2023年7月号
№193
号
通巻877号
×
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ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第2章 自己否定
6 友と仇とを問わず、すべての人の利益を求めるべきである
1 善をすることに倦むことがないように、またその危険がごく身近にあるため、使徒は、「愛は寛容であり・・・いらだたない」と付け加えた。大多数の人々は、その人自身の価値によって量られるなら、まったく受ける価値のないものであるが、主は、なんの例外もなしに、誰に対しても善を行うよう、われわれに命じておられる。
しかし、その際に聖書は卓越した議論でもってわれわれを説得する。すなわち、われわれは決して人間の実際の価値を思うべきでなく、すべての栄誉と愛の根源である神の像に、人は造られているということだけを思わなければならないと教える。
さらに、この神の像は、信仰の仲間たちのうちでは、最も注意深く尊ばれなければならない。なぜなら、この神の像は、彼らには、キリストの霊によって、新しく回復されているからである。
2 それで、あなたの親切な奉仕を必要とする人が、あなたの前に現われるなら、援助を断ってはならない。たとい彼が見知らぬ人であっても、神は、御自身の刻印を彼の上に押し、彼をあなたの家族の一員とされたのである。そして、神は、あなた自身の骨肉を蔑むのを禁じておられる。たとい彼が賎しく値打ちがないとしても、神は御自身の像で飾るに価する者とされている。
たといあなたが、その人に対して、奉仕をする義務が少しもない人であるとしても、神は彼を、いわば御自身の代わりとされたのであるから、あなたは、神を忘れることの出来ない無限の恩恵に対する義務を、その人に示さなければならない。
たといその人が、あなたにとって、最小の努力をする価さえないとしても、その人があなたに推薦する神の像は、あなた自身の持ち物のすべてを彼に差し出す値打ちがある。また、ある人が誹謗と侮辱によって、あなたを怒らせ、したがってなんの親切もあなたから受ける値打ちもなく、かえって、その正反対の立場にあるとしても、あなたが、愛情をもってその人を包み、あらゆる種類の好意を彼に示さなくてもいいという理由にはならない。
その人は、それとはまったく異なる取り扱いを受けるに価した、とあなたは言うかもしれない。しかし主が命じておられることは、すべての人の不義を赦すこと、主御自身に逆らう彼らに対しては、主が責任を求めてくださるよう、主に委ねることである。
3 このことが、ただ難しいというだけでなく、われわれを憎む人々を愛し、親切をもって仇に報い、呪いに祝福を返すという、人間の本性にとってまったく矛盾することに到達できる唯一の道である。われわれは、人の悪をいつも思っているべきではなく、その人が、神の像の担い手であることを認めるべきであって、これを常に心にとめておかねばならない。
人の誇りを覆い、抹殺し、その人のうちある神の像の美しさと尊厳とをかんがえるなら、われわれは、その人を愛し受入れるように導かれるであろう。
ヘブル12:16、ガラテヤ6:10、イザヤ58:7、マタイ5:44、ルカ17:3~4.
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ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第2章 自己否定
5 自分以外の信者の利益を求めるべきである
1 すべて利己的な考えを捨て、自分自身のことをほとんど忘れ去らない限り、忠実に隣人の利益を求めることは、まことに難しいことである。自己を捨て、他の人々のためにすっかり自己を献げない限り、パウロの教えた愛のために働けという義務を、どうして遂行できるだろうか。
「愛は寛容であり、愛は情け深い、また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない。誇らない。不作法をしない。自分の利益を求めない。いらだたない」のである。
2 自分のことを求めるな、というのが命令のすべてであるなら、自己のみを愛し、なかなか自己のことを忘れ得ないようにされているわれわれの本性に、われわれは少なからぬ圧力を加えなければならない。むしろ、他の人々の利益を求め、更に進んで他の人々のために、自己の権利を放棄するようにしよう。
どんな恩恵であれ、主から受けているのであれば、それは教会の共通の利益のために用いるという条件で、与えられているということを、聖書は強く警告する。神の恩恵の正当な用い方は、他の人々に、気前良くまた親切に分け与えることである。
われわれが享受しているすべての祝福は、他の人々と分け合うという条件で与えられた神の投資であるということ、これが最も確かな法則、力ある勧告である。
