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2023年7月号  №193 号 通巻877号
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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・32・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

14 愛児の死

 

1907年(明治41)はREマカルピン師にとって悲痛な出来事の年であった。

『1907年6月7日の聖日、早朝自転車で12哩の瀬戸まで行き、午前中は教会の説教、午後は路傍伝道説教、そして夕拝の説教を終えて月明かりの中を家路についた。山積みになった手紙の中に病気中の私たちの息子クリスビーについての1通の手紙があった。それは、彼は長く生きられないであろうという文面であった。クリスビーは結核のため一年間治療をして、一時は回復の徴候を見せたのだが、冬の間に恐ろしい病気が彼の内臓を犯し、最早すべての望みは消えようとしている、と言うことであった。私たちの思いはノースカロライナ州トリヨンの病院に横たわる彼のところに向けられ、唯、「主の御こころのままに」と祈るよりほかにありませんでした。

次の日から彼へ、また彼についての手紙を書くことで一杯でした。それは最早私たちが彼のところに赴いても間に合わないと思ったからです。そして6月21日の夜明け、昨夜の激しい暴風雨がすっかり晴れ上がった美しい聖日、私たちは朝の祈りを終えると、「電報」と言う呼び声を耳にしました。そして私たちは外電のメッセージ「クリスビー シス イーブリン」に、こうなることの心の準備はしていたものの、矢張り私たちの感情は悲しみの淵に打ちひしがれてしまいました。

朝の礼拝中、冷静を保っていましたが、日本の方々の悔やみの言葉を受けると共に、私の心は悲しみで一杯になり、すっかり取り乱してしまい、大変後悔いたしました。それは、こうした場合、涙を見せぬ東洋人に対して自分の弱さを現わしたと思ったからです』。(マカルピン回想録)

 

愛する息子クリスビーの最後にも、祈ってやれなかった父としてのマカルピン師の胸中は、遠く異郷の地日本に宣教師として奉仕する者の負わなければならない十字架であった。現在なら飛行機で飛んで駆けつけることができたでしょうに・・・。

6月27日、バラ先生は、アメリカから帰っての夏、神山に避暑しながら例のように伊豆の地に伝道旅行をした。御殿場神山から10月13日には東北仙台へと飛び、元気に活動された。続いて、同月南信州伊那谷の坂下教会へ稲垣 信教師と同行、4人に洗礼を授けた。まことに、すさまじい伝道精神である。

さらに11月15日 には、萬国日曜学校同盟会の教育部長・哲学博士ハミル氏が日本に来て講演会を持たれ、そのための歓迎会が同日夕方7時半から横浜メソジスト教会で開催された。バラ先生は、在日宣教師を代表して歓迎の辞を述べられた。日本宣教46年、時に75歳のバラ先生の美しい白鬚(しゆ)は、先生の伝道の生涯を物語って余りある輝きを放っていた。

 

 

 

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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・29・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

13 20世紀に・・3・・

 

 マカルピン師の伝道に東濃(岐阜県の東美濃)の地は魅力があった。山深い中津川、そして徒歩でしか行くことの出来ない黒川村など、そこに住む進歩的な人々との語らいは興味があった。すでに明治35年12月、中津川まで鉄道が開通していたので、マカルピン師の伝道も便利になった。

明治39年春、44歳の誕生日を迎えて、その3月、中津川地方で大人2名、小児2名洗礼をさずけ、さらに10名が試問の上、洗礼を受けるはずであった。中津川から大井を経て、それから20キロメートルを徒歩し、蛭川の遠ケ根峠を越えた加茂郡黒川村では、3年前の(1903)6月30日に、旅宿奈葉屋で最初の信徒藤井和次郎がマカルピン師から受洗した。

続いて1905年(明治38)5月4日には、藤井千代、楯 エツ、藤井浅太郎が受洗した。さらに、明治41年1月には、マカルピン師に導かれた藤井伸一(現参議院議員藤井丙午の父)、藤井銀三郎が受洗している。

