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神さま、罪びとのわたしをおゆるしください。
=ルカ18:13=
日本人の感覚で一番理解されにくいのが「罪、罪人(つみびと)と言われています。「生活・文化・倫理観」の相違と言われていますが、聖書はこの「罪」を問い続ける宗教と言えましょう。
聖書は、私たちを神様から引き離し、全てのものの上に災いをもたらすものは、「罪」であると言います。罪の見出されない所には、神様と私たちの間を隔てる壁はありません。神様はそのみ言葉を通して、私たちが罪より離れ、命に至る道をお示し下さいました。それは、救い主であられるイエス様の十字架の上での罪人としての死、死をお破りになった甦り、永遠に生きたもう神の子イエス様を「救い主」と信じる信仰に招かれている道を歩み続ける道です。
この命への奇跡の恵みによって、私たち信じる者すべてに、救いと恵みが与えられるのです。
しかし、実に完全に、これは私たちが関与することなく、整えられ、備えられていても、私たちはどうしても、罪人としてキリストの身元に行かなければなりませんし、神様の前に、罪ある者、負債あることを告白しなければなりませんでした。これを認めることが、罪人から離れる唯一の道であります。それは、私たちは何者であり、何をなしてきたかの告白でもあります。「神さま、罪びとのわたしをおゆるしください」との告白へと導くのです。それは、この告白の心(信仰の心)が、救いの神殿、神の御国への保障としての「義と認められた者」(信仰義認)という恵みを頂き、神様から義なる者(身分)として宣言されるのです。
イエス様は私たちの罪のために、全くご自身をお与えになったのですから、私たちの全ての罪を取り去っていただけねばなりません。この宣言は「罪の残滓の中に生きていても、罪を犯す者であっても」命の書にイエス・キリストの代価のゆえにという、但し書きを頂いて、罪なき者と認めるというものであります。この恵みこそ、罪より遠ざかり、神へと導くのであります。キリストの救いのみ業に、愛に、誉れありではないでしょうか。
主は道にいませば、罪と死とより
みもとへ、逃るるほかなし。
天の父を見んとする者は、主よ、君によらでは、見るを得じ。
常に主を恐れる人は幸いである、心を頑なにする者は災いに陥る。
=箴言28:14=
信仰を持つキリスト者の人生や日常の生活は単に平穏で喜びに満ちていることばかりではありません。むしろ、恐れ、謹んでいなければなりません。聖書は喜ぶ人のみでなく、常に恐れる人をも「幸いである」と考えています。そのように神様の愛によって心が時間を用いて変えて下さるのは、信仰の恵みです。
私たちの救い主であり、父である神に関するお働きである限り、人間的は揺らいでも、常に私たちは揺るぎなく、平安であるのは当然です。
神はみ言葉によって約束なさったことは、決して私たちを失望させることはありません。ですからキリスト者は、完全な確かさと、祝福された平安をもって、全てを主のみ手にお任せすることを願い、信仰生活の中で、不思議ですが出来るのです。
とは言え現実には、私たちキリスト者が弱い人間として、罪人として考える時、私たちは常に不信と恐れを持つのは当然です。私たちの本来の性質は、サタン(悪)と協力して、「肉の欲・快楽」へと「常に迷いと滅びの広い道」へと誘われやすいのです。そればかりでなく、神が恵みによって下さった恵みの帳簿に、自ら利益を犠牲にする事柄を、あたかも幸いであるかのように勘違いして記入さえしていることに気づいていないのです。サタンの甘い誘惑の果実は魅力的で甘美なのです。
キリスト者は決して、自分を過信し頼ってはなりません。自分の信仰の覚醒を求め、日々を顧み、悔い改める思いに、そうして神の愛である信仰に支えられている思いを切に願い、追い求めている「信仰の旅人」であることを目標とし、誇りとするなら、何と幸いなことでしょう。
神は自分の信仰と力に頼らない、いと小さき者の力であられます。なぜなら、そこに神の摂理を知ることができるからです。
主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。
詩編34:9
われらを救い、力を得んために、
信仰はキリストの内に、すべてを見いださしむ。
主の送りたもう恵みを受け、主の十字架と冠とを、ともにわかたしむ。
「小閑記」
シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