3 聖書によると、われわれのそれぞれの個人的能力は、人体の各部の諸機能にたとえることができる。身体のどの肢体も、それ自体のために力を持っているのではなく、また私的な用のためにそれを用いるためでもない。同様に、教会の会員の場合も、だれも自分の活動から自分の利益を受けず、信者全体との協力の中で利益を受けるべきである。
忠実なキリスト者は、どんな能力を持っているにしても、それを兄弟である信者のために所有すべきであり、自分の利益を、教会の建徳のために真心から従属させるべきである。他の人々を助けることができる時には、いつの日か、自分のしたことを説明しなければならない管理人として身を処すことを、われわれは善意と慈愛の基準としよう。また、利益の配分は、愛の律法によって決めなければならないことも覚えておこう。
なぜなら、まず自分のことを求めておいて、他の人々の利益の増進につながるようにしようというのではなく、他の人々の利益をまず先に考えるべきだからである。
4 単に大きな利益に関わることだけでなく、生活の中の小さな好意においても、愛の律法を忘れることのないように、神は遠い昔から命じておられる。まず神に献げない限り、どんな祝福も享受すべきでない、ということの厳粛な印として、神は穀物の初穂を献げ物を、その民イスラエルに命じられた。
われわれは神が賜物を、自分の手で、その造り主である方に献げてこそ、神の賜物は、われわれの聖化された生活の一部となるのであるから、それを献げない限り、それを罪によって濫用しているということになる。
5 しかし、われわれが、能力や賜物を主に分け与えて、主を富ませようとしているのであれば、それは空しいことである。われわれの好意は、主にまで至ることができないから、詩篇の記者の語るように、われわれは、「地にある聖徒たち」にたいして、好意を示すべきである。
聖書において、施しは聖なる献げ物にたとえられている。それは福音の下における慈善の行為が、旧約の下における犠牲に代わったことを示すためである。Ⅰコリント13:4~8、詩篇16:2~3。
写真:ヤマモモの実
写真:ヤマモモの実
キリスト者の生活綱要 (10)
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第2章 自己否定
4 まことの謙遜は他人を尊敬することである
1 自己否定は、根本的には神にたいしてであるが、一部にはまた人とも関係する。聖書が、人にたいして、「進んで互いに尊敬し合うように」、また真心なら兄弟の便宜を助長するために全力をささげるように、と命ずる時、われわれの罪深い性質がまず癒された後でなければ、それは決して受け入れられない命令である。
われわれはみな、自己愛によって盲目にされ、取り乱されているので、だれでも自己を高いものとし、自己と比較してすべての他人を低く評価する権利を、正当なものと思っている。
神がなんらかの優れた賜物を与えていて下さるのに、われわれは、自分でそれを獲得したものと迷想し、誇りでふくれ上がって、はちきれそうになっている。
2 われわれは、自分に満ちている悪徳を注意深く隠したり、たいしたことではないと自惚れたりするが、時には自分の悪徳を徳と考えることさえある。自分にある賞賛に価する能力と同じもの、あるいはそれ以上のものが、自分以外の人々にあることが分かると、われわれは極端な悪意をもって、それを軽んじたり割り引いたりして、その人の優れていることを認めようとしない傾向がある。
自分以外の人々がなにかの悪徳をもっていると、われわれは、その人を厳しく冷たく批判するだけでは満足せず、苦々しくそれを誇張して言う。われわれが、他の人々よりも自分を高い者としようと願い、自分は当り前の運命に属しているものではないと妄想する時、憎しみは傲慢となり、自分以外の人々を、自分より劣る者として、横柄に激しく軽蔑する。
3 貧しい者は富んだ者に、平民は貴族に、召使は主人に、愚者は学者に従うとはいえ、だれでも、自分が他人より実際に劣っているとは考えない。だれにも自己に自惚れがあり、その心に中に王国をもっている。
だれでも自分に陶酔し、他人の思想や行動に非難を浴びせる。そして、なにか争いがあると、害毒が飛び散るのである。すべてが気持ちよく快適である場合、他の人々にたいして柔和である人は多いが、邪魔されていらいらしている時、どれだけ人々が機嫌を保つことができるだろうか。
4 幸福な生き方をするためには、不正な野心と自己愛という悪魔が、心の中から根こそぎ引き抜かれなければならない。聖書に耳を傾けるなら、われわれは、自分の能力が自分の作ったものではなく、神から価なしに与えられた賜物であることを、思い出すに違いない。もしわれわれが、自分の能力を誇っているなら、われわれは、神への感謝を欠いていることを示しているのである。
「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」とパウロは言う。
