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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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  「小閑記」

  

 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛を抱くに至るのであるから、互いに心から愛し合いなさい。

       ­=第一ペテロ1:22=

 

 この力強い神様からのお勧めのみ言葉は、私たちを最も真剣なキリスト者へと導き入れて下さいます。またここでは、最も心の激しい葛藤へと導きます。多くの人は日々の生活の中でいかに魂が健康でなければならないかということではなく、肉体的・体の健康であることに心を砕きますが、魂をきよめ、神様から離れていることに、何らの必要性を感じていません。

 

 しかし、神様の愛と救いの恵みを知るものとされた者は、神と共に生きるようにと努力します。同時に、如何に容易く罪のきよめを忘れるかをも知っています。それは、私たちの内外のきよくないものすべてが、また、私たちが夜となく昼となく出会うものは魅惑的で、聖潔に対する感覚を鈍らせる傾向をもっているからです。そうなると、私たちは神様の清さを思わず、自分を他のキリスト者と比べたくなる誘惑を受けます。こうして、私たちは危険の中にはまり、しかも自分ではそれに気づかないのです。

 

 「神によってあなたがたはキリスト・イエスにむすばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」(Ⅰコリント1:3031)。

 

 ヨハネの黙示録3章14節以下に「・・・アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。『わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くもなく冷たくもなく、なまぬるいので、わしはあなたを口から吐き出そうとしている。』あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることがわかっていない。・・・。」とあります。このみ言葉を大切にして日々を歩みたいものです。

 

  私と共に歩まれる主よ

 

 私と共に歩まれる主よ あなたの愛と真実を

   私のものとして 今日も明日も歩ませて下さい

 私と共に歩まれる主よ あなたの怒りと憂いを

   私のものとして 今日も明日も歩ませて下さい

 私と共に歩まれる主よ あなたの叫びと祈りを

   私のものとして 今日も明日も歩ませて下さい

         水野源三「詩集より」

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 「小閑記」

  

  あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。

繰り返して言うが、喜びなさい。

           =ピリピ4:4=

 

 テレビの画面には空の商品棚とここの商品は売り切れましたという張り紙、その横にトイレットペーパーを抱えきれないほど持っている人の後ろ姿が写っていました。しかし、その後ろ姿には、喜びも安堵の気持ちもありませんでした。何とも虚しい気持ちになりましたが、これは日本だけのことではなく世界の各地にある姿です。

 

 「主にあって喜ぶ」とは、必ずしも幸福に感じることと同じではありません。聖書は、私たちが常に喜ぶように勧めていますが、自己満足とは違います。また悲しみや人の痛みを感じ共に涙することも「喜び」と言います。ただあの抱えきれないトイレットペーパーを手に入れた束の間の喜びでないことだけは確かです。主にあって喜ぶということは、それとは本質的に異なることのようです。

 

 私たち一人ひとり、悲しみや、不幸や、悩みに耐えている現実の中にあっても、主にある喜びを失っていることの証拠ではありません。かえって、しばしば最も大きな悲しみに耐えている時こそ、主にある喜びは最も完全であり、深く強いものでもあり得るのです。強がりや言葉でのことではありません。私たちは、深い悲しみや不幸にあるとき、私たちは最も愛する人の元に行くのではないでしょうか。聖書の中に、人は「泣くものと共に泣き、喜びを分かち合うところに、喜ぶこと」を学んでいます。

 

 人が最も苦しむとき、不思議ですが互いに労わり、励まし合う者です。キリスト者として神のみ心に最も近づくとき、キリストの思いとなり、キリストに喜ばれることを探し、行動へと進むのです。心がこの世を愛している時、口で歓声をあげることは出来ます。しかし、悲しみが訪れている時、主にある喜びがもっとも大いなることを知っていることは、何と幸いなことでしょう。

 

