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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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s-P8010085.jpg                  キリスト者の生活綱要  (25)
               
ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第3章 十字架を負う忍耐
 
  8 迫害は霊的喜びをもたらす
 
  1 われわれが正しいことを守ろうとすると、いろいろな虐待や苦しみを経験させられるが、そうした時に、聖書は繰り返して、われわれを慰めてくれる。それで、このような困難を、忍耐と霊的喜びをもって、主の手から受けるのでなければ、まったく恩知らずであると非難されることになる。特に、この種の苦難、すなわち十字架は、信者にとって、最も固有のものだからである。
 ペテロの語るところによると、われわれが苦しみを受けることによって、キリストはわれわれのうちで、栄光をお受けになるからである。また、高貴で独立心の強い思いにたいして、不遜な扱いをされるくらいなら、百の死にまさって耐え難いのがわれわれであるため、「生ける神に望みをおいているという理由」だけで、迫害だけでなく恥辱も、われわれを待っている、とパウロは警告している。そして別の箇所で、彼は、自分の例に倣って、われわれが、「悪評を受けても、好評を博しても」、進み行くように励ましている。
 
  2 次に、あらゆる辛さと悲しみの思いを払い除ける時、楽しそうな様子をする必要はない。悲しんで混乱させられず、嘆きで悩まされないなら、聖徒たちは、十字架を負うのに忍耐など必要がないことになるからである。
 例えば、貧乏に困難がなく、病気に苦痛が伴わず、侮蔑に悩みがなく、死に恐怖が伴わないなら、これらの苦しみに超然としているのに、何の勇気も節制もいらないことになる。しかし、これらの一つ一つは、それぞれ固有の苦痛をもって、当然のことながら、われわれの心を抑えつけるので、信者は有らん限りの努力を傾けて、その悲しみに抵抗し、それに打ち勝って真の力を発揮するのである。
 彼らは、どんなに激しく罵られても忍耐深く、また神への畏れによって、爆発しそうになる短気を抑えるのである。
 悲しみや嘆きによって心を傷つけられても、神の霊的慰めの中に憩う時、彼らの喜びと快活さが現われる。
      Ⅰペテロ4:14、Ⅰテモ照:10、Ⅱコリント6:8
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
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 bde75a7c.jpg                 キリスト者の生活綱要  (24)
               
ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第3章 十字架を負う忍耐
 
  7 迫害は神の好意をもたらす
 
  1 「義のために」迫害を受けるのは、われわれにとって、この上ない慰めの源泉である。そのとき、神が勲章でもってわれわれを飾り、高い栄誉を与えてくださることを思うべきである。福音の擁護のために苦しむ時だけでなく、正しいことを主張して反対されたときでも、わたしはそれを、義のための迫害と呼ぶ。
 神の真理をサタンの虚偽に対抗して守り、善良無垢の人々を不正と危害から保護しようとすると、必ずこの世の憎しみを受けるので、われわれの生命、財産、および名声が危険にさらされる。しかし、われわれは神の軍務についているのに悲しむべきではなく、主がわれわれを、最も幸いな者と呼んでくださるのに、自分を惨めな者と思ってはならない。
 確かに、貧困それ自体は悲惨である。追放、軽蔑、恥辱、入獄も同じである。そして死こそ、全ての不幸の内で最後に来るものであって、最悪のものである。しかし、神がわれわれに好意の息吹をかけられると、全ては共に働いて、われわれの幸福と益のためのものとなる。
 だから、肉的な誤った考えに満足するよりは、キリストに認めてもらうことの方を喜ぼう。そうすれば神が、「われわれを御名のために恥を加えられるに足る者」とされるとき、使徒たちのように、いつでも喜ぶことになる。
 
  2 迫害の価値は何か。
 罪もなく良心的であるのに、もし悪人の悪意によって財産を奪われ、貧しくされたとしたら、われわれはそれによって、神にある天の真の富を増すのである。もし国から追放されたとしても、神との親しい交わりの中に迎えられる。
 悩まされ、辱められたとしても、キリストの内に逃げ込んで、さらにしっかりとキリストに根を下ろす。ののしりと辱めに囲まれたとしても、われわれはそれだけ大きな誉を神の国において受ける。
 虐殺されたとしても、永遠の栄光の中に受け入れられる。永遠に変らない価値のあるものを、この世の影のような過ぎ去る喜びより軽く考えることは、恥ずべきことである。
              マタイ5:10、使徒行伝5:41  
 