=ルカ5:5=
このみ言葉は人間ペテロの心が現れているところです。イエス様への得も言えぬ感情が出ています。それは私たちの思いにも言えます。イエス様が救い主??、死から甦った??、そんなことを信じろというのですか??、クリスチャンは変わり者ですね・・・。このような思いと言葉に心折れることもあります。
あの時のペテロの悲しい不平は、私たちの今のキリスト者の間にはよく分かることです。伝道しても成功は少なく、失敗は多いと思われています。
父と母とは夜通しばかりでなく、生涯かけて子供たちの成長と健康を願い、神様を信じ、救われるために祈り、労苦するのに、子供たちは神様より離れて生きているのです。教会のキリスト者の教師たちは幼い子供たちをイエス様のみもとに連れて行こうとして心を砕き、何とかして連れて行こうと働きますが、その努力は虚しく終わるように思います。教会も多くの人にみ言葉を伝えようと努力しますが、教会の扉を開く人は少ないのです。ささげた労苦の報酬は少なく、心折れることはしばしばです。シモンの心にもそのような思いがあったかも知れません。
イエス様は、そのような落胆する者たち一人ひとりにもう一度、網を下ろさせようとなさいます。
病院の先生や看護師さんがもし治療や看護に疲れて諦めてしまったら・・・と思うことがあります。疲れても疲れても、そのお仕事に励んでいます。シモンの心に投げやりな思いがあったとしても、イエス様の声に従いました。結果は網は破れるほどの収穫を得たのです。
神様はあなたの業に報いよう、と言われます。時が至れば刈りとる時は来ます。多くのキリスト者は「主よ、来たりませ」と祈り、収穫を目指して種を蒔き続けます。永遠の朝が明ける時、神様はそのわざを祝福してくださいます。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」。 詩編126:5
信仰うすき者にそそがるる
主の恵みと愛と謙遜は
我らの 思いに過ぐるなり。
み足のもとにひれ伏して
罪びとの友なる君を知る。
われ心定めぬ、キリストよ
十字架にかかりし君のほか
われは知るまじ。
「小閑記」
弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりに・・・。
=マタイ21:6=
私たちが、イエス様がするようにとお命じになったとおりに従うならば、教えのうえでも日々の実際の生活においても、多くのことがもっと簡単になっていたことと思います。小さいことと思われることであっても、救い主のためにそれがなされる時は、時として偉大なものになります。一人の善意が、一つの言葉が世界を動かすこともあります。救い主のためにそれがなされる時、か弱い言葉が、行動が大きな力、輪になるのです。
聖書の中にこのような出来事は数多く記されています。厩のロバの綱を解いてイエス様のもとへ連れてくるだけで、主のみ栄として他の人々に、歓喜へと変わるということです。
キリスト者の生活が、キリスト教的と非キリスト教的な部分と別れても良いなどと言う考え方は成り立ちません。同時に、キリスト者が陥る危険は、独善的な偏狭に陥ることです。キリスト者は、常に、見られている立場に立つ時のみ、「地の塩、世の光」として神様はお用いになります。
正義の戦いの戦争ということのために、多くの人の命が失われ、悲惨と悲しみが生まれたことを思い出すとき、戦のために力を尽くす前に、「平和を作り出す」努力の大切さを「幸いである」と聖書は語ります。
世界はコロナ禍で多くの人の命を失っています。辛く悲しい現実です。その克服のために多くの科学者は研究し、多くの医療に関わる方々の献身的な働きが、世界の至る所でなされているのも事実です。私たちは「菌」を「悪いもの」と思ってしまいますが、多くの「菌」は生活を豊かにもしています。言うなれば、「菌」の恩恵を受けていることも事実です。生けるものの中に、「菌」も生き続けているのもまた事実です。「菌との共生」という文字が目につきます。この悲惨な出来事は人間世界ばかりではありません。生けるものの中に生き続けるのですが、人はそれの被害から身を守るために術を考え、克服するために、科学者たちは探求してきました。
しかし、不可能なことがありました。それが「罪の克服・償い」です。一人のキリスト者が、「愛と平和を願う祈りは、今もこれからも神様から命じられている、喜びのご命令として」、「何事をするにも・・・」と求められています。
目には見えない
心に迷いある時には 私たちの目には見えない