 <538>

 1 過ぎゆくこの世 朽ち行くわが身

   何をかたのまん 十字架にすがる。 

 2 ながくもとめし 罪のゆるしを  

   したしく主より きくぞ嬉しき。

 3 古きわが身は  十字架に死にて

   あらたに生くる  身とぞなりける。

 4 時もたからも  この身も霊も、

   みな主のものと みまえに献げん。

 5 主にある我は  よろこびあふれ、 

   代々みさかえは 主にとぞ歌わん。 アーメン

 

 

   「小閑記」

  

 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。・・・イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。

       =ヨハネ21:4,7=

 

 この情景は実に不思議です(21章全体をお読みください)。イエスが来られた夜に、数人の弟子たちが漁船に乗り組んでおりましたが、ペテロのみが主と認めました。このことはどういうことかを考えてみましょう。

 

「多忙と期待外れ」は、時に大切なことから遠ざけさせます。イエスだとわからなかったペテロとその他の者たちは、彼らが出会ってきた失敗でその心がいっぱいであったこと、彼らの魂はすっかり、悲しみと不平と疑いのとりこになり、イエスのお姿はその霞の中に隠れてしまっていたこと、彼らは失望で取り乱して、他のことなど、見ることも聞くこともできなかったことなどが考えらます。

しかし、ペテロはイエスを忘れることはありませんでした。内的な眼で主を明らかに見たのです。ペテロは愛していたお方を忘れることができませんでした。それで、み声を聞いて、主が岸に立っていられるのを見た時、彼の思いと心の中に生きている方である主を認めたのでした。

 

もしも、それまでの心がこの世的なことばかりで満ち溢れ、イエス以外のものでいっぱいになっている人々は、主が来られて助けようとなさっても、容易に主のみ声を聴き、また主(救い主)と認めることができないのではないでしょうか。

神様とは異質のもので私たちの心が満たされていると、主を見ても、主と認める私たちの能力は、弱められるのです。

 

しかし、それぞれの方が歩まれる人生の戦いにおいても、その心と思いを、イエス・キリストの中に保つことのできる人は、主のみ声を聞き、悲しみや困難にあっても忙しい世にあっても、主を認めることはできるのです。私たちの当り前の、日常の生活の中でも、救い主のみ声を聞き、お目にかかることを願い続ける歩みでありたいものです。

 

   「小閑記」

  

 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった。

          =マタイ4:16=

 

 その光とは主イエス・キリストです。主は、時と、永遠を通して光をお与えになります。イエスは全てをご存知であります。主の全知全能は、私たちの所におくだり(お生まれ)になり、どこへ行くかを語られます。主は、過去、現在、未来の太陽よりも明るい光をお与えになります。主は魂と心と思いとに、明るい光をお与えになります。主は私たちに罪と心の欠乏を示し、罪を取り除き永遠の生命を与える光へ道を指し示してくださるのです。

 たとえ道が私たち全ての者に「行き詰まり」を示し、絶望に陥るときも、主は扉を開き、闇を追い払われます。主は「光の主であり」、主のみが光であることをお示しになるお方です。

 

 私たちがふと立ち止まり、折々の出来事を思い起こすとき、神がキリストによって何を与えてくださったか、全てのことが何であったかを思うとき、私たちの無知、不信仰、頑なさにただ恥じ入るばかりです。自己中心の習慣、浅はかさ、傲慢は私たちに正気をなくさせたことを思うのです。もし、私たちが、この真理をあるがままに見つめ、自分のものにするとき、その大きな限りない幸福と祝福に、夜も昼も喜ぶでしょう。

 

 多くの人々が自分自身の姿を知らず、墓の中に何があるかも知らず、暗闇の中に生き、そして死ぬとき、私たちは善悪をわきまえ、罪と死から離れる道を知り、死の中にある最も素晴らしい永遠の生命を明らかに見せることができるのは神です

 イエス・キリストを知らない人にとっては、太陽が海に永久に沈むとき、その時、イエスの友には、その全き栄光をもって不滅の太陽が昇るのです。

 神の栄光が都を明るくし、子羊が都のあかりとなるからです。

 