祈り、忍耐、熱心による伝道が、神道一本槍の寺のない村に福音の種の芽を成長させたのである。坂下町の曽我一家が入信してマカルピン師の世話になり、坂下教会(現日本基督教団坂下教会)の基となったのもこの頃である。

この年、バラ先生はラトガス大学から神学博士の学位を受けられた。一ケ年休暇を得て帰米された。この夏の8月23日、軽井沢の避暑地で北メソジスト教会の宣教師フランク・H・スミス氏の夫人は、ポーリン・ヘロン・スミス嬢を出産した。これが後のJA・マカルピン夫人のミセス・ポーリン・マカルピンさんである。

 

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・28・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

13 20世紀に・・2・・

 

1904年(明治37)、マカルピン師42歳のとき、津島に伝道したとき、後年、金城経学院院長になった市村與市氏を仏教徒からキリスト者に回心させた話がある。

 「市村先生は金城教会の長老として永く忠実に奉仕された。先生は仏教主義の哲学館を出られ、仏教徒としての生活も青年時代になさったのであるが、愛知三中に在籍中の1904年(明治37)頃、名古屋地方に伝道中のR・E・マカルピン師に導かれのがキリスト教を求道するきっいかけであった。

 先生は求道の初めの頃のことを、こう述懐しておられる。

 『明治37年頃、マカルピン師は伝道師松本顕二氏と共に津島に伝道せられて、片山正吉氏の宅に於いて初めて同師に面会した。其時同師は〝人は皆罪人である″と云われたことがどうしても私の腑に落ちないのであるが、同師は寛容と愛とを以ておもむろに私を導いて今日に至らしめて下さたのであった…』。

其の後先生は熱心に求道されて、ついに1910年(明治43)の3月に、吉川逸之助牧師によって受洗された」(市村與市先生113頁)。

市村氏が金城学院に終生奉職されたのにも、こうしたマカルピン師との深い関係があってのことであろう。

 

この年の2月20日、日本はロシアと戦争状態に入って国内は緊張し、耐乏生活が続いた。マカルピン師の身辺にも、また人知れぬ悩みがあった。それは一粒種の長男クリスビー君が虚弱で、日本での風土に合わず、米国のノースカロライナ州のトリヨンの病院に入院加療中であった。しかし、よくじつ翌1905年(明治38)9月14日には、次男のジェームス・オーガスチン・マカルピン君が名古屋市白壁町の宣教師館で出生して、マカルピン夫妻を喜ばせた。しかし、難産で夫人は余病を併発して生死の危機に立たされたが、主の憐みによってふたたび恢復された。

 

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・27・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

13 20世紀に入る ・・1・・

 

この年、1901年(明治34)は20世紀に入った年として、日本基督教会は前年の第13回大会の決議よって、全国に特別巡回伝道を行って、大いに教勢の拡張をはかった。名古屋地方ではそのため6月13日~19日まで1週間、大挙特別伝道を行って、さらに豊橋、岡崎、瀬戸、岐阜、大垣、竹ヶ鼻、大藪、太田、岩村、大井、関、兼山、御嵩、黒川の各地を巡回伝道した。

以上は主に南長老教会ミッションの伝道地とあって、大会派遣の教師笹倉弥吉、大儀見元一郎とR・E・マカルピン宣教師と他に大石憲英、小山田、宇野、八幡、中田、奥平浩の諸伝道者たちである。当時の浪花中会は、日本基督教会中の最大中会で伝道地も多く、南長老教会ミッションの伝道もよく行われて、日本基督教会の統計によると、1900年(明治33)の受洗者統計675に対して、この年の特別伝道などにより、受洗者は1182名となっている。

宣教師の日本伝道は、ただ福音を宣べつたえるというだけでなく、力の弱い信徒たちの協力者となって集会場を設置したり、講義所の土地建物の購入、礼拝所、会堂の設立という問題が付いて廻った。それは各伝道地の要求するところであり、また希望でもあっただけに、その資金、財政上の労苦も大変なものであった。