私たちを導きたもう 恵み深き御手を覚えよ
心が飢え渇く時には 私たちの目には見えない
私たちを養いたもう 恵み深き御手を覚えよ
心まで疲れた時には 私たちの目には見えない
恵み深き主の御手を覚えよ
「水野源三第三詩集」
「小閑記」
兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いてくださった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに神の家を治める大いなる祭司があるのだから。
=へブル10:19~21=
このみ言葉には、信仰者としての言い得ない希望をお与えくださいます。日々の生活で一番の不安は先の見えないことではないでしょうか。「思い煩い」はここにあり、人は悩みます。テレビのニュースや新聞の見出しは、「先の見えない…」という言葉に満ち溢れ、社会全体が不安と恐怖症と諦めに陥っている昨今、この神の御備え下さる約束は、それを拭い去り、一掃してくださいます。
先の見えない日々以上に、その生涯の先を考えるとより一層不安に陥り、逃れるために、人は何かを求めて彷徨うのです。
私たちの進むべき道、神と共に生きる道をこのみ言葉は示しています。それは、活ける神のみもとへ行くことできる歩みです。
イエスへの道は開かれています。それを妨げる罪は、イエスの十字架の御血によって、その道を歩く権利は、イエス・キリストを救い主と信じる者に与えられているという事実です。私たちの足で歩くのではなく、神のみ手をもって導き給うみ霊によって歩き続けるという約束です。
この約束を日々の生活の中に生かされることを願う日々に、何があるでしょうか!
主をほめ讃え、主に感謝し、夜も昼も主を礼拝せずにいられないでしょう。天の御父は、喜びをもって、私たちを迎えて下さいます。この神への礼拝の時は、私たちは正直に、全ての必要なことを主に打ち明け、重荷について、心傷めるすべての事をお話しする唯一の時なのです。
この神様を礼拝する時を大切にすることこそ、「新しい道」なのです。
讃美歌405番
1 かみともにいまして ゆく道をまもり、
あめの御糧(みかて)もて ちからをあたえませ。
(おりかえし)
また会う日まで、また会う日まで、
かみのまもり、汝(な)身を離れざれ。 アーメン
2 荒野(あれの)をゆくときも あらし吹くときも、
ゆくてをしめして たえずみちびきませ。
3 御門(みかど)入る日まで いつくしみひろき、
みつばさのかげに たえずはぐみませ。
「小閑記」
「ひとりが蒔き、ひとりが刈る。わたしはあなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。
=ヨハネ4:37~38=
今、信仰者とされている私自身を考えてみる時、私の前に生き、働いていた多くのキリスト者たちがありました。神様は、その「先立ち人」のなしたことをも、心に留めておられます。もし、その「先立ち人」の働きがなされなかったなら、私たちキリスト者・信仰者は、神のみ前に集い、集まれてはいないでしょう。私たちの先人の信仰者の仕事は、時に小さく、弱々しく見えたとしても、教会で、先輩信者の方々の素朴な信仰の会話の中に、また、父や母が幼い子供に神様にある恵みを感謝して伝え祈るそのひとときに、子供たちの心に、神様への信仰の芽が蒔かれているとしたら、何と幸いな時でしょう。
ある時、教会の集まりの案内を一人の人に手渡した一枚が、その人に神様に向かう動機になったとすれば、小さな弱々しい働きではなく、「大いなる伝道」という特権に与った喜びの時でもあります。働き人が少ないと言われています。人の目にはそうであるかもしれません。一人のアダムから、一人のアブラハムから空の星、海の砂のように、この歴史の中に数知れない信仰者が産まれ、今、私たちがいるのは誠に奇跡であり、事実です。
一人一人が信仰者として、密やかに祈るひと時の祈りが、神様はお聞き届けくださることを信じて祈る時、一人の「先立ち人」とされるのです。一粒の実、一枚の案内が、神が共におられる集まりの神の国の実なのです。信じて為される働きは、時至れば、芽を出し、成長し、実を結ぶように神様の愛として叶うのです。
「たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラテヤ6:9)ことを喜び待つ、「先立ち人」であり続けましょう。
主イエスのみことばなれば
いかなることをも、われなさん。
みことばと、み霊によりて、導きたまわん。