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
 
 ae9e1830.jpg                 キリスト者の生活綱要  (23)
               
ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第3章 十字架を負う忍耐
 
  6 十字架は悔い改めをもたらす
 
  1 慈悲深いわれわれの父は、われわれに従順の道を歩ませるために、将来のわれわれの弱さを予防するだけでなく、過去の罪を矯正する必要もある。そこでわれわれは、どんな苦しみに直面しても、直ちに自分の過去の生活を振り返ってみなければならない。
 そうすれば、そうして懲らしめに価していることが、確実にわかるようになるであろう。だからといって、われわれは、罪を忘れないようにするために、先ずなによりも忍耐を勧めている、と結論すべきではない。
 逆境において、「われわれが、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受ける」と、聖書が教える時、はるかに優れた理由を示しているからである。
 
  2 したがって、試練という苦しみの中でも、われわれに対する天の父の慈愛と好意を認めるべきである。そのような時でさえ、主はわれわれを幸せにしようとして、休まず働いて下さるからである。
 主は、われわれを傷付けたり破滅に陥れたりするために苦しめるのではなく、世と共に罪に定められることから救おうとしておられるのである。この考えは、「わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように」と、聖書が別の箇所で教えているところに、われわれを導く。
 父の鞭を意識するとき、われわれは、悪行によって頑固になった自暴自棄の人々にならって、反抗的になるよりも、むしろ、素直な子供のように振る舞うべきではないか。「だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそあなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない」と、使徒も適切に注意しているように、われわれが過ちを犯したとき、矯正によって、われわれをご自身に呼び戻してくださらないのであれば、神はわれわれを滅ぼしてしまわれるのである。
 
  3 神が慈愛を示し、われわれの救いに非常に心を用いてくださるとき、神とともに耐えることをしないならば、われわれはきわめて邪道である。信者と不信者との間の相違点を、聖書はこう指摘している。すなわち、後者は、いやしがたい邪悪な年老いた奴隷のように、鞭に耐えることができないが、前者は、高貴の生まれの子のように悔い改めと矯正によって、益を受ける。
 われわれは、いずれの方に立つかを選択しなければならない。しかし、この主題は別の箇所で扱ったから、ここでは簡単にふれるだけで十分である。
 Ⅰコリント11:32、箴言3:11~12、ヘブル12:8 
 
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
 
                  キリスト者の生活綱要  (22)
s-2011050408080000.jpg               
ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第3章 十字架を負う忍耐
 
 5 十字架は訓練のためである
 
  1 この服従の必要性は、われわれの肉が、少し優しく寛大に扱われると、きわめて熱心に主の軛を振り落とそうとすることを考えてみれば、よく理解できる。われわれは、初めたらふく食べて怠け、次いで制御できないほどになり、ついには、以前は服従していた馭者にも従わなくなる悍馬(かんば)と同様だからである。
 言い換えれば、主がイスラエルの民について責められたことは、われわれ一人一人のうちに、依然として認められるということなのである。つまり、われわれは、「肥え」、そして「肥え太る」ようになると、養い育ててくださった方を蹴るのである。
 神の慈愛は、われわれに神の恵みを考えさせ、神を愛するようにさせるはずなのに、われわれはきわめて忘恩的であるため、かえって神の寛容によって常に堕落する。そのため、このような我がままに陥らないよう、訓練でもって支えられる必要がある。
 
  2 それで、富を得たとき高慢にならぬよう、栄誉を得たとき自惚れないよう、繁栄と健康とを恵まれたとき横柄にならないために、適当と思われるとき、主はわれわれの肉の尊大さに対して、それを抑え屈服させるために、十字架を用いられる。そして主は、このことをわれわれ一人一人に有益で健全な方法を用いてなされるのである。
 すなわち、われわれが皆、同じ病気で同じように苦しむのでもなく、同じような辛い治療を必要とするのではないのである。
 これが、異なった人々が、異なった十字架によって鍛えられるのを見る理由である。天の医者は、全ての患者がよくなるように、ある人々にはおだやかな効き目の薬を与え、他の人々にはもっと衝撃的な方法で潔めるが、誰も除外されることがない。全世界が例外なく病んでいるからである。  申命記32章5節 
 