名古屋の金城教会の前身相生町講義所時代十数名の信徒と会堂建築の資金を得るために、マカルピン師は援助と努力を払われて、その会計保管の仕事まで依託された。またバラ先生もこれに資金を寄付されて教会は相生町(名古屋)より飯田町へ、さらに堅代官町の金城教会へと発展した。

当時の日本は、まだ道徳、習慣、衛生などには未開で不衛生な面が多くあった。マカルピン師の子供たちが、日本の子供と遊んだり交際するとき、悪い言葉や不行儀なことを習ってきたり、皮膚病(タムシ)などに感染してなかなか治ることが難しく、マカルピン師夫妻を悩ませたことも異郷日本に生活する宣教師としての負い目であった。

2月15日、マカルピン夫人は最後(7人目)の女子を出産した。「北川医師は、またため息をついて『やはりまた女のお子さんです』と言った。しかし私たちは喜びました」とマカルピン師はその回想録に記している。全てが神の御心であると感謝されたのである。この年の夏、マカルピン師は帰米し、バージニア州の歴史的な町フレデリックスブルクで長男のクリスビーと共に過ごされ再び帰日した。

 

バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・26・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

12 バラの足跡・・3・・

 マカルピン師の名古屋伝道の実は、現日本基督教団金城教会で、その前身の相生町講義所は明治261月11日の設立である。日本基督教団の総理であった富田 満氏も1899(明治32)72日、マカルピン師からこの講義所で受洗した。

1900(明治33)になって条約が改正となり、外国人の日本国内の旅行も自由になった。それまでは、健康上の理由で保養のための名目でいちいち当局から許可を得なければ旅行ができないという面倒なものであった。

マカルピン師も5月には瀬戸永泉教会で洗礼式、107日には名古屋旭座でキリスト教大演説会(聴衆4500)1125()には、瀬戸永泉教会献堂式があって、バラ先生も横浜から来られて11月28日、3名の洗礼式が執行された。

この教会の敷地は700坪(191円6)で、バラ先生は横浜から来る人力車賃を節約して土地建物のために多額の献金をされ、土地は田圃であったので、埋め立てのため瀬戸川から老体もいとわず砂を運んで勤労奉仕をされたということである。

1901(明治34)1011日、日本基督教会第5回大会は、バラ先生の来日40年に対し、感謝の決議をし、その功労を表彰した。

「米国リフォームド教会派遣宣教師ゼームス・エッチ・バラ氏は、日本に渡来してより来る11(明治34)を以て満40年に達せんとす。同氏は本邦最初の外国宣教師の一人たるのみならず我日本基督教会創立者の一人にて常に克己献身して主に忠誠を致されしは皆人の知る所なり。大会は此年月間同氏が終始一日の如く教会及び伝道のために尽瘁(じんすい)せられたるを多とし、尚今後長く健康にして使命を全ふさられんことを祈る依って特に決議して之を記録に留む」。

と、大会は満場総起立して敬意を表した。これに対してバラ先生は、申命記821節、イザヤ書第6020節、アモス書第15節の聖句を引用して声涙共にくだる答辞をのべられた。

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・25・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

12 バラの足跡・・2・・

 

明治も30年期に入って、日本資本主義の発展時代となり、反面、社会問題、労働問題が多発して政治上にも混迷・分裂の時代となった。従って、国家主義と社会主義の中間にあって、キリスト教会は振るわず、沈滞ムードの時代であった。

R・E・マカルピン師は1898年(明治31)、愛知、岐阜地区の伝道を担当して、木曽路の東美濃地方にもたゆまぬ伝道旅行をされたが、集会に集まる者は、時に2、3人という状態であった。宣教の困難は加わり、ミッションの東美濃地区伝道の打ち切りといった問題も生じて、補助伝道者の日本人教職はその打開に苦慮したのである。