みことばなれば、信仰によりて、
すべての働き、益とならんと、われは知るなり。 アーメン
「小閑記」
それだから、神の安息に入るべき約束が、まだ存続しているにもかかわらず、万一にも、入りそこなう者が、あなた方の中から出ることがないように、注意しようではないか。
=へブル4:1=
信仰生活は、月単位や年単位のものではなく、日々の生活の中にあります。そのために私たちの信仰生活には、浮き沈みや思いがけない出来事の遭遇で動揺し、時に信仰心が小さくなる経験もあります。誰もが何度となく経験しつつ、強められ、深められていくことに、出会ってきたことでしょう。ですから、決して無駄な歩みはありません。
さて、神のみ言葉の中には、二つの強い対象の上に築かれているかのように見えていながら、不思議な調和があります。
一方において、数々の心を励ます言葉、完全な救いと、開かれた扉、そして神が私たちを守ってくださるという、確かな約束があります。「誰も私たちを救い主のみ手から奪い取ることはできず、何物も、主イエス・キリストにある神の愛からわたしたちを離すことはできない」、とも記されています。
しかし、聖書の他の個所では、私たちの危険は大きいとも教えています。もし私たちが目的に達したいと願うならば、絶えず気を配り、祈り、戦い、魂をきよめ、恐れおののいて救いのために労し、神を敬わなければなりません。
この二つの似ても似つかない記述がどうして真実であり得るのでしょうか。前の部分は神様に関することであり、後の部分は私たち一人一人に関わることです。
動かせぬもの、確実なもの、決して失敗せぬものは、私たちの救い主であり、父であられる神の内にあります。神と共にあれば、私たちは常に安全でありますが、自分たちは、常に自分の傲慢と弱さを恐れつつ、謙虚でなければならないことを痛切に覚えなければならないのです。忘恩と傲慢こそ私たちの不信仰の原因です。すなわち、我が心に、内にあるからです。
この2020年を振り返り、神の恵みと己が弱さを顧みつつ、2021年を迎えたいものです。
主の御霊、われらの夜を破り、
真理の光もて、雲を払い給うまで、
われらの知識、知恵、視力をすべて
深き闇に包まれて横たわるなり。
み霊のみぞ、われらを神にかえり、われらの内によき働きを為したまえ。
「小閑記」
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
=マタイ6:19=
地上に宝をたくわえるということは、ものをただ単に倹約するということと同じではありません。貧しいということが、神に対して富み、かつ天に宝を持つように言うことと同じでないように、ものを所有することが、神がお持ちの富から引き離されるということと同じはありません。全ての農夫が農地を所有し、全ての漁師が船を、そしてすべての街の住民が富める通帳を持っていることは、払いきれない負債を持っているよりは、確かに喜びであり幸いであると言えましょう。でもそれで幸福でしょうか。
イエス様もお金を残しておられます。人々が荒れ野で十分食事をした時に、主は弟子たちに、無駄がないように残りの物を集めなさいとお命じになりました。
私たちも今、コロナ禍で、職を失い、大きな不安の中にあります。GO TOなになにという政策で、経済の活性化のためにいろいろの形で消費を促そうとしていますが、それは一時的なことで、何も残すことはないでしょう。無駄使いとは言いませんが、あくまでも一時的です。
しかし、地上に宝を蓄えるとなると、イエス様が本当に言われることはどのような意味があるかを、イエス様のなさったみ業を正しく理解するならば、「宝」と「たくわえる」という言葉に深い意味のあることが分かります。「宝」というのは、人が特に愛するものの一つではないでしょうか。それは、その人にとって人生を捕らえ、虜にしてしまうほどのものではないでしょうか。人を虜にする名誉、富は魅力的なものです。「宝」と「心」とは分けることが出来ません。地上の財産と心とは別々にすることの出来ない魔力を持っています。しかしもし、神様が私を愛し、慈しみの救いの恵みの中に招いてくださった感謝の思いを、人々への「宝」としてお返しできるとしたら、神の前に、人々の前に差し出せるのではないでしょうか。
この世で多くの財産を持っている少数の人々が、天に宝を持つために、その富を活用するなら、飢えと貧しさの生活から多くの人は解放されるでしょう。私たちにとって、大切なことは、分け合い、支え合う心と行動ではないでしょうか。神に対して富み、この世のものに心奪われることなく、物に執着しない信仰の心を「富」と見て、「宝」として持つことを知ることが出来たら、何と幸いなことでしょう。それをイエス様が私たちに求めていることであり、それを日常の生活の中で覚えさせようとしていることではないでしょうか。
