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第75課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・21・・・
B キリスト者の市民的義務・・・7・・・
13:1~2・・・6・・・
「政府の機能と権力」・・2・・
勿論、国家は神が立てられた人間社会に存在する制度の一つに過ぎません。その他に神が立てられた制度には、家庭と教会があります。これらのものの何れも固有の領域をもっています(領域主権)。そして、それらの何れもが他の領域を犯すべきではないものです。もし、政府が教職(牧師・監督など)の任命権を要求するような立法を企てるならば、それは国家が教会の領域を侵害するものというべきです。また、国家が、もし両親に対して宗教教育を施すことを禁じるような立法をしようとするならば、それは家庭の固有の領域を侵すことになるのです。聖書によれば、国家の機能には限界があるのです。国家は教会や家庭の機能を奪うことは許されないのです。
過去と現在の全体主義国家においては、国家または為政者がすべてのものを奪おうとする悪い傾向が発展してきたのを見ます。全体主義国家は家庭や教会をますます狭い領域の中に押し込んでしまう一方で、人間生活の領域により広く支配権を伸ばしていきます。あらゆる組織や活動は、国家の偉大さと栄誉を増進するように志向することを、国家が要求するのです。このことをしないのは不必要と見做されて、禁止されたのです。
両親たちはますますその子供たちを国家の支配に服させるように強制され、教会は国家の意思するままにならなければ、その存在や活動を許されないのです(日本基督教団の成立事情を想起してください)。人間の自由は、すべてのものが全体主義国家の支配のもとに置かれていくに従って、ますます失っていくのです。
西側国家や日本のように民主主義国家においては、この傾向は全体主義国家に較べると少ないけれども、やはり国家官僚が支配力を及ぼす領域はときとしてステイティズム(国家の経済統制・共産主義に対比して言われる語)と呼ばれることがあります。国民の生活や行動をより多く統制しようとする政府の中に見られます。事業、農業、教育その他の多くの活動が、ますます政府の統制と支配の下に置かれるように進む傾向にあります。民主主義国家における官僚主義です。さらには国家が民間と競合して、企業活動をしようとする傾向も現れます(専売公社)。
国家が産業や事業を統制したり調整したりすることは、必ずしも悪いことではありません。それらをすることが正義の維持のために本当に必要で、ある程度までは、それらは合法的であり至当です。勿論、ここで言う正義とは、個人の不法行為を罰するというだけの狭い意味に解されてはなりません。人間社会における正義というのは、人と人の間、集団と集団との間の公平さを意味します。国家は人と人の間、集団と集団との間において、この正義が維持されるように、監視する裁定者なのです。もしある特殊な活動、例えば郵便等のような事業が政府の公営であることを、正義が要求するのであれば、それは国家がそのようにすることの保証となるのです。
しかし、国家がすべての領域の中に足を踏み込み、人間の生活の多くをますます奪うならば、それは確かに悪いことであり、啓示された神の御言葉にもなることなのです。このことは、個人のみならず家庭や教会が、神の与えられた権利と機能を持っており、国家はそれを奪うことが出来ないという事実から明らかです。
確かに全体主義や国家統制は、国家の機能や目的についての聖書の教えに反するのです。神は決して、政府や為政者が人類のすべての要求を満たす全能者としてはおられないし、人間の主の目的が国家の偉大さや勢力の伸長にあるとも言ってはおらません。国家は、人間社会の正義-すなわち、最も正当にして広い意味における正義・公平さ―を維持することによって、罪の結果を抑制するために建てられた神的制度なのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」