明治31310日、米国オランダ改革派ミッションのフルベッキ師が逝去した(68歳)。バラ先生にとっても日本の同信・同労の友として、これは淋しいことであった。しかし、バラ先生はたゆまぬ伝道心をもって、開拓した伝道地を巡回して、「足の伝道」を続けられた。

明治32年以後、信州伊那谷の伊那地方でバラ先生からの受洗者を記すと

1899年(明治32) 514日  小平よし 中村まさる 水谷てる

1900年(明治33) 529日  田中しき

1901年(明治34) 1018日  権田静枝 三津木ゆきえ

1907年(明治40) 1028日  堀内君子 斎藤政頼 所角太郎 

三沢常吉

1913年(大正 2) 518日  藤沢きよ 藤沢せつ子 所しのぶ

          813日  小口遇夫

1914年(大正 3) 1117日  唐沢やすえ 唐沢あさ

1915年(大正 4) 521日  宮下きん 高島清人 有賀一男

1916年(大正 5) 717日  宮下信雄 後藤季武 鈴木とり

                唐沢あい

         1222日  高橋信四郎 西沢美則 春宮基宣

                      (以上筆者調)

バラ先生は日本を去るまで、こうして山深い伊那の地まで福音を述べ伝えて止まなかったのである。

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・24・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

12 バラの足跡・・1・・

 

1892年(明治25)頃、神山にカトリックの復生病院があって、プロテスタントの信徒も患者として入院したが、信仰の相違からいろいろ問題があった。そこで信徒たちは、バラ先生やヤングメン宣教師に事情を訴えて、プロテスタントの病院の設立を願った。バラ先生たちは同情されて、アメリカで募金をし、やがて東京に病院を開設することになった。これが目黒の慰療園となったのである。

神の御心にかなうことは、一生懸命になって骨身を惜しまず奉仕されたのがバラ先生であった。

1894年(明治27320日、先に記した類焼の火災にあった御殿場講義所が再建されたが、その建物は三島教会の旧講義所を解体して移築したものであった。その建物についてはバラ先生につながる興味深い話がある。

この建物は三島の酒造業であった花島兵右衛門(明治19年=18861121日奥野昌綱より受洗)が入信して、家業の酒屋を廃業し、その酒蔵を改造して、階下を礼拝堂にし、階上をキリスト教主義のバラ女学校として使用した間口5間半、奥行15間の大きな建物であった。

バラ女学校というのは、1888年(明治21)から1892年(明治25)のわずか4ケ年の短い経営に終わったキリスト教主義の女学校であったが、その創立についてのいきさつは、先の花島兵右衛門がキリスト教入信後、世を益し、神の御心にかなう事業を興そうというので欧化主義の影響から盛んになった女子教育を、バラ先生と信徒の小出市兵衛が協力、後援して、校長にバラ先生の従妹のリゼ・バラさんが就任して、その名をもって薔薇(バラ)女学校と命名したものである。

教科内容は、英語、地理、歴史、生理、数学、修身と家事、聖書などで、日曜日には教会に生徒が出席するように求められた。そして明治211月開校し、夜学校と昼間学校の二部教育を行ったが、生徒数は20数名にすぎず、遂に経済的に経営困難となり、明治2572日閉校のやむなきに至った。女子教育と伝道に、あらゆる機会をとらえて、それを実践しようとしたバラ先生の心がうかがわれる。 

写真=RE・マカルピン師の記念会 於名古屋金城教会(1950)

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・23・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

11 名古屋地方とマカルピン・・4・・

 

新神学の流行、人間中心の自由主義的神学のために動揺させられた正統主義の教会は、さらに1891年(明治2419日、第一高等中学校嘱託講師として歴史を担任していた内村鑑三氏が、学校に下賜された天皇署名入りの教育勅語に対して、他の教師のように最敬礼をしないで勅語礼拝を拒否したということから、非難攻撃を受け、キリスト教は日本の国体と相容れない国賊として世論の批難を受けるようになった。こうした問題もあって、当時の教会は内外からの圧迫、困難と戦わなければならない有様であった。