秋に咲くきれいな小菊を見つけました。名古屋もう初冬です。
われらの希望は イエスのみ力によりて堅く、
神なき者は自らの貪欲と戦う。
苦しめるは彼ら、彼らの運命は恥とあざけりなり。
神、われらとともに、われら神とともにして、
神の祝福はわれらのものなり。
「小閑記」
アロンが聖所にはいる時は、さばきの胸当てにあるイスラエルの子たちの名をその胸に置き、主の前につねにおぼえなければならない。
=出エジプト28:29=
旧約聖書によりますと、イスラエルの大祭司がつけていた胸当てには12の宝石がちりばめてありました。イスラエルの12部族の名が、これらの石一つ一つに刻まれてありました。大祭司が神のみ前に出る時には、必ずこの胸当てをつけて、主が常にその民を覚えてくださるようにするためでした。
旧約時代において、神の民が大祭司の胸の石に刻まれていたように、新約の時代に於いては、神の民はイエス・キリストの胸に置かれてあります。主イエス・キリストは旧約の大祭司のように、手で造られた聖所にはお入りになりませんが、私たち一人一人のために父なる神にまみえるために、天にお入りくださいました。それにより神は、その民があたかも罪を犯したことがなかったかのように見て、その民(イエス・キリストを救い主と信じている者)を覚えてくださるのであります。神は、それを一つの民として(クリスチャン)、ご覧になっています。神はその民を教会の扉の中からご覧になるのではなく、イエス・キリストの胸からご覧になります。信仰者は主にあって一つなのです。
私たちキリストの民は、日々の出来事に一喜一憂したとしても、イエス・キリストのみ顔のご栄光と救いの御業の十字架の恵みを、深く、深く、その愛を深く思い、生活することを通して、神のご栄光を現わすなら、何と素晴らしいことでしょう。福音を信じるとは、救いの恵みを喜ぶことです。
「このように、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心ひかれてはならない」(コロサイ3:1~2)。
このみ言葉を、信仰の思いとしたいものです。
一つの霊に合わされて、われは進む。
われらの旅の終わりみえども、希望と期待を掲げながら、
闇と悩みを通り、死を通り、われはキリストへの道を行く。
「小閑記」
イエスはさらにいわれた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
=マルコ10:24=
人間にとってキリスト教(信仰)と財産とを一つ(同時に持つ)にすることは、如何に難しいことでしょう。神様の基準とこの世(信仰なき罪の世界)の基準には、共通点は全くありません。
物質(富・財産)には、魔力があり罪と同じほどの力を私たちに対して持っています。滅びか、永遠の命かを選び取る時、誰も滅びを選ぶ人はいないでしょう。信仰と財産(欲望)を・・・と問われる時、理性や常識では、信仰を選びます。しかし、現実の私たちの姿(生活)は、如何でしょうか。不安に感じている人、貧しさに苦しんでいる時、富や財産があるなら、と考えるのが私たちです。
心から永遠の命を熱望している多くの人々が、決してそれを得られないのは、地上の富(欲望)が人の心を、神の国に対して閉ざさせるほどに魅力あるものだからです。罪の奴隷に魅力・魔力のあるのは、私たちの心に、二つを同時に得たいと言う、心の貪欲に支配されているからなのでしょう。
煌びやかなネオン輝く世界は、静まって神の恵みを待つ信仰の世界とは、全く異質です。両方を得ること、それは破滅の道です。
しかし、富み栄えた者が称賛され、勝利者とする社会にあって、信仰に生きる姿は、弱者・敗者とする基準でみるとき、神に生きることは容易ではありません。サタンは支配する奴隷の主人の姿をしながら、その姿は黄金に輝く光に覆われていて、惑わされ尊敬され、称賛される世界こそ、滅びの世界であるとイエス様は警告しているのです。
人はほどほどの富で十分であるから神様に生きているなどと思うなら、大きな間違いです。それは、柔和で、心へりくだった姿ではありません。
次のように祈ったのは賢い人でした。
「貧しくもなくまた富みもせず、ただなくならぬ食物で、わたしを養ってください」と。