    「私が生まれる前から」

  私が生まれる前から 私を知り 私を愛して

    御子イエスを世に遣わした 父なる御神を崇め讃えよ

  私が苦しむ前から 私を知り 私を愛して

    御子イエスを敵に渡した 父なる御神を崇め讃えよ

  私が信じる前から 私を知り 私を愛して

    御子イエスを死に打ち勝たせた 父なる御神を崇め讃えよ   

『み国をめざして』  水野源三 

 

 

   「小閑記」

  

 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、

     わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

             =へブル3:14= 

 

 すべてのキリスト者は、自分の人生が罪深く汚れている時のこと知っております。私たちには取り返しはできません。なされたことは、なされたことで、それをどうすることもできません。もし、私たちがあらゆる努力をしたあげく、最後の望みも絶えた時、目に見えない手が、私たちの目を自分中心からそらせ、罪人を救われるかたの方へと向けさせてくださったとするなら、何と幸いなことでしょう。

 

 美しい春の朝に、小鳥が歌うように、私たちは全く、自由な救いについて歌ったのです。この時、私たちに最初に確信が与えられ、それが一日の日課の、そして最後までしっかりと持ち続けようと奨める大切さを、このみ言葉は教えているのであります。しかし、私たち一人一人の人生は、このことは言いやすいけれども、為しがたいことをも教えてくれます。私たちが実際にある自己、また、罪深い偽りの自己から全く離れて、すべてのものをイエスのみの中に持つこと、これはキリスト教の高峰であって、神の恵みを他にしては、何人も手にすることのできないものであります。

 

 私たちの悪の本質と人間的な理性は、絶えず私たちを汚れた罪深い自己・自分へ引き戻そうとし、知らず知らず、キリストよりも自らのキリスト教により頼む結果となりやすいのです。こうなれば、主を仰ぐべき時に自己を見て、結果としては、疑い、憂い、そうして平和を失うのです。私たちが喜ばしく、善良に、霊的になっている時は、すべて良しと感じます。しかし、心が冷淡で悪意を持つ時、神を疑い、信仰は萎えるのです。これは最初の信仰をしっかり持っている姿ではありません。これはキリストを信じるよりも、自分を信じることにあります。

 主のみが、常に、私たちの救いを全うしてくださるのです。

 

 わが手のわざは、主のおきての求めにかなうまじ。

   わが熱心はためらわず、わが涙は、とこしえに流るるとも、

    罪をあがなうことを得し。主よ、主にのみ救いあり。

 

 「小閑記」

  

 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

          =マタイ7:7~8=

 

 わたしたちは、神様のもとへ、何かを願いに行くときは、誰も開けてくれない閉じられた戸をたたくのでもなく、心を閉ざし憐みの心を持たない者のところに行くのでもありません。

 否、わたしたちは、わたしたちを迎えに使いをよこし、わたしたちに祈ることを教えて、必ず得させると約束してくださった方のところへ行くのです。

 

 多くの人は、祈りは命令されたものであると考えたり、心の内にある不平や不満、時には愚痴に近い思いを口にしたり、無病息災を「願掛け」のようなものと思うのです。時には、宝くじの最高額が当たりますようにとか、受験に合格しますようにと祈る人もおられます。弱いわたしたちのささやかな願いとも言えるでしょう。

 

 しかし、大切なことがあります。それは、わたしたちの無能と神様の全能とを示すためであると考える誤りです。もちろんわたしたち人間は、全能者ではありません。

 「祈り」は、わたしたちが憐れみを受け、助けを必要とする時に助けてくださる恵みを見出すことのできる、全能の神のみ座へ向かって開いている「扉」であります。「祈り」はくびきではありません。「つばさ」です。義務ではなく、「権利」であります。祈りは、弱き人間の権利であります。

 

 わたしたちの周りのすべての戸口が閉ざされている時、生きる希望も力も失ってしまったと思える時、その時こそ、わたしたちは手を合わせて、神様のみ前に出て、わたしたちの必要を求めることのできる「時」なのです。わたしたちは神様に、人生で自分に起きるすべてのことについてお話しすることのできる「時」なのです。

 

 救いのために祈ることから、罪の赦し、日々の仕事のこまごまとしたことまで、神様にとっては、その子供たちがこの世で骨折り、働いていることが何であれ、つまらないから聞いてやれないというものは何一つないのです。