従って、この年1891年(明治24)から1900年(明治33)に至る10ケ年間の日本基督教会の信徒数は増加せず、教会数はむしろ減少した。ただし、伝道所数が増加しているのはミッションの伝道活動の進展を示したものと言えようが、大勢は沈滞ムードの10ケ年であったと言えよう。

それはキリスト教信仰を受容することの、どんなに困難な時代であったかを示すものあるとともに、それだけに外国宣教師たちの地方伝道は、ますます困難を加えていった。それは日本基督教会の統計表によって推測させます。

 

1891年(明治24)、南長老教会ミッションは、当時、新興国際都市として発展途上にあった神戸にステーションを設置した。港湾都市として海外貿易の中心であり、比較的日本の伝統に侵されていない都市として、格好の伝道地であった。従って、将来宣教師の日本伝道への基地として重要視された。

R・E・マカルピン師は名古屋にあって、県下と隣県岐阜地方に忙しく伝道し、瀬戸永泉教会では、同年1124日、加藤梅三郎氏が長老に選ばれ、マカルピン師がその任職を執行した。

同年1124日に中津川講義所が開設され、マカルピン師は教師の南小柿州吾氏、伝道師佐々木国之助、同加藤虎彦氏、同加藤万吉氏などの協力を得て、坂下、苗木、中津川から大井、岩村など各地をくまなく巡回して伝道された。今日、東濃地区に日本基督改革派中津川教会、同恵那教会、同多治見教会の三独立教会が存在するが、その起源には忍耐強いR・E・マカルピン師の伝道があったことを忘れてはならない。坂下、中津川地方には、初代の信徒として、安部倍次郎(洋服屋)、同人妻安部ケン、長男安部賛平、土屋勝蔵、小栗 長などR・E・マカルピン師から受洗している。

名古屋地方、尾張地方、岐阜県山間部の伝道は、マカルピン夫人にも相当の労苦と疲労を加えたのか、夫人は明治25年初夏頃、健康を害されたので、夫妻は1ケ年の休暇を得てアメリカに帰省された。

   日本基督教会の統計表

明 治  24  25  26  27  28  29  30  31  32  33  計

教会数  73  72  72  72  71  70  71  69  71  71  -

伝道所  38  58  76  79  85  103 103  110 109  109  -

教 師  58  65  75  75  75  80  78  112 135  103  -

伝道者  88 103  113  113 115  125 113  111 108  91  -

受洗者 748  885 1296  701 494  845 683  780 758  675 7770

除名者 301  474 734  503  -  321 -  693  481  388 3795

会員数11253 10862 11118 10787 11064 11324 11131 10609 10849 11117

 

=写真=

中津川、王子製紙社宅伝道(前列中央マカルピン師、左は水垣清牧師(1949

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・22・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

11 名古屋地方とマカルピン・・3・・

バラ先生にとって大きな問題は、この年123日、東京数寄屋橋教会で開かれた第6回日本基督一致教会大会で(議員107人、教会72個)、日本基督教会と改称された大会であったが、それは原案の信仰箇条(ウエストミンスター信条を改正して、英国のプレスビテリアン教会の採用したもの)を全廃して、これに代わるものとして使徒信条のみを採用するという修正案が、バラ先生の最も信頼した愛弟子の稲垣信(海岸教会牧師)から出されたので、議場はもちろん宣教師たちもその乱暴な非プロテスタント的時代逆行の議案に唖然としたのであった。

しかしこの提案には、当時の時代的背景があった。それは、1、日本の一般信徒の信仰レベルは、ウエストミンスター信条を受け入れるには、神学的すぎること。2、従って、全教会員の受け入れうる唯一の告白信条が必要であること。3、当時のキリスト教界は、新神学の流入とともに、特に、教会制度、組織、信条否定のプリマス・プレズレン派によって、激しく動揺し教会脱出者が続出し、分裂、解体の危機にあったからである。