われわれは、自分の欠点を認め、それを看視し、心底から謙遜にならなければならない。そのようにすれば、慢心せず。かえって卑下すべきであることがわかってくるであろう。
5 他方、他の人々に、どんなものであれ、神の賜物を認めるなら、その賜物と所有者を尊いものとして尊敬するようにしよう。そうでないと、神がその人に与えられた栄誉を、その人から奪うという大それた悪に陥ることになるからである。決してへつらって、その人を増長させてはならないが、われわれは、他の人々の欠点に寛大であるように教えられている。
欠点のために、他の人々を軽蔑すべきでない。だれにたいしても、愛と尊敬を示すことがわれわれの義務である。だれであっても、人々の栄誉と名声に注意を払うなら、われわれは、謙遜と温和のみでなく、礼儀と友情をもって、身を処していることになる。
自らを低くし、心の底から他の人々を尊敬すること以外に、まことの謙遜に到達することができないからである。ローマ12:10、ピリピ2:4、Ⅰコリント4:7。
キリスト者の生活綱要 (10)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第2章 自己否定
3 自己否定の根本は、節制、義、敬虔である
1 使徒パウロは、よく整えられた生活というものを、次のように要約して、テトスに示している。
「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」。
パウロは、われわれを鼓舞するために、神の恩恵が必要であり、まことの礼拝のためには、次の二つの障害が取り去られなければならないと言う。すなわち、その第一は、われわれが生まれつき強力にそうなりやすい不敬虔であり、その第二は、われわれを圧倒しようするこの世の欲望である。
不敬虔とは、さまざまな迷信のことだけでなく、なんであれ、すべて神に対するまことの畏れを妨げるものである。また、この世の欲望とは、肉の思いのことである。パウロは、律法の二つの板に矛盾する以前のわれわれの欲を捨て、われわれ自身の理性と意志が強制するものを、すべて放棄するように勧める。
2 パウロは、新生が生み出すすべての行為を、節度、義、敬虔の三つに分類する。
節度が、貞潔と節制、この世の祝福をきよく慎ましく用いること。そして貧困に耐えることを意味していることは明らかである。
義は、各人が各自のふさわしい報いを受けるためにしなければならない正義にかかわる一切の義務を含む。
敬虔とは、われわれをこの世の汚れから離れさせ、真の聖潔によって神に結び合わせる。
節度と義と敬虔の徳が、しっかり結び合わされれば、絶対的に完全な潔さを生み出すことになろう。
3 すべて肉の思いを捨てて、われわれの誤った欲望を抑制し、また放棄し、自己を神と兄弟とにささげ、汚れた世にあって天使の生活をするほど、難しいことはない。あらゆる誘惑から解放するために、パウロは、われわれの注意を、祝福された不死の望みに向かわせ、われわれの希望が決して空しいものでないと言って励ましている。キリストは、かつて贖い主として来られたように、再臨の時には、獲得した救いの益をわれわれに示して下さる。
われわれを盲目にし、天の栄光を正しい熱心さをもって憧れることをできなくさせている魔力を、キリストは追い払っていてくださる。
キリストはまた、われわれが天の嗣業を失うことがないように、この世にあって、旅人、巡礼者のように生活しなければならない、と教えている。 テトス2章11~14節。
(写真:コバンミツババツツジ) キリスト者の生活綱要 (9)
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第2章 自己否定
2 神の栄光を願うことは、自己否定のことである
1 こういうわけであるから、自分自身ではなく、主を喜ばせることと、主の栄光の促進に役立つことを求めよう。自分自身のことをほとんど忘れ、すべての利己的なものをはっきり無視することのなかに、大きな利益がある。というのは、実にそうするときだけ、神とその戒めに、忠実に心を傾けるよう努力することができるからである。 聖書が、すべて個人的で利己的な考えを捨てるように命じるとき、それは単に富への望み、権力欲、人間の愛顧を、われわれの思いから取り去るだけでなく、誤った野心、人間的栄誉への渇望を、その他のもっと秘められた悪とともに、消し去ることである。まことに、キリスト者はその生活の中で常に神を思わなければならない。
2 キリスト者は、そのすべての行為を神の律法によって量り、その内にある思いを、神の意志に従うようにさせる。なにを企てるにしても、神を仰ぎ見ることを身につけているなら、その人はすべての空しい欲望から解放される。キリストが、初めから弟子たちに、熱心に命じた自己否定は、ついには、われわれの心のすべての願いを支配するようになるであろう。自己否定は、自尊心、傲慢、虚栄、あるいは貪欲、贅沢を好む心、浮気、その他の身勝手から生ずるどんな罪にも、入り込む余地を与えない。自己否定という原理がないと、人は少しの羞恥も示さずに、大きな悪に耽溺)するようになるか、なにか善行をしても、名誉を得ようという誤った思いに汚されるかのい
