入っていたり、ましてや横倒しなんて一切ない。これでも司書の端くれなので、これを維持管理しているのが、どれほどの労力と知識に支えられているのかは、理解できる。秩序ってこういうことだよね。これだけ細かく分類ラベルを貼ればきちんと配架できる、でも真似できません。日々、小学生達がてんでバラバラに手にとって消耗していく学校図書館、読まれて壊れてなんぼの世界とは違う。
それにしても棚に余裕のあること。本を並べるのは両端から1/3程度に留め、中央のスペースは表紙を見せている。いかにも美しい。手に取りたくなる書棚。これは真似できるかもしれない。がんばろう。
モノや人の密度と、それにふさわしいだけの広さ、空間。それは人工物、自然の世界いずれにも、快適さに通じる方程式があるのだ、きっと。
世田谷通信(192)
猫草
課題図書というのが5~6月毎年発表される。子どもの頃はこれが嫌いだった。課題は宿題に通じる、強制的な感じがする。そもそも読書は自由で、大人から学年に応じて読めと強制されるなんてまっぴらだと思っていた。読書遍歴は頭の中身と同等、他人の前で本を読むのも晒すようで好きではない。好きな本を聞かれるのも抵抗があって、いつも無難に「赤毛のアン」と答えることにしていた。そう言っておけば大人は納得するからだ。小学生で歴史小説や外国文学、古典SFを読破しているのは秘密だった。理解していたか疑問は残る。文章を味わうのとは無縁で、とにかく高速、丸呑みで読み潰していた。
偏った自分の読書傾向はさておき、図書室でずっと本に関わって、子ども達の読書離れという言葉を聞く。読む子は勝手に本を手にとって行くけれど、そうではない子もかなりの数がいる。きっかけづくりも必要なのだと思うようになった。本のPOPや紹介コーナー、課題図書というのも良いものである。本の専門家が沢山の新刊のなかから「これは」と思う本をピックアップしている。当然内容も深いし、興味をひきそうなジャンルも配慮され、読み物だけでなく科学的な本も含まれるようになった。
図書室での授業時間を少し借りて、それらの本を1冊30秒ぐらいで紹介していく。見所、概要、背景など、学年に応じて、それぞれ心に届きそうなフレーズを考える。紹介した後で、課題図書コーナーに皆が集まってきて、次々に本を手にとって貰えると嬉しい。ぱらぱらめくって戻す子もいるが、そのまま1,2頁読み、借りていく子も居る。本が好きな子は、これ面白そうという嗅覚が働くのだ。装丁やタイトル、わずかな手がかりからそれを拾い上げる。そうではない場合はうなぎ屋さんのように、外に向かって香ばしい煙をうちわであおぐ必要がある。うなぎと同様で、食欲をそそられて店に入ったものの、あの味を美味しいと思うか、あまり好きじゃない・・と思うかは、まあその人次第ではあるけれど。
世田谷通信(191)
猫草
ウサギを数えるときに1羽2羽というのか、1匹2匹というのか。どちらもあり。ただし「羽」は食用、「匹」はペットとしてという違いがあるとか。
ウサギを鳥のように「羽」と数えるのは、かつて日本が獣肉食を禁じた時代に「獣を食べているんじゃないですよ、耳が鳥の羽みたいだし、鳥みたいなもん同列でしょ」という苦しい言い訳に由来するらしい。
というわけで、以下ウサギの数は「匹」で。前置きが長くなったが、現在うちにはウサギが3匹居る。1匹増えたのは学校で飼育されていた高齢ウサギを引き取ったから。どれぐらい高齢かというと、正確な生年月日不明でよくわからないが、獣医さんのカルテによれば推定12歳以上。人間にすると130歳を超える感じ。もともと学校には3匹いたのだが、残り1匹となり、白内障と筋力の低下が著しく、学校での飼育が難しくなった。
家に来てから数ヶ月、少しずつ衰えていくのは仕方ない、それでもちょっと回復している所もある。汚れから来る手足の炎症が治って新しいふかふかの毛が生えてきた。
長寿の秘訣は旺盛な食欲である。出されたものは何でも食べる。目の前にあるものは完食する。ただし食べてはいけないものは残す賢さもある。私が採ってきたタンポポやハルノノゲシなどの野草の中にアジサイの葉が一枚混ざっていた。それには手をつけなかった。毒性があるのにしまった!と思うのと、さすが野生の本能は健在、とほっとするのが同時だった。
それがとうとう食べられなくなった。もうお別れだと思った。強制給餌は前のウサギの時に辛かったので嫌だった。大好きな草を前にしても咀嚼できないウサギをみて、最後かなと思って抱っこした。しばらく背中をなでて、ケージに戻そうとしたとき、大量のおしっこが出た。いつもの半透明なのではなく、灰色でザラザラの砂が大量に混ざっている。
翌日獣医さんに連れて行ってこの話をすると、膀胱に溜まっていた老廃物が抱っこされて揺られうまく出たのでしょう、それは良かった!と言われた。流動食をぺろりとカップ1杯食べておかわりを要求した。老廃物が出て、栄養が行き渡り、復活したのだ。まだまだ行ける。生きられる。生きものは道を見つけるのだ。
世田谷通信(190)
猫草
里山の良い季節になってきた。世田谷にも野草は咲く。キンランやギンランが斜面にほっそりした姿を見せる。ヤマユリがすっと茎を伸ばしはじめる。ホウチャクソウやナルコユリ、ジエビネの地味な花も近くでみると美しい。ウラシマソウが釣り糸のような細い花序を伸ばしているのも面白い。
この光景があるのも前年にボランティアが頑張ってササ刈りをして、明るく開けた斜面になったからだと自負している。もちろん人為だけではない。昨年は暴風雨で古木の幹折れが多発し、何本か倒木の危険があるものを区が伐採した。その林冠が大きく抜けて、ギャップが林床を明るくしている。明るくなったのは上部だけではない、林冠と同じぐらいの範囲に根があったと考えると、木の半径数mの地下にも大きな変化が起きているはずだ。幹という主を失って、根は少しずつ萎縮、分解が始まっているだろうし、まだ勢いがあれば萌芽更新するだろう。
しかしその木が元の姿に生長する前に周辺の植物が空いた場所の争奪戦をはじめていて、今後、何がどう優勢になってその空間を占めていくのか。興味深い所である。
すでにクヌギやコナラの幼樹が育っている、地面の下で自分の番が来るのをじっと待っていたのだろう。これらが育つのが先か、隣の木が枝を伸ばしてくるのが先か、静かな戦いが繰り広げられている。
オーストラリアの植物に、バンクシアというのがあって、その種は頑丈な樹皮に守られており、山火事の後にはじけて発芽するそうだ。最初はなぜ山火事をトリガーに?と思ったが、周辺が焼けて世代交代するきっかけと思えばなるほどと思う。いち早く発芽して自分が優勢になれるチャンスだし、土壌は灰で栄養が豊富になっているだろう。それにしても、どれ位の頻度で山火事が発生するのか不確定なリスクは伴う。ピンチを逆手にとった方法は面白いと思うけれど。その前に本体が寿命を迎えたら数が減るのに。
ヤマユリにしても、あんなに茎を伸ばすのはたくさんの種を遠くに飛ばしたいのだろう。それにしたって茎が細く花が重すぎではないか。自立できずに地面に倒れてしまうことがよくある。それこそ本末転倒ではないのか。やっと飛ばした種は発芽率が低いし。結局、ムカゴでクローンを増やすのは発芽までの時間稼ぎというわけか。
生きものが命をつないでいくプログラムは合理的なようでどこか危うくちょっと破綻していて、それでも戦略と創意工夫に満ちている。
世田谷通信(189)
猫草
図書室にいて、難しい質問だなあと思うのが「何か面白い本ないですか?」である。さて前回紹介したビブリオバトルだが、先生と私で各1冊、約5分で紹介し、それを聴いた子ども達が「読みたい!」と思った方に手を挙げてもらった。結果は、先生に数人、残りは私に手があがり、ちょっと気まずい。
そもそも全員がこれは面白い!最高!と思う本はない。本屋大賞にしても課題図書にしても、「このミステリがすごい!」にしても、結局好みは分かれるものだ。何を好きで、嫌いで、何を知りたいか、或いは楽しい、嬉しいと思うかは人それぞれ違う。だから図書館には何万冊も本があるし、本屋さんには毎年新しい本が並ぶわけだ。
本の読み方にもコツがある。本に隠れたメッセージを見つけられるか。キーワードという言葉がある。鍵を見つけて自分の心を開く作業ができるかどうか。
たとえば、今西乃子著「捨て犬・未来と子犬のマーチ -もう安心していいんだよ-」という本を紹介したとしよう。ノンフィクションである。この犬は、ほんの生まれたばかりの子犬の頃に人間に虐待を受ける。右の足首を切り落とされ、さらに左足の指も全部切られ、右目も切られて捨てられる。その後、収容施設に運ばれ、殺処分寸前になる。
普通なら人間不信になるだろう、或いは攻撃的になるか、恐怖で心を閉ざすかもしれない。しかし、この犬はそのどれでもない別の方法をとる。その結果生き延びて、新しい飼い主を得て「未来」という名前をもらい、元気に長生きする。それだけではない。日本全国100校以上の学校やいろんな施設を回って、2万人以上の人にふれあい、笑顔と勇気を与えている。
絶体絶命のピンチ、殺される寸前だった子犬がとった行動、たった一つの正解がこの本に隠されたキーワードつまり「鍵」である。それが何か知りたい、そう思った人は、ぜひこの本を読んでみて。そんな風に紹介したら、興味を持ってくれるだろうか。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」