プリマスの名は「教会荒らし」として、いみ嫌われていた。特に稲垣信教師の海岸教会でもプリマス派によって動揺し、これに加わる長老、神学生、有力信徒たちの教会退会が多かったのである。

その原因は、教会制度や信条に対する知識の不十分さによることながら、こうした教会の現実問題のために、信条や制度はなるべく簡潔に実際的である方が良い、と言うのが稲垣牧師の使徒信条採用案となったのである。

この討議は3日間に及び、遂に使徒信条に前文を付すことによって、満場一致で可決されたが、この稲垣牧師の提案を聞かれたバラ先生は、悲憤慷慨され、数日間は、稲垣牧師から握手を求めても、これに応じず、話しかけられても返事もせず、恐ろしい眼で稲垣牧師を睨みつけられた、と言う。

リフォームド(改革派)の信仰に立っておられたバラ先生から見れば、日本のプロテスタントの主流である日本基督教会が、使徒信条のみで立とうとすることの危険とその信仰の告白を嘆かれて、これは悪魔の業であると思われたに違いない。

時代迎合主義が知らず知らずのうちに、当時の教会の主流派に将来への方向を誤らしめたこの出来事は、重大なきっかけであったと言えよう。

=写真=

米国に於けるJ・A・マカルピン師とその家族(1941)

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・21・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

11 名古屋地方とマカルピン・・2・・

1889年(明治22)2月5日、バラ先生は瀬戸永泉教会(旧水野村)の小会議長として奉仕し、421日は同じく小会議長としてRE・マカルピン師が奉仕されている。この日、加藤梅三郎、加藤友七、桜井タキの三名が信仰告白をして、マカルピン師から洗礼を受けた。この年さらにミッションはCK・カミング宣教師とウイリアム・B・マキルエン宣教師(REV William Beauregard Macilwaine)を日本に派遣し、カミング師は岐阜、名古屋地方に、マキルエン師は高知に居住し伝道することになった。

マキルエン師は1932年(昭和7)まで43年間、首尾一貫して高知市に留まって伝道して、後引退された。当時高知は南長老教会ミッションの宣教師が8名駐留していたが、同年(1899)徳島県に伝道していた南メソジスト教会ミッションは、同地方の伝道を南長老教会ミッションに移譲することになり、南長老教会の3名の宣教師が徳島へ派遣された。

 

明治も中期に入って、キリスト教界にもいろいろな変化と動揺があった。明治23年には、前年に帝国憲法の公布があって、「信教の自由」も条件付きではあったが一応認められるようになり、1030日には教育勅語が発布、第一回帝国会議の開会(1129日)など、次第に文明国家の形を成してきた。123日には新島 襄(48)の逝去、3月には福音週報(のち福音新報と改める・植村正久)の発刊、7月にはキリスト教信者9名が衆議員になり、12月には日本基督一致教会は日本基督教会と改称した。

 

この頃から日本は、欧化主義の反動として富国強兵へと移行し、国家主義中心の思想へと転換して、儒教の忠君愛国を軸とする道徳が主唱されるようになった。仏教、神道、儒教主義による排外の対象として、キリスト教はその矢面に立たされた。

特に「教育勅語」の渙発は、その動機に、時の文部大臣榎本武揚が「我国の道徳を全うせんと浴せば、儒教主義、即ち忠君愛国の主義を基礎とすべし」と主張し、これに基づいて、さらに神道主義の「祖宗惟信」の道へと修正され、これが明治の欽定憲法とともに、天皇制へと確立されていったことから、「国家対宗教」論は、時の論題となって、東京帝国大学の哲学教授加藤弘之によって取り上げられた。

これは、キリスト教は日本の国体に反する教えであり、キリスト者は乱臣賊子であると言ったことから迫害も加わり、キリスト者の学校教師は教壇から追放されるといった時勢の中で、宣教師を物珍しく歓迎した者も、次には非国民と言われることを恐れて、外人敬遠の気風が生じてきた。