ずれかである。自己否定という主の律法を信じないでいて、それでも人の徳をすすんで行う
という人が一人でもいるなら、そういう人を見せてもらいたい。
2 キリスト者は、そのすべての行為を神の律法によって量り、その内にある思いを、神の意志に従うようにさせる。なにを企てるにしても、神を仰ぎ見ることを身につけているなら、その人はすべての空しい欲望から解放される。キリストが、初めから弟子たちに、熱心に命じた自己否定は、ついには、われわれの心のすべての願いを支配するようになるであろう。自己否定は、自尊心、傲慢、虚栄、あるいは貪欲、贅沢を好む心、浮気、その他の身勝手から生ずるどんな罪にも、入り込む余地を与えない。自己否定という原理がないと、人は少しの羞恥も示さずに、大きな悪に耽溺)するようになるか、なにか善行をしても、名誉を得ようという誤った思いに汚されるかのい
ずれかである。自己否定という主の律法を信じないでいて、それでも人の徳をすすんで行う
という人が一人でもいるなら、そういう人を見せてもらいたい。
3 自己否定という原理に感化されていない人はみな、褒められたいために徳を行う。徳 は、 それ自体が好ましいために、望ましいものであると主張する哲学者たちでさえ、非常な尊大さをもって自慢しているところをみると、自慢する機会を得たいために、徳を願っていることは明らかである。
神は、人々の賞賛を求める者や、自尊心と自惚れに満ちた心を、決して喜ばれることはない。神ははっきりと、「この世で彼らは報酬を得た」と言われる。また、(悔い改めた)娼婦や取税人のほうが、そのような人々よりも天国は近いと言われる。
4 正しいことを追求しながら、同時に、自己否定から後ずさりするような人には、際限のない障害が伴う。人の魂には、悪徳の世界が隠されている。昔からこのことは正しい見方であるが、キリスト者の自己否定は、そのすべての悪徳に対する対抗策である。
利己主義を捨て、主を喜ばせ、主の目に正しいことを唯一の目標とする人にだけ、豊かな救いがある。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第2章 自己否定
1 われわれは自分のものでなく、主のものである
1 神の律法には、われわれの生活を整えるために、たいへん適切で順序だった計画があるが、神の御旨は、一つのまことに優れた基本原理によって、人々を導くことであった。 「あなたがたのからだを、神の喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげる」ことは信者の義務であり、これこそ唯一のまことの礼拝である。聖潔の原理は、「この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるかをわきまえよ」という勧めに通じる。 われわれが、神にたいして聖別され、献げられているということは、きわまて重要な考え方である。それは、神の栄光という点だけから考え、語り、瞑想し、そして行為するということである。
聖なるものを汚れた用途に用いるなら、神にたいして大きな不正を行うことは、極めて重要な考え方である。それは、神の栄光という点だけから考え、語り、瞑想し、そして行為するということである。
2 われわれが、自分のものでなく主のものであるなら、どんな誤りを避け、どんな目的のために行動すべきか、明白なことである。われわれが自分自身のものでないからには、われわれの理性も意志も、われわれの思想や行為を導くべきではない。われわれが自分自身のものでないからには、肉に好ましいものを求めるべきでなない。
聖なるものを汚れた用途に用いるなら、神にたいして大きな不正を行うことは、極めて重要な考え方である。それは、神の栄光という点だけから考え、語り、瞑想し、そして行為するということである。
2 われわれが、自分のものでなく主のものであるなら、どんな誤りを避け、どんな目的のために行動すべきか、明白なことである。われわれが自分自身のものでないからには、われわれの理性も意志も、われわれの思想や行為を導くべきではない。われわれが自分自身のものでないからには、肉に好ましいものを求めるべきでなない。
われわれが自分自身のものでないのであるから、神にたいして、生きまた死ぬようにしよう。われわれは神のものであるからには、神の知恵と意志が、われわれのすべての行為を支配するようにしよう。われわれが神のものであるからには、われわれの存在のあらゆる部分を、唯一の正しい目的である神に向けよう。