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
 
  s-CCF20110422_00003.jpg                キリスト者の生活綱要  (21)
               
ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第3章 十字架を負う忍耐
 
 4 十字架は服従を教える
 
  1 神は、神の子らに苦しみを与える理由を、もう一つ持っておられる。それは、忍耐を試して服従を教えることである。
 神の子らは、神の与えてくださった服従だけしか、神に示すことしかできない。しかし神は、聖徒たちにお与えになった恵みを明らかにし、こうした服従という形をとることをよしとされる。それは、与えた恵みが隠れて用いられないままにならないようにするためである。
 神の僕たちが、苦しみの中で、与えられた力と堅忍の賜物をもっていることを明かにするとき、神は彼らの忍耐を試していると聖書は言う。そこで、「神はアブラハムを試みた」という表現が生まれる。その時、アブラハムは、そのひとり子を犠牲にすることを拒まなかったという点で、神への信仰を立証した。
 そのため、ペテロは、金が炉の火で精錬されるように、われわれの信仰も、苦しみによって試みられると言う。
 
  2 信者が神から与えられる忍耐というこの最も優れた賜物は、実践され豊かにされる必要がある。それは誰も否定しないことである。なぜなら、信者はこうしてはじめてこの賜物を確かなものとするからである。
 そういうことでもなければ、人間は忍耐という賜物を、決して正しく評価しないのである。しかし神が、忍耐という賜物を実生活で用いる機会を与えて、この徳が曖昧になったり、用いられなくなったりするのを防いでおられるのであれば、これこそ、聖徒を試みる理由のなかで最高のものである。というのは、苦しみに会わずに、聖徒たちは忍耐をもつことができないからである。
 
  3 繰り返して言うが、十字架によって、聖徒たちは服従に導かれる。なぜなら、この苦しみの道によって、自分の願望ではなく、神の御旨に従うことを教えられるからである。全てのことが、彼らの願い通りになるのであれば、神に従うということの意味を理解しないであろう。
 不幸を忍耐して耐えるのに、「神に従え」という格言をもって、人々を励ますのが、古くからの習慣であった、とセネカは語っている。これは、子供のような温順さで、懲らしめを喜んで受けるときだけ、神のくびきに従っている、ということを意味している。
 したがって、全てのことで、天の父に対して服従することがふさわしいことであるなら、この服従の実践にわれわれを慣れさせるために、神があらゆる方法を用いる権利のあることを、当然否定すべきでない。 創世紀22:1~2、Ⅰペテロ1:7。 
 
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
080521_1637~0001.jpg                  キリスト者の生活綱要  (20)
               
ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第3章 十字架を負う忍耐
 
 3 十字架はわれわれに希望を与える
 
  1 「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出す」とは、パウロの教えているところである。信者は、自分の力ではなく、神の強さによって支えられて、忍耐を貫き通していくとき、神が試みの中にある信者を助けてくださるという約束が、真実であるのを経験するからである。
 それで、必要ならば、神は必ず約束した助けを実際に与えてくださるということを、聖徒たちは忍耐を通して知るのである。その結果、聖徒たちの望みはいっそう強められる。確かであり、不変であると確信する神の真実に、われわれが将来のことで信頼しないなら、恩を忘れていることになる。
 それだから、われわれは今では、十字架よりどんな恩恵が出てくるかを知っているのである。というのは、われわれが、自分の徳について持っている誤った思いを捨て、へつらいをもって迷わそうとする偽善を見破っているなら、われわれが生まれつき持っている有害な自尊心は、その位置から転落することになるからである。
 このように、謙遜にさせられると、われわれは神にだけ頼るように教えられ、絶望の中にも、よろめいたり、沈んだりしない。この勝利から新しい希望がわいてくる。主が約束を果たしてくださったのを知ると、その真実が将来に向っても、確認されるからである。
 