それだけにバラ先生やマカルピン師の伝道も、種蒔き伝道の範囲から信徒の信仰育成へと重点的に牧会的宣教への配慮が必要となってきた。この年1890年(明治23)、バラ先生は大阪で開かれた宣教師会議で開会説教をされた。また南長老教会宣教師としてJW・モーア師が来日された。

=写真=

岐阜加納教会イースター記念礼拝、前列左より4人目JA・マカルピン師、その隣は伊達量平氏牧師(1939年)

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・20・・   

       水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

11 名古屋地方とマカルピン・・1・・

 

1887年(明治206月、マカルピン師は南長老教会ミッションの第二の伝道地である名古屋に駐留することとなった。古い伝統と仏教(真宗)の金城湯池と言われた土地柄、しかも切支丹殉教者2000名の地として知られているところであって、キリスト教に対する態度は冷淡であった。ここには、バラ先生の伝道した少数のキリスト者の群があり、講義所を委任されて、それを足掛かりに伝道することとなった。

その年の107日、REマカルピン師はバラ先生の娘アンナ・ヘップバーン・バラ嬢と横浜で結婚した。時にマカルピン師は256ケ月の青年宣教師だった。新家庭のマカルピン夫妻は、伝道困難な愛知県と岐阜県の東美濃地方に伝道した。

この冬、中国の漢口に伝道していたアンニー・E・ランドルフ夫人が健康不良のため、その保養に名古屋に来てマカルピン師夫妻とともに暮らすことになった。夫人は健康が快復するにつれて何か働きを求めるようになり、宣教師として日本の女性のために奉仕すべく塾教育を始めた。彼女の特技は編み物で、中国語をよく知っており、聖書知識と堅い信仰、英語などによって福音への道を拓こうと考えたのである。

初め三人の日本人の女生徒であったが、やがて数もふえて明治22年(1889)には、二部屋まで使用するように発展したので、マカルピン師は隣家に移転しなければならなかった。女子教育の事業はミッションにとっても必要な事業と認められて、これを育成することになり、それが成長して遂に今日の金城学院にまで進展したのである。

名古屋、高知と南長老教会ミッションの宣教師も、この年には14名となった。S・P・フルトン師(Rev samuel peter fulton)がこの年に来日し、やがて岡崎を中心に三河地方の山奥津具地方にまで伝道を進め、マカルピン師は、名古屋、多治見、中津川、坂下などを足場に、更に山奥へと伝道区域を広げて行った。バラ先生の伝道の種は成長し、更に、マカルピン師はこれに水を注いで育てる働きをされたのである。

写真=RE・マカルピン師金婚記念と訪問の市村与一氏(193710月)

引退後のRE・マカルピン師72歳(1934)。

 

 

 バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・19・・   

     水垣 清著

 (元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)

 

10 高知とマカルピン・・2・・

1887年(明治20410日、マカルピン師にとって、生まれて初めて日本語による洗礼式を20人に施したのである。これは一生涯忘れることはできない、大きな印象であった。

その頃高知では、先生が生徒を引率して時々神社参拝をした。ところがその中に、12名のキリスト者の生徒がいて、神前でお辞儀をすることを拒んだ。そして、ほかの生徒たちにも参拝を拒否するようにすすめた。先生たちは神社参拝の礼を率先して示して、生徒もこれにならうようにすすめたが、生徒たちは「単なる偶像に礼拝することはできない」と聞き入れず、先生たちを冷笑した、ということである。

こうしてキリスト教信仰の影響感化によって生徒たちは、「信仰の自由」と「良心の自由」を目ざめさせたことは、高知伝道の良い成果であった。

 

グリナン、マカルピン師たちの片言まじりの説教でも、高知人にはよく通じたのである。太平洋に向かって開かれた高知の県民性には、新時代への展望とビジョンを持つ進歩性が指導者階級にあった。