3 おのれが自分自身のものでなく、自己の理性によっても支配されず、自己の思想を神に従わせることを学んだ人は、なんと大きな進歩をした人であろう。
人を破滅に導く最も大きな害毒は、知恵と意志の力について、自己を誇ることである。そこから逃れて安全に至る唯一の道は、ただ主の導きに従うことである。
4 主への奉仕という場合、単なる服従というこのことだけでなく、喜んでわれわれの罪深い欲望を退け、聖霊の導きに完全に服従するということが含まれる。パウロが、心を新たにすると呼んでいる。聖霊によるわれわれの生活の変化は、生命のまことの始まりであり、異教の哲学者たちの知らないところである。
異教の哲学者たちは、生活と知恵と行為の唯一の規範として、理性をたてるが、キリスト教哲学は、理性を聖霊に従わせることを要求する。これは、われわれがもはや自分自身のために生きず、キリストが、われわれの内にあって、生き支配することを意味する。
ローマ12:1、エペソ4:23、ガラテヤ2:20。
キリスト者の生活綱要 (7)
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第1章 謙虚な服従、真実にキリストにならう
5 霊的進歩が必要である
1 われわれが、福音の絶対的な完全さに向かって、努力すべきであると、どんなに言ったとしても、兄弟であるキリスト者にそれを要求すべきではない。キリスト者として認める条件として、福音的な完全さを要求することは正当ではない。
もし絶対的完全さという基準をおくなら、教会はなくなってしまうであろう。というのは、われわれのうちの最善のものですら、理想よりはるかにかけ離れているからである。そして、ほんの少しの進歩しかない多くの人を、拒絶しなければならなくなるからである。
2 完全さは、われわれが目標とする最終の標的であり、われわれの努力すべきゴールである。義務の一部だけを果たして、他は自分勝手に省いてしまうような妥協を、神に対してすることは正しくない。
主は、何にもまさって奉仕における誠実と、狡さと虚偽のない率直な心を求められる。ふた心は霊的生活と相容れない。というのは、霊的な生活は、聖潔と義とを求める神への真実な献身を意味するからである。
この身体の地上的牢獄を持ったままでは、正しく目を覚ましつつ前進するのに、十分な力を自ら持っている人は、一人もいない。(キリスト者の)大多数は、極度の弱さのもとに喘いでいるので、ためらったり、休んだり、地上を這いまわったりして、ほんのわずかの進歩しかしないのである。
3 しかし各人は、それぞれに与えられた能力に応じて歩み、その始めた旅を続けるようにしよう。ど ん な に小さいとしても、何らかの進歩をみないというような不幸な人間はいないのである。主の道を間断なく前進するために、最善を尽くすことを止めてはならない。また、成し遂げたことが小さいといって、失望しないようにしよう。今日が昨日に勝るなら、目的が達成されなくても、われわれの働きは失われないのである。
4 霊的進歩のための1つの条件は、真実と謙遜を失わないことである。目標を望み、ゴールに向かって前進しよう。誇りに耽けったり、罪の情火に身を委ねたりしないようにしよう。
3 しかし各人は、それぞれに与えられた能力に応じて歩み、その始めた旅を続けるようにしよう。ど ん な に小さいとしても、何らかの進歩をみないというような不幸な人間はいないのである。主の道を間断なく前進するために、最善を尽くすことを止めてはならない。また、成し遂げたことが小さいといって、失望しないようにしよう。今日が昨日に勝るなら、目的が達成されなくても、われわれの働きは失われないのである。
4 霊的進歩のための1つの条件は、真実と謙遜を失わないことである。目標を望み、ゴールに向かって前進しよう。誇りに耽けったり、罪の情火に身を委ねたりしないようにしよう。
生きる限り、求め続ける善の完成に、われわれが最後に到達するまで、より高い潔さに近づくように常に努力しよう。しかしわれわれが、あらゆる地上の弱さから解放されて、神との完全な交わりが許される時、初めてそれに到達するのである。
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第1章 謙虚な服従、真実にキリストにならう
4 外面的なキリスト教は不十分である
1 教会に会員籍があるというだけで、クリスチャンと呼ばれたいと思う人々に、どうしたらキリストの潔い御名によって、栄光を現すことができるか、と問いたい。というのは、福音の言葉から、キリストについてのまことの知識を受けていない人は、キリストと何の交わりももっていないからである。
自分を誤らせる欲で腐敗した古い人を脱ぎ、キリストを着るように教えられなかった人は、実際にはキリストを知らない人である、と使徒は言う。口だけの僕が、どんなに雄弁で自由に、福音について語っても、キリストについて外面的に知っている知識は、ただ偽りの危険な信仰の装い過ぎない。