 今日もまた、わたしたちは生活と仕事、健康の時も病気の時も、すべて祈りの中に、神様に語ることが出来るのです。

 

「そのとき、あなたがたがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12~14)

 

 道を求むる旅人われに、愛と御霊は、なぐさめなり。

 主よ、旅路の終わるまで、わが友、わが守りとなりて導きたまえ。

 

 

 

 

 

   

   

 

 

 

 

  「小閑記」

 

  彼らは嘆きの谷を通っても、そこを泉のある所とします。

  また前の雨は池をもってそこをおおいます。

  彼らは力から力に進み、シオンにおいて神にまみえるでしょう。

           =詩篇84:6~7=

 

 2019年も今月で終わります。人にはそれぞれの歩みがあり、国にもいろいろの出来事を終えて2020年へと向かいます。しかし、振り返って見る時、そこにはあまり差異はありません。

 ほとんどの人は、何かを求めて額に汗し、何かを得るために労苦してきました。そこには、貧困の苦しみ、重い労働環境、病気や悲しい出来事、いじめや差別をほとんどの人のぬぐえない忠実な道連れです。私たちの人生の道は、まことに悲しい道、嘆きの谷です。

 人は、ふと生きる勇気をよくも持っているものだと、驚くことがあります。少なくとも、人生は死をもって終わると信じていると考えることが、奇妙にさえ思います。この世界に生を受けた時から、死をもって終わる日々の歩みと思う考えに、打ちのめされてしまうなら、あまりにも私たちは哀れではないでしょうか。

 

 しかし、聖書が神について、救いについて、恵みについて、死の彼方の国の永遠の命について語るところを信じる人々、その信仰を持つ者には、たといこの世の生活は重荷と涙の伴うものであっても、神とともなる栄光の希望に満たされているのです。そのような未来に確信を持つならば、人生のそのものに意味と目的とが、心に生まれているのですから、今はどうであれ、未来には落胆と絶望の道は通り抜けているのです。

 古の詩人は、「あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝いとこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります」と歌い上げています(詩篇5:12)。

イザヤは、「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである」(イザヤ25:8)と告げ知らせています。

 

 その約束の成就が、神の御子の主イエス・キリストなのです。その誕生を「おめでとうございます」とお祝いするのがクリスマスなのです。 
 

   「小閑記」

 

 しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかのひとがあなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう。

           =ヨハネ21:18=

 

 大切なことがあります。主イエスを信仰によって救い主と受け入れた人は、同時にみ旨のままに私たちを支配する権利を神に差し出したのです。「みこころをなしたまえ」と言って、同時に、この世で自分の欲することを自分のために得るということは、これはキリストが王であられる国においては、出来ないことであります。

 こういうことは自明のことながら、私たちは最も辛い戦いをするのは、このことであります。時々、私たちは、神は冷淡で、無慈悲であると考えさせる原因は、私たちの人生・歩みの見方が、神様のみ旨・目的と異なっている所にあります。

 

 神様は、私たちのために二つに一つの、永遠の救いか、永遠に失われるものかの重要さをご覧になるのです。そして神が、もし地上の利益が私たちを永遠の命から奪うものであることをご覧になれば、私たちの好まない所へお導きになるのです。

 

 神様は、私たちの行く道に「しるし」をつけ、行くべきところへと導かれるのです。それが私たちにとって嘆き、つぶやこうとも、神様はご計画をお変えにはなりません。私たちが神様の御許にいる間は、み心のままに扱われるのです。

 

 常に心よりすることは出来なくても、信仰と忍耐をもって歩むならば、私たちが出会う全ては地上の罪の絆を解き、解く手立てとなり、神様を崇める助けになるのです。

  

  主は汝の魂を解き放ち、汝の心を重荷より、

    やがては解き放ちたまわん。

      弱き心よ、喜び歌え。

 

   「小閑記」

 

  わが魂はもだしてただ神をまつ。

     わが救いは神から来る。  =詩篇62・1=

 