  2 理由がこれだけであるとしても、十字架の試練が、どんなに必要であるかを示すのに十分である。
なぜなら、次のような点を挙げることができるからである。すなわち、自分の弱さに目覚めるために、盲目的な自己愛を取り去られる。自分自身を信頼できないほどに、自分の弱さを知る。全ての信頼を神に置くほど、自己に頼らなくなる。
勝利の中にも最後まで耐え忍ぶことができるように、限りない信頼をもって神に頼り、神の助けに全く頼る。神はその約束に真実であり忠実であることを知って、神の恵みの中に生き続ける。自分の望みがますます堅固になるよう、神の約束の確かさを経験する。こうしたことは、決して小さい利益ではない。 ローマ5:3~4
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
s-CCF20110217_00003.jpgキリスト者の生活綱要  (19)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡  繁訳
 
  第3章 十字架を負う忍耐
 
 2 十字架はわれわれを謙虚にする
 
  1 ただ父なる神への従順を証しするために、われらの主は十字架を追われた。しかし、われわれが間断ない十字架の下に生きなければならない理由は多くある。何よりも先ず言えることは、われわれは生まれつき、すべてのことを肉に帰す傾向があるため、自分の愚鈍さについて、いわゆる実物教育を受けないと、容易に自分の力を誇張し、どんな困難にも挫折しないのは当然であるかのように考えるからである。そして、愚かで空しい肉的な確信でふくれ上がり、神の恩恵がなくとも、自分の力だけで十分であるかのように、神に対して傲慢になり、誇るようにのぼせ上がる。
 こうした虚栄を抑制するのに最もよい方法は、われわれが愚かであるだけでなく、非常に脆弱(ぜいじゃく)であることを、神がわれわれに経験させ、立証してくださることである。そこで神は、屈辱や貧困、肉親を失うこと、病気やその他の災難によって、われわれを苦しめられる。
 そこでわれわれは謙虚になり、苦難の重荷に耐えさせる、唯一の力である主の力を求めて呼ぶようになる。
 
  2 偉大な聖徒たちは、自分自身ではなく、神の恵みによってしか強くなり得ないことを知っているのに、彼らですら、もし神が人生の試練によって、自分をいっそう深く知るように導かれないなら、自分の勇気と堅忍について、過大な確信をもつようになる。
 この自尊心が、ダビデをさえ、「わたしは安らかな時に言った。『わたしは決して動かされることはない』と。主よ、あなたは恵みをもって、わたしをゆるがない山のように堅くされました。あなたがみ顔をかくされたので、わたしはおじ惑いました」と言わせたのである。
 彼が頼っているのは神の恵みを軽視し、その代わりに自分自身に頼り、自分は決して倒れることがないと思ってしまったほどに、繁栄は彼を愚かにし、その感覚を鈍らせてしまっていたからである。
 
  3 こうした事が、この偉大な預言者に起こったのであれば、われわれのうち、誰が心配も注意もせずにいられるであろうか。繁栄している時、多くの聖徒たちは、自分の堅忍を自負しているが、ひとたび不幸が彼らの抵抗力を砕くと、自分自身を欺いていることに気づく。
 自分のそうした霊的欠陥の証拠によって戒められて謙虚になると、信者は益を受ける。肉に対する愚かな確信を取り去られて、神の恩恵のなかに隠れ家を得ることになる。そうしてはじめて、彼らは、強固な砦である神の守りが自分の近くに有るのを経験する。詩篇30:6~7。
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
b66da8a8.jpg                 キリスト者の生活綱要  (18)
               
ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第3章 十字架を負う忍耐
 
 1 十字架を負うことは自己否定より難しい
 
 
  1 「自分の十字架を負う」よう、キリストが召しておられるという、いっそう高い水準にまで、一人びとりの弟子が上がることは、敬虔なキリスト者に相応しいことである。主に選ばれ、聖徒の交わりの中に入れられた者は、困難で労多く、骨が折れ、数知れぬ悲しみに満ちた人生のあることを覚悟すべきだからである。
 このような方法で聖徒を鍛えるのが、天の御心である。
 神は、長子であるキリストから始めて、この方法をすべての子らに用いられる。キリストは、神の最愛の子であり、父が常に喜んでおられた方であったが、気ままに甘やかされることはなかった。むしろキリストは、いつも苦悩の中にあっただけでなく、その全生涯が、間断のない十字架であったと言える。
  2 使徒は、その理由を説明して、「さまざまの苦しみによって、従順を学ぶ」ことが必要であったと言う。われわれのかしらであるキリストさえ従わなければならなかったのであれば、われわれがそれから免れることはとてもできない。まして、主の服従が、われわれのためであり、われわれに忍耐の模範を示されるためであるなら、なおのことである。
 そこで使徒は、「御子のかたちに似たもの」とされることが、すべての神の子らのあるべき姿であると教えている。
 天の栄光に至るために、主はあらゆる悪意の深みを通られた。そのように、われわれも各自の異なる苦難を通り抜けて行くために、不幸や災難と呼ばれる多くの悲しみに耐えるとき、キリストの苦しみに与るのを知る。そしてそれは、われわれにとって真の慰めである。
  3 そこで聖パウロは、われわれが「キリストの苦難にあずかっている」のを知るなら、それは「キリストの復活の力」を知ることであり、「キリストの死にあずかっている」のであれば、その復活の栄光をも共にするようにされている、と言う。
 これは十字架の苦しみを軽くするのに、どんなに役に立つことだろう。不幸によって苦しめられれば、苦しめられるほど、キリストとの交わりは、ますます堅くされるからである。
 この交わりによって、不幸そのものがかえって祝福となるばかりでなく、われわれの幸福と救いを促進する大きな助けとなる。
マタイ16:24、3:17、17:5、ヘブル5:8、ローマ8:29、使徒4:22、ピリピ3:10。 
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
7fa7b00c.jpg                  キリスト者の生活綱要  (17)
              ジャン・カルヴァン著
                           ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                          吉岡  繁訳
 
  第2章 自己否定
 
 10 神はそのすべての道において正しい
 
  1 神を畏れる人々の平静と忍耐深さを示す事例は他にもある。彼らは、生涯のあらゆる状況の中で、そのように生きる努力をすべきだからである。自分自身をまったく神に服従させ、どんな些細なことでも、神の御旨に喜んで委ねない限り、正しい自己否定をしていることにはならない。
 このように心がけるなら、どんな事が起こっても、惨めと思ったり、自分の運命のゆえに、誤って神を非難したりすることはない。
  2 われわれがさらに多数の事故のことを考えてみるとき、このように自分自身を訓練することが、必要であるかが明らかになる。あらゆる種類の病気が次々に生じ、悪疫が襲うかと思うと、戦争の災害がわれわれを悩ます。時には霜や雹が作物を倒し、われわれは欠乏と貧困で脅かされる。
 しばしばわれわれの最も親しい者、夫、妻、父母、子供たち、あるいは親族が死によって急に連れ去られたり、家が火で焼き尽くされたりする。このような出来事のために、人々は、人生と誕生の日を呪い、太陽と星を責め、そしてあたかも神が凶暴で不正であるかのように非難したりする。
  3 しかし信仰深い者は、こうした状況の中でさえ、神の憐れみと父としての愛を想う。たとい身内の者を取り去られて、家族が淋しくなったとしても、神を崇めることを決してやめてはならない。むしろ、家庭に住んでくださる神の恩恵が、家庭を淋しいままにしておかない、というように考える。
あるいは、穀物畑が霜や雪でめちゃくちゃにされ、飢えに脅かされることがあっても、失望したり不満に思ったりしないで、かえって、神の守りの中にあり、自分たちが「神の牧場の羊であり」、神は必要な食物を備えてくださるという、固い信仰を持ち続けるであろう。たとい病気で苦しめられても、苦痛に打ちひしがれて、忍耐を欠いて神につぶやくようなことをせず、かえって、永遠の父の正しさと愛とを思って、懲らしめられ正されるなかで、忍耐を学ぶのである。
 4 要するに、何事であれ、神の定められたことが起こることを知って、信仰深い者は、それを平和と感謝の心で受け止める。それは、自分自身とすべての所有物とをひとたび献げた神の支配に、高慢にも逆らう罪を犯さないためである。
運命を呪い、逆境を考えまいとする異教の哲学者たちの考える、愚かで誤った慰めを受け入れることなどと言うことは、キリスト者は到底思ってもみないことである。この世では、有用な人であれ、そうでない人であれ、誰にでも打撃を加える見えない凶暴な力があるといって、こうした哲学者たちは、自分の運命に腹を立ててみても、しかたがないと考えたのである。
しかし、まことの信仰の原理は、神だけが、あらゆる繁栄と逆境の導き手であり支配者であること、そして神は決して無思慮に急ぐことなく、すべての善いことも災いも、最も公平な正しさをもって与えてくださるということである。 詩篇79:13。
 