2 福音は口の教理でなく、生命の教理である。福音は理屈や記憶だけで把握されるものではない。魂のすべてを所有し、心の内にあるくぼみにまでしみ込んではじめて、十分に理解される。
名ばかりのクリスチャンに、彼らが現実にそうでないのに、そうであるかのように誇って、神を侮るのを止めさせ、むしろ師であるキリストのふさわしい弟子であるようにさせよう。
われわれは、自分の宗教の知識を何よりも第一の位置に据えなければならない。というのは、これが救いの出発点だからである。しかし、われわれの宗教がわれわれの心を変え、行為に影響を及ぼし、われわれを新しく造られた者に変えるのでなければ、無益である。
3 哲学者たちは、生活の技巧を知っていると自称しながら、実際に空虚な妄言しか言わない人々を、当然のことながら非難し、自分たちの仲間から追放する。とすれば、キリスト者が、口だけは福音を語り、心には何ももたぬ人々を嫌悪するのは、いっそう理にかなっている。まことの信者の確信と愛と限りない活力に比べると、哲学者たちの勧めは冷たくて生命がない。エペソ4:20以下。
:再読希望者がおられますが、「キリスト者の生活綱要」は在庫がないため、この「つのぶえジャーナル」に連載いたします。つのぶえ社)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第1章 謙虚な服従、真実にキリストにならう
3 聖潔とはキリストへの完全な服従である
1 聖書は、ただ聖潔という原理を示すだけでなく、キリストがそれに至る道であることを示している。父はわれわれを、キリストにあって御自身と和解させてくださっため、われわれの模範としてのキリストと一つになることを命じられる。
哲学者だけが、唯一の正しい秩序だった道徳の体系をもっていると思っている人々には、キリストに服して従うよりも優れた計画を示させるがよい。哲学学者によれば、最高道徳とは自然のままの生活をすることであるが、聖書は、模範としての完全なキリストを、われわれに教える。
われわれは、その生活で、このキリストの性質をあらわすべきである。これほどすばらしい効果的な考えがあるだろうか。これ以外に、どんな要素があるだろうか。
2 子とされるため仲保者となってくださったキリストに、われわれがならうという条件で、主はわれわれを神の子らとして受け入れてくださった。熱心に、しかも祈りをもってキリストの義にこの身を献げないなら、われわれは創造主に不真実にもそむいているばかりでなく、救い主としての神を棄てているのです。
3 聖書は、その勧めと共に、神の限りない祝福の約束と、われわれの包括的な救いの約束とを与える。神が御自身を父としてあらわされたのであるから、神の子として振る舞うのでなければ、われわれは最悪の忘恩の罪を犯していることになる。
キリストは、その血によるバプテスマによって、われわれを潔めてくださるから、われわれは新たな汚れによって汚されるべきではない。キリストは、われわれを肢体として、御自身の体に結び合わせてくださったからには、われわれはどんな汚点によっても、彼の名誉を汚さぬように留意すべきである。
われわれのかしらであるキリストは、天に昇られたのであるから、われわれは、肉体的欲望を背後に退け、心を天におられるキリストに向けるべきである。われわれの魂も身体も、朽ちることも、色あせることもない冠を受け継ぐように定められているのであるから、自分の魂も身体も、主の日まで潔く汚されることのないように保つべきである。
これらは、ふさわしい生活の規範にとって最良の土台である。哲学者たちは、せいぜい人間生来の威厳までしか昇れない。(しかし、聖書はわれわれに、唯一の罪のない救い主、主イエス・キリストを示す。ローマ6:4以下、8:29)
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ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
第1章 謙虚な服従、真実にキリストにならう
2 聖潔が基本原理である
1 キリスト者の生活について、聖書には2つの計画がある。第1は、われわれが義を愛するように、律法よって教えられることである。それは生まれつきのままのわれわれが、それを愛そうとはしないからである。第2は、われわれが生活の競争の中でぐらつくことのないように、簡潔な規範を提示されることである。
多くの優れた勧めの中で、「わたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」という基本原理よりも、勝るものがあるだろうか。われわれが、散らされた羊のように散らされ、この世の迷宮の中に失われていた時、キリストは、われわれを御自分のもとに呼び戻すために、集めてくださった。