 人にはそれぞれの環境や年齢の差異はあっても、ふと自分を振り返る時が訪れるといわれます。

 この冒頭の聖句は、それを私たちに考えさせる大切なみ言葉であり、時でもあります。

 

 ダビデは、その生涯の夕暮れを迎え、過ぎ去った時のことを振りかえって立っています。

 ダビデは何の屈託もない羊飼いの少年として、丘の上や花の咲いている野で、動物に囲まれて遊んでいた日々を思い浮かべます。また王位に就くまでの困難な狭き道をも思い浮かべています。自分が低く下り、高く上がるのを見、またすべてのことを、人生の真のはかりにかけてみて、幸福はどこにあるかを究めなければならなかった時のことを見て、結局は長い道を経て、神の中よりほかになかったことを、知り、知らされ、それを結論としてます。

 

 自分の幸福は、富にも貧にも、名誉にも不名誉にも、病にも健康にもなく、ただ神にのみあるという教訓を学ぶには、多くの時間と失敗と手間のかかったことを知ろうとしています。多くの人は生涯をかけて、この世に幸福を追いかけて暮らします。

 魂はこの歌を昼も夜も聞きます。「もしわたしがあそこまでやり、あれだけのものを得ていたなら、幸福だっただろう」と。

 しかし、一人として、神を見いだすまでは幸福にはなれないのが真実であります。ダビデは羊飼いであった時よりも、王となってから嘆き悲しみ、涙することが多くありました。富む者は貧しい者よりも心配も多いのが世の常であります。財産を増やす者は、悲しみも増やします。

 

 しかし、己が生涯を喜んで神の救いの手と父なる神の手に委ねる者は、命の川から命の水を飲み、平和を与える宝を見いだすのです。人生の真の平和と喜びを得たいと真に願う者は、先ず神を見出さねばならならないと、この冒頭のこのみ言葉は語っています。

        

「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」(箴言16:9)。

 

   「小閑記」

 

 しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

 

           =ルカ7:50

 

 私たちの日々の中に、親しい人に、家族に「ありがとう」「感謝します」という思いと言葉、意識を豊かに持ち、口に出来たら、その毎日は、暗く憂鬱になるでしょうか。不快に思うでしょうか。笑顔に変わることでしょう。

 

 この聖書のみ言葉は、私たちの一番望むことです。想像してみてください。

イエスご自身(救い主)の口から、「あなたの罪は許された」「あなたの信仰があなたを救ったのです」というお声を聞くことは、たぶん、地上で私たちが経験する、最大の喜びでありましょう。

 

 この喜びをこそ、多くの人は、人が熱心に慕い求めても、祈っても、主イエスへの信頼なくして得られものではないのです。このイエス様に出会うまでのこの女性も、そうであったでしょう。しかし、熱心は無駄ではありません。イエス様は言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのです」と。では、この女性を救った信仰には何があったのでしょうか。お手元の聖書をお開きになり、ルカによる福音書736節から50節を是非お読みになってください。そうして、その時の状況を想像してみてください。

 

 「命がけ」「わき目も振らず」という言葉がありますが、この女性の姿には

必死な思いで、人をかき分け進み、イエス様の足もとに、罪あるままの自分を投げ出したのです。その姿が、イエス様の言われる「あなたの信仰が・・・」というお言葉になったのです。

 

 この女性の姿は分かりやすいですが、自分に置き換える時、「自分を投げ出す」ことほど難しいことはありません。あるいは、祈りの時でも、神様とお二人の時でも、自分を曝け出すことは出来ません。ましてや、多くの人の前での、女性のあのような行動は、勇気ではなく、「罪を許されたい」という思いが、日々の生活の中にあったからこその行動ではないでしょうか。人それぞれに自分の中にある、得体のしれない邪魔者があるからです。でも、イエス様のみ前に進み出ましょう。

 「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」をいただくために。

   

救い主のうれしきみこえ 天よりの平和を敷きひろぐ。

   幸いみちたるその声に かぎりなき生命と喜びあり。

 

   「小閑記」

 

 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられるべきである。

          =ローマ12:2=

 