(つのぶえ社出版)   この文章の掲載は訳者の許可を得ております。
 
「書籍案内」
『日の上からの知恵』s-IMG_0101.jpg
  伝道者の書講解
 
   富井悠夫著 
定価 1365円(税込み)
ISBN978-264-02880
-2C0016
キリスト教書店か書店でお求め下さい
 
s-IMG_0081.jpg                  キリスト者の生活綱要  (16)
               
ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第2章 自己否定
 
 9 富と名誉のために夢中になるべきでない
 
  1 願わしい繁栄はすべて神の祝福のあるところにだけ見出され、神の祝福なしには、ただ悲惨と不幸しかないことを信じているなら、自分の勤勉さや知恵に頼り、他の人の好意にすがり、あるいは、幸運を期待して富みや名誉のために、熱心になるべきではない。われわれのために備えて下さった運命に、神が導いて下さることを、常に期待すべきである。
 したがって、まず何よりも、禁じられている行為、不正直で罪深い欺き、隣人から奪ったり、隣人を害することによって、急いで富や名誉を得るべきでない。むしろわれわれは、汚れのない道から誘い出されないような事柄だけを追求するよう、自制すべきである。というのは、詐欺や強奪やその他の悪行には、だれも神の祝福を期待できないからである。
  2 神の祝福は、思うことが清純で、行いの正しい人にだけ来る。そのようにして神の祝福は、非行や腐敗を避けようと勤める人に及ぶ。また、金持ちになりたいと言う切望や、名声を得ようとする誤った野心を持つべきではない。というのは、一方において、み言葉に反することを要求しながら、同時に神の助けを期待するということは、恥ずべきことだからである。
 神が口をもって呪うものを、祝福をもって繁栄させようというようなことは、まことに神にふさわしくないことである。
  3 最後に、われわれは、自分の希望どおりに成功しなくても、短気になったり、自分の状態を嫌悪したりしない。というのは、そういうことをすれば、富みと貧しさ、名誉と侮蔑を思いのままに分け与える神に対する反逆になるからである。結局、前述したような方法で、神の祝福を得ている人は、一般に人が欲するものを情熱的に求めず、またなんの利益も期待できないような下劣な方法を用いない。
 さらに、まことのキリスト者は、どんな繁栄も自分の知恵や努力や幸運のせいにせず、ただ神がこれらの作者であることを認める。他の人々が前進している時、自分の進歩が小さく、挫折して苦しむことがあっても、この世の人が、普通の成功や期待に反して、成功しない時に持つ感情よりも、ずっと平静に謙虚に自己の貧しさに耐える。
  4 まことのキリスト者は、巨大な富や権力にも勝って、安らかな満足を与える慰めを持っている。つまり彼は、自分に起こることは、救いの促進のために、神が支配しておられて起こると信じているからである。
 これこそ、神に従い、神の律法に服し、「乳離れしたみどりごのように、わが力の及ばない大いなる事と、くすしきわざとに関係しません」と断言したダビデの心境である。詩篇13:1~2。
 キリスト者の生活綱要  (15)
        
                                         ジャン・カルヴァン著s-P1040020.jpg
                   ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                                                 吉岡  繁訳
 