2 キリストとの神秘的結合について語られるのを聞く時、聖潔がそれに至る道であることをわれわれは思い起こすべきである。聖潔は、われわれがそれによって、神との交わりを獲得する功績ではなく、われわれをキリストに結合させ、彼に従うことができるようにするキリストの賜物である。
神が、どんな不義や不浄とも関わりをもたれないことが、神御自身の栄光である。したがってわれわれが神の招きを大切にするなら、このことを心にとめておかなければならない。われわれが、全生涯、なおこの世の不義と腐敗の泥沼の中でおぼれていたいなら、なぜそこから救い出されたか、考えなければならない。われわれが神の民となることを望むなら、聖なる都エルサレムに住まなければならないことを神のきよさは教える。
エルサレムは聖別された所であるから、不純な住民によって汚されてはならない。詩篇は、直く歩み義を行う者が、主の幕屋にやどるべき者である、と言っている。聖なる方の聖所は、潔く保たれなければならない。
レビ19:2、Ⅰペテロ1:16、イザヤ35:10、詩篇15:1~2、24:3~4
:再読希望者がおられますが、「キリスト者の生活綱要」は在庫がないため、この「つのぶえジャーナル」に連載いたします。つのぶえ社
キリスト者の生活綱要 (3)
ジャン・カルヴァン著
ヘンリー・J・ヴァンアンデル編
吉岡 繁訳
1 聖書は生活の規範である
1 神の子らの新しい生活の目標は、その生活において、メロデーとハーモニーを奏でることである。メロデーは神の正義の讃美であり、ハーモニーは神の義とわれわれの服従との和音である。われわれが、すばらしい神の律法の中を歩む時だけ、天の父の子とされたことを、確信するようになる。
この神の律法には、新しい生活の原動力がある。その力によって、神の像が、われわれの中に完全に回復されるが、われわれは本性において怠惰であるから、一つの指導的原理によってその努力が励まされ支援される必要がある。真心から真剣に悔い改めても、それで、もうまっすぐな道から迷い出ず、時には惑わされることもないという保証にはならない。それで聖書を調べ、われわれの生活を改革するための根本原理を探すことにしよう。
2 聖書には非常に多くの勧めがあるので、その全部を論ずることをすれば、大きな書物が必要になる。昔の教父たちは、徳について膨大な書物を著した。それは決して無駄なおしゃべりではないが、どんな学問的教説でも、もろもろの徳の中の一つの奥深さえ教え尽くすことはできない。
しかし、まことの敬虔のためには、そうした教父たちのすぐれた著作を読む必要はなく、聖書の唯一の基本的規範を理解すればよいのである。
(注)カルヴァンは、ここに「わたしは、簡潔を愛するので、多く書くことには適していない。しかし、将来このことを試みるかもしれない。もしわたしが、できなかったら、その仕事を他の人に残そう」を挿入している。
3 キリスト者の生活について、一つの簡潔な教えが記されたとしても、他の入念な議論が不必要になったとか、哲学はもう何の価値もないというような結論を、それぞれから引き出してはならない
哲学者たちは野心的であるために、巧妙な明確さと器用な精巧さとを旨とするが、聖書は、美しい簡明さをもちつつ、その正確さにおいて、すべての哲学者に勝るのである。哲学者たちはしばしば感情を飾ろうとするが、聖書はそれとは違った方法(直接的で簡潔な方法)を用いる。これは決して侮られてはならないことである。
(注)カルヴァンは、ここで明らかにⅠコリント1章~3章を考えている。
:再読希望者がおられますが、「キリスト者の生活綱要」は在庫がないため、この「つのぶえジャーナル」に連載しています。つのぶえ社)
キリスト者の生活綱要 (2)
目 次
1 聖書は生活の規範である
2 聖潔が基本原理である
3 聖潔とはキリストへの完全な服従である
4 外面的なキリスト教は不十分である
5 霊的進歩が必要である
第2章 自己否定
1 われわれは自分のものではなく、主のものである
2 神の栄光を願うとは、自己否定のことである
3 自己否定の根本は、節制、義、敬虔である
4 真の謙遜は他人を尊敬することである
5 自分以外の信者の利益を求めるべきである
6 友と仇とを問わず、すべての人の利益を求めるべきである
7 一般的善だけでは十分ではない
8 神の祝福なしに幸福はない
9 富と名誉のために夢中になるべきでない
10 神はそのすべての道において正しい
第3章 十字架を負う忍耐
1 十字架を負うことは自己否定より難しい
2 十字架はわれわれを謙遜にする
3 十字架はわれわれに希望を与える
4 十字架は服従を教える
5 十字架は訓練のためである
6 十字架は悔い改めをもたらす
7 迫害は神の好意をもたらす
8 迫害は霊的喜びをもたらす
9 十字架はわれわれを無感覚にしない
10 十字架は従順を促進する
11 十字架はわれわれの救いに必要である
第4章 来るべき世への希望
1 十字架なしに栄冠はない
2 われわれはこの世を高く評価しすぎがちである