 生活の知恵として、私たちは多くの習わし、習慣を守ってきました。社会はそのようなもので秩序立てられ、維持されて来たところは沢山あります。「伝統」や「文化」には、深い意味合いがありますが、悪しき「伝統」「文化」のあることもまた事実です。

 人が最も興味を持つもの、最も欲するもの、自分の利欲となるものであれば、それがどんなに罪深く、人や社会に益しないことでも、下品なことでも、地位や富に関係なく、それをやるのが私たち人間の本性なのです。

 「神より生まれたものでなければ、それ以上のことはできない」のです。

 

 しかし、キリスト者は新しい人になったのですから、これよりも出来るはずなのです。聖書は教えます。この世につく者は自己中心である、と。キリスト者は全てのことをする出発点は、神様からいただいたキリストの愛をもっているものからスタートします。その愛とは、決して自分の私利、利得、名誉、あるいは名声を求めず、神のみこころを求めなければなりません。

 旧約の祭司が犠牲をささげるように、自分を神への生ける清い供え物としてささげるべきです。

 

 この感謝と信仰の証しとしての犠牲と奉仕において、たゆまぬ力を持つには、私たちはただ一つ、絶えず心を新たにしていなければなりません。また、世の人々を避けないで、世の習慣や習わしとは違った、違う生き方をしなければなりません。その目的のために、キリスト者として招かれ、救われたのです。その理由のためにこの世にいるのです。

 私たちは、寛容であるべきです。しかし曖昧であるべきではありません。多様さを認めることは大切です。しかし、妥協すべきことを求めてはいけないのです。この自覚が薄れる時、「地の塩、世の光」を失うのです。

 

 それをよく守り、勝利を得るキリスト者は幸いです。それは自分自身にとどまらず、人々に指針、道しるべ、良き信号機になるのです。

 神の栄光を現すために、その生涯を生きようとする姿こそ、今、キリスト者と教会は求められているのではないでしょうか。

 

  わが生くるは、ただ君(キリスト・神)ひとりのため

  君をぞわれは最も愛す、われに賜いし君が愛にこたえて。

 

 

  「小閑記」

 

 わたしのした事を何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません。

         =ヨハネ4:29=

 

 私たちは人に知られたくないものを、心に隠し持って生きているとも言えます。それを、日本人は時に、「墓の中まで持って行く」という言葉で言い表すところがあります。

 

 聖書の中に、「律法がなかったら、罪は死んでいた」とあります(ローマ2:1~、7:7~24をご参照ください)。

 

 この冒頭のみ言葉は、サマリヤの霊的にはまだ覆いのかかっていた心の目の女性が、井戸のほとりでイエス様にお目にかかった時のことを、このように叫びました。「わたしのした事を何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい」。

 

その人は昔の預言者でもなく、モーセでもありません。キリストであったのです。ペテロが浜辺で主にお目にかかった時、自分の罪を今までになく、はっきりと見なければなりませんでした。

ペテロは言いました。わたしはつまらない男です。危ない時には逃げ出します。わたしのことは構わないでください。行かせてください。わたしは何の値打ちのあることはできませんよ。イエスよ、わたしから離れてください・・・と。

 

イエス様の愛より発する光に照らされて、自分の罪と不貞、不信仰を見る時、その時でもなお恥と信仰の未熟さとの中にいるのです。

「あなたこそ神のキリストです」と告白し、わたしはあなたを知らないなど、言うはずがないと自負していたペテロ、激しい言葉で知らないというペテロは私たち一人ひとりです。

 

その時こそ、罪人を悔い改めさせるお働きをなさるのが救い主なのです。イエス様が救われるのは、自分が罪人であるとことを認める時です。しかし、信仰が与えられ、キリスト者になったその時から、実はこの「自分の罪人である自覚」は薄れていくのです。

もう救われている自分という間違った自覚、身勝手さに陥りやすいのです。

この自覚の希薄さは「信仰の老化・劣化」そのものであると自戒することを、ひと時も忘れない信仰と日々の歩みをしたいものです。

 

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 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
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鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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