明治3年(18708月の神道国教化とともに廃仏毀釈が高知全県下に行われて、あらゆる寺院仏閣が破壊され、その数458ケ寺に及んだ。現存の寺の多くは、その後復興したものである。

革新の気風は県下にみなぎっていたのと、自由民権家の多くの者が、その倫理性をキリスト教に求めてフルベッキ師、タムソン師、ミロル師、ナックス師、アレキサンドル師、バラ師、プライス師、ハートス師などの外国宣教師や植村正久氏、押川方義氏、片岡健吉氏、岡弘毅氏などの来県伝道によって、高知教会は、その設立当初信徒21人であったのが、6ケ月後の1885年(明治1811月には82人、1887年(明治2012月には328人、1890年(明治2212月には556人、1891年(明治2312月には618人と躍進したのである。

 

高知市に関する限り、宣教の働きは日本の牧師、信徒の伝道で十分であった。マカルピン師は、むしろ高知県の郡部の遠く宿毛、中村地方や東部の安芸、田野方面に、北部は山奥の本山、土佐山、樫山地方に伝道した。もちろん、こうした伝道には日本人の信徒が同行して集会を助けた(後日、須崎、幡多郡地方に再度伝道したマカルピン師によって大正年間宿毛教会(現日本キリスト改革派宿毛教会)の会堂が建設された。(当時、主任伝道者今西延幸師)。

写真=JAマカルピン宣教師夫妻按手及び日本伝道出発当時の父子(1935

 

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書籍紹介
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エネルギー技術の
 社会意思決定

日本評論社
ISBN978-4-535-55538-9
 定価(本体5200+税)
=推薦の言葉=
森田 朗
東京大学公共政策大学院長、法学政治学研究科・法学部教授

本書は、科学技術と公共政策という新しい研究分野を目指す人たちにまずお薦めしたい。豊富な事例研究は大変読み応えがあり、またそれぞれの事例が個性豊かに分析されている点も興味深い。一方で、学術的な分析枠組みもしっかりしており、著者たちの熱意がよみとれる。エネルギー技術という公共性の高い技術をめぐる社会意思決定は、本書の言うように、公共政策にとっても大きなチャレンジである。現実に、公共政策の意思決定に携わる政府や地方自治体のかたがたにも是非一読をお薦めしたい。」
 共著者・編者
鈴木達治郎
電力中央研究所社会経済研究所研究参事。東京大学公共政策大学院客員教授
城山英明
東京大学大学院法学政治学研究科教授
松本三和夫
東京大学大学院人文社会系研究科教授
青木一益
富山大学経済学部経営法学科准教授
上野貴弘
電力中央研究所社会経済研究所研究員
木村 宰
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
寿楽浩太
東京大学大学院学際情報学府博士課程
白取耕一郎
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程
西出拓生
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
馬場健司
電力中央研究所社会経済研究所主任研究員
本藤祐樹
横浜国立大学大学院環境情報研究院准教授
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教会における女性のリーダーシップ
スーザン・ハント
ペギー・ハチソン 共著
発行所 つのぶえ社
発 売 つのぶえ社
いのちのことば社
SBN4-264-01910-9 COO16
定価(本体1300円+税)
本書は、クリスチャンの女性が、教会において担うべき任務のために、自分たちの能力をどう自己理解し、焦点を合わせるべきかということについて記したものです。また、本書は、男性の指導的地位を正当化することや教会内の権威に関係する職務に女性を任職する問題について述べたものではありません。むしろわたしたちは、男性の指導的地位が受け入れられている教会のなかで、女性はどのような機能を果たすかという問題を創造的に検討したいと願っています。また、リーダーは後継者―つまりグループのゴールを分かち合える人々―を生み出すことが出来るかどうかによって、その成否が決まります。そういう意味で、リーダーとは助け手です。
スーザン・ハント 
おすすめ本
「つのぶえ社出版の本の紹介」
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