  第2章 自己否定
 
 8 神の祝福なしに幸福はない
 
 1 自己否定の中心、すなわち、自己否定と神との関係を、さらに詳細に論じよう。前述した多くの要点を繰り返す必要はない。ただまことの自己否定が、どんなにわれわれを平静にし、辛抱強くするか、ということを指摘するだけで十分である。
 先ず第一に、われわれが、生活の安定と平静とを望むなら、自分自身の持物を神の御心に委ね、同時に、われわれの征服者であり主であるお方に愛を捧げるよう、聖書は注意を促している。
 富や名誉を切望し、権力を要求し、宝を積み、華美で無意味な虚飾を助長すると思われるあらゆるつまらぬものを集めるのが、われわれの猛烈な情熱であり、抑えがたい望みである。その反対に、われわれは貧乏、無名、卑下を恐れて嫌い、なんとかしてそれを避けようと努める。
 自分の欲望に従う人々には、どんなに休みがないか、また彼らがどんなに多くのトリックを試みるか、さらに野心と貪欲の対象となるものを得て、貧乏と無名を避けようとする努力のために、どれほど疲れ果てているか、容易に知ることができる。
 2 神を畏れる人々が、そのような罠に捕らえられないように願うなら、別の道を進まなければならない。すなわち、神の祝福のともなわない繁栄を望んだり、願ったり、さらには思ってみることさえしてはならない。あらゆるものが神の祝福だけによって、価値が決まるということを、われわれは固く信じている。
 自分の勤勉さや努力によって、あるいは他の人の好意によって、簡単に富みや名誉が得られように見えるが、これらのもの自体には、なんの価値もなく、また、われわれの見解や努力では何の前進もできず、神が栄えさせてくださる場合だけ、前進することができるのである。
 3 他方、どんな不幸に見舞われようとも、神の祝福は、われわれを幸福にし繁栄させることができる。不信仰な人々が高い栄誉と巨万の富を得ているのを、われわれは日ごろ経験しているように、神の祝福なしに、われわれがある程度の富と名声を得ることは可能であるが、神の呪いの下にある人々が、一片の幸福も決してもたないことを、われわれは見るであろう。
 したがって、神の祝福なしには、われわれはなにも得ることができない。そして、なにか得たとしても、それはわれわれにとって災いとなるのである。だから、自己をますます惨めにするようなものを願う愚かな者にならないようにしよう。
2bc1acef.jpg                  キリスト者の生活綱要  (14)
               
ジャン・カルヴァン著
                 ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
                 吉岡  繁訳
 
  第2章 自己否定
 
 7 一般的善だけでは十分ではない
 
 1 すべての愛の義務を実行してはじめて、まことの自己否定を実践することになる。
  愛の義務は、外面的にだけ行う人々がその一つもゆるがせにしないとしても、それを成し遂げていることにはならない。真摯に愛の原理から行動する人が成し遂げるのである。ある人が能力の限りを尽くして、その義務を果たしても、心がそこになければ、はるかに基準以下であるということになる。
 世の中には、非常に気前がよいとして知られている人でさえ、叱責や自尊心や横柄さを示さないで、物を与えることが決して出来ない。少なくとも大多数の人からは、傲慢や侮蔑なしには、どんな施しも殆んど与えられないというこの恐ろしい時代に、われわれは生きている。今の時代はきわめて甚だしく腐敗していて、異教徒ですら、耐えられないほどである。
 
 2 キリスト者は、愛の業を行うに当たり、当然のこととして笑顔や礼儀正しい言葉以上のものを示すべきである。キリスト者は、まず助けを必要とする人の立場に立って考え、あたかも自分が苦しんでいるかのように同情し、まことの憐れみと情け深さを示し、自分のためであるかのように、快く救いの手を差し出すべきである。
 心からの憐れみがあれば、尊大になることや非難がましくなることもなく、貧しい人や困っている人を軽蔑したり、その人々に威張り散らしたりすることもなくなる。われわれの身体のどこかが悪くなると、全身が働いて、それを健康に戻さなければならないが、そうだからと言って、その病気の部分を軽蔑したり、みんなの助けを受けているからと言って、恩義を感じるように強制したりはしない。
 
 3 身体の異なった部分が互いに助け合う相互扶助は、自然の決まりであって、それは好意とは考えられず、それを拒むことは、もちろんとんでもないことである。したがって、何か一つの奉仕をしたとしても、人はそれで、その他のすべての義務を果たしたと思ってはならない。
例えば、金持ちが自分の財産の一部を分け与えても、他の人々に重荷を負わせているなら、決して許されていると考えることは出来ない。どんなに偉大な人物であっても、すべての人は隣人に対して負債者であり、力の限り与えることを、愛は自分に求めていることを知るべきである。

(知床五湖と知床連山)
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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本

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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
定価 2000円 

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「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
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「十戒と主の祈り」
鈴木英昭著
 「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
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われらの教会と伝道
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本

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さんびか物語
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円

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