3 この世の祝福を軽蔑してはならない
4 天と比較したら、地とは何か
5 死を恐れず、頭を上げるべきである
6 主は栄光のうちに来られる、マラナタ
第5章 この世の生の正しい用い方
1 極端を避けよう
2 地上の物は神の賜物である
3 まことの感謝は濫用からわれわれを守る
4 節度をもって生活しよう
5 欠乏のなかで忍耐ぶかく、足ることを知ろう
6 神の召しに忠実であれ
カルヴァンの祈り
全能の父なる神よ、私たちはこの地上で、多くの困難を通っていなければなりませんから、勇気をもって、火のなか、水のなかを通っていくことができるように、またあなたの支配に服従することにより、あなたの助けをまったく確信し、恐れなく、死を迎えることができるように、あなたの聖霊による強さを、私たちにお与えください。
また、最後の勝利を得るまで、人間のあらゆる憎しみと敵対心に耐えることができるように、そして、あなたの独り子がその血をもって私たちのために獲得してくださった祝福に満ちた安息に、ついに到達できるようにしてください。 アーメン。
:再読希望者がおられますが、「キリスト者の生活綱要」は在庫がないため、この「つのぶえジャーナル」に連載いたします。つのぶえ社)
*地下茎で庭中に広がり、花が咲いた茗荷です。葉っぱはおやきを包んで蒸すのに使います。
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緑を大切に!
書籍紹介
エネルギー技術の
社会意思決定
日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授
「本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
共著者・編者
鈴木達治郎
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
(財)電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
(財)電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
おすすめ本
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント
スーザン・ハント
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
「緑のまきば」
吉岡 繁著
(元神戸改革派神学校校長)
「あとがき」より
…。学徒出陣、友人の死、…。それが私のその後の人生の出発点であり、常に立ち帰るべき原点ということでしょう。…。生涯求道者と自称しています。ここで取り上げた問題の多くは、家での対話から生まれたものです。家では勿論日常茶飯事からいろいろのレベルの会話がありますが夫婦が最も熱くなって論じ合う会話の一端がここに反映されています。
「聖霊とその働き」
エドウイン・H・パーマー著
鈴木英昭訳
「著者のことば」より
…。近年になって、御霊の働きについて短時間で学ぶ傾向が一層強まっている。しかしその学びもおもに、クリスチャン生活における御霊の働きを分析するということに向けられている。つまり、再生と聖化に向けられていて、他の面における御霊の広範囲な働きが無視されている。本書はクリスチャン生活以外の面の聖霊について新しい聖書研究が必要なこと、こうした理由から書かれている。
定価 1500円
鈴木英昭著
「著者のことば」
…。神の言葉としての聖書の真理は、永遠に変わりませんが、変わり続ける複雑な時代の問題に対して聖書を適用するためには、聖書そのものの理解とともに、生活にかかわる問題として捉えてはじめて、それが可能になります。それを一冊にまとめてみました。
定価 1800円
おすすめ本
C.ジョン・ミラー著
鈴木英昭訳
キリスト者なら、誰もが伝道の大切さを知っている。しかし、実際は、その困難さに打ち負かされてしまっている。著者は改めて伝道の喜びを取り戻すために、私たちの内的欠陥を取り除き、具体的な対応策を信仰の成長と共に考えさせてくれます。個人で、グループのテキストにしてみませんか。
定価 1000円
おすすめ本
ポーリン・マカルピン著
著者の言葉
讃美歌はクリスチャンにとって、1つの大きな宝物といえます。教会で神様を礼拝する時にも、家庭礼拝の時にも、友との親しい交わりの時にも、そして、悲しい時、うれしい時などに讃美歌が歌える特権は、本当に素晴しいことでございます。しかし、讃美歌の本当のメッセージを知るためには、主イエス・キリストと父なる神様への信仰、み霊なる神様への信頼が必要であります。また、作曲者の願い、讃美歌の歌詞の背景にあるもの、その土台である神様のみ言葉の聖書に触れ、教えられることも大切であります。ここには皆様が広く愛唱されている50曲を選びました。
定価 3000円