この告白は、この世で、私たちにとって相応しいあるべき姿ではないでしょうか。すべての主にある者が、地上の持ち物、財産に囚われぬ自由な心を持ち、永遠の富を与えてくださる主に結ばれることを、生涯の道しるべにしたいものです。
「小閑記」
また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育ってゆくが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
=マルコ:26=27=
このみ言葉の中には、キリスト者としての、また神の国の働き人としての私たちに、大きな励ましがあります。私たちは、種をまいた日に実を見なければすぐに文句を言いたくなり、良いものは萎えて消えゆくのに、悪いものはどんどんと成長していると信じがちであります。しかし、イエス様は別の見方をなさいます。イエス様は、私たちの中に、私たちによって神の国は成長すると言われるのです。
主の恵みの雨と光によって、神の種は双葉から、熟した実となります。そこで、神のみ霊が、私たちの内に、信仰によって植えてくださった神のみ言葉を感謝して、その育つのを楽しみに待ちましょう。もし、キリスト者が、神とともなる命の成長を自分の内に見ることがないというので、また命の実を味わうことができないというので、信じることを止めるならば、それは短気で未熟な農夫がまいた種をたびたび掘り返して、芽を出しているかを見る愚かな姿に似ています。そのようにしては、聖なる命はその力を失い、その成長を妨げます。
なまけ者よ、蟻のところへ行き
そのすることを見て、知恵を得よ。
と箴言は言っています。キリスト者は社会と言う荒れ野に出て行くとき神のみ言葉に確信を得なければなりません。そこで、「神の国はある人が地に種をまくようなものなのである」と言われるのも、育て待たなければならないという責任と義務を果たすために、それぞれの賜物を用いて働かなければなりません。信仰と希望をもって、そっと見守り、世話をしつつ成長を待つことを、覚えるなら、確かな収穫を得るでしょう。
彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。
彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、
主の正しさを示すでしょう。
主はわが岩です。主には少しの不義もありません。
詩編92:13~15
「小閑記」
イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、主に救われた民があったであろうか。
主はあなたを助ける盾、あなたの威光のつるぎ。
=申命記33:29=
人がもし自分の生涯を、神を知り、信じ、正しい角度から見るならば、人は常に悩みなく、幸福で、感謝に満たされることでしょう。その存在は世の人々が恐れて震える神はなく、キリスト者の最良の友であります。他の人は審判の下に、その悲しみと傷とに絶え、来るべきことを恐れる時、神の子供(信仰者)は、救い主であり、父としての神のもとに行きます。そこでは人の傷は癒され、罪は赦され、裁きは取り去られ、そして痛みは鎮められます。
戦いにおいて、キリスト者には鋼鉄よりも強い神の守りの約束があり、神の言葉を鋭い剣のようにして敵に立ち向かうことができます。神はわたしたちを助ける盾、わたしたちの威光の剣であります。
わたしたちはすべての重荷を主に負っていただくことができます。なぜなら、主は「すべての思い煩いはわたしに負わせなさい。わたしが引き受けよう」と言われました。わたしたちを煩わせることは、どんなに小さくても、主にとって引き受ける値打ちがないほど、小さくはありません。
主にある者は、神の全能と、永久の知恵は、死よりも強い愛によって支えられているのです。そして主は、この愛をすべてわたしたちのための犠牲(贖いの代価)としてお与えになりました。このことを考えれば、「主を救い主として持つ者は幸いである」と言えないでしょうか。そのお方こそ強き盾、鋭い剣でいらっしゃいます。
わたしたちは、すべての事を主のみ手にお任せいたしましょう。主は、今までも、そしてこれからも同じくお守りくださいます。
わが希望のもとなる、恵みの主、
憐み深き、贖いのみ力に より頼みまつれば、救いを賜え。
み守りあれば、われはうごかじ。
み言葉は堅固にして、み誓いは確かなれば、
われなんじにより